承前 白い鳥の誘い
――世界が変わってしまうなら、俺は変わらない。
■Scene:ヴァレリ・エスコフィエ
何一つ不自由はなかった。地方都市の商家に生まれ、姉と同じ学校に入り、疑問を持たずに高等教育を受けていた。そこまでは姉と同じ。
それがどういうわけなのか、氷に包まれた《大陸》の果て、流刑に処せられて三度目の牢獄入りである。
独房は、初めてだったけれど。
「何故?」
人に尋ねられれば、なんとなく通り一遍の答えは用意してある。
「不自由ないってことは、自由じゃないってことかもしれないねえ」
掠れがかった声でヴァレリはそう答えてきた。問いの的を少しだけ外しながら。
「開放感って奴が好きなんだよ。あんたもそうだろ?」
流刑の前には《大陸》中を経巡ってきた。生きるため、遊ぶため、手段として盗賊団にも身を寄せた。学のある若い女性として珍重されもしたし、疎ましがられることもあった。けれど集団には長居をせずに、いつしか一人に戻るのがヴァレリの常だった。ある日うっかり子どもを身ごもってしまい、ひとつの街に長居をしすぎたことが原因で捕縛される前までは。
牢獄暮らし、そして脱獄。
開放と自由。
「……あの子は、どうなったんだろう」
揚々と脱獄し、自由を得たヴァレリの胸によぎったのは、血を分けた我が子への想いだった。そのことに彼女は驚き、驚いた後に子どもの行方を探そうと試みて……役人に捕まったのである。
三度目の脱獄に失敗してからは、集団牢から独房へと移されることになった。
長かった黒髪も短く切られ、おなじみの囚人服を着せられて、ぼんやりとヴァレリは思う。
このままあたいは、ここで過ごすのだろうか。
学舎とともに捨てた家。家族。母と姉の顔がふいに浮かんだ。そして、成長した――生きていれば成長しているはずの、我が子の顔。
独房の小さな窓は、頑丈な格子で区切られている。窓の外は曇天。灰色の中をたった一羽、小さな白い鳥が飛んでゆくのが見える。
「あたいの母さん、あたいの顔なんて忘れてるに決まってる」
呟いてもう一度視線を戻せば、飛び去ったと思った白い鳥が、ちょうど格子に止まろうとしているところだった。
■Scene:コーネリアス
《満月の塔》を探すのは、他の多くの旅人たちと同様、コーネリアスにとってもごく個人的な理由からである。
先の戦役で両親を亡くした後、幸運にも親戚に引き取られ、実の息子のように大切に育てられた。《テスラ戦役》がもしも起こらなければ、きっと彼は旅には出なかっただろう。両親とともに暮らし、時折は親戚の元を尋ね、あれこれと世話を焼きながら日々を送っていたかもしれない。
旅の途中に立ち寄った廃村で、ふとコーネリアスは考える。
けれども戦役は起き、ランドニクスでは内乱も起こり……それらはとうてい、誰か一人の力ではとどめることはできない流れだったに違いない。この村も、その流れに飲み込まれていったのだ。
「……ああ、まったく」
自分の故郷もこの廃村と同じように、戦禍に巻き込まれたのだ。
コーネリアスは、故郷の様子を覚えてはいない。両親の顔も記憶にはない。ただよく似ているであろう場所を訪れるたびに、どうしようもなく故郷への思慕が溢れるのだった。
だから彼は、親戚の元を離れ《大陸》を巡る旅人となることを決めた。
もしも《満月の塔》を目指し、辿り着くことが出来たなら、願いはひとつ。自分を生んでくれた本当の親の姿を、コーネリアスは思い出したかった。
「おや」
廃村の軒下、夜具から半身を起こす。
月明かりが眩しい夜だ。星の光をかき消すほどの月光に照らされて、ひとすじの影が目に留まった。
「……ふくろう、じゃあないな?」
白い鳩。しかも、夜に飛ぶ伝書鳩。面白い。
すぐさま夜具をしまい込み、コーネリアスは鳥の飛び去った方へ向かった。
ポケットのひとつから取り出した方位盤は、まっすぐ南を示している。
■Scene:疑心の仮面
波の音、濃い緑。むっとする熱気。古びた静けさに浸る館。
褐色の肌に捻れた角をつけた男性はマロウ。氷のような表情を浮かべる仮面を着けた黒服の女性はジニア。
そして彼らのあるじだという、ふたりの年若い姫君たちが旅人を迎え入れる。彼女たちの名はウィユとレヴル。ジニアは目通りの済んだ旅人たちを小部屋へと案内した。
「装飾品を?」
「選ぶのがしきたりよ。好きなものを選び、身に着けなさい」
ありとあらゆる種類の仮面、覆面、つけ耳やつけ鼻、飾り尾や飾り羽根がずらりと並んでいる。ジニアもしきたりに従って、顔の半分を覆う仮面を着けているのだった。
「……ブレスレットはあるかい」
ヴァレリは値踏みするような視線を品々にくれている。宝飾品の類は大好きだったが、この島の住人の得体が知れない以上、警戒するにこしたことはない。
「山ほどあるわ。どれでもどうぞ」
「気前がいいねえ」
ジニアの側をするりと通り抜けるヴァレリ。大振りの宝石がいくつも細い鎖でつながれているブレスレットを選び、左手にはめた。ほどよい重さを手首に感じる。利き手ではないほうに着けたのは、もしも失ったとしても、まだ生き抜くチャンスがあるだろうと考えたからだった。
「……あ」
「何かしら、取り替えるの?」
「いいや、これでいいよ」
ジニアは何も言わず背を向けた。まだコーネリアスが、自分の分を選んでいない。ヴァレリは心の中でやれやれと呟いた。せっかく自由になったのに、結局選んだのは鎖だなんて。囚人服に似合うといえば似合うのだろうけど。
「ふむ、迷ってしまってすみませんね」
コーネリアスはそう言いながら、飾り尾に手を伸ばした。猿のようにくるりと巻き付く形の尾である。
「あれ。長さが足りませんか」
コーネリアスは飾り尾を腰に巻き付けてみる。長身の青年は毛皮のベルトを巻いているようにも見えた。
「別に、問題はないわ。外しさえしなければ」
「へえ、そう。まあ好きにやらせてもらうけどね」
目を細めたヴァレリの隣で、コーネリアスは静かにうなずく。
見るからに脱獄囚といういでたちのヴァレリは、自分と同じくらいの年頃に見えた。
第2章へ続く
承前 白い鳥の誘い・疑心の仮面|1.遠い呼び声|2.ひとさじのお砂糖|3.ささやかなお茶会|4.雲の何処に|5.小さなハリネズミ|マスターより