3.閉じられぬ円環
■Scene:任務
自分にやれることをやるしかない。
エルリック・スナイプの頭の中で、ここ最近ずっとぐるぐる渦巻いている想いである。
ルーサリウス・パレルモに会って情報交換しているうちにも、そのような話になる。
「《大陸》に帰る方法を探している者がいないのが驚きですよ。どうやら私だけじゃないのかな、やっきになって帰ろうとしているのは」
ルーサリウスは柔和な表情でそういった。
仕立ての良い膝丈の上着には汚れもなく、下に着たシャツもきちんとした白さを保っている。ポケットからは彼がいつも携帯している手帳が覗いていた。
「そう……でしょうか。恐れている者も多そうではありませんか」
このむっとした熱気さえなければ。エルリックは目の前の先輩を見て思う。ここがペルガモンの役所であってもおかしくはない。もともと真面目な性格のルーサリウスは、こんな場所でも日常を崩さないのだろう。
「子どももいますからね」
「ああ、ロミオくん」
ロミオは唯一、保護者を必要としそうな子どもであった。ジニアによれば、これまでもさまざまな年齢の人々がまろうどとして島を訪れているそうだから、特に珍しいことはないらしい。それはそれで、ロミオが何か果たすべき役割を担っているのだろうか……などと、ルーサリウスの思案の種は尽きないのだが。
「しっぽが似合ってますよね、あの子」
ロミオが選んだ装飾品を思い出し、エルリックは口元を緩めた。エルリックも飾りの尾を選んだのだが、やはり子どものほうが似合うんだな、と思ったのである。
「うん、まあそうかもしれないね」
ルーサリウスのほうは、エルリックと話しているとどこか調子が狂う。
不愉快なわけではない。肩の力が抜けるというか、気持ちが解される。姫君たちに紅茶をふるまったという話も聞いたばかりだが、エルリックらしい、というほかない。
あるいは、自分がエルリックのような素直さを持っていたならば……。
ルーサリウスはこめかみに指を当て、ふい、と黒髪を揺らした。視界の端で金色の指輪が鈍く輝いている。
こんなときに他人を羨んでも仕方がない。妻はもう去ってしまったのだし、仕事は山のようにあるのだから。
「それで僕、もう一度会いに行ってきますよ」
「なんですって?」
「あの鳥の子……いや、獣の子というほうがいいのかな。とにかく《パンドラ》に」
ルーサリウスは、眼前の小柄な青年を見返した。彼は《パンドラ》について情報を得たのだ、といった。得たのはいいが、危険な状態に陥っているのではないだろうか? 自分たちは帝国役人として《パンドラ》探しを命じられている、それは誰からの発令なのだろうか? 自分たちは、誰のために何をしようとしているのだろう?
ああ。
どうしてエルリックは、屈託なく笑顔を浮かべていられるのだろうか。
「……あ」
ルーサリウスの視線に混じるそんな想いを汲み取ったのか。青年は恥ずかしそうにうつむき、いった。
「ごめんなさい、こういうときはまず飼い主さんに断りをいれないといけないですよね。《パンドラ》に会いに行ってもいいものでしょうかって」
汲み取っては、いないようである。
■Scene:夜想より眩しく(1)
見てしまった。
見てはいけないものを見てしまった。
寝台の中。ルシカ・コンラッドは上掛けを頭からかぶり、考えた。
ああ、何なんだろ。どうしてかな……あの子がかわいそうで……羨ましい。
そうだ。あたし羨ましいんだ。あの子のこと、あの子が自分のなすべきことを知ってるってこと。
あの子は純真だ。求めるものを追い続ける。あたしも追いかけたいのに。追いかける相手は《クラード・エナージェイ》しかいないのに。あたしは追い続けてる? 彼らを、ちゃんと?
ああどうしてこんなに……世の中しがらみが多すぎるのかしら。
魂を奏でたいの早く。追いかけたいの、今すぐに。
こんなあたしの気持ちを、あたしの魂は旋律にできるだろうか。
あたしの魂、《クラード》が、こんなにも誰かを求める気持ちを歌ったとしたら。
あたしは枯れるほど涙を流して、叫ぶのかな。
《クラード》にここまで求めさせた誰かを、苦しいほど求めるだろうか? それとも。
「ねぇ、ウィユ姫さまっ。レヴ姫さまっ!」
ルシカは跳ねるように広間へ向かった。ジニアが《ルー》を知らないのなら、残るは姫君しかいない。わからないことは聞くしかない。
「あ……ルシカさん」
先客にまぎれていたエルリックが、手を振るでもなく微妙な会釈を返した。
「あーエリ君。そっか、エリ君もルじゃないか、エルちゃんだったらついてるのにね。惜しいんだけどね!」
「何の話?」
先に姫君の元を訪れていた旅人たち、ヴァレリ・エスコフィエとスコット・クリズナーは、互いに首をかしげルシカを見やる。
「あ、ヴァーちゃんにスコ君! ん〜、ふたりも違うみたい。ルの音ないもんね? 誰なんだろうねー」
さっきまで寝台の中にうずくまっていたのとはまるで別人のテンションで、ルシカはくるくると表情を変える。
「旅人の中で、《ルー》っぽい人? 誰かいたかな?」
スコットは調子よく彼女に合わせたが、不意に気づいた。
ルシカもまた、《ルー》を探していることを。
「刻印が」
「ん? 何なに、スコ君っ」
「や……で、《ルー》っぽい人って。見当はついているのかい?」
「いるにはいるのよ。ルーシャさんでしょエルちゃんでしょ、あー、あとヴィー君もかなあ、ヴィクトールだもんね……クラ君、は違うし」
名前を縮めて呼ぶルシカの癖は、留まるところを知らない。クラウディウスも彼女にかかればクラ君なのである。
「レヴ姫さまもルがつくね、んーラールもつくし、え、ラールって《クラード》のホラ、不思議ちゃんっていわれてるけどそういえばエリ君とも雰囲気似てるかな、弦やってるの、でもけっこう身長は高くてね、うわーうわーもしかして《クラード》やっぱり来てたりして、そして《パンドラ》ちゃん、いや《パンドラ》ちゃんだとちょっと長いよね、パンちゃん? パンディーちゃん? うん、可愛い感じ。パンディーちゃんに出会ってそれでラールが《ルー》になってたんだったりしてキャー!」
「……キャー」
小さくスコットも真似てみた。よくわからないが、ルシカは楽しそうに見えた。
楽しそうにしている可愛い女の子や大人のお姉さんがこの島にはいっぱいいて、スコットも楽しいのであった。もっとも、楽しそうに振舞っていても、ルシカは《ルー》を探している。少し、どころではなくスコットも気になる。
「なんだい、それ」
ヴァレリは鼻を鳴らし、ルシカがひとり頬を染めている様を眺めている。
「それじゃないよ。《クラード》だよ! ね、姫さま?」
突然会話に引きずり込まれても、姉姫ウィユは嫣然と微笑んでいる。豪奢な衣装の袖口で口元を隠し、ころころと楽しげに笑う。
「《クラード・エナージェイ》。ティトナ、ラール、ハノン……」
覚えたての《クラード》の楽団員の名前を呼ぶ姫君の声は、古めかしい抑揚のせいか、べつのものの名前のように聞こえた。
「そうそう、今のが歌と弦と。それからノイね。彼は鍵盤」
ルシカが流れる水のごとく語るのを、ふうん、とヴァレリは流した。
ルシカの要領を得ない説明から知れたのは、どうやら《クラード》というのが彼女の入れ込んでいる楽団らしいことだけだ。彼らがどれほど《大陸》で人気があるのかすらも、長い牢獄生活から抜け出したばかりのヴァレリにはわからない。
「《ルー》ってのがそいつらかい」
「違うよー。そうかもって思っただけ……! ねぇねぇウィユ姫さま、レヴ姫さま。パンディーちゃんは《ルー》を探していたわ。誰だか知ってる?」
スコットはぴくりと耳を動かした。それは、スコットが一番知りたかったことだった。
エルリックもうなずいた。彼はルシカとともに、確かに《パンドラ》が《ルー》を呼んだのを聞いていた。
「さあ、誰かしら?」
ウィユが首をかしげれば、大仰に結われた髪の飾りが漣のように連なった音を立てる。
「あの子は《ルー》を探してる。愛してるから。姫さまはあの子のどこまでを知ってるの? 愛してるんだったら、《ルー》のそばに行かせてあげるべきじゃない?」
ルシカの胸の旋律球もまた、ルシカが話すたびに相槌のような旋律を奏でる。
「俺も知りたいな」
そうすれば、あの夢がどういう意味を持つものなのかわかるかもしれない。スコットは思う。
変な夢に、意味があれば、だけど。
「あの子は拾ったの。海岸にぼろくずのように流れ着いていたのを、マロウが見つけた」
そのときの様子を、姫君は語った。
否。語ろうとしかけたウィユの袖口を、妹姫がつと引っ張り、顔を見合わせたふたりはひそやかに微笑んで……。
「説明よりも、こちらが早い。それもそうね」
姉姫ウィユはそういった。妹姫レヴルは微笑みながら、ルシカとエルリックの手を引いた。
「……ん?」
ヴァレリは反射的に警戒して、眉をひそめた。彼女たちが何を仕掛けてくるのかわからなかった。
ルシカとエルリック。姫君の手に触れたふたりの唇から息がこぼれる。
ルシカはとっさに、ヴァレリをつかんだ。同じようにエルリックも、隣に立つスコットの肩に触れる。
「うっ」
うめいたのはヴァレリだった。
ルシカと触れあった瞬間、不思議な感覚が襲ってきたのだ。
「見えるかしら、まろうどたちよ」
ウィユは恍惚としながら呟いた。
「レヴ姫さま……」
ルシカも呟いた。眼帯をしていないほうの瞳が、あらぬ方向をさまよっていた。漏らした言葉は、未だ言葉を交わさぬ妹姫の名前であった。
■Scene:移ろう音紡ぎ(1)
暗い色の上着の袖に羽根を模した義手を通し、通路を渡る。元学者スティーレ・ヴァロアは、リラ・メーレンとヴァッツ・ロウの居室を訪ねていた。リラが地図を所持していると聞いたからである。
スティーレが習得している魔法のひとつに、別の場所で交わされている音を聞き取るものがある。館の構造を把握すればより効果的に魔法を使うことができるのだった。
「うっわ、スティーレさん。ようこそっすー」
元気な学生は、相変わらず元気よくスティーレを出迎えた。
その若さを半ばうらやみ、スティーレは目を細めた。
彼女の声音からもはつらつさが伝わってくる。きっと寝付きもいいのだろう、男性と同室でも頓着しない性格のようだ、などとスティーレはひとしきりリラを分析しかけ、慌ててその癖を押さえ込んだ。
「スティーレさんも枕投げ、します?」
「……いいえ、遠慮しておくわ」
「ええっ残念っす。ヴァッツさん弱いんすー」
見れば、リラはクッションを両手にわしづかみ、部屋の角で膝を曲げて座り込んでいるヴァッツに向かって今にも投げつけようとしているところであった。
「きっと、女性には手を出さない主義なのよ。ヴァッツさんは」
「そうなんすかー?」
尻上がりに語尾をのばしたリラは、くすりと笑った。
「ヴァッツさんって面白いんすよ。あの袋がとっても大事らしいんっす。気になるっすよねー? あ、ソコはヴァッツさんの陣地なんで」
自分の寝台にどっかと座ったかと思うと、リラは目に見えぬ境界線を指差した。
「陣地?」
「ココからあっちは、ヴァッツさんの陣地。なもんでスティーレさん、こっちに座ってください……そうそう。もしかしてヴァッツさんに御用なんだったらあっち側っす」
実は、リラは仕切りたがりである。彼女によって、この部屋におけるヴァッツの陣地はもちろん、荷物置き場から鏡台の使い方までもが決められている。
「いえ、いいの。リラさんに聞きたいことがあったの」
苦笑するスティーレ。その言葉が、膝を曲げているヴァッツをさらに悲しませたことには気づかない。狼の毛皮をかぶったヴァッツは、ふいとあらぬ方向を向いているだけに見える。
「えー。スティーレさん、学者さんっすよ? だめっすよー。答えられることなんてないっす」
リラがぶんぶんと首を振るたびに、太い赤毛の三つ編みが揺れる。
「貴方が持っている地図のこと」
「あーあーあー。持ってるっすよ。キヴァルナさんの地図」
ぴくり。ヴァッツの耳が動いた。リュックから取り出された件の地図を見ようと、ヴァッツはじりじりと背後からにじり寄った。
「ヴァッツさんも見るっすか? じゃあスティーレさん悪いすけどちょっとそこ空けて。はい。そうそう。見えるっすか?」
「……あ。……うん」
おずおずとヴァッツは頭を突き出した。リラの寝台に広げられた地図を3人が覗き込む。
「あら。館の中の地図じゃないの」
「キヴァルナさんのは島の地図っす。館の地図は、ルーサリウスさんたちが作ってるっす。ちらっと見せてもらったんすけど、なんか思ったより広そうな感じだったっすよ」
そう聞いてスティーレはうなずいた。館の中の音の響きが、広い場所のそれに似ている気がしていた。
――帰り道を求めるならば外ではなく内へ。内はいつも外よりも広いのだから――浮かんだ一節は、アレクが見つけた手帳に記されていた言葉。
「これ……ここ、丸い島……?」
「丸っつか、半円っつか。ヘンな形っすよね」
ヴァッツがつぶさに地図を眺めているのを見つめるリラ。抱えたままの小さな袋が、気になって仕方がない。
そういえば。ヴァッツが袋に詠唱のような呟きを繰り返していた場面も、見たことがある。
気になる。中を見て大声で叫びたい。
「何か手がかり……書いてないかな」
相変わらずぼそぼそ声のヴァッツだ。よもや自分が、そんな目でリラから見られていようとは思わない。
森の中に記されたこの館。すっぱりと直線で区切られた円弧。少年が流れ着いた浜辺……。
「……字、書いてないんだな……」
顔をあげたヴァッツはがっくりと肩を落とした。
「しょーがないっす。この島、本だってないみたいだし。お姫さまも字を読んだりしないみたいだし」
「でも、地図を描いたのは《大陸》からの旅人でしょう。便宜上の名前でも記しそうなものだけどね」
「そーいうの、あんまり気にしない人だったんすかねー。マロウさんは覚えてないっていってたから、お姫さまに聞いてみたらキヴァルナさんのこともわかるかもしれないっすね」
「この島にあるものはみんな客人がつけた名前だものね。《澱みの海》といい、《終末宮》といい、あまり良くないイメージの名前もあるし」
「いやあ。でも《満月の塔》は、怖い名前じゃないっすよね」
「さあ、どうかしら? マロウに聞いたんでしょう、《塔》に至る道」
「道があるってだけで、教えてはもらえなかったっすからねえ。なんか代償いるとかって、困るんすけど……ねえ、ヴァッツさん?」
ふたりの視線が、狼の毛皮の下に注がれる。
「……帰りたい」
ぼそり。それはヴァッツの叫びだ。たとえ口調は低くぶっきらぼうなものであっても。
「え……う……ああ……いや、マリィ」
視線に気づき、途端にヴァッツは慌てふためいた。
「マリィ?」
「人の名前みたいね?」
即座にスティーレが聞き分けた。学者は聞き上手でもある。
「ちが……その……じゃ、なく……」
強気な女性は苦手だった。母や姉を思わせるから。
「リ、リラ」
「はいっす」
ももんがの尾をふかふかしながら、リラは毛皮の下のヴァッツの顔を覗き込んだ。
「ゆ……いや、なんでもない」
結えばいいのに、姫さまみたいに髪を。飾りもたくさんつけて。りぼんやフリルもつけて。
口走ったとき彼女はどんな顔をするだろう? シンシアがしたように、否定する? 大笑いするだろうか?
絶対もう立ち直れない。きっともう鳥は来ない。追いかけてしまったから、自分でなんとかしないといけないけど、その自身がヴァッツにはない。だから面倒くさくなって、ヴァッツはもごもごと口ごもる。
スティーレはなんとなくヴァッツの想いを汲み取り、思う。彼が素直になれない理由は、どこにあるのだろうか、と。
リラは……ヴァッツが格好いいお兄さんなので素直に喜んでいる。
■Scene:夜想より眩しく(2)
(これ、あんたたちの力かい?)
(ええ。ウィユと私が持つちから)
(ああ……へぇ。なるほどねー。レヴルちゃん、ちゃんと話せたんだ)
(……ええ。これが、“話す”ということでしたなら)
(って、手話みたいなモンじゃねーの?)
(しゅわ? しゅわとはいったい何ですか?)
(知らない? そういうの発達してる村とかあるんだよ、《大陸》に。すっげー寒いところとか。声に出すかわりに、手とか指とか組んで話すのさ)
(あたいは知らないよ、手話のやり方なんて)
(やり方とかじゃないんじゃないかな、これって自然と……話せるようになってるんだし……ちょっと違うかなあ)
(言葉じゃないんですね。姫さまたちが使う……“ことば”は)
(……あ)
(光ってる……僕の)
(あたしのも……)
((……刻印が……))
互いに触れ合う旅人たちは、姫君の意志が不思議な方法で行き交うのを感じていた。
さまざまに翻り、混ざり合い、弾け飛ぶ、幾万もの色彩群。
ひとつひとつの色は、言葉の意味である。
そうして色彩で構成された姫君の記憶が、旅人たちの眼前に、見てきたかのように繰り広げられている。それはふたつの場面。
浜辺に打ち寄せられた、襤褸くずのような、何か。
海草に塗れたその身体は、捨てられた丸太のように動かない。
ただ波だけが、襤褸切れから伸びた足やくたりとしおれた指先を洗い清め続けている。伸び放題のたてがみは潮風にさらされて色あせこわばって、巻きつく海草と見分けがつかぬほどである。
それを最初に見つけたのは、海から戻ったばかりのマロウだった。
銛を手にしたままで、ぶるぶると濡れた髪を振るう。飾り角の先からも飛び散るしずくが、きらきらと襤褸の上に降り注ぐ。
それは身じろぎをした。
「生きているのか」
呟いたとたんマロウの耳に羽音が聞こえた。
視界は瞬間白い羽根で埋め尽くされる。しかし、鳥の姿はない。マロウには、見えない。
「……伝書鳩の獲物か」
感情のまったくこもっていない声で、マロウは呟いた。
もうひとつの場面。
マロウに連れられ姫君の元へ、その獣は案内された。
揺らめく蝋燭の炎のほかには、広間を照らし出すあかりはない。
それはうつぶせになり、うずくまったまま、顔をあげようともせず、ただ鬣をゆらしている。背中にかけた毛並みには、大きく切りつけられた傷跡が醜くただれて残っていた。大きな耳と太い尾はだらりと床を這っている。
「汝の物語を許しましょう、名もなき獣」
玉座から降りた二人の姫君は、面白そうに獣に歩み寄った。
側にはマロウとジニアが控え、奇妙な謁見の様子を額づいて見守っている。
「鳥がおまえを選んだのなら、おまえが今宵の語り手になるのです」
獣はくい、と背を丸めた。姫君に怯える子犬のように、その場で縮こまっていた。
「言葉をなくしても無駄なのに、わからないのね。可笑しい」
姫君たちは笑みを浮かべてひそやかに見つめあった。
そしてするりと白い手を伸ばした。
触れれば広がる色彩が、失った言葉以上のものを伝えるのだ。
(ああ……ここだったのね、《パンドラ》)
「パンドラ?」
おまえは《パンドラ》ね。姉姫は獣の頭部をゆるりと撫でた。異形の角を擦るたびに、新たな色彩が翻り続けた。獣は姫君をあるじとして見つめている。
(《パンドラ》……約束したわ。ルー、どこにいるの?)
「ふふ」
ふたりの姫君は、獣の元に身を折り口づけた。
「此度のまろうどのなかに、探し物は見つかるかしら、ね?」
(……ルー。愛してる。ルー……)
「ほら、鳥が飛びたつ」
唇を離し、ウィユは囁いた。
「おまえの想いが強ければ強いほど」
《パンドラ》の目が不気味に輝いたかと思うと、その身体の中から鳥がうまれた。
背中にはいつの間にか輝く髑髏の刻印があった。刻印を割るようにして、ぬらぬらと輝く肌が浮かび上がる。たくさんの白い鳥の羽根が、風の渦に飲まれたちまち螺旋を描き、その少女を包み込んだ。
鳥の子。あるいは獣の子。
「いい子ね……」
産んだ獣は、力を使い果たしたように倒れ伏し、ぴくりとも動かない。
青ざめた少女。乱舞する鳥の羽根。浮遊する光。
鳥の羽根はやがて百羽もの白い鳩に変じ……。
館の外、夜の空へといっせいに飛び立っていく。
青ざめた少女はただ伏した獣の側に佇み、ルーの名を呼び続ける。
ふたりの姫君はそんな少女を眺めながら、ふたりだけのくちづけを交わす。
■Scene:夜想より眩しく(3)
そんな光景を一方的に見せ付けられた旅人たちであるが、幾分疑問が氷解したものもいれば、さらに気になることが出てきたものもいる。
(此処はあんたの屋敷であんたが主みたいだけどさ、コレはあたいの物語でもあるんだろ。垣根がないんだから、そこにいるあんたも舞台の中にいて、中にいる以上、登場人物ってわけだ)
ヴァレリは自分の声までも、不思議な色彩に変じたことに少し驚いた。
けれども、見た目はどうあれ会話が成り立っているのだから問題はない。気にせずヴァレリは先を続ける。自分の言葉、その意味の色彩を、居合わせたほかの旅人たちもまた感じている感覚を浴びながら。
(囚人、そのとおりよ)
(だからあたいも、好き勝手やらせてもらっていいってことだろ)
(あの狂犬と同じことを。もちろん、それが汝の物語である限り)
狂犬がヴィクトールを示すことにヴァレリが思い当たったのはしばらく後であるが、ともかくも彼女は浮かんだままに疑問をぶつけた。
姫君の名前は誰がつけたのか。そして姫君はなぜ姫君と呼ばれているのか。
呼び名にまつわる問答から、姫君の正体の片鱗が見えるのではないかとヴァレリは思っていた。行動の奥底にあるのは目の前のものに対する好奇心だ。
正体を理解すれば、目に見えない閉塞感をうちやぶる助けにはなるかもしれない。が、ルーサリウスのような真剣さは、ヴァレリにはない。不思議があるから、疑問があるから問うてみるだけだ。
(我らに名前をくれたのは)
きらきらと、金色の光がひらめいた。どこか月光を思わせる淡い金色。
(《月光》。空を翔るまろうど。我らを見つけ、我らを捕らえ、我らを名づけた)
最初の旅人だ、とスコットは思った。レヴルが色彩をを操るたびに、月光色の記憶が飛び交う。それは心地よい光。注がれる快感。そういえば、月なんてどれほど見ていないだろう……。
(記憶の中にあるものほど美しいっていうし)
特に深い考えもなく、スコットは浮かんだことを語る。ずきずきと身体の中が脈打っている。繋いだ手から、鼓動がこぼれているだろうか。
(俺ももしここを離れても……離れれば離れるほど、お姫さまのことは美しく思えるのかもしれない)
それは言葉にしたつもりではない想いだった。スコットが心の中でつけたした部分だ。
なのに、口にするとしないとに関わらず、想いうかべた光景が即座に色彩の奔流となった。スコットは目を見張る。
(目に見えているわけじゃないのか、この……色は。この会話は)
(すごいね! これで《クラード》の歌を聴いたら……どうなっちゃうんだろう)
ふるふると身を震わせ、感嘆するルシカ。全身に彼らの魂を、文字通り浴びるに違いない。
(ルーに聴かせたいな。パンディーちゃんにも)
痛々しく苦しげなあの獣の子。鳥の子。あの子はこの気持ちよさを知っているのだろうか?
ルシカの手の甲が光っている。それも心地よい光に映る。
(その《月光》という旅人は、どうなったのですか?)
(もしかしてあんたのこと、姫さま呼ばわりしたのもそいつじゃないかい?)
エルリックとヴァレリの疑問が、暗く渦を巻く色に変じて姫君に投げかけられる。
(母でもなく子でもない。だから姫、とまろうどはいいました)
妹姫レヴルは、紫に煙る瞳を見開き、一同に色彩を注ぎ込む。
(我らは《月光》と約束しました……我らが探しているものをみつけたとき、我らの物語ははじまりから終わりへ向かうのだと)
スコットは、スティーレがが姫君と交わしていた問答を思い出した。
(お姫さまたちが探しているものって何だい?)
もし自分が知っているものなら、いくらでも探してきてあげようとスコットは思った。《大陸》中を巡ったことのある身である。彼女たちに望みがあるなら、叶えてあげたかった。おいしい紅茶だったらよかったのに、エルリックが持っていたんだから――でもそうじゃないんだよな、きっともっと手に入れるのが難しいものに違いない。
(うふふ)
レヴルは姉姫と微笑みあった。
(それはね、商人)
(それこそが、我らの探しものなのです……)
ルシカの身がぴくりと跳ねた。彼女の瞳は潤んでいた。
(パンディーちゃんはルーを探してる。お姫さまたちは、探しものを探してる)
(……あんたは《クラード》を探してる、か)
ヴァレリは呟きながら、ルシカとエルリックの手の甲に輝く髑髏の刻印を見た。彼らと繋ぐ自分の手にも、いつの間にかその刻印が記されている。
「ねえ、あの子を離してあげて。いいでしょ?」
繋いだ手を解いた瞬間、めくるめく色彩は陽炎のごとくかき消えた。
ヴァレリはまじまじと自分の手を見つめる。微熱がまだ残っていた。
「よいでしょう、職人。思うがままに」
姉姫ウィユは、次に訪れる出来事が楽しみだといわんばかりの口調で告げる。
■Scene:移ろう音紡ぎ(2)
ヴァッツとリラの部屋を後にしたスティーレは、暗い色の上着の袖に羽根を模した義手を通し……身をこわばらせた。
覚えたことのない違和感は、『sharpear』の魔法の効果が得られなかったからである。。
スティーレは小声で詠唱を終えていた。大広間のおおよその位置へ向けて放った魔法は、あのあたりの音くらい絞り込めるはずなのだが。
「障壁? そういうわけでもなさそうね」
盗み聞きをしようと思ったのではない。
端から見ればそう思われるかもしれないが、他の旅人たちがいる時間を避けて姫君の元を尋ねたかっただけである。この館、あるいはこの島全体に秘められた不思議な力が、距離や時間を歪めているようにも思われた。
それも収穫ではある。時のない島、そこに住むものたちは、ひとしく時間を失っているのだ。ある瞬間から時を止めているのかもしれない。
「声が聞こえない、つまり音声による会話が成立していないということ?」
自分と対話を繰り返すように、スティーレは思考を続ける。足はもちろん大広間を目指す。
不意に。
レヴ姫、と誰かが呟く声がした。
あの声はおそらくルシカだ。時に激しい高音域に達する声域を持つお嬢さん。旅人たちの会話が途切れた後、彼女はなぜ言葉を持たぬ妹姫を呼んだのだろう。
いぶかしさもあるが、興味もある。姫君の持つ力の一端が顕わになったということだろうか。
唇を一文字に引き結ぶスティーレの傍らを、背丈が半分ほどしかない子ども、とんがり帽子のロミオが駆けてゆく。
振り返ると、通路の奥に向かう白いローブと、その裾からひきずるように伸びている飾り尾がいつまでも視界に残っている。
子どもは好きだ。いつかは学問を離れ、小さな子の手を引いてあやすような仕事をしてみたい。
ああ……それは仕事なのだっけ、それとも暮らしなのだっけ。
なぜか、長い間失っていた眠気に襲われたような気がして、スティーレはかぶりを振る。
■Scene:かたちのさがしかた(1)
リラとヴァッツの部屋に、ジニアがやって来た。敷布を取替え寝台を整えるのだという。
「あーすいませんっす。今地図片付けますからっ」
ももんがの尾を振り、リラは寝台から跳ねるように飛び降りた。
やっぱりもっと可愛い格好をすればよいのに。ヴァッツは心の中で幾度目になるだろうそんな想いを抱えたまま、じっとジニアを見つめる。
冷たい仮面だった。固く冷え冷えとした色と形は、ジニアの片頬をしっかりと覆っていた。
「何かしら」
「うあ……いや」
「その袋も洗うの? 敷布と一緒だけど」
「あ、洗わない! 絶対!」
汚くないんだ、袋に入れてるし。ヴァッツはそういって後ろ手に袋を隠す。
「そう」
すぐに興味を失ったと見えて、ジニアの返答はそっけない。
「学生。貴女も洗い物があったら出せばいいわ」
「え? いいっすいいっす。ちゃんと自分でやれるっすよ」
後からリラは知ったのだが、ジニアの振る舞いは、彼女の勤めを手伝うと申し出た旅人がいるかららしい。そんな噂を聞いたリラは速攻神速でヴァッツに話すのであるが、さておきジニアである。
リラは彼女に会えたついでに、キヴァルナの地図について尋ねてみる。
「これほんとに未完成なんすかー? ちゃんと欠けもなく描いてあるみたいなんすけど」
ぶん。ヴァッツも頭を縦に振る。
「海岸線も、ばっちり合ってたっぽかったっす」
「そう。そのときは合ってたのね。それだけのこと」
「……ん? 話がいまいち見えないっす」
「《塔》も……描いてない」
「もしかしてキヴァルナさん、《満月の塔》を探して、その場所を描く直前に命を落としたとか?」
長い柄の箒で床を撫でるジニアは、リラを一瞥する。
リラは恐ろしさ半分、すっきりしたさ半分をたたえたまなざしで、ジニアを見返した。
「《満月の塔》を探す人のところへ、やってくるんすか?」
「な……何が……」
「《死の剣》っす」
ジニアの長い黒髪がふわりと翻った。彼女はふたりに背を向けていた。唇は小さく違うわ、と呟いていた。
「じゃあ何でキヴァルナさんは」
「《塔》を探す者が選ばれるわけじゃない」
選ばれる?
リラは首をかしげた。死の剣。その言葉はとても不吉なものだけれど、意志を持つ武具なのだろうか。
「地図職人はちゃんと描いたわ。少なくとも形だけはきちんとうつしとった。でも彼が、すべてを描きあげたつもりになって喜んだとき、変わってしまった」
「《死の剣》がっすか!」
「違うわ」
先ほどの口調とは違い、嘲るような語気でジニアは吐き捨てる。
「貴方たちはまだ見てないの? 展示室。あの部屋のつくりも変わるの。この島で確たるものなんてないのよ。考えてもごらんなさい。地図学者はどうやって地図を描くと思う? あのひとは教えてくれたわ。測量して名前を書き込むんだって。名前もない場所、姿を変える場所、そんな場所の地図なんて描けると思う? だから……」
リラは地図をつかんだまま部屋を飛び出した。ヴァッツが口ごもりながら追う。
ジニアはふと口元をゆがめ、箒を持ち替えて通路をひとりゆく。
「……だからあのひとは、地図を描く手を止めた。あのひとの物語を曲げてしまったんだわ」
こつ。こつ。こつ。
古い館に響く足音。
「私など助けようと思わなければよかったのに。キヴァルナ」
岬の突端。キヴァルナの墓標に背を預けリラは叫んだ。
「うっわ、ほんとっすねー!」
「う……」
海からの強風に飛ばされぬよう毛皮を押さえながら、ヴァッツも見た。
「海岸線が、違う……」
島の形が変わっている。
キヴァルナが半円形に描いたこの島は、いまや、ふくらんだようにさらなる円みを帯びている。
ちょうど満ちてゆく月のように。
「あー、鳥っす!」
リラの指差す先、白い伝書鳩が3羽。島を発ちどこかへ飛び去っていく。
「鳥だったら……出られるのに。この島から」
「何いってるんすか、ヴァッツさん! 皆で仲良く帰るんっすよ!」
ヴァッツの腕は、ばしばしとリラにはたかれている。リラの言葉は、どこか自分に言い聞かせている。怖い、危ない、秘密の場所。溢れているという死の側には近づくまい。そんな決意を込めてはたいている。
それに、とリラは改めて岬の景色を見渡した。
こんなに明るくて、海がきらきらしていて、風が吹いている。
「きれいな場所っす」
「……ん」
こんなにきれいで明るい世界に、死が溢れているとは思えない。リラは少しだけ唇を噛む。
■Scene:夜想より眩しく(4)
ヴァレリは物思いに沈んでいた。
渦を巻く快感は、姫君に触れたとき……そして姫君に、戯れのつもりで爪をたてたとき。
彼女の肌は爪を吸い込むような柔らかな力に満ちていた。ヴァレリの爪が跡も残るほどの力で突き立てられたとき、妹姫レヴルの瞳がとろりと溶けるように快感に歪んだ。姉姫レヴルもうっとりとした息を漏らす。
そして。
姫君に触れていた部分からヴァレリの中に、快感の色彩が流れ込んできたのだった。まるで触れた指先を通じて、姫君の感じるはずの苦痛が快感に変わったかのように。
部屋へ戻る道すがら、ヴァレリは思う。
でこピンしてみたら、もっと気持ちよかったのだろうか?
これでは痛みも、快感と変わらない。
■Scene:移ろう音紡ぎ(3)
スティーレが広間を覗くと、折りよく姫君たちが玉座で戯れているところであった。他の旅人の姿はない。そのことに安堵して、彼女は姫君の御前へと歩みを進める。
「謎々の答えを見つけたのかしら、かつて学者だったものよ」
妹姫の頬に這わせた手を止めて、ふわりと姉姫が言葉をかけた。蝋燭の炎はひとところに留まることなく揺らめき、奇妙な玉座の影をいっそう不気味に見せていた。
「夜伽のつもりよ」
飲まれることなくスティーレは答えた。
「お互いに長い夜だもの。謎解きをしながら過ごすのもいいんじゃないかしら」
「ふふ……」
ふたりの姫君は一様に微笑んだ。楽しくて仕方ない、そんな姉姫の感覚が伝わってくる。
長い夜は嫌いじゃない。ウィユはそういって、スティーレを促した。
「人間はなぜ生きるのか。あるいは死の理由を求めてさまようのか。それは同じことの表裏ね。だって死ぬ理由を求めるのも、死ぬ理由を求めることを理由にして生きているのだから。つまり人間は誰であれ、生きるために……生き続ける理由を探すために生きているんじゃないかしら」
「そなたも?」
スティーレはもちろんうなずいた。一度は死のうとした女が口にする台詞ではないかもしれない。それでも、彼女は今研究に生きている。
「それでは……我らも?」
「そうよ。お姫さまたちもきっと。人間は自分の存在の意味を知りたいのよ。自分の存在に意味を持たせたいの」
そういうとスティーレは、ふっと表情を変える。前に交わした問答の一部を思い出したのだ。
「人間とはどういうものか、母でなくては答えられない。お姫さまたちはそういったわね? 私は違うと思うわ。だってほら、母でないものが答えることができない、ということとは違うでしょう?」
妹姫はうなずいた。
「私は思う。人間は自分のいた証を残したがるのよ。伝えるもの。育てるもの。名づけるもの。限りある時間の中での営みによって何かを為すために、名前をつけて、その意味を残していくんだわ。それは子を生み育てる過程に近いわね」
それは、姫君の存在とまったく逆であることに、スティーレは気づいている。
はじまりのない終わり。はじまりの頁に向かって台本を繰り続ける番人。ふたりでひとり、それ以外には使用人しかいない姫。親もなく子もいない。そもそも子を成すのかもわからない存在。
彼女たちは名づけない。すべては他の旅人たちが残した欠片にすぎない。意味を残さない。他者に伝えない。他者を必要としていない。存在を認識されていない。
生まれて、いない?
「ほら。元学者」
「え?」
「その論だと我らは……いったい何者でしょう」
ウィユの言葉にスティーレは戸惑った。わからない。彼女たちが何者なのか。人間ではないだろう……でも、それは彼女たちの求める答えだろうか?
自分は人間だ。研究に生き、音と声を聞き、感情を受け止める。
よく似ているじゃない、スティーレ。お姫さまは何を求めているのか、ほら、読み取らなければ。
聞き取った思考は、スティーレのよく知っている、あるいはまったく知らない波長で編み上げられていた。
子どもの純真さで、姫君は問いかけている。
もしもローラナが母ならば、うまい返答を返すのだろうか。
音を操るすべを持つローラナのことを、スティーレは不思議と近しく思っていた。
「ところでお姫さま。この島はどうして星が見えないのかしら? 《満月の塔》なる地名が残っているのだから、月は見えるのでしょうけれど」
姫君は同じように首をかしげている。
「星。夜空の星よ。月よりも小さい光」
「そんなの、あったかしら? 小さい光。蝋燭じゃないのでしょう?」
「そうね。小さくて揺れるけど、もっと……遠くにあるのよ」
海辺の街の研究室で、天窓が切り取る夜空をスティーレはよく眺めたものだった。
「星を見たことがあるかしら? ちゃんと名前がついているのよ。すべての星たちに。人間は名前をつけたがるから、星の光にも意味を探すの。ね」
「ああ、きっと、はじまりの頁に辿りつけば見ることができる」
姉姫の口調は、目を閉ざされた自分にも見えるかのごとく。
「……貴女たちは、そのはじまりの頁に何が書いてあるか知っているの?」
目を見開いてスティーレは尋ねる。この島が時を遡っているのだとしたら、時をはかる意味がないのもうなずけると思ったのだ。
「番人が、番人でないものにする言葉が、きっとそこに」
ウィユの言葉には、うっとりと待ち焦がれている響きがわずかににじんでいた。
似ている、自分が睡魔を待っていたときと。
スティーレは心の中で呟いて、姫君の出した新たな謎への答えを探し続ける。はじまりの頁に辿りついた瞬間には、ぜひとも居あわせたいと思いながら。
■Scene:かたちのさがしかた(2)
ヴァッツはひとりで困っていた。
恐る恐る展示室まで来たのはいいものの、噂に聞く回廊や、その壁にずらりと並ぶ旅人たちの絵といったものの代わりに、小さな部屋に一枚の絵が飾られているだけだったからだ。
「……何だ、これ」
回廊の端まで歩いてみようと思ったのに、ヴァッツが思ったよりもずっと狭い。
きょろきょろと左右を見渡すと、両方の壁には扉があった。四角い小部屋の3方に扉があるつくりのようだ。下手に動くと、もう元の場所に戻れないような恐怖に駆られる。
「もしかして……また変わった、のか……部屋のつくりが」
誰かがいっていた。ジニアだったか、先に絵を見に行った旅人か。展示室の地図は描いても無駄なのだ、かかっている絵も部屋のつくりも変わってしまうから――。
手放さない袋を抱いたまま、目の前の絵を見上げる。題名《男女》。しかし描かれているのはひとりだけ。
「ん……」
呻きながら見てみる。見れば見るほど、その絵はヴァッツ自身を描いているように思える。
装飾品に選んだ狼の毛皮をかぶり、こうして一歩離れたところから見てみると、その背の高さも相まって恐ろしげな人物にも見える。
「あ……マリィ袋……」
例の小袋も、ばっちり描かれている。
ひとりで来たのが間違いだったか。がくりとうなだれ、ヴァッツは部屋へと戻るのだった。
4.暁の星も見えず あるいは 5.歪みの訪れ へ続く