道を目指すもの、迷うもの、全員に平等に日は昇る。
《星見の里》の塔のてっぺんでフィーナ・サイトは目を覚ました。夜中にも一度、目覚めたような気もするが夢だったのかもしれない。とてもきれいなお姉さんがでてくる夢だった。
裸足で寝台からおりると、その横にはガガの残していった盾が置かれていた。しげしげと眺めてみるそれは、ガラハドという銘が刻まれている大きなものだ。ガガが持っていても大きいと見えたのだから。左手を肘まで通し、その先にある握りをつかんで使うものらしい。フィーナは盾を構えたこともなかったけれど、そっと手を入れてみた。ぶかぶかだろうと思ったそれは、いつのまにかフィーナの細い腕にもぴったりおさまった。
「おはよう、よかったフィーナちゃん」
そばにいた姉妹、ラステルとイェティカがかけよって、少女の目覚めを喜んだ。ラステルは初対面の少女に、優雅に一礼する。たおやかな人だな、というのが、フィーナのラステルに対する第一印象だった。その肌のどこにも朱印はない。《大陸の民》と何の違いもない。
「起きなかったら、どうしようかと思ってたんだ。ごめんね!」とイェティカ。
「そしたらまた、フィーナの中に入って起こしてくるだけさ! ラステルさんに、したようにね」
やってきたルーファ=シルバーライニングが、ラステルにウィンクする。悪気があって言ったわけではないのだ。ほかほか湯気をたてている蒸しケーキとポットをテーブルにおいて、ルーファは朝ご飯なのだと言った。
「これルーファがつくったの?」
「なんだよフィーナ、その意外そうな顔は! あのね、俺の実家は小料理屋なの」
アゼルやフィーナにはかなわないかもしれないけど、と付け加え、まず自分から蒸しケーキに手をのばした。
「ううん、おいしそ〜。いただきま〜す」
「おいしそーじゃなくって、おいしいんだってば」
ポットの中身は、グリーン・リーフがくれたハーブティーだった。グリーンもつい先日まで、ラステルを助けるため心の迷宮に同行する、といっていたはずが……あれきり、姿が見えない。ジャンがちょくちょくいなくなるのは、もう誰も心配するほどじゃないと思っているのだが。
まあ、大人の事情ってやつはいつでもあるだろうし、とルーファは自分を納得させた。
イェティカはおなかをぐぐっと鳴らしながら、首を横に振る。今夜は満月、《星見の姫》は身を清め、夜には自室で祈らなければならない。
「あ、そっか。ごめんな」
「飲み物ならいいんじゃない」
ラステルが妹に、そっと琥珀色の液体を注いでやった。
ひとしきり部屋中にあたたかな空気が満ちた後、ルーファとラステルは後片付けに部屋を出た。
二人きりになって、フィーナは迷いに迷った末、ずっと心にあったことをイェティカに告げることにした。魔女のこと、封印のこと、兄弟神のこと。
「フィーナたちが暮らす《大陸》には、《忘却の砂漠》とはぜんぜん違う話が伝わってるの。イェティカちゃんたちが、信じるもの、《金色の姫》は、《大陸》では《悪しき魔女》って言われているひとなんです」
「あしきまじょ」
静かな間があった。
「そのひとが、本当に《悪しき》なのかどうか、フィーナはもちろん会ったことありませんし、わかんないです。フィーナが信じる神さまは、いつでもやさしくってみんなのことを考えてくれる、《愁いの砦》っていって、このまえお名前がドゥルフィーヌだってわかったんですけど……そういう神さま。だから、ね」
しゃべりながら、フィーナは自分が何を言いたいのかわからなくなってきた。言いたいことはひとつだけのはずなのに。
「《大陸》だから《砂漠》だから、ってことは、もうあんまり関係ないんだと思うんです。だって本当のことを知ってる人間は、いませんから。そんな昔のことで、だれも気にしたりしないよ。だーれも、《星見の民》に対する見方を変えたりしないから……フィーナたちはなんたって、ほんものの《星見の民》さんに、会ってるんですから」
もしかして、後半は、自分の信じる《愁いの砦》教団に対しての言葉だったのかもしれない。
イェティカはただぽつりとこう漏らしただけだった。
「見えない未来が見えちゃうなんて、やっぱり気持ち悪いよね」
金色の双眸は、淋しげに伏せられた。
「ぜんぜん! 気持ち悪くなんかないよ! お願い、フィーナのこと、《星見》してほしいですぅ」
その言葉は、イェティカに届いたかどうか。
さて、シウス・ヴァルスとアーネスト・ガムラントは、敵の攻撃に備えていた。敵すなわち、《獣の姫》ディリシエである。ラステルの口から、ディリシエがイェティカを狙っていると聞いてはじっとしてはいられない二人。いまさらラステルが嘘を告げるはずはないし、《星見の民》最後の子どもであり、《星見の姫》である。ディリシエが力を求めるのならば、イェティカを狙う理由は十分にある、と二人は考えた。アンジーも伏せっている今、戦うことが出来る《剣》も極端に少ない。
あからさまに警備を増やすよりは、つかずはなれずのほうがいい、と言ったのはシウスである。常時護衛がいることで少女が緊張してはいけない、という彼らしい心遣いだった。
「貴方を見ていると、俺もそうなりたい、見習わなければいけないなと思うところがいっぱいあるよ」
年若い舞踏剣士は、10も年が離れた戦士に屈託なく笑いかけた。
ときどきその表情は、シウスがびっくりするほど穏やかで、美しい。美女といってもおそらく通用するだろう。アーネストの心境の変化は、おそらく《星見》によるものらしかった。
「といわれてもな、今はただがむしゃらにやっているだけだぞ」
そんな考えをおくびにも出さずに、シウスは答えた。彼は、アーネストが自分を指して「俺」と呼ぶことに最近気がついた。
「たとえば、イェティカたちに対する思いやりだとか、そういう心遣い。俺はまだまだだなぁと思うんだよ」
「でも一通り片づいたら、姉妹の元に行くのだろう。実際に姉妹がいるアーネストのほうが、女の扱いは上手いと思うがなあ」
「うーん、ミリエラはイェティカとも年はそう離れていない。ラステルも、姉のリシュルみたいなものだ。……でも長いこと離れすぎていて緊張するよ。だから今のうちから、心の準備をしておくことにしたよ」
「アーネストに似ているのなら、さぞかし美人姉妹だろうよ」
「よしてくれ、シウス」
照れている様子を、シウスがわははと笑う。
彼らの前に、小さな花を手にしたガガがいた。
「フィーナ、起きたか」
「大丈夫さ、元気に起きていたよ」
「ウガァ! よかった」
ほう、と巨人が大きく息をついた。ガガはフィーナのことをいたく心配していた。シウスがその手に持った花について尋ねると、しばらくうう、とかウガァ、とか唸ったあげく巨人は言葉をひねりだした。
「お……おむ……おみ……」
「ああ、お見舞いか?」
ガガはにこにことうなずいた。フィーナが目を覚ましたのなら、次は里長にも「おみまい」にいこう。
里長は塔の一階にある部屋で休んでいた。裏から回ったガガはそっと窓をのぞく。寝台には里長が横になっており、そのそばの椅子でアンジーが休んでいた。あいている窓から、彼はそっと花を差し出した。
「ガガかい?」
片足をひきずりながら、アンジーがその花を受け取った。ガガは窓の外から、腰をかがめる格好で二人にお辞儀した。
「苦しいだろ、そんな姿勢じゃ。中に入りなよ……っても、この天井じゃ無理か」
アンジーはひとりぶつぶつ言いながら、半身を起こした里長に、ガガのかわいい手みやげを見せた。
「おお、すまないねえ。こんなときにこんな身体で、ほんとうに、やれやれさね」
「だめ、寝る。里長、寝る寝る」
起きようとした里長をガガはおしとどめた。
「ガガ、もう行く。里長、ありがとう」
彼の瞳に混じるいろいろなものをくみ取った里長は、ただこう答えただけだった。
「そうかい、あの子をよろしく頼むよ」
巨人はもう一度、深くお辞儀してそのまま立ち去った。大きな背中が窓から見えなくなったとき、里長は目を閉じて、そっと花の香りを吸い込んだ。
ガガは、ディリシエのところに行くつもりだった。
ラステルのことはもう心配いらない。味方は多いし、《星見の民》たちは皆諸手をあげて彼女の帰還を喜んでいた。仲間たちもラステルを気遣っている。だからこそ、ガガはディリシエのほうが気にかかるのだ。
ラステルを探して心の迷宮に入ったとき、広くて深くて、とても不思議なところだと感じた。同時に、狭くて浅いとも。それを決めるのは、きっとその人自身なのだろう。その物差しとなるものも、人によって違うのだろう。ガガはそういうふうに考えた。
「ディリシエの、広い、どうだ?」
彼女の心を、誰が知るのだろう。
パレスか、それともその妹たちか。《父なる者》は……そういう存在ではないように思えた。
「獣。獣の、ひめ。ディリシエ」
《星見の民》であり、元《星見の姫》の彼女が《獣》と自ら名乗る理由に、ガガは思い当たった。
「獣、正直だ……」
自分は、自分に正直に生きているんだ。それがディリシエの主張なのではないか。実際はどうあれ、少なくとも彼女は、そう信じていたいのではないだろうか?
「ウガアァァ、なぜ、ひどいことした。ラステルに」
疑問はつきない。だから、会わなければ。何よりも、会いに行かなければ。
塔のてっぺん、《星見の姫》の部屋。
「あれぇっ、グリーン」
フィーナは、とことことやってきた歌姫にぎゅっとだきついた。彼女はグリーンが姿を消していたことを知らない。グリーンはいつもと同じようににこにこと笑顔を絶やさなかった。まったく、完全な作り笑顔である。
「フィーナ、《星見》の途中で倒れちゃったみたいで、心配かけてごめんなさいですぅ」
大きな瞳をうるうるさせて、フィーナは迷惑をかけたことを謝る。
「いいえ、それより、フィーナさんのほうは大丈夫ですか?」
「うんっ! ガガもねー、お見舞いに来てくれたんですー」
小さな指の示す先には、ちっちゃなコップにいけられた花。そして、大盾。
はっと気づくと、イェティカとラステルも、もちろん部屋にいるのである。グリーンは身体の前半分にフィーナを抱きつかせたまま、くるりと回って姉妹のほうを向いた。そして自己紹介をしながら、ラステルの両頬に挨拶の口づけをする。
「お会いできるだなんて思ってもいなかったものですから、せわしない挨拶でごめんなさい。イェティカさんから、少しばかり貴方のことを聞いておりますわ!」
ラステルは大きな瞳で、じぃ〜っとグリーンを見つめている。やがて口の端に柔らかな微笑が浮かび、妹がお世話になりました、と答えた。
「……ああっ、イェティカさんっ、私、ディリシエさんに会ってこようと思いますのっ」
グリーンはさらに、輝くようなとびきりの作り笑顔で言った。イェティカは、なんともいえない、怖れと懐かしさの混じった表情を見せた。もしかしたらこの、二つの表情のブレンド具合……似てるのかもしれませんわ、とグリーンは思ったが、代わりにこう続ける。
「フィーナさんっっ、ちょっっとだけ、これを貸していただいてもよろしいでしょうかっっ?」
すでにグリーンは、盾をつかんでいる。
「いいですよぅ」
「ありがとうございますぅっ」
「でも、いったい何に……?」
とフィーナが尋ねるより早く、グリーンの姿は消えていた。ややあって、はるか塔の下からドボンという水音が聞こえてきた。
そしてその晩。日暮れてすぐに、砂漠の彼方から奇妙に赤い光を帯びた月光が、《星見の里》を照らした。
イェティカの空腹はそろそろ限界である。ツェットがいなくてよかった、とルーファは思った。あの子がいたら、なんだかよけいなコトを言って、イェティカの空腹に拍車をかけそうな気がする。狼に会いに行くっていってたけど、無事なのだろうか?
ふと空を眺めてみた。ひときわ明るい万極星は、そこにはなかった。
「おい、あれ!どうなってるんだ?」
ルーファは目をこすった。万極星は、長い尾を引いている。ほうき星なんてルーファは見たことがなかった。あいにく、そういうことに詳しそうな仲間たちはみんな出払っている。聖地の方角、上空に赤い魔法陣のようなものも見えた。あそこにファーンたちがいるのだろう。聖地のあたりは異常気象になってる、っていってたっけ。
「なにを騒いでるんだ」
横に立ったのはアーネストだ。ルーファがほうき星ほうき星、とうわごとのように繰り返す。
「万極星……!」
それだけ言うのがやっとであった。不動のはずの万極星が墜ちようとしている。
「やっぱりあれ、万極星なのか! 万極星が、落ちる!?」
「来い、ルーファ! 里長や《星見の姫》ならば、すでにご存じかもしれぬが」
「わかった、報告するんだねっ」
勢いよくルーファが返事をして、二人で塔へと駆けだしたとき、彼女がやってきた。
砂漠の夜風をさらに厳しく、凍えさせたような冷気が、あたりを包んだ。目には見えないけれど、確かに異様な存在が、里を移動している気配がある。ルーファはぞくりと身を震わせた。
塔と里の中を巡回していたシウスも、それに気がついた。
「おでましか?」
ぶん、とロンパイアを肩にかつぐシウス。アゼルの魔法によって新たに鍛え直されたロンパイアは、夕暮れの闇をものともせず美しく輝いた。
「行こう、決着をつけてやる!」
アーネストも心羅の鍔を軽く鳴らし、全力で駆けだした。
その時、イェティカは半ば目覚め、半ば眠ったような状態で精神を集中していた。本来ならひとりでこもるしきたりだが、特例でラステルとフィーナも同じ部屋にいる。イェティカは、自分の中に力がわき上がってくるのを感じていた。《成人の儀式》を行う前とは比べものにならないくらいの、ほとばしる力である。これは、本当に万極星の力なのだろうか? ぼんやりと、そんなことを思っていた。だって……万極星は、もうすぐ落ちてしまうのに。
それなのに、あたしの中にはこんなに力強い何かがいる。
あたしが思うこと、考えることを、かなえようとする力。
そうか、だから《鏡》なんだね。
イェティカはちょっとだけ、千年の秘密が見えた気がした。
「さあ、迎えに来たわ、さいごのお姫さま」
扉をあけて、ディリシエが現れた。
ラステルは静かに立ち上がり、ごく自然な動作でイェティカの前に立った。
フィーナはディリシエの美しい横顔にしばし見とれていたが、すぐにイェティカのそばに動いた。グリーンさんに盾貸したままだったな、と思いながら。
「ど、堂々と入り口から入ってきたんですね、ディリシエさんっ」
フィーナはディリシエと相対した。
「うふふ、かわいらしいわね、お嬢さん。それは《星見の民》のまねごとですの?」
ディリシエが細く白い指先で、フィーナの顔に記された朱印をなぞった。ぞくぞくするような冷たさが、フィーナを襲う。《星見》の最中に気を失い、それまで身体の内にあった塊がなくなってからは、うずきもなく、朱印も薄れてきていたのだが、ディリシエの指が触れた部分が凍傷のようにフィーナをさいなんだ。
「奇妙なものね……《大陸の民》が《星見の民》のまねごとなんて。《星見の民》は、《大陸の民》にあこがれて、なりたくて、たまらなかったといいますのに」
ころころとディリシエは楽しそうに笑った。フィーナは、最近よく笑われてる、と思ってちょっとブルーになった。巡礼のおじいちゃんとディリシエさんを比べたら、ディリシエさんのほうがマシかもしれませんけど……。でも、あこがれてたっていうのはどういうことだろう。それが、ディリシエの、望んでいたこと?
「ラステル、おかえりなさい。いかがかしら、好奇の目にさらされる現実は? 戻りたいならいつでも、そうおっしゃいなさいな。すぐにわたくし、あなたをかばってさしあげます。それとも、なあに? もう、愛しいあの男のことを忘れ、新しい大陸の男に夢中になっていらっしゃるのかしら」
ラステルは答えない。
「かわいそうなラステル。あの冒険者、今頃小柄な歌姫のところで必死に口説いているのをご存じ? しょせん誰も、あなたのことを守ってはくれないのですよ」
「守ってもらわなくたって、自分のことは自分で守るわ」
ラステルは、はっきりと告げた。イェティカはただ、内なる力に翻弄されないように耐えている。周囲のやりとりは、耳に入っていないようだ。
そこにシウスたちが到着した。
アーネストが二振りの刀を構え、真っ先にイェティカを守る位置に躍り出た。ルーファは戦輪を手にする。シウスがロンパイアの切っ先を、ひたとディリシエに差し向けた。
「イェティカは渡さぬ。おまえの相手は俺たちだ!」
「……よろしいでしょう。もちろんわたくしが勝ちましたら……うふふ、《大陸の民》の力を取り込んだらどうなるのかしら?」
ディリシエは白いベールの陰からくぐもった笑い声を響かせた。
「力を取り込むぅ?」
ルーファはその発言に不穏なものを感じる。
こいつら、力を取り込むことができるのか?たしかラステルさんの力は、ディリシエに奪われたって言ってたけど。
「できますわ」
目の前にディリシエがいた。真っ赤な長い爪が空を切り、ルーファの首筋を数本切り裂いた。
「うふふ、考え事をしているなんて余裕ですわね?」
「う、うるさいっ! おまえ、この間はよくも……」
思い出させたな、と言おうとしたが続かなかった。攻撃を避け続ける。
「そう、あの子アルって言うの? ひどい子ね、あなたのことを想っていたのに、その子を裏切るようなことをしてはいけませんわ……」
ディリシエの口から言葉が紡がれるたび、ルーファの身体を冷気が包んだ。領主の跡継ぎ、赤毛のアルの姿が離れない。
「ちくしょー……また妙な術……」
ルーファはがくりと膝をついた。くやしい。こんなことで。
「うふふふふ、あははは! ほうらごらん、人の心は、もろくて弱い。ラステルごらんなさい……さあ、次は誰?」
シウスとアーネストは、すぐにディリシエの攻撃のくせを分析した。前にも戦ったことがあるので、よくわかる。彼女は、基本的には直接攻撃で手を下すより、幻覚や周囲のものを操ることに長けている。彼らは徐々にディリシエを壁際に追いつめていった。決定打はなかなか与えられないものの、ディリシエの白いローブには赤いしぶきが点々とはねている。
「くっ、ローブ一枚のくせに刀が通らないとは、防護魔法なのか? アゼルやグレイスがいればな」
アーネストの言葉に、シウスは忘れていたことを思い出し、ひとりくつくつと笑った。
「そうか、そうだったぞ。アゼル、忘れていた。さぁロンパイアよ、力を放て、《クスター・エンティ》!」
シウスが高らかに唱えたその名は、ロンパイアの魔力を解放する呪文であり、シウスの戦友の名前であった。まぶしい光が部屋中を照らす。ロンパイアが羽のように軽くなった。
「そうら!」
がしっ、とその刃が幻覚を操るディリシエの脚部をとらえた。転倒を狙うが相手は姿勢をくずさない。
「《光牙舞闘術》!」
アーネストが跳躍し、必殺の一撃を加えた。狭い室内であるが威力は十分である。心羅と冥羅はディリシエの胸を袈裟懸けに切り裂いた。
「……くっ」
豊かな金髪を隠していた白いベールが、はらりと落ちた。そこに見えたのは異形の角。
シウスがはっと目をとめた隙に、ディリシエがシウスの記憶をとらえ、深い闇にもつれこませた。暗い街角、薄汚れた仇。
「もういい、もういいのだ! そのときの答えは、これから一生かけて探してゆくのだ!」
シウスが吠え、ロンパイアを突き出した。
「……うふふ、そうですわね、心の中には、誰にでも闇がある……ほうら、そこの、最後のお姫さまだって。辛いでしょう、耐えているのでしょう。だって今宵は満月ですもの。本当のわたくしたちの力のよりどころは、あの満月なのですもの」
ラステルはぎゅっとイェティカを抱きしめていた。彼女には分かっていたのだ。ここで甘いささやきに屈してはいけない。自分は屈してしまったけれど。
「イェティカちゃんをいじめないでーっ」
フィーナが両手をかざして《愁いの砦》の加護を祈った。
はじめて唱える攻撃呪文だが、それはフィーナが予測したよりも、はるかに大きな威力でディリシエに命中した。
「……あれれ、なんだか強力だったですぅ」
けれど、いつものように、神さまがすぐ近くにいる感じじゃない。近くなのは、いままでにないくらい近くだけど、今のは神さまじゃない別の力のようだった。これは、なんだろう?
「それは」
ディリシエとイェティカの声が重なった。
「「魔女の、ちから」」
ディリシエは夢見るような口調で続けた。
「そう、《大陸》に伝わるところの、《魔女》の力。正確には、月から来し我らが《父なる者》が与えてくださった、月の力なのですわ……それは欲望を増幅し、見たい夢を見せる。ほうら、ね。さぁイェティカ、暗く長い洞窟が見えるのでしょう? こっちへ、おいでなさいな」
「その手は、通用しません」
ラステルが立ち上がり、両手を広げて幼い妹をかばう。
ルーファももう一度立ち上がった。いつだったかの、イェティカのつぶやきがふと思い出されたのだ。心に灯る金色の灯台のように。その言葉をたぐりよせ、ルーファは立ち上がることができた。
(家族で暮らすのってむずかしいのかな……)
そんなことない、そんなことないよイェティカ。家族でくらすのなんて、一番簡単で一番大切なことなんだ。ラステルと、イェティカ。そして、ディリシエ。仲良く暮らせばいい。
もしかしたらディリシエだって、どこかで本当にラステルのことを思ってやったのかもしれない。
そしてルーファは、ゆっくりと動いた。右手に小剣を構え、頭は半分アルのことを思いながら、ゆっくり、ゆっくりディリシエに近づいていき、そしてぐさり。
小剣は、《獣の姫》の左肩を貫通した。ディリシエは恐ろしい咆哮をあげた。そのさまは、《夜魔》そっくりだった。瞬間、ルーファはアルに刺される夢を見て、ぱたんとその場に倒れた。血のように真っ赤な宝玉がひとつ、ディリシエの身体から転がり出た。
胸騒ぎがしたガガは、塔の一階、里長が休んでいた部屋をのぞいてみることにした。
そこには、椅子の上でくずおれているアンジーと、寝台に奇妙な姿勢で横たわっている里長、そしてその脇に、白いローブに血の薔薇を描いて立っているディリシエがいた。
彼女は呆然として、真っ赤に染まった両手を広げている。
「……ディリシエ!」
ガガが声をかけると、ディリシエははっと振り返り、そのまま血の気を失って倒れてしまった。アンジーも里長も、もはや助からないのは明白だった。
「ウガア!なぜ!なぜだ?」
ぶんぶんと頭を振りながら、それでもガガはそっとディリシエを抱き起こした。
「……サヨナラ」
巨人は赤く染まった部屋にそう告げ、《獣の姫》を抱いて去っていった。昼間ガガがつんできた花は、まだ里長の枕元に活けられていた。
里の門をでたところで、ガガはバクちゃんがついてきているのに気がついた。
「もう、おわり。かえる。仲間と……」
ガガはそうさとすが、砂漠狼はどこまでもガガとともにゆくことを決めたようである。
ふとディリシエが気がついて、不思議そうにガガに尋ねた。
「わたくしをどこにつれてゆくおつもりですか?」
「父、の、ところ」
「あら、うふふ、父もいまとなっては、わたくしなど相手にいたしませんでしょう……」
「そうか」
ガガは悲しげにうなだれる。
「オオ、パレス、のところ!」
ディリシエは何も言わなかった。
「ディリシエ、自分に、正直に」
「いつだって、わたくし、正直でいたつもりでしたわ。それが誰を苦しめることになっても。ご存じかしら、《星見の姫》でいるということは、さまざまな人間の悩み、苦しみを受け止めてなお照らすこと……」
超常の力など見当もつかないガガであったが、だまって聞いていた。
「自分の中に、思い通りになる力があると知ったとき、そう、ほんの少しだけ、ささやかに自分のために使いたいと思ったのですわ。ふふふ、あのときのパレスったら……ほんとうに……」
ガガに横抱きにされたまま、ディリシエは10年前と同じ夜空を見上げていた。
「愛を命令しても、こんな結果にしかなりませんでしたの。なんて、意味のない力でしょう」
《星見》で人々に希望を与えると同じ力を、彼女はそう述べた。
「今でも、ディリシエ、力、ほしい?」
ガガの脳裏には、里長の無惨な姿が浮かぶ。あれは果たして、彼女が望んでしたことなのだろうか?
「いいえなにも……ほしくありませんし、なにもしたくありませんわ……これではちっとも、欲望のままに生きていることにはなりませんね」
「そうか」
ディリシエ自身には誰も、何もしてくれないのだ。ガガはひしひしと感じた。
だから、憎むしかなかったのかもしれない。気休めではなく、ガガは心からこう言った。
「ガガ、ディリシエのこと、気、してる」
ごほごほ、とディリシエは辛そうに咳き込んだ。ガガの腕の中で、ディリシエの姿が幾度かゆらめいたように見えた。金色の巻き毛の中に埋もれている角が、ガガの腕にひんやりとした感触を与えた。
「昔に戻りたい。でもそれだけは、できないことですものね。《大陸》への種をまき、《大陸の民》の力を計り、《金色の姫》の墓所を開き……すべての役目を終えた今、残すことはもう何も」
「イェティカ、いる。残っている」
ディリシエはかぶりを振って、それは許されないですわ、と言った。
「許す、許さない、誰も決めない。決めるのは」
自分の心だから、と続けた言葉は、苦しげなディリシエのうめきにとって変わられた。
「もう遅すぎましたわ」
巨人の腕の中で《獣の姫》は、つまさきから醜い獣の姿に変わっていった。
「ディリシエ!」
「うふふ……うふふふ、あはははは……」
異変は下半身で止まったが、上半身が変わらぬ美女であるために、その変異の様は醜悪だった。金の巻き毛を片手でかきあげると、さらに二本の角があらわになる。血しぶきが花模様のように飛び散っている純白のローブがはためいて、銀色の毛に覆われ蹄と尾が生えた足が夜風にさらされた。
「そうよ、もう遅すぎるの。こんな姿では、もうあの人の前になんて出られませんもの。だから」
「ガガ、一緒に行く。ディリシエと」
バクちゃんがぐるぐるぐると優しげにのどをならした。
「ディリシエさん、いっちゃったね」
ルーファがつぶやいた。
「フィーナ、《星見》をしてもらうのかい? たしかフィーナの夢は、故郷の村を天災から守ることだったよね」
とアーネスト。けれどフィーナはかぶりをふった。
「それはね、もういいんです。フィーナの村は、みんなでなんとかすれば、なんとかなるかもしれないから。もちろん戻ったら、今までよりもっとフィーナもがんばりますけどね。だから、今《星見》で知りたいのは、みんなが無事に戻ってくるためにフィーナができること……それが一番知りたいですう」
アーネストは、妹のようにフィーナの頭をぽんぽんとたたいた。
「もちろん、みんなで無事に戻ってくるさ」
「フィーナは今まで通り、がんばればいいのさ」
ルーファも肩をすくめて言った。そうだ、仲間と一緒ならなんだってできる。ねえアル?
どうしてあのとき、自分で打ち明けなかったのだろう。……自信がありませんでしたの。
どうしてあのとき、父の力を借りたのだろう。……だってそうすれば、成功するって。
どうしてあのとき、あの人は心変わりしたのだろう。……今ならわかりますわ。
誰の心も、力でねじまげてはいけなかったということ。
父があの人の心を私に向けてくれた。
作られた関係に気づかなければ、幸せだったのかもしれない。けれどあの人は事実に気づき、悪い方向に解釈した。自分は偽りの愛を与えさせられていると。
ほんとうは、違うのに、ね。もともとあった慈しみの気持ち。それに一さじ力を混ぜて、愛情に変えただけだったの。力ではなく、心と時間を割いて育まなくてはならなかったのでしょうね。今ならわかりますわ。そのように、妹はしていたのですもの。
あの夜が大切だったのは、その場限りの壊れやすい偽りだったから。
そんな思い出はもういらない。
「だから、あの人と、赤ちゃんと、みんな殺して終わりにしましょう?」
第7章へ続く