PBeM《ciel RASEN》 - 2005 : 第2章

1.遠い呼び声

■Scene:遠い呼び声(1)

 ジニアは旅人たちの問いに答えてこういった。
「大広間に並ぶ扉の先は展示室」
 地図を描いても無駄だけど、気になるなら開けて見てみればいい、とも。
 掛けられている絵は、姫さまがたのコレクションだという。部屋のつくりも展示されている絵も変わるものらしい。
「くれぐれも見物には気をつけることね」
 たいして面白くもなさそうな口調で語るジニアだったが、その話に興味を覚えた者たちもいる。例えば、セシア=アイネスやローラナ・グリューネヴァルトは、「人を選んでいるような」その部屋に行ってみることを決めたのだった。

 占い師エルはそっと自室の扉を開けた。眼鏡をついと押し上げ、おずおずと辺りを見回す。エルの友人であるところの光の精霊が、廊下とエルの白いローブを、ほんのりと照らし出している。ほの暗い夜は、エルが好んで街角に立つ時間でもあった。
 扉を閉めるか閉めないうちに、澄んだアルトがエルを呼ぶ。
「ねえエル、貴方さっき水晶の中に何を見たの?」
 どきりとして振り返ると同時に、エルの飾り翼が一瞬光った。左目に、蝶の形の銀色の仮面。仮面越しの瞳は赤く輝いている。ネリューラだった。
「あ……ね、ネリューラさん……」
「随分ふらついて具合が悪そうだったわね。占いの結果が気になるわ」
 ああ、とエルは口ごもり、ローブの袖口をもぞもぞと弄んだ。姫君に占いを申し出たその場に、この呪術師という女性も居合わせたのだった。
 水晶球に垣間見たもののことは、ベッドの中で悶々と考えていたのだが、うまい答えが見つからない。エルには答えられなかった。今はまだ。
 ネリューラはそんなエルの心情を察したようにうなずき、質問を変えた。
「それで、どこに行くのかしら?」
「ええっと。展示室……に、ちょっと」
 驚きと警戒で強ばっていた占い師の表情が、かすかに安堵で緩んでいる。
 そんなに答えにくいだなんて、よほど不吉な占い結果だったに違いないわ。どんな血生臭い光景を読みとったのだろう。ネリューラは黒い紅を差した唇に指をあて尋ねた。
「ついていってもいいかしら」
「別に構いませんけど……」
 言葉とは裏腹に、エルはこの道行きを喜んだ。何しろ同行者が光の精霊ルクスさんだけでは、不安でいっぱいだったのである。

■Scene:遠い呼び声(2)

 どうやら日はもう、中天にかかっているらしい。
 寝台から身を起こしたリモーネは、改めて屋敷に満ちる静けさに気づき、身を震わせた。ここには何もない――酒場の喧噪も花街の嬌声も、煙草の煙も安香水の残り香も、リモーネが知っていた世界は何も。
 一緒に案内された者たちは、あまりにも子どもにすぎたり生真面目そうな聖職者であったり、あるいはお堅い職業で、話をしてみようとは思えない。自分の身の上を考えれば、場合によっては相手に敬遠されかねない暮らしぶりではあったのだ。
 金色の長い直毛は、癖もつかずつややかに背を流れている。夜の歌姫に必要とされる派手な外見の一部。好んでというよりも、必要に迫られて手入れをしている髪をいつもの櫛で梳こうとしてリモーネは気が付いたのだった。
「櫛がないのね。化粧の粉も……」
 最低限の身支度だけを整えて、ジニアを探すことに決めた。ともかく部屋を出てからは、素のままの顔を晒したくない。そんなこんなで、なるべく他の旅人たちと鉢合わせぬようにしながら、ジニアの元で新たな装飾品――薄紗のヴェールを手に入れたときには、すっかり日は傾いてしまったのだった。
「最初からそれを選んでも良かったんじゃないかと思ったの。それだけ」
 装飾品の並んだ小部屋で、不意にジニアが口を開いた。リモーネは振り返り、
「化粧粉も紅もないだなんて思わなかった、それだけですわ」
と気負いなく答える。淑女のローブにくるまれた彼女の下肢こそ光る鱗の胴衣に包まれているが、上半身は両肩もあらわなビスチェという格好だ。
「仮面で隠すこともできるのに」
「隠したら見てもらえませんわ。ここは舞台なのでしょう?」
「決めるのは私ではないけれどね」
「ジニアさんでなければ、あのお姫さまたち? それとも私たち旅人かしら。ああ、お姫さまたちはたしか、それを決めるのは伝書鳩、といっていたかしら――いずれにしても、観客がいるなら同じことではなくて?」
 いいながらリモーネはローブの合わせを閉じた。これで少しは出歩ける姿になった。
 ジニアの答えはない。それを無言の肯定と受け止めたリモーネは、彼女に礼を述べて展示室を目指した。
 舞台裏だと思っていても、観客がいるのなら、そこは表舞台と変わらない。

■Scene:遠い呼び声(3)

 司書セシアは早めに夕食を切り上げて、ひとりで展示室へと向かう。
 装飾品に選んだ首輪や飾り耳の感触にも次第に慣れてきた。何よりもこの島、この館に溢れる奇妙な事柄が、セシアの探求心をうずかせてやまない。彼女と同じように白い鳥に招かれた旅人たちも、半地下の図書館暮らしではまず見かけないような人々ばかりだ。しばらく退屈から無縁でいられることを、素直にセシアは喜んでいた。
 セシアがひとりで展示室に行こうとしたのには理由があった。部屋も絵も変わってしまうという場所ならば、他の人が一緒であれば別のものが見えるかもしれない、と考えたのだ。それなら、まずはひとりで見てみたかった。何があろうと自分で試さずにはいられない質である。セシアにとっての真実は、あくまでも「自分」が基準であった。
 展示室は、姫君たちと謁見した大広間の先だと聞いた。
 あの不思議な形の玉座に姫君たちがいるならば会釈のひとつもしなければと思っていたが、大広間はがらんとして人気もない。やがて尽きそうな蝋燭が数本、燭台の先でゆらめいている。
 すぐにセシアは気が付いた。
 展示室へ続く扉が、半開きになっている。扉の先は漆黒の闇だ。
「……誘ってるみたいだな」
 見せたいものがあるということだろう。セシアは納得し、燭台に蝋燭を一本移して、半開きの扉に近寄った。
 姫君たちが中にいるのだろうか。それとも別の誰かが入っていったのか。いずれにしても、この先の展示室が狭くないことを祈りながら――暗くて狭いところはごめんだった――セシアは蝋燭を掲げた。
「狭いじゃないか」
 不満がつい口をつく。居室にあてがわれたのと対して変わらぬ広さの部屋である。向かいの壁には、蝋燭の明かりに照らされた大きな絵が一枚。左右には扉があるから、同じような小部屋がいくつも並ぶつくりなのだろう。
 掛け変わるという絵はどこに置いてあるのだろうか。一点一点絵を掛け替える作業を想像したセシアは、半地下の図書館の蔵書入れ替え作業をつかの間思い出し、首を横に振る。
「勝手に変わるというなら、そんなことをしなくていいんだから」
 もっと明るい光を用意してくるんだったと思いながら、セシアは絵に近寄ってみた。ふちなしの眼鏡を動かす。
「なんて艶やかなんだろう」
 蝋燭の明かりを、絵画は艶やかに反射した。埃ひとつない表面は、素人目にも真新しい絵のそれに見える。絵の具の色は、蝋燭の橙色を帯びて、てらてらとなめらかに光っている。この古びた館の中で、このような輝きを持つものがあることはとても奇妙に思われた。
 大きな絵に描かれている全体を見極めるために、セシアは少し身を離した。まだ新しく見えるプレートの文字は、《風》。
 途端、彼女は何かに足をひっかけよろめいた。
「っと」
 燭台を取り落とさぬよう注意しながら足元に目を向けたセシアが見たものは、伏して倒れている旅人の姿。
 そして、周囲に散乱する鳥の羽根――。

■Scene:遠い呼び声(4)

 燭台を片手にそぞろ歩いていたリモーネは、通路の向こうにも明かりを見つけてつと手を伸ばした。ゆらめく蝋燭とは異なり、行灯のようにぼんやりと広範囲を照らしいているのは光の精霊らしい。
 ということは相手は占い師。連れは黒衣の女呪術師だ。
 リモーネの口角がわずかに持ち上がった。夜の世界に暮らす自分にとって、このふたりはいくばくかでも近しい人種であったからである。
「こんばんは、お散歩ですか」
「あ……えっと」
 光の精霊がふわりともちあがり、リモーネを照らす。ヴェールがあってよかった、と彼女は思った。
「ちょっと美術館まで散歩の途中なの」
 ネリューラの口調は、楽しげでさえあった。
「リモーネ、貴女もどう?」
「美術館というと、展示室のことかしら」
「は、はい。気になることがあるので」
 エルはリモーネの身体にぴったり沿った衣装から目を逸らしている。
「実は私も話を聞いて気になっていましたわ、ネリューラ様。その部屋は人を選ぶとか」
「ジニアがどこまで私たちに明かすつもりなのか、分からないけれどもね」
 ネリューラの言葉に、先ほどのやりとりを思い浮かべて、リモーネは軽くうなずいた。共に行くという意思表示である。
「それでは参りましょうか」
 はからずも美女ふたりに挟まれてしまったエルは、どきどきしながら友人に、光をもっと強めてくれるように頼んだ。
 展示室の扉は半開きになっていた。姫君たちの姿も玉座にはない。円形の大広間の外側を、ぐるりと回廊が取り巻いている。向かい側の壁には大きな絵画がいくつも並んでいた。
 絵画の類しかないのでは、リモーネの興味はぐっとそがれてしまう。宝飾品や珍しい楽器でもあれば手にとってみようと思っていたのだが、純粋に絵画を鑑賞することしかできなさそうだ。
 ルクスさんはエルの指示に従って、ふよふよと先行した。
「……何かしら。この部屋、他の部屋とちょっと違うわ」
 ネリューラは奇妙な感覚に胸をざわめかせる。何かが起こる前触れを、かすかに彼女は感じ取った。
 と。光の精霊が照らし出したもの――通路にうずくまる黒い影。
「!」
 エルはぞくりと身を震わせる。幻影の一場面が重なった。
 黒い影が立ち上がり、3人を呼んだ。ほっそりとしたシルエットはセシアである。
「来てくれ、エル。ネリューラ、リモーネも」
 手招くセシアの足元に横たわるのは、音術師ローラナ・グリューネヴァルトだった。魔術師の黒い長衣は、飾りのコウモリ羽もろとも闇に沈んでいる。伏し目がちな表情をつくっていた長いまつげはぴくりとも動かない。
 セシアはローラナを見つけた時の状況を手短に語った。
「……というわけで、僕が見つけた時にはもうすでに……」
「ローラナ、きっとひとりでここに来ていたのね」
「まあ」
 リモーネは歪んだ笑みを浮かべ、すぐに打ち消した。幸いほのかなルクスさんの光では、薄紗の下の表情までは気づかれにくい。
 打ち消したのは自覚していたからだ。欠落に対する優越感は、劣等感の裏返しであることを。
「大丈夫みたいです、意識を失っているだけのようで……」
 ローラナの手首をとって脈を確かめていたエルは、次の瞬間息を飲んだ。驚きに、背の羽根の色が暗くなる。
「どうしたの。あら?」
「なんだ、この紋章。髑髏じゃないか」
 ネリューラとセシアが、エルの手元を覗き込む。ローラナの手の甲に、輝く奇妙な刻印を見た。目と口を塞がれた髑髏の刻印。
 と、ローラナは苦しげな吐息を洩らす。
「あ……いや……知らない。知らないわ……あなた、助けて……」
「ローラナさん! しっかりしてください!」
 髑髏は次第に輝きを弱め、一同の見守る内に、ローラナの肉体の奥へと沈んでいった。

■Scene:残響

 やがて意識を回復したローラナは、疲労の色を濃くにじませていた。震えながら旅人たちに、自分の見たもの、聞いたもののことを語った。
 ローラナは音術を用いて、この部屋で交わされた会話を再現しようと試みたこと。
 不思議な鳥と戯れながら、姫君たちが現れたこと。
 やがて鳥とともに回廊のどこかへ去っていったこと。
「この館は思っていたよりも随分広そうですわ。石壁が、不思議なほど反響するんです。幼さと聡さが入り交じるような声、そして大人の女性の低い声の会話でした」
「姫君とジニア」
「そうだと思いますわ。もうひとりいたような気もするけれど……」
 頬にかかる黒髪をかきあげ、ローラナはもう一度震えた。
「他にもたくさんの声が聞こえました。けれどもほとんどが、かすれたり途切れたりしていて。はっきりと会話が成り立っていたのはそのふたりの声だけだったのですわ」
 それはこんな会話だった――。

(いつまでその鳥を野放しにされるおつもりです)
(野放しではないわ。ちゃんとこうして可愛がっているもの)
(まろうどたちの元へも漏れていたのですよ)
(……しょうのない子。でもそれはまろうどが招いたことでしょう。この子は悪くないわ)
(……)
(安心なさい、ジニア。もうじきはじまりの頁が開かれる)
(……此度のまろうどたちには、その力があるとおっしゃるのですか?)
(もう種は蒔きました。早い者ならすでにしるしに気がついているでしょう。いくつのしるしが解放されるかしら。ふふ、楽しみだわ……ねぇ、レヴル?)
 ――

「すでにしるしに気がついて」
 エルは繰り返した。
「その後、姫君たちがやって来たのですね?」
「ええ。不思議な鳥を従えて……鳥と呼んでいいのかしら」
 精霊、に近いようなもの。ローラナが夫と魔物退治を営んでいた時には見たこともないような、奇妙な存在。少女のようでもあり、鳥のようでもある。
 鳥の羽根をまとい、透き通る肌を持つ、青ざめた顔の少女。ふわふわと鬼火のように浮かんだそれは、ふたりの姫君たちにまとわりついていた。
 姫君たちは絵の前に佇むローラナに気がつくと、するすると音もなく歩み寄り……。
「ああ、そういえば」
 ふと辺りを見わたして、ローラナは小首を傾げた。
「小さな部屋に絵が一枚きりしかありませんでしたわ。それなのに、ここはいったいどこなのかしら。私、部屋を出た覚えはないのですけれど……」
「僕と同じだ」
 セシアが眼鏡に指をあて、考え込んだ。
「ひとりで展示室に入った時には、絵が一枚しかかかっていなかった。その絵は《風》と題されていたはずだ。左右に扉があって、僕は小さな部屋がいくつも並んでいるのだと思った」
 燭台をかざし、通路の先を照らす。緩やかなカーブを描いた回廊が伸びているのが見えた。片側の壁には大きな絵画が並ぶ。
 セシアやローラナが見た景色とは異なっていた。
「セシアさん。あなたの見た絵、《風》にはどんなものが描かれていたのでしょうか」
 ローラナに肩を貸しながら、エルはゆっくり立ち上がった。
「よく見ようと思った矢先に彼女を見つけてしまったから。人物画じゃなかったかな」
「私が見た絵には《黒鳥》とありましたわ」
「あったわ。《風》の絵……あっちには《黒鳥》も」
 ネリューラが赤い眼光を輝かせて示す。いったい幾らの値が付くものか。何ともいえないのが残念ね。肩をすくめるその先に、一同は絵を目にした。
 《風》に描かれていたのはセシア。
 《黒鳥》に描かれていたのはローラナ。
 ただしローラナだけは、装飾品のコウモリ羽をはずした格好で描かれている。そして手には白い剣を握っていた。
「変ですわ」とローラナは訝った。
「さっきはこんな絵ではありませんでしたもの。もっと暗くて黒っぽい絵。はっきりと何が描いてある、とはわからないほど」
「おそらくこの展示室は、ある条件を満たしている者を選んでいるのではないでしょうか。あるいは、絵のほうが、見せる相手を選んでいるのかもしれないけど」
 エルは絵を見上げて顔をしかめる。
「まあ。でもこの部屋は、絵を見てほしくて飾っている場所なのではなくて?」
 リモーネはセシアの絵、ローラナの絵を眺め、次の絵を見上げた。
「あら。こちらに私の絵もあるのね。ご丁寧に……誰がいったい題名をつけているのかしら。《硝子細工》ですって」
 舞台衣装で描かれているリモーネは、白い剣を手にしていない。次に見つけたネリューラの絵も同様だ。
 描かれているのは見知った顔ばかりで、シストゥスらしき見知らぬ女性の絵はないらしい。
「ローラナさんはおひとりで展示室に来た。セシアさんもそれは同じ。けれどローラナさんはセシアさんと違って、条件を満たしたのです」
「どういう意味なの、エル? あの絵の白い剣のことかしら?」
 ネリューラの言葉に、エルは立ち位置を変えた。足元に散らばるたくさんの鳥の羽根は、ローラナが倒れていた場所を飾っていた。
「でもネリューラさん、私……あの剣のことなど知りませんわ」
「知らせたいんだ、きっと」
 エルはかぶりを振った。自分の絵にも白い剣が描かれているだろう。
 しかし、その剣について何も知らないのは、ローラナと同じであった。

第3章へ続く

承前 白い鳥の誘い・疑心の仮面1.遠い呼び声2.ひとさじのお砂糖3.ささやかなお茶会4.雲の何処に5.小さなハリネズミマスターより