2.焦燥
■Scene:小さな離宮
記憶喪失の新帝陛下の周囲には、いつも人々が集っている。
クラウディウス・イギィエムは、自分を少年レオと同じ部屋にしてくれるようにジニアに申し出ていた。
「少しでもお身体を休め体力をつけていただくためには」
クラウディウスはそれが当然といわんばかりのいつもの調子で続けた。
「不用意に人に会わせるわけにも、謎多きこの島をうろつかれるわけにもいかない。帝都にお戻りいただくまでの間、私が責任もって陛下をお守りする。そのためには、私と陛下が二人でひとつの部屋を使うのが一番だろう」
言われたジニアは特に否定することもなく、あっさりと少し広めの部屋を準備した。広めにしたのは、人の出入りが多くなりそうだと単純に思ったかららしい。
クラウディウスはその部屋を陛下の御座所と定めた。自分が休息している際は護衛をヴィクトール・シュヴァルツェンベルクに任せ、さらにはそのヴィクトールの見張りをアレク・テネーブルに依頼している。
それでいて、クラウディウス自身はその部屋で休むことはない。ヴィクトールのほうも、元々あてがわれた部屋ではなく広間の隅で寝起きしている。
結果的にレオの側で一番長い時間を過ごしているのは、クラウディウスに雇われたアレクと、クラウディウスの代わりにレオの世話をあれこれ焼いている紡ぎ手アンナ・リズ・アダーということになる。その辺りの微妙さも含めて、脛に傷を持つひとりヴァレリ・エスコフィエは、レオの部屋のことを「小さな離宮」と揶揄していたりするのだが……。
さておき、レオの周囲である。
奇妙な夢を見たことは、早々にアンナが一同に広めてしまった。謎めく数え歌。不思議な刻印と笑い声。心当たりのない言葉たち。
アレクに加えてレオまでも、そのような夢を見ているらしい。探せば他にも、同じ夢を見ている者がいそうである。
その話を聞いて、ひとりクラウディウスは顔をしかめる。
■Scene:離宮をめぐる人々(1)
アンナの中では、少しクラウディウスに対する想いが変わってきている。
「礼金だ」
と、突然クラウディウスが金貨を数枚差し出したのだ。袋に包むでもなく、手袋をはめたままの手でぞんざいに、ポケットに入っていたらしい帝国金貨をぶっきらぼうに。
掠れた声で彼は続けた。
「本来ならば間違いなく奥侍女として認められる働きだ。だが騎士がそのような位を勝手に任ずるわけにもいかぬ。侍従長がいれば幾らでもとりなせるが越権行為を働くことはできないのだ。最初の非礼の詫びだ。受け取って貰いたい」
アンナはまず驚いて、それから丁重に断った。
「ただ、傷ついた子どもを助ける手助けをしただけだよ。それに、膏薬や食事は他の人が用意してくれたものだから、私だけ貰うわけにはいかない」
アンナはちらりとレオを見た。
ただの、子ども。噂に聞いていた年齢よりも、見た目はかなり幼く見えるけれども、助けを必要としている子どもには違いない。寝台から起こした半身をクッションにもたせかけ、肩にはマントを掛けている。
この子どもが、皇帝だなんて。レオを見つめるアンナのまなざしは、ほんの少し、和らいでいる。
「アンナさん、僕からもお礼をいいます」
金貨を差し出したまま硬直したように立っているクラウディウスを片手で制し、レオは言った。
「クラウディウスのことを悪く思わないで。僕が元気になれたのはアンナさんのおかげだってことが言いたかったんだ。そうだろう、クラウディウス」
「ああ、レオ。わかるよ、わかっているとも」
クラウディウスが言うより早く、アンナはうなずいた。
この騎士がこういうやり方でしか礼をいえないことは、アンナも理解している。自分が帝国金貨を受け取れば、彼の気がいっそう休まるであろうことも。けれども、アンナはレオが皇帝だから助けたのではない。当たり前のことをしたにすぎないのだ。だから、報酬をクラウディウスから受け取るなどは筋違いも甚だしい。
同様に。
クラウディウスにとってもアンナの思考は相変わらず理解できない。裏もなく無償で皇帝に近づき介抱するなどあり得ない――さすがにアンナに関しては、本当に裏も何もないことがわかったけれど――頼まれもしないのに世話を焼いてくれた上に、報酬まで受け取らないとあってはどうしようもない。
「陛下のおっしゃるとおりです。では……」
クラウディウスは思案の末、アンナにひとつ依頼をすることにした。
「紡ぎ手ならば、陛下のための服を仕立ててもらえないだろうか? ごわごわしたり縫い目が肌を刺したりせぬもの。肌触り良く着心地の良いものを」
「それなら喜んで」
アンナはうなずいた。レオにはそのような服が必要なのではないかと自分でも思っていたし、何よりもこの依頼は、アンナでなくてはできないことだろうから。
日頃の偉そうな立ち居振る舞いの中、時折垣間見えるクラウディウスのこうした感情を、アンナは好ましく思い始めていた。
「そんな服を着られるなんてすごいな……クラウディウス、注文つけすぎじゃないか?」
「いいえ。このうえ華美で豪華なもの、などと付け加えたりはしませぬ故」
ランドニクス帝国、若獅子騎士。そんな立場が、クラウディウスをどれほど頑なにしているのだろう。別の時、別の場所で知り合えば決して抱くことのなかった気持ちを、アンナも味わっている。
■Scene:離宮をめぐる人々(2)
音術師ローラナ・グリューネヴァルトと、アストラ神聖騎士ロザリア・キスリングがレオを訪ねてきた。
クラウディウスはレオに帝王学の基礎を講釈しているところであり、扉を開けたのは例によってアレクである。アレクはふたりの女性を見るなり、特に気負いもなく中へと招き入れた。クラウディウスから受けている依頼を尊重はしているものの、あくまで尊重であって、がちがちに堅苦しい護衛をするつもりは彼にはない。
「……ですから、ハリネズミのマント、それを選び出したことは非常に賢明です。失礼ながら、陛下はまだまだご記憶を取り戻しておらぬ様子。心が少し弱っていらっしゃるようにお見受けします。そんなことではいけません。陛下は統治者にして絶対的な権力者。平凡な民と同じ考え方、生き方ではならぬのです。他人には――よろしいですか、私も含め、他人には一切心を許してはなりません……」
ロザリアはつと部屋を見わたした。無法者の姿も今はないようだ。
「ずっとこの調子なのですか?」
「ええ、まあ。だいたいこんな感じですねえ」
ロザリアの問いに、アレクは肩をすくめてみせる。クラウディウスは、筋金入りの帝王学をレオにたたき込むつもりらしい。その一方では、ヴィクトールが少年らしい冒険心なども煽っているのだから大変である。
「アンナがいる時は、歌を歌ったり、子どもらしいこともするんだけど」
「16歳、ということでしたが」
「記憶がまだ不完全だからかな。アンナも、レオは年頃の子に比べて少し幼いみたいだって言ってたね」
「なるほど」
レオを見つめるロザリアの目が細くなる。
クラウディウスは自分たちの来訪にも気づかず、レオに滔々と帝王学を説いている。自分がその年齢であったころに思いを馳せ、ロザリアはかぶりを振った。とにかくひもじくて、眠ることもままならず、口に入るものなら何でも食べる。そんな生活とは縁遠い貴族の世界が目の前に突きつけられている気がした。
「……陛下の微笑ひとつのために、宝石や金貨を平気で差し出す輩がおりましょう。まずはお心を律すること。さもなくば、陛下の歓心を得るために命のやりとりすら行われかねません。そのようになれば宮廷は腐敗し国は滅びの道を歩む。統一王朝は生まれたばかり。志半ばに滅べば、《大陸》はまた戦の時代に戻ってしまいます……」
「えーっと、クラウディウス?」
アレクは咳払いをしてみせる。先にレオが気づき、来客のほうへと顔を向けた。その仕草にようやくクラウディウスは顔を上げる。
「これはグリューネヴァルト夫人。もうお身体はよろしいのですか」
堅苦しい口調で気遣うクラウディウスに、ローラナはわずかに頬を染め、展示室で倒れてしまった失態を詫びた。
展示室で音術を使った際に、彼女の手の甲には髑髏の刻印が穿たれている。そのことを知ってしばらくは居室ではひとりうつむき、思案に暮れたローラナだったが、人前では気丈にふるまおうと決めていた。たとえ死が自分を招いているのだとしても、まだ成すべきことが残っているはずであったから。
夫の死を看取ってより、ローラナはいつも死のそばに立っている。
「新帝陛下の御身に何があったのか、私の術がお役に立てるかもしれないと思い参りました」
ローラナがそういって半身をずらすと、コウモリの羽が揺れた。隣に立つロザリアが会釈し、自分もレオの記憶を取り戻す手伝いがしたいと告げる。
「皇帝として生きるにも、仮にレオとして生きるにも、自分が何者であるか理解する手がかりが必要です」
ロザリアはあくまで少年を陛下とは呼ばないつもりだ。
クラウディウスにしろヴィクトールにしろ、レオに求めているものが違いすぎる。せめて自分が護衛にあたる時間くらいは、少年が穏やかに過ごせるようにつとめたかった。
「ふむ。もっともなことだ」
クラウディウスは直立して答える。レオはそんなクラウディウスの動きに首をめぐらせ、次に女性たちのほうへと顔を戻した。自分を取り巻く人々の一挙手一投足を、全身で受け止めているかのような仕草である。
「面白そうだね。どうやって鳥に招かれたのか、なんで鳥を追いかけようと思ったのか、俺も聞いてみたい」
飾り尾を弄びながらのアレクの言葉に、ロザリアが我が意を得たりとうなずいた。
「記憶を無くす直前の出来事は、やはり白い鳥に出会った場面だろうと思います。鮮明に残っている可能性が高いのではないでしょうか?」
「白い鳥」
レオは鸚鵡返しに繰り返した。弱々しく、自信のなさそうな響きである。
「そうです。白い鳥。白い不思議な伝書鳩。私たちは全員、鳥に招かれてこの場所を訪れている。レオも例外ではないはずです」
「……そうなの、クラウディウス?」
「はい、陛下」
「鳥を見たのはどこだったのか、何をしている時だったのか。そのような手がかりを掴むことができれば、レオ自身の記憶を取り戻すだけでなく、《大陸》へ戻る道を見つけるヒントにもなり得ると思うのですが」
物静かな口調で語るロザリアの脳裏に、ジニアとの会話の断片がよぎる。
――《大陸》へと戻る道。その中に含まれている選択。
「僕……覚えていないんだ。その、鳥の話」
「あの」
と、ローラナが歩み寄った。黒い魔術師の長衣、胸もとにほっそりとした手をあてて、彼女は申し出る。
「陛下。私の音術により、お身体に残されているはずの音の記憶を甦らせたく存じます。お許し願えますでしょうか?」
ローラナは一同に説明する。新帝失踪の噂が流れたころまで遡り、音の記憶を探ってゆくこと。その中で、レオが強い想いを抱いて発した言葉、強い感情を聞き取り、甦らせようと思っていること。精神に属する術ゆえ、レオの身体にも負担はさほどかからないであろうこと。
「なるほど。よい技だ」
クラウディウスにとっても、まさに知りたかった情報である。
「よかった」
こっそりとアレクはロザリアに耳打ちした。
「え?」
「クラウディウス、レオを拷問するつもりだったみたいだからさ」
「な……!」
さすがにこの時ばかりは沈着なロザリアの顔が変わった。
「冗談とも思ったんだけど、まあ、そういう洒落を口にする人でもないし。騎士団に伝わる秘密の技とかあるんだってさ。いやー、俺若獅子の奴らを敵に回さずに済んで本当に良かった――」
後半はアレクの独り言めいている。ロザリアはクラウディウスの恐ろしさを垣間見たように思った。この男は、手段を選ばぬのだ。先日の申し出とも関わりがあるのかもしれなかった。クラウディウスは鳥に乗っ取られる気でいる……いざというときには、ロザリアはクラウディウスにレイピアを突き刺さねばならない。
思考は、途中でうち切られた。
レオが人払いを命じたからである。
「ローラナと、ふたりきりで術を受けたい」
レオに言われればクラウディウスも従わねばならない。ローラナを残して部屋を出る一同の心に、さらなる疑問が渦を巻く。
アレクがクラウディウスを見やれば、彼は疲れのたまった表情をたたえたまま、いずこかへと向かうところであった。
クラウディウスは片手を額にあて、かすかに呻いた。
「鳥め……」
陛下から、距離を置かねばならない。
これは私が招いてしまったことかもしれないのだから。
「どこへゆかれるのです」
「外だ」
ロザリアの掛ける声に背中で答えたクラウディウスは、つと足を止め振り返った。連絡用にと小さな呼び子笛を取り出す。
「……ありがたく預かっておきましょう」
口元を引き結び、ロザリアはそれを受け取った。騎士団の装備として用いられている、何の変哲もない呼び子笛。ヴィクトールへの警戒心ではなく、女性を守るという騎士道精神からの申し出ならば、否やはなかった。
そして、レシアのためを思ったからでもある。
「願わくば、この笛を使うような事態が起きませんように」
クラウディウスは無言で立ち去る。
ロザリアは手の中の笛を見つめた。
かつてこの笛がかの騎士を呼ばわったのは、どのような折りだったのだろうか。
■Scene:離宮をめぐる人々(3)
アンナが姫君の広間へと向かう途中、ヴィクトールに出会う。
「その夢なら俺も見た。気にするな」
話を聞くなり、ヴィクトールはあっさりと言い捨てた。
「でも」
アンナはもじもじとショールに手先をくるみ押し黙った。
「だいたい見ている面子に共通点が何もない。あの姫さまどものお遊びか挑発か、いずれにしてもこっちが勝手に見せられてるんだ。どうしようもねぇじゃねぇか」
姫さまども、と口にするくだりで、ヴィクトールは広間の奥へと顎をしゃくった。数人の旅人たちが、奇妙な玉座の周囲に集って姫君と何やら話しているのがアンナにも見える。
別に、ヴィクトールはアンナに嘘をついて宥めているのではない。焦って行動するよりも、向こうの出方をうかがう方が得策だと踏んでいるだけである。
「ま、でもあんたの心配もわかる。レオも同じ夢を見てるだと?」
「そう……そうらしいんだよ。それで、この話を旅人たちに広めて、直接姫さまたちともしようと思ってね。だって、不吉な夢だっただろう。怖いじゃないか……」
「そういうやり口がお好きなんだろ」
面白くもない、とヴィクトールは腕を組む。手甲が擦れる硬質な音が意外にも大きく響いた。
ヴィクトールはあてがわれた部屋には戻ることなく、広間の隅を勝手に占拠して寝床としている。元の部屋は、個室を希望していた占い師が使っていた。何につけても誰かの思い通りは嫌だというヴィクトールは、どこであっても奔放に振る舞っている。
しかし、アンナは周囲を見わたし、改めて思った。
広間の隅を居所にするということは、あの姫君たちの目の前で寝起きすることであり、同時に、姫君に会いに来た旅人たち、展示室へ行く旅人たちの動きを見張ることでもある。レオの護衛についている間は、そんな見張りもできないけれども、意識的にか無意識にか、この場所を選ぶということ自体にアンナは怖れを抱いた。
この無法者は、どのような人物なのだろうか、と。
半分は、彼の力を頼みにしているアンナでもある。彼女はヴィクトールに、自分がレオを展示室に連れて行くつもりだと打ち明け、その際の護衛になってもらえないかと切り出した。
「ふん。展示室、か」
「それで、質問があるんだけれどねえ、ヴィクトール……」
がしゃり。
棘のついた手甲が、ふいにアンナの目の前に繰り出される。
「俺を呼ぶなら、その名前以外にしてくれ」
「あ……ああ。ごめんよ……ヴィ……ヴィク……」
「呼び名は何でもいい。で? 質問ってのは」
低い声で問いつめられるように畳みかけられ、アンナはすっかり気が回らなくなってしまった。どうにかこうにか質問を絞り出す。
「レオのことだけど……」
そんなこったろうと思った、とヴィクトールは片眉を持ち上げる。
「どうして、あんたは知ってたんだい? レオの事情……いや、新帝陛下の事情。『新帝陛下』が『大人たちに担がれて』『玉座から逃げ出した』って話を……それに、あの騎士さまのことも」
もちろんクラウディウスのことだとヴィクトールにはわかる。騎士さま、か。自嘲も込めた不思議な響きである。またあいつか、とも思う。
「騎士さまのことも、仕向けたろう。レオが、あの騎士さまに不信を抱きかねないように」
「で?」
アンナは逃げずに、ヴィクトールをひたと見上げた。
「レオに何をさせたいんだい」
ヴィクトールは顔色ひとつ変えずに、壁にもたれていた半身を浮かせてアンナに向きなおる。見下ろせば小さな女だった。最初の印象よりも少し気丈に見えはしたが、それだけだ。
だが、使える。
いつもならば壁際に追い詰めて両手を檻にし、逃げ道を塞いで語ってみせるところを、ヴィクトールは抑えてこう答える。
「帝国について知る者ならば誰でも予測できるさ。公子たちが次々と後ろ盾に担ぎ出されて泥沼の継承劇を演じたこと。幼い新帝は当時まだ14……もう16になったんだな。年齢と騎士団の動きを見れば、裏事情なんてそのくらいしかない。違うか?」
ついでに、裏事情とやらはクラウディウスがばらしているも同然だ、と付け加えるヴィクトール。
「だからといって、側近の騎士さまへの不信なんて」
アンナは真剣なまなざしのまま、ヴィクトールを見上げたままだ。
彼はふいと視線をそらし、帝国貴族は嫌いなんだ、といった。ついでに、この雰囲気も――嫌いというよりも苦手だ。あの緑色の瞳、ひたむきな視線が、アンナのまなざしと重なりかねない。もっともそんなことはアンナにする話ではないから、口にしないのだが。
「貴族なんて奴らは、意地や見栄で人を殺してもよしとする連中だ。大義のためなら何だって、自分の力で遂行すべきだなどと巫山戯た考えを持っているのもいる。不吉な夢より、俺に言わせりゃそっちのほうが危険だな」
帝国貴族と聞いて、アンナも軽くうなずいた。クラウディウスが筋金入りの貴族であることなど一目でわかる。ヴィクトールは帝国内乱において追われた側の人間なのではないか、とアンナは思った。例えば……貴族の落胤だとか。
それならば得心がいくのだ。帝都の事情に詳しいことも、クラウディウスを目の敵にしているようなところにも。アレクが捨て駒であったように、ヴィクトールには追われている者の陰がある。そして、力づくで陰を打ち払ってきた乱暴さが。
「レオに関していえば、自分がどうしたいのか、自分で決められるようにしてやりたいだけだ。納得してもらえたか?」
わずかに、ヴィクトールの口調が変わった。アンナは気づいているのかどうか、ただうなずき返す。
「それと、レオを展示室に連れて行く話だが」
「ああ……病み上がりのレオには、まだ危ないかもしれ」
「面白そうだな」
アンナの不安を打ち消すほどに、ヴィクトールは乗り気であるらしい。
「そりゃ楽しみだ。手伝うぜ? ついでに知ることもできるじゃねぇか。あいつが何をさせようとしてるのか」
つかの間変わった口調は、また元の無法者に戻っている。
「子供の骨を鳴らす風が行き着く場所にあるのは、光か、闇か。………見出す時が楽しみじゃないか?」
「ええ? 何だい」
アンナはけげんに聞き返す。
「戯言さ」
答えたヴィクトールは機嫌がよさそうである。
■Scene:知る者なき鎮魂歌
クラウディウスは外の風に吹かれていた。
館にもほど近く、笛の音が聞こえる場所。何かあればすぐさま駆けつけられる場所。切り立った崖の上からエメラルドの流体、輝ける海を見つめる。大きな木がつくる日陰に腰を下ろす。
視界の隅を白い伝書鳩が飛んでいるのに気づき、行方を視線で追いかけた。やがて彼方で点になり消えゆく鳥たち。
あの鳥たちは、新しいまろうどを島へと招くのだろうか。
鳥は死を運ぶ……ジニアがどこまで真実を告げているのかわからないけれど、《大陸》で最も相手に死の引導を渡したものといえば、間接的ながらそれは新帝陛下なのだろう。そう思った。陛下の命だからこそ自分は、帝位継承者をも手にかけた。そのほかのたくさんの人々をも、文字通り踏み躙り、血潮に沈め、屍に変えてきた。
「嫌な憶測だ」
かすれた声で、想いを断ち切るように呟く。
手元にはしたためた手紙がある。《パンドラ》を探しているという内務省へ宛てて書いた報告書だ。若獅子騎士団の紋章で封を掛けた瓶を、一面のエメラルドに向かって投げた。万一でも《大陸》へ流れ着く可能性があるならば賭けようと思った。
手紙は暗号で書かれている。アレクが口にした《聖地》アストラの神官の名も、そこには記されている。
ふと、日陰を提供している大樹を見上げる。小ぶりの枝をナイフで落とし、手遊びに笛をつくってみた。
「ふむ」
陛下にお渡ししよう、クラウディウスはそう思った。不恰好で粗末な代物であるにせよ、芸術は孤高の皇族のなぐさめになる。帝王学の息抜きにもなるし、何よりも、陛下ならば素養を持ってそれなりに音を出せるはずである。
新帝陛下がご本人なのか、それともご本人の影なのか。
この笛をお渡しして試金石としてみよう。
暗い疑念が晴れるときを待ち望み、クラウディウスは笛をつくる。
5.歪みの訪れ に続く