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第5章 2.彼我

■Scene:彼我(1)

「さて」
 レディルが両手を腰にあて、12の結晶柱を見渡した。
「とはいったものの、どうやって助け出せばいいんんだろうか……」
 お宝の管理以外のことにあたっては妙案も思いつかないレディル。もぞもぞとお守りの石を弄びながら言った。
「仲間は皆バラバラの柱の中。全員を一気に引きずり出すことはできそうにねーだろうなあ。ラージの糸があれば別かもしれないけど」
「糸ねえ」
 クオンテはイーダの糸玉を手の平の上でくるくると回している。
「この糸不思議だぞ。どこに繋がってると思うよ?」
「キノコ岩……結晶柱の中じゃないのですか」
 リュシアンが答える。
「それはそうなんだが……でもほら、ちょいと見ろ」
 たわんだ糸をつまんでクオンテはその先を示した。
「あ」
 レディルは声をあげる。
「石の色が違う」
 他の仲間たちは、まるで岩の棺に納められ内側から炎に焼かれているかのように見えていた。結晶の内部から赤々と光が放たれているのだ。
 だが糸の先が続くのは、未だ暗いままの柱だった。暗いままの柱は2本あり、そのうちの1本は崩れていたが、糸は崩れていないほうへ続いている。
「結晶柱は、《炎湧く泉》のキノコ岩の数と同じ12本。キノコ岩のひとつは、カッサンドラがいなくなったと同じ時に崩壊してた……」
 もごもごとフートが呟いた。
「この、くらーい石の中にイーダの嬢ちゃんがいるってことだよな? な?」
「そういうことになるな」
 やや自信ない様子でエディアールがうなずいた。
「どういう理由か、他の仲間とは違った状況なのだろう」
「あの赤い光は何だろう。宝石か?」
 レディルの問いにフートは首を振って答えた。
「契約の杭が傷つき、これまで精霊の働きを澱ませていたのが弱まったんすよ。そしてサラマンダーによって炎の力が持ち込まれたっす。それで……」
 サラマンダー、と発音した際、フートはほんの少し寂しげな表情を湛えた。
「……結晶の柱それぞれに分割されて封印されていたミスティルテインの力が、活性化したってことっすね」
「全部助け出したら、そのミスティルテインて奴も元通りになんのかな」
 レディルはミスティルテインを壊れた骨董品のようなものとして考えているようだ。
「どうっすかねえ。もともと人間とは違う存在ですから、元通りになるかもしれないし、無理かもしれないっすけど……ああ。なんにせよ、いわゆる拠り代が必要になると思うっすよ」
「そのランタンみたいな?」
 レディルが指さす。かつて彼が、お宝に違いないと睨んでいたランタン。友なるサラマンダーが消滅してしまっても、フートはちゃんと持ち歩いている。
「まあ。そーいうことっす。お気に入りの場所。お気に入りの人間。精霊がいつくのに居心地のいい環境、っていうんすかね。そういうものが再構築できなければ、もう《炎湧く泉》にミスティルテインはいられないのかも……」
 でも、そんなふうにはしたくない。
 強くフートは思う。
「幸いここには、ふんだんにウンディーネとシルフの力があるっす。王のために僕は精霊の力を借りてみようと思うっすよ」
「水のことであれば、微力ながらお手伝いさせていただきたいのですが、フートさん」
 控えめにリュシアンが申し出る。
「もっとも本職の方から見れば何の役にも立たないかもしれませんけれども」
 リュシアンにも思うところがいろいろある。先にアダマスに伝えた言葉の如く、調査隊の仲間と過ごし、さまざまな考え方に触れた。あくまでも自分の生業は建築家。建築家としての手腕を発揮できる場面があればもちろん仲間への協力は惜しまないところ。
 しかし今、この状況においては、これまでの人生で培ってきた技術や知識より、なんとも半端な精霊の加護の方がまだ役に立ちそうに思えたのである。
 もどかしい。だが出来ること、力になれそうなことはこれしか思いつかない。
 リュシアンの荷物の中には、イーダから託された手紙もあった。彼女は自分では持っていかなかったのだ。
 戻ってきたら、返してあげなくては。
「あわわ。本職というか、いつの間にかこんな風になってただけっすよ……多分」
 両手を振ってリュシアンの言を留めるフートである。
「それが羨ましいというのです」
 フートもフートなりに悩むことがありそうだと察し、リュシアンは柔らかく微笑んだのだった。

■Scene:彼我(2)

 手には糸の端。ぐるりと胴にめぐらせて結んであった。
 そしてもう片方には、大きな鞄。これも肩と胴にしっかり掛けてある。
 突然の心細さに上を向いた。下ばかり見てたら駄目、昔むかしにそう教わったような気がしたから。
 周囲に誰もいない。何をしてよいかもわからない。
 そんなことは初めてだった。いつもお店はざわざわしていたし、お店を閉めた後も片付けだの明日の品だしだの帳簿の突合せだの掃除だの、やらねばならない仕事は目の前に山積みだった。
 目の前にある山を崩していくのは簡単だったし、得意だった。
 やり遂げた時には一日が終わったという達成感に満たされた。
 ああ。
 あたしはお店をやっていたのかな?
 イーディスだった女性は、そんなことを思った。
 次いで、うまく切り盛りできてたならいいけど、と思った。確りしなよ。震えてたんじゃあお客さんに笑われちまう。
 そう自分を叱咤してみた。どうもぴんとこない……分かっているのに、心の奥がまだ納得していない。イーディスだった女性はどんな人間だったのだろう?
 こんなとき……誰もいない、何をしなさいと教えてくれる人がいないとき、どうすればいい?
 ここに来る前、自分のことをしたためた手紙を残してきたはずだった。だが鞄の中にそれはない。
 それ以外には何でもかんでも入っている鞄なのに。
 がさがさと鞄の中をかきまぜる。顔を突っ込む。
 傷薬、痛み止め、食べすぎに効くという丸薬の類。火照りを鎮める軟膏。小分けにしたお茶の包みに日持ちするおやつ。各種香辛料。刀剣の手入れに使う柔らかな皮布類。紙束。ペン先の代わり。インク壷。針と糸玉。玻璃瓶。予備のフォーク。そしてなぜか精霊用ミルク。
「ああもう」
 笑うしかない。これは自分のためではなく、誰かのために取り揃えられた品々だ。肝心の時には役に立ちやしない……いや、自分以外の人にはきっと役に立つのは間違いないのだけれど。今は……。
「あ……そっか。そうだったよね」
 言葉に出す。音となって自分の耳に届く。
 手紙に何を書いたのか今は思い出せないけれど、それは「向こうの仲間」に預けてきたんだった。
 だから……向こうに戻ることができれば、あたしは安心できる。皆がいるところ。向こう側。あたしはあたしを取り戻せるんだ。うん。
 糸を引っ張ってみる。
 呆れるほど頼りないそのたった一本の糸だけが、自分以外の誰か、ここ以外のどこかとつながっているしるしなのだ。
 遠く……糸の先、どこか遠く、弱々しくも手ごたえを感じた。
 糸は切れてはいない。誰かにつながっている。
 糸の先に皆がいる。
 まるで子ども、と彼女は思った。あたし、子どもだったっけ?
「いいか、子どもでも大人でも」
 それを決めるのは仲間でかまわない。
 あたしは、あたし。
「皆に会えたら最初に……そうだな。名前を教えてもらわなくちゃ」
 イーディスだった女性は笑って見せた。誰が見ているでもないけれど、誰かに再会できたときのために。
 そして、そうっと慎重な手つきで糸を手繰り寄せた。一歩一歩近づいている。手に巻きつけた糸の玉が少しずつ大きくなる。その分だけ、あたしがあたしだったところへ近づいている。
 ふっ……と。
 周囲が明るくなった。
 それで初めて、今までどれほど暗い場所に自分がいたのか、彼女は悟った。
 赤い光。眩しく輝く、大きな卵ほどの塊が、周囲を照らしている。
 結晶柱の中だった。
「あ……」
(怒れ!)
 赤い光は激しくイーダに告げた。
(怒れ! 怒れ!)
 驚いて辺りを見渡した。視界が開けていた。自分を囲む結晶は半透明であるがゆえに、ぐっと世界を近しく感じることができた。
 結晶の向こう側に、イーダが帰ろうとした場所が見えていた。仲間たちの姿。
「おーい!」
 外の仲間たちの目にも、それまで暗いままであった結晶柱の11本目に、遅れて赤々とイーダの姿が浮かび上がった様子が見えた。

■Scene:彼我(3)

 どうしたんだろう? どうしちゃったんだろう? 何が起きたんだろう?
 ボクは……?
 ダージェだった少年は、きらきら光る結晶の中で燃える塊に出会い、不思議に思った。
 ボクはダージェ。呼び名はダル。旅人で剣士。武者修行中。
 自分に宛てた手紙には――どうしてボクは自分に手紙なんか書いたんだろ?――そう書いてあったから、だからボクはダルなんだ。それでいいや。
 手紙は短く数行だけ。自分の名前。どこから来たのか。家族のこと。
 ダージェ・ツァンナ。ツァンナ家はカルキヤの街の剣術道場。ボクはその末っ子。両親と姉ふたりはボクより強くて、紳士であれって教え込まれた。女性には紳士であること。
 ふいに……少女の顔が浮かんだ。短い金髪。膨れた頬っぺた。ティカだ、と思った。思い出した。
 優しくしたら怒り出しちゃった。変なの。これまでおネーさんたちは皆、優しく紳士にしていたら喜んでくれたのに……変なの。
 ティカのことは思い出したけれど、ボクは一体何をしようとしてたんだっけ。
 燃える塊は激しく、赤く、ダージェに告げる。
(怒れ!)
 赤いなあ、とダージェは思った。赤くて、激しくて、キラキラしてるなあ。
 大きな卵ほどの大きさの赤く燃える塊、これは何?
(怒れ! この身を切り裂き、この地に埋めた不遜な人間め!)
 ダージェはアメジスト色の瞳を丸く見開いた。
「このミを切り裂き……このチに埋めた……ソレって、ボクのコトなの?」
 怒りをまざまざと正面からぶつけられたことにダージェは驚いた。でも、驚きこそすれ、怖くはなかった。
「何でそんなに怒ってんのカナ?」
(おまえは人間か?)
「ウン」
 反射的にダージェはうなずいた。
 そしてこの赤く燃える塊は、正体は分からないけれど話が通じるのだ、と思って途端に安堵した。
「ねー。人間に怒ってるの?」
 そう尋ねた瞬間、赤い塊はいっそう赤々と燃え盛った。
「わあ、ごめん。なんかまずいこと聞いちゃった? ごめんね。でもどうしてカナーって思ったから」
 でもキミをこのチに埋めたのはボクじゃないよー、とダージェは付け足した。
 赤い塊はまたも赤々と激しく輝いた。
(罰を)
「……ここから出たいんだけどナー」
(我を利用しようとした輩に)
「ねーってば」
(罰を与えよ!)
「どうやったら出られるか、知ってる?」
(おまえ、話を聞かない奴だな!)
「何だよ! ソッチこそ今度はボクにケチつける気?」
(おまえは人間なんだろう? 人間という奴は皆勝手な振る舞いをする。どうしようもない。おまえも同類だ!)
「この壁、壊していいのカナ……ねえ、いい? とりあえず外に出たいし」
 ダージェは結晶越しに外の世界を眺めた。
 半透明の障壁の向こうで、誰か見知った顔が何人も、話し合っている様子が見えた。
 ああそして……ボクの大事なヒトは、どこだろう?
 ティカの顔を見て、記憶が手繰り寄せられ始める。銀と赤の瞳を持つ学者。名前は……思い出せない、ウウンそんなはずない。ホラ……思い出せる、ミルサン。彼女は、どこ?
「あ!」
 別の結晶柱の中に、ミルドレッドらしき姿を認める。
 離れてしまった。守ると約束したのに。怒りよりも強い自責の念がダージェの胸をしめつけた。側にいてあげなくちゃいけなかった。大丈夫だって言ったのはボクだ。彼女はひとりぼっちだ。彼女は無事だろうか? 
「こんなトコでぐだぐだしてらんないよ。あそこにミルサンがいるんだ。行かなきゃ……!」
 そう言ってダージェは体当たりを試みる。
「いたあい! あたたっ。アタマが何だか痛いや……!」
 体当たりのたび、ずきん、と頭の奥が痛んだ。
「何コレ? 出ようとすると……アタマ痛くなるの? ちょっとー、困るヨ!」
 結晶柱の側面に両手をついて、ねえ、とダージェは赤い塊を振り返った。
「怒ってるだけじゃなくって手伝ってよ。あんただって外に出たいんデショ? 怒ってたって何も変わらないンだからねっ!」
 転化めいた台詞だった。しかしダージェの言葉は、怒りに囚われている赤く輝く塊――ミスティルテイン12分の1に届いた。
(我の力は弱められてしまっている。だがお前を借りれば、外には出られるかもしれない)
「なあんだ、それならそうと最初っからいいなヨー。一人じゃ無理でも、一緒になら出られるってコトなんでしょ? うんうん。問題ナシッ!」
(ま、まあ……そうだな)
 心なしか、ミスティルテインの腰が引けていた――腰があればの話だが。
 「ミルサンも一人じゃきっと出られない。早く側に行って、彼女を助けてあげなくちゃっ」
 ダージェは言い切る。
 心の中では不思議でもある。自分のことはきれいさっぱりなくなってしまって、拠り所となるのはささやかすぎる手紙だけ。それなのに……あの赤と銀の瞳、ミルのことを考えただけで力が湧いてくる、次に何をなすべきかが分かるのは、なんと不思議なことなのだろう。
「アタマが痛いってことは、何かボクのどっかと繋がってるのカナ……」
 もう一度ダージェは結晶柱をとんとんと叩いた。
「何でだろー。良くわかんないけど。ガマンしたらいいのカナ」
 結晶柱におでこを押し当てる。ミスティルテインは怒りをけしかけていた時とは打って変わって、随分と大人しく、ダージェが脱出を試みる様子を見守っている。

■Scene:彼我(4)

(怒れ!)
 半透明の結晶の中から見える外の光景は、淡い透過光に曇り、靄にかすんで、びっくりするくらい離れて見えた。時折、どこかの結晶がちかりちかりと光っている。
 紫の光。こんどはもっと奥の方で、また光った。
 たくさんの結晶柱が並んでいたことをヨシュアだった青年は思い出す。今光って見えたのも、結晶のどれかだろうか。
 そんな思考に割り込む存在が、ヨシュアに怒れと命じている。
(怒れ!)
 激しい怒りが、ヨシュアを包み込んでいる。
 何だろうこれは?
 何もかも唐突で訳が分からなかった。
 自分が何処にいるのかということよりも、自分に「怒れ」と命じる何者かの存在に――他者の存在に、ヨシュアは驚いた。何だろうこれは? 訳が分からない……頭が痛い。そして赤い……赤く燃えている。白いチュニックが赤々と炎の色を映して、まるで自分が燃えているかのようだ。
(怒れ!)
 怒りとはこういうものだったんだっけ。思い出せそうで思い出せない。
 いつの間にかヨシュアの手は、首飾りを握りしめていた。衣服の上からの感触。慣れ親しんだ動作。この首飾りが、小さな卵形の石を守りの草で編みこんだお守りであることを彼は思い出した。この首飾りをヨシュアにくれた人のことも。
「訳が分からないって? ……よのなかのことすべてが自分の手に負えると思ってはいけないよ。そんな大それたことを思ってはいけない」
 ヨシュアの口をついて出た言葉は、かつて魔女から教わった言葉だった。
「ほうら――転んでも、つまずいても、歩き続ける勇気を、この子に分けてあげて下さい。空よ、大地よ、風よ、水よ、緑よ。どうか、私の愛しいこの子に、優しくしてあげて下さい……」
 するすると言葉が流れ出た。首飾りを作ったときのおまじないの言葉。
 長い銀色の髪。母親にして師。白い峰。吹雪に守られた故郷。手紙を運ぶ鳥の魔法。アケミドリの実のパイ。
(怒れ! 思い知らせるのだ! 我を利用しようとした輩に罰を与えよ!)
 白い峰に遅い春が訪れた明け方、雪解け水の澄んだ流れの中から丸々とすべらかに削られた石を選んで持ち帰り、暖炉の前で石を乾かしている間に、魔よけの守り草の蔓を丁寧に解して、寄り合わせて編み紐をつくり、古い祈りの語句を石にゆっくりと記したら、編み紐を首の長さに調節して石を通して出来上がり。
 注意することは、石を拾った手はすぐに水気を拭くこと。凍傷になってしまうから。
 それから守り草の棘は横着せずにきちんと抜いておくこと。棘の傷は治癒に時間がかかってしまうから。
 祈りの語句は、旅立つ子それぞれにふさわしい言葉を選んで、ひと文字ひと文字に願いを込めること。これはただひとりのためのお守りだから。
 ヨシュアのために贈られた言葉は未来。
「そっか」
 ごく短くヨシュアは納得した。首飾りを握っていた手の力がふっと緩む。
「ねえ」
 怒れと命じる者に話しかけようとして、口ごもった。
「えーっと」
 名前が分からないと話しかけにくいものなのだ。きっとあの時、まだヨシュア・クランになる前の自分を助け出してくれた姉ちゃんたちも、そうだったかもしれない。
 ヨシュアの最初の記憶。世界と自分を隔てる透き通った壁。半透明であることを除けば、今いる場所も、あそこに似ていた。姉ちゃんに助け出される前にひとりぼっちでいたところ。わずかに黄色がかった液体と、真っ白い床と、真っ白い服のおじさんたち。おじさんたちは時々こっちを指さして何かしゃべっていたみたいだけど、ヨシュアを助け出してくれはしなかった。
「どうして怒ってるの……いや違う。どうして、人に怒れって言うの?」
(人間が我が身を切り裂き、この地に埋めたからだ)
 赤い塊が激しく光を震わせて答える。
 ずきん。ヨシュアの胸が痛んだ。
「カラダを切り裂いた……そっか。そりゃ……痛いし苦しいよね」
(そうだろう! どのような理由があるというのだ? また、どのような理由であれ、何人に、他の者のありかたを変えることが許されるというのだ!)
 思い出した記憶が、いっそうヨシュアの胸を刺した。
 ヨシュアを外に連れ出した姉弟子は代償として片足の自由を失った。
 代償? 代償って何だろう。魔女の教えに従ったことに対しての? 実験体の子どもを助けたことに対しての? 目の前の事実に耐えられなかったことに対しての? それとも、それとも……。
 ――俺がいなけりゃ、姉ちゃんは思い通りに動く足をなくさずに済んだ。
 俺に姉ちゃんのなくした足以上の価値はあるの?
「あのさ。あの……ねえ。痛いのも苦しいのも俺わかるよ。でも……それ、だからって俺に怒れって命令すんの……違うんじゃないかな」
(違う? 痛みも苦しみも共感しておきながら違うというのか、お前は!)
 思い出す。
 姉弟子は最後まで自分を庇い続けてくれたのだ。白いおじさんたちは痛い道具をいっぱい持っていて、それを自分たちに向けて打ちまくってきた。中の一発が、姉弟子の足にあたったようで、他の弟子が手伝いに駆けつけた時にはすでに、片方の足に不気味な斑点がいっぱい浮かび上がっていた。白い床に投げ出された足の、あのどす黒く変わり果てた肌の色。
 痛くはないのだ、と彼女は笑った。
 ただ動かないだけだよ。こんなの別に平気。だって痛くないし。
「姉ちゃんもきっと痛かったと思うんだ。苦しかったはずだし。でも俺に怒ったりしなかった」
 大丈夫。平気。それとよく似た言葉を誰かも言っていた。あれは誰だったっけ?
 紫色の……アメジスト。
 パーピュア。
 真っ先にその名を思い浮かべる。
 大丈夫、平気、そう言って笑ってみせる女の子。
 彼女を守らねばならない、とヨシュアは思った。不安だったんだ、俺は。大丈夫っていつも言っているから安心して目を離して、その間にふいっといなくなってしまうような気がして。
(お前は……)
 燃える塊はいつの間にかヨシュアの目の前で、赤々と顔を照らしていた。
(お前の理屈が我にもあてはまると言いたいのか。お前の血族の振る舞いどおりにせよと)
「違う違う! 押し付けるつもりはないってば」
 ぎゅっと目をつぶるヨシュア。
 まぶたの裏側にも燃える塊の色が映り込んでいる。逃れられない、と思った。でも、こいつの言うとおりに怒り狂ってしまうわけにはいかない。
 目を開ける。半透明の結晶に幾重にも隔てられた向こうにも、閉じ込められている誰かの姿が見えた。赤い光を抱いて、恐らくは自分と同じ状況で。
 魔女の弟子ではないけれど、少しの間ともに旅しただけにすぎないけれど、でも仲間がそこにいる。
「助けなきゃ」
(何だって)
「知らないよ。だってそう思ったんだ。助けなきゃって」
(怒れ! 罰を与えよ!)
「そんなことより仲間を助けるほうが大事なんだ! 閉じ込められてムカつくのは分かるよ、でもあんた怒れって言うばっかで、じゃあ何なの。それ以外することないの? あんただって他にできることあるだろうにさ、例えば出ようとしてみるとかさあ!」
 違う……こんなことを言いたいんじゃないのに。
(我の力は弱められてしまっている。だがお前を借りれば、外には出られるかもしれない)
「え、何だ、嘘。マジで?」
 晴れ晴れとした顔にヨシュアが変わる。
「そんなら一緒に出ようよ。正直言って俺、あんただけをこの中に置いていくのも気が引けるって思ってた」
(なんだ、ひとりで出て行く気だったのか)
 燃える塊のささやきは、気のせいか呆れたように聞こえる。
「そんなわけないでしょ」
 眉根を寄せながら正体不明の塊を宥めるヨシュア。
「出ようと思ったら出られるとは思ってたけど。それだとあんたを残してくことになるし、それだと俺イヤだからさ」
(お前の言いたいことはサッパリ分からないが。ともかく悪い奴ではないということはわかった)
 気のせいではなく、燃える塊――ミスティルテイン12分の1は、呆れていたのだが、ともかくヨシュアが脱出するうえで一緒についてくる気には、なったようである。

■Scene:彼我(5)

「おおいミスト、ミスト! おーい、俺の声、聞こえる? ねえ、これって何?」
 再びの結晶柱の中で、シュシュは大声をあげてミストを呼んだ。
「ミスト。こうすると朝が来るの? ねえってば!」
 シュシュの場合、一度は記憶を失ったものの、仲間たちの力を借りて思い出した分についてははっきりと覚えていることができた。つまりミストのことも、ミストが朝を待っているのだといったことも、そしてもちろんドールのことも。
(怒れ!)
 赤く燃える塊がシュシュにささやく。
 ささやくというよりも命じている。
「俺がここで何かすればいいの? おーいってば!………困ったなあ、もっとちゃんと聞いておけばよかった。ええと、さっきからそこで怒ってる人………人じゃないか、ミスティルテイン、《炎湧く主》?かな?」
(我が名はミスティルテイン、そうだ。お前は我が名を知るのか)
 塊――ミスティルテイン12分の1は、シュシュがその名を口にしたことで態度をほんの少し和らげたようであった。
(ならば我が身を切り刻んだ輩に復讐を!)
 台詞は、まったく変わっていないのであるが。
「えと……ずっと怒ってるの? 疲れない?」
 シュシュはそう言って、爆ぜるように輝きを増す塊の様子を伺った。
 ミスティルテインは偉大な火山の王という話である。アリキアの木の様子から仲間たちがはじき出した数字は、彼が不幸な儀式によって封印されてしまったのは少なくとも十年以上前、ひょっとすると二十年……ということであるから、シュシュがまだおむつの取れぬころから――あるいは生まれる前から――こうしてミスティルテインはひとりぼっちで怒りに身を焦がしていたことになる。
 いくらなんでも、疲れるだろう、とシュシュは思う。
 それともこの幻覚の中では、時が流れる早さも違うように感じられるのだろうか。だとしたらいいが。ミスティルテインがひとりぼっちであった時間も、短く感じられるのならば。
「ねえミスティルテイン。怒るのちょっとだけ休んで、俺と話をしないか?」
(何だと?)
 意外にも、ミスティルテインのほうはすぐに話を聞く気になったようだ。
「あんたがもう怒らなくてもいいように俺が手助けできることがあるなら、手伝うよ」
 シュシュにできることはひとつ。
 大人たちのこんがらがってしまった思惑は置いといて、目の前で困ってたり辛い想いをしている人を助けること、それに尽きるのだった。
 そしてミスティルテインは困り、辛い想いをし、怒っているのだった。
(復讐に力を貸してくれるのだな! よくぞ言ってくれた!)
 復讐。
 そうだよなあ、と思う。人間には人間の事情があったのかもしれないけれど、だからといっていきなり封印は乱暴すぎる。そういう意味ではミスティルテインは、ひどく人間らしい理由で怒っているのであった。
「一応、念のために聞いておくけど、人間社会に何かしたってわけじゃないよね? ぷちっと国を潰したりしたとか……」
(そのような瑣末事は知らぬが、もうずっと永いこと、《大陸》の空には出ておらぬ)
「空、飛べるんだ」
(ふん。人間には珍しいことであったか)
「……あんたは悪くなかったんだ。うん、そうだろうなーとは思ったけど」
 人間とは異なる相手の論理である。価値観も異なることは承知だ。それでミスティルテインの側に自覚もないのであるから、よしんばミスティルテインが気付かぬうちに人間にとっての災いになっていたとしても、譲歩は望むべくもない。
「復讐の程度によるけどいいよ。それであんたの気が済んで、もう怒んなくてもいいんなら、そっちのほうがいいだろうし」
 シュシュはそう言って覚悟を決めた。
(だが、我の力は弱められてしまっている。お前を借りれば、外には出られるかもしれない)
「そうだね」
 自分の身体の中にミスティルテインを同居させて、復讐する相手に一発拳骨をくらわせるくらいなら、たいした労力でもない。
(馬鹿者! それしきで済ませてたまるか!)
 ところがその考えはミスティルテインのお気に召さなかったのだった。
(人間どもは同罪だ、もっとも栄えし都市をふたつみっつ燃やし尽くしてやらねば気が治まらん!)
「えーっ。そりゃダメだ。協力するわけにはいかないよ」
 シュシュの脳裏に、真っ赤な炎に嘗め尽くされる聖地アストラ、新都アンデュイル、帝都ニクセントの光景が浮かんだ。慌てて首を横に振り、シュシュはその不吉な想像を打ち消した。
「それじゃ無差別攻撃になっちまうよ、ミスティルテイン!」
(無差別攻撃の何がいけない?)
「被害を大きくするだけじゃダメだってば。無関係な人を巻き込んじゃったら、今度はその人たちの怒りと憎しみがあんたに向けられちまう。終わらなくなってしまうよ」
(……む)
 赤々と猛っていた輝きが、ふっと弱くなった。
 シュシュの言葉をミスティルテインは考えているらしい。
(だがこのままではこちらが治まらぬぞ!)
「分かってる」
 腕を組んでシュシュは考える。要するに、ミスティルテインの怒りの矛先を正当な相手――この場合、彼を封印した儀式の主ということになるのだろうか――にのみ向けさせなくてはならない。その他の者たちは、調査隊の仲間も含め危害を与えられてはならない。
 どうしたらいいんだろう?
「あのさ、ミスティルテイン。俺の身体に入っても、俺は俺のことを忘れないでいられるかな」
 自我を失いたくないとシュシュは思った。
「さっき言ったろ。俺を借りれば外に出られるかもって」
(我が身が鍛えた剣によって、身体はすでに切り刻まれ、我が力の器としてはもはや役に立たぬのだ)
 ミスティルテインは忌々しげに愚痴った。
(弱まった力では封印を破ることはできぬ。またできたとしても、器なくしては力を振るうことはできない)
「……あの子も火を操っていた」
(何の子だと?)
「子どもだよ。ミスト。人間ばなれした感じの子。朝を待ってるって言ってた」
(どうでもよい。ともかく人間よ)
「チトラ=シュシュナって名前なんだ。このあいだ思い出したんだけどね」
(よいかチトラ)
「チトラ=シュシュナ、で名前なの!」
(……お前の身体を借りたい。おそらくお前の意志のほうが強いであろう。お前はお前を失わないだろう)
 シュシュはほっとした顔で、それならいいよ、と言った。
「けど、無差別はダメだから。殴っていいのは復讐する相手だけ!」
(約束しよう)
 そうしてミスティルテイン12分の1は、最初に怒れ怒れとがなりたてていたことに比べれば随分とおとなしく、シュシュと脱出にあたって合意に達したのだった。

■Scene:彼我(6)

(怒れ! 怒れ!)
 ……僕は怒らない。ラージだった男はそう自分に言い聞かせた。
 怒るってどういうことだっただろう? ラージだった男にはぴんと来ない。生来、怒りという感情を抱きにくい男だったようだ。
(怒れ!)
 平常心。落ち着きを取り戻すこと。そうしなければ、きっと僕は声に負けてしまう。そしたらもう二度と……もう二度と、何だろう?
 二度と元の生活に戻れない。
 誰からも思い出されることのないまま。
 今もほら、半透明の結晶の壁の向こうでは、仲間の誰かが誰かを助け出そうとしている。
「そうだ、手紙。なんて書いたっけ」
 名前はラージ・タバリー。うん、思い出した。今はパルナッソス学術調査隊の一員。
 泥棒をやっていたから、うっかり捕まらないように気をつけろ……ははっ、僕って変な奴。言わなきゃ分かんないのにな。
 ここに来た目的。それはカッサンドラさんを見つけて連れ戻すこと。
 使える魔法、紐状のものを自由に操ることができる。
 ここまでが、箇条書きでごく手短に記されていた内容だった。
 たった4行。細かい字。淡々と感情を挟まぬ文章。だがそれを読み取った自分――ラージだった男は、行間までも汲み取って思い出すことができた。
 例えば魔法のくだりでは、ああ、それで今も丈夫な糸が指に絡んでいるんだな。そうだ。ちょっとしたこそ泥を働いたり逃げたりするのに便利だったんだ。丈夫な糸って奴は有難いよ、繋ぎとめておきたいものをしっかり放さずにいられるし、いらなくなったら釘穴や削り跡も残さずするりと外せばいいだけだし。何かと何かを繋いでいたことなど跡形もなく消し去ってしまえるんだ。そして糸玉に巻き取っておけばまた次の獲物に結びつけることができるもの……という具合。
 悪い奴じゃないみたいだ、と思った。泥棒なんかやっていたわりには、そうひねた性格でもなさそうだし。
「怒らないよ。前の僕も、たぶんそうしたと思う」
 自分に怒りをぶつけ命じる存在にラージは答えた。
 手紙はまだ終わっていない。下にはまだまだ項目が並んでいた。
(なぜだ?)
「僕は、あなたとは違うと思うから……あ」
 手紙の続きにざっと目を通しただけで、ひどくラージは心を動かされた。
 調査隊で一緒に行動していた者ひとりひとりに対し、おそらくラージだった男が知り得る全てのことを、丁寧に、そしてひたすら熱心に書き綴ってあった。自分からみた印象。弾んだ会話。これからどうやって接して行きたいか。言葉は多くないものの、自分に宛てたたった4行よりもはるかに細かく書かれていたのだった。
 手紙を持つ手が震えた。
「僕は、こっちを忘れたくなかったんだね」
 探検家、エディアール・ノワイユ。初めは自分を拿捕しに来たかと思えるくらいに怖かったが、隊全体への指令や配慮などの姿勢からただ真面目なだけで、付き合い方を学べば怖くない、こちらも真摯に向き合えばいい。追記。さっき僕のことを褒めてくれた。
 聖職者、カイン。自分が泥棒だとうっかり打ち明けてしまったこともあるが――まったく僕は何を考えていたんだか――彼に言わせれば正直な人だと褒めてくれた。
「神さまは……神さまだったらやっぱり、苦しいときに貴重な遺物を盗むことを咎めるだろうか?」
 駱駝と積荷と水瓶の間でふと浮かんだ素朴なラージの思いつきに対し、後に彼はこう答えてくれた。
「貴方にとっての神とは、どなたのことを指しますか? 《痛みの剣》? それとも《涙の盾》か《愁いの砦》?」
「神さまは神さまだよ……兄弟神でいうなら、全部。違うのかい」
 日陰に腰を下ろして休んでいるカインを見下ろす。
「長兄《痛みの剣》。末弟《涙の盾》。そして姉であり妹である《愁いの砦》……お会いしたことは?」
 カインの横顔は、神学を説くに相応しく宗教画の登場人物のように整って見えた。
「神さまに会ったこと? あるもんか」
 そんな奇跡があったら、せせこましい泥棒家業で食い詰めていたりはしない。説教の導入としてお決まりの質問かもしれないけれど、漠然とそう思ったものだ。
「私もお会いしたことはありません。ですから、この三柱の神々が、実際にはどのようなお方で、どのようなお言葉をおかけになるのか。正確にお伝えすることはできないのですが」
「そうだろうね」
 この千年、神々の姿を《大陸》で見た者はいないといわれる。聖地アストラ大神殿の神官でさえ。いわんや盾父アダマスも。
「ただ一つ私が考えるのはこういうことですよ。ラージさん」
 カインは三本の指を立て、もう片方の手で一本ずつまた倒してみせる。
 ゆったりとしたカインの聖衣の袖口から、肌に密着した黒い衣服が覗く。
「兄弟神のうちおふたりが私を咎めたとしても。もうおひとりはきっと救ってくださる。それが兄弟神が三柱で私たちをお守りくださる理由であると、考えているのです」
 そう言ってカインは日陰から立ち上がった。
 面と向かえば、ふたりは同じような背格好だ。上背はややカインのほうが高いが、わずかばかりの荷物で旅を続けるための引き締まった身体つきも似ている。もっとも纏う色彩はまるで異なっていた。
 ラージの濃い茶色の癖っ毛は、茶の瞳とともに灰色の外套にすっぽりと隠れていることが多い。一方カインはといえば白い聖衣に金髪と、いやでも目立つ外見で、いかにも地味なラージとは対照的であった。
「罪を咎める神さまがいたとしても、かばってくれる神さまもいるってこと?」
「罪を宣告し罰を与えることのみが神のなさる業とは、私は思っておりません。むしろ逆ではありませんか?」
「許すこと?」
 ラージの答えに、大きくカインはうなずいた。
「神はかならず人を許し、愛します。もし貴方を咎めるというのならばそれは人――神ではありません」
「そうだね。たとえ神の遺跡だったとして、それを管理しているのはもう神ではない。人の手に委ねられたもの……だから、遺物を盗んで咎めるのは、やっぱり神じゃなくて人なんだね」
「神の手を離れたものは《大陸》にはたくさんあります。確かにエディアールさんのおっしゃるとおり、それらは次代の財産として受け継がれてゆくべき物……しかし、それ以上に大切に扱わねばならないものが《大陸》にあります」
 それは未来だとカインは言った――。
 誰からも思い出されることのないまま、ここで終わりを迎える恐怖を、ラージはひしひしと味わった。
 今もほら、半透明の結晶の壁の向こうでは、仲間の誰かが誰かを助け出そうとしている。
 僕ではない、誰かを。
(人間どもは我を利用しようとした! どのような理由であれ、否、どのような理由であっても、人間の都合で振り回されることなど耐えられぬ!)
「ミスト、貴方は」
 結晶の中で赤々と燃える塊に、ラージは覚悟を決めて話しかけた。
(ミスティルテイン)
 塊は訂正した。
「失礼……ミスティルテイン、外に出て話をしようよ」
(外へ、出られるのか)
 ミスティルテインは激しく赤い輝きを増した。喜びか驚きかラージには判別はつかなかった。それで、返事も遠慮がちになった。
「やってみないとわからないけどね」
 思い出す。僕は以前から、控えめに振舞ってきた。地味だとか目立たないとかよく言われた。
 ……でも、それでもいいじゃないか。誰からも思い出されることはなくても、僕がここから出て、隣で……そのまた隣で柱の中に閉じ込められた仲間を、助けることさえできれば。それで。
 誰かの記憶に残ることはなくても、僕が皆のことを覚えている。
(我の力は弱められてしまっている。だがお前を借りれば、外には出られるかもしれない)
「わかった。試してみよう」
 片手を伸ばす。結晶の壁に触れる。顔を近づける。指を引っ掛けることができそうな場所を、目を細めて探す。指先には仕事道具、巻いた針金を構える。
「ここは……どういう仕掛けなんだろう。構造物ならどこかに力が加わる点があるはずだけどな」
(人間の考えることは我には分からない。このような馬鹿馬鹿しい柱など、なんのつもりで作ったものやら)
 ミスティルテインは、ラージに怒りをぶつけてくるのを止めた代わりに人間に対する愚痴を垂れはじめた。
 怒りをぶつけられるよりずっといい、とラージは思った。
「もう少し待っててよ、ミスティルテイン」
 持ち物を探るラージの手に、アダマスから渡されたお守りの匂い袋が触れた。
「誰が悪い、何が正しい、封印すべきか解放すべきかなんてことを決めるにはまだ情報が足りない。僕には判断できない……ともかく、外に出てからだよ。全部……何もかも」
 赤い塊――ミスティルテイン12分の1はきらきらと輝きで答え、最初に比べれば随分とおとなしく、ラージが脱出方法を探すのを見守っていた。

■Scene:彼我(7)

(怒れ! この身を切り裂き、この地に埋めた不遜な人間め!)
 パーピュアだった少女は、結晶柱の中で目を閉じ祈った。
「貴方はなぜ怒っているのですか。ミストさんが朝を待つのは、いけないことなのですか?」
 熱く赤い塊は、しかしパーピュアの問いに答えず、一方的に怒りをぶつけてくる。
(怒れ! 思い知らせるのだ! 我を利用しようとした輩に罰を与えよ!)
「貴方は……」
 パーピュアの胸に宿っていたアメジストは、結晶の中で炎に染まった。
 あ、と思った瞬間。生まれた時からパーピュアを支配してきた紫色の宝石は、すうと色を失った。そしていくつもの欠片となってどこかへ消えていった。
「あ……」
 結晶の壁ごしに、仲間たちが閉じ込められている柱や、その向こうの結晶が見える。
 あちこちで紫色の光がぽつん、ぽつんと輝き、また消えていった。それを見たパーピュアは無性に喪失感に襲われた。どうしてかは分からない。ただ切ない気持ち。
「浄化の石が」
 アメジストは浄化の力をパーピュアに与えていた。どんなに酷い扱いを受けても、惨く傷つけられても、邪なものの影響を受けても、月の光と時間さえ与えられれば、石はそれらを癒すことができた。
 その石が欠片に千切れて、パーピュアの身体から切り離されてしまった時、初めてパーピュアは、ミスティルテインの怒りを真に浴び、かの感情を理解することができた。
(怒れ! 怒れ!)
「そんなに怒っていてはあなたが何を考えているかわからないでしょ!」
 自分でもびっくりした。
 大きな声で叫んだのは、いつ以来だろう? いつも何かが、パーピュアの感情を抑えていた。
 さらに驚いたことには、パーピュアの両目からは滂沱の涙が留まることなく溢れ続けるのだった。自分の身体のどこにこれほど涙が押し込められていたのか、不思議なほどに。
「少し落ち着いてください、ミスティーさん!」
(な……)
 赤い塊――ミスティルテインは、パーピュアの妙な迫力に気圧され、黙り込んだ。
(何だお前は……怒っているのはお前のほうではないか)
「いいえ、私は怒ってなどいません」
(お前も、身を切り刻まれたことがあるのだな? 痛くて辛いだろう!)
「あの紫の石のことでしょうか?」
 失ったばかりの宝石をこれまで共に暮らした年月と比して自分の一部と考えるならば、確かにパーピュアは、その身を文字通りばらばらにされたのだといえる。
 宝石は結晶の中を勝手な方向へ散らばり、あちらで紫の光を放ったかと思えば、すぐ傍らでも欠片が光り、結晶で覆われた森と同化してしまったのだった。
「石を失ったことでしたら、なんだか胸の辺りがもやもやするんです。どうしてでしょうか? でも、それだけです」
 しかしパーピュアの涙は止まらなかった。
 持っていた自分とミストに宛てた手紙がぐしゃぐしゃに縒れてしまう。インクが滲んで流れ、パーピュアの手を藍色の斑に汚した。
(お前は何を泣いてる?)
 ミスティルテインはもはや怒れと命じなかった。
「泣いて……私は泣いているのですか?」
(こちらが聞いているのだ! お前の都合など知らぬ。さっさと泣き止め! そしていいか、我を利用しようとした輩に罰を与えよ!)
「いやです!」
(ええい)
 赤く輝く塊はいらだたしげにぐるぐるとパーピュアの周りを巡った。
(何だお前は? 出鱈目な人間だな。泣くか怒るかせめてどっちかにせんか)
「無理です!」
 話はどんどんミスティルテインの怒りからズレていく。
「仕方ないんです。今まで出したことなかったから、とまらないんです!」
 パーピュアは頬を真っ赤に染めて、ずずっとしゃくりあげた。
「でも平気です。でも一緒に怒りはしませんです、ミスティーさん。復讐なんて絶対ダメ、いけません! 人間を殺すなんていっちゃいけませんよ!」
 生来彼女は意志の強いところであったのだろう。アメジストのタガがはずれそれが顕著に表にでているようで、押し問答が終わらない。
「あなたのほうも、私に命令するばかりじゃ困ります、ミスティーさん」」
(何?)
「ですからあなただって泣きたいときとかあるでしょうに。せっかくですから私が聞きます。お話しましょう、そしてすっきりさせましょう」
(はあ?)
 ミスティルテインも混乱気味である。
 誰かが結晶柱の向こう側から、パーピュアを呼んだ。結晶面に手を触れ、彼女に呼びかけている。
 見知った顔であるはずなのに思い出せない。くすんだ金髪。手に握りしめているお守り。時折縋るような目をする青年。レディルという名前は記憶の彼方だ。
 そして彼女は、自らは思い出さぬようにしようと過去の自分を消し去った。青年のあの瞳に応えられるような人間では、もうない。過去の彼女がどれほど素晴らしい人間であったとしても、それは別のことだ。
 ……だが。
 不思議と、青年の瞳は雄弁に感じられた。
 彼は私に外に出てきてもらいたいのだ。それが伝わってきた。
 何故だろう、失ったはずのアメジストがまだあるような感覚。胸のあたりがもやもやとしてもどかしい。
「ありがとう……誰かさん。でも、大丈夫ですよー」
 言葉は届かないだろうけれど、パーピュアはそう言って微笑んだ。
 あなたが必要としていた私は、もういないんです。あなたは他の人を助けてあげてください。私は……。
「私はミスティーさんのお話を、この際とことん聞いてみようと思います。心配いりません」
(とことんって……お前)
「……あ」
 ぽん、とパーピュアは手を叩いた。
「いいことを思いつきましたよ、ミスティーさん」
(ミスティルテイン)
 ミスティルテインは訂正した。
「はい、ミスティーさん。だって言いにくいですから、いいですよね?」
 青年の姿を見ていて思いついたことがあった。
(いいから、その先を言え、早く)
「んー。せっかちですねえ。つまりです。この結晶を取り込んでみようと思うのですよ。どうでしょう?」
 にこり。
 結晶の向こう側――そう、彼の名はレディル――へ微笑むパーピュア。
(それをするとどうなる?)
「わかりません」
 はっきりと、ミスティルテインは苛立っていた。レディルの目にも明らかだ。赤い輝きが、カッと激しく燃え上がったり、かと思えば暗くくすぶったりしている。
「わかりませんが、世の中、わかることばっかりじゃありません」
 彼女はもう決めていた。
 そして彼女が決めてしまったことは、彼女は実行するのだった。

■Scene:彼我(8)

 どこだ、ここは。
 何が起きたのだろう。
 空があるはずの、頭上を見上げた。淡い半透明の結晶壁が幾重にも反射した光を、目で追いかける。蛍石によく似ている、と思った。
 手紙を手にしていることに気付くと、ヴィーヴルだった男は途端に手紙を読みたくてたまらなくなった。何かを読んだり、変わったものを見たりすることが俺は好きだったのだと思った。
 手紙は――少し残念だったことには、ヴィーヴルだった男が自分へ宛てたものであった。とはいえ色恋沙汰を連想したわけではなく、もっと胸躍るような、例えば彼の好奇心を充分に満たしうる新発見を伝える手紙とか、そういうものであればいいな、と思ったのである。
「ヴィーヴル、錬金術師」
 名前も職業もまるで空虚に響いたが、筆跡は見まごうことなき自分のものであったので、ヴィーヴルは自分を信用することにした。まさか自分を偽ることはしないだろう。
 何回か口に出してみるものの、なかなか名前も職業もしっくりは来ない。
 そのうち慣れるのだろう、きっと。しかし思い出そうとする端から忘れていってしまいそうで、繰り返し考えれば考えるほど、もどかしさは募るばかりだ。
 おぼろげな記憶に対する苛立ち。
 けれどそれすら、自分が残した手がかりのように思えて、ヴィーヴルは思いのほかこの状況を楽しんでいることを知った。
 手紙にはそのほかに、錬金術の師匠のことが書かれていた。もしも記憶が戻らぬことがあれば、師匠のもとへ帰ること。その文章を読んだヴィーヴルはなぜか、意地でも戻るものかと思った。
 他に書かれていたのは家族のこと、妹のこと。大切な家族。
 戻らなければ、と思った。そして思い出す。両親はもういないのだ。わずかに肉親は遠く離れて暮らす妹だけ。妹のはにかんだような笑顔が不意に浮かんだ。強く願う。帰るところがある以上……。
「……戻らなくては。ああ、そうだ。とにかく外に出ないと」
 手紙から顔を上げる。周囲を取り囲む結晶の障壁。他の仲間たちも同じように、結晶に囚われている様子が見て取れる。外に出ることができたのか、はじめから結晶の外にいたのか、数名が話し合ったり動いたりしている。
 誰かが誰かを助けようとしている。
「オレも……」
 胸が締め付けられるように痛んだ。
 あの輪に。仲間を助け出す手伝いをしなくては……ああ、あれは、仲間なのか。
 込み上げてきた感情。仲間のことを考えるたび、自分のことよりもはっきりと細かいところまで記憶を手繰り寄せることができた。
 デンじいさん……ホールデンじいさん。大丈夫だろうか? 今はどこにいるのだろう?
 妹の笑顔の次にホールデンの赤ら顔を思い浮かべる。いったい自分はどうしてしまったのだろう。苦笑。どちらかというと照れ笑いに近い。たった一人の妹と、知り合ったばかりの爺さんを並べて思い出すなんて。
 まったくどうかしてる。
 師匠に言ったら何て顔をされるだろう。少しは成長したと褒めてくれるだろうか……? 無理そうだ。
「おおい!」
 声をあげて、結晶の壁を拳で叩く。
 ずきん、と頭の奥が痛んだ。
「皆! シュシュ! デンじいさん!」
 ずき。ずきん。
 向こう側の誰かが、ヴィーヴルの元にやってきた。あれは墓守のクオンテ。結晶に手を触れている。クオンテの声は聞こえない。が、それよりも先ほどから何者かがささやきかけている。
(……怒れ……!……)
 ヴィーヴルは知らぬが、それは他の結晶柱で仲間たちが聞いたものと比べ、あまりに弱々しいささやきだった。
 赤く輝く塊――ミスティルテイン12分の1は、ここではすっかり燃え尽きた熾のようである。
「別に……おまえに言われるまでもないし、おまえに命じられたからといってオレが従う義理もない」
 にべもなくヴィーヴルは答えた。
 そして携えていた黒曜石のナイフに気付く。そういえば手紙にもこのナイフについて触れていたくだりがあった。もう一度読み返してみる。
「水と反応するナイフ? アダマスがかつて手に入れた折れた剣をナイフにしたもの……」
(……それを近づけるな……!……)
 軽い気持ちでナイフを手にしたヴィーヴルに、弱々しい声は嘆願した。
「何もするつもりはないさ」
(……早く……しまってくれ……!……)
 どうも様子が妙である。赤く輝くはずの塊はぶすぶすと黒煙を放ち今にも消滅してしまいそうな雰囲気だった。
「もう鞘におさめた。これでいいのか?」
(……なぜおまえが……それを持っているのだ……それこそは我が身から鍛えられし剣……我が身を切り刻んだ苦痛の刃……)
「研究用に借りただけだ。それより、おまえの話が正しければ、この剣はおまえが作ったのか?」
(違う!)
 赤黒い塊は、そこだけは声高に、激しく光輝きながら否定した。
(違う! 我が身を切り刻むため……我が力を弱め、閉じ込めるために……不遜な輩が作り上げた剣……)
 その剣を持つ者はミスティルテインに傷つけられることがない。
 ミスティルテインもその剣を滅ぼすことはできない。
「今のおまえは……器を失ってしまった、収まる場所のない力の欠片、ということなんだな?」
 黒曜石の刃の輝きを見つめながらヴィーヴルは尋ねる。
 少しずつ、黒曜石のナイフにまつわる事件が見え始めていた。
 人間が、ミスティルテインを封印するために、ミスティルテインの力を利用して作った武器。
 何のために? 
 ヴィーヴルは師匠に習った錬金術の手順を思い出していた。
 再現したい結果がはっきりしていさえすれば、あとは手順の組み立てである。
 ミスティルテインを封印する……何のために? もう一度、思考をめぐらせるヴィーヴル。何のために小さくしたのだろう?
 小さく……例えば扱いやすいように細切れにするとか、決まった形に切り出すとか……それは、人間が利用するためだ。そのための加工。
 そこに思い至り、ヴィーヴルは思わず口元を手で覆った。不愉快だった。ナイフを使うという気持ちはとうてい起きなかった。
 だがともかく。脱出しなければならない。
 結晶の壁越しにクオンテが何か話しかけてくれている。彼の手が触れている箇所が、周囲に比べて色が明るくなっていた。魔力が結晶化したもの、と誰かが言っていたことをヴィーヴルは思い出した。向こう側から触れることで何かが反応しているらしい。
 ヴィーヴルはしばらく考え込んでいたものの、やがて意を決し、再び黒曜石のナイフを手にする。
 黒い刃を結晶壁に押し当て、そっと力を込めてみた――。

■Scene:彼我(9)

 ぼんやりと、ラムリュアだった女はあたりを眺めた。自らの身を抱く腕に、腰まであるまっすぐな髪がするりと落ちている。青みがかった黒髪は結晶内部の赤い光を映し、奇妙に不吉な色に変じて見えた。
 顔を上げる。結晶の障壁越しに眺める外の世界は、すぐそこにあるにもかかわらず随分遠い場所のように思えた。
 霊。私の精霊は?
 私は……?
 最初にそんなことを考える。
(怒れ!)
 手を広げる。怒りを命じるささやきになるべく注意を向けぬようにして、預った品々を確かめた。バッジと手紙。筆跡は男性のもので、明らかに自分の字ではなかった。読む気はなかったがあまりにも短い一文だったので、目にするなり読み終えてしまった。悪いことをしてしまったと恥じつつも、気にかかる。
「もう誰も争い傷つくことのないように」
 誰がそんな手紙を私に託したのだろうか?
 そして占い札の束。これはしっくりと手に馴染み、思い出すまでもなく使い込んだ愛用の品であると知れた。
 何気なく占い札の束を裏返すと、太陽のカードが目に飛び込んでくる。
 太陽。
 朝。
 朝を待つ者……。
 胸をどきどきさせて一番上の一枚をめくった。風を意味する旅人のカードが現れた。
(怒れ! 復讐するのだ!)
 輝く塊がラムリュアの視界を赤で満たした。結晶の向こう側には風と水。
「ここから出なくては」
 風が吹く場所へ。朝を求めて。
 風のカードを、ラムリュアは信じた。精霊が引かせたい札。誰がめくっても同じ。表に返す前にすでにカードは選ばれているのだから。ここから出て、自分に託された品々を元の持ち主に返さなければならない、と思った。
「ねえ……誰だか分からないけれど、私に話しかけている誰かさん?」
 目を閉じて問いかける。
「……傷を負ったのね? 痛くて辛かったのでしょう……」
(そうだ! どのような理由であれ、何人に、他の者のありかたを変えることが許されるというのだ!)
 ラムリュアは目を閉じたまま、両手を伸ばした。
 熱い塊が、伸ばした腕の間に現れた感覚。
「分かるわ。あなたの怒りはもっともだもの」
 ラムリュアの心にあるのは慈悲であった。命じられるがままに怒りを爆発させてしまっては、その怒りに飲み込まれ、自分も囚われたまま、出られなくなってしまう。そんな予感があった。
 風。風を頬に感じたい。
「一緒に外へ出ましょう。そして貴方の傷を治してあげるわ」
(我の力は弱められてしまっている)
「だから一緒に、って言っているのよ」
 私に手紙を託してくれたのは誰だろう? もう誰も争い傷つくことのないように。そのとおりね、とラムリュアはあらためて思った。
 そっと目を開ける。
 結晶壁の向こうに、良く知っているような誰かの姿があった。彼はこちらを見つめていた。はっきりと、確かにラムリュアを見つめ、こちらへと手を伸ばしていた。結晶に触れたところの色がひときわ明るく輝いていた。
 エディアール。
 その男の名はすぐに思い出した。助けようとしてくれている。向こう側から呼んでいることがわかった。
 太陽。朝。朝を待つ者。
 旅人。風を纏う者。
 ラムリュアはにこりと微笑んだ。
 結晶越しにその表情が彼に伝わったかどうかはわからない。でもラムリュアは暖かな気持ちを感じていた。求められるのは嫌いじゃない。
(一緒は有難いが、そもそもどうやって外へ出る気だ)
「……こうやって、よ」
 一番上の占い札を結晶に押し当てる。エディアールが触れていたのと同じ場所に、内側から触れる格好だ。
「向こう側は風と水に満ちている。そして貴方……が何者かはおいておいて、ともかく火だわ。燃える貴方の力を借りるわね」
 エディアールが手を載せていた場所から、ラムリュアは風を感じていた。
 彼が、風を纏う者? いいえ。そんな少女じみたことはもう考えない。心の中で苦笑する。
 この結晶は、何らかの魔力を固体化したものと考えられていた。
 エディアールの触れたところが明るく輝いていること、宝石道師のアメジストの欠片が今も方々でちかちかと紫の光を放っていることから、人間の持つ何かを取り込んでいることは確実だった。
 赤い塊、ささやく主が出られないのは人間ではないから。それとも、細切れにして封印されてしまっているから。あるいは、その両方だ。
「それなら私の持つ力で、穴を穿てばいいのよ」
 旅人のカードに両手を載せて、ラムリュアは祈った。
「霊よ、精霊よ。風と水の力よ。そして誰かさんの火の力よ……狭き場所から出でて私の願う場所へ。流れを遮るもののない場所へ」
 手元に意識を集中させる。風が巻き起こった。
 甲高いラの音が、耳に届いた。結晶が粉々に崩壊する音だった。

■Scene:彼我(10)

 フートは精霊に話しかける側でリュシアンはその手伝いをすることとなった。
 その間に、クオンテはヴィーヴルの、レディルはパーピュアの、エディアールはラムリュアの結晶柱にそれぞれ呼びかけを行い、彼らが脱出する手助けとなりうるかどうか試みることになった。
「ヴィーヴルのヤツはナイフを持ちだしたままのはずだったよな」
と、クオンテはヴィーヴルの閉じ込められている柱を見上げた。
 もちろん全員大事な子どもたちであることには変わりはない。救助に際しても優先順位などつけるべくもないが、手っ取り早くヴィーヴルがナイフを持っていることを思い出したのだった。そして連想めいた話であるが、この状況では男手も必要だということで、まずはヴィーヴルの番、なのである。
「赤いのはミスティルテインなんだよな? ぴかぴか光って……話しかけてるみたいに見えるじゃねーか。よもやヴィーヴル、あちらさんに気圧されてる……なんてこたあねえよな」
 クオンテの知る限り錬金術師ヴィーヴルは、ヨシュアとはまた少し違った形で知識欲好奇心ともに旺盛なようだ。ミスティルテインとの対話においても、またとない機会としてきっと活用しているだろうと思う。
 ともかく彼は出てきたがるであろう。心配なのはパーピュアだが、彼女にはレディルが救いの手を差し伸べてみるという。
 クオンテは緑がかった黒髪をぶんと振って視界を改めると、千々に乱れる気持ちをヴィーヴルに集中させようと試みた。元々彼は、人の気配の薄い場所――例えば森の木々の中――を好む。木登りも得意で、読書に格好の場所といえば森の中、お気に入りの枝の上と決めているくらいだ。
 仲間たち以外に生あるものの気配がまったく感じられぬ、それでいて濃い魔力が現出し結晶化したこの森もまた、クオンテにとってはそう居心地が悪くないばかりか、静寂が肌に馴染みつつある場所であるのだった。
「おうい、ヴィーヴルの坊ちゃん」
 結晶に手を触れ、その中に赤い光を抱いて浮かんでいる青年を見つめた。
「思い出したかね? もういいだろ、話がついたんなら出てきなー」
 とりとめもなく思い浮かんだ言葉が連なった。
「こっちは待ってるんだぜ、おまえさんのこと。いいかー?」
 とんとんと結晶を外から軽く叩く。
 クオンテが触れていたところは、少し色が明るくなっていた。
「何かに反応してんのかね? あーん」
 そうこうしているうちに、結晶の中のヴィーヴルもクオンテに気付いたようである。
 何だかごたごたしている雰囲気であり、その様子はクオンテのほうに漏れ聞こえることはなかったが、クオンテはヴィーヴルを信じて待った。
 やがて錬金術師は黒曜石のナイフを取り出し、内側から結晶に押し当てて刃を滑らせる。
 甲高いラの音が響いた。思わずクオンテは身を強張らせる。
 ヴィーヴルの周囲の結晶が崩れたのだ。ヴィーヴルはよろよろと、それでもナイフは放さず数歩よろめき出た。
「頭……痛え」
「よく出てこれたなあ」
「クオンテさんのお陰」
 ぼそっと呟くヴィーヴル。
「それにしても……」
「どした?」
「頭痛い。ああ……今は収まったけど」
「ラムリュアの姉ちゃんかピュアの嬢ちゃんに見てもらえ。な?」
「いいってば」
 ヴィーヴルは自分が閉じ込められていた場所を振り返る。
 ミスティルテイン12分の1が、目の高さに浮かんでいるのが見えた。

■Scene:彼我(11)

 エディアールがラムリュアの柱に近づく。
 メモとバッジを預けた相手が今は結晶の中に取り込まれているのである。彼女に自分の持ち物を託したのは、ラムリュアならば危険を冒さず残るのではないかと考えたからでもあった。当ては外れてしまったが、結果としてはよかったのかもしれない、とエディアールは思う。
 柱の中に閉じ込められている彼女がもうすでに記憶を失っている可能性は高い。シュシュやフートのときも、調査隊の仲間のことを思い出すのに時間がかかっていた。こちらが一方的にラムリュアに呼びかけたとしても、彼女に気付いてもらえるかどうかがまず問題になる。
 その点ラムリュアはエディアールの託した品を持っている。明らかに男のもの、つまり自分ではない人間の物を所持している。その違和感、あるいは疑問から、彼女の記憶を手繰り寄せることができれば、彼女の意識がこちらに向き、ぐっと救出も成功しやすくなりそうだ。
「ラムリュア」
 エディアールはラムリュアのいる結晶柱に触れ、よく通る声で呼びかける。
 安心して大切な物を預けることが出来る信頼に足る女性。彼女がどんな過去を歩んできたかは知らないし、詮索するつもりもない。私は私の目で今ここにいるラムリュアを評価し、結果、信頼を寄せた。大切なのは過去よりもこれからどう生きようとするかだろう。変えられるのは未来だけなのだから。
「私の元に帰って来てほしい」
 はっきりと場所を指定してやることが重要だ、とエディアールは思った。
 この手の遺跡で、移動装置に罠が仕掛けられているのは王道といってもよかった。うかつに曖昧な行き先を告げようものなら、悪意ある翻訳が働き、どこへ連れて行かれるかわからない。
 結晶柱の中のラムリュアが、エディアールに気付いた。
 声が聞こえたどうかわからないが、呼びかけは届いたのだ。確かに彼女はにこりと微笑んだ。
 ラムリュアは手に銀色のカードを持っていた。
 半透明の結晶越しにカードの絵柄を見ようとする。外套を羽織りわずかな荷で丘を往く者の姿。旅人の絵――意味は、何だろう。
 エディアールが触れていた箇所が、明るく輝いている。
 ラムリュアは結晶の内側から同じ場所に、旅人のカードと両手を重ねて乗せた。
 手の中にはりつめていた結晶が、その均衡を失い崩壊する。
(外だ!)
 ミスティルテインが声を震わせた。
 途端に、劈くような頭痛に襲われ、ラムリュアは両手でこめかみを押さえる。手元からひらりと旅人のカードが翻った。割れるように頭が痛かった。ずきずきと脈打ち、眩暈に襲われた。
「ラムリュア!」
 エディアールが名を呼ぶ。ラムリュアがふらりと倒れそうになるのを急いで抱きとめた。
 彼女の身体は熱く火照っている。片膝をつき、すぐ側に落ちていた彼女のタロットカードを拾う。
「大丈夫か」
 彼女の手にカードを握らせる。
「……大丈夫」
 カードの感触に目を開けたラムリュアは、ぎゅっとエディアールの胸に抱きついた。
 そして素直に感謝の意を示す。
「ありがとう、エディアール。貴方が外から触れてくれたから、出ることができました。預り物は……記憶が戻ってからお返しすることにしますわ」
 エディアールはごくりと息を呑んだ。彼女の片方の目は、ミルドレッドと同様に赤く変じていた。

■Scene:彼我(12)

 同じころ、レディルはパーピュアの柱の前に立ち、かける言葉を探していた。
 お守りの石について解説してもらったことは、レディルにとっても印象的な出来事であったのだ。
 自分の声が彼女に届けばよいのに。
 だが外から見る限り、結晶の柱の中で浮かぶパーピュアは泣きながら、目を閉じているように見えた。
「……どーなってるんだ? 中で何があったんだろう」
 ミスティルテインに泣かされたのか、それとも話がこじれているのか。見た限りでは、パーピュアはこちら側に戻ろう、脱出しようと試みている様子はなさそうだ。
 出てこないつもりなのだろうか?
 困るな、と思った。
 そしてすぐ思い直す。
 困るというより……俺、ちゃんとお礼をしてないはずだよな。ここからあんたに声が届くのかな? だったらいいんだけど。
 レディルは結晶柱に手を添えた。そして赤い光の中で目を閉じ眠ったようなパーピュアに言った。
「思い出したくないのかい? 出てきたくない? ……どうしても思い出したくないならそれでいいよ、あんたはあんただ」
 薄く、パーピュアのまぶたが開いた。
「どうしても思い出したくないならそれでも構わないと思うけど、以前のあんたに、俺がとても感謝してるってことは伝えておかなきゃって思った。本当だよ」
 パーピュアは微笑んだ。
 伝わったのだろうか?
 結晶に添えた手。内側からパーピュアが同じ場所に手を重ねた。
 小さいなあ、とレディルは思った。13歳。グロリアと同じ、いやそれよりもひとつ下。だが見かけどおりの年ではないと言っていた、あれはリュシアンの言葉だっただろうか。
 そんなことを考えながら見ているうちに、重なり合った結晶のあわいが少しずつ輝き始める。
「何をするつもりだよ?」
 思わず口にする。しかしレディルはパーピュアを信じた。
 なぜなら彼女が、お守りの石の言葉を伝えてくれたから。
 ぱきぱき。乾いた音が耳に届く。レディルの手の平から結晶がはいのぼってきている。体表がきらきら輝く結晶に覆われていく。
「……っ!」
 驚いて、結晶の中のパーピュアを見つめる。また視線を侵食する結晶に落とす。早かった。もう二の腕あたりまで結晶に飲み込まれている。
 パーピュアは祈っているように見えた。
 何に?
 神にだろうか、わからない。彼女は何をよりどころにしているのだろう。神にも似た扱いを受け、その後石を投げられ追われる日々。
 彼女が駱駝たちにつけた名前。コハク、プル。あとなんだっただろう? それが何を意味するのかもわからない。知らないことがこんなにたくさんある。
 レディルは逃げなかった。ぱきぱきと音を立てる結晶を見つめる。もうすぐ目の前にそれが迫っている。
 恐ろしかったけれどその結晶は美しかった。目が放せない。放すことができない。
 そしてレディルは理解した。
 結晶の中にアメジストの欠片が無数に見えた。
 これまでにパーピュアが癒し、昇華してきた数々の想いと傷。
「アメジストはなくなったんじゃない。結晶の中に今もあるんだ……」
 結晶の正体をレディルは理解した。
 これらは、人間たちの記憶を元に編み出されたものだ。
 それなら――やっぱり怖くはない。“遠見”でいつも見ているものが、ありかたを変えただけじゃないか。
 ……ぱきん。
 レディルは全身を取り込まれた。最後の瞬間は目をつぶってしまった。
 でも目を開くとパーピュアがいつものように笑っているのが見えた。
(何を……したのだ)
 ミスティルテインは混乱しきっていた。レディルもそれは変わらない。
 パーピュアはレディルと繋いでいた手を自分の胸に押し当て、微笑んでいった。
「つながったのです」
 かつてアメジストが埋め込まれていた場所に、結晶の大きな欠片が突き刺さり、彼女の細い身体を貫いていた。

■Scene:彼我(13)

 ひび割れ崩れてしまった、大樹。
 その根元に跪いたフートは、白い靄の中をさぐり、積もった結晶片を手ですくった。
「貴方の本質、貴方の力、貴方の心は――」
 傍らに立つリュシアンも、そっと無言でミスティルテインを悼む。
 小柄な精霊使いは白い靄の中に佇んでいると、まるで精霊のようだとリュシアンはそっと思った。その水色に近い髪が、毛先にゆくに従って青みを増す様も。
「本当は、本望なんっすよ」
 ぽつりとフートの唇から言葉が漏れる。リュシアンはうなずいた。
「精霊と溶け合ってしまえば僕は楽になれると思うっす。ただでさえ僕、という存在が希薄で微力なんすからねえ」
 記憶を失っても拘らないのは、もともとそういう考え方が根底にあるからである。
 だがそれすら、精霊の都合のいい利用になりはしないか、自分だけの論理ではないか、という思いがフートにはある。かろうじて彼を調査隊の仲間たちの側に留めているのが、それだ。
 リュシアンは大樹の根元に程近い幹を見つめる。
 契約の杭。
「私の血筋でいうところの加護とは異なると思うのですが、それでも、精霊に近く常に彼らを側に感じられるのでしょう? 良きことも多そうに思えます」
「ん……僕は、楽しい日々だったと思うっすよ。でも育ててくれたほうは、きっと気味悪かったんじゃないっすかね」
「ああ……」
 リュシアンの場合は、家族も同様の性質を受け継いでいたし、ソレス家も高名であったから、精霊の加護とはそのようなもの、と受け入れることに疑問は持たなかったし、周囲もそれを当然と受け止めてくれていた。
 だが、そうではない場合のほうが多いのかもしれないとリュシアンは思い至った。
 赤ん坊のうちは、風にそよぐカーテンにはしゃいでいても「そういうもの」と皆思う。そして長ずるに従い、普通の子ではない行動――ひとりで誰かと話していたり、突然知りえぬことをつぶやいたり――が目立ち始める。ましてやフートは孤児だった。家名も血をわけた親族も幼馴染もない場所で、ひとりで精霊を友として暮らしてきたのだ。
 深くリュシアンは自省した。
「楔が欠けた 楔が壊れた 訪れるモノは解放か――
 ――望むカタチ
 ――望まぬカタチ 
 ――眠る貴女の目覚めが安らかであるように」
 それがドリアードを悼む言葉とリュシアンが気付いたのは後のことである。
 フートは立ち上がり、白い靄の中から水の精霊ウンディーネを呼び出した。
「水の乙女よ 全てを流し清める者よ」
 しずくを纏う小さな乙女が、精霊使いの求めに応えて姿を現す。
「その力を貸し与えよ 己を取り戻す助けとなれ
 柔らかなるその流れにより 身焦がす炎を退け
 立ち塞がる者へと我らを導け――」
 しずくを纏う乙女は、ひとりならずふたり、三人と、数を増す。
「こんなにたくさんの精霊を……」
 リュシアンの目にもはっきりとその様子が映る。数多くの精霊に助力を請うことはけして安全ではないと聞いていた。
 さらに彼が驚いたことに、フートの口からは更なるささやきが紡がれる。
「風の乙女よ 流れゆく者たちよ」
 風の精霊シルフたちへの願いである。
「今は此処に止まりて 立ちはだかる者を阻む力となれ
 身を焦がす炎をかわす 膜と なれ
 かの者を 捕らえる 鎖 と な れ……」
 最後のほうはかすれたささやきだ。リュシアンはフートの身を横から支えた。一度にたくさんの精霊を呼び出しすぎたのだ。ぶかぶかの服を着ているから分からなかったが、フートは抱えるとさらに小柄であった。
 ふわり。
 頬を撫でる微風がまるで乙女の手の平のごとく感じられる。顔をあげると、淡く透き通るような乙女たちがじっと心配そうにフートとリュシアンを見つめていた。
 突然リュシアンは孤独を感じた。フートと二人、白い靄の中に浮かぶ、崩壊した大樹の根元に縋る自分の姿。自分たちを囲む、たくさんの精霊乙女たち。結晶柱の側ではエディアールやレディル、クオンテたちが仲間の救出を行っている。
 遠くで動く人の営みなど、精霊乙女たちの幾組もの瞳のまえではまるで異質に思える。フートはいつもこのような世界を見ていたのだろうか、たったひとりで。
「フートさん」
 軽く精霊使いの身体をゆする。
 呻きながらフートは目を開けた。長い前髪に隠れた彼本来の瞳を、初めてリュシアンは見たと思った。純粋? 違う。クレドのような子どもらしさは当然そこにはもうなかった。狭間で苦悩し決断を乗り越えてきた大人のまなざし。深緑色の瞳。
「フートさん。皆待ってます」
 精霊たちが呼び出されて指示を待っている。
「あ……そっすね。じゃ――解放を」
 にこりとフートの口の端が持ち上がった。
「――炎湧く主をとめどない怒りから。囚われた仲間たちを、彼らを縛るものから。流れたゆたう者たちよ、変幻し定まらぬ流れの中に、怒りと束縛を運び去り解放をもたらせ――古い契約は終わった」
 集った精霊たちは諾と唱和し、いっせいにその命に従った。
 すなわち精霊力に調和を取り戻すべく、あるものは結晶柱に寄り添いミスティルテインの怒りを鎮めようとし、あるものは……。
「すごい」
 リュシアンは感嘆した。
 わずかながら精霊の働きが、幻覚内のありようと変化させている。
 ほんのすこし。
 例えば結晶柱の中の赤い輝きが、少しだけ和らいだように見えたり、大樹の根元に若芽を見つけたり。
「アリキアの木に芽がでています」
 リュシアンは指さしてフートに教えようとする。
「ん? ……眠いっす。柄になく精霊さんを総動員したからっすかね……ひどく疲れたっすよ」
「そんなこと! 見てくださいよ、フートさん」
 一度は血が流れ枯れたアリキアの木。ドリアードも見つからなかった。
「……契約の杭である必要がなくなったんすかね?」
「私に聞かないでくださいよ」
 苦笑するリュシアン。本職の精霊使いもまた日々迷っている……。
 フートはそっとアリキアの根の張り具合を確かめる。
 その芽は、りんごくらいの大きさの種を割って生えてきたばかりのようだった。
 フートは両手でアリキアの若芽を拾い上げた。
「どこかに植え替えてやんないとっすね」
「そうですね。ここは日が差さないですから」
 リュシアンは頭上を見やる。
 結晶化した構造物が立ち並ぶ空に、太陽は見えない。
 円盾の防護が維持されている限り、この空間はこのまま存在し続ける。

■Scene:彼我(14)

「蛍石みたいです。とても純度が高い結晶ですね」
 結晶柱の中に浮かぶパーピュアは、結晶をそう評価した。
「純度が高いものでなければ取り込むことはできないのです」
 上を見上げると、高い尖塔の中にいるような感覚になる。いくつもの窓から淡い光が注ぐ感じ。このままどこまでも沈んでいきそうになる。窓の代わりに結晶がきらきらと光る。
 身体の中に結晶を取り込んでみればこそ分かったことであるが、これらの構造化した結晶物は皆、人々の記憶が形を変えたものであったのだ。アメジストの欠片があちこちに散らばっているように、結晶の中を記憶の欠片が流れ去り、別の場所に生じ、あるいはふたたびめぐり戻ったりしている。
 結晶柱に囚われた仲間たちのことが、だからパーピュアは手に取るように分かった。
 胸の結晶を通じて、仲間を取り込んだ結晶柱の結びつきを弱める。次々と結晶柱が崩壊し、取り込まれていた者たちが転がり出てくる。
 その様子を、今度は結晶の中から眺めるレディル。
「つながってるのか……大きな器官みてえだな」
 レディルが呟いた。
「そうです。まさにここは器官ですね」
「ミスティルテインの?」
 レディルは目の前の赤い卵に尋ねる。
「違いますよう」
 答えたのはパーピュア。
「ミスティーはこのような器官を必要としません。ミスティーは火山そのものですからね。むしろ《大陸》そのものがミスティーの器官といえるでしょう」
(うむ)
 ミスティルティンは満足そうにうなずいた。
(だができればミスティルテイン、と呼んでほしい)
「よかったです。もう怒ってないのですね」
(復讐を遂げるにもともかく外へ出ることだとおまえたちがうるさく言うからな)
 今パーピュアたちと共にいるミスティルテイン以外は皆、それぞれの仲間の身体を利用するという形で封印をとき、結晶の外へ出ることができたのである。
「じゃあ貴方も出なくちゃですね」
(……構わぬ)
 契約の杭が改められ、遮られていた精霊力はゆっくりと元に戻りつつある。
 ミスティルティンにしてみれば、あとは好きにできる、ということのようである。もちろん力の行使には、身体を借りている人間次第であるが。
 あとはこの空間を維持している円盾の防護を破壊することができればよい。
「そうですねえ〜」
 胸の結晶に手をあててパーピュアは首をかしげている。
「円盾の防護の維持には、信徒の精神力が使われるってアダマスさんが言ってた。そいつらがいなくなれば、儀式を続けることができなくなるんじゃねーのか?」
 レディルはそう言うが、パーピュアは頭を振る。
「だめなのです」
「だめって?」
「円盾の防護を維持するための精神力は、パルナッソスの人々によって提供されているようなのです」
「……ん?」
 きょとん、とレディルが瞬きする。
「パルナッソスの人たち。施療院の人々、孤児院のこどもたち。彼らが、儀式に参加しているという自覚なく、精神力を常にこの場所に送り込まれているのです」
「……そんなこと、できんのかよ」
 パルナッソスの住人がいる限り、自動的に儀式が継続するというのだ。
「どうしよう。どうしたらいいんだろう」
(ぶっとばせ)
 至極冷静に、ミスティルテインは言った。
(ぶっとばすしかない。元を断てばよいのだ。それだけのことだ)
「いやいやっ。だって元っていっても、結局ここから外に出なくちゃなんねーし。パルナッソスの人をそっくり引越しさせるっていうのか?」
(そんな面倒なことをしなくてもよい。火の玉を一発ドカン! とぶち込めば終了だ)
 いやいやいや、とレディルは繰り返した。


1.胸の炎 2.彼我 3.神の歯車 マスターより

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