第3章|承前|言葉のない歌|忘れられた遺跡|高く、遠くへ|満月の夜|マスターより|
承前
■Scene:日中の光
セイエスは、ミゼルド神殿で与えられた一室の、寝台の上で丸くなっていた。なかなか眠れない、寝付けない。それは、寝台の寝心地のせいではなかった。
あの子は、何者なんだろう。
夢に見た少女のことではなく、もうひとり、セイエスの脳裏に焼き付けられたのは、街で出会った現実の少女。ふわふわの巻き毛に、ほっそりした若枝のような手足、かわいらしいドレスを着て、早足で駆け抜けていった。
人混みの中で、一瞬、その少女がためらったのが分かった。広場へ向かう人の流れとは逆方向に、細い路地に身をすべらせるように、彼女は身を翻した。何か残像のように、あたりの喧噪がゆがんで映る。
……君、どこへ行くの。
セイエスは手を伸ばした。夢の少女には伸ばせなかった手を。
ばちん。静電気のように、青白い光がはじける。セイエスはおどろいた瞳で、けれど手はひっこめることなく、少女の赤い瞳を見つめた。彼女は無言のまま、セイエスの顔をじっと見上げ……セイエスの心に、色と香りと音をともなった誰かの心が入り込んできた。
帰れない……帰れないの。行く場所なんてないけれど……。
優しいおかあさん……おかあさん大好き……でもおかあさんじゃない。
私がいると、おかあさんがわたしのことをきらいになる。きっと。
私のまわりにいるひとは、みんないなくなってしまうから……。
私がいると、おとうさんの魔法がつよくなる。
私がいると、おかあさんの魔力がつよくなる。
私のしらないひとのこころも、つよくつよく、なってしまう……。
私は、だあれ?
「君は、誰?」
セイエスはやっとそれだけを口にする。また別の幻が、神官を翻弄する。
何を、迷っているの?
「君は……」
少女の声だろうか、その問いかけにセイエスはひどく動揺した。
「君こそ、どうして迷っているのです?」
……もしも苦しみとひきかえに、誰かを救う力があるとしたら、どうする?
「えっ」
バウトによく似たようでもあり、知らない人の声のようでもあった。色と香りと音は、月明かりに咲く白薔薇を思わせた。暗闇にたったひとり、ほの白い灯り目指して歩いているような感覚。セイエスは、見知らぬ連れに語りかけるように答えた。
「人を救うことができるのは、その人自身のほかにいません」
……そなたの考えは、どこか危うい。女神の教えを忘れるな。
女神の教え。《大陸》に満ちるものたちに心を開き、ゆめ閉ざすことなかれ。なんとなれば女神の鍵は、常に信徒のもとにあり、一切の愁いから彼らを守る砦こそ、女神の御座。
……ねえセイエス君、神さまに自由ってあるのかなあ。
「僕だって、自由じゃないかもしれません」
でも、答えは分からない。それを決めるのは、僕なのでしょうか?
あらゆる相手に心を開き、受け入れる。女神の教えのままに生きるほかに、僕に何ができるでしょう。
……rrrr rrrrrrrrr……♪
「!」
セイエスは、歌声のする方を振り返った。
そこにはただ、深淵の闇。
気が付くと、セイエスはミゼルドの街角に突っ立っていた。巻き毛の少女、セレンディアの姿は、とっくに見えなくなっていた。
■Scene:無彩色の夢
旅人は夜毎夢を見る。《精秘薬商会》、ミゼルド神殿、あるいはまた別の場所。枕を変えても、その夢は変わらない。
ジャグは、気づいた。夢の内容がほんの少し変わったことに。不思議な言葉の歌はそのままに、少女は白薔薇を黒髪にさして、ジャグの周りをくるくると楽しげに踊っている。彼女が踊ると、白いスカートから白薔薇の花びらが風に舞い、ひらひらとジャグに降り注ぐ。
「rrrr rrrrlllll......?」
「いや、疑問形ってくらいしか分からないんだって」
立ち止まってほほえむ少女を見つめながら、ジャグは嘆息する。
そういや昼間もよく似た女の子がいたなあ。大きい目を丸くしてたところなんか。もっとも、彼女は生身の女の子だったけれど。
突き飛ばし、一回転させてしまったセレンディアを助け起こそうとして手を伸ばしたジャグは、一瞬不思議な幻影を見た。それが、この夢と関係があったのだろうか? 少女は歌い続け、ジャグは悩み続ける……。
それまで少女の夢を見なかった者たちも、ある時を境にして、同じ夢を見るようになっていた。
■Scene:多彩なこころ
セレンディアは、怖かった。怖かったから逃げ出してしまった。
メルダが惜しみなく与えてくれた場所、ガジェット家の一員という立場は、とても気持ちがよかった。メルダの子どもたちは遊びをいっぱい知っていたし、いろんな場所へ案内してくれた。たくさんは食べることができなかったけれど、ごはんもおいしかった。
でも、手をつなぐことはできなかった。
セレンディアは、ミゼルドを囲む丘へと足を踏み入れた。メルダに引き取られる前、気がつくと自分はここにいたのだ。覚えのある森の下生えの匂いは、少し彼女を落ち着かせた。朝になったら、いつものように小鳥たちがやってきて、水のある場所を教えてくれるだろう。それまではただひそやかに、木のうろに身体を折り曲げて、つかの間まどろむセレンディア。
……踊る、踊るよ、軽やかに、回る、回るよ、髑髏が踊る、荒れて廃れた荒野で踊る、風に舞い散る枯れ葉も踊る
……回る、回るよ、楽しげに、踊る、踊るよ、軽やかに、回る、回るよ、少女が踊る、華やかな薔薇の花びら舞い散る園で、それは、一夜の夢の様
……回れ、回れよ、歓呼の舞を、踊れ、踊れよ、全てを回せ……
森の木々が、彼女の安らかな呼吸にあわせて伸びをする。
もしかして、おとうさんとおかあさんも、私から逃げ出したの?
そんなこと、あるはずがない。きっと。
きっと。
彼らの声は、今はまだ切れ切れにしか届かない。
第3章本編へ続く

第3章|承前|言葉のない歌|忘れられた遺跡|高く、遠くへ|満月の夜|マスターより|