第4章 2.因果の棘
■Scene:因果の棘、1
《精秘薬商会》の食堂。手早く美味しく大量に飢えた旅人たちの腹を満たすことが、主な役割である。
その《炎湧く泉》支店においても、当然この主旨は受け継がれている。
ミルドレッド快癒祝いと銘打たれた料理は、イーダが店の厨房を手伝うときに作っていた品を中心に、手持ちの食材を組み合わせてみたものだ。
例えば、ハムとパイナップルのサラダ。干した魚を戻し、柑橘類の酸味を利かせて和えたもの。甘い豆とチーズを混ぜて焼いた平たいパン。スパイスたっぷりのマリーゴールド色カレー。
仲間内では香辛料の効いた味付けを好む者がけっこうおり、今夜のカレーはラージの注文に答えたものであった。スラム時代、水のようなスープで暮らした経験があるラージだけに、濃い目の味付けは今生きている証のようなものなのかもしれない。
《炎湧く泉》の外れに全員が集合し、わいわいと話しながら食事をするのが常である。
が、今夜はその輪に初めてミルドレッドが加わるのだ。
「グロリア」
クレドがささやく。
「おまえもうミルドレッドと話したんだろ?」
「ううん」
グロリアは首を振った。
「声を聞いただけよ」
「なあんだ」
「シッ。ミルドレッドが来た!」
ぱちぱちと火の爆ぜる音、簡易かまどに掛けられたお鍋でお湯がぐつぐつと煮立つ音。
そんな中、自然、一同はミルドレッドの第一声を待っている。
「ほっほう、お嬢ちゃん! ともかくいろいろあったんじゃろうが、元気になってよかったのう!」
ホールデンが高々と酒瓶を掲げた。早々と顔が赤らんでいるのは、一足先にミルドレッドの回復をこっそり祝っていたものらしい。
ミルドレッドは、総勢二十人加えること一匹を前にして、その多彩さにまた驚いたようだった。そしてその中に盾父アダマスの姿を見つけ、ぐっと唇を引き結ぶ。
「おっとこっちこっち。ともかく今夜はお祝いだからね!」
イーダが満面の笑みを浮かべて、彼女を手招いた。ミルドレッドの席を、ホールデンと自分の間に指定する。
「はいこれ」
ミルドレッドが返事をする間もなく、イーダが次々フォークや食器やコップを手渡していく。
その様子をアダマスが見つめている。
また、アダマスの一挙手一投足は、エディアールやヨシュアたちによっても観察されている。
「準備が整ったかね?」
口を開いたのはアダマスだ。彼の声を聞くなりミルドレッドの表情は強ばる。
「それじゃ学者のお嬢さん。これが我々、パルナッソス学術調査隊だ」
アダマスは噛まなかった。
「あんたもその一員だ。もちろんあんたが、そう望むならばの話だがね」
「……ッ」
まあまあ、とイーダがミルドレッドを制する。
「で、まだ自己紹介が済んでいなかったと思ったが。ああもちろん食べながらで構わんよ。せっかくのご馳走だ。あったかいうちに腹にしまおうじゃないか」
アダマスは言葉を切り、ミルドレッドに続きを促す。しぶしぶ女学者は立ち上がったが、決まり悪げに後ろ手をもぞもぞと動かしていた。
銀色の髪をお団子にまとめ、後れ毛がふわりとうなじに煙っている。
これまで着ていた丈の長い赤い上着は傷んでしまったので、今は袖のない簡素な肌着に、イーダからの借り物のシャツを羽織り――ラムリュアの衣装はミルドレッドの体型には合わなかった――下半身はゆったりとした幅広の白いズボンを履いているという格好である。
悪い子ではないのだろうとイーダは思った。
年は自分よりも上だが、どこか幼さを残している。
もぞもぞと落ち着きなく動く手を見ながら、そんなことを考えていたイーダの目に、鳥の紋章が飛び込んできた。
ミルドレッドのうなじの部分に、二羽の鳥のような紋章が赤黒く刻まれている。
前からあったものだろうか?
わからない。そもそもダルが発見した時、彼女は襟の詰まった長い上着を着ていたから。彼女自身も知らないのかもしれない。
たくさんの謎々がぽこぽことイーダの心に浮かび上がる。
「あたしはミルドレッド」
調査隊のひとりひとりの顔を順番に見つめながら、ミルドレッドが言った。
「ダルに見つけてもらわなかったら、ラムやピュアに看病してもらわなかったら、きっと砂漠で死んでいた。助けてくれてありがとう」
「ワシも見つけたんじゃぞ! ダージェがあんたを見つけたのは確かじゃが、ダージェはそもそもワシと一緒におったんじゃ!」
ホールデンが隣で酒瓶を振り回すので、ヴィーヴルがひょいと酒瓶を取り上げ、自分のコップに全部注いでしまった。
「お嬢さん、まだだよ」
挨拶は済ませたと腰を下ろしかける女学者を、アダマスが止める。
「パルナッソス学術調査隊では、老若男女、見てくれのよしあし、そういううわべのものは一切問わない。あんたは一体これまでどんなことをしてきたのか? そしてこれから何を為したいと思っているのか? それが何より重要だ」
パルナッソスの学舎で志願者たちに向かって言ったのと同じ質問を、アダマスは繰り返した。
「……何だって?」
「今、言ったとおりだよお嬢さん。調査隊の皆に説明するんだ。あんたはこれまでどんなことをしてきて、これからどうしたいのかね?」
■Scene:因果の棘、2
「あたしの、目的は……」
ミルドレッドは一言一言搾り出すように答えた。
「《炎湧く泉》、幻覚の扉の中にいる《魔獣》を見つけること。そして連れ帰ること。もしも……《魔獣》が暴れだすようならば……」
アダマスは黙って聞いていた。
「暴れだすようならば、《魔獣》が幻覚の扉から出てくることのないように手を講じること……」
「ふむ」
それを聞いてアダマスはにやりと笑った。
「具体的手段は改めて聞こう。あんたの来し方はどのようなものかね? お嬢さん」
「《精霊の島の学院》から去年、パルナッソスにやって来た」
ぶっきらぼうにミルドレッドは答えた。まるで、あんたのほうがよく知っているだろうに、と言いたげである。
「噂どおり、ギンギンに魔力が満ちている場所だね。おかげで《学院》から持ち出してきた魔力調度計をひとつ、だめにしちゃったよ」
「お嬢さんは《竜王》の目覚まし時計を探していたんだったかな」
「比喩的表現だ、それは」
うんざりした表情でミルドレッドは腕を組み、アダマスをにらんだ。
「研究分野は、過去類似性による危険地域における高度管理方法の検証」
「あのな」
アダマスはうんざり返しで言った。
「二週間前にも同じことを言ったと思うがね、お嬢さんが何をしようとしとるのか私にはサッパリわからんのだ。過去なんたらによるなんとかのかんとか、というのはつまり一言でいうと何なんだ?」
「つまり一言でいうと、放っておくと危険な場所に対し支配権を擬似的に確立し無力化するという研究なんですけどね」
「最初からそう言ってくれよ。それでも半分くらいしか分からんが」
ミルドレッドは身をかがめ、イーダの耳元に口を寄せささやいた。
「ヤな狸ジジイだろ」
「え? うーん……まあ、ああいう人なんだって考えるようにしてるけど」
「オトナだね、あんた」
「そこが悩みどころなんだけどねえ」
イーダは最近、自分が大人なのか子どもなのか分からなくなってきている。
「そういえばあの秘書は連れて来てないのか?」
ひとわたり、調査隊の顔を眺めてミルドレッドは言った。
「カッサンドラ君のことなら、今、ここにはいない。倒れているお嬢さんを見つけた直後、行方がわからなくなった。幻覚の中に入り込んでしまったのではないかというのが、我々の考えだ」
「え……」
ミルドレッドは言葉に詰まった。
「お嬢さんの知っていることが、カッサンドラ君を救う手がかりになるかもしれない。あんたが急いで幻覚に飛び込みたい気持ちは分かっているつもりだ。ついでに言うと、仲間のふたりは記憶を失っている。繰り返すが、お嬢さん。あんたの知っていることが、全員を危険から救う手がかりになると思ってもらいたい」
アダマスは畳み掛けた。
「……」
ミルドレッドは何かを思案しているようだ。
この機を捕らえ、エディアールが口を開いた。
「同じことはアダマス師。貴方にもあてはまると思う。カッサンドラは帰ってこないし、シュシュやフートの記憶も、一時的に忘れているだけならまだ良いが、完全に戻るとは限らない。そもそも調査隊には危険はないという触れ込みだった。幻覚に立ち向かうためのお守りとして匂い袋を渡されたが、先の出来事は明らかに、匂い袋を使ったかどうかによって感じ取れる現象が違っていた」
アダマスは無言で自分のスープを一口すする。次の瞬間険しく顔をしかめ、ヴィーヴルの手からカップを引ったくり中身を喉の奥へと流し込む。ヴィーヴルはむっとしてカップを取り戻すが、すでに中は空。アダマスの分だけスープが塩辛くなっていたのだった。
「アダマスさんは少なくとも匂い袋と幻覚の雲に何らかの関連があることを知っていたはずですよね?」
しらっとヨシュアは言ったつもりであったが、表情を殺すのが苦手な彼のこと、アダマスには犯人がわかったかもしれない。
「フートさんもシュシュさんも、匂い袋を使っていましたし」
「そうだろ、やっぱりあの匂い袋、お守りなんていって怪しいのはアレだったんだろ!」
ティカが声高に叫ぶ。
「《魔獣》の声を聞いたのって、みんな匂い袋を使った人だぞ。あの声が聞こえなかったら、シュシュ兄もフートさんも、記憶をなくしたりしなかったのに。危ない目になんかあわなかったのに!」
ティカの言葉にエディアールはうなずく。
先ほどから口々に自分の名を呼ばれているフートとシュシュは、もぐもぐ口を動かしながら、あっちを見、こっちを見と忙しい。
「あ、でも……記憶って大切なモノとは思いますけど、かけがえのないモノとは僕は思ってないっすよ」
ぼそっとフートが呟いたが、この際エディアールの、アダマスを言い逃れできないようにする、という計画の前には流されてしまう。
「正直、思い出さなくても別に困らない……っていうか」
「違う! それは違うと思うぞ、フートさんっ」
フートの代わりにティカが燃えていた。
一方のフートは、記憶を無くして一層生来の性格が濃く出ているようだ。持ち物にこだわらない、物事に拘泥しない、気の向くままあるがままを良しとする。
「えー。そうっすか? やっぱ記憶ってかけがえのないモノなんっすかねー。今この瞬間、ここにいるだけで、次には忘れてしまったところで別に……」
「だあー! そんな呑気だからアダマスにいいようにやられちゃうんだよ! おれシュシュ兄に忘れられちゃったのすっげー辛いし、だからきっとクレドもグロリアも辛いはずなんだよっ!」
ティカにとってのシュシュの存在。
同様に、クレドやグロリアにとってのフートの存在。
「そりゃあ僕みたいな人間を慕ってくれるかわいい弟妹は大切にしたいっすし。記憶を取り戻せるならそれに越したことはないっすけど」
「ホラみろ。だからもー記憶がなくても平気だなんていうなよおおっ!」
フートは黙ってティカの背をさすった。ふと忘れていたことを思い出しかけた気がした。昔、幼いグロリアが癇癪を起すのを、こうやって宥めていたっけ。フートだった男はずいぶん優しかったのだな、と精霊使いは思った。
さらにエディアールは続ける。
「……匂い袋の効果によって声を聞き、その為に連れ去られたふたりが記憶を奪われた可能性は否めない。むしろ高いと思っているが、どうだろうか? フートやシュシュに申し訳ないと思う気持ちはお持ちだろう。ミルドレッドの情報とあわせて、この機会に整理しておくことが、今後危険を回避し、結果的に調査隊の目的達成につながるのではないか?」
「俺も知りたい……というか、確かめさせてほしいことがあるんだけど。ミルドレッドさんの持つ剣のことだ」
レディルが言った。
「アダマスさんは黒曜石のナイフを持ってる。ミルドレッドさんも飾り帯のついた黒い剣を持っている。このふたつは対になっているものじゃねーか?」
「僕は《魔獣》のことをもっと知りたいと思う」
ラージは幻覚の中で、声を聞いていたひとりである。同じやり方は通用しない、という思いが彼にはある。
「前回はたまたま、シュシュとフートが突入したけれど……次も同じやり方で幻覚の向こうの《魔獣》の巣に行こうとしても、記憶をまたなくしてしまうんじゃカッサンドラさんを探すのも一苦労だよ。《魔獣》のほうは、何が目的なんだろう? それが分かれば、対処法も考えられると思う」
「そうだ、カッサンドラさんといえばよ」
クオンテがラージの言葉を引き取り、続けた。
「カッサンドラさんは確か、お守りの匂い袋を使ってないっぽかったじゃねーか。匂い袋を使ったものが声を聞いてるはずなのに、そこんところが噛み合わねえな。どうよ、アダマスのおっちゃん?」
ちょっとお行儀悪く、口に匙を咥えてぷらぷらさせるクオンテ。
「ついでに言えばミルドレッドの嬢ちゃん。あんたはいっぺん、幻覚からはじき出されてる」
失敗した、と本人は呟いていたそうだが、クオンテはその言葉は使わなかった。失敗。それを聞いたミルドレッドこそ耳が痛いだろうから。
焦るミルドレッドを駆り立てるのはクオンテの本意ではない。
むしろ無謀な彼女を多少なりとも立ち止まらせることが、周囲の――大人の務めだと思っている。
「幸いシュシュやフートと違って記憶は無事みたいだが、果たして二度目があるものかい? ラージも言ったが、同じやり方は通用しない。つか、危険すぎるぜ」
視線は交錯し、アダマスとミルドレッドも互いに見つめあった。
だがそれは束の間のこと。折れたのはアダマスだった。
■Scene:因果の棘、3
アダマスはクレドに黒曜石のナイフを持ってこさせた。
「私が知っていることは、真実を十とすればおそらく五。残りの半分は推測の推測ではあるが……今からあんた方に話すのは、真実の五のほうだ。細部に宿る神にかけて――この、妙に塩辛いスープにかけて」
そう前置きし、アダマスは布に包んだナイフをミルドレッドに見せる。
「見覚えはあるかね? お嬢さん」
ミルドレッドはやや首をかしげ、ナイフを受け取った。
少し刃零れしているのは、ヴィーヴルがキノコ岩を削った時の傷だ。刃に沿って指先を這わせていたミルドレッドは、不意に顔をしかめた。
「どうした、お嬢ちゃんや?」
ホールデンががしっと肩を抱く。ミルドレッドが放したナイフをヴィーヴルが拾った。
「こりゃイカン。またぞろ熱じゃ」
「ナイフが熱い」
「水。それに鞘を……」
レディルが腰を浮かせる。
「ちょっとアダマスさん。せっかく回復したばかりなのに、何の乱暴なの?」
ラムリュアが咎める目つきでアダマスをにらんだ。
レディルから水を受け取り、ごくごくと飲み干したミルドレッドは、熱っぽい吐息をひとつついただけで落ち着いたようだった。
「悪かった」
珍しく、本当にすまなそうな顔でアダマスは詫びた。
「真実は六だったか」
「試すようなことをどうして」
ミルドレッドは濡れた唇を手の甲で拭う。赤い瞳がきっとアダマスをにらみつける。
アダマスは言った。
「このナイフを手に入れたのは統一王朝ができてしばらくゴタゴタしてた頃だから、十年は前になる」
当時アダマスは、出来たばかりの聖騎士団の一員として、これまた出来たばかりの聖騎士団領を転々としていた。年は四十、脂の乗り切った不惑である。
「そういう話はどうでもいいんじゃ。知りたいのはナイフじゃ、ナイフ」
ホールデンが先を促した。ヨシュアは嬉々として筆記していたが、うっかりアダマスの装飾語句に引っかかってしまい悔しそうな顔をした。
「その頃の主な仕事はまあ言ってみれば残務整理でね。統一王朝反対と叫ぶほど勇気がなかった連中を宥めすかしたり、お仕置きしたりする毎日だ。旧帝国領なんてそりゃあ荒れてた。そういう時代があったんだよ」
千年前。まだ《大陸》に神々が降臨していた時代。神々の庇護の元、華やかなりし統一王朝は繁栄を極めていた。
しかし時は流れ、神代は終わりを告げ、あらゆる御名は忘れ去られ、最後まで《大陸》に留まった三柱の兄弟神もまた魔女と戦い、傷つき破れた。
それから《大陸》の人々は、神の加護が薄れゆく大地で争い、赤い血を流し続けたのだ。
元々中原の一新興国に過ぎなかったランドニクス帝国皇帝が周辺諸国を制圧し、《聖地》アストラまでも保護下に置いて、その玉座において高らかに統一王朝ルーンの復活と統一王即位を宣言するまでは。
それはわずか十年前のことである。
偉業を成し遂げた統一王は年若い少年だった。
不思議と彼の在位は短く、すぐに玉座を譲っている。史書にもさほどの分量は割かれていない。新王都の建設に携わったことのみが、数行記されているだけである。
今現在、統一王は三代目を数えた。
クレドやグロリア、ティカにとって、統一王朝は復活したというより、すでに存在していたものであった。新しい時代の子どもたちは、無邪気に戦いに憧れを抱くことができるのだ。
「……このナイフは、各地の内乱を鎮圧していた時に、とある現場から回収したものだ。半分に折れた剣として」
「おいおいおいっ」
クオンテがたまらず口を挟む。
「そりゃどう見ても危ない道具じゃねえかっ」
「折れていたとはいえ《痛みの剣》の聖印として作られていたんだ。我々聖職者にとっては貶めることなどできないよ」
真摯な表情でアダマスが答える。
クオンテもそう言われて口をつぐむ。たまに忘れそうになるが、アダマスは《涙の盾》の信徒、盾父と敬称で呼ばれる高徳者であった。クオンテ自身は相手によって態度を変えたりしないけれど、聖職者にとっての聖印と言われれば、悪しざまに言うのもなんだかなあ、と思ってしまう。
「僕も危ないと断定はしませんよ」
レディルも言った。
「明らかに負の思念を帯びた品はすぐにそれと分かるものだし。ナイフの“遠見”では星が見えた。勝手にして悪いと思ったけど、ミルドレッドさんの持っていた鞘のほうからは、剣が炎を散らして冷やしていく様子を見た。戦に使われたものではないみたいだ。儀礼用のものと考えるのは僕にもしっくり来ますよ」
骨董品の話はやはりレディルを饒舌にさせる。
「骨董品管理人君の見立てもそんなところか。まあ昔の私はそこまで考えは至らなかったわけだが、聖印を邪な意図でわざと汚したり割ったりする輩が作成したものと想像した。出どころもそのうち分かるだろうと思って、折れた剣をナイフに仕立てたのが、こいつだよ。その過程で思いつく限りいじってはみたがね、成果は水にまつわる成分と極端に反応するということが分かったくらいか」
それに比べてあんた方は優秀だねえ、とアダマスは、ヴィーヴルやレディルがあっさりと剣の素材に目をつけたことを褒めた。
「水と反応、か」
興味深くヴィーヴルが呟いた。
「錬金術の基本的考え方では、金属の王は、女性原理である水と、男性原理である火から生まれる」
「なんだ。十年前にそれを教えてほしかったね」
水に反応するところから類推して、水に関係する儀式、もしくは、火に関係する儀式に用いられた可能性をアダマスは追っていたという。
「水は水銀、火は硫黄を用いて研究されることが多いが、真珠も十分水の象徴になり得るし、火山性の黒曜石も火に間違いはない」
「お守りの中を見たのか。あれは本物の真珠じゃないよ」
アダマスは苦笑いで言った。
「人工的に作り出したものさ。人工物を研究している知り合いがいて、彼の技術をまあちょいと借りてみた。旧帝国領じゃけっこう流行りの研究だったそうだが、ご多聞に漏れず、平和になったらすっかり暇をもてあましていたな」
碌な奴ではなかったが、とアダマスは渋い顔をした。
「なかなか面白いお話ですね」
リュシアンはアダマスに酒を注ぐ。
「とんでもありません。非常に胸が痛む話ですよ」
カインはかぶりを振った。
「神のみしるしを傷つける行為……何と恐ろしい。盾父殿も、そのような邪な品をなぜ持ち歩いていらっしゃるのです。万一のこともないわけではないでしょうに」
言いながらカインは指を組み、そっと神に祈りを捧げる。詳しい者が見ればそれは《痛みの剣》への祈りであった。
「ふむ。そりゃあアレじゃな。危険なものを後生大事にしまっとく方が、よっぽど危険だから、じゃないかね?」
「……珍しく話が合いますな、老勇士殿。おっしゃるとおりですよ。危険なものこそ、自分で始末するのが一番ですからな」
■Scene:因果の棘、4
「あたしは黒曜石がどうのなんて知らない。この剣が何のために作られたのかも」
ミルドレッドは飾り帯のついた鞘から、黒い剣を抜き放った。
アダマスのナイフと比べると一目瞭然である。輝きが異なるのは、剣のほうは模造だからであった。
「覚えているのは、そう。あたしが《学院》に入学した時、これがただ一つの所持品だったってことだけだ。あとは聖印……《愁いの砦》さまの」
すらり。刃がアダマスを示す。
その手つきは剣士のそれではない。ほんの少しふらつきながら、ミルドレッドは刃を収めた。
「その剣、貸してもらっていいかな」
レディルが差し出した手へ、ミルドレッドが鞘ごと剣を渡す。
アダマスのナイフも借り受けたレディルは、一同が見守る中、模造剣の代わりにナイフを鞘に収めた。
「あれっ。俺は触っても熱くならないみたいですね」
熱に対して身構えていたレディルは拍子抜けしつつも、ナイフと鞘がしっくりとあるべきところにおさまった姿を愛おしそうに眺めた。
「うん……これは間違いないな。もともと一対のものだったんだ」
ヴィーヴルも手を伸ばして触れてみる。
「平気だ。ちょっとミルドレッドさん」
すでに実験体制に入っているヴィーヴル。乞われるままにミルドレッドがナイフを握ろうとするが、
「あちっ!」
と、赤くなった手をひらひらと夜風にそよがせる破目になった。
「なんであたしだけだめなんだよっ」
両手を腰にあて、不満そうである。
「あたしの持ち物ってったらこれくらいしかないんだぞ」
「そんなの知るか。アダマスのナイフには鞘はなかったわけだから、この飾り帯だってお前のものじゃなかったんじゃないか?」
言いながらヴィーヴルは、こっそりとポケットにしまった黒曜石の欠片と比較してみる。ナイフが毀れた際に拾っておいたものだった。
「黒曜石の性質は変わらぬはずだとすると」
欠片を持った手でミルドレッドの手を握る。
「あぢっ! な、何するんだ」
途端にミルドレッドは身を引いた。
「お前、面白い体質なんだな。黒曜石に反応するのか」
「なっ!」
くすくすとヴィーヴルは笑った。お酒が入っているのに加えて、興味のある分野の話であるから、楽しくてたまらないという表情である。
「錬金術的見地からすると、お前、貴金属だぞ。それとも模造の真珠かな」
「し、失礼だなっ。人間に見えないとでも言うつもりか?」
「……真珠って感じじゃねえな。あの爽快な芳香がないから。あ、このナイフと鞘は俺が借りておくけどいいだろ別に。そっちのは模造なんだし」
「いいわけあるか!」
ミルドレッドは顔を真っ赤に染めてヴィーヴルを口汚く罵った。
「あたしの唯一の持ちものなんだからなって何遍言わせるんだ! 貸すのはいいがちゃんと返してもらわなきゃ困る!」
「あー。ミルドレッド、そんな怒らねーでさ」
「そうそ。あんたも学者ならわかるだろ、ヴィーヴルはこう見えてもちゃんと真面目に研究を」
「うるさい」
嗜めようとしたレディルとクオンテ、あっさり一喝される。
「そうだお前、なんて答えたんだ?」
「は? ヴィーヴル、人の話を聞いてるのか?」
「まあまあまあ……」
クオンテはイーダの口調を真似してみたが、彼女の言い方は独特の調子があるようで、ヴィーヴルもミルドレッドも一向に折れようとしない。
「いいだろ俺が質問してるんだから。それに俺は褒めたんだ、貴金属的なミルドレッドさん」
ヴィーヴルがひとつに束ねている長めの赤茶色の髪に、ミルドレッドは今にもとびかかりそうであった。
「エディさんの話を聞いたろ? ミルドレッドさん。幻覚の扉の向こうに行くには、問いに答えなければならない。火と水の調和ってとこかねえ。声が聞こえただろう? それにお前は、なんと答えたんだ?」
ミルドレッドがこぶしを振り上げそうなのを引きとめていたクオンテは、彼女が力を抜いたのを感じて手を放す。
「おっとその話は俺も聞きたいね」
「皆、聞いたのか? あの《魔獣》のささやきを」
「ホントにあれが《魔獣》なのかは、俺らにゃわかんねーけどな。つか、ミルドレッドの嬢ちゃんがそれを知ってるんじゃないかって期待してるのが俺らなわけで」
ミルドレッドはクオンテをじっと見つめる。
「扉は望むものに開かれる――あたしには開かれなかった」
「だから」
じれったそうにヴィーヴルが繰り返した。
「お前は問いに答えたのか? お守りを使ったのか?」
「狸ジジイの真珠か? あいつあたしにはそんな気の利いたものくれなかった。でも声なら聞いた」
「答えは」
「あたしは……誰でもない、と」
「それじゃあ駄目だ」
ヴィーヴルは肩をすくめる。
「シュシュの話じゃ、ミストはそういう答えを望んではいないようだからな」
「普通は、あたしはミルドレッド……とか言うだろ。なんでまた、そんなひねくれて答えちゃったんだよ、嬢ちゃんは」
クオンテが両手を挙げる。指先にまつわる白布がひらりと舞う。
「ひねくれてるかな」
少し唇を尖らせてミルドレッドはむくれた。
「あ……悪い。いやー」
「《学院》に入る前のこと、覚えてないんだ、あたし」
そういうミルドレッドの視線は、シュシュとフートを追ってさまよった。
「記憶喪失……」
「珍しくもないだろうけどね。ラムだって昔のことを覚えてないって聞いたし。でも、どこかで、自分は本当に自分なのか、違う人間だったんじゃないかって考えてしまう」
一度そのような話を聞いてしまっては、クオンテにはもうミルドレッドの態度が強がりとしか思えない。ラージやシュシュにしたように愛情を注いでやりたくなって困る。
レディルは、ラムリュアの精霊の会話を思い出した。恐怖を訴える幼いミルドレッドの声のことも、彼女自身は忘れてしまっているのだろう。
「逆に取り戻せるかもしれないじゃないか」
ヴィーヴルがさらりと言った。
「《魔獣》に会った連中が記憶を失うというのなら、相手は記憶を自由にすることができるのかもしれないぜ」
ミルドレッドは色違いの眼を大きく瞠った。
「それは……考えもしなかった」
「お前それでも《精霊の島の学院》の学者か?」
「悪かったな!」
ヴィーヴルの歯に衣着せぬ物言いに、言い返さなくては気が済まないミルドレッドである。
■Scene:因果の棘、5
マリーゴールド色カレーをどうにか食べ終わったラージが――操りの糸はさほどの集中を必要としないとはいえ、食事時にはやはり難儀なものである――改めて質問する。
「ダージェくんに箱を渡したっていう話のことだけど、いいかな」
「これだヨ」
ダージェが小箱を取り出し、ラージの目の前で一回転させる。
「《魔獣》を捕まえるって、そういう魔法がかかっていると思っていいのかい」
そう言ったラージの視線は、ちらとヨシュアに向けられた。
役どころを察して、魔法の気配に敏感な体質を持つヨシュアが、ダージェに手を伸ばした。
「借りていい?」
ミルドレッドが素直にうなずいたところで、ヨシュアはさっそく記録帳を広げかけ小箱の形状を記した。
「採取箱にしちゃ凝ってる。木をくり抜いて作ったんだろうな、どこかにつなぎ目があるはずだけど」
「ああ、ここが蓋になるんだね」
ラージの目が一筋の合わせ目を見つける。
「ぱくんって開くようになってるんだろうな……開かないけど」
「魔法は確かに感じられる。でもそんな強固なものとは思えないんだよ」
ヨシュアは目を細め、箱の正体を見極めようとした。
「特定の条件下でのみ開閉できるってカンジかもしんない。例えば、幻覚の中では開くとか」
「お宝だな、やっぱり」
レディルはしたり顔だ。ミルドレッドの所持品でなければ、頑張って開けてしまったかもしれない。
ミルドレッドはダージェにした話を繰り返す。
曰く、差出人不明で自分に宛てて送られてきたものであること。
最初の一回だけは開けることができたこと。
中には方形の結晶体が入っていたこと。
箱を開けて以来、自分の片目に地図が見えるようになったこと。
「地図の示す場所がどこなのかはすぐに分かった。《神の教卓》――都合のいいことにパルナッソスは魔力が満ちているというし、自分の研究材料としてもうってつけだと思った」
「研究って《魔獣》の?」
「過去類似性による危険地域における高度管理方法の検証」
ミルドレッドは神話を引き合いに出し、自説を簡単に説明した。
「《大陸》の歴史の中で、はっきりと神々が降臨した記録が残っているのは、《聖地》アストラ。そして、魔女との戦いが行われた《忘却の砂漠》。あたしは《忘却の砂漠》に関する論文を読んで、他にも《忘却の砂漠》になり得た地域があったのではないか、と考えた」
「その一つが《神の教卓》だってわけか」
ラージが呟く。
「そう。言ってみれば、神々が降臨する候補地」
《神の教卓》は、神々対魔女の戦いの舞台にこそなってはいないが、その地形環境は極めて特徴的である。
パルナッソス周辺は魔力源でもある。数多のオアシスの配置は地下水脈の存在を、一方で火山活動の痕跡も見られる。特に枯れてしまったオアシス《炎湧く泉》は、非常にミルドレッドにとって興味深かった。火山の力を持つ精霊があたりを支配していたことを突き止めたからである。その名は精霊のことばで炎湧く主。古い文献にも存在が記されている強大な力を持つ存在だという。
「詳しく調べていくうちに、何かの真実に近づいているって思った。途中で怖くなって占い師に見てもらったこともあったけどね」
「《忘却の砂漠》と《神の教卓》が似ていて、えっとだから《神の教卓》にも神さまが来ることができるってコト?」
このあたりからダージェは話についていくのが大変そうである。
「同じ条件のものどうしは、性質も類似しはじめるという考え方があるんだ」
飲み込みの早いヴィーヴルが補足を加えた。
「ふーん、そうなんだー」
「それと《魔獣》とはどう結びつくんだい?」
ラージに問われて、ミルドレッドは人差し指を立てた。
「過去類似性の中であたしが重視したのはその点だ。地理的条件が整っていて、かつ類似性を強化する因子がなければならない」
「でも魔女なんて、いないじゃないか。ヨシュアがラハやパルナッソスで情報収集してくれた。そんな伝説は残っていなかった……だろ?」
ミルドレッドに突きつけられた指に一歩身を引き、ラージは言った。
「魔女に限らない。強大な力は常に不安定だ」
女学者の指は、ラージからラージを繋ぐ糸の先に移った。夜の空へ。
「ラージの糸が証明してくれた。あの向こうにそいつがいる」
「目覚まし時計、か」
ヴィーヴルがナイフの刃に指を滑らせ呟く。
ヨシュアは記録帳を繰り、先ほどミルドレッドが告げた目的を再び読み上げた。
「《炎湧く泉》、幻覚の扉の中にいる《魔獣》を見つけること。そして連れ帰ること。《魔獣》が暴れだすようならば、幻覚の扉から出てくることのないように手を講じること」
「炎湧く主、とかいうのが嬢ちゃんのいう《魔獣》なんだな。んでそいつが、ここ――神話の舞台と類似してるっちゅーこのあたりに存在しているということが、ヤバいってことだな?」
「それを調べたいんだ、あたしは」
はた迷惑な話だぞ、とクオンテはひそかに思った。
《魔獣》にしてみれば、最初から住んでいた場所を難癖つけられて追われることになるのではないか。
■Scene:因果の棘、6
「アダマス師」
エディアールが、細い枝で歯をせせっている教区長に声をかける。
「どう思われる? 彼女の言う《魔獣》、私には炎湧く主という呼び名を持つミスティルテインとは異なるのではないかと思うのだが」
根拠としてエディアールは、精霊力が封殺されているにも関わらず、遺跡としては魔力が増幅されている点を挙げた。
「フートの話、そして今のミルドレッド女史の話でも、ミスティルテインは炎の力を帯びた存在として登場する。しかし《炎湧く泉》の精霊力は封じられてしまっている。ヨシュアの話では、遺跡の上部を魔力の屋根が覆っているということだ。私は、この遺跡は精霊の封印であると同時に、精霊力を魔力に転換する為の装置だと考えている。その魔力の使い道こそ」
夜空を見上げるエディアール。
「……幻覚の中に存在する《魔獣》を召喚するものではないだろうか」
「商人君」
アダマスに突然呼ばれてイーダは驚いた。
「麦珈琲をもう一杯貰えるかね」
「あ……ああ、はいどうぞ」
「ふむ。ノワイユ君、前も言ったが君は本当に聡明だね」
湯気を立てる麦珈琲を一口すすり、アダマスは言った。
「真実は七になった」
ざわざわと話していた一同は、アダマスの言葉に耳を傾けた。ミルドレッドも口をつぐみ、次に盾父が何を述べるのかと凝視する。
「《涙の盾》の信徒には、ある秘儀が伝わっている」
アダマスは目を閉じていた。
「儀式魔法のひとつ、円盾の防護。信徒たちの精神をひとつに合わせて、強固な防護陣を築く。その中では、移ろい変わり往くことがない。肉体は疲れないし、食事をする必要もない。外敵からの防衛戦に昔はよく使われたらしいが、何せ人間の精神力には限界というものがある。長時間維持できるものではない」
だが、ここではその儀式魔法が維持されている。
「幻覚の雲は、その儀式魔法の影響なのか?」
「そうだ。しかし気の進まん展開になってきたな」
二口目の麦珈琲を味わいながら、アダマスは苦い顔をした。
「円盾の防護が発動している以上、同業者の仕業ということがはっきりした」
苦い顔の理由は麦珈琲だけではないらしい。
エディアールは調査隊の顔を見渡して言った。
「私から提案がある。次に幻覚がやってきたとき、何かしようと思っている者は多いと思う」
かなりの人数が手を挙げた。
イーダ、ヴィーヴル、ダージェ、シュシュ。
ヨシュア、ラムリュア、ラージ。
パーピュアとリュートは、少し迷いながら。そして、きょろきょろとしながらも、クレドとグロリア。
もちろんミルドレッドとホールデンも。
「声に答えたいと思う者は、最低限忘れたくない事柄を紙にでも書いて残しておくのはどうだろうか? これなら記憶を失ってしまったとしても、書き残したことを見れば自分で思い出すことができる。少しは安心できる」
それに、と付け加えるエディアール。
「幻覚の中で見た結晶物と白い豹。あの豹が《魔獣》とも思えないが、私の専門分野ではないから何ともいえない。幻覚の中で調べるつもりのある者は、ぜひとも結晶物を持ち帰ってきてほしい」
エディアール自身、幻覚について調べるつもりであった。
自分が忘れたくない事を記した手紙を預ける相手を考えて、ラムリュアと視線が合った。
調査隊の中で彼女の存在が与える安心感を思って、手紙はバッジとともに彼女へ託すことを決めた。
■Scene:因果の棘、7
「天幕を変える?」
「そう!」
えへんとティカは胸を張った。
イーダやグロリア、パーピュア、ラムリュアは、なぜまた、と互いに目を交す。
「エディさんが、こっちの天幕に来ないかって誘ってくれたんだぜっ! 『君も一人前なんだから』ってさあ!」
喜び勇んで、散らかった私物をまとめるティカである。元々傭兵暮らしで、荷物はそれほど多くない。
あれこれ大きめのヒップバッグに詰め込んで、幅広のベルトで止めたら身支度は終わりである。パーピュアから貰った編帽子は一番上に入れた。
「こっちの天幕って、男性の皆さんが使ってる?」
「当たり前だろ、エディさんだぞ? へっへー。おれのこと一人前の剣士扱いしてくれてるんだなー」
本人が大喜びなのでは、さすがに他の者も止めがたい。
そもそも、ティカが調査隊最年少の少女であるということ自体、普段はイーダも失念しているのである。
「雑魚寝……よねえ」
口元に手を添え、ラムリュアが慮った。
「そんなの気にしねーって」
「ティカは気にしないでしょうけど」
「着替えは?」
「ぱぱっとやっちゃうよ、ぱぱっと!」
いいのだろうか?
何となく不安が残る女性たち。
「明日の朝錬、クレドも誘ったから楽しみだなー!」
そんなことはお構いなしで、意気揚々と天幕を移っていったティカである。
ティカの代わりというわけではないが、ミルドレッドが回復したことによって、彼女も他の女性陣の天幕に寝起きすることにした。癒し手ふたりが女性であるから、こちらはさほど問題にはならなかった。ミルドレッドの専用天幕は畳まれ、手狭だった男性用として使われることになった。
のだが……。
事件はあくる朝――といってもまだ暗いうち、朝告鳥が鳴く前に、起きた。
「きゃああああっ!」
眠りを破る甲高い悲鳴に、すわ幻覚か《魔獣》かと皆が跳ね起きた。
「何事だ」
「何が起きたの? 大丈夫かい?」
「こっちじゃないわ」
「でも女の子の声だっただろ」
「そっちの天幕から聞こえましたよう」
「だって」
「ご無事ですか」
「……どうしたの? まだ暗いじゃないの」
「聞こえませんでしたか、さっきの悲鳴」
朝まだきの砂漠で息を白ませながら、調査隊一同は互いの存在を確かめあう。《炎湧く泉》の白砂に目が慣れると、彼らは事の次第を理解した。
悲鳴の主は、天幕を移ったばかりのティカだ。頭から毛布をかぶって座り込み、ぱくぱくと口を開けたり閉じたり。
傍らではエディアールが渋面で腕を組んでいる。
ティカの隣に寝ていたシュシュは、周囲のざわつきに目を覚ましたものの成り行きが飲み込めず、胡坐の膝に両手を置いて、寝ぼけ眼で首をかしげていた。
「どーしたの、皆集まって。まだ暗いじゃん……」
もう約束の時間だっけ、とシュシュがティカを見やる。なぜか、相手は涙を浮かべている。
シュシュには理解できない涙である。記憶があるとないとに関わらず、この手の問題にはかなり鈍い性質だ。
「だ……あの……っ」
ティカが毛布にくるまったまま真っ赤な顔をしているのを見て、イーダはひそかに顔を覆った。
「だって……シュシュ兄がっ、お、おれの……っ、む、むねに……その……」
予測はできたはずだった。
ただ、言いにくかっただけで。
イーダは反省した。シュシュの寝相が悪そうなことくらい、想定すべきであったのだ。狭い天幕で雑魚寝である。大の男がごろごろと寝返りをうてば、隣で寝ている人間にぶつかりそうなことくらい想像に難くない。
「腕、ぶつかった? 悪い」
シュシュは謝るが、ティカが恥ずかしいのと悔しいのと驚いているのは、腕がぶつかった痛みに対してではなく、腕が胸に触れたことに対してある。
パーピュアが現われてやっとティカも落ち着きを取り戻し、やれやれと一同は二度寝をしたのであった。
次の日、ダージェはシュシュにたっぷりと女心を説いてあげたのだが、
「……泣くほどのことか、それ」
と、シュシュの無頓着は相変わらずである。
「……女の子だったとは」
エディアールもしみじみと呟いた。
知っていればみすみす男性用天幕にも一人前だという理由で呼んだりはしなかったのだが。かといって今さら女の子扱いするのもティカが嫌うところであり、何とも悩ましい。
なお、ティカが期待していた朝練習は、まず第一にダージェがシュシュに剣の構え方を解説するところから始まった。
最初は半信半疑で「これホントに俺の剣? 使ってた?」などと不思議がっていたシュシュだが、さすがに勘を取り戻すのは早い。
「シュシュはずるいな」
ちゃんとした剣の稽古が初めてのクレドはさかんにシュシュを羨んだ。十回以上は呟いたであろう。立っているだけのダージェにかかっていっては受け流されること、数十回。
「ずるくないよ。クレドも毎日稽古したらいいんだよ。地面が砂だと最初はキツイけど、きっとその分上達は早いんじゃない」
「だってだって。ついさっきまでシュシュも俺とそう変わらないってダージェは言ったじゃないか。それなのにさあ」
へたり込んだクレドは、這いつくばって日陰に入る。
「ま、さっきはそう言ったけどサー」
ダージェもクレドの隣に身を寄せた。
日陰から見る朝の砂漠は輝きに満ちていた。
「分かってるよ。一瞬で達人になんてなれないことくらいさ。基礎もちゃんとしなきゃいけないんだよな……」
「そだよ。何事も、練習れんしゅう!」
「見てろ、十年……うーん、五年。いや三年だなっ」
指を折ってクレドが数えたものは。
「三年、稽古を続けて。ティカ、シュシュ、ダージェ。順番に勝負だっ!」
「いいよ」
きっとクレドはまだまだ背が伸びる。シュシュより伸びて、エディくらいまでいくかもしれないなあ、と少し先の未来をダージェは想う。
■Scene:因果の棘、8
《魔獣》に会いに行くことを考えている者たちは皆、エディアールの提案――忘れたくない事柄を予め記録して留めておく――に従い、首を捻っている。
「紙、まだあるよ。インク? うん、足りそうかい。こっちにもう一瓶あるけど開けようか」
いつものように《精秘薬商会》臨時支店は繁盛している様子だ。
「多めに持ってきておいてよかった」
仕入れの決め手となったのは、ラハであの日一心に記録をとり続けていたヨシュアがいたからだった。
博物学者が旅の途中で筆記具が尽きて嘆くことのないように、と心配って、紙とインクの類は充分に用意してきたのである。
「ちょっと自画自賛になっちゃうけど、こういう時、商いっていいなあと思えるね」
紙とペンを持って《炎湧く泉》あちこちを、うろうろとさまよう仲間たち。難しい顔をしている者、気の向くままにペンを走らせている者、さまざまだが、人々が同じような動作をしているのが少しおかしい。
「そういうイーダさんは、もう書き終えたのですか」
リュシアンはペン先をゆらゆらと迷わせている。
「もちろんまだだよ、リュシさん」
イーダはぺろりと舌を出して、自分の分の紙を広げた。
さて、忘れたくない事柄って、具体的にはどんなことだろう? 自分のこと……名前と両親のこと……生い立ちのこと。そして……。
「うーん」
「出来たぞ。ワシはこれでよい」
ホールデンは自分の分を仕上げたらしい。目に入った文字をリュシアンは追った。そして吹き出しそうになる。知恵と勇気と愛。その三語のみ、あとは名前すら見当たらなかった。
「これでよろしいんですか? ホールデンさん」
「文句があるかね、お若いの。知恵と勇気と愛。ワシが忘れたくない事といや、この三つだけじゃ」
「いえ、ご立派です」
リュシアンはまっさらな紙に苦笑を向ける。この建築家は、《魔獣》に会いに行く者たちの傍らで、少し違うことをしようと考えていた。しかし人の為すこと、観察することが好きなリュシアンだけに、物見のつもりがイーダの調子に乗って、いつの間にか手紙まで書きかけている次第であった。
「ねえデン爺さん、名前もないじゃない。忘れちゃったら何て呼べばいい?」
「ワシが何と呼ばれとろうが、ワシのすることに変わりはない、はずでな。違うかね?」
「デン爺さんはデン爺さん、というわけ?」
三語どころではなく長々と自分に宛てた手紙をしたためているイーダは、少しペンを休ませた。
「あたしは紙面がいくらあっても足りる気がしない。ヨシュアさんの気持ちが今ならよーく分かるよ」
「デンでもドンでも、知恵と勇気と愛さえワシが思い出せれば、それはワシということになる、はずじゃ」
イーダはそうは思わない。
手紙には真っ先に自分の名前を記した。それこそが自分の出発点だという気がするのだ。
「リュシさん、リュシさんはどう思う?」
自分のために二枚目の紙を取り出しながらイーダは尋ねる。
「デン爺さんみたいには、あたしはまだなれそうもないみたい。イーディスって名の商人だって《大陸》中探せば他にもいるんだろうけどさ」
「そうですね、個人的な考えになりますが……」
自分が旅の間に残した各地のスケッチを眺めていたリュシアンは、奇岩のあちこちで同じように手紙を書いている人々を見渡して言った。視線はシュシュとフートの上に留まる。
「ラージさんたちの言うように、かの問いに『僕は僕』と答えた結果、彼らが記憶を失ってしまったということは、つまり自分というものが何を指すかという問題であると思うのです」
リュシアンの学者然とした言い回しに、イーダはきょとんとする。
「自分の中に残っている記憶や経験だけで、イーダさんが形成されているわけじゃないでしょう? 他人の中にも、その人が見るイーダさんらしさというものがある。それが合わさってイーダさんになっていると思うのです。リュシアン・ソレス、ホールデン、クレド……皆、同様です」
「ああ、あたしもそう思うよ」
合点がいったとイーダは大きくうなずいた。
「だってシュシュくんも、ホラ。彼がチトラ=シュシュナと名乗ったことはあたしたち全員が知ってるし、教えてあげられるけどさ。縮めてチトラって呼ばれるのは好きじゃないって会話だって覚えているけど、それだってさ」
知らず知らず早口になっているイーダ。リュシアンは真面目に相槌を打ちながら、イーダの言葉に耳を傾ける。
「どうしてチトラは嫌なのか、シュシュならいいのか。どうしてシュシュくんがそう考えたかまでは知らないもの」
「おっしゃるとおりですね」
「……って、思い出す手伝いをしてた時に思ったんだ。考え始めたら、訳がわかんなくなっちゃってさ」
「間違ったシュシュさんを形づくってしまうかもしれない、と?」
「そう。それってさ、お手伝いをしているつもりで……もしかしたら、あたしがこうあってほしいって思うシュシュくんやフートさんになってしまうかもしれないだろ」
リュシアンは重々しくうなずいた。
たまたまシュシュとフートだから、それほど違和感がないのかもしれない。
妙に素直なリュート、妙に相手と距離を置くクオンテ、妙に年相応なパーピュア、妙に大人しいティカ、妙に親切なアダマス。想像するだに、妙なという形容詞がふさわしい。すなわちそれはリュシアンが彼らに抱いていた印象との差異。
「あたしたちの押し付けじゃない、正真正銘のシュシュくんとフートさんは、どこにいるんだろう?」
「私にも、思い出す手伝いができるかもしれません」
と、数枚のスケッチをめくってリュシアンは言った。
「それにしても。まったく彼らは強いですね、ふたりとも」
スケッチの下に書きかけの手紙をしまい、リュシアンは羨むような調子で言った。
ためらわず即答することさえ、自分はできるかどうか。あるいは若さなのかもしれないと思い至ったがゆえの感想である。
イーダはうんうん唸りながら、どうにか手紙を二通完成させた。両方とも、記憶をなくした自分に宛てて書いたものだ。片方には名前を初め生い立ちや、居心地のよかった両親の雑貨店のこと、自分も将来店を構えたいこと、目利きにはちょっとした自信のあることなどを書いた。もう片方だけは念入りに封緘したが、これはちょっと人に見られては気恥ずかしいというようなことも書いてしまったからだった。
「だって仕方ないだろ。仲間たちのこと、誰一人忘れるわけにいかないじゃないか」
尾をふりふりイーダを見上げるスィークリールの視線に気づき、言い訳するようにイーダは答えた。
■Scene:因果の棘、9
自分の思い出は誰に託すのがよいだろう。エディアールから渡された彼の記憶と、おそらくは彼の身分を示す証であろうバッジを荷物の上に見つめ、ラムリュアは思案する。
彼は、とラムリュアは思った。自分のことを、調査隊の中で信用するに足る、と評してくれた。
居場所があるということは何と心地よいのだろう。束の間甘い想いに酔うものの、冷静な誰かがそっとささやきかけてくる。かつての自分の暮らしを知れば、どう態度を変えるかわかったものではないのだと。
だが匂い袋は彼の意見に従い、使うことにした。黒曜石のナイフを借りて匂い袋を貫くと、爽やかな芳香がたちのぼる。後朝の移り香のようで、ラムリュアはしばしその香りを堪能した。
一方聖職者カインの胸には、盾父アダマスとの会話が濃い影を落としている。
青空を見上げ、それから白砂の只中に生えているアリキアの枯れ木を見やった。白い幹。白い砂。濃い影はそこにこそあるべきなのに。
カインは思った。炎湧く主、精霊ミスティルテインとは、果たして善悪で語ることができるものなのだろうか。カインには判断がつかなかった。漠然と広がる不安――善悪の判断がつかぬものと対峙することとなったとしたら、自分は、何を拠り所にできるのだろうか。
神の元に続く道は険しい。そもそも道なき道かもしれない。
「お疲れですか、神官様」
「ああ……ラムリュアさん」
紫の薄紗から自分を見つめるまなざしに、カインは微笑を返す。
「いいえ、疲れたなどとんでもありません」
「そう」
軽くラムリュアはうなずいた。時に他人のことを気遣いすぎる癖はそろそろ治したい、などと心中で思う。
癒し手という、相手の体調や心の状態に敏感でいることを求められるが故の悩みは、パーピュアとも共通している。癒し手は自分自身を癒せない。
「ラムリュアさんこそ。ミルドレッドさんの看病はさぞ大変だったでしょう。彼女もすっかり元気を取り戻しましたね。まったく、昼夜問わず尽力してくださった貴女のお陰ですね」
「神の思し召し、なのでしょう」
カインの口癖を借りてラムリュアは肩をすくめる。彼の言葉は耳に心地よいが、手放しで褒められすぎるのもくすぐったく、少しは見栄を張りたいという気持ちもある。
「ミルドレッドは運がいいんだわ、きっと」
「なるほど」
素直にカインはうなずいた。
「そうかもしれませんね。砂漠の中でひとり行き倒れて……命を失ってもおかしくありませんからね。そこを救われた彼女は確かに、神に愛された者と言えるでしょう……」
カインの視線は、ミルドレッドの姿を探して奇岩の間をさまよった。
一度は無下に追い返した女学者を、後から救いに向かったのは、盾父の判断であったのだ……。
「アダマス盾父は……」
「なあに」
いつもの流れるような話し方と違って、少し間を置いて話すカインをラムリュアは訝った。何か言葉を選んでいる雰囲気を感じ取る。
「盾父は悪者扱いされているでしょう。私はそれが辛いのです。クレドさんたちにはせめて聞かせられぬと思っていましたが、あの夕食の場で皆が盾父に対し不満をあげるようなことになってしまった。もちろんクレドさんやグロリアさんの聞いている前で、です」
「仕方ないわ。彼が私たちに事実の一部を伏せていたのは確かだったんですもの」
でも、とラムリュアは続けた
「ちゃんとアダマスもミルドレッドも互いに知るところを明らかにして、不満は解消されたでしょう。結局のところ、前進していると思っていたのですけれど」
エディアールのおかげだとラムリュアは思っている。個々に話をつけるより全員が確実に揃う場で、全員に等しく情報を伝えられたのだから。探検家というのは集団行動に慣れているのだろうか、とも思う。
「……神官様はそうは思わないのですね」
「いえ、私は」
カインはゆっくりと瞬いて、言う。
「……やめておきます。少し醜い考えでした」
「そう」
素っ気無く一言。
そして、ちょっと考えてもう一言を付け足した。
「神官様はきれいなもののことばかり考えているのだと思っていました」
そう言ったラムリュアの脳裏を太陽のカードがよぎる。金髪もまぶしく微笑みを絶やさぬカインは、太陽が似合った。自分がカインに気後れするのはそのあたりもありそうだ、と思い当たるラムリュア。いつぞや夜闇の中で占い札を引いたときなどは、そのぴったりとした黒い覆服とも相まって随分不健康に見えたものだった。
「意地悪なことをおっしゃいますね、貴女は」
カインは困った顔をした。
「私は時々不安になるのですよ。ここ最近は特に。アダマス盾父はとても強い方です。あの方を見ていてなお……いえ、あの方を見て、そしてあの方がああして非難の的にされるのを見て、では私自身はどうか、と思わずにはいられないのです」
ラムリュアは青みがかった髪を静かに払う。
「……いいじゃありませんか。心のあるままに生きて」
「本当にそうなのでしょうか?」
ますます困った顔をしてカインは言った。
「アダマス盾父曰く、神は細部に宿る――と。では私は? 私の身は、心は、祈りと共に神に捧げたものでした。いいえ、捧げたつもりでした。だがそれは」
「自分が決めることではない、とおっしゃるのですか? 神官様」
ラムリュアは薄紗からするりと白い腕を伸ばした。
指はカインが胸から下げている細い鎖を引っ張る。しゃらら、と神々の聖印が音を立てた。
「貴方の信じる神は貴方とともにいるではありませんか。私の側に精霊が寄り添っているように」
見えぬ指に締め付けられたような想いで、カインは目を細めた。
「貴女は貴女の精霊とともにミルドレッド女史を救った。ですが、私はまだ何も行っていない。自分の手も汚さず。そして神は、それでよいとは告げてくれぬのです」
ラムリュアの指先が聖印から離れる。カインの胸には、顕わになったふたつの聖印――《愁いの砦》と《涙の盾》のしるし――が残された。
「神官様。覚えていますか? 占い札を開いた時に私が申し上げた言葉」
カインは聖印を握りうなずく。
「もちろんです。人ではない何かが、引くべき札を教えてくれる……それが貴女の精霊だと」
「札を表に返す手が、私でも貴方でも結果は一緒。きっと貴方が引いたとしても、逆さまの花輪が出たでしょう」
なぜならそれが、引かせたい札だから。
「神官様が、身も心も祈りと共に神に捧げたのなら、それでよいではありませんか。札はもう選ばれているんですもの。ご自分で表に返す方法が分からないのならば。誰かがそのうち返してくれるのを待てばいかが?」
「私は……私自身を信じてもよいのでしょうか」
「貴方はご自分を神に捧げたのでしょう?」
ラムリュアは半ば責めるように、半ば諭すように、妙に自信を失ってしまった神官に答えた。
「そうですか……そうですよね」
カインの表情が少し和らいだ。
「ラムリュアさん。随分醜いところを露呈してしまいました。どうか忘れてください」
そういったカインはいつもの落ち着きを取り戻したように見える。
「そうね……」
ラムリュアは紫の薄紗の端をつまんで揺らした。
「忘れなかったら、お聞きしたいことがあるんですけどよろしいかしら、神官様」
ラムリュアは自分が《魔獣》に会いに行くつもりであることを改めて告げた。
「戻ってきたらお聞かせください。占い札の夜の会話の真意を」
■Scene:因果の棘、10
「お守りの石をお持ちでしょう」
パーピュアがレディルの袖を捕まえて言った。もう片方の手には日傘を持って、肩でくるくると回している。
次に幻覚が来れば記憶を失うかもしれないのだが、手紙を書き終えた後は、もういつもと変わらぬパーピュアであった。もっとも、ラハに来る前の街で石をぶつけられた時も、詐欺師扱いされて宿を追い出された時も、彼女の表情は変わらず、微笑なのである。
「ああ、ずっとあんたに見てもらいたかったんだよね」
と、レディルはパーピュアのかわりに日傘をひょいと持ち上げ、お守りの小石を差し出した。
「これですねえ」
両手を出して受け取った緑色の小石に向かって、こくんとうなずくパーピュア。
「どう?」
レディル自身が握りしめると、見たことのない風景が見える。
否。見たことのないという表現は適切ではない。正しくは、レディルが行ったことのない場所なのだが、石がいつも見せてくれるため、すっかりなじみのある景色というべきか。
緑に萌える山、そして水面に山を映す深い泉――。
レディルにとってはもうひとつの故郷のような場所だ。
「実はですね、レディルさん」
レディルを見上げ、重々しく――パーピュアなのでそれほどでもないが――口を開く。
もぞりとレディルは背を伸ばした。居ずまいを正して聞くべき内容の予感がしたのだ。
「この石、すごく偉い石なんですよー」
「え、偉い……?」
「はい。そうです」
両手の掌にちょこんと載った小石は、パーピュアが手を伸ばすと、ちょうどレディルの胸の高さに届く。
すりすりとレディルは石を撫でた。
「喜んでますよう」
石の代わりにパーピュアは微笑んだ。
「この石とは、どこでお友だちになったんですか?」
「随分昔のことだよ。両親に連れて行ってもらった《ミゼルドの大市》で見つけたんだよね」
そのときのことを久しぶりに思い出し、レディルは懐かしそうに茶色の瞳を細めた。
「いろんなものが取引されているという、あの大市ですか」
「そ。そんでその市場で、しわくちゃの骨董品みたいな商人が石の店を出してたんだ。屋台だよ。その人の話がすっごく面白くってねー」
「まあ」
レディルは《大市》の期間中ひたすら石商人の元に通い詰めた。両親はいろんな商談をして回っていたはずだが、そのあたりの記憶はない。おそらく、レディルが石に興味を持ったのをこれ幸いと、商人に預けたくらいの気持ちでいたのだろう。
石商人はレディルにさまざまな物語をしてくれた。多色の相を持ち輝きを変える石の話や、夜になると猫目のように光る石、落ちた星の欠片という隕鉄の話、柔らかく脆い石で出来た女神像が盗まれた話、富を運ぶ秘石を求めた王の話、必ず同じ形に割れる双子の宝石の話……。
少年レディルが驚いたことに、石商人の物語に登場する石は、今目の前で売られている石そのものであったのだ。彼は歓喜した。代金を払いさえすれば、石商人の物語を自分だけのお宝にすることができる。
「あれが俺の骨董品好きの原点かもしれねーな。ちょうど、骨董品の持つ記憶が読めるらしいと自覚したのと同じくらいの話だし。最初は覚えたての遠見の力に引きずられて苦しいことばっかりだったから。今にして考えてみれば、両親が俺を《大市》に連れて行ってくれたのは、思わぬ遠見の力に翻弄されていた息子への、ちょっとした気晴らしのつもりだったのかもしれねーな」
ところで少年はお金を持っていなかった。だからお宝の石たちを自分のものにする代わり、商人の話にひたすら耳を傾けた。自分の力だけではどうにもならないということもレディルは知った。遠見が見せる世界にも、心を開こうと考えるようになった。
そして《大市》の最終日。
「君にあげよう。石も君が気に入ったようだから」
老商人は緑色の小石――初めて見たときからレディルの心を騒がせたお宝――を無造作に手渡してくれたのだった。次は君の番だ、と商人は言った。
「素敵な話ですねえ」
「そう? 正直、俺の話よりもその骨董品みたいな商人の話のほうが数倍素敵だったんだけどなー」
「この小石にまつわる物語は……」
「それがなあ。この石の物語だけは知らん、と石商人は言うんだよ。ひどい話だよな。旅の途中で、旅人から譲られたんだとさ」
パーピュアはそっと小石をレディルに返した。
「その人は、宝石道師だったかもしれませんね」
「え? でも癒し手って感じじゃなかった。しわくちゃのじーさんだぜ」
「宝石道師は見た目よりも長生きなんです。石と一緒にゆっくり育ちますから」
真面目な顔でパーピュアが説明する。
まじまじとレディルは少女にしか見えないパーピュアを見つめた。
どうしよう、この子が実は百歳くらいだったりしたら。
「それにですねえ。宝石道師は宿す石によって一族の中でも持つ力は違うんです。アメジストは浄化が得意なだけです」
ちょっと怖い想像から離れて、レディルはお守りの緑の石を、その滑らかな表面を撫でた。
「この石、どうして俺を選んだんだろう」
「石にも意志があるんです。あ、シャレじゃありませんよう。見せてくれるのは、清浄でみずみずしい、とても美しい場所です。石はいつか、レディルさんを連れて行くと思います」
パーピュアは断言した。
「お守りの石ですから。レディルさんが辛い暗い記憶を受けたとき、この景色が浄化を手伝っているんです。いつか、レディルさんが訪れる日を待ちながら……」
■Scene:因果の棘、11
どうにも心配で、クオンテはミルドレッドの姿を探した。
「なあミルドレッドの嬢ちゃん……」
「何だよ。あたしの保護者のつもり?」
「っと悪い、保護者を気取ってるつもりはねーんだ」
気の強そうにこちらをにらむ赤と銀の瞳にも、慣れた。
しかし、放っておけない。一度そう思うと、過保護なほど面倒を見てしまうのはクオンテの性である。
「匂い袋……嬢ちゃんは使ってないんだよな?」
「狸ジジイからは餞別なんてもらってやしないからね」
腕を組み、鼻息の荒いミルドレッド。彼女はアダマスを分かりやすく嫌っているのだった。最初に調査の重要性を説きに行った日に軽くあしらわれたことを、相当根に持っているようである。
「でも声が聞こえて、問いにも答えたんだよなー?」
どうにもわからない、とクオンテは眉根を寄せた。
彼自身は未だ匂い袋を使用しておらず、ましてこれからも使うつもりはない。
だから声も聞いていない。
次に嵐がやってきたとしても、自分の役目は《魔獣》に会いに行くことではないと考えている。会いに行った結果記憶を失って放り出されてしまった子たち――シュシュやフートのような――をちゃんと待っていてあげる大人が必要だと思うから。
「カッサンドラの嬢ちゃんも、匂い袋もなしでいなくなっちまったんだよな」
「あの秘書?」
「おう、知ってんだろ」
「狸ジジイによくつきあってるなーって思ったもんだけど。そうだったね、いなくなっちゃったんだってね」
話がそこに行くと、ミルドレッドはさすがに申し訳なさそうな表情に変わる。カッサンドラが行方不明になったのは自分のせいなのだ。
「あたしとの共通点として考えられるとしたら……女性ってことくらいかな」
「……やっぱそーだよなあ」
クオンテはもぞもぞと後頭部を掻いた。
「とはいえ、パーピュア嬢ちゃんなんかは、声は聞いたけれども無事、なんだよなあ」
イーダやラムリュアも、おまけにグロリアまで《魔獣》に会いに行くつもりらしい。心配なことこの上ない。
「なあ」
こそっとアダマスが周囲にいないことを確かめ、クオンテは声を潜めた。
「《魔獣》が外に出てきちまったら、どうなるんだ?」
「あたしは、《魔獣》が自分の力で結界を破った後では、《魔獣》を支配することは難しいと思ってる。だって相手は意思を持つ強大な力、火山脈を思い通りに動かすこともできる。中にいるうちに会えば話を聞いてくれるかもしれないだろ、意思を持つということは少なくとも交渉が成り立つんだ」
「あー」
危なっかしいなあ、とクオンテは黙って思う。
「……と思ってたんだけど」
ミルドレッドはそこで言葉を切った。
「狸ジジイの話……あたしの思っていたのとは、違うかもしれない」
親指を噛む。
「アダマスのおっちゃんの、儀式魔法の話が真実だとしたら、結界を構築したのは《涙の盾》の高位の神官ってわけだな。そんでエディアールの兄さんは」
アダマスの姿が周囲に見えないことをもう一度確認するクオンテ。
「結界の効果によって精霊力が乱れたままの状態が維持されていて……その精霊力は遺跡の仕掛けで魔力に変換されて……その魔力は意思ある力の封印に用いられて……ん?」
ぐるぐると思考が円になる。
考えるのは自分向きじゃないのに、何をらしくないことをやってんだ、と思わないでもない。
「俺たちが結界を壊したら、どうなるのかね」
「《魔獣》が出てくるだけだと思うよ。……ああ、そっか」
ミルドレッドは何か考え込んでいる。
「エディアールは、《魔獣》とミスティルテインは別の存在って言ってたな。そういう考え方も確かにある。そうすると……結界を壊したとしても、単に《魔獣》が放たれるとは限らないね」
それを聞いてクオンテは、リュートには釘を刺しておいたほうがいいなと思った。彼は隙あらば結界を壊したがっているのだ。
ミスティルテインが登場するにしても、別の《魔獣》が登場するにしても、こちらの対応を予め考えておかないと事態は悪化するだけになってしまう。
まあそれすらリュートは楽しんでしまうに違いないのだけれど。
「もしかして狸ジジイは、結界を構築した神官に目星をつけているのかもしれない。黙ってるけど」
「ああ、そりゃありそうな話だよな」
「絶対許さない。先に《魔獣》を手に入れるつもりなんだよ」
「そこまでは、なーんか考えすぎなんじゃねーかな? 現におっちゃんは、待機組って話だったし」
「あたしたちが全員記憶を失ったら、それこそあいつにとって思う壺なんじゃないか。儀式魔法の主催者が誰だか知らないけど、そいつが中にいて、すでに《魔獣》を支配してしまっているかもしれない……」
「おいおい、そりゃ飛躍しすぎじゃねーかな?」
まるでちっこい傭兵としゃべっているような気分だとクオンテは思う。
ミルドレッドと話してみてわかったこと。
まず、アダマスに対する根強い不信感。
そして、思った以上にミルドレッドの知識――《魔獣》に対するそれや、その後のことなど――が偏っているということ。ある部分については譲れぬ想いを持っているかと思えば、別の角度で問うて見ればびっくりするほど覚束ない。
まるで誰かが、そうしろと命じているかのように。
学者ともなれば逆の見地から検証して自論を補強していくのではないのだろうか。
「嬢ちゃん、本当に《魔獣》に会いにいくのかい」
「当たり前だ!」
ミルドレッドが気色ばんだ。
「一度は失敗したけど、運良く協力してくれる人たちがいてくれたんだ。せっかくここまで来て、あとは答えさえ間違わなければ《魔獣》に会える。そして連れ帰る」
「もう一人じゃない、か」
クオンテの呟きにミルドレッドはさらりと答える。
「扉を開けるのがひとり。そして《魔獣》をつかまえるのがひとり要るだろ」
「なんでだよ」
例えば子どもたちが、とある一室でわあっと遊んでいたとする。
イーダにクレド、グロリア、ティカ、シュシュやダージェやラージやその他もろもろのかわいい子どもたちだ。その部屋に続く扉をクオンテが開けたとして、手近にいた子をがばっと捕まえる。
また扉を開けて、一緒に外に出て行く……。
「それで扉が開けばいいけど」
ミルドレッドは言った。
「幻覚の嵐の中で思った――このまま中に閉じ込められてしまったらどうしようって」
「そういう考え方か」
ますます、遠足から帰ってくる子どもたちを待つ大人が必要そうである。
「匂い袋の話を考えなかったからだけどね。だから捕まえる役をダルに頼んだんだけど」
とミルドレッドは付け加える。
「ラージのあやとりで全員縛っといてもらうしかねえなー」
クオンテは真剣である。