第3章|承前言葉のない歌忘れられた遺跡高く、遠くへ満月の夜マスターより

1.言葉のない歌

■Scene:おかえりなさい

 ……おかえりなさい。
 ……私はオールフィシス。ここの園丁です。

 ニクス・フローレンスとアルティトは、オールフィシスに招かれるまま、廃園にとどまっていた。もちろんこの状況を受け入れるにあたって、多少の葛藤はあったのだが。
 ……ただいま。
「ちょっと」
 アルティトは、呆けた表情のニクスを小突く。
「何、気の抜けた顔になってんの? 鼻の下伸ばしてないでよ」
「ああ……」
 魔道剣士は我に返った。古びた石のテーブルの上で、ほかほかと湯気をたてている珈琲が目に入る。その向こうに、二人の様子を微笑みながら眺めている、オールフィシスがいる。
「お砂糖は?」
 アルティトが砂糖壷を回す。
「ニクスさんは、お砂糖入れないんでしょう」
 ニクスが口を開く前に、オールフィシスが答えた。ニクスはのろのろと顔をあげ、オールフィシスを見、うなずいた。
「だが、どうしてそれを」
 5年前から、彼は砂糖を入れるのをやめた。自分の為に珈琲を淹れてくれた女性が、帰らぬ人となったときから。過去を振り返るのは嫌いだった。失われた時が戻るわけではないし、自分は今を生きている。
 おかえりなさい。久しく耳にしていなかったその一言は、何よりもニクスに沁みた。
 オールフィシスは、黙って自分のカップをかき混ぜている。
「オールフィシスって、魔法使い?」
 アルティトが不思議そうに呟いた。
「こんなところに、ひとりで住んでるの? それとも夜だけ現れる妖精か何か? 何だっていいけど、どうして私たちを呼んだの?」
 細い足をぷらぷらさせながら、お砂糖をたっぷり入れた珈琲片手に問うアルティト。
「その、どれでもありません」
 オールフィシスの声は優しい。彼らの予想が外れたことを、申し訳なく思っているような口調だった。
「じゃあ、なぜ」
 初対面の俺たちにおかえりなんて言ったんだ。ニクスは疑惑のまなざしを投げかける。胡散臭い。信じられない。心のどこかが、警鐘を鳴らしている。彼女は自分たちに自己紹介をした。ということは、自分たちが初対面だということを、彼女は知っていたことになる。
 頓着なくごちそうになっているアルティトとは反対に、珈琲には手をつけかねて、ニクスはあたりを見回した。
 きちんと整頓された食器棚。そろいの白い食器。同じカップ。たくさんのスプーンとフォーク。
「では、なぜ……」
 オールフィシスは、優しく繰り返す。
「あなたたちは、ここまでいらしたのですか?」
「薔薇の花びらを辿ってきたの。女の子のことが、気になったから」
 そういえば、薔薇の花はこの居心地のよさそうな部屋には見当たらない。テーブルの上にもどこにも、花瓶すらない。ニクスはすっと目を細めた。どうする? 街へ戻って、《精秘薬商会》へ報告しておこうか。
「女の子」
 オールフィシスが繰り返した。
 催眠術師にはよくある手口だ、とニクスは思う。そんな手妻にはひっかからない。アルティトにはそのつもりはないだろうが、会話を続けてくれればそれだけ、この女性の意図は見破りやすくなる。
「みんな夢を見ているの。薔薇を差し出す女の子が出てくる。それで、ついにその子を見たって神官さんも出てきたくらい。その子はこうやって、歌っているの」
 アルティトは立ち上がり、両手を広げた。彼女の胸で、エメラルドのペンダントが揺れる。アルティトはそのメロディを、完全に再現して見せた。高く、低く、高く、もっと高く。歌唱術士を名乗るアルティトには、たやすいことだった。

 がたん。
 どこか奥の方で、物音がした。アルティトが口を閉ざし、ニクスは反射的に彼女をかばうように前に出た。
「心配なさらないでください」
 オールフィシスは静かに立ち上がった。
「ちょっと驚いただけですから。アルティトさんの歌が、あまりにも上手すぎて。ですからニクスさん、それを……」
 彼女の視線は、ニクスが左手で構えた曲剣に向けられていた。
「手荒な真似はしたくない。でも、あなたは何かを隠してる」
「ごめんなさい。みなさんが揃ってからのほうがいいかと思って」
「みなさんって?」
 オールフィシスはアルティトの問いには答えず、
「ですから、戻って報告には及びません、ニクスさん」
 オールフィシスがこの場の主導を握ってしまっていることを、危ぶみながらニクスは手を下ろした。
「いいじゃない、この人悪い人じゃないよきっと」
 アルティトはあっさりとオールフィシスの側に着いた。面白そうなものにつく、それが彼女の考え方だ。

 暖炉には赤々と火が燃えている。外から煙突は見えなかったな、などと考えながら、ニクスはぼんやりとまどろむような時間を過ごしていた。アルティトの言葉には何の根拠もなかったが、ニクスの警戒心も、どうやらほぐれつつあるようだ。
 家族のふりも、悪くない。朝になれば魔法はとけてしまうのだろうか。この女性の見せた、一夜の幻となってしまうのだろうか。

 だが緩慢な朝日が新しい日の始まりを告げても、女性は消え失せはしなかった。ニクスは一度《商会》に伝言を残し、彼女の目的を見極めるために再び廃園を訪れた。

■Scene:神殿

 神殿の床を、顔が映るくらいミルクでごしごし磨きたてながら、エレインはひたすら少女人形について考えていた。というよりも正しくは、烈火のごとく怒りながら、考えをまとめていた。
 ……あの少女人形はあたし達の夢に出てきた女の子、そのものズバリなんじゃないかって思ってた。魔法で夜だけしか本当の姿に戻れないお姫さまのお話みたいに。でも、そうじゃないみたい。じゃあ、あたしに一体何ができるだろう。
 分かってる、この衝動は、焦りと怒りなんだってこと。
「おはようございます〜」
 アルフェス・クロイツハールが、使い魔たちを連れてやってくる。
「お人形さんの様子は、どうですか?」
「あっそこ! 踏まないで、今磨いたばっかりなんだから」
 エレインの怒声に、あわててアルフェスはいたずらものの小猿を抱き上げ、部屋の隅へと避難する。
「あの子なら、何を聞いても歌ってばっかりよ。意味不明もいいところだわ」
 真っ黒になった雑巾を慣れた手つきでしぼるエレイン。
「そうですか」
 翻訳用の札術をどなたかから習っておけばよかったです、とアルフェスはため息をついた。
「今日は何とかして、お人形さんとお話してみようと思ったんですが」
 話しかけると唇が動いていたということは、こちらの話は、ある程度聞こえているはずなのだ。人形の言葉さえ分かれば。
「もっといい方法があるわ」
 部屋中の床を磨き終えたエレインが立ち上がり、振り向いた。
「いい方法、ですか?」
「あの子が話が出来ない以上、この子を作った人を見つけ出すの。そして洗いざらい聞き出すのよ。それしかないわ」
「はうぅ……また《ハルハ旅団》に行くんですか?」
 人形を返さないと、サーカスの人は心配するだろう。目玉の歌姫は当分休演らしいが、それが自分たちの責任なのは明らかだ。今更のこのこ出向いても、果たして許してもらえるのだろうか。
「違うわ。誰かがあの子をサーカスに売り飛ばしたのよ、きっと。サーカスもサーカスよ、いくら人形だからって、動けなくなるまでこき使う事なんか無いじゃない! 稼ぎ頭なら、稼ぎ頭に対するように、仕事が終ったらゆっくり休ませてやるのが筋じゃないの」
 こういうのが、一番腹が立つわ。だって……似ているから。
 エレインの激昂に、アルフェスはたじろいだ。どちらかといえばのほほんとしているアルフェスとは対照的に、エレインは時折激しい気性をあらわにする。怖くはないが、アルフェスはそれに引きずられがちだ。エレインが雑巾とバケツを片づけるのを手伝いながら、そんなことをアルフェスは考える。
「あの時は、鍛冶屋さんがうまいこと助けてくれましたけど……」
 アルフェスの言葉に、エレインは握りしめていた拳の力を抜いた。
「そうね、イリスさんのおかげだったわ」
 あんな状況で、あたしを信じて、助けてくれた。作戦が成功したのは、イリスさんがいたからだったわ。アルフェスの言うとおり、泥棒だって突き出されてもおかしくなかったのに。自分のことを君づけで呼んだハスキーな声を思い出し、エレインはいつか彼に御礼をしなくてはと心に決めた。
「……それでエレインさん、お人形さんを作った人に心当たりはあるんですか?」
「ないことも、ないわ」
 エレインは勝ち誇ったように微笑んで言った。
「廃園の話、知ってる?」

■Scene:《精秘薬商会》

「えっ、バウトさんいないの?」
 ブリジット・チャロナーとジャグ・ウィッチは、お手伝いから話を聞いて顔を見合わせた。
「何でこの大事な時にいないんだ、店主のくせに」
「ははーん、やっぱり何か隠してたのね」
「廃園の話といなくなったバウト、関係ありそうだな」
「その方が面白いと思わない? どっちにしても、きっと、そこが《ミゼルの庭》ね」
 やる気満々のブリジットは、嬉々としてお店を広げ、仕事道具の準備にとりかかった。きちんと巻き取られたロープ、使い込まれたナイフ、小弓。その様子を眺めていたジャグの目に、またも彼女の眩しい谷間が映る。とっさに自分の仕事道具を取り出し、ブリジットと同じように荷物をまとめ始めたのは、ジャグの動揺のあらわれでもあった。
「何、つきあってくれるの?」
「白薔薇の庭なんだろ」
 ブリジットと目を合わせず、ジャグはぼそりと呟く。
「ああ、そうね。夢の中の少女とも、つながりそうよね!」
 彼女はジャグの頬の紋章にウインクし、よく回る口で、精油の謎とロマンの関係についてまくしたてた。
「廃園が《ミゼルの庭》だとして、もしもバウトさんがそこに出かけてるなら、ロマンチックじゃない? その女性、オールフィシスさんが夢の少女だったら、バウトさんは夢の少女について知ってたってことになるわね。ああ、もちろんこれは、オールフィシスさんとバウトさんが知り合いだったら、って話になっちゃうけど。一体二人の間に何があったのかしら? 聞いてみてもいいかなあ。ここは聞くべきよね、きゃっ!」
「……よくそれだけ思いつくな」
 呆れ口調のジャグだ。
「トレジャーハンターの仕事に必要なのは、想像力だって話、酒場でしなかったっけ」
「聞いた覚えはないぞ」
 どこの酒場か知らないが、とジャグはこっそり付け加える。
「あっそう。じゃあ今度じっくり説明してあげるね!」
 よいしょ、とブリジットは荷物を担いだ。たわわな胸がまた揺れて、ジャグはまた目をそらした。
「あ」
「今度は何だ?」
 ふと立ち止まったブリジットの心に浮かんだ考えは、すぐまた沈んでしまった。
「……ん、何でもない。行きましょ」
 丘向こうの廃園まで行くんだから、女の子らしくお弁当くらいつくってあげたらよかったかな?
 ま、いっか。

■Scene:街角

 アルフェスとエレインは、連れだって大市の出店を見て回っていた。少女人形を連れて廃園まで行くのに、ちょっとした変装をしよう、と言ったのはエレインだった。目当ての品を置いてある店はすぐに見つかった。簡単な小屋の周囲を巡らせるようにして、色とりどりに染め抜かれた衣装がつるされている。アルフェスの目には、その色彩は奇異に映った。
「あたしの育った砂漠の町では、女は目だけ出して、顔を隠すのよ」
 こんなふうに、とエレインはその長々しい衣装をたやすく着て見せた。
「アルフェスみたいに膝を出すなんてもっての他なんだから」
「ほむむ……これならうまくいきそうですね」
 アルフェスも大市の人混みの中で、こんな衣装を着た旅人たちを見たことがあった。すっぽりと身体を覆ってしまうので、知らない者には男女の区別すらつけがたい。
「あたしは男性用を着るわ。それであの子に女性用のを着させれば、どこから見ても砂漠から来た若夫婦よ」
 エレインは、同じサイズで男性用の衣装も手に入れる。ついでにアルフェスの分も見立ててやった。
「これが……こうで……?? はにゃー」
「この端を持つの。そして肩からかけて、こうして」
「何か不思議な香りがします〜」
「香がたきしめてあるのよ。あら、あんたたちのお気には召さないの?」
 アルフェスの連れた動物たちが、鼻をひくつかせ奇妙な顔をしているのを見て、エレインは笑った。
「ふわあ、ようやく着れました。エレインさん格好いいですねぇ」
「着慣れてるだけよ」
 派手な色彩のターバンをきつく巻き、金色の巻き毛をすっかり隠すと、きりりとした眉があらわになる。飾り帯にナイフを差したエレインを見て、アルフェスがぱちぱちと手をたたいた。 
「さあ、今度はこの服をあの子に着せて、さっさと出かけま」
 アルフェスがエレインの袖を引っ張った。彼女は口をつぐみ、振り返る。ちょうどハルハ・シーケンスが通り過ぎていくところだった。舞台衣装の白い礼服ではなく、全身をすっぽりマントで覆っていたが、あの赤毛は間違いなさそうだ。
「どこにいくんでしょう?」
「……さあね。バレなくてよかったわ。でも他の団員も、街に来ているかもしれないわね。気をつけなくちゃ」
 隠れていたら、ますます謝りにくくなるのになあ、とアルフェスは思いながらもエレインにつき従う。砂漠の殿方とともに遙か旅をしてきた、異国の婦人の気持ちは、まだ分からない。

■Scene:森

 ブリジットもジャグも、フィールドワークはお手の物だ。傍目には道なき道と見える場所であっても、彼らにははっきりと石畳が続いているのと同じである。
「ミゼルドの人々は、この辺までは来ないんだろうな」
 あたりに注意を払っていたジャグは、雲雀が数羽飛び立ったのを見上げて言った。
「狩りの対象になりそうな動物も、あまりいない」
「人間の生活圏にかなり近いものね」
 ジャグの知る、危険な魔物のたぐいもいなさそうだ。その種の障害を想定していたジャグは、少し安心した。トレジャーハンターの盾となり、お星様になるのはまだ先になりそうである。
 茂みは次第に高くなり、ともすれば道を失いがちになる。そういう時はジャグが先頭に立つと、すんなりと先へ進めるようになった。
 罠師がふと足を止めたのを見て、ブリジットは彼の視線を追った。木にうろがある。
「木苺のつる、なんでこんなところに」
 ジャグはそれを拾い上げた。森では珍しくもない自生の木苺だが、ここまで来る間には目にしていない。
「動物はいなくても、妖精ぐらいはいるかもね」
「……謎とロマン、ね」
 そんなやりとりをしながら、二人は丘の上の廃園を目指した。

「薔薇園……こんなに広いなんて」
 ブリジットが想像していたよりも、その森に囲まれた薔薇園は広かった。
「ここは」
 ジャグがあたりを見回した。今にも黒髪に白薔薇をさした少女が、彼の周りをくるくると楽しげに踊りそうな錯覚。
「見たことある景色?」
「よく似ているような気がする……」
「立派な庭だったのね、きっと。あっちに少しだけ咲いてるけれど」
 すぐにブリジットは、廃園の奥に佇む廃墟に気が付いた。外からではまるで、人の住んでいる気配はない。薔薇園の広さに対してその廃墟はあまり大きくはないから、見取り図は簡単に書けそうだった。
「ねえ、一回りしてみてもいい?」
 ジャグに否やはない。ブリジットが興味を示すままに、彼女の後をついていく。
「もしあたしの想像が正しければ、この廃墟はミゼルドの街の一部に違いないわ。ハルたちが調べに行っている、スラムの地下迷宮。あれと同じ」
「ミゼルドの街は、古代遺跡の上に建ってるって言っていたな」
 ブリジットはそっと手を廃墟の壁にすべらせる。
「カラーラの大理石によく似てる。千年以上前のものかも」
「そんな古い建造物見たことないぞ。千年前っつったら、神話時代じゃないのか」
「ね、ロマンでしょう?」
 言いながら、彼女の手は素早く外観をスケッチしていた。
「よし、突撃インタビューよ」

■Scene:魔法

 セレンディアは小鳥の導きに従って、丘の上へと向かっていた。不意に視界が開け、こんもりと木々に覆われた廃園が見えてきた。水と隠れ場所を探していることを伝えると、小さな友人たちがここへと案内してくれたのだ。朝食は、彼らがどこからか調達してくれた木苺3粒だ。
 セレンディアも、その夜夢を見ていた。あるいは、夢の方がセレンディアを呼んだのかもしれない。人の夢に触れることはあっても、彼女は夢を操れるわけではない。ここではない時間の断片が、時たまセレンディアの夢に、あるいはセレンディアをめぐる人の夢に、紛れ込むのはよくあることだった。夢の中で、セレンディアはメルダに会っていた。森の奥、古びた石の遺跡には白い薔薇が咲き乱れていた。そこにはメルダが立っていて、セレンディアにおかえりと言うのだ。
 それが夢に過ぎなかったことを、セレンディアは理解しつつあった。
 だから、この森にいるのはメルダじゃない。
 でも鳥たちが教えてくれたのだから、危険じゃない。
 小さくこくりとセレンディアはうなずいた。ちょっとした探検。ミゼルドの街で、シグやアイビーとやったみたいな。セレンディアは、廃園へと足を踏み入れる。

 咲き誇る、薔薇、薔薇、薔薇。むせかえるような芳香に包まれて、赤い瞳を見開いたまた、しばしセレンディアは立ちつくした。きちんと手入れの行き届いた薔薇園が広がっている。見渡す限り、すべてが白薔薇だ。視界の隅に動いたものがある。顔を向けると、それは音もなく隠れてしまった。白い、スカートの裾。
 どこからか、美しい歌声が聞こえてくる。それはとても楽しげな歌声だった。この世の喜びについて、セレンディアのまだ知らないことまでも想起させるような歌声だった。 
 どこにいるのだろう、誰だろう。
 セレンディアがまた振り返る。また視界の隅に、白いスカートが翻る。気づけば、薔薇園のあちこちで、同じ年頃の少女たちが、そっと姿を隠しては、興味深そうにセレンディアのことを眺めている。
 歌っているのはこの子たちだった。
 セレンディアが駆け寄ると、ひとりだけは隠れずに、にこにこと手を伸ばした。セレンディアはためらわずその手を握った。

 暗転。恐怖。悲しみ。悲しみ。悲しみ。

「!!」
 それらのすべてが、幻にすぎないと気づくまで、今度は時間がかかった。あまりにも生々しく、苦しい庭園の記憶……そうだ、これらはこの庭園の見ている夢。

 セレンディアの双眸から、とめどなく涙が流れ落ちる。美しく咲き誇っていた薔薇たちは、実際には廃墟の周囲に数輪を残すのみ。生き生きと見えた緑の葉も、ほとんどが枯れ果て、哀れに姿をさらすままになっていた。足元の石畳を辿るようにして、セレンディアはその先の戸口を目指した。ふさがれていない井戸がある。誰かが、ここに住んでいる。この夢のことを知る誰か。メルダではない人が。

「おかえりなさい、セレンディア」
 眠っていた何かが、目を覚ましたのがセレンディアには分かった。
 思わず一歩、後ずさる。怖くはない、痛いくらいの悲しみが、全身に絡みついている。
「まあ、薔薇が……」
 まだ固いつぼみだった薔薇が3輪、いっせいに開いていく。
「なんてことでしょう……セレンディア、あなたの、力なの?」
 セレンディアはがくがくと身体を震わせ、ただオールフィシスを見上げている。
 どこからか、歌声が聞こえてきた。
 ……私は、お祈りしただけ。この庭園が、元の姿を取り戻すように。誰かの喜びとなっていた時のように。

■Scene:廃園

 オールフィシスに連れられて、おずおずとセレンディアが入った部屋には、ニクスとアルティトがいた。あたたかいミルクが彼女に差し出され、セレンディアは両手でそれを受け取った。他の人から少しだけ離れたところに、彼女は座った。
「まだかしら。一体いつまで待たせる気?」
 アルティトは「全員そろう」のを待ちくたびれ、一度などは昼寝したりしていたのだが、目が覚めてもまだその時ではなかったので、機嫌が悪かった。
「結局、大事なところはまだ何も聞けていない。彼女、まだ誰かを待っているみたいなんだが」
と、ため息をつくニクス。
 アルティトはその後たいして待たずにすんだ。すぐに彼らがやって来たからである。
 戸口のあたりで、オールフィシスが誰かと話している声が聞こえる。アルティトは、オールフィシスの背中越しに新しい旅人の姿をのぞいてみた。

「おかえりなさい、ブリジットにジャグ。そしてようこそ、《ミゼルの庭》へ。私は園丁オールフィシスです。おかえりなさい、エレイン、アルフェ……」
 オールフィシスの言葉が終わらぬうちに、エレインは極彩色の衣装を翻し、少女人形をひきずるようにして彼女の前に立ちはだかった。
「エレインさん!」
 アルフェスが悲鳴に似た声をあげる。隣にいたブリジットとジャグは、何事かと身を固くした。遺跡をひとめぐりして、さて中へ入ろうかとブリジットたちが戻ってきたところへ、ちょうどこの二人が少女人形を連れて辿り着いたのだ。
「おい!」
 エレインと呼ばれた少女の肩を、ジャグがつかむ。この子が何をするつもりなのか知らないが、未知の相手に突っ込んでいくのは得策ではないように、ジャグには思えた。それに、オールフィシスと名乗る女性は、どこか夢の少女と同じ雰囲気をたたえていた。
「あんたがこの子の母親? 見覚えがないとは言わせないわ。どうなの!」
 少女人形のベールがするりと落ちる。ジャグはその顔を見て声をあげた。
「あ……! そ、その子は、俺の夢の……!」
 エレインはジャグをちらりと一瞥すると、ひたとオールフィシスを見あげた。人形は人質のつもりだった。エレインに後ろ手でひねりあげられていても、少女人形はうめきもしない。ただ、その瞳を見開いて、オールフィシスを見つめている。物言いた気に開かれた唇は、けれど空気が漏れたような音をたてるばかりだ。
「この子はサーカスにいたの。大道具と一緒に、無造作に転がされてね。あたしたちが知りたいのは、この子があんたとどういう関係なのか。そしてあんたは何をしようとしているのか……」
 かちり。小さな音は、エレインが隠し持っていたナイフの刃を飛び出させた音だった。
「ごまかそうなんて思わないでね。あたし本気だから」
「ごまかすだなんて、思っていません」
 オールフィシスは、そっと手を伸ばした。少女人形は倒れ込むようにして、オールフィシスの腕の中へ転がり込んだ。
「と、とにかく」
 ブリジットは場を納めようと必死に言葉を探した。エレインのやり方は、どう見ても得策ではない。
「あたしたちは、同じ疑問を持ってここへ来たの、多分。ぜひ、あなたの話を聞かせてもらいたい」
 言いながらエレインを小突くブリジット。あたしの仕事の邪魔をしないで、のサインのつもりだが、伝わったかどうか。だが、どうやらエレインは、ナイフをしまったようである。
「俺も知りたいことがある。いつも見る、夢のことで」とジャグが付け加える。
「分かっています」
 オールフィシスは少女人形を抱いたまま、微笑んだ。
「どうぞ中へ。暖かい飲み物をお出しした後で、お話ししましょう」
「あの、それから」
 一行に先立って歩き出したオールフィシスは、アルフェスに振り返る。
「それから……そのお人形さんは、無事なんですか?」
 オールフィシスは、目を細めて笑いかけた。
「大丈夫、少し休めば良くなります。ありがとう、アルフェス」

■Scene:オールフィシス

 4人は先客たちの待つ部屋に通され、オールフィシスの準備が整うのを待った。オールフィシスは少女人形を寝室で休ませると、すぐに戻ってきて彼らに飲み物を振る舞った。うまいぞ、とニクスの言葉に、一同もおっかなびっくり口をつけた。ジャグに気づいたセレンディアは、先日の振る舞いを怒られないかと落ち着かない。オールフィシスの話の途中で、こっそりと彼女は部屋を抜け出した……。
「まず、私のことからお話ししましょう。私はオールフィシス、かつて《ミゼルの庭》と呼ばれたこの薔薇園の園丁です。ですが、みなさんに夢を見せたのは私ではなく……お入りなさい」
 静かに扉が開く。その奥からおずおずと顔を出したのは、同じ年頃の、3人の少女たち。
 黒い髪、白いワンピース。大きな目はくりくりと、初めて見る旅人たちを見つめている。
「……いっぱいいたのか」
 ジャグがつぶやいた。
「私の妹たちです。さあ、ご挨拶なさい。トワ、ミオ、ワカ」
 少女たちはもじもじしながら、ひとことふたこと呟くようにして、すぐにまた扉を閉めてしまった。
「ごめんなさい、人見知りしてしまうんです、あの子たち」
「お人形さんとよく似てます」
 アルフェスが、少女たちの消えた扉をじっと見つめたまま言った。
「ええ。ソラも私の妹ですから」
「あの子、人形だったわ。それに言葉も訳が分からなかった……そこは置いといても、やっぱりあんたが、サーカスに売り飛ばしたの?」
 エレインは相変わらず攻撃的な口調でオールフィシスにかみついた。子どもをこき使う状況を、エレインは許せなかった。
「待って、順番を追って話してもらったほうがいいわ。まず、そうね。夢に出てきた理由かしら」
 ニクスとアルティトの顔を確かめながら、ブリジットが言う。
「私たちには、秘密の力があるのです」
 オールフィシスは、静かに答えた。
「波長の合う人と、夢を通じて交感できる……たとえ相手とどれだけ離れていても、その人のことが分かるのです」
「それで、砂糖の数を知っていたのか」
 魔道剣士が呟いた。
「じゃあ俺たちに夢を見せていたのは、あなたの妹さんたちってことかい?」
「はい。あの子たちは毎日、私にあなた方の話を聞かせてくれましたから。私たちは静かに、安らかに暮らしていました。けれど何年か前、その力のことを聞き知ったひとりが、ぜひにとやって来たのです。その青年は、言葉たくみに妹のひとりを連れ去りました」
「さらわれたのが、ソラちゃんだったのか。その青年は、とすると……ハルハ・シーケンス?」
 オールフィシスはうなずいた。
「エレイン、あなたがソラを連れてきてくださったのは賢明でした。ここでなら、ソラは回復することができますから」
「でも、サーカス団長が、また来てしまうんじゃないですか?」
 アルフェスが心配そうに問う。
「ここに来る途中にも、街で団長を見かけました。変装してたから、気づかれてないと思います
けど、団長がこの場所を知っているなら、いずれは見つかってしまいます」
「……ええ」
 オールフィシスは淋しげに言った。
「けれど、私たちはここから逃げも隠れもできないのです」
「それで、俺たちは何をすればいいのかな?」
 ニクスはうろんそうな目つきを変えず、頬杖をついて園丁を見やる。腕はいつでも突き出せる構えだ。エレインと同じで、彼女を傷つけるつもりはない。けれど、得るものなしで帰るつもりもなかった。目くらまし程度の術でも、手がかりを引き出すことはできるだろう。
 それに、とニクスは考えをめぐらせた。さっきから、妙に調子がいい。高揚感というのだろうか? 今力を放てば、どうなるのだろう?
「気がかりだったソラが戻って来た今、私からのお願いはひとつです」
 オールフィシスは顔をあげた。その表情は、どこか逡巡を残していた。
「妹たちは力を持てあましてしまっている。あなた方を夢で呼んだのも、それゆえに。あの子たちは幼すぎて、どうやって力を使えばよいのか分からないのです。ですから、妹たちとしばらく一緒にいてほしいのです。波長の合う方になら、きっとあの子たちも心を開くはず」
「ま、夢の中じゃ笑ってたしな。……しかし」
 子守りだって?
 ジャグは思い切り眉をしかめた。
「あ、そうだ。ひとつ確認させて。あなたたちのことは、他に誰が知っているの? つまり、あなたたちの味方が誰なのかってことなんだけど」
「ごく親しい数人を除いては、誰も」
「……ここが《ミゼルの庭》なら、この精油のことご存じよね? この空き瓶は《精秘薬商会》のバウトさんから借りてきたんだけど」
 ブリジットはバウトの名を強調しながら、精油の小瓶を取り出した。
「その精油は、父が作ったものです。ああ、あなた方はバウトの知り合いだったのですね? そこまでは私も分かりませんでした」
 随分気安い関係なのね。ブリジットは内心大喜びで話を続ける。
「バウトさん、ここに来てるんじゃないかと思ったんだけど?」
 しばらくここには来ていない、というのがオールフィシスの答えだった。精油については、父が亡くなったため、もう作っていないのだという。レシピでもいいんだけど、と食い下がるブリジットに、オールフィシスは首を振った。
「父の研究室は、父が亡くなった時に塞いでしまいました。それでもよろしければ、見つかったものはお持ちいただいてもかまいません」
 ありがと、とブリジットはオールフィシスの両手を握りしめ、ぶんぶんと振り回した。
「なんだ、バウトはいないのか……ちぇっ」
 せっかくバウトの握っている情報を、吐き出してもらおうと思っていたのに。ジャグはため息をついた。

■Scene:?

 ごめんなさい、目覚めてしまったのね。
 あの子の歌はとても上手だったし、あの子の祈りも、とても強かったから。
 その想いに、目覚めてしまったのね。可哀想な薔薇。可哀想な子たち。

 この庭に、まだこんなに力が残っていたなんて思わなかった。
 あと何輪の薔薇が咲けば、私は安らかになれるのでしょう?

第4章へ続く


第3章|承前言葉のない歌忘れられた遺跡高く、遠くへ満月の夜マスターより