吹きすさぶ夜風に銀毛をなびかせて、《砂漠の王》と呼ばれた狼は砂漠の彼方を見晴るかした。
立ち上る二本の水流に貫かれる、上空の赤い魔法陣。狼は満足そうに鼻を鳴らした。
「こちらでしたの?」
声をかけた《獣の姫》ディリシエも、つられて狼の視線の先を追った。
「《金色の姫》の封印は、これで解けるのですね? お疲れ様でございました、父上」
狼は大きく身を震わせると、その姿を人間に変じた。長い銀髪をばさりとかきあげる。くぼんだ眼窩の細い目は、冷たく輝いていた。
「……剣がまだだ。砦と盾は気づいたらしいがな」
「仕向けてまいりましょうか?」
「いや、すでに動いてはいる。果たしてパルティシアがどこまでできるか」
「《大陸》の娘を信用なさっておいでですの」
「《魔女》とて《大陸》の娘だった。その昔な」
凍てつくまなざしがディリシエに突き刺さった。思わず彼女は目をそらし、白いローブの前をかきあわせた。そして父の新しい《娘》に思いを巡らせる。
とうのグリーン・リーフは、銀狼に命じられたままに剣の回収に向かっていた。
「アイリさんより先に、洞窟に行かなくては」
自分がしようとしていることを知ったときの学者の行動は、簡単に想像できた。
「ごめんなさいアイリさん」
火の精霊をまとい、暖と灯りを得て歩きながら、ひたすらグリーンは考えた。
「いまだに分からないことが山ほどありますのに……そう、《神々の武具》を始末することって、《姫》の復活とどのような関係があるのでしょう? そもそも始末って……ううん、でも悩んでいては前に進めないところまで、来てしまっているのですわ」
小賢しい幽霊のようなものや、《夜魔》っぽいものの襲撃をものともせず、実にあっさりとグリーンは水柱の根っこにたどり着いた。
「う、すごいしぶきですわ。こんなたくさんの水、いったいどこから?」
この勢いでは地下水路もすぐに乾いてしまいそうだ。これが水の精霊との《契約》の力なのか、とグリーンは考えながら、目的の剣に意識を集中した。洞窟にいった仲間たちから話を聞いていてよかった。石像と戦ったという広間にあるはずだ。
「《水の心 知れり かの心 流れ……》」
歌うように滑らかに、グリーンは水の精霊たちを呼ぶ。
「さあ、流れの元に集うものたち、変幻自在なる精霊たちよ、教えてください。《痛みの剣》の名前を記した剣はどこにあるのかしら?」
その求めに応じて、見えざる仲間たちはありかを示す。
「あらそう、まだあの場所に?では、参りましょう」
つぶやいたグリーンは、するりとその水柱に身を躍らせた。このままずっと下ってゆけば、洞窟の地下だろう。螺旋階段を登れば例の広間に出るはずだ。螺旋階段のてっぺんまで、もしも登ったら、自分には何が見えるのだろうか。
そのころ《聖地》では、機嫌の悪いアイリが巡礼を殴っていた。彼女の怒りは、未だに鍵穴が見つからないということにあった。巡礼がなにおうと魔法をとばすが、そんなものを命中させるアイリではない。もう一発後ろから禿頭をどつくと、アデルバード・クロイツェルをあごで使った。
「行くぞ、剣を取りに!」
「へいへい、っと」
バードもアイリにつきあい、剣を拾いにいくつもりだった。愛娘を振り返り、おまえは里に戻ってな、と諭すが
「いや。あたしお父さんと一緒に行く」
珍しくジェニーがだだをこねた。バードは《星見》で知ったジェニーの姿を不意に思い出す。なんだかよくわからないが、くらくらきた。
「っつってもなあ、面白いことなんてないぞ? それよかイェティカちゃんと一緒にいて守ってたほうがいいだろ」
「ひとりで里まで帰らせる気!? ヒドイ。信じらんないわっ」
それを出されるとつらい。バードはとりあえずジェニーも連れて行くことにした。
もしかして、親子でいられる時間は、もうあまり残っていないのかもしれないから。
「気をつけてくださいね〜」
アゼル・アーシェアが今にも吹き飛ばされそうなテントの脇で、アイリたちを見送った。
「呼んだ名前が不完全だったから、こんなコトになったんだな、きっと。よし。多少順番が狂っちまったが、まあいいだろ。これで剣さえ見つけりゃ……ちゃんと名前を呼んで、鍵があう扉を開いて……」
アイリは手の中の鍵を大事に握りしめ、にやにやしている。かと思うと、らくだの手綱を思い切りひっぱったり脇腹を蹴ったりして、スピードがあがらないものかと試していた。
「ああ遅い!」
「そりゃらくだは早さを追求した乗り物じゃないからな」
それでもバードはらくだをなだめすかし、多少のスピードアップに成功した。
「封印といちまったら、どうなるんだろうな。ま、どーなるにしても、といちゃうんだけどな」
やや無責任発言のバード。
「別に、今までと変わらんだろう、何も。今までだって封印があること知らなかったんだから」
「《星見の民》が封印を守る役目を持ってたんなら、もうその役目は終了になっちまうわけだろ? もう《星見》の力が使えなくなったりしないのかねえ」
「それはないんじゃない、お父さん? 《星見》の力の源は《万極星》のような星々なんだから、それがなくならない限り、役目はなくても《星見の民》であることに違いはないと思うわ」
うーむ、とバードはまた考え込んでしまった。
「そうだ、神さんたちとしゃべれるのなら、聞きたいことが山ほどあるな。まとめておこう」
アイリは愛用のノートに、すごい勢いでペンを走らせる。
「揺れるらくだの背で書き物って、すごいわアイリさんって」
ジェニーはしげしげと学者の挙動を見守っていた。
《聖地》から少し離れると砂嵐は弱まった。あらためて振り返る。魔法陣が翻るエリアだけが、今もなお強い風と暗雲に覆われているのがよくわかった。らくだを駆る一行に、通りすがりの巨大砂地獄が襲いかかってきたが、彼らはそんな敵など汗もかかずにけちらして進んでいった。
「《夜魔》はいないのかい、《夜魔》はっ!」
「あ〜、やめないかっ、アイリ! 手甲の出番が少ないのは分かってるから!」
「もっとホネがあるやつ!」
なだめすかす必要があるのは、らくだだけではないのだ。
もう一人、機嫌が悪い人物がいた。同じように洞窟の剣回収に向かっているダグザである。
彼は封印をとくかどうかは別として、第3の名前を入手しておいたほうがいいと考えていた。
「《父なる者》のねらいが封印の解除ならば、いやでもこちらに最後の名前を呼ぶように仕向けてくるはずだ。名前を入手すれば、それだけ手持ちのカードは多くなる。正直な話、このまま封印をとかずにほうっておいてもいいような気もするが……それは、あんまりだろうしな」
《星見の民》全員を《忘却の砂漠》から避難させることも考えたが、時間もないし現実的でもないということでこの案は没だった。封印をといたあと、目覚めたやつらが戦おうが何しようが、こっちを巻き込まないでさえいてくれれば、どうでもいい話であった。この点では、ファーンの意見とも一致していた。
「そらよっと」
ルーファから借りた水袋の中身を泉にぶちまける。大きく息を吸い込み、そしてその必要はないことを思い出して、普通に呼吸しながら飛び込んだ。水の精霊が、彼の動きを助けてくれた。
「魔法もここまでくると、便利なもんだな」
グリーンの喜怒哀楽を思い出し、ダグザはにやりと笑った。物まねしたらルーファのやつ、あっけにとられてたっけ。うん、一段落ついたらあいつを娼館にでも連れてってやるか。これも先輩のつとめだよなあ。それにしちゃあアインが随分とおとなしく抱かれちゃいるが。……グリーン、どこいっちまったのかな。《心の迷宮》に行くときに、見送りにも来なかった。これまで必ず、仲間たちの身を案じて見送ってくれていたのに。そもそも彼女だって、迷宮に入るといっていたはずなのに、どうしたんだ。どこで、なにをしてる?
「わかってるさ、あんたがいなくなるなんてどうせ、イェティカやみんなを護るためなんだろ」
でも、その「みんな」の中に、あんた自身は入ってるのかい?
ごく近いところに彼らはいた。
グリーンが水柱から螺旋階段をのぼっているとき、同じルートをダグザはとっていたのだから。ともあれ少しの時間差で、一番先に剣を見つけたのはグリーンだった。戦闘跡とおぼしきがれきの中に、ひときわ大きい剣があった。石像の腕は、いまだにその柄を握りしめている。
「……」
ぐっと口を結んで、グリーンはまた魔法を用いる。水の精霊を使役して、石を急速に熱したり冷やしたりを繰り返したのだ。
「やりましたわ!」
思惑通りやがて腕がはずれ、見るからに重そうな剣はゆっくりと宙に浮いた。文字が刃に彫られているのが見える。
「……読めませんね、そういえば」
はたと動きをとめる歌姫。名前を読みとった後、こっそり文字を消してしまうつもりだったのに。
「計画変更、なのですわっ」
グリーンは再び水と火の精霊を呼び出した。
「《水の心 知れり かの心 流れ、火の心 知れり その心 浄化、
いまここに……》」
グリーンの両手から放たれた力は、勢いよく広間の壁画にぶちあたって壊していく。
「《水と火の盟約を果たさん》!」
アイリさんに、一生恨まれてしまいますわね。ごめんなさい……。
ばたんと広間の扉がひらき、アイリとバード、ジェニーが駆け込んできた。
「なななななななんてことするんだいこのやろうっ!」
一生どころか来世までたたるといわんばかりの形相で、学者は怒り狂っていた。
「あんた、この壁画がどれだけ貴重なものか、わかってるのかいっ!」
びしっ、と手甲の指をつきつける。
「わ、わかりませんわ! でもでも、人に、知られたくないことがあるように、時の人々にも、きっと知ってほしくないことがあると、私は信じます!」
「そんなの知ったことかい、このアイリさんがよーやく見つけた神話時代のお宝だよ! 何の権利があって壊すんだい。私が知りたいんだよ、だからそれは私のなんだっ!」
白衣を翻して学者は剣をつかんだ。
「おおぅ、もっとやれー」
白熱する戦いをあおるクロイツェル親子。
一瞬ひるんだグリーンはまたすぐに呪文をつぶやいた。アイリがはっと抵抗したときには、もうグリーンの魔法は完成していた。濃い霧があたりに立ちこめる。アイリは眼鏡をかなぐりすて、至近距離のグリーンに直接つかみかかった。
「お説教はまだ終わっちゃいねぇぞ!」
「きゃあっ」
とっさにジェニーが唱えた火球の魔法が、すぐに濃霧をかきけした。
「邪魔、なさらないでくださいまし!」
すさまじい爆音が広間中に広がった。アイリが戯れにガガにつくってやった爆弾など比較にならないほどの、水蒸気爆発。瞬時に空中の水分を蒸発させた、グリーンの大技である。びりびりと壁が揺れ、あちこちの壁画は次々に剥がれ落ちていった。
「おおおおおおおまえーーーーー! 室内でなんてことをーーーー! 勿体ないーーーーー!」
グリーンは剣をつかむと、アイリの嘆きを後目に来た道をダッシュで戻った。
がらがらがっしゃん!
勢いよく螺旋階段で足を滑らせたグリーンの真下にいたのが、ダグザだった。
「ダグザさん!?」
ダグザの方も、何がなんだかわからなかった。ディリシエが見せている幻影なのかと疑ってしまったが、彼女が抱えている大剣に気づいた。
「その剣は」
「ああっダグザさん、私、ちょっとばかり急いでいるのですわっっ」
白いクロークに剣を隠すようにして後ずさるグリーン。たまらなくなってダグザは無理矢理言葉を続けた。
「グリーン? 大丈夫か? 無理してるんじゃねえのかよ? 多分、俺とあんたじゃ生まれも育ちも違いすぎて、俺にはあんたが背負っているものの重みも理解できないし、肩代わりしてやることもできないだろう。だけど俺は、あんたの歌や、淹れてくれるお茶が好きで……あんた自身に、惚れてるよ。いつか一度でいいから、俺だけのために歌ってくれたら、どんなに幸せだろう、って、ずっと思ってた。重荷になるか? なら、忘れてくれてもいい。ただ、俺はあんたを信じる。誰も悲しませたくないからこそ、自分で全てを引き受けようとしているんだろう? でも、あんたが言ったんだぜ、「勝利の条件は、全員が生きて帰ること」だって……だから、生きて帰ろう。みんな、一緒に」
一気にそれだけ告げてから、急にダグザはいたたまれないような気持ちになったが、グリーンから目は逸らさなかった。
歌姫は何も答えず、うつむいてそのまま螺旋階段を駆け下りていった。
ねえお母様。悪い子だったパルのことも、心配してくれる人が、いまは、いるんです。涙は、誰にも見せない。無理でも、無茶でも、不可能でも、すべての人に幸せを。そのためになら、パルはどうなってもいいのです。「みんな」のなかに、はいっていなくても、いいのですわ。
そして彼女は再び水柱に身をゆだねた。なぜなら「みんな」の幸せが、きっと私の幸せになるのですから。
広間にのぼったダグザが目にしたのは、それはひどい有様だった。グリーンに裏拳一発しか入れられなかったことを悔やむアイリだが、話題が剣のことになるとさらに落胆した。
「そうかい、あいつ剣までまんまと持っていきやがったのかい」
「まあまあ、いいじゃねえか。名前の方は?」
「読む隙もありゃしないよ! ずるいねえ濃霧なんてさ」
だと思った、と苦笑するダグザは、広間の床にがれきで字を書いた。
「俺が覚えている限り、こんなような形の字だったぜ」
アイリはゆがんでしまった下だけフレームの眼鏡をかけ直す。らんらんと瞳を輝かせ、立ち上がってぽきりと指を鳴らした。
「でかしたダグザ! 今度私の助手にやとってやるよ!」
「……イヤ、それは」
「ハースニール」
「え?」
「《痛みの剣》ハースニール、それが三番目の名前だったんだ!」
4人は地下水路から、例の石版の場所へと移動する。水柱があがっていることもあって、以前より水かさが減っているにもかかわらず、水の流れはものすごいスピードで彼らを運んでいった。
「それじゃあラステルさんの恋人って神さまだったわけ? そんなのってあり?」
ジェニーの疑問をアイリは一蹴した。
「そんなわけないだろ。《剣》の隊長ハースニールは、単なる同じ名前だよ。意味深っていやあ意味深だがな。あっちはもう死人だから関係ない。問題なのはこれからさ」
「グリーンが持っている剣こそが、銀狼を傷つけることができるものだと俺は思う」
ダグザが言う。
「はん! ありそうなことだね。そのうち今日の借りはきっちり利子つけて返してもらおう、そのときにはあの剣でひとつ論文を……」
「で、封印は、とくのかい?」
「あったりまえじゃないか。でなきゃ、今まで何のために働いてきたんだ?」
やっぱりな、とダグザは額に手をあてた。
「私ゃあんたみたいなお人好しと違ってね、色恋沙汰じゃ動かないのさ」
「おいおい、聞き捨てならねえなアイリさん。俺のどこが色恋沙汰だ? それはグリューン坊ちゃんにいってくれよ」
ダグザの弁解を聞きながら、アイリもここ一連の出来事について考える。頭に浮かぶのは、とりあえず《星見の民》には不幸になってほしくないということだった。
「結局私も人の子ってコトか」
誰かの不幸の上の幸せは、ほんとうに幸せなのだろうか。幸せって、なんなんだ?
「あ、いかんいかん。これ以上考えると、また研究のテーマが増えちまう」
そしてアイリの強固な主張により、《痛みの剣》の名前は声高に叫ばれた。ハースニール、その名の音は、今まで個人の名前として耳にしたどれよりも力強く、美しい響きを持って虚空へ吸い込まれていき、激しい水流がまた天へと立ち上った。
ケイヤクハ ハタサレリ
バードが地下水路の中で耳にした、精霊の言葉だった。
「契約……大地を砂漠に変える契約だったのか」
水柱を通り抜け、地上に戻ってきた4人は一様に空を見上げる。バードの両手は、ジェニーの肩に置かれていた。あたりはすでに宵闇に閉ざされている。
「あれだけの水を閉じこめて、《金色の姫》の墓所を守ってたのか、あいつ」
血のように赤い満月が、砂漠を晧々と照らしていた。
第7章へ続く