ファーン・スカイレイクは取り急ぎ身支度を整えていた。ラステルは無事戻ってきて、《星見の里》で元通り暮らし始めた。自分で歩き出すことを決めたときのラステルは、とても堂々としていて綺麗だったから、きっと彼女はもう大丈夫だろう。彼女の側には里長もパレスもいる。ラステルが望めば、ダグザもそこに加わるに違いない。これでイェティカを支える柱も、また一本増えた。
「次は、あいつらの番だからね」
《星見の民》の穏やかな暮らしを邪魔しているとしか思えない、巡礼の神官。そして《父なる者》。
「この砂嵐……またあの人何かやらかしたんじゃないでしょうね。まったく、勝手にやってればいいのに、どうしてこう他の人を巻き込むかなあ」
《精秘薬商会》にたどり着いたときと同じ格好でずだ袋と月琴をかつぐ。お人好しのファーンは吹きすさぶ風の中、《聖地》を目指して出発した。
らくだの背から振り返ると、《星見の里》の塔と、泉からとめどなくたちのぼる水柱が見えた。
「どうか次にここに戻ってくるときは、これ以上辛い思いをしている人がいませんように」
慣れぬ神聖語の祈りを短く唱え、里を後にする。
「ま、でも水の心配だけはいらないみたいだから、いいのかな」
《聖地》ではアゼル・アーシェアが泊まり込みで調査を続けていた。もちろん巡礼のふるまいを監視するためでもある。巡礼は相変わらずいばったり怒ったりどなったり、を周期的に繰り返していた。
「もう、テントを出るときはちゃんと入り口を閉めてくれって、言ったでしょうっ」
発火のルーンを組み込んだ、お手軽コンロでお湯をわかしながらアゼルが声を荒げた。巡礼は落ち着かなさ気に、またテントを出ていったのだ。次に奴が戻ってきたら、いらない事しないように結界に閉じこめておこう。そう決めたアゼルはテントの入り口に、金縛りのルーンをちょこちょこと準備した。
「すーぐ外に出たがるんだから。こんな砂嵐の中、外で過ごして痛くないのかなあ、あの人は」
温かいお茶を飲みながら、トリア・マークライニーは《契約の書》のページをめくった。
「どこまで読みました?」
「三柱の神さまが、封印の柱になったとこまで」
トリアは細い足を投げ出して顔をあげた。
「この本、ほとんど《大陸》の共通語で書かれてるんだね。神聖語の書き込みがいくつかあるくらいで。ボク、古代神聖語なのかと思ってた」
「それはアストラでつくられたという写本ですから。比較的新しいもののようですよ。もう少し先まで読んだら、意見を聞かせてくれませんかねぇ」
「意見?」
アゼルの発言の意味はやがてトリアにも分かった。そこには《聖地》の内部についての記述があったのだ。
「なにこれ。数式がいっぱい」
「あ、それはたぶん《聖地》の位置とその効力期間の算出式なんで……こっちです。この文は古代神聖語なんですよ。いいですかトリアちゃん? 《三点それぞれに力場をおき、かの選ばれし三兄弟の名前を持って、中心に魔力を集中させる。三兄弟は封印の完成とともにその名前を失い、名も無きものとして水の棺に沈められる》」
「これ……これじゃあまるで、三兄弟を封印するためみたいじゃない! 同じ文に付け足された注釈はこうだよ。《魔女と番犬の陰謀により、名を奪われた神々。魔女を閉じこめた後の犠牲》。これは共通語。後から書き加えられてる。《魔女》という言葉は《契約の書》本文のどこにも出てないよ。《魔女》と書かれているのはすべて、誰かが後から付け足したらしい共通語部分だもん」
トリアは下唇をかんだ。
二神の名前を呼んだのは、間違っていたのだろうか? がたがた、と本を持つ手が震える。こぼれそうになったカップをアゼルが受け取って、トリアの顔をのぞき込んだ。
「トリアちゃん」
「ボクたち神さまを起こしちゃったんだよね。昨日名前を呼んだもの。ねえアゼル、それってほんとに正しかったのかな? ボクにはわかんないよ。無理矢理神さまを起こしたりして……大きすぎる力は、いずれ滅びを招く。おっ師匠様がいつも言ってた……」
いつも勝ち気で元気なトリアが神妙にしている。力を求めた兄弟子と、そのかたをつけに出かける師匠の姿を思い出したのだ。アゼルは足を投げ出して座っているトリアと同じ目線にしゃがみ、顔を近づけて笑顔をつくる。
「寝てた人はいつか起きます。そうでなければ、死んでるってことだしね。ほっといても、《聖地》はもうじき開いたんです。もともとそういうつくりになっていた。封印の番犬のつとめは千年、砂時計が返されるまで、ですよ」
「魔女って悪いことしてたの?」
してないかも、と実にあっさりアゼルは答えた。
「ほら、昔っから《高望みすると魔女がやってくるぞ》とか言うじゃないですか。《大陸》では魔女は欲望の象徴として《悪しき》って呼ばれてるでしょ。かたや《星見の姫》は、《鏡》として自分のために何かを望むことを禁じられている」
トリアはおずおずとうなずいた。自分のための願いを叶えようとして、10年前ディリシエはいなくなった。
「俺思うんですけど、どんな聖者だって、欲望をなくすことはできないんじゃないですかねえ。たとえば、もっと人を救えたら、とかね。そういうふうに望みを持つことを欲望って言ってしまったら、同じ風に聞こえませんか……」
そこまで話して、ふたりはらくだのいななきを耳にした。テントの中に、ジャニアス=ホーキンスが入ってこようとしているところだった。
「そうや! 欲望の意味を取り違えたらあかんで!」
「ああっ、そこにはルーンが……」
時すでに遅く、ジャンは口をでの形に開いたまま固まってしまった。ジャンの派手な服の向こうで、ファーンが笑いを必死にこらえていた。
「なんやもう、なんで罠なんかかけてんねん!」
金縛りから解放されたジャンは、煙草に火をつけた。見慣れぬ黒い鳥を肩にとまらせている。
「だからそれは、あの人をじっとさせておこうとして」
アゼルは巡礼を指さした。改めて張り直した結界の中で、巡礼は金縛りかつ眠りのルーンで封じられていた。
「ずーっとこうしておこうよ」
ファーンがうろんな目つきで、その無邪気でもなんでもない巡礼の寝顔を見やった。禿頭にばかと書きたい。書かないけど。
「俺の力が尽きちゃいますってば。で、ジャンも砂時計について調べてるんですって?」
ジャンはふところの隠しから紙束を取り出す。《大陸》の同胞に集めさせた資料を元に、ジャンなりに解析したものだった。アゼルの調査結果と照らし合わせたいのだ、とジャンは言った。
「ずいぶんとまた……貴重な資料からの引用が……」
ジャンの殴り書きのあちこちに見える参考文献の題名に、アゼルは目を丸くして読み進んだ。ファーンとトリアもそれをのぞき込む。
「たいしたことあらへんで」
すっと目を細めて、ジャンは煙をふぅ、と横にはき出した。
ジャンの結論は、封印の維持のためには巡礼殺害もやむなしというものだった。さすがにそこまでは、文字には表していなかったが、行間から伝わるジャンの思いは十分仲間にも伝わったようである。
「砂時計、すなわちこの《忘却の砂漠》。魔女の番犬、すなわち《月の獣》イコール《父なる者》だ。あの狼さんがご主人様を守るために、兄弟神をハメて封印を完成させた。封印は《星見の民》が受け継いでいる力で増幅されとる」
ジャンはあごをしゃくって頭上に広がる魔法陣を示した。
「そこまで解読したんですか?まったくあなたという人は……」
「仕事やからな」
ふんと鼻をならすジャン。
「だから《星見の民》を存続させるためには、このまま封印が持続しとればいい、ちゅうことやと思うが」
「だめだよ、だってもう神さまのうちふたりは起きてるんでしょ」
トリアの前で人差し指をちちちと動かして、まだ間に合うとジャンは言った。
「《金色の姫》が降臨しとるか? まだや。完全には出てこれへんのや。なぜか。その本にもあるやろ、封印は三角形なんや。神さまが3人いてはって、魔女の檻の上にすわっとるんやで。フタはまだ一人分の重しがのっかっとる」
そのさまを想像しようとする3人。ジャンはまた煙草をふかす。
「アイリさんが剣を拾いに行っています」
アゼルが静かに言った。
「あの人のことですから、扉を開くまではなんだってするでしょうよ。砂時計はもう持ち上げられてしまったんです。目覚めたドゥルフィーヌとガラハドの手で。《聖地》はもう出現しています」
アゼルはテントを出て、吹きすさぶ風にターバンを押さえながら魔法陣を見上げた。
「それなら俺は逆に、神さまたちに直接お願いできないかと思うんですがね……封印の維持を」
「魔女と戦って、勝てばの話やで。それに魔女がおらんようになったら、《星見の民》だってどうなるかわからん。《星見》の力はなくなるやろうな。あれはもともと、魔女が用いた力やし。朱印が消えれば、彼らは大きすぎる自分自身の欲望におしつぶされてしまうで」
「どういうことです」
ファーンが語気を荒げた。
「たしかに《星見》という能力は、普通の人間としての範囲を超越してしまっていると思います。月から来た、大きな力を持った存在……《父なる者》が、それを《星見の民》に与えたんですよね? それが、なくなる? 《父なる者》を倒してしまえば、《星見の民》は普通の人間になる、そうじゃないと?」
「オレの推論や」
「でも狼は《魔女》を待ってるんでしょ。封印は解かれちゃうよ。それがすけべ狼の目的なんだから」
「封印のための道具なんだよ、《星見の民》は」
吐き捨てるようにジャンは答えた。黒い鳥がばたばたと激しく羽ばたいた。
《魔女》の力を維持し、その降臨の際には補給できるえさとして、《星見》の力は与えられた。《星見の民》は《聖地》から漏れる《魔女》の影響を受け続ける。欲望の増幅と、その昇華に利用される《星見》。
「満月には、月に由来する獣の力は最大になる。《星見》の力は冴え、欲望もいちだんと増すちゅうことや。だから《星見の姫》はな、満月の晩にはすべての思いをたちきるために、おこもりが必要やった。見てみい、今夜は特別キレイな満月やで……」
これらの情報を得るために支払った代価と、今の自分の状況を天秤にかけ、万感込めてジャンは月を見上げた。血のように赤く不気味に輝く月だった。手持ちの路銀は情報料として出ていくばかりだが、それでもいい。生まれたときから、知らないところで役割を定められている《星見の民》と、オレになんの違いがある? オレはオレのやり方で、できるだけのことをする。それだけ。
どうせ最初から、オレの手は赤かったんや。
ドォン!
激しい地震と破裂音に、冒険者たちは身をすくめた。三本目の水柱が勢いよく上がっている。アイリが《痛みの剣》の名前を呼んだのだ。
ファーンは月琴の曲線を指で愛しげに撫でる。世界を本当に救うのは女性なのかもしれない。英雄のように剣を直接ふるうでなく、別のやり方で世界を導くすべを心得ているのはいつだって偉大な乙女だ。ディリシエの悲壮なさまはファーンの心に刻み込まれていた。金色の姫は、心までが金色だという。いったい誰が人の心の色までのぞけるというのか。ファーンにしてみれば、ディリシエの、行き場がないゆえの挙動だって綺麗に見える。そしていなくなったグリーンも、尊敬できる強さと美しさを持っていた。……人はみんな、どこか金色に輝くところを持っているじゃないですか。
でも一番はティアマラですねぇ、とファーンは想い人の美しい横顔を思い浮かべた。
「まだ間に合うんでしょうか」
上空の魔法陣をつきぬけて、轟音とともに巨大な隕石が落下してきた。《朱の大河》と同じく万色にきらめく堅い岩だった。3本の水柱はその隕石を包み込むベールのように、しぶきを注いでいた。月光がその表面をてらてらと撫でていた。
「これが《聖地》の、そして《金色の姫》のゆりかごの正体や!なんとしてでも間に合わせたる」
くわえ煙草のジャンが、結界の中で小さくなっていた巡礼をひきずりだし、荒々しく後ろ手に縛る。アゼルのルーン魔法の効果で、まだ巡礼は動くことができないようだ。
「な、なにしてんの、ジャン」
「見りゃわかるやろ、人質とって交渉すんのや。エエか嬢ちゃん。《星見の民》には《父なる者》もしくは封印されたままの《金色の姫》が必要なんや!」
「違うよ! 《金色の姫》が戻ってきたら、《星見の民》の役目は終わって解放される……そう伝わっていたじゃないか!」
「解放されてどうなる? 《星見の民》の朱印は何のためやと思う? 《獣の姫》の使役する力を見たことあるやろ、あれが内なる欲望の果てや。朱印が消えたら獣になるんやで! それが解放の代償なんや!」
なにを自分はムキになっているのか。分からずにジャンは衝動に突き動かされ、音もなくナイフを滑らせた。
「番犬! 《大陸の民》の血や! うけとるがいい、これであと少し封印されとってくれ!」
仲間たちが絶句している間に、ひらりと銀狼が出現した。
なんとその口には、クロードとツェットがくわえられている。
狼はふたりをどさりと砂の上におろすと、赤硝子玉の瞳をゆがめ、咆哮した。
「(ばかめ!そんなわずかの血で魔法陣が上書きできると思うか! 足りぬわ!)」
目を見開いたまま、赤い血を大地に流し続ける巡礼の脇で、ジャンはただ立ちつくしていた。
「(封印されているのは4人。たった一人の血であがなえるものではない!)」
たれ込めていた暗雲は薄れ、血の色の魔法陣もやがて消えた。そして雲間から曙光が差し込んできたとき、幾重もの光の重なりが虹の扉を形作っていたのである。《忘却の呪い》を忘れたかのように、大地には淡い下生えが萌えだしていた。うつくしい夜明けだった。
彼方から、よろよろとした足取りでやってくる者がいた。黒い三つ編みで、それがグリーンであることが分かった。
「……《砂漠の王》よ、パルティシア、つとめを果たしてまいりました……」
大剣と盾をひどく重そうに両腕で抱え、歌姫はよろめきながら狼の前に進んだ。ここまで来る途中、神々の封印だけを強化できないものかとあれこれやってみたものの、成功はしなかった。処分しろと言われていたが、どうすれば処分できたことになるのか思いつかない。考えあぐねた末、《王》のもとに戻ることにしたのだ。
「(ふん、ディリシエよりも使えるではないか。よろしい、これで我らを傷つけるものはなくなった)」
鼻を鳴らした銀狼の評価は、グリーンの耳には届かなかった。彼女はその重すぎる武具をおろすと、疲れ切ってその場で倒れ込んでしまったのである。
「グリーンさん、クロードくん! ツェットさんまで……!」
駆け寄るファーンを、銀狼の前足が遮った。
「仲間をどうするつもりですか! 自分の都合で人を利用しないでください!」
「(我が主を迎える準備だよ)」
そこには嬉々として隕石に走る学者の姿があった。
第7章へ続く