第3章|承前言葉のない歌忘れられた遺跡高く、遠くへ満月の夜マスターより

2.忘れられた遺跡


■Scene:下準備

 《精秘薬商会》にはすでに、地下迷宮発見の連絡が入っている。神殿にはセイエスが報告していた。
「地下迷宮……噂というか、伝説のようなものだと思っていた」
とイオは目を丸くした。ミゼルドの街が古代の遺跡の上に建てられているという話は有名だったが、迷宮のことはあまり知られていないらしい。
「スラムにはめったに近づかないものでね。そうか。それは事前に知らせることができなかった。すまないな」
「いえ、どうしてイオさんが謝るんですか」
 セイエスは両手を振って、恐縮しているイオに謝り返す。
「今、協力してくれるみなさんと一緒に準備をしています。何だかもう、知らないことばっかりで」
 旅人たちが持ち寄った道具のほとんどは、セイエスが初めて目にするものだった。
「地下に潜るのに準備がいるなんて、思いもしませんでした」
 イオは思わず笑った。
「あっ、イオさん!」
 カリーマ・ルアンが赤茶の三つ編みを揺らして駆けてきた。この人はいつも走っている印象があるな、とセイエスは思う。
「お願いがあるんですけれど、《愁いの砦》の聖印みたいなものがあれば、ひとつ貸してもらえませんか?」
 イオは近くの棚から、金の鍵の紋章のついたペンダントと、目を閉じた女神像の聖絵板を取り出し、カリーマに手渡した。
「お守りになるかもしれない」
「あは、あはは。ですね」
 実際はカリーマは、まったく逆のことを考えていた。
「遺跡にも《愁いの砦》の祠があったと言ったね。こちらでも、できるだけ調べてみた。確かにミゼルドでは、兄弟神の中でもとりわけ女神の人気が高い。他の兄弟の祠はどこにもないし、それに女神像も独特だ」
「かつては女神だけが国教だった、とかですかっ」
「その可能性もあると思っている。それと、これは参考になるか分からないが……」
 カリーマは差し出された包みを受け取った。
 焼けこげたようにただれた跡が残っている、煤けた紙が数枚入っていた。神経質そうな細かい字が、書き込まれている。カリーマにはよく分からない専門用語もたくさんあった。ひっくり返すと、裏にもびっしりと文字が連なっている。手紙か、あるいは草稿か。眺めているだけで、カリーマは頭痛がしてきた。
「祭壇の神像が動いていたと言う話を前にしたのだが……」
 セイエスがうなずいた。2ヶ月前に、賊が侵入した件だ。
「神像の下でこれを見つけた。ざっと目を通したが、実は内容については、よく分からない」
 イオの目が伏せられた。混乱の色。
「セイエス殿、読まれたら感想を聞かせてほしい。それから、くれぐれも気をつけて。無茶はしないように、頼む」

 冒険者ジャック・コーデュロイトは、朝から《ミゼルの目》に出向いていた。地下迷宮探索にあたり、評議会に報告と応援を頼もうと考えたのだった。
「……ええ、スラム地区にある地下迷宮の件で。どなたかに取り次ぎをお願いしたいのですが」
 ジャックの丁寧な依頼に応対した担当者は、しばらくお待ちくださいと言い残したっきり戻ってこない。いい加減ジャックのお腹が空いてきた頃、ようやく担当者が伝言を持って戻ってきた。
「遅くなってごめんなさい。これ、評議会長からです」
 悪趣味なハートマークの透かしが入った便せんに、殴り書きのようにのたうった文字。ジャックは眉をひそめる。自分の提案が評議会長のところにまで上がったのも驚きだった。それで返答が遅かったのだ。
「……スラム地区の治外法権について? これ、どういうことです?」
「それが会長のおっしゃるには、スラムについては手出し無用ということでして。当然地下迷宮についても、一切立ち入り禁止とおっしゃるばかりで……申し訳ございません」
「立ち入り禁止? 評議会は、影の対策を放棄するという意味ですか?」
 担当者は泣きそうになりながら、口元に人差し指をあてる。思わず声が大きくなっていたことに気づいたジャックは、はっとして声をひそめた。
「地下迷宮の危険性を、評議会はご存じなんですか」
「この件については、評議会を招集している時間がないのです。それに会長が立ち入り禁止の一点張りですので……でも、あれですよね? あなた方、黒い影を追いかけてるんですよね?」
 ジャックがうなずいたのを見ると、担当者はそっと耳打ちした。
「……会長はここ数日別件で大変お忙しいのです。ですから、今ならきっと」
 会長が気づかぬうちに、うまくやってくれ。担当者は言外にそう言っていた。
「そいつは助かりますが、そんなことしたら、あなたの立場は?」
 ジャックは少し後ろめたい気持ちで、眼鏡をかけた担当者の役人面を見つめた。
「実はうちの娘がとっても恐がりでしてね、毎晩おねしょしてるんですよ……」

「何、迷宮の地図がない?」
 ハルに詰め寄られた少年は、《精秘薬商会》のカウンターの中で震え上がった。ハルの太い腕が、今にも彼をつるし上げそうに思われたのである。
「……ないなら、しょうがない。邪魔したな」
 不気味な音を立てるドアをくぐり抜け、ハルは商会を後にした。踊り子リヴ=スプリングハートが小走りでついていく。
「えーっ、地図、バウトさんのところにも無かったの?」
 なぜか少しだけほっとしながら、リヴは残念そうな声をあげた。地下? 地下迷宮? 嘘でしょう、この、あたしが。冴えない、なんの取り柄もない、このあたしが! そんな性格じゃないもの。みんなみたいに、すぐに心を決めていざ、なんてできない。きっと足手まといにしかならないし、みんなを困らせちゃうかもしれない。
 だが。リヴにも、ささやかながら疑問があった。黒い影が、泣いていたこと。
 理由を知るためには、地下へ挑まなければならない。イオさんは喜んでくれるだろう。セイエスくんも、きっと。だってセイエスくんも、地下に行くんだもの。
 千々の物思いを小さな心に抱え、リヴはたくましいハルの背中をたのもしく見上げながら考える。もしかしてあたし、ちょっとだけ、変わったかしら?
 ……いや、違うわよね。単なるセイエスくんの迷惑な追っかけにすぎなかったり。
「バウトのところにないんじゃあ、他をあたっても望み薄だろうな」
 カリーマも、迷宮に入った人を探してみると意気込んでいたっけ。おそらく見つけだすのは難しいだろう。ついに千切れてしまった皮鎧を、この予算で新調できる店を探すくらいに。
「あたしたちもしかして、評議会に頼まれてもいないのに首つっこんじゃって、余計な迷惑大きなお世話、って感じなのかしら」
「小さな親切大きなお世話、だろ。どんなんだよ、まったく」
 呆れ口調のハルだが、リヴが顔を真っ赤にしたのを見て肩をすくめた。
「俺たちは別に評議会のためにやってるんじゃない。イオさんの考えに共感したから、セイエスを助けてやりたいから、手伝ってるんだろ」
「そ、そうよね! こそこそする必要なんてないのよね!」
 リヴの調子は、下がったり上がったり忙しい。

 一行は迷宮の入り口前で最後の確認を行っていた。
「カンテラ、ある。マッチ、ある。油紙につつんでおきな。白墨、ある。ロープ、ある。水、ある」
 メルダ・ガジェットとルドルフが、魔術師エルフィリア・レオニスと一緒に持ち物をチェックしている。セイエスはその様子を興味深そうにうなずきながら眺めている。もちろん、ルドルフはよだれを垂らしながらそれを見ているだけだ。手近な石に腰を下ろし、皮鎧をありあわせの道具で修繕しているハルは、どの道具をどんなときに使うのかセイエスに解説していた。
「お弁当、人数分……」
「ありま、せんわ」
 エルフィリアがため息をついた。大男の向こうに、食べ散らかされたパンくずだの林檎の芯だのが転がっている。メルダが朝から腕を振るったお弁当の、変わり果てた姿だった。
「そうかい、非常食ならまだあるからいいさ。カリーマが調達してきた分もあるし」
 メルダは何でもないことのようにエルフィリアの肩を叩いて、よっこいしょと立ち上がった。
「これもお願いします」
 カリーマが取り出したのは薄い皮布だった。靴の裏に貼れば、音を小さくできますから、と全員に配る。ルドルフが手足をばたつかせて嫌がったが、彼はいざとなれば野性の勘で行動できるから、ということで貼らなくてもよくなった。
「ここに住んで9年、特に事件も起きてはいないし、危険なモンスターが中にいるってことは考えにくいけれど、念には念を入れろだよ……ああ、ジャック」
 メルダが金髪の青年の姿を認め、手をあげる。愛用の篭手の、馴染んだ感触が、メルダを若かりし頃へと引き戻した。
「遅かったね。首尾の方は……聞かなくても分かるよ。評議会の奴ら、金にならないことには手を貸さないってんだろう」
「おっしゃるとおりでしたよ。大市で手一杯だって。冒険者の応援要請には、耳も貸してもらえなかった」
「しょうがないさ。大市じゃない時でも、何かにつけ忙しいっていってんだからねえ」
「大変なところに住んでいるんですね、メルダさんは」
「そうかい?」
 メルダはジャックに向き直ると、白い歯をにっと見せて笑った。
「《黒腕のメルダ》にゃ、これくらいがお似合いじゃないかって気がするね」

■Scene:地下

「いいかい、ルドルフ。この絵をよくみて覚えるんだ。これと似たものを見つけたら誰かに教えとくれ」
 メルダはルドルフの感覚を頼りにしていた。《愁いの砦》の祠を指差して、頼んだよ、と念を押す。その言葉が終わるか終わらないうちだった。ルドルフは闇に呼ばれたかのように、鼻をひくつかせ、空気の流れを聞き、ぶるぶると身を震わせて獣そのものと化した。傍らのメルダの声が遠くなっていく。理解ということを、ルドルフは忘れた。
「はぐれてしまわない?」
 ひとりで地下へ降りていってしまったルドルフを心配するカリーマに、
「大丈夫さ、きっと」
 なぜか、答えたのはハルだった。

 一行は上手く隊列を整えた。メルダはカンテラを持って先頭に立った。ジャックがしんがりで気を配る。セイエスとリヴは真ん中。ハル、エルフィリア、カリーマの3人がその周囲を固めた。
「セイエス、やってみるか」
 ハルが差し出したのは方眼紙だ。
「地図だよ。迷うといけないから、通った道をこうやって描いていってくれ」
「……僕たち、迷ってしまうんですか?」
「地下迷宮だって、言ったろ」
 ハルは肩をすくめた。もちろんセイエスは、地下探検などしたことがないのだろう。子どものときからあちこち冒険に連れ出されていた自分とは、育ちが違う。だがいい機会だ、とハルは考えていた。彼は、セイエスがいろいろなものに向ける好奇心を見て取っていた。
「俺はいざというときのために、動けるようにしておきたいんでね。頼むぞ」
「は、はい!」
「手元ばっかり見て転ばないようにな」
 慣れた冒険者たちからあれこれ助言されながら、セイエスはリヴとふたりがかりで、最初の見取り図をどうにか描きあげる。
 先を進んでいるはずのルドルフは、物音ひとつたてない。

 石の階段を数十段下りた先は、同じように規則正しい石組みの広間だった。スラムの上に輝く太陽が、数箇所光の筋となって漏れている。だが、まだまだ道は奥へと伸びていた。
「いつ頃できたものかしら」
 エルフィリアはそっと石壁に触れた。光の筋があたった部分の温もりが、逆に影に飲み込まれたときの冷たさを思い起こさせた。暗いところは好きではないが、この場に限って言えば、静謐な時の流れがエルフィリアの恐怖心を押し流してくれるように感じられた。
「おそらく千年か、あるいはそれ以上?」
「……神話時代ですね」
 セイエスが顔をあげる。その頃の《大陸》にはまだ、偉大なる神々の力が満ちていた。《黄金の魔女》と兄弟神の戦いを最後に、神話時代は終わる。魔女を滅ぼした兄弟神もまた、力尽き御名を奪われ封印されたのだ。
「神々の時代の遺跡か」
 感慨深げに、ジャックが頭上を見上げた。蒼穹の代わりに広がっているのは、装飾を施された丸天井だ。
「明らかに、人の手が加わってる。しかもこれだけ広いのに支柱がない。高度な技術だ」
「ここは本当に牢獄だったのでしょうか。こんなに立派な牢獄なんて、おかしくありません?」
「エルフィ、うかつに触ると危ないよ」
「あら……そうでしたわ」
 エルフィリアはすぐに手をひっこめた。一瞬おいて、ここは暗く危険な場所だったと思い出す。
 メルダはランタンを掲げて広間をひとめぐりしてみた。四方に通路が伸びている。
「広そうだねえ。牢獄だったのはごく一部なんだろうね」
 白墨で印をつけながら、通路を選んで一行を先導するメルダ。進んでいくごとに、リヴの歩みが遅くなってくる。しんがりのジャックと並ぶくらいになるといつも、ハルが手を伸ばして無理矢理踊り子を真ん中に連れ戻した。
「真ん中が一番安全なんだぞ」
「えぇっ! そ、そうなの? あたしまたてっきり……」
 リヴは今にも泡を吹きそうだ。ハルはやれやれ、と彼女をにらむ。
「後から襲われたらどうする気だったんだよ」
「ひぇ、か、勘弁! ホント、どうしようもないから」
「俺が守ってるけどね」
 くすりと、ジャックが笑う。

「影だ!」
 黒い波紋が床のあちこちに広がった。するすると波紋の中から、影が人の形を取って生まれ出る。光の届かない迷宮の中で、それらの色はなお黒かった。
「待って、話を聞くわ」
 カリーマはイオにもらったペンダントを握り締めながら、両手を広げて叫ぶ。一体がするりとカリーマの身体をすり抜けた。途端、氷の海に沈んだように、全身が冷え切った。
『オオオオ……』
 影は泣いていた。安らかな眠り。我らに救いを。繰り返されるそれらの語句は、悲しい祈りのようだった。カリーマも引きずられそうになる。ペンダントを握る手に力を込める。
『砦なき、我らに救いを……』
「あ!」
 イオのペンダントは静かに砕けた。カリーマは目を見開いたまま、立ちすくむ。
「あ、あなたたち、誰なのっ!」
 リヴががくがく震えながらも叫んだ。
「こ、こわくなんか、ないわよ! 来るなら来て見なさいよ……キャ〜ッ」
 もう一体の影がリヴを包み、彼女にも影の意識が流れ込む。冷ややかな身体は、まるで自分のものではないみたいだった。
『我らは、入砦を許されなかった。我らの砦は、大いなる砦により隠されてしまった』
 冷たく、寒い吐息。
「我らってことは……あなたたち、仲間が、いっぱいいるってこと……? 名前とか、ないの? あのね、あたしはリヴ……」
『我ら皆、《茨の民》……』
 もうだめ、限界。感覚がなくなってきた。リヴが泣きそうになった寸前で、影は彼女を解放した。
「こっちよ、おいでなさい。私たちを連れて行って。あなたたちの知る場所へ」
 エルフィリアが再び影をその身に宿す。
「そう。あなたたちの眠りを妨げる相手のことを教えてほしいの。何か力になってあげられるわ」
 か細い声が、影を諭す。
 やがてエルフィリアの身体は、影によって迷宮の奥へと運ばれていく。歩く速さでいくつかの角を曲がり、十字路を過ぎたところで、少女は解放された。案内はここまでのようだ。半信半疑でついてきた一行も、奥からかすかに風が吹き込んできたことに気づいた。
 影はもう散ってしまっていた。エルフィリアが顔をあげる。そこにも、小さな祠があった。

 通路が少し下り坂になった。やがてそれは階段に変わる。外界の光も、ここまでは届かない。ランタンの明かりに照らされるのは、闇ばかりだ。そしてしんしんと広がる、静寂。
 階段の幅は、4人が並んで歩けるくらいに狭まった。ランタンを向けると、両側の壁には等間隔に、同じ格好をした立像が並んでいる。賊の待ち伏せに見えて最初は驚いたが、それらは一向に動く気配を見せなかった。それらはただ直立し、同じ顔で彼らを見下ろしているのだった。
「なんの像だろう」
 メルダのささやきは、すぐに闇に拡散して消えた。
「《愁いの砦》に関係のあるものなの?」
 金の鍵の意匠は見当たらなかった。
「違う……と思います。この像の服は、ミゼルド神殿の礼拝服と似ていますが……」
 セイエスも首を振った。
「この遺跡自体、女神と関係があったに違いないと思うわ」とカリーマ。
「地上の廃墟に女神の祠があったのに、地下にはないなんておかしいもの。それに影は、女神の祠から沸いて出てきてた。あれも多かれ少なかれ、女神に関係ある存在だと思う」
「お、おかしいわよ。女神さま関係の人が、ど、どーして影なんてやってるの? 人を救う人が、怖がらせて、どうするのよ。それに泣いてたし」
「んーと、例えば」
 ごつい手甲をはめた指をかわいらしくあごにそえながら、カリーマは説明する。
「関係っていっても、いろいろでしょ? 女神とかその信者、神殿に恨みがあるとか……」
 セイエスが泣きそうな顔をしている。カリーマは気づかなかったふりをした。
「あの影が女神と関係あるってのには、賛成したいね」とメルダがうなずいた。
「でも今はまだ、はっきりとは分からない。とにかく進もう。結論は、先にあるものを見てからだよ」

■Scene:地下第2層

 一行に先んじて立像の階段を下りていったルドルフは、小さな変化を感じて立ち止まった。よどんだ空気が動いている。見開いた目も、闇は見通せない。ましてや黒い影は。だが鼻腔をつく臭いは、かつて覚えた影のそれとは異なっていた。ねめつく気配が、ルドルフの体毛を逆立たせた。うごめく何かが潜んでいる。
 何だ、ここは。ルドルフは一瞬足を止め、すぐにその中へと突っ込んでいった。
「うおおあああがあああああ!」

 ルドルフの雄叫びは、離れている仲間たちにも即座に伝わった。急いで階段を駆け下りた彼らもまた、むせかえる臭いに顔をひきつらせた。カンテラが照らし出したその部屋は、先の広間よりももっと大きかった。その真ん中で、ルドルフは何十もの生ける屍と戦っていた。腕を振り上げ、腐肉をかみちぎり、どす黒い液体を浴びながら。
「ぎぃやぁぁぁぁぁっ!!」
 リヴが絶叫した。部屋に転がる屍が、いっせいにこちらを振り向いた。その途端、すべての荷物を脱いで戦士たちが躍り出た。
 ハルが大斧を振り回し、ルドルフに組み付いている屍を蹴散らした。しなやかな猫のようにカリーマが後ろにつき、彼の背中を守る。ごふっとルドルフが肉の切れ端を吐き捨て、立ち上がるなり手近な屍を数体、遠くへぶん投げた。
「死体……動いてる……」
 腰が抜けたリヴがその場に座り込む。乱戦で射れないジャックがカンテラを拾い、リヴを部屋の隅までひきずりながら、醜悪な戦いの様子を照らした。数でこそ負けている人間たちだが、メルダも参戦して圧倒的に敵を押している。一度倒してしまえば起きあがってこないらしく、すぐに屍たちは文字通り屍の山に戻ってしまった。仲間の怪我は、ルドルフがひっかき傷をつくったくらいで済んだ。
「あ」
 エルフィリアが小さく声を漏らし、みんなの視線を集める。両手でうち消すようにエルフィリアは続けた。
「影の時のように、話しかけてみればよかったって、ちょっと思っただけです」
「無理です、無理無理っ」
 額の汗をぬぐいながら、カリーマがふるふるとかぶりを振った。
「あの人たち死んでるんだもの。意識ないんだもの」
 蹴っても殴っても痛み一つ浮かべない相手とは、やりにくいものだ。今更ながら格闘家の少女は実感していた。感情の抜け殻が、こんなに悲しいものなんて。
「残念です。話せるものなら話を聞いてみたかったのに」
「うん、あたしもちょっとは考えたんだけどね」

 その広間は円形で、通路が数本放射状に伸びていたが、ほとんどががれきで埋まってしまっていた。
「地図、描けました」
 セイエスがよたった線の見取り図を差し出す。
「ん? これって、ミゼルドの中央広場に似てると思いませんか」
 カリーマが指を差す。ここが大通りで、こっちに神殿、こっちに評議所が。
「街の真下だったのか」
 ハルがうなった。
「地上に洩れてきたのが影だけでよかった。動く死体の方が這い出てきてみろ、大騒ぎだ」
「大騒ぎどころじゃないよ。だいたいどうしてこんな場所に、動く死体なんて連中がこんなにいるのかね」
 メルダが鼻を鳴らす。
「不吉な感じがします」
 エルフィリアが両手を握り締めた。広間が大きすぎて、ランタンの光だけではすべてを照らしきれない。壁は黒く塗り込められたように見える。この広間だけは、床が土肌だった。おぞましい腐肉の死体がそこここに転がっている。それが流す黒い液体はしぶきとなって、胸の悪くなるような模様を床に描いていた。
「あの通路だけは、まだ続いている」と、ジャックが報告した。
「風が吹いているみたいだから。でも通路は細そうだ。少しも見えない」
「他にも出口があるのね。行きましょう、ほらリヴ」
 カリーマが腰を抜かしたままのリヴに手を差し伸べた。

「祠だ!」
 唯一先へ続く通路の上に、地上で見たと同じ祠を一行は見つけた。やはりこの奥が怪しい、と話す一行を、セイエスが引き止めた。
「この祠は、《愁いの砦》のものではありません」
 扉には金の鍵の代わりに、別の紋章が描かれていた。
「花びらがいっぱいあるように見えます。薔薇……かしら?」
 エルフィリアは夢の少女の手にしていた薔薇を思い出した。そういえば影に案内してもらった時に見つけた祠にも、鍵ではなくこんな花が描かれていた。
「あの神像、か」とハルが呟く。
「《茨の民》……誰? って聞いたら、あの影、そう答えてたわ」
 リヴが青白い顔で言う。
「黒幕がいるんなら、とっとと出てきてほしいもんだね」
 メルダが首や肩をぐるぐる回しながら言った。
「そいつがミゼルドをどうするつもりなのか、知らないけどさ」

■Scene:地下第3層

 通路は狭く、闇に包まれていた。急な下り坂が続き、一行はニ列になってそこを通る。天井もこれまでのルートに比べて低く、ルドルフは苦労して歩く羽目になった。
「扉があるよ」
 ランタンの光に、その扉は黒々とした重厚な姿を見せた。通路の幅一杯の両開き。不思議な光沢のある石で出来ている。そして白い石を薔薇の形にくりぬいて、モザイクのようにはめこんであった。扉にはルドルフの腕ほどもある閂がかけられ、その上から細い鎖で閂を固定してあった。その鎖も、扉と同じ素材でつくられていると見える。
「影が見せたかったのはここなのかしら」
「あの影……救いとだけ言われてもな。具体的に言ってもらわないと」
 ハルは不満げに洩らした。女の子たちが聞き出した影の話は、彼にはあまりに抽象的すぎた。考えるより身体を動かすほうが得意なハルは、真相の推測などするつもりはなかった。

 考えがまとまるのには時間がかかったが、結局彼らはその扉を開けて見みることに決めた。
 なぜか、向こう側から吹いてくる風を感じたのだ。腐臭ではなく、爽やかな風を。
「だめだ。開かない」
 出番だとばかりにハルが力を込めたのだが、その鎖はびくともしなかった。ルドルフを加勢させても変わらない。
「なぜ? あたしたちは招かれてないの? 《茨の民》じゃないから?」
「お待ち。何か文字が浮き出てきたよ」
「僕、読めます。これは古代神聖語のようですから」
 セイエスが前に進み出た。ハルとルドルフが場所を譲る。
「……《風霜の茨》ここに眠る。すべての民の苦痛を静め、救いを示すために……」
「お墓かい? そりゃ開けちまうのは気が引けるね」
「眠りを妨げられたのは、この人なのかなあ」
 カリーマが腕を組み、首をひねった。
「風が吹いてくるのは間違いない。どこか他の場所からなら入れるのかもしれない」
「ここの上も、ミゼルドのどこか?」
 セイエスは地図をあれこれひっくり返して答えた。
「ええっと、ミゼルド神殿みたいです」

第4章へ続く


第3章|承前言葉のない歌忘れられた遺跡高く、遠くへ満月の夜マスターより