第4章 3.結晶の森
■Scene:結晶の森、1
幻覚の嵐がやってくる。
輝く雲が出現する条件は定かではなく――。
スィークリールの隣でクオンテとティカは輝く雲を目撃した。
からくり犬は興奮した様子で、前足を蹴った。
足元から衝撃。
「おいおいどーしたよ、スィーわんこ」
琥珀色の瞳は輝く雲の色彩を映している。
「ほうほうそんな悲しそうな目をするでない」
ホールデンは努めて明るく振舞っていたが、鼻声だった。
「すぐに戻ってくるぞ、姫君……はちといいすぎじゃが、カッサンドラの嬢ちゃんを横抱きにしてなあ」
カッサンドラが聞いたら怒り出すような台詞である。
「朝を待ってるって聞いたから――夜に来るとばかり思っていたのにっ」
片手で顔を覆いながら、ヨシュアがひとり呻いた。
「よかったじゃない」
すぐ側のリュートの姿も白い靄のなかにゆっくりと沈んでいく。
「何がですかリュートさんっ」
手紙、とリュートの口が動いた。
書き終えてたんでしょ、と。
「まあそれは。結果論……ですけどっ」
超大作を預けたスィークリールの姿をヨシュアは探した。靄に隠れる前に、ティカの隣に控えている姿を見つけ、ヨシュアは切ない想いにかられた。
イーダは素早く糸の片端を自分の身体に結びつける。急がなければ。焦ると上手く結べない。
「あーもう、あやとり習えばよかったかもっ」
糸玉のほうは無造作に砂に転がした。
ホールデンの姿を探しながら思う。本当はデン爺さんに持っていてもらえば安心するんだけど――いけない、こんな考え方はまだまだ子どもだな――デン爺さんも一緒にミストに会いに行くんだから、大丈夫。
大丈夫。
「目印にしておくから!」
靄が立ち込めてしまう前にイーダは叫んだ。
「戻ってこなかったら、これを辿って来ておくれ!」
ぴん、と糸が張った。残った誰かが糸玉に触れてくれたのだとわかる。それだけで涙が出るほど嬉しかった。
あたしは大丈夫。誰かが糸玉の端を持ってくれている。
もうひとり、糸を繰る男、ラージ。
「集中しなくてもいいとはいえ不便だったよ。でもこれで……しばらくご飯が食べやすくなるや」
手ごたえを感じながら彼は糸を手繰った。
宙に浮くかと思ったが衝撃は足元に伝わった。空からすっぽりと幻覚の箱が遺跡全体を覆ったようである。
「前に来たのと同じ場所だろうな……やっぱりだ」
ひんやりと風を頬に受け、ラージはすうと深呼吸する。
「前回はよくやってくれた」
エディアールが言った。
「え?」
「糸のお陰で、今どこにいるのかがはっきり分かる」
驚いた。まさか彼がそんな言葉を自分にかけてくれると思わなかったから。
「あ、ありがとう」
口ごもりがちに呟いた。白い靄があたりを包んでいく。エディアールはもう背中を向けていた。
「アリキアの木……」
眩しげに目を細め、結晶に覆われた大樹を見上げるヴィーヴル。
「熱い」
仕舞いこんだナイフの欠片が、また熱を帯びている。
「突き止めてやる」
ヴィーヴルは欠片をぐっと握りしめ、生き生きと目を輝かせた。仄かに光を放つ半透明の結晶体。柔らかな角度を持って自分たちを取り巻くそれは、蛍石に似ていると気付いた。
「ミスト!」
問われるより早く、シュシュが叫んだ。会いたい、と思った。
「ミスト!」
もう一度、子どもの名を呼ぶ。
『あなたはだあれ?』
不思議な声に尋ねられ、答えると決めていた者が口々に告げる。
「僕はラージ・タバリー」
「ヴィーヴルと呼ばれる者。真理を探求するもの」
「ボク、ダルだよ」
「ラムリュア。または芳夜」
「私は……ミルドレッド」
「ワシはホールデン。いわゆる老いたる英雄じゃ」
「はじめまして。私はピュアといいます」
「ミスト! ミスト!」
シュシュは嬉しそうに何度も子どもの名を呼んだ。
「あたしはイーダ……」
わずかな時間、イーダは口ごもった。
「ねぇ、キミにはあたしはどう見えるんだい?」
同じ迷いを持つヨシュアも。
「名前はヨシュア・クラン。どういう人間なのか、俺もよくまだ知らない」
「あたしはグロリア。こっちは」
「クレド。なあ、おまえこそ誰?」
シュシュはだからミストだってば、と教える。
答えた者の身体には、光が絡み付いてゆく。光は石から放たれていた。一帯の空間を構築している半透明の結晶体から。
■Scene:結晶の森、2
エディアールは声に答えず、結晶のひとつを拾い上げた。
比較的新しそうで、足元に転がっていた手ごろな大きさのものを手に入れる。
「声? 僕には聞こえない」
靄の中でリュートがきょろきょろと周囲を見渡す。
「匂い袋を使ったか?」
結晶体を観察しながらエディアールが問う。
「使いましたよ、もちろん」
「アダマス師の言うとおりにしたか? 黒曜石のナイフで」
リュートはかぶりをふった。彼の大切な銀の剣を用いたのだ。
「あのとき、他の人のお守りからいい匂いがしたって言っていたでしょう? 僕のだけしなかったんですよ」
「なるほど」
エディアールは不満顔のリュートの肩にぽんと手を置いた。
「そういうことだ。この場所は、入る者を選んでいる。たぶん黒曜石の火と真珠の水、その条件でのみ発生する匂いをまとう者だけを識別しているのだろう」
「でもカッサンドラさんは? ミルドレッドさんは?」
リュートは口を尖らせる。
「なんて詰まらないんでしょう。彼女たちだけが特別扱いなんでしょうかねえ、この店は。ちょっとずるい気がしませんか」
「……そうかもしれない」
エディアールは、はっと巨木を見上げた。
「ミルドレッドのために作られた場所……だとしたら、彼女がパルナッソスに来る以前に、条件を満たしていた可能性もある」
光の網に絡め取られた者たちはすでに姿を消した。何者かに選ばれ運び去られたのだ。
次第に靄が晴れていく。幻覚の嵐が収まりはじめている。前回の幻覚の嵐と同様、じきに再び衝撃が来て、《炎湧く泉》に帰還するはずだった。
「記憶は無事……か」
結晶を握っていた手を開き、エディアールは他の調査隊員たちを案じた。
綺麗な方形をした柔らかな石。仄かに発光を続けている。そっと爪で引っかくと、すぐに傷がついてしまった。
「火山性の岩ではないな……何の結晶物だろう? 柔らかい……蛍石か」
ささやかな収穫をためつすがめつエディアールが呟く。傍らではリュートがしきりにつまらない、と漏らしている。
「僕は《魔獣》の味方だよって名乗ってみるつもりだったんですけどね」
「《魔獣》の味方?」
「声すら聞こえないなんて、けちな遺跡ですねえ」
いよいよ退屈の極みに達しつつあるリュートである。
■Scene:結晶の森、3
「ミスト! ミスト!」
喧しいほどシュシュに呼ばれて、子どもが姿を現した。
「良かった、また会えたよ。会えなかったらどうしようって思ったけど良かった」
「……?」
子どもはしばらく考えているようだった。
らーじ、だる、らむりゅあ。ひとりひとり指を指して、一生懸命覚えようとしているらしい。
しかし指を指されたほうの一同は、すっかり記憶を失っていて自分がそう名乗ったことを言われなければ思い出せない。互いの名前をかろうじて告げあい、めいめいが自分に宛てて書き残した手紙を広げはじめる。
手紙を携えていなければ、そもそもこの場所にやってきた目的さえも見失っていたことだろう。
「……おまえが……?」
ミルドレッドはミストをじっと見つめて、不思議そうに呟いた。
「《魔獣》? ミスティルテイン? あたしは……」
心細い顔でダージェを探す。
ダージェは訳もなく微笑み返し――女性にはそうするものだと刷り込まれているのだ――、ミルドレッドの隣に立って大丈夫ダヨ、と言った。
「ボクはダル」
ミストはぱちくりと瞬いている。
「ボクの思うボクと、あんたの感じるボクはきっと違うモノだよ。あんた自身が見て話して触れたボクが、ボクになるんだから……だからボクがどういうヒトかってボクに尋ねてもあんまり意味ないよ?」
「わたしの、感じる、だる? わたしの、感じる、いーだ?」
ミストの言葉は、多くが疑問形に尻上がりであった。
言葉の意味をゆっくりと確かめているようで、ダージェとイーダは嬉しくなった。意図したところが伝わったらしい……しかし、意図とは何だっただろうか?
そんな中で、シュシュはひとり元気であった。
一度来たことのある場所だということ、ミストが変わらずいてくれたということ。記憶をなくした後に皆から教わったことは、今も忘れずに覚えていること。
それだけで充分だ。
「しゅしゅ」
子どもが呼ぶと、シュシュはにんまりと笑った。
「はーい。それ俺のなまえね」
「しゅしゅ。ほーるでん」
「賢い子じゃの」
ホールデンは眦を下げる。
「こんなとこで何しておるんじゃ、ええ? まさか、一人ぼっちじゃなかろうな?」
シュシュはミストの目線にしゃがみこんだ。
「朝を待ってるんだよね? 誰に教わったの? ねえねえ」
「朝を、一緒に待とうと思って私は来たそうです。私の手紙によりますと」
パーピュアが小さく折りたたんだ手紙を子どもに差し出した。
子どもはそれが何なのか分からない様子で、差し出されるままに受け取る。くるくる引っくり返して見ているだけで、開いて読もうとはしない。
「あらあら……仕方ないですねえ」
パーピュアが紙を開いて読み上げる。
「私は貴方とお友達になりたくて来ました。ミストさんは朝を待ってるという事ですが、私も一緒に待ってもいいでしょうか?」
読みながらパーピュアも、そうだったんだ、と得心する。
パーピュアだった女性はひとつの賭けのために、ここに来たらしい。ミストのため、それから自分の使命のため。手紙の後半を読み終えたパーピュアは、過去の自分が人に話せぬ悩みを抱えていたことを痛ましく思った。そして、こうして過去の自分と切り離されてしまった今、客観的に見てパーピュアだった女性は幸せではなかったのだと思った。
過去の自分を癒すことは出来るのだろうか?
それが出来ぬと悟ってパーピュアだった女性は、自分をここへ連れてきたらしい。
手紙の内容に沿って行動することが、過去の自分に誠実であること。自分が書いた内容と言われなければ思い出せない記述を追ううち、不思議と強い感情が芽生える。
手紙はこんな文章で締めくくられていた――『記憶を持たないあなたは、貴女らしい事をしてください。宝石道師だった私からのお願いです』。
「俺が知ってる朝のことでいいなら教えてあげられるけど。お日さまが地平線から昇って、眩しく明るくなること。朝が来ると起きるんだよ。剣の稽古もしたりさ……違いそうだね。ごめん」
「……朝なの?」
ミストが問う。
「カッサンドラさんは朝だったのかい?」
手紙を読み終えたラージが付け加える。
「僕は、先にここへ来たはずの女性を探してる。その人の名前はカッサンドラって言うんだけど」
手紙を書いておいて本当によかった、と、他の仲間と同様の思いを抱いているラージである。人の記憶に頼っていたら、いつまでたっても思い出してもらえそうにもない――そうしてラージは偶然にももう一つ記憶を取り戻した。つまり、自分が影が薄い男であったということを。
「その人に会いたいんだ」
ラージの手をミストがつかんだ。
「……こっち」
ミストが誘う。
互いの名前と、最小限記された記憶だけを持って、調査隊だった人々はミストについていく。
「あ、ミルサン、ラムサン、足元に気をつけてね……ピュアチャンも」
靄が足元を隠していた。背のあまり高くないピュアには視界も悪く、歩きづらそうだ。
ミストは勝手を知っているのか、結晶体の間を軽々と進んでゆく。
ダージェは女性陣を助けながらホールデンと一緒にしんがりを務めた。
行く手に、結晶に囲まれた淡く光る洞穴が見えた。ミストはそこを目指しているらしい。
「おじーちゃん、何か前もこういうコトあったよねえ? 一緒に行軍した覚えがあるよネ?」
「そうだったかの? ふむ、おまえさんとは意外に長い付き合いだったっちゅうことかの、お若いの」
「そーかもネ。へへー」
ダージェがポケットに手を突っ込む。指先に小箱が触れた。
「あれー。コレなんだっけ? ねえ……」
「それは……」
ミルドレッドが振り向き、言葉を失う。
「後ろ」
色違いの瞳が大きく開かれた。
一同が振り返ると、円形に立ち並ぶ12本の結晶柱が内側から赤々と発光していた。
否。
12本のうち、11本が赤い光を放っている。
橙から紅。白金へ、また黄色そして赤。音もなく燃え盛る炎のような光が、柱の内部で出口を求めている。
そして内なる炎に燃える柱が円形に取り囲む中心には。
「こりゃ、坊主っ」
クレドは巨木の根元に立ったまま、結晶化した枝葉を見上げていた。
そしてそのまま、手にした剣の聖印を深々と巨木に打ち込んだ。
脆い音がして、巨木の一部が崩壊する。幹の上部にみしみしとひびが入っていき、枝葉が崩れ始めクレドの頭上に降り注いだ。
ひらり。
声を出す間もなく埋もれてゆくクレドを庇うように、白い豹が枝から飛び降りた。
「クレドッ! 馬鹿、馬鹿!」
グロリアは悲痛な叫びを上げた。
■Scene:結晶の森、4
同じ頃。
「……やれやれ」
騒ぎを察知した男はゆっくりと黒い上着を羽織り、一人低いため息をついた。
「語り得ぬものは沈黙しなければならない、か。それにしても慌しい」
巨大な結晶の中に穿たれた洞から、ミストを出迎える。
「おかえり」
「ドール!」
低い声の男は抱きつく子どもの背をなでて、次いでミストが連れてきた人々を眺めた。
その男はかなりの大柄で、黒髪を短くかりあげていた。年はアダマスより若く、エディアールよりは上といったところである。黒い上着は襟元がずいぶん詰まっており、踝辺りまで丈がある。そして彼の瞳は赤と銀の色違いなのだった。
「ミスト、この人誰?」
シュシュが尋ねると、ミストよりも早く男は答えた。
「おまえ、よくまた来たもんだな? 怖くないのか」
「何が?」
無邪気にシュシュが答える。
「あんたは……」
ミルドレッドは言葉を失っていた。顔を覆う。
「あんたは」
「おかえりミルドレッド」
ドールと呼ばれた男は、ミルドレッドの手を素早く逆手に取って捻りあげた。
「《魔獣》に会いに来たのだろう?」
「ウッ」
ミルドレッドは声にならぬ悲鳴を漏らす。
「何するんだよっ! ミルサンを離せっ!」
ダージェが素早く腰のものに手をかけた。
ミストが軽々とダージェの前にやってきて、ぱちんと指を鳴らす。
「上出来だな、ミスト」
激しい熱風がダージェを軽く吹き飛ばした。焦げ臭い匂いが漂う。ミストの指先から炎が放たれたのだ。当のミストは、ドールの言葉に嬉しそうに笑っている。
とっさにラージは糸玉を操った。ミルドレッドの身体をドールの手から取り戻そうとする。しかしその糸もミストの放つ炎が焼き尽くしてしまう。
「会わせてあげよう。おまえが連れてきた連中も一緒に」
轟音と熱風が彼らを取り巻いていた。
「《涙の盾》の御名において――」
ドールの詠唱に、結晶柱は赤々と輝きを増した。
「――今ひとたび恩寵を与えたまえ。人々を導く《朝告げる鳥》、其は闇を払い、希望を告げ、道を照らすべきものなれば」
「朝なの? 朝がくるの?」
ミストは嬉しげに言った。赤い両目を輝かせながら。呆然と立ちすくむ旅人たちを、熱風で吹き飛ばしていく。
シュシュ。
ダージェ。
ホールデン。
ラージ。
ヨシュア。
そしてグロリア。
ラムリュア。
パーピュア。
ミルドレッド。
ヴィーヴル。
その先には結晶柱。まがまがしくも輝く結晶柱に押し込められる人々を待っていたのは、中で熱く燃える塊。
(怒れ!)
それは激しい怒りを伝えてくる。
(怒れ! この身を切り裂き、この地に埋めた不遜な人間め!)
パーピュアは結晶の中で目を閉じ祈る。
「貴方はなぜ怒っているのですか。ミストさんが朝を待つのは、いけないことなのですか」
(怒れ! 思い知らせるのだ! 我を利用しようとした輩に罰を与えよ!)
「貴方は……」
パーピュアの胸に宿っていたアメジストは、結晶の中で炎に染まった。
あ、と思った瞬間。生まれた時からパーピュアを支配してきた紫色の宝石は、すうと色を失った。そしていくつもの欠片となってどこかへ消えていった。
「あ……」
結晶の壁ごしに、仲間たちが閉じ込められている柱や、その向こうの結晶が見える。
あちこちで紫色の光がぽつん、ぽつんと輝き、また消えていった。それを見たパーピュアは無性に喪失感に襲われた。どうしてかは分からない。ただ切ない気持ち。
(怒れ!)
熱く燃える塊は叫び続ける。
この炎に身を委ねたらどうなるのだろう?
魅力的な考えに、パーピュアには思えた。
■Scene:結晶の森、5
「ドール」
ミストが尋ねる。
「朝は終わったの?」
「違うよ」
閉じ込められた人々がもがく結晶柱に背を向けて、ドールが答えた。
その後ろを、ミストがついて歩く。
「ねえドール。わたしは、何のために、いるの?」
「朝が来ればわかるよ。ミストも……俺も」