第3章|承前|言葉のない歌|忘れられた遺跡|高く、遠くへ|満月の夜|マスターより|
3.高く、遠くへ
■Scene:サーカス
へんぽんと色旗を翻し、丘の上のテントは毎夜たくさんの見物客を飲み込んでいる。
しかし昼間は人影もまばらだ。好奇心旺盛な子どもたちが動物の檻を覗いたり、こっそり大道具にのぼってみたり、あるいは好奇心旺盛な旅人たちが、おしゃべりに花を咲かせていたりする。
「カルマくーん!」
銀髪碧眼の青年が、敷地を掃除しているアルバイトに手を振った。ラフィオ・アルバトロイヤの腕の中には、もちろん子犬のノヴァがおさまっている。
「ノヴァ、おとなしくしてるんだよ? みんな友だちなんだからね」
男性と見ると気性が激しくなりがちなノヴァに、ラフィオはもう一度念を押した。
入団志願者から旅団アルバイトに昇格したカルマ・アイ・フィロンは、すぐに友人たちに気づいてとんできた。
「ラフィオ!」
「様子を見に来ましたよ〜」
スイは相変わらずの調子で、見えているのかよくわからない眼帯姿であたりを見回している。きっと素敵なお姉さんや可愛い女の子を探しているのだろう。ライ・レーエンベルクも一緒だ。彼もきょろきょろと落ち着かない。
「ライ、スイさんも! いらっしゃい!」
でもサーカスの開演は日が暮れてからなんだ、と謝るカルマに、ラフィオが笑う。その様子が、すっかりサーカスの一員に見えたのだ。
「いいんだ。今日は僕、話を聞こうと思って」
ラフィオはこの前耳にした《ディルワースのサーガ》が気になっていた。
「そっか、ラフィオさん《竜》の研究をしてるって言ってたもんね!」
「う、うん。まあね」
「ハルハ団長に聞いてみる? 今なら舞台裏の控え室にいると思うけど」
「団員の方は、何名くらいいらっしゃるんでしょう?」とスイ。
カルマは上目で指を折りながら、自信ないけど、と前置きして10人くらいかな、と答える。
「踊り子さんがふたり、道化さんがひとり、動物使いと力自慢さんもひとり。軽業師に、大道具係。で、団長と僕」
あと歌姫さんだ、とカルマが付け足した。
「歌うの、ひとり?」
でも、ライの耳には確かに合唱が聞こえたのだ。彼はあの綺麗な歌声を思い出した。もう一度、できることならあの歌を聞いてみたい。
「今日……いない」
「ライにはたくさんの歌声が聞こえたんだよね? でも、不思議だよね。歌姫はソラひとりしかいないし、そのソラも今は……いないんだから」
精霊たちも静かだ。少し残念だったけど、でも、いいや。ライは気にしないことにした。かわりに彼の心を占めたのは、旅団そのものに対する好奇心だった。
■Scene:心めぐり
「え? やあねえ。お上手だわ」
ころころと鈴のような声でさんざめくのは、ふたりの踊り子たち。歯の浮くような呼びかけで、スイが呼び止めたのだ。
「本当のことを言ったまでですよ。どうですか? 今夜あたり、一緒にお散歩でも」
「あら、いじわるね」
「あたしたち、夜は舞台に出なくちゃいけないのを知ってて言ってるんでしょう」
ころころころ。女学生のように、ふたりはよく笑った。薄絹に縫い止められた宝石が、きらきら光る。
「おお、うっかりしていました。残念、月明かりのミゼルド散歩もひとりではつまらないですからね」
スイは相変わらずの緩い笑みを口元に浮かべて、丁寧に一礼した。腰までの黒髪がふわりと広がる。
「あ、待ってよ、伊達男さん」
踊り子のひとりが、スイの白い長衣を引っ張った。
「満月の夜は、サーカスはお休みなの。だから……」
「満月の下のお散歩なら、あたしたち、おつきあいできるわよ」
身を起こしたスイは、しなやかな手つきで踊り子たちの手をそっと握った。
「それでは、スイとの約束ですよ」
手当たり次第に大道具を磨いていたカルマを、団長が呼び止めた。
「カルマ君、君に頼みたいことがあるんだけど」
はいっと威勢良く返事して、カルマは直立する。ぱたんとほうきが倒れ、何かを巻き込んで転がっていった。
「この手紙を届けてもらえるかい。《山猫軒》っていうところなんだけど。ミゼルドからは少し離れるが、そんなに遠くはないから」
「は、はい! すぐに届けてきます!」
「それからね」
薄手の上着を羽織り、ぱたぱたと駆けだしたカルマが振り向く。後ろでまとめた金髪が、風を切って回転する。
「はい、団長」
蒼穹の色の瞳が、ぱちくりとまばたきした。
「他の団員にはもう伝えてあるんだけど、満月の夜の公演はお休みだよ。好きに過ごしなさい」
ハルハはにっこり微笑んだ。
「はい! ありがとうございます!」
元気よく答えたカルマは、アルトとリリプーを連れて飛び出していった。《山猫軒》。それが、かつてミュシャのいた盗賊団《山猫》であることをカルマは知らない。そして同様の手紙が、闇ルートを通じて方々に配られていることも。
赤白の道化は、舞台の上では別人に化けていた。そして今、どうらんを落とした素顔の道化を前にして、ライはそれがあまりに普通の顔なのに驚いた。当然と言えば、当然なのだが。ソラがいなくなった騒動に居合わせていたので、顔を合わせるのは気まずかった。声をかけずに、ライはすぐまたふらふらと、敷地の中をさまよい歩く。
「え? ミゼルドに来た理由?」
手近にいた大道具係に尋ねてみると、彼は親しげに答えた。
「団長は以前、ミゼルドに来たことがあるって言ってたからね。知り合いがいるんだろうと思ってたよ」
「でも、帝国……」
「まあたしかに、帝国にすんなり従わなかったのは、いいやり方とは思えないが。団長には団長のお考えがあるのさ」
旅芸人なんて、流れ者だからね。そう言って、男は笑う。
別の団員にも聞いてみたが、どうやら本当のところは団長以外には分からないようだ。
でも。ライは首をかしげ、そのまま斜めになりながら青い空を見上げた。雲と、雲雀。
団長も道化も、本当のことをすぐには教えてくれないだろうな。雲雀を見ながら、ライは思った。嫌いじゃないけど、あのひとたちは、よく分からない。精霊たちも好きじゃないみたいだ。ソラに、会いたい。
「ソラが早く治ればいいんだけどなあ」
「え」
「歌姫だよ、見たことないかい」
ライは中途半端な角度に、首をかしげる。見ていないといえば、嘘になる。しかし。
「今休養してるのさ。団長の、知り合いのところにね」
……あれ? またライの頭の中に、疑問符が増える。
「あの子がいないと、淋しいよ。本当に」
ラフィオは楽屋の扉をそっと叩いた。
「やあラフィオ君」
にこやかな笑顔のハルハが、彼を招き入れた。その視線は、しばしノヴァにも向けられる。男性と見るとかみつく癖のある子犬が、おびえたように縮こまったのをラフィオは感じ取った。
「また遊びに来てくれるなんてうれしいよ」
「ええ。僕も何かお手伝いをしようかと思って……それに、あの劇のことをお聞きしたくて」
ハルハは手近な木箱を椅子代わりにラフィオにすすめ、変わった形のパイプに煙草を詰めた。
「《ディルワースのサーガ》のことかな。君の言っているのは」
うなずくラフィオ。張子の《竜》が戦士役に射落とされ、お姫さまが救出されたところでその劇は終わったのだ。
「面白かったでしょう。旅の吟遊詩人が、この話を教えてくれたんだ。気に入らなかった?」
「そのう、例えば《竜》が悪者じゃない物語なんてどうでしょうか」
「悪者がいない物語。君が言っているのはそういうことかな? この世のちょっとした出来事のほとんどは、善悪とは別のところに原因があるように?」
ハルハはパイプを弄びながら続ける。
「《偉大なる神々》が《大陸》を去ったのと同じように、《偉大なる竜》もまた、最後の王族を残して去っていった」
スイがたわむれに語った話と、よく似ていた。
「だから今《大陸》にいる竜は、偉大なる存在の影のようなもの。淡い幻、真昼の夢のようなものにすぎない。例えば、そう。宝石に対するちっぽけな小石のような」
「……僕は知っています。小石にすぎなくても、力強く脈打つ温もりを」
ラフィオは不安な面もちで、ハルハを見つめる。ハルハはゆっくりとラフィオに近づく。
「小石は、偉大な玉座に王が帰還するのを今も待っているのかな?」
静かにその手が伸ばされた。うさぎの子をつかむように、ハルハはたやすくノヴァの首をつかんで持ち上げた。
「ノヴァ!」
ラフィオが叫んだ。愛犬の様子がどこかおかしい。どうして吠えない? 噛みつかない?
取り返そうと伸ばすラフィオの手を、するりとハルハがかわす。黒い首輪の下をくすぐられ、ノヴァは気持ちよさそうに目を細めた。
「……いい子だ。お休み」
ハルハが子犬の口の中に、何かを押し込んだのが見えた。
「ノヴァ! ノヴァーリーストレティア!」
ラフィオは体当たりする。主の返事に、子犬は返事をしなかった。そして、呼吸も。まるで眠っているように、すべての動きを子犬は止めていた。
「何をしたんです! すぐにノヴァを元に戻してください! でないと僕」
「どうするつもり? 実はね、一目見た時から可愛いと思っていたんだ。君の《竜》」
ラフィオの代わりにノヴァを抱くハルハは、手の中のそれを愛しそうになでながら言った。
「綺麗な小石は、僕がもらう。ソラがいない間、つまらないからね」
■Scene:街角
空には満月が輝いている。スイは美女ふたりを連れて月光浴と洒落込み、ごきげんだった。女の子の扱いは得意だというスイの言葉は嘘ではなく、踊り子たちも楽しげにおしゃべりに興じていた。
だが、夜の時間が経つのは早い。短い逢瀬を過ごした店から、酔い醒ましの散歩に出かける。
「ええっ、もう帰っちゃうの? スイさん」
「だってまた明日、お仕事があるでしょう」
そう言葉をかけた途端、踊り子たちは顔を見合わせた。
「明日に差し支えるとアレですし……どうしました? 帰るのがいやなら、このまま私と旅に出ますか? 綺麗なお嬢さんが道連れだといいなあって、これでもずーっと待ってるんですよ」
「……うちの団長、とっても怖いの」
少しろれつの回らない口調で、ひとりが呟いた。
「普段優しいこと言ってるけど、本当は怖いの。すごい力を持ってるのよ」
「へえ、それをご自分の芸にして、舞台に立てばよろしいと思うのですが……まあそうはいかない理由もあるんでしょうねえ。怖いなら、一緒に行きましょ」
踊り子はふるふると首を振る。
「逃げられっこないわ。逆らうと……」
「人形にされちゃうんだもの」
これはよくありませんね。お嬢さんたちが怯えていらっしゃる。スイはうんうんとうなずくと、回れ右して踊り子たちと共に別の店に消えた。
怖がっているお嬢さんたちを、放っておくなんてそんなこと、できるわけがないじゃないですか。
第4章へ続く

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