《大陸》中原に位置する自由都市、ミゼルド。
年に一度の大市を目指して《大陸》中から集まってきた人々のおかげで、ミゼルドの街はごった返している。商人たちはここぞとばかりに自分の商売道具を持ち込み、取引許可証をもらうべく評議会舎の前に長い行列をつくっていた。その横を、見事な技術で荷馬車が通り過ぎる。さらにその脇を行き交う旅人たち。
「なんだか騒がしいなと思ったら、いい時にめぐりあわせましたねえ」
人波の中を軽やかに歩きながら、異様な風貌の旅人が笑みをもらした。華奢な長躯に、あでやかな黒髪が腰まで流れている。白い長衣をひらひらとまとわせる様は、優雅に泳ぐ水鳥のよう。だが一番目立つのは、その両目が白布で覆われていたことだ。すれ違った人々が皆振り返るのを知ってか知らずか、旅人は誰にもぶつかることなく、すいすいと通りを歩いていた。
旅人の名はスイ。行き当たることすべてを楽しむすべを心得ている彼には、ミゼルドの混雑もまた楽しい経験のひとつだった。
「おっと、こちらのお嬢さんたちはかわいらしいですねえ。ああ、これはこれは綺麗な踊り子さんたち。いやいやいや、すばらしいですねえ、大市って」
黒い扇子を取り出し、ひらひらと仰ぐスイ。
「旅は道連れ、できれば美女の連れだと最高ですねえ、うん」
浮かべた笑みはそのままに、ごきげんのスイは踊り子たちの後ろ姿を堪能しながら歩いていく。
「ひゃあ、なんてたくさんの人がいるのかしら」
通りの隅に荷物をおろしたカリーマ・ルアンは、浅黒い肌に伝った汗をぬぐうと、行き過ぎる人波を半ば茫然と見渡していた。荷物の中には少しばかりの身の回りの品と、使い込んだ皮鎧がおさめられている。鎧は脱いできて大正解だった、と少女は思った。
「この人たち、いったいどこから来たんだろうな」
今は自分も、たくさんの人の中のひとりだということは置いておいて、カリーマは息をついた。畑仕事に不慣れな父の、おぼつかない手つきと、まばゆい朝の日差し。こみ上げてくる想いを、カリーマは振り払った。
「よおしっ、ガンバロ! 人がいっぱいってことは、忙しくて、お仕事もいっぱいあるってことだよね。大市ならなおさら、食べ物もいっぱいあるよね」
よいしょ、と再び荷物をかつぐ。日に焼けた皮鎧とよく似た色の三つ編みが、少女の背中で揺れた。まずは、お仕事をもらってからよね、うん。できれば報酬は現物支給がいいって、言ってみちゃおうかなあ。旅商人さんと仲良くなれたら、父さんのもとにも運んでもらえるかなあ。
人波の中、彼女は《精秘薬商会》へと向かう。
メルダ・ガジェットは、その日ご機嫌だった。雑貨屋を営むガジェット商会は、大市の間も客足は普段どおりなのが常だ。ことさら凝ったディスプレイをするでもなく、メルダは陳列窓のカーテンをあげた。風雨にさらされて少しがたついている門を、いつものようにぎりぎりと開いて、開店の準備をする。
エプロン姿ではあるが、男顔負けのがっしりした体つき。かつては傭兵として、テスラ戦役にも出陣したという彼女は、家事もそれなりにワイルドだった。
「おかーさーん、ごはん食べたら《ハルハ旅団》見に行ってもいいー?」
子どもたちが、店の奥で叫んでいる。父さんの手伝いをしてからだよ、とメルダは返し、自分はほうきを持って通りへでた。
「ん?」
とてとてと、年端もゆかぬ少女がおぼつかない足取りで歩いてくる。息子のシーギスよりは大きいけれど、顔つきはとても幼かった。まるでお人形のような、りぼんとフリルがひらひらのドレスを着ている。娘のアイビーが見たら、自分もほしいとだだをこねそうな服。まだまだ一人で遠出はさせられないような、そんな少女がひとりきりで歩いていた。
突然、メルダは今朝の夢を思い出す。
白い服を着た黒髪の少女が、微笑んでいる。不思議な歌を歌いながら、微笑んでいる……。その少女に心当たりはなかったけれど、どこか居心地のよい雰囲気をまとっていた。目が覚めてからも、いい夢を見たなぁと思ってた。だから、気分がよかったんだっけ。
そんなことを考えながら、メルダは少女に声をかけた。
時間は少し遡る。ミゼルドの程近く、小高い丘に茂る森。
ドレスの少女セレンディアは、気がつくと高い木の枝にひっかかっていた。りぼんとフリルのついた、およそ旅には不似合いのドレスは、幸運にも汚れていなかった。皮のブーツにつつまれた足を、枝のすきまからそっと抜いて、セレンディアは空を見上げた。
はるか上空に、円を描くように飛んでいる鳥が一羽。セレンディアの視線に気づいたかのように、その鳥はふわりと降下し、くわえていた果実を落とすとどこかへ飛び去った。少女はぺこりと頭をさげる。ちょうど手のひらにおさまった果実を、大切そうに一口ずつかじる。
以前は、誰かと一緒に旅をしていたような気もする。けれどなぜ、その人と離れ離れになってしまったのか。最後の記憶は、大切なその人が、血と涙を流しながら戦っている場面。
食事をすませたセレンディアは、そっと木から降りた。丘のふもとに、街が見えた。あそこに行ってみればもしかして、その人の手がかりがつかめるかもしれない……。
「ねえ、どうしたの。お母さんとはぐれちゃったのかい?」
エプロン姿のメルダは、うろうろしているセレンディアに問いかけた。セレンディアはびくりと身体をこわばらせる。メルダはしゃがんで少女と目線をあわせた。
「ひとりできたの?」
セレンディアはうなずいた。その両手は胸の前で固く握られていた。メルダの目に、きらりと光るものがうつった。セレンディアが首から下げている、銀色の小さな鳥笛だった。
「そう。よかったらおいで。うちの子たちもこれからご飯だ。ひとりぐらい増えたってどうってことないさ」
メルダが手を差し出すと、セレンディアはすっと身をひいた。その表情にはおびえが浮かんでいる。困ったな、とメルダが思ったそのとき、きゅるるる、と少女のおなかが鳴った。
「なんだ、おなかすいてるじゃないよ。ほらおいで。うち、ここだから」
メルダが立ち上がり、門をくぐる。その後を、とてとてとついていくセレンディア。
優しい人に会えてよかったとセレンディアは思った。思ったが、口には出さない。出せない。彼女は言葉を使わない。
そんな少女の性質を特に不思議と思うでもなく、また特に遠慮もしないメルダ。
「シグ、アイビー。あんたたちサーカスに行くなら、この子も連れていってあげな。母さん、評議会に顔を出してこなきゃならないからね」
サーカスって何だろう。セレンディアは、黙って家族の会話を聞いている。
ミゼルドを囲む幾多の丘。その中のひとつには、色とりどりの旗がへんぽんと翻り、異国のお城のように丸みを帯びたサーカスのテントが設営されていた。大小さまざまな飾り風船も、ふわふわと浮かんでいる。開演は暗くなってからだというのに、すでに物見高い人々がつめかけていた。大人たちは大市で忙しいこともあって、目を輝かせて中を覗こうとしているのはもっぱら子どもたちだ。セレンディアも、ガジェット家の子どもたちと一緒に見物に来ていた。
「どうだい、ノヴァ。お嫁さん、いると思うかい?」
見物人のひとり、旅の青年ラフィオ・アルバトロイヤは、愛犬ノヴァに話しかけた。青灰色の毛並みの子犬が、ラフィオの腕の中でふんふんと鼻をひくつかせる。
「あそこが猛獣の檻なのかな。もしかしたらいるかもしれないね。話、聞いてみようか。ノヴァ、いいかい? 男の人だからって悪さしちゃだめだからね?」
くしゅん、とくしゃみのように鼻を鳴らす子犬。ラフィオはそれを諾と受け取り、サーカス団員を探し始めた。
いくつかのテントが円を描くように並んでいる。中央の一番大きなテントには、舞台がしつらえてあるのが見えた。
「あっちかな?」
ラフィオとノヴァは裏手のほうへ回る。見物人たちの姿も、こちら側にはない。
同じようにサーカスを見物に来ていたライ・レーエンベルクは、市場で買い込んだ焼き菓子をもぐもぐと食べながら、テントの間を回っていた。
「……? ああ」
時たま彼はあらぬ方を眺め、ひとりうなずいたり、首をかしげたりしている。知らぬ者には奇異に映るだろう所作は、彼が精霊の声を聞くことができる、精霊使いだからであった。
サーカスの開演が今夜からなのは残念だったが、それでもライはあたりを見て回ることにした。こんなに人が多い街に来るのは初めてだったし、何よりも、お祭り気分で浮かれた人波の中にいるのは、心地よい体験だった。
それでも、ライの心に間をおかず話しかけてくる精霊がいる。ライはもう一つ焼き菓子を頬張りながら、精霊の声の聞こえて来るままに散策していた。
「ん……?」
どこからか、きれいな歌声が聞こえてくる。ひとりではない。何人かの女声のコーラスだ。高く、低く、高く、高く、もっと高く。
どこから聞こえるんだろう。サーカスに歌姫がいると聞いたけれど、その歌だろうか。
その歌は今やライに聞き取れるぎりぎりの高音部を、高らかに歌い上げていた。
「もっと聞く」
そう言って、彼も探索を続ける。
《ハルハ旅団》をどうしても見てみたい、と開演を待ちきれず、やってきた少年がもう一人。少年の歩く後を、てけてけと黒猫がついていく。さらにその後から、もこもこの子羊が歩いていく。
彼はカルマ・アイ・フィロン。自称ストリートミュージシャン、といえば聞こえはいいが、ようは旅の歌い手だ。アルトからソプラノの高音域を売りに、楽器担当の黒猫と羊をお供に連れて《旅人たちの街道》を旅していた。宿場でたまたま旅団の噂を聞きつけて、絶好の機会をものにしようとミゼルドへやってきたのだ。
「もし旅団に入れてもらえれば、大躍進なんだけどな〜。《大陸》中に俺の名前が知れ渡っちゃうんだろうな〜」
小柄な少年は、長旅で汚れたのか新調したのか分からない、毛皮のついた薄茶色の上着を小脇に抱え、二匹と一緒にテントの入り口を探していた。
「知ってる? 《ハルハ旅団》って超有名らしいんだよ。ランドニクスの皇帝も、呼びたがってるって」
「へえ。そんな一流のトコ、雇ってくれるのカナ」
答えたのは黒猫のアルト。いつもはアコーディオンを担当しているアルトは、今日もいざ芸を披露する時のため、得物をななめに背負っていた。ものいうけものは、《大陸》ではそれほど珍しくないが、楽器を弾きこなせるとなると、話は別だ。アルトは珍しく、音感のある黒猫だったのである。
「だからチャンスなんだってば。宣伝のバイトくらいなら、させてもらえるかもしれないしさ。今はだめでも、顔を覚えてもらったらいつか本気で仲間に入れてくれるかも」
カルマは目を輝かせながら、団員を探していた。
「誰もいないなあ。みんな忙しいのかな。馬車で聞いた話だと、絶世の歌姫ってのがいるらしいんだけどなあ」
「カルマより歌、うまい?」
「ん〜、微妙かな〜。俺もけっこう上手いもん……あ、誰か来る」
残念ながらカルマが出会ったのは、同じように団員を探していたラフィオとライだった。彼らは一緒にサーカスの敷地を見て回ることにした。
そういえば、とカルマはノヴァを見て思う。ミゼルドの街じゃ、犬は一匹も見かけなかったっけ。これまで旅したどの街でも、野良犬なんて当たり前に見かけたのに。黒猫アルトを野良犬から守らなくて済むから、長居しようかなあ、などと考える。
「歌……ほら」
ライの言葉には、ラフィオもカルマも顔を見合わせるばかりだ。
「歌なんて聞こえないよ」とラフィオ。
「俺より上手い?」とカルマ。
「女の子たち。たぶん」
言葉を訥々と区切るように発音しながら、ライは先頭に立って歩き出す。空色のローブの後を、ふたりはついていく。
「あ、止んだ」
ライは立ち止まり、きょろきょろとあたりを見回した。中央のテントからかなり離れたところまで来てしまったようだ。近くには物置代わりに使われているような、くたびれた小さなテントがいくつか建てられていた。その後には、大きな荷馬車の幌がテントの群れを囲むように並んでいるのが見える。幌には何も描かれていなかった。
「これでキャラバン組んで移動するんだよ、きっと」
カルマは興味しんしんでそれらを眺めた。
「誰だ?」
誰何の声が飛んだとき、ラフィオは小さなテントの隙間から、中を覗いたところだった。飛び上がるほど驚いたカルマは、テントにつっこんだ頭を出し、振り向くと。
「ここで何をしている?」
「あ、あの僕……」
赤と白の衣装に身を包んだ道化がひとり、小脇にボールを抱えて立っている。白い絵の具で染められた顔には、笑っているような、泣いているような目が描かれていた。ラフィオははっと身を引いた。銀糸の縫い取りのあるマントを引いて、思わずノヴァを抱きしめる。
テントの中にいたのは、雪のように白い肌をした、女の子の人形だった。その光景が、ラフィオの脳裏に焼き付いていた。たった一人で、締め切った暗いテントで、彼女はまるで眠っているかのようだった。唇がやけに赤かった。そして暗いテントの中にあって、少女の黒髪は暗く輝いて見えた。
カルマは思った。似ている。夢で見た少女に。黒髪、白い肌。服は白ではなかったけれど、顔や雰囲気はそっくりだ、と彼は思った。少女の歌っていたメロディが、カルマの心に聞こえ始める。ああ、白い薔薇の花があれば、この人形によく似合うのに。
ライはその少女が生きているのかと思った。何か見知らぬ精霊が、ひらひらと舞い踊っているのが見えた。しかし歌は聞こえない。この少女人形が歌えばいいのに、そう思い、彼は精霊に問うた。いらえはなかった。
道化の視線が、彼らを厳しく見つめている。
「開演は日没後だ。それまでは……」
くるりと宙返りする道化。いつのまにか一輪車が現れていた。赤白の道化は一輪車にまたがった。
「秘密はしばし秘密のままに」
道化は微笑んでいた。滑稽さよりも、どこか哀れを感じる笑みだった。
「勝手に入ってしまってごめんなさい。僕はただ」
「……日の光では見えぬものも、夜になれば明らかになろう。夜になお謎満ちるならば、果たして時の役目とは」
道化の言葉は、まるで呪文のようだった。一輪車に乗り、道化は立ち去る。
「行っちゃったねえ、尋ねてみようと思ったのに。このサーカスに、《竜》はいますかって」
「りゅう?」
カルマが聞き返す。
「あ、ううん。ちょっとね、《竜》っているのかなーって思ってさ……ああ、コラ、ノヴァ!」
その言葉が終わらぬうちに、ノヴァがかぷりとカルマに噛み付いていた。
さて、その日も暮れて。
「西の丘、東の丘、南の丘、そしてあんまり感じよくなかったスラム……」
カリーマは、今日一日でミゼルドを歩き回り、主要な施設と地形を頭に叩き込んだ。どこへ行っても人・人・人の波。それに流されずに行きたいほうへ向かうのには骨が折れたが、心地よい疲れでもあった。
「街の中心の広場に面して、評議所と、神殿。うん、後は放射状に通りが伸びているのね。公共の施設は意外と少ないなあ。当たり前だけど、畑とかもないし」
カリーマの独り言に返事をするかのように、ぐうう、と彼女のおなかが鳴った。取引所で試食品をもらった他には、朝から口にしたのは水だけだ。街の中心に戻ってきたカリーマの目に、広場へ屋根を広げるカフェや、そこで談笑している人々が映る。焼きたての何か香ばしい匂いが風に乗ってきた。うっとりと目を閉じて、カリーマはその匂いをたどろうとする。
「そう、その焼き菓子ひとつ。あとこれは? ミゼルドまんじゅう? じゃあこれも」
街中の軒下に連なる屋台を眺めては、荷物を増やしているのが、冒険者のジャック・コーデュロイトだった。背中には愛用のボウガンを背負ったまま、お祭り風情を満喫している。とりあえず彼は食べ歩きに走っていた。
「うん、いける」
もぐもぐと口を動かしながら、次の屋台をのぞくジャック。
「このこそ泥っ!」
突然の怒号に、ジャックが振り返る。巨漢がバンダナを巻いた少年の首筋をつかみ、うさぎか何かのようにひょいとぶらさげていた。巨漢が少年をゆすると、だぶだぶのカーゴパンツのポケットから、小銭だの財布だのがぼろぼろと落ちてきた。
「わ、あわわ……」
「知ってるぜ、おまえここんとこずっと、うろちょろしてやがっただろ! うちの仲間の財布も盗みやがって、ただじゃおかねえからな!」
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」
哀れな少年は、ぎゅっと目をつぶったまま、もごもごと呟いている。巨漢は少年をぶん、と放り投げた。激しい音を立て、少年は店先の看板に突っ込んだ。ジャックとカリーマは、慌てて彼に駆け寄った。
「おい、大丈夫か?」
ジャックが少年を助け起こす。あちこちに擦り傷ができていたものの、少年は無事だった。そのかわり、木の板でできた看板は粉々だった。ジャックは食べかけの焼き菓子を少年に渡すと、立ち上がって巨漢を見据えた。
「なんてことするのっ、こんなに乱暴しなくたって、この子はもうお財布を返したじゃない!」
カリーマは巨漢を見上げて啖呵を切った。ざわざわと人だかりが彼らを囲んでいる。その中には、スイの姿もあった。こんな時でも、口元にはゆるい笑みを浮かべている。
「私も見ていましたよ。こんな小さい子に、大人げないですねえ」
スイはひょうひょうとした風情をくずさず、少年の傷をきれいな布でぬぐってやる。
「あん? おまえらこのガキの連れか? なら、この店の修理代はおまえらが払っておけよ」
壊れた看板を、巨漢は顎でしゃくる。スイを見てもただの変人だと思ったらしく、その勢いはとまらない。
「おっしゃることが、よくわかりませんねえ」
「あの子を突き飛ばしたのはあなたじゃない!」
怒り頂点のカリーマは、体格差も省みず巨漢につめよった。相手が下卑た笑いを浮かべる。群集はただの観客と化し、彼らに助太刀するものはもういない。自分が《精秘薬商会》とつながりのある冒険者だ、と口にしようとした時。
「あ……ルどルフ、いわれだ。ひどの……やぐにだつ」
もごもごと呟きながら、ルドルフは進み出た。
「おめえ……あのひどの、さいふ、ぬすんだ」
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイっ。もうしません、盗んだお金はあれでぜんぶなんだ!」
少年はすりむいた傷の痛みも忘れ、ルドルフの風貌の恐ろしさにおびえながら叫んだ。背丈は彼の倍ほどもある大男のうえに、髪も鬚も伸び放題、服は擦り切れてぼろぼろである。太い腕は丸太のようで、傍目にも筋肉が見て取れる。足にはめられていた鉄の輪には、引きちぎられた鎖がぶらさがっていた。
「な、なんだおまえ」
驚いたのは、巨漢も同じだった。自分より体格のよい、強そうなのが登場したと見た途端、その口調が微妙に変わる。
「おめえ……おめえは、あのごどもを、いじめだ……」
「や、やるのか、こら! 俺は《ミゼルの目》に雇われているんだぞ! 評議会に報告してや」
ドゴッ。
鈍い音をたて、巨漢の頬にルドルフの拳がめり込んだ。カリーマもスイも少年も、目を丸くした。彼らを取り巻いていた人々は、叫びながら散っていく。
「……いじめる、よぐねえな……」
ゴフッと巨漢が唾を吐いた。赤い血がしたたる歯が、糸を引いて流れた。
「やめて、もう充分だわっ。それ以上は、あなたもあの人と同じよ!」
カリーマは、ルドルフが再度振り上げた腕に全力でしがみついた。巨漢が逃げていく。ルドルフは茫然としながら、それを目で追った。
ふとルドルフが気づくと、やはり自分の周りには、遠巻きに輪ができていた。
いつもそうだ。大男はがくりと膝をついた。自分は、どこかおかしいに違いない。自分を見つめる人々の視線が、そう言っている。蛮人。化け物。気の触れた、かわいそうな大男。彼がひとりで旅に出るずっと前から、よく耳にした言葉たち。意味は分からなかったけれど、そう言った人間たちは、みな彼を避けたから、ルドルフはその言葉はどれも好きではなかった。
「あの……助けてくれてありがとう」
少年が蚊の鳴くような声で言った。
「ずいぶん騒がしいことだったな」
騒ぎを聞きつけた神官が、石造りの建物から出てきた。白い聖衣に、染め抜かれた金の鍵の紋章。短く切りそろえられた銀髪と涼やかな瞳が、意志の強さを感じさせる。まだ年若い女性だが、その言葉は自信と威厳に満ちていた。
人のさざめきで、旅人たちは、その女性が神殿を預かる聖騎士イオだと知る。
「少年、名前は?」
「……ミュシャ」
「そうか、次からはもっとうまくやるんだな。《ミゼルの目》も、最近は柄の悪いのを雇うようになったものだ。旅の方々も、充分にご注意めされよ」
「あれが、《ミゼルの目》の傭兵なの? ずいぶん権威をかさにきてるじゃない」
カリーマは頬をふくらました。
「なんだか感じ悪いなあ。俺、評議所に行って雇ってもらおうと思ってたのに」
ジャックはため息をついた。ミゼルドに来れば仕事もたくさんあるだろう、と思っていたが、評議会の仕事は少し様子を見た方がいいかもしれないな、などと考えを改める。いずれにしても、ジャックも根無し草だった。まだミゼルドには来たばかり。まだまだ時間はあった。
「いやあ、美しい聖騎士さまですねえ。重畳重畳。貴女、私の道連れとなってくれませんか? なんてね」
スイは扇子をとりだしてご機嫌だった。
「残念ながら職務があるのだ。ミゼルドの街に現れる怪異の謎をとく、というな」
「怪異。それはそそられる響きですねえ」
「いお……ごまってる」
ルドルフがしわがれた声で呟いた。
「困っている。そうだな。私ではなく、ミゼルドの民が困っている。《ミゼルの目》が何を企んでいるかは知れぬ。これも本当ならば彼らの職務といえるのだが、大市の期間中ゆえ無理も言えん」
「あの、イオ様。お困りなのであれば、あたしの力でよければもうお貸ししちゃいますから! わりとその、力には自信がありますからっ」
カリーマはずずいと前へでた。
「助かるな。ぜひとも協力してほしい。……ミゼルドに出没する、黒い影の謎をとくために」
イオは唇を噛み、面を上げた。カリーマもその視線を追う。
人ごみが、引き潮のようにひいていた。人々が口々に叫んでいる。
「影だ! 黒い影だ!」
イオがぎりと歯噛みして、傍らの槌矛を引き抜いた。その間に黒い影は、もこもこといくつも広場に出現する。そこだけ人が逃げ惑い、泉に落ちる雨のしずくのように、開けた輪がいくつもできる。
イオは駆け出した。つられてカリーマとスイも追う。ミュシャとルドルフは動けない。ジャックは素早くボウガンを準備する。
「オオオオオオオアアアアアアアア」
言葉にならぬうめき声をあげ、黒い影は人々のなかをすりぬけてゆっくりと動き出す。黒い影は、ぞっとするような冷気をともなっていた。
ヒュンッ。風を切る音とともに、一本の矢が放たれた。矢は過たず影を貫き、それは苦しげなうめきをあげて消え去る。
「大丈夫ですか」
ボウガンに矢をつがえたまま、ジャックが叫んだ。彼の得意とする弓の攻撃は、離れたところに現れた影に対しても、着実に威力を発揮していた。
「こいつら、一体……魔法か? 魔物にしては手応えがなさすぎる」
目にかかった金髪を払いのけながら、ジャックはいぶかった。奇妙だ。黒い影はうめくだけで、誰かを傷つけたり、壊したりしている様子はない。
「魔法にしては、近くに術師の存在が感じられませんねぇ」
スイが面をあげた。風向きを量るように、周囲をゆっくりと見渡す。
「誰が、何のためにこんな真似をするんでしょう、いやはや。愉快犯でしょうか」
どこか面白がる口調のスイ。
「これじゃ、せっかくの大市も楽しめないよ」
「この街に、何かが起ころうとしている……良きことであればいいのだが」
だがそう言う聖騎士自身、そう思っていないことは明白だった。旅人たちはそれぞれの思いを胸に、何事もなかったかのように広場を満たしていく人の流れを眺めていた。
第2章へ続く