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第5章 1.胸の炎

■Scene:賛歌


――今ひとたび恩寵を与えたまえ。

  人々を導く《朝告げる鳥》、

  其は闇を払い、

  希望を告げ、

  道を照らすべきものなれば――


■Scene:胸の炎(1)

 人の間に紛れていると落ち着く。
 孤独は嫌いだ。人混みのざわめき。たまに誰かが感情を顕わにして、その結果作用と反作用が生じる。誰かの感情に対応して、別の誰かが感情をぶつける。いくつもの水滴があちこちに、ひとしずくずつ落ちて、水面の輪が広がっていく感じ。
 僕は水滴を落とすことはあまりない。でも誰かが作った波紋が僕を通り過ぎていくのは、嫌いじゃない。
 誰かの怒りや喜び。それが僕を通り過ぎていく現象にすぎなくても、そこには僕以外の誰かがいることが分かるから。
 だからだろうか。僕は主に受け止める、通り過ぎる役を演じている。
 自分の怒りや喜びをまっすぐ放つことは少ない。
 生きている、その濃度に濃淡があるのだとすれば……僕が「薄い」のは、それゆえなのかもしれない。田舎じゃきっと過ごしにくいだろうな。ずっと街中のざわめきの中で暮らしてきたから。
「あ、いたんだ」
 気付いてくれてありがとう。
 これでいいんだ。自分の怒りや喜びを溢れさせて、いわば波紋の中心でいることは、たぶんとても疲れることだと思うから。
「こっちにおいでよ」
 誘ってくれてありがとう。
 どうしてだろう。濃淡はどこから来るのだろう? これまでの生き方? 暮らしてきた環境? それとも友人関係? 単なる、好み? 
「あ、いたんだ」
 今気付いてもらえたから、僕はここにいる。
 僕という現象。

■Scene:胸の炎(2)

 ……俺は一生懸命、話したよ。
 俺、人の話を聞くのも好きだし、人と話するのも好きだから。うん、どっちかというと人の話を聞くほうが好きかな。
 その人の歩んできた道。どんなふうに物事を見ているか。そういうの、すごく知りたいと思うから。
 そんな話に興味がない人もたくさんいるのは知ってる。もっと大事なことをしろって言われたり。
 でもいいじゃん。だって俺が知りたいと思うんだから聞いてるのに。
 どうしてそんなことをいうの?
「おまえがやっていることは無駄だ」
「そんなことをやっても、どうせ何もならないぞ」
「どうでもいいさ」
「ご苦労さんなことだねえ。でも、きっとただの骨折り損だ」
 俺は唇を噛みしめる。泣いたりしないけど、腹が立つ。
 どうして分かってもらえないんだろう?
 いや。分かってもらわなくてもかまわない。ごく一握りの人だけでも、意味を見出してくれる人が確かにいることを知っているから。それなのにさ。
 どうして分かろうとしないくせに、真剣に話している人を馬鹿にしたり嘲ったりできるんだろう?
 腹が立って仕方がない。
 どうでもいい、とか。どうせ、とか。ただの、とか。
 前向きでない言葉と一緒に胸に突き刺さる、あの蔑みの視線。
 怒り。怒り。怒り。そして俺は苦しくなるんだ。

■Scene:胸の炎(3)

 どうしてそんなことをするの?
 あんたの目の前にいるちっちゃな女のコ。自分ではあんたに立ち向かう力なんかナイよ。知ってるでしょ?
 それなのにあんたは、そのちっちゃくてカワイイ女のコをぶったり、おっきな声で怒鳴りつけたりするの?
 どうして?
 ボクは許さない。
 自分が相手より力を持っていることを知っていて、相手を虐げる奴のコト。
「あいつは弱いから、こっちが守ってやってるんだ」
「そのほうがあいつの為なんだ」
 嘘。ギマンだよ。
 それはあんたの言い訳でしょ?
 どうしてそんなことをいえるの?
 ちっちゃな女のコは泣いてるじゃないか。
 あんたはあのコを思い通り扱いたいだけでしょ?
 あのコが言うことを聞かなかったらぶったり、おっきな声で怒鳴りつけたりして、無理やり言うことを聞かせるんでしょ?
 ボクはそんなの許せない。
 ちっちゃな女のコが、ちっちゃな犬や猫、身体の弱いお年寄り、病気を抱えた人だったとしても同じ。
 ちっちゃな女のコが正しいことを考えられないっていうの?
 ちっちゃな女のコがやりたいことは間違っていることなの?
「そのほうがあいつの為なんだ」
 どうしてそんなことをいえるのさ。
 怒り。怒り。怒り。
 ボクは戦う。弱い相手を組み伏せようとする力に立ち向かう。
 ボクの剣はそのためのものだ。

■Scene:胸の炎(4)

 約束を交したり、決めごとをしたり。
 普通にするよな。ほら、何かの仕事で一緒になった仲間同士。冒険者やっているとよくあるよ。とある事件の裏話を耳に挟んだり、面白そうな情報を仕入れたりね。意気投合した奴と、別の場所でばったり会うとお互い嬉しかったりしてさ。そういうの、好きだな。
 でも後になって分かることもあるよ。
 あの時、実は嘘をつかれていたんだな、とか。約束してたけど破られちまったんだな、とか。
 うん。
 どっちもホラ、後から分かることだから。
 やっぱり気付いたときには腹立つけど、んー……それでそいつと会うことがなかったらもうそれっきりだよね。
「でかいヤマがあるんだが手を貸す気があるか?」
って冒険者の仕事絡みで、結局ガセだったって話ならそんなに腹も立たない。
 よくあることだし、仕方ないって思ってしまうから。
 出会った奴が、どっかの砂漠の部族の王子だーって触れ込みだったこともあったな。そいつ、ニセモノだったんだけどね。
 なんだろうなあ。俺にはわかんねーや。なんで嘘つくんだろうね?
 その、自称砂漠の王子って奴にしてもさ。例えば砂漠の部族出身、てのは事実だったわけだし、それだけでいいじゃんて思う。王子でも王子でなくても、変わんないのにね。変なの。
 俺、自分は別に何かを隠したりする気ないから、余計にそう思っちゃうのかな。でもそれでずっと根に持って怒ったりしない。割とすぐ忘れちまうから。
 そのほうがいいだろ?
 だって怒りっぱなしだとすごく疲れねぇ?
 その時カッてなることはあるけど、そいつとまた会わなくなったら、その気持ちも風化するよ。いいことだけ残っていくのかな。
 ずっと一緒にいる相手に嘘つかれたりしたら、違うかもね。そういうのまだないけど。
 んー。
 怒り。怒り。怒り。
 なんか、いまいち、よくわかんねー感じだな。すぐ消える火みたいなものだよね。

■Scene:胸の炎(5)

 考えたこともない。
 怒ろうと思って怒ったことはない。
 昔から好奇心旺盛な子だったから、あちこち覗き込んだり入り込んだりして大人に怒られたことはよくあったけれど。あれはきっと、いけないことをしたから怒られたのだろう。
 自分にとっての禁忌がないのだから、怒るようなこともない。
 例外はひとつ。
「なぜ、こんな目に遭うのだろう?」
 理不尽な物事を目の当たりにしたときは別だ。
「あれを買ってこい」
「あれを採ってこい」
「あれを全部読破しておけ」
 ……師匠の命令は理不尽なことが多くて、大概ムッとしてしまう。でも不服を述べるとその3倍ほどの指示が追加されるわけで、怒るだけ無駄だということが分かってきた。
 それに、師匠はそうはいってもやはり師匠だ。錬金術の知識や技、とても自分は敵わない。
 ということは、比較の物差しに自分を据えられる場合は、たいした怒りではないようだ。
「なぜ、こんな目に遭うのだろう?」
 さっきまであんなに楽しかったのに、一気に失望に変わる。理不尽な事件が起きてすべて世の中が変わってみえる。
 誰のせいでもない。
 例えば幼い日のピクニック。家族みんな――両親と年の離れた妹と一緒に、お弁当をつめた籠を振り回し――もちろん怒られた――蝶を追いかけたり花を摘んだり木の実をかじったり。
 父は自分が尋ねたもの全部に名前があることを教えてくれた。
 まだ生まれたばかりだった妹は、母の膝の上でまんまるの目を開いて世界の輝きを眺めていた。
 きれいに色を組み合わせた野草の花束を差し出すと、妹がすぐに小さな手を伸ばしてきた。彼女はにこにこ笑いながら花びらをぐちゃぐちゃにちぎって、俺はせっかく上手にできた花束が壊れてしまって怒ったけれど、妹は色とりどりの花びらを握りしめてすごくすごく楽しそうで、それを困ったような顔で見つめる母も幸せそうで……。
 両親が病気で亡くなったのはそのすぐ後だ。
 妹も身体が弱く、長くは生きられぬだろうと医師から言われた。彼女は親類に預けられることになり、オレは師匠と出会って弟子入りした。家族はばらばらになってしまった。
 なぜ、こんな目に? どうしてオレの家族が?
 行き場のない怒りは性質が悪い。最初に師匠から命じられたのもその辺りを自分で制御することだったと思う。
 喜ぶこと怒ること。同じくらいよくあるけど、今じゃだいぶ上手くなったと思う。物差しを自分に置くことができないなら、酒を飲めばいいってことを覚えたから。
 最後は師匠が何とかしてくれる。両親がいなくても師匠がいるし、生きられないといわれた妹も、病気がちながらもちゃんと田舎暮らしを出来ている。
 それに比べりゃ、師匠のいいつけなんてムッとするくらいで済んでるんだ。
 もしかしたら感謝の裏返し、なのかもしれないけど……恥ずかしくてそんなこと師匠には言えねえ。

■Scene:胸の炎(6)

 誰かに優しくあろうとするなら、ほんの少し……小指の先ほどでいい、余裕が必要なのです。
 またの名を思いやり。相手を気遣う気持ち。ささやかな、ゆとり。そんな名前で呼ばれるものが必要なのです。
 無償の施しを受け入れることができない人たちは、無償という存在を信じられずに石を投げるのです。
 私に向かって石を投げることで、自分を納得させるのです。
 その人たちの心の中では、石を投げる行為と施しとが釣り合うのでしょう。悲しいことですか?
 その人たちはきっと私のことを、悪人だから、人を騙すペテン師だから、石を投げられて当然だと思うでしょう。石を投げた人たちの心には正義感が芽生えて、もしかしたらとっても満足していらっしゃるかもしれません。
 可哀想ですか?
 その人たちに石を投げさせることが、私の役目なのかもしれません。
 そうすると結果的に私は、その人たちを癒していることになるのでしょう。
 この間訪れた街でも、やっぱり私は石を投げつけられたのです。
 その街の人々は、「死者を蘇らせてみろ」と私に言いました。
 私にはそんな力はありません。
 もしかしたらその街の人々は、私を貶めることで、ささやかな心の平安を――無償の愛などないという実感を――得たのかもしれません。
 怒りはアメジストに向かいます。そしてアメジストは怒りを昇華してしまいます。無意味な永久機関……。
 私が怒らないわけではありません。石をぶつけられた時はひどく辛いし怒りを覚えます。
 もう少し、願わくばあとほんの少し……小指の先ほどでかまいません。相手を気遣う余裕が人々の心に訪れさえすれば。私は石をぶつけられることもなく、怒らずにすむのです。
 ですが。
 その余裕を得た人々の住む街に、私の居場所がないことも事実です。彼らは私を必要としないのです。彼らの傷は彼ら自身が昇華してしまうのです。でも本来はそれが人間の社会なのだと思います。宝石道師が必要とされない社会。あるいは、皆が宝石道師といえる社会。
 怒りは私にとって近しい。
 怒りを抱える人々は私を呼び寄せ、私が静寂をもたらすと、私に石を投げるのですから。

■Scene:胸の炎(7)

 怒り。
 ……ってなんだろう。あんまり怒りっぽいつもりもないし、ここ最近怒った覚えもない。
 たぶん、普段から、怒らないように意識しているんだと思う。
 ああ、きっと家が商売をやっていたからだろうね。お客さんに怒るなんてもってのほかだし、家族の間でも怒りを見せるようなことはなかった。
 同じ暮らすなら楽しいほうがいいに決まってる。そうだろ?
 悩んでる人、怒りっぽい人っていうのは、さあ。どうして楽しいほうを考えずに、苦しい、辛い、負の方向ばかり見てしまうんだろうね。ん、性格だろって? そうかなあ。
 だって怒ってぱっかりいると自分も他の人もぎすぎすして不機嫌になっちまわないかい。
 怒り続けるってことは辛いことだと思うんだよ。
 どんなに腹が立つことがあったとしても、上手くやり過ごして元気を取り戻すために、どこか必ず良かったことを見つければいい。どんなことでもいい。ひとつだけでもいい。
 後のことは忘れちまうのさ。良かったと思ったことだけを覚えておくんだ。
 それでも。
 目の前に傷ついた人と傷つける人、威張ったり怒鳴ったりする人がいたとしたら……難しいねえ。何のためにそんなことをするのだか、まったくあたしには分からない。やり過ごせるかちょっと自信ない。あははっ。やっぱ、腹立てちまうんだろうなあ。だめ?
 いくら自分の気持ちのありようひとつで、負の想いも変えられるとはいっても、限界があるのかもね。
 あたしはあたしの身の回りだけでもそうやって乗り越えてきたから。それより広いとこのやり方じゃ手に余るのかな……。


■Scene:胸の炎(8)

 よくもそんなことを私に言えるのね、貴方は。
 今ごろになって「もっと勉強に励んだほうがいい」ですって? 「あの時のことはあの時のこと」ですって?
 私が損得勘定で貴方の側にいたとでも思っているのですか?
 可哀想だわ、貴方も、私も。お互い尊敬しあっていたはずなのに、すべてなかったことになさるおつもりですね。
 協力して進めてきた碑文書の翻訳は、あと1章で一区切りつくところだった。
 翻訳がひととおり終わったら次はどの碑文書と突合せしようか、あれでもない、これでもないと想いをめぐらせ、さらには《精霊の島の学院》で向こうの学者たちと意見交換もしてみたい、きっと参考になるだろうから一緒についてきてほしい、と甘くささやきをかわして……。
 その挙句。
「あなたは自分の勉強を大切にすべきだ」
 怒るどころの騒ぎじゃないわ。
 若かった私には、勉強も大事だったけれど貴方との時間はもっと大事だったわ。そうして気がつけばもう学舎には戻れぬところまで来てしまった。それを貴方だけのせいと咎めるつもりはないけれど、貴方が私にかけるべき言葉は、もっと別のものだったはずだということを理解するくらいには、分別はありました。
 呈のいい助手がほしかっただけならば、面と向かって言えばよかったのに。互いが傷つかぬよう遠まわしに表面を取り繕うような言葉ばかり選ぶから、かえって傷つくのです。私も、貴方も。
 だけど私にはもう、貴方を癒すことはできない。
 貴方に寄りそう精霊と会話して、貴方の深奥に触れることはできない。
 優しい言葉でそれを拒絶したのは貴方。
 優しい言葉で私を侮辱したのも、貴方。
 だから私は……。
 貴方のせいにはしない。若かった私の輝いていた研究への情熱。それを貴方と分かち合い、貴方の側で手伝うことができたのだから。
 だから私は……。
 輝いていた時期はもう過ぎ、学舎へは帰れない。代わりに、ほの暗い夕暮れの時間から夜を、他の人々と過ごすことに充てるようになった。タロット。精霊。癒し。抱擁。
 怒りが別のものに変じるのには、もっと長い時間がかかると思っていたけれど。
 例外もあるのだと知りました。思うにあの碑文にあった箴言は真実を言い当てていたのでしょう。
『自分以上に大切な者がいる人間の時間は、多くを相手に奪われてしまうが、不幸なことに相手はそれに気付かぬことがほとんどである』
 碑文書の最後がどのように締めくくられていたのかは知らず、貴方の研究の末も耳には入ってきませんが、私を心ならずも侮辱したことを悔いておられるならば、多少なりとも溜飲は下がります。
 怒り?
 そんな非生産的感情に支配されるよりも今は……いい加減、誰かとまともに愛し合えるようになりたいものです。

■Scene:承前

 輝く方形の雲が上空から降りてきた。柔らかなオーロラのような光に枯れたオアシスが包まれる。
 風が吹いた。それが合図になって幻覚の嵐が生じるのだ。
 しかし此度の幻覚は、違った。
「帰ってきたと思ったら、こっちも靄だらけ」
 旅人リュートは大きく腕を広げた。
「出口と思いきや振り出しに戻るとは。どうやら幻覚の中に閉じ込められたってことみたいですねえ」
 《炎湧く泉》は今や、全体が結晶に覆われていた。
「水の香りがする」
 リュシアンがそっと呟いた。
 白い砂地であった地面は、低く立ち込める靄にかすんで見えないが、踏みしめた感覚はしっとりと重かった。
 こちら側に留まったのは、アダマスと語らっていた聖職者カインに建築家リュシアン。そして墓守クオンテ、傭兵ティカ、精霊使いフート、骨董品管理人のレディル。ホールデンの愛犬スィークリールである。
「水と風。そして結晶だ」
 探検家エディアールが手の平の上で小さな結晶を転がして見せた。彼もリュートと同じく、一度は幻覚の中に赴いたものの、声には答えぬことを選んでいた。
 声に答えたものは、さらにどこかへ運ばれる。それを知り、エディアールはあえて幻覚を構成している結晶を持ち帰るための行動に出たのだった。自身もいずこかへ運ばれ帰還できない可能性もあったが、ひとまずは上手く行った。
 もっとも、帰還した先もまた結晶に覆われているということまでは予想していなかったのであるが、仕方がない。
 綺麗な方形をした柔らかな石。仄かに発光を続けている。エディアールがそっと爪で引っかくと、すぐに傷がついてしまった。
「火山性の岩ではないな……何の結晶物だろう? 柔らかい……蛍石か」
「魔力の結晶というところか……だとしたら随分溜め込んだもんだねえ」
 探検家の手の平に乗せられたものを見て、アダマスが目を細める。先ほどまで飲んでいたと思しき「吟醸・極星」の匂いがエディアールの鼻をついた。
「魔力か」
 言外に不得手な分野だと匂わせると。エディアールは再び周囲を見渡した。
 《炎湧く泉》では円陣に立ち並んでいたキノコ岩は、半透明に結晶化した構造物に様相を変えていた。数は12本。
 結晶柱のひとつひとつに、よく見知った仲間たちの姿があった。シュシュ。ダージェ。ホールデン。グロリア。ラージ。ヨシュア。パーピュア。ラムリュア。ミルドレッド。ヴィーヴル……。
 それは恐ろしい光景であった。
 元々《炎湧く泉》には12本のキノコ岩があった。先発隊が到着した時点ではきちんと12本が等間隔に林立していたのだが、カッサンドラが行方不明になった最初の幻覚嵐の後、岩のひとつが崩壊しているのが発見されている。
 二度目の幻覚嵐では、シュシュとフートが一旦は行方不明になった。その後彼らは記憶を失って帰還するのだが、このときはキノコ岩に異変は見られなかった。
 そして三度目の幻覚嵐。多くの者が《魔獣》に会おうという心構えでその時を待っていた。《魔獣》に会うことではなく、結晶の採取を目的としていた者は、エディアールが知る限り、自分ひとりであった。
 となれば結晶柱の中に取り込まれた者たちの姿は、《魔獣》と接触した結果ということになる。
「ピュア、ダル、シュシュ兄……みんな……なんでこんなことにっ!」
 ティカが絶句する。
「ちっくしょー。ちくしょーちくしょーっ! ……ど、どーすればいいんだよ。どーすればみんなを助けられるんだよ……」
「それじゃ、そろそろ行こうか」
 アダマスが言う。
 カインは不安そうにあたりを眺めた。砂漠の景色も、輝く青空も、もう見えなかった。
「行くってどこへです、盾父」
 決まっているだろう、とアダマスは振り返って言った。
「《魔獣》を操る奴を探し出して、柱の中で無茶してる連中を助けるのさ」
 結晶柱へと歩み寄るアダマス。彼に従う一同。

■Scene:父(1)

「クレドがおらんな」
 アダマスがそう言ったのを聞いてフートの胸の奥が痛む。
「クレド?」
 繰り返してみたその名前は空々しく、まるで他人の声のように聞こえるのだが、それでもフートは言いようのない喪失感に駆られた。ティカに半泣きで詰め寄られた夕食の席では、クレドという名もグロリアという名も、さほど心は動かされなかったのに。
「痛……」
 フートはこめかみを押さえ、頭痛に耐えた。
「だ、だいじょうぶかよフートさん」
 気付けばティカが、前髪に隠れたフートの顔を覗き込むように見上げている。いつもグロリアがやっていたように。……グロリア?
 寒い、とフートは思った。借り受けた柔らかで暖かな上着を知らぬ間に脱がされてしまったように、肌寒くて、そして温もりが懐かしい。上着など借りる前はそのようなことを考えもしなかった。
「おれ、悪かったよ」
 ティカがぼそぼそとフートに謝ったのは、かつて精霊使いである彼――クレドの自慢の兄貴分――を、精霊なんてどうせ目に見えないし大したことないじゃないか、という理由でちょっぴり“大したことない人”扱いをしていたことだった。
「はあ」
 とはいえ、そんなやりとりがあったこともフートの記憶からは抜け落ちている。とりあえずの生返事。
「だ、だから悪かったっていってんだろっ! 突然痛、とかいうから心配しちゃうだろっ!」
「まあ……僕は健康だったらしいっす。だからきっと大した頭痛じゃないっすよ」
「な、なんだよ! ちょっとすごいって思ったけど別にあんたがすごいって訳じゃなかったんだからな! すごいのはあんたじゃなくって精霊がすごいんだからなっ」
とティカは息巻いた。
「それは、そうっすね」
 あっさりとフートは認める。間近なティカの視線から顔を背けるように、結晶柱を見上げて言う。
「この結晶。僕やシュシュさんが取り込まれたときもきっとこんな風だったんすね」
「ミストと名乗る子に会ったとき、ですか」
「そうっすよ。カインさん」
 柱の中の仲間たちの顔を順繰りに目で追うフート。視線を落とすと、またティカの容赦ないまなざしに対峙しなければならない、と思った。
「なぜミストは」
 カインは首を捻った。フートと、彼にまとわりつくティカを眺め、そしてまたフートの視線を追った。精霊使いはグロリアの柱をじっと見つめている。
「クレドとカッサンドラ君……それに商人君か。姿が見えんのは」
 アダマスはイーダの糸玉を取り出した。イーダが幻覚に向かうにあたり、《炎湧く泉》に残していった糸玉である。
「イーダの嬢ちゃん」
 クオンテはアダマスの手の上で転がる糸玉を見つめる。
「どっかにいっちまった、のか? クレドと一緒に居てくれりゃあいいんだが……」
「ふむ」
 糸玉を持ち上げると細い糸が、彼女が辿った先を伝えていた。糸の反対側の端はイーダに繋がっているはずである。
「先見の明があるねえ、あの商人君は」
「こういう物語がありましたよね」
 糸をついとなぞってリュートは言った。
「糸を辿って、迷宮を突破する物語。迷宮にいたのは何だったかな? 化け物でしたっけ」
「ありましたね」
 リュシアンはうなずき、それは半人半獣の怪物を閉じ込めた迷宮の話でしょう、と言った。
「おぞましい……まさしく《魔獣》ですね」
 カインはそう言って、イーダの糸玉をじっと見つめた。そして、おぞましいことです、と再び繰り返した。
「まだ希望はある。ここに姿が見えている仲間たちは、救出することができるはずだ」
 エディアールはよく通る声で皆に告げた。このような状況にあっても彼は希望を失ってはいなかった。
「そ、そうだよな。エディさんの言うとおりだよ! 手分けしてみんなを助けようぜっ!」
 俄然ティカはやる気を見せた。最年少の彼女が奮い立ったことで、リュシアンやレディル、クオンテも、仲間のために何かなすべきことをしなくては、という想いが込み上げてくる。
「あっでもエディさん、どうやったらいいんだ?」
 エディアールはしばし無言の後、アダマスを見た。
「魔力云々は専門ではないんだ。この場で一番詳しそうなのは、円盾の防護のことを知っているアダマス師、貴方に間違いはないだろう」
「え、えええーっ」
 ティカはエディアールとその隣のアダマスの顔をまじまじと見比べた。
「あ、アダマスって悪や……じゃない。そのー……よくわかんねーけど、えんじゅんのぼーごって魔法は、アダマスが作ったんじゃ……あれ? 違うか。仲間? アダマスの知ってるヤツ、誰かが作ったってことだろ?」
 顔中に疑問符を浮かべるティカ。よく分からないのだ。今この場にいない者たちの事情は、ティカが理解できる範囲をとっくに超えてしまっている。
 アダマスは怒りもせずただ苦笑して、答えた。
「私が知っているのは、元々の儀式魔法であった円盾の防護のことだけだよ」
 《涙の盾》の信徒に伝わる儀式魔法のひとつ、円盾の防護。
 かつて語った内容を、アダマスはもう一度説明した。
 信徒たちの精神をひとつに合わせることによって強固な防護陣を築く儀式魔法。その中では、移ろい変わり往くことがない。肉体は疲れないし、食事をする必要もない。ただし本来は長時間にわたり維持される類のものではない。なぜなら人間の精神力には限界があるからだ。信徒たち自身の耐久力に依存しているために、儀式を終えた後の反動も大きいのだ。当然、信徒たちが疲労し消耗すればするほど、維持は難しくなっていく。
「ありていに言えば円盾の防護とは、信徒たちの消耗と引き換えに、防護陣内部を守り抜くための手段にすぎない。簡単な足し算引き算だよ」
「なるほど」
 リュシアンが大きくうなずいた。酒の力を借りて語った内容が思い起こされた。酔いはすでに覚めてきている。議論するよりも人の輪に加わり話を聞いているほうが自分の性にあっている。これまではそう思っていたリュシアンだが、つい口を挟んでしまうのは、やはり自分なりに答えを模索し始めているからなのだろう。
「使いどころが難しい儀式でしょうね」
「私ならとても使う気にはなれんが……《炎湧く泉》にかつて来た阿呆は、そう思わなかったようだね」
「貴方はその黒幕に心あたりがあるはずだ」
 エディアールはアダマスの眼前に方形の結晶片を翳して言った。
「その者こそ、ミルドレッドに小箱を贈りこの地に呼び出した者。《炎湧く泉》の謎も、ミルドレッドの失われた過去も知っているに違いない。貴方が疑っているのは誰だ?」
 ごくりと息を飲んだのはレディル。
「かつてアリキアの木を枯らし、ミスティルテインを切り刻んでこの遺跡に封じ、精霊の力を変換して円盾の防護の維持に用いている者。三柱の兄弟神の末弟《涙の盾》を信仰する同胞にして阿呆」
 カインは複雑な表情でアダマスの言葉を傾聴していた。
 聖職にあるまじき盾父の言い方は、カインには到底真似の出来ぬ部類のものであるが、だからといってアダマスが神を信じていないわけではないことを、今のカインは知っている。
 だからこそ。
 アダマスのようには、自分はゆかない。
「そんなことを思いつきそうな奴といったら残念ながらゴマンと思い浮かぶが……実行に移しそうな大馬鹿者となれば絞られる」
 フートはずっと柱を見つめていたが、はっと振り返る。なぜかアダマスが自分を注視していたことに気付いたのだ。
「すまないがノワイユ君。後にしようか」
「何故です」
 すがったのはカインだ。アダマスの聖衣を握りしめ、お預けには我慢ができぬと言いたげな面持ちであった。
「何故、ここまで来てしまったうえで後になさろうとするのですか」
「僕に何か関係が……? もしかして」
 フートが言葉を切った後をエディアールが引き継いだ。
「パルナッソスの孤児院の関係者なのか? いや……パルナッソス教区絡みと言うべきか」
 アダマスは無言で肯定した。
「そうか。それで」
 クオンテはパルナッソスに来た日のことを思い出す。
「パルナッソスの高台からちょいと見ただけでも、生気とか活気とかいうモノがラハに比べて全然感じられねえなって思ったっけ」
 調査隊が出発する前のことだ。あの日もこうして、リュシアンとフートを前にしていた。
「ああ、覚えていますよ。風が強く吹いていましたね。日差しが強くて、眩しかった。絵を描くのにも白が眩しくて眩しくて……」
とリュシアン。絵を描いていたら子どもたちが集まってきた。風が吹いて、絵を飛ばしてしまったのだ。クオンテは自分が祭祀の家の生まれだとも説明していた。だから人の死に、この街は近いと感ずる、と。
 フートは肩をすくめる。
「僕は、皆さんとの会話は覚えていないけど……パルナッソスのことならわかるっすよ。風が強くて日差しも強くて乾いて静かな街だった」
「こことはまるで違うね。当たり前なんだろうけどさ」
 リュートは指を折りながら言った。
「風は弱々しい。《炎湧く泉》じゃ無風だったから、風が吹いているだけマシだけど。それに日差しも、あるんだかないんだか。石が光っているだけで太陽は見えないものね。静かは静かだけど……《魔獣》の巣にしちゃ静か過ぎるかもしれない」
「つくりものだからっすよ」
「こっちのほうが過ごしやすいかもしれない」
 リュートは試すようにフートの横顔を盗み見た。
「でも、ここはつくりものっすよ」
 フートはもう一度言った。
「精霊の力をゆがめて都合のいいようにつくった場所。どうしてそんなことをしたんっすかね。僕には……分からないっすよ」
「それはな、フュラス君」
 アダマスは聖衣に片手を突っ込んで言った。
「そいつが大馬鹿者だったから、としか思えんよ――ルドール」
 エディアールをはじめ、旅人たちはいっせいにアダマスを見つめた。
「《涙の盾》の盾父。かつて、私の前任としてパルナッソスを治めていた男だよ」

■Scene:父(2)

 そう聞かされてもフートには思い出せない。知っていたような気もするけれど、その人にまつわる記憶は取り立てて浮かんではこなかった。
「ったく、あの子らには聞かせらんねー話だな。面識あるどころじゃねえだろ?」
 ぼそりとクオンテが感想を漏らした。いったんはアダマスが口ごもったのは、それが理由かと思い当たる。
 だが口を割ってくれたところを見ると、調査隊と一蓮托生なのだろうか。クオンテにはよく分からない部分もあるが、この事件が明るみに出たら《涙の盾》の信徒たち――《大陸》じゅうに何人いるか数える気にもなれないが――にとって上を下への大騒ぎになるのではないのだろうか。そもそも聖騎士団領パルナッソスでの事件である。その矛先は聖騎士団が守護するところの統一王朝に向くことも考えられる。
 統一王朝瓦解?
 そこまでは話が大きすぎ、クオンテにとっても実感が湧かない。
 そうなる前に手を打つべく、アダマスが差し向けられたということならば、筋は通ると考えられるのだが。
「ヤバい感じだなあ」
 ひっくるめて、そういう感想である。
「私よりも五つ上だったかな。クレドもグロリアも覚えているか怪しいもんだが」
「アダマスさんより年長ですか? そりゃまたずいぶん化け物じみてるでしょうねえ」
 リュートの想像の中で、未だ見ぬ前教区長はよぼよぼの年老いた神官として描かれているものらしかった。
「失礼だな。私も五年後にはよぼよぼになるというのかね」
「そんなおじさん……いたっすかねえ? 僕がいた頃の教区長……になるんっすよねえ……」
「そういうことだな。覚えているかな? フュラス君」
「ルドール? ……ん〜……ああ」
 フートはぽんと手を叩いた。
「なんとなーく、思い出したような気が……」
「怪しいもんだなっ」
 ティカにじとっと目を細められ、フートは苦笑する。
「仕方ないだろティカ。記憶喪失になったのはフートのせいじゃねえんだし」
 レディルが庇う。
「それに、俺、ルドールという名を聞いて思い出しましたよ。アダマスさんが今のパルナッソス教区長だろ。その前にいた教区長の名前がルドールだった。何回か主人の用事で会いましたからね」
と、付け足した。
 アダマスがパルナッソスに赴任してきたのが3年前。
 その前に、孤児たち――クレド、グロリア、そしてフートたち――の父親代わりをつとめていた教区長がルドール。
 《涙の盾》盾父。
「なあレディルさん、どんな奴だったんだよ、そいつはっ」
 そいつが悪者なんだ、そーだよそーだよ、とこぶしに力を込めるティカ。結局は彼らの義父という立場であることに変わりはないが、目の前のアダマスに対する嫌疑を晴らせたことは彼女にとって喜ばしいのだった。
「どんな奴って」
 レディルの記憶にあるルドール教区長は、一顧客でしかない。
「……ふつーの人だったけど」
「だあっ! そーでなくてさあ、悪そうだったとか、悪人ぽかったとか、腹黒そうだったとかさあっ」
「もういい、ティカ」
 エディアールは目を伏せて、ティカの肩へ手を載せる。
「それを言うなら……いや、なんでもねえ」
 レディルはごほごほと咳き込んだフリをした。ティカが望む答え方をするならば、ルドールよりもアダマスのほうがよっぽど悪人ぽい――秘書みたいな女性を連れているし――と、ちらと思ったのだったが、さすがに口にはしなかった。
「お宝に興味がある感じではなかったし、ほんとにふつーの人だった。たまにラハに来て、ラハからパルナッソスの街を見上げていたのが印象的だったな。でも何でそんなことしてたんだろう」
「ルドールの目的は何なのだろう」
 エディアールはアダマスを見つめた。
 つられて、無言のクオンテやリュシアン、カインも、現教区長の顔を見つめた。
「……教区長という立場を利用すれば、この《炎湧く泉》にも出入りすることはたやすいだろう」
 アダマスは考え込みながら言う。
「黒曜石の剣。フュラス君やエーム君が教えてくれたように、剣はこの《炎湧く泉》で鍛えられたもの。とするとルドールがすべてを仕組んだということだな。学者のお嬢さんのことも、計画的にここへ呼んだ。教区長なら都合がいいからね」
「円盾の防護は《涙の盾》の儀式。それに黒曜石の剣……《痛みの剣》になぞらえたものという気がするな。兄弟神というとあと《愁いの砦》……」
 そういうクオンテの視線は知らずカインに注がれる。
 カインは終始黙り込み、円盾の防護によって構築された空間を愛しいもののようにじっと見つめている。そういえば彼は、愛する聖職者、という二つ名で呼ばれているといったっけ。
「あんた、何か思いついたんじゃないのか。カイン? 《愁いの砦》にまつわるもの」
「……いえ」
 クオンテに声を掛けられ、初めてカインは視線を合わせた。
「ミストって子は朝を待っているそうだけど。朝と聞いて俺に思い浮かぶのは、新しい体制とか、新しい国とか……世界の変革。新しく生まれてくる朝、とかそういう印象なんだけど。そういう教義みてえなモンは、兄弟神の教えにはないのか? 朝に関する説話とか」
 カインが無言のままなので、クオンテの顔は再びアダマスに向けられる。
「朝が来たら何か変わるんじゃないの」
 リュートが言った。
「何か変わる? どんなふうに?」
「そこまで知りません。思いついただけです」
 リュートは自分の腰の銀の剣を確かめると、ひとわたり首をめぐらせて、
「じゃ、僕はそろそろ行こうかな」
と言った。
「どこへっすか」
「《魔獣》に会いに」
 笑顔でリュートは答えた。
「そこにルドール元教区長もいるんでしょうからね」
「私も行く」
 苦渋の顔でアダマスは言った。
「……だが馬鹿息子と馬鹿娘がな。手分けして、結晶柱の中の者たちを助けださねばならん」
「じゃあ、先に行ってますよ。そっちは僕、あんまり力になれそうにないし」
「あ……あ、お、おれも行くぞっ」
 結晶柱の中のシュシュやミルドレッドやパーピュアの姿を、後ろ髪を引かれる想いで見比べながらも、ティカは決めた。
 このままじゃ皆を助けるのに間に合わないかもしれない。それなら先陣を切って、相手のもとに乗り込んでいくのが自分の務めだと思ったのだ。
 カインはふたりにうなずき、ゆったりとした聖衣の袖を広げて言った。
「それでは私どもが先にルドール盾父殿のもとへ行って話をつけてまいりましょう。それが何より早道と感じます。……ティカさん、リュートさん、共に私も行きます。あなたもついてきてくださいますか、スィークリール」
 からくり犬に否やはないようである。しばらくホールデンをじっと見つめていたが、キイと鳴いてカインの招きに応じた。
 アダマスはイーダの残した糸玉をエディアールに渡す。
「ルドールを探してくる。話がつけば戻るが、先に皆を救出できたのなら、ここから出る方法を探ることだ、ノワイユ君。学者のお嬢さんのことは縛りあげておくんだな、目を放した隙に無茶せんように」
 糸玉を握りしめ、エディアールはじっとアダマスを見返した。
 読めぬ表情。飄々とした――ミルドレッド曰く狸ジジイ。
「ひとつ知りたい。孤児たちがパルナッソスに連れて来られたとき……彼らの記憶が不自然だったようなことは?」
「その可能性に気付いたかね、ノワイユ君」
 安心したまえ、とアダマスはそっと言った。
「ミルドレッドと同じ目的のためにあの子らの記憶がなくなったり、後から作られたのではないかと、そういうことを危惧しているのだろう? それはないはずだ……少なくとも私が赴任した時にはそのようなことはなかったよ」
「それならいいが……クレドが《痛みの剣》の聖印を贈られたとかいう話を聞いた。ミルドレッドのように何者かがクレドを操ろうとした可能性もあると思った」
 アダマスは眉をひそめた。
 クレドが《痛みの剣》の聖印を持っていた、それも何者かに贈られたものを。このことをアダマスが耳にしたのははじめてのようだった。
「そうか……私の知らぬ間にルドールがそのような儀式めいたことを施していたのなら、許せないな。だがあの馬鹿息子に、学者のお嬢さんの代わりが務まるとも思えないがね」
 アダマスの言葉にわずかにエディアールは安堵する。
「少し、頼んだよ。ノワイユ君」
「ああ」
 立ち去りかけたアダマスに、リュシアンが声を掛けた。
「人間、先の見えない事をしている時と先の見える事をしている時とでは、その働きは違います。よって」
「ん?」
 突然何の話かとアダマスは面食らった。
「先程のお話で私が思う事は『人足の行為としては必ずしも等価ではない』という事です」
 アダマスはにやりと笑みを浮かべると、そのまま無言で先に向かった。
 彼らについていくスィークリールを見送りつつエディアールは考えた。クレドに《痛みの剣》の聖印を与えたのは一体誰かということを。


1.胸の炎 2.彼我 3.神の歯車 マスターより

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