2.ひとさじのお砂糖
■Scene:教師の手記
理解しがたい状況。
これまでの旅道中で遭遇した、いわゆる一般的な理解しがたさとはまったく異なる。とびきりの理解しがたい状況、である。
本来ならば宿に帰り着き、明日は子どもたちと何をしようかなどと考えながら、日常の思いなど書き留めているはずなのに。今日からは空想小説を書き始めることになりそうだ。
もし、元の場所に帰ることができたとして。
この体験を誰かに話し、信じてもらうことは可能だろうか。
出来の悪い夢物語と思われるのが関の山ではあるまいか。
だが現実に私はここに存在している。そのことを五感すべてが感じている。
現実と夢物語の境目を、語り手はどこまで知り得るのだろうか?
旅の教師フランメン=ミッテは、日記代わりの帳面を開いたまま頭上を仰いだ。簡易な机の上に投げ出されたペンが転がり、やがて止まる。
帳面にはフランメンの覚え書きが綴られている。
この場所の疑問点および判明した事実――大きな字で記された表題に続けて、この島に来てより見聞きしたことがらが列記してあった。出来の悪い夢から覚めるために必要なことを整理しているのだ。
「少年が外界より流れ着いている。完全な隔離空間ではないことはすでに判明しています。ならば」
フランメンは目を閉じた。もっとも装飾品として選んだ帽子には、たくさんの開かれた目が描かれている。
「あの伝書鳩は、《大陸》とこの島を結ぶものということになりますか。ふむ」
再びペンを手に取り、一行書き足した。
「ジニアさんはこう言った……『時をはかろうとしても無駄。この島では時は無意味だから』……《大陸》と結ばれているならば、この島においても時は等しく流れるはずではないか? ふうむ、ふむ」
ジニアとマロウも、元は旅人だったと聞いた。彼ら以外の者たちは、どこへ行ったのだろうか。過去この島を訪れたというシストゥスに、手がかりがありそうである。
フランメンは頁を繰って、書き写しておいたシストゥスの手記を読み返した。
『私の生には、いかなる意味があったのか。
私は私でなくなる前に、その意味を知りたかった。
願わくば住人たちがその意味を取り戻さんことを。
演じる部分がまだ残されているうちに。
必要なのはただ選び取る勇気である。
気高き姫君にそのことを教えてあげたかった。それが心残りだ。
死の剣の切っ先は誰の上にあるのか。
伝書鳩に心を許してはならない。
帰り道を求めるならば外ではなく内へ。
内はいつも外よりも広いのだから。
シストゥス・ラダニフェルス記す』
帳面を閉じて彼は呟く。
「……画材が欲しいものですね」
■Scene:ひとさじのお砂糖
フランメンが厨房を訪れると、そこには先客スティナ・パーソンと一緒に手提げ籠を覗き込んでいるジニアがいた。いい香りは、朝食の準備を整えているからのようだ。
「ああ、フランメン様。おはようございます〜」
召喚師はおっとりと手を挙げひらひらと振ってみせた。
「随分朝が早いんですね。おや、そこの果物はどうしたのです? いい匂いだと思ったらクッキーですか」
戸口に頭をぶつけないように身をかがめるフランメン。帽子の分だけ、いつもの癖よりも深めに折り曲げている。
「ふふ。人は甘いモノを食べるとすこ〜しだけ、幸せになれるんです」
微笑んだスティナは種明かしをした。早朝森を散策し、木の実を集めてきたのだと。早朝といってもまだ暗い時分、スティーレあたりはようやく睡魔と出会えた頃合いである。
「ひとりで?」
「ええ、でも途中まではマロウさんにも案内していただきましたから〜。この森はとっても豊かなんですよ、フランメン様? お部屋からの眺めもとっても素敵なこと、ご存じですか〜?」
森が大好きなスティナは、窓から見える森の木々に曙光が差すのも我慢できずに、手提げ籠を持って出かけてきたのだ。収穫は木の実、果物、香草の他に、スティナにとっては新しいお友だち、である。小さなりすや野鼠は、《大陸》のたいていの森と同じようにスティナと仲良くなってくれたのだった。
「それでクッキーも焼いちゃいました〜。朝食の足しか、おやつにでもなりましたら……」
「クッキーが焼きたてなんですって? 手早いなあ」
ひとつ頬張ってみると、いわれたとおりの焼きたてだった。厨房の設備に魔法でもあるのかと首を巡らせる。
「お友だちにお願いして、早く焼いて貰ったんです〜」
スティナはにこにこと微笑んでいる。白銀の長い髪がきらきらと揺れたのが火の精霊のいたずらであることに、フランメンは気づいただろうか。ちかちかした光はスティナの背の片翼を光らせ、ふいに消えた。
「それで何かご用ですか〜?」
「ああ、ジニアさんにちょっと。でも忙しそうですからジニアさんの時間のあるときに出直しますよ。少し教えて貰いたいことがあったんだ」
それなら朝食を一緒にいただきましょう、とスティナはいう。
「だってジニアさんにはお世話になっていますから〜。片づけもお手伝いさせてくださいね〜」
片方が金色に輝くスティナの目を見つめ、教師はゆっくりとうなずいたのだった。彼女の明るさは、どこか陰のあるようにも見える。戦禍を逃れた村、生き延びた大人たちが会話の合間にかいま見せるものに似た。彼女の絵を描くことがあるなら、金と銀の色合いを出すのが難しそうだ、などとフランメンは思った。
サンドイッチができあがってから、教師はジニアに抱いていた疑問をぶつけることができた。
「質問というのは、かつてこの島を訪れていた旅人のことです。痕跡を残している者もいるようですが、シストゥス、キヴァルナ……その他の方々は、元の場所へと戻られたのでしょうか」
「戻る道を見つけた者もいる。見つけても、戻ることを選ばなかった者もいたわ。今貴方が名前を出した学者たちは、戻ることを選ばなかった者たちね」
ジニアはよい香りのするお茶を注いでいる。役人エルリックがくれたものらしい。
「その方々は皆さん、伝書鳩さんに招かれた旅人だったのでしょう〜?」
「そう」
「お姫さまは、私たちが選ばれたといっていました。お姫さまが送り出したのではないならば、あの伝書鳩さんは、いったい誰が、どうやって……?」
ふう、とお茶を冷ますスティナ。フランメンは帳面に目を落とした。
「選ばれたにしても、どのような基準があったものやら皆目見当がつかないのですよ」
「……姫さまたちは、その謎が解ける時を待っているのですもの」
「と、いうと? 姫さまたちも、この舞台の演者であると?」
フランメンは、姉妹姫が自分たち旅人の行動を楽しんでいるのだと考えていた。たとえ両目が閉ざされていても、何らかの力で見通しているに違いないと。
「未完の台本を、はじまりの頁へ向かって繰り続ける番人。姫さまたちはご自分のことをそう称していらっしゃるの。はじまりの時が来るのを待っている」
ふたりでひとつ。はじまりのない終わり。欠けるがゆえに満ち足りしもの。
姉姫ウィユはそう告げるのだという。
「そして鳥は姫さまたちのもの。世話をするのは私の役目でもあるけれど、あれに力を注いでいるのは姫さまたち」
フランメンは帳面に書き付けた。
鳥は姫君たちが飼っているペットであること。姫君たちの力を注がれていること。けれども鳥は鳥自身により、旅人たちを選び、この島へと連れてきていること。
「姫君たちは待っている……と。はじまりの時が来て、謎が解けるのを……」
ペン軸の尾を噛み、フランメンは顔をあげた。
「それではまるで姫君たちは、そのなすべきを知らぬように聞こえますねえ」
「そういうものでしょうか。私には、あのお姫さまたちは、互いが互いに不足しているモノを補い、支え合っているように見えますわ。素敵です〜」
ジニアはかたりとカップを手にして、そっと一口味わった。
「召喚師のいうとおり。あの方々はおふたりでおひとりのようなもの。ただ、鳥について姫さまはどういうおつもりなのか……戯れにしては度が過ぎる気がしていて」
「でしたら、ジニアさん」
いいことを思いついた時の満面の笑顔で、スティナが申し出た。
「もしかして鳥さんのお世話が大変なのですか? 私にお手伝いさせてもらえないでしょうか〜? ぜひお友だちになりたいんです」
島に来てから探したけれども、伝書鳩はどこにもいなかった。それならば館の中に部屋があるのではと考えたスティナは、ジニアに彼らの居場所を教えて貰いたいと思っていたのだった。
スティナの申し出に、ジニアは奇妙な表情を作る。
「鳥の世話を? 手伝ってもらえるのはありがたいけどけっこう面倒なのよ」
「かまいませんわ〜。普段はどこに住んでいるのでしょう?」
「展示室の奥にね」
まあ、とスティナの顔が輝いた。
「それなら鳥さんに会いに行く途中に、コレクションの絵画も拝見できるのですね〜。素敵です〜」
そういいながら、ついジニアをぎゅうと抱きしめた。
「……何かしら」
「……あ、す、すみません〜」
スティナは照れのような笑いを浮かべ、ジニアから身を引いた。頬が染まる。
このような癖が出てしまうなんて、やはり自分は片割れを必要としているのかもしれない。片方だけの翼を選んだことは、正しかったのか、それとも……。
抱きつくと温かい。温かさはスティナの安心だった。
「鳥の話ですが、邪魔でなければ私も会ってよろしいですか」
「……機会があれば案内するわ」
フランメンはうなずいて帳面を閉じた。
スティナは教師を眺める。ロミオが怖がる、モヒカンの変わった教師。
彼に抱きついてみたら、いったいどんな反応を示すだろうか?
■Scene:物語の欠片(1)
騎士ロザリア・キスリングと放浪者レシアは、同じ部屋を使うことになった。
ジニアは変わらぬ硬い表情で、箒を手にして掃除に訪れる。
「よく眠れたかしら」
ジニアのほうから話しかけてくることを意外に感じつつ、ロザリアは軽くうなずいた。起き抜けには違和感を覚えたものの、黒いマスクは今では目元にしっとりと馴染んでいた。
レシアはロザリアの所作を見つめる。この年若い騎士を見ていると、思い出さずにはいられないことがあった。似ているとは思わない。けれども思い出から目を逸らすように、レシアの視線はジニアへ移った。
敵意はないが、悪意はどうだろうか。それが、ジニアの言動にレシアが抱いた印象であった。
「夢見はいかが?」
試すようなジニアの口調。答えるロザリアは落ち着いている。
「どうにも、言いようがありませんね」
「それで?」
「……詳しく話を聞いてみなければすぐには答えられません」
寝台に置いてあるレイピアを見やり、ロザリアは言った。
「価値の問題だ」とレシアは瞳を細める。
「価値? 貴方たちまろうどにとって、価値とはどれほどの意味を持つのかしら」
首をかしげるジニアに、レシアは続けて「貴方と鳥との価値の問題だ」と言い直した。ロザリアは既視感を思い出し、額にかかる黒髪を払う。
「ジニアさん。私からも提案があるのですが、聞いていただけますか?」
ロザリアの寝台を整えていたジニアは、動きを止めて振り向いた。
「教えてください、ジニアさんにはこの島の外に、存在を伝えたい人物がいますか? あるいは故郷のような縁の場所をお持ちですか? そういった人や場所があるのなら、ジニアさんのことを伝えて差し上げましょう」
「それは」
ジニアの表情が変わる。口元は結ばれ、まなざしは差すようにロザリアを射ている。
「それは貴女がこの島から出ていくことを決めた……ということかしら」
「ええ、そういう意味でもあります。私の第一の目的であった新帝の捜索は達成されました。次は何としても、新帝の生存を聖地や帝都へ報告せねばなりません」
《満月の塔》の伝説が《大陸》に残っているということは、伝えた人物がいるということでもある。《大陸》に戻る道は残されているはずだとロザリアは確信していた。
「まろうどたちは物語を許されている。出ていくことを選ぶなら、それも貴女の物語。残された道を好きに探すがいいわ」
その言い方には半ばの諦めが感じられた。
「ジニアさん。あなたも元旅人であるなら、その言葉はそっくりあなたにもあてはまるのではありませんか。出ていくことを許されているのは、あなたも同じはず」
「……」
「忘れ去られ、無と同一にされる苦痛に、人間は耐えることができません。たとえ何年、何十年経とうとも。故郷が無人となっていても。そしてそれを分かっていてさえ、人はどこかに、自分の存在を残したい気持ちを持っているはずです」
ロザリアは辛抱強く丁寧に語りかける。
「綺麗な言葉ね、神聖騎士。綺麗で美しい嘘」
しかしジニアの口元に浮かんだのは、薄い笑みだった。いつもの冷ややかさではない。レシアには、ロザリアを羨むような表情に思えた。
「貴女は自分が正しい選択をすると信じているのね。だから臆面もなく、自分の存在を残したいなどと言えるのよ。無人の故郷、無名の勲……残すことを願わない者はどうなるのかしら? ねえ、どうなると思うかしら、レシア」
いきなり名前を呼ばれ、レシアは瞬いた。残すことを願わない者。それは自分のことだった、この島に来るまでは。
銀の仮面の放浪者は低く呟いた。
「選択が正しいかどうかなど、決めるのは誰でもないだろう。ロザリアの選択はロザリアのものだから。残すことを願わない者なら、選択すら避けるだろうが」
ふふ、とジニアは笑った。声を立てて笑いながら、レシアはマロウに似ていると言った。そしてロザリアにはこう答える。
「私のことなら、大した価値もあるはずがない。だって私は姫さまたちのものだもの、あの鳥と同じ。姫さまに飼われることを望んでここにいる」
「マロウさんは選ばなかった旅人……ジニアさん、貴方は望んで留まることを選んだ旅人、だったのですか」
「騎士の言葉を借りるなら、『誤った選択をしないために』よ」
ロザリアとレシアは顔を見合わせた。
正しい選択をすることと、誤った選択をしないこと。
それらは似て非なるものであったから。
■Scene:物語の欠片(2)
「彼女の身に、何が起こったんだ?」
こっそりとレシアは問うた。
「それともこう尋ねた方がいいか。彼女の身にこれから何が起こるんだ?」
「……元気になったのね。生気のない顔をしていたのに」
ジニアは面白がっているようだ。それを不快とは感じずに、レシアは黙って答えを促した。
「鳥に会うつもりなら、展示室の奥に行くといい。檻があるの。そうね、貴女ならきっともうひとりでもたどり着ける」
ジニアが目を細める。視線の先に、レシアの腕がある。
「並んでいる絵の中に一枚だけ特別なものがあるからすぐわかるわ。絵の裏から檻に続いているんだけど、そこから鳥が漏れてくるの」
「何者だ? 鳥はどういう存在なんだ? それに《ルー》とは」
漏れてくるというからには、通常の手段では対抗し得ないのではないか。レシアはかぶりを振った。人の手に任せたとはいえ、振るってしまったレイピアを思い出す。
「あれは……鳥は、危険よ。あれはまろうどに触れたがる。姫さまたちから与えられた力を、まろうどに振るってしまうの。《ルー》というのが何なのか、私は知らない。姫さまならご存じかもしれないわね」
「だが姫君が鳥を操っているわけではないんだろう」
「そう。姫さまは、鳥が力を振るうのを楽しんでいるのよ。あの力が招く物語を、姫さまは信じてるんだわ……馬鹿馬鹿しい」
嘆息するジニアは倦んでいるように見えた。姫君と使用人との間の絆が、はじめは強固に思えたものの、実は危ういバランスの上に成り立っているものだということにレシアは気がついた。
ジニアがすべて真実を語っている訳ではないにせよ――レシアは濃い紫の瞳を細めた――「知る」ことで回避できる危険もあるはずだ。
「人ならぬ姫君が持つ力とは、いったい」
「もう知っているはず。見たでしょう?」
戸惑うレシアが思い浮かべたのは、髑髏の刻印である。
「目と口のない髑髏……まさか」
死?
「だから」
ゆっくりとジニアは唇を動かした。
だから、鳥を殺したいの、と。
第3章へ続く
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