1.夜と夢の間
■Scene:夜と夢の間(1)
占い師エルは、ひとり部屋を使っている。本当はヴィクトールの部屋でもある。
物置でも構わないからひとりの部屋を、とジニアに希望したエルに、それならば同室にならないかとヴィクトールが誘ったのだ。エルは遠慮なくヴィクトールの厚意に甘えることにした。
そんなわけで彼は、光の精霊ルクスさんとともに静かな時間を過ごしていた。
ひとりが好きなわけではない。むしろ、どちらかといえば人恋しい時のほうが多い。ルクスさんに愚痴をこぼす程度で済む恋しさではあるが、街角でぽつんと佇んでは、目の前を通り過ぎる人々を眺めすぎたからかもしれない。あるいは……。
眼鏡をはずして、寝台の脇、商売道具である水晶の隣に置く。
考え事をしながらだったので、最初のノックには気づくのが遅れた。
「入るわよ、エル。いるんでしょう?」
柔らかなアルトで断りを入れながらやって来たネリューラ・リスカッセが、リモーネとともに目にしたものは、占い師の着替えの場面であった。
一本に結んだアッシュグレイの髪を結い直しているエル。
白いローブの合わせがはだけ、襟元から胸にかけての素肌があらわになっている。光の精霊が、ふわりと一瞬明るさを増した。しゃらり。骨飾りのついたネリューラのネックレスが音をたてた。眼鏡を手にしたエルが振り返る。
「あ……これは、失礼しました」
ふたりの女性の来訪に気づくと、エルは特に慌てることもなく襟元を正した。
その仕草は、かえって女性たちに印象づけた――彼の左胸めがけて刻まれた絡み合う蛇のタトゥー。
「どうして貴方が謝るの?」
やっぱり面白い男だわ。そんな想いを口に出す代わりに、ネリューラは黒髪を揺らす。
「いえ、何となく。ああどうぞ。お掛けください」
半端な笑みを浮かべる占い師。進められるがままにふたりは、空いている方の寝台に腰を下ろした。
「占いをなさるエル様に、お聞きしたいことがあるのです」
切り出したのはリモーネだった。夢解きをしてほしい。その夢は自分とネリューラが共に見た、不思議な夢なのだ、と。
少し時間は遡る。
昼前の陽光が、離島をとりまく海を眩しく照らす頃。
そこここに静けさと暗がりが残ったままの館の一室で、リモーネは目覚めた。生活サイクルはいつものとおり。ネリューラと同じ部屋を希望したのは、行動の時間帯が似ているからでもある。とうに太陽の高いこの時間、他の旅人たちは積極的にあれこれと動き回っているのだろう。ただいつもと異なるのは、奇妙な夢を見たことだった。
身づくろいするよりも先に、リモーネは自分の手を透かし見た。次いで、肌の感触を確かめるように手の甲を指先でなぞる。
夢で感じたあの熱さは、今はない。
夢ならば覚めているはずだけれども……。
「どうしたの?」
髪もとかず、起きぬけの素顔のままで手の甲をためつすがめつしているリモーネの姿は、ネリューラの目にも留まったらしい。彼女のほうは鏡台の前で足を組み、黒い口紅をひきおえたばかりだ。
「いえ、ちょっと」
その、黒さのはっきりした輪郭にふとリモーネは安堵を覚えた。わずかに用心深さも交えつつ、目覚めても気になる夢について言葉少なに語る。
「見たことのない夢を……そう、髑髏が現れました」
「同じね」
「え?」
「同じ夢を見たわ」
ネリューラはそういって、自らも手の平を返してみせた。今そこには何もないが、夢の中では熱さを感じたことを覚えている。
「髑髏の刻印。不思議な数え歌」
まったく同じですわ、とリモーネは答えた。鳥や狐が登場したところまで。
「思い当たるふしのない夢を、同時に私たち、見ていたなんて……誰かに見せられたのでしょうか」
しどけない姿のまま、心細そうに呟くリモーネ。生々しい髑髏の笑い声は今も耳に残って離れない。快楽の輪舞。そして不吉な言葉の数々。
他にも同じ夢を見ている旅人がいるかもしれない。そう考えたリモーネが思い浮かべたのが、エルであった……。
■Scene:夜と夢の間(2)
かくして、占い師は美女ふたりを前にして沈思する。
「通常、夢の中で夢に誘われるというのは現実逃避の願望を示すことが多いのですが」
水晶を手にしながら、慎重に言葉を選ぶ。
「おふたりの夢の場合は、はっきりと姫君たちが登場していますね。彼女たちが待ち望む物語の結末、あるいは先行きを指すのではないでしょうか……」
語尾は自信なさげにもごもごと消えていく。
「では、この夢は姫君たちが見せているものなのですか?」
「あるいは《鳥》かもしれませんが……姫君であろうと《鳥》であろうと同じことでしょう。狐や犬は《死の剣》に選ばれた人たちを示しているのだと思います。つまり、《死の剣》という言葉は実際に概念として……いや、明確な力として用いられている言葉でしょう」
「不吉ですわ」
ぽつりとリモーネが呟いた。この夢はどう転んでも幸運をもたらすものではなさそうである。
「エル、貴方もこの夢を見ているの?」
それまで無言だったネリューラがふと問うた。エルは水晶を抱いていた手をはっとローブの中に隠す。
「僕は……僕も、見ています。少し異なる夢を」
絞り出すように答えて見上げたネリューラの顔には、からかいまじりの大人の笑み、といった表情が浮かんでいた。エルは観念して、姫君たちを占ってから見るようになった夢のことを語る。
秘密の約束。それは悲しい記憶。
「本当にそれだけなの? 他に、その水晶が見せた光景があるんじゃないかしら。鳥のことだとか」
「本当にこれだけですよ、ネリューラさん。僕の見た光景のなかに、白い鳥はいませんでした。汚れた羽根は見ましたけれど」
ネリューラが試すようなまなざしを送るのへ、エルはかぶりを振ってみせる。
「姫君たちは何かがもたらされるのを待っている。何かをもたらすのは、僕たちまろうどなんです。《パンドラ》も姫君の玩具にすぎない、そういう意味では僕たちと同じです」
いつもは抑えている感情が、高ぶってきて止まらない。
エルは水晶のひやりとした手触りを求めた。
「逃げられない。逃がさない。逃げることを望まないから――姫君はそう僕たちを見ていました。僕はそれを聞きました。《死の剣》からは逃れられない、そんな印象を持ちました。いつか秘密の約束を守るため、何者かに手なづけられて、あるいは手なづけられたふりをして誰かを殺してしまう……」
ふらり。急に眩暈に襲われた。うつむくエルは、水晶に額をつけるほどに身を折った。
「エル様、大丈夫ですか?」
「エル!」
ふたりの言葉に呼応するように、光の精霊までもがその輝きを強めた。
ルクスさんにまで心配されるようじゃダメだな。そんなことを考えながら、エルはどうにか身を起こし――まるで夢の中の自分みたいだ――手の甲の熱さに耐えながらふたりに告げようとする。
「ネリューラさん、リモーネさん。僕は」
「具合が悪いの、エル? 起きないほうが……」
「大丈夫です……ごめんなさい。やっぱりなんでもありません」
「私が難しい夢解きなどお願いしてしまったからですわ」
「違いますよ。リモーネさん。ああそうだ。展示室にこれから行かれるのでしたら、ルクスさんをお連れください。燭台では心許ないでしょう?」
「ええ……精霊さんは、ついてきてくださるかしら」
「私は《パンドラ》に会ってくるわ。何かつながるかもしれないもの」
「わかりました、おふたりともお気をつけて。ルクスさん、しっかり光ってあげてくださいね」
ふたりの女性のそういうところを、芯が強いとエルは思う。
5.歪みの訪れ に続く