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第5章 3.神の歯車

■Scene:神の歯車(1)

 ルドールに会いに行くアダマスの道連れは、ティカとカイン。そしてスィークリール。
 三人の男性とひとりの少女。その後を、付かず離れずの距離でからくり犬がとことこと歩く。はじめに足もとの白い靄をふんふんと嗅いだくらいで、特に変わったところもないようだ。金色の尾が白い靄の間に揺れる。シュシュが着せたスィークリールの服の内側に、小さな包みが結わえられているのを、目ざとくティカは見つけていた。
「どしたのさ、これ」
 いつ誰がスィークリールに託したのだろう? そういえば、シュシュ兄がもう一度幻覚の向こう側へ行った時に、スィークリールに何だか世話を焼かれたティカだが、その時にもあったような気がする。
「大事なもの? 貸してみろよ」
 ティカはスィークリールの首筋に手を伸ばした。
 からくり犬は噛み付いたりせず、じっとティカを見つめる。
「調査隊の誰かがつけたんだよなあ……誰だろ? シュシュ兄?」
 心なしか胸をときめかせつつ、包みを手に入れる。強度のある草で編んだ丈夫な包みだった。幻覚の嵐に挑むにあたりヨシュアがしたためた大作を、預けた相手はスィークリールなのだった。
 アダマスだのホールデンだの、他にも相手は多数いるのだが、からくり犬を選んだところに、調査隊に対するヨシュアの妙な遠慮が垣間見える。
「なんだヨシュアか」
 失礼な言い草であった。分厚い手紙の束は、記憶を失ったヨシュアが自分のために作成したものであって、ティカに読み聞かせるために作ったわけではない。
 ティカは勉強もちまちまとした作業も苦手である。反対にこういったことにいそいそと取り組むヨシュアのことは、すごいと思うけれど、でもそれだけだ。戦闘だとか剣だとか、そういう単語がないとティカの琴線には触れがたいのである。
 というわけでせっかくの超大作もティカがサラッと流し読みしたのみに終わる。
 書かれていたのは、調査隊の面々と出会ってからこれまでの一切。ヨシュアの目から見た出来事だけでなく、聞いた話もすべて。あのとき《魔獣》に会いに行くといった人全員のことが記録されていた。
 最後の文章だけは、ティカも気に入った――というよりも大半を読み飛ばし、最後のほうだけ拾い読みしたといったほうが正確だが――そこにはこう書かれていた。
『俺はひとが好きです。間違ったり正しかったり、優しかったりずるかったりする、ひとが好きです。そんなひとが大勢住んでいる大陸が好きです。そんなひとたちの為になったりする植物や動物や、色んな命が生きているこの地面が、どこまでも続いているのが嬉しいです。だから俺は、俺のことを忘れたくありません』
「あたりまえだよなっ! なあ、スィークリール!」
 キイ、とからくり犬は肯定とも否定ともとれぬ鳴き声をあげた。
 ティカは読み飛ばしていた。
 ヨシュアが小さな小さな字で綴っていたこと……自分は戦争のために作られた魔法人形であるということを。
「あ……やばっ。待ってよアダマスさん!」
 置いていかれそうになり、ティカは慌ててアダマスの背を追いかける。
 スィークリールもついてゆく。

■Scene:神の歯車(2)

 リュートは気安くカインに話しかける。
「砂漠のただ中にこのような異空間が出現するなんてどれほどの業なのでしょうねえ」
 カインはそっけなく肩をすくめる。彼の視線はただひたすらに、結晶の間をぬって続く道の行方に注がれていた。
 無言の態度を気にするでもなく、リュートは思い浮かんだ言葉をあれこれと口に出した。
「《涙の盾》の秘儀という話でしたが、アダマスさんのあの言いぶり。きっと、守られているのは大そうなお宝でしょうよ」
 先を歩くアダマスとティカの背を見ながらくすり。リュートの顔に浮かぶ柔和な笑顔。
 少し冷ややかで冷めたような、けれども決して萎れることはなさそうな彼なりのたくましさを感じさせる笑顔だ。
「ねえカインさん」
「……なんです?」
 カインは足を止めて振り返った。
 本音では、先を急ぎたくてたまらなかった。アダマスとも数十歩の距離が開いてしまった。スィークリールがこちらを見て、まだかと言いたげに待っていた。
 だがこの男を無視して進むのも気が引けた。仲間うちで一番何をしでかすか分からぬ男。退屈嫌いという点では、盾父アダマスどころではないだろう。さしずめびっくり箱のような男である。
 ちなみに、パーピュアはかつてリュートを評して「私と一緒ですね〜」などと言ったものだが、それを聞いた天幕内の女性陣は一様に驚いた。
「い、一緒?」
「そうかな?」
「ど、どこが?」
 ざわざわっとどよめくイーダたちに、パーピュアはいつもの穏やかな表情であっさりとこう言った。
「追いかけているからですよう」
「追いかけて……何を?」
 パーピュアが追いかけている、否、追いかけさせられているものは、癒しの力を与えるべき相手。
 リュートが追いかけているのは、面白い物事すべて。
「い、一緒……そうかな?」
 ティカに言わせればそれらはまったく異なるものだが、パーピュアの理屈ではそうではないらしい。
「リュートさんはですねえ、まっすぐです。面白いものを追いかける、って決めたら、本当にそうする人なんです。あっ。ということは……リュートさんはアダマスさんとも似ているかもしれませんねえ」
 パーピュアにとって、一途であることは非常にうらやましいことのようだった。
 さて、リュートがカインに尋ねている。
「神様に会ったことがないのに―――そういう話、してたでしょ? ラージさんと――それで、どうして聖職者を続けていられるんですか?」
 黒に近い茶色の髪は水気をしっとりと含み、瞳はまさに相手を試すように輝いていた。
 なんて答えるんでしょう、あなたは?
 そう言っているのと同じだった。
 カインはゆっくりと瞬きして答えた。
「……他の生き方など、想像もできませんね。すべての出来事は兄弟神の思し召し。そして私は、神に会う道を探し旅を続けています。ええ、ただ……それだけのことです」
 柔らかな声音は子どもを諭すときのように甘く響く。カインの旅路はひたすら神を求めてのものだった。
「僕はそういうの、好きじゃないな」
 リュートは片手で、短い髪をかきあげた。
「神さまなんて僕にしてみれば退屈以外の何者でもない。なんでもかんでも神さまの思し召し、って言うのは簡単ですけどね。どうせなら世の中もっと面白おかしくしてくれればよかったのに。……そう思いません?」
 カインは胸元の聖印を抱いた。《涙の盾》と《愁いの砦》のしるしに触れ、リュートを憐れむ。
「貴方は貴族のような暮らしをなさっていたと聞いています、リュートさん」
「まあ、金はありましたね。親の金だけど」
 今は無一文に近い根無し草だ。家からたくさんの金品を持ち出した中で、今も傍においているのは銀の剣だけといってよかった。
「私はあいにく、神殿で拾われて育ったものですから……恵まれない、何をしてもよくならない暮らしの中で、これだけは浴びるほど目の前に存在していたもの。それが、兄弟神への祈りでした」
 ふうん、とリュートは軽くうなずいた。
「祈りじゃおなかはいっぱいにならないでしょう」
「ええ」
 聖印を握るカインの手に、力がこめられる。
「いくら祈っても……神が私の前に現われて救いの手を差し伸べてくださるわけではありませんからね」
「楽しくないでしょう」
 カインは彼が何を言っているのか分からず、そのままリュートを見つめ続けた。
「楽しくないんじゃありませんか? それじゃ」
 柔和な笑みのまま青年は繰り返して言った。
「予想外の、びっくりするようなことが起きないと、人生なんて本当に楽しくないものですよ。僕はそう思う」
「貴方のいうとおりですよ。リュートさん」
 ふっと指の力を抜き、カインはほほ笑みを浮かべた。聖職者の胸でふたつの聖印が音を立てる。
「貴方のいうとおり。人生なんて辛いことばかりですね……奇跡で孤児や貧民を救うこともできなければ……自分ひとりも、救うことができないのですから」
 カインは踵を返した。
 そしてもうリュートに構わず、ひとりで歩き始める。
 すぐにスィークリールが吠えた。巨大な結晶の中に穿たれた洞があった。アダマスとティカがまさに中へ入ろうとしているところであった。
 カインはぐっと唇を噛み、洞へと向かう。
「思ったよりも、面白い人かもしれないな、カインさん」
 独り言をつぶやきながらリュートもすぐにその後に続いた。その手は、大事な銀の剣の柄に添えられている。

■Scene:神の歯車(3)

 大きな空一面の色合いが、刻一刻と美しくうつりかわってゆく。空色から、深い藍へ。そこに至る間の、日没の橙赤、薄紅、紫。砂漠もまたゆるやかな曲線のうちに光と影を宿し、空と同じ色を孕んで夜をまとってゆく。
 砂百合の花のふくらみに、ぽつりぽつりと光が宿りはじめた。青白くほのかに透ける光。この地に住む蛍が、砂百合を好むためにこのように美しく、まるで花が光を抱いたように見えるのだ。

 結晶の内部の洞は、淡く輝いていた。
 ミスティルテインの赤い光ではなく、この洞の壁が帯びるのは、ぽつりぽつりと星を閉じ込めたように青白く仄かに透ける光だ。
 半透明の壁面がとりかこんでいるのは、外から見た結晶をちょうどくりぬいた格好になっているからだろう。
 もっとも外から見た結晶の大きさに比すると、内部はさほど広くはない。というのも、内にもうひとつ結晶柱があり、洞の天地をつないでいるからであった。こちらの結晶柱は、仲間たちが閉じ込められたものよりはるかに太く、大きい。仲間たちを取り込んだ柱の、直径にして二倍あるいは三倍。結晶面をつないだ円弧は、淡く輝く壁面をほんわりと鈍く映していた。
 いわばこの洞は、この濁った結晶柱の周囲を取り巻く、揚げ菓子状の通路のようなものであった。
「まだ、仲間がいたのか」
 突然の訪問者に、ひとりの男が立ち上がった。
 かなりの大柄で、黒髪を短くかりあげていた。年はアダマスより若く、エディアールよりは上といったところである。黒い上着は襟元がずいぶん詰まっており、踝辺りまで丈がある。そして彼の瞳は赤と銀の色違い。
 カインもリュートも、その姿からすぐにミルドレッドを連想した。髪の色こそ違えども、同じような色違いの瞳。
「ミスト……」
 男がミストの名を呼んだ。自らも片手を上げる。何事かと調査隊員たちは身構える。
 しかしミストは現れなかった。
 男はしばらくミストを待っていたようだが、やがてぶつぶつと独り言を呟いた。
「壊されたのか、12の檻が……」
 どうやら、先陣と同様に来訪者を閉じ込めようとしたものらしいが、思惑通りに力が働かなかったようだ。この場にいる者たちは知らぬが、それはフートとリュシアンが精霊力の働きを均衡に戻したことによる。
「おまえが《魔獣》を操ってるんだろっ! 分かってるんだぞ、ドールッ!」
 ティカは俄然強気になって開口一番、男に向かって言い放つ。
「でもおっかしーな。たしかアダマスより年上のオッサンじゃなかったっけ?」
 言い放ったはいいが少し不安になるティカ。そしてミストがいないのが気になった。
 どこにいるのだろう? きっと悪いドールに利用されているに違いない。ミストがもうドールに騙されないように言って聞かせなくちゃ。
「あんたが《魔獣》ですか?」
 リュートがそう言って、銀の剣を握っていた手を放した。
 カインは口を開きかけたまま、一歩後ずさる。スィークリールが三人の前で四肢を踏ん張った。威嚇のように尾をぴんと立てる。
「《魔獣》なら話が早い。僕はあんたに会いに来たんです」
「怖くないのか?」
 ドールが尋ねた。
「勝てるとは思えませんが」
 正直にリュートは答えた。
「あなたが何を望んでいるか。それが知りたいだけです。敵じゃありませんよ」
 少なくともリュートは、そのつもりである。
「怖いというのはどういう意味か教えてもらえるかな、盾父ルドール」
 アダマスが答えた。かろうじて目上のルドールに敬意を払っているのだろうが、紙一重で嫌味にも聞こえるそんな言い方だった。
「……アダマスか」
 ドールは旧知の相手を前に、わずかに目を見開き、そして片手で頭を掻いた。
「老けたな」
 ドールからの挨拶が、そのひとことであった。
「私にしてみればお互い様だといいたいところだが、盾父ルドール。我々の接点が、パルナッソス教区長ということしかない以上、それ以外に言いようもないのだろうが」
「なるほど。パルナッソス教区長の後任はアダマス君だったのか。それは知らなかった」
 アダマスは目を細めて妙に若い姿のままのルドールを睨んだ。黒い髪。悠々たる体躯。張りのある声。どれも、年老いたアダマスが失いつつあるもの、そしてルドールが未だ持っているものだ。
「時を歪めてしまわれたか、盾父ルドール。円盾の防護の中に随分と引きこもっていたようで厭わしい……でなかった、お労しい。利己的な儀式はさぞ楽しかっただろうな?」
「全然」
と、ルドール前教区長は仏頂面で答えた。
「全然楽しくないね」
「そうか」
 アダマスは肩をすくめた。
「《魔獣》だの《朝》だのたいそうな仕込みだな。学者のお嬢さんひとりに、これだけの舞台をこしらえなければ食事のひとつにも誘えんのかね、盾父ルドール」
「盾父には関係のないことだよアダマス君」
 妙にかさにかかった言い方だった。
「学者のお嬢さんがうるさくてかなわんのですよ。《魔獣》をどうにかするんだ、いやしなければならぬ、とものすごい勢いで捲くし立てるものでね。来たくはないがわざわざここまで足を運んだんだ。関係ないことはないだろうよ、盾父ルドール?」
「どうにかするなら、してもらいたいくらいだ」
 ルドールは同じように皮肉を込めて答えた。
「ほほう。聞いたかね諸君」
 アダマスはカインとリュートを振り返った。
 にやりと笑っている。
 ティカはもういなかった。ミストを探しに行ったのだ。
「盾父ルドール殿がお困りでいらっしゃる。総出でお助けせねばならんようだな」

■Scene:神の歯車(4)

「ミスト。おおいミスト!」
 男性陣が話し合っている洞をこっそり抜け出し、ティカはミストを探した。
「こんなところにいた!」
 結晶のひとつに座り、足をぷらぷら揺らしているミスト。
 ティカに気付き、あの問いを口にする。
「あなたはだあれ?」
「あ……ああそう、そーだったな! おれはティカっ! 迅雷のティカだぜっ! えっへん」
 前々から用意していた台詞をここぞと告げて、さっそくティカは結晶によじ登り、ミストの隣に陣取った。
「ミスト、騙されてるよ」
 いきなり単刀直入である。
「だまされ……?」
「朝が来ないっていってただろ? あれ、ドールの出任せだぜきっと!」
「どうして?」
「だっておれ聞いたんだ!」
 ティカは自信たっぷりに説明する。
 円盾の防護の効果。中では時間が流れないこと。つまり今ミストやドールやティカがいる、この場所では、いくら待っても夜になって朝が来るということはないということ。
「ふうん?」
 残念そうにミストは言った。ミストなりにティカの説明を受け入れたようだった。
「なあ、だからおれ、こっちから朝を探しに一緒にいってやるよっ!」
 がしっとミストの両手をつかむ。
 びっくりしてミストは赤い両目でティカを見つめた。
「おれだけじゃねーぞ。皆一緒にさ。シュシュ兄もピュアもダルもさっ!」
「しゅしゅ……ぴゅあ……でも」
 うんうん、とティカはミストの手を振り回す。
「知ってるよ。シュシュ兄たちのこと、閉じ込めちゃったんだよな。でもいいよ、ドールの奴に命令されてやったんだからしょうがないよな。そのかわり、おれ、ドールは許さないけど!」
「……ゆるす?」
「ああ! ミストは悪くない。悪いのは、ドールだッ!」
 にかっとティカは笑った。故郷では父によく似ている、と言われた笑顔だった。
 アダマス改め、ドールが悪い奴。悪い神官。《魔獣》を利用しようとしたか、利用している奴。
 ティカの推理には、必ず悪人がいてはっきりしている。
 そしてティカ自身はミストのことを、ミスティルティン――つまり《魔獣》の12分の1なのだろうと理解していた。カッサンドラが消えた時に解放された力の一部。赤い目をしているし、火の力を帯びているらしいこともあてはまる。
「だから、ドールの言うことなんか聞くなよ! そんでおれの仲間たち、助けてやってほしいんだ。ミストならできるんじゃねーのか?」
「……できるかな」
「よしやってみようっ! 仲間んとこに行こうぜ! そんで試してみればいいさ、駄目だったらまた別の方法を考えればいいんだし、ミストのこと、皆にも紹介しなくちゃいけないしなー」
 ティカは《魔獣》に同情的だった。人間の勝手な都合で封印されるだの切り刻まれるだの、許されてはならないと思う。悪い神官ドールに騙された可哀想なミストを助け出しさえすれば、あとは悪い神官を皆でやっつけるだけで任務完了だ。
 そう言って軽々とティカは結晶から飛び降りる。ミストの手を引いて、小走りに結晶柱の立ち並ぶほうへ急ぐ。子分を従えているようでちょっと気分がよかった。
「てぃか?」
「おうっ!」
 嬉しそうにティカは返事した。
「朝がこないんだったら、わたし、なんのために生まれたのかな?」
 ティカは足を留めた。
「なんのため? さあな。そんなの初めから知ってる人間のほうが少ねーんだ」
 そう答えたものの、少し不安は残る。
 シュシュ兄だったら、ダルだったら何と答えたんだろう……?
 疑問を振り払うように、ミストを連れてエディアールたちの元へ行く。
 結果的にはミストが何かするわけでもなく、結晶柱は皆壊されて、仲間たちも無事戻ってきたのだった。
 ただひとり、パーピュアを除いては。

■Scene:神の歯車(5)

 アダマスとルドールのやりとりをリュートの背後で耳にしながら周囲を見渡していたカイン。彼は、ラムリュアがミルドレッドの霊と交感した際に、幼い声でミルドレッドが漏らしたという言葉の片鱗――はなして、つれていかないで……――を思い出していた。
 ミルドレッドは、ルドールの娘ではないか? カインは直感的にそう感じた。
 おかしいところはない。ミルドレッドは24歳、見た目こそルドールは若く見えるがアダマスより年上ということだから、むしろ計算が合う。
 ならばなぜルドールは、記憶を失った娘を《学院》に連れて行ったのだろう。そして今になって彼女を呼び寄せた真意とは?
「盾父ルドール」
 カインはここぞと微笑を浮かべ、ルドールに問うた。
「ミスティルテインを解放するには、あと何が足りないのでしょうか?」
 カインはこう考えていた。キノコ岩の内部に仲間が取り込まれたこと、あるいは火蜥蜴の召喚によって、封印されていたミスティルテインの12分の1がそれぞれ活性化するに至った今、自ら為すべきは、自分の意思に従うこと。
 ラムリュアが告げたとおり、自分の意思に従い行動するときが来たのだ。
 ミスティルテインは善悪で語ることのできない存在。人と異なる神話時代の存在。
 ならば……これこそが、カインの求め続けてきた、神代へと続く糸の端であった。掴み取らねばならない。逃してはならない。
 枯れた花輪を、咲き誇る花輪になしうるかどうか、それはカインにはわからないことだった。ただ神が与えてくれた機会に、いずれの花輪であれ、手に翳し、頭に載せるだけ。
「ミスティルテインを解放する?」
 ルドールが尋ね返す。カインはうなずいた。
「そうです。《魔獣》ミスティルテイン、《大陸》に危機をもたらす存在にして、無限の魔力を供給できる存在でもある」
 ミルドレッドの説を思い出しながらカインは言った。
「円盾の防護はもう役目を終えたのでは有りませんか? 次なる魔力の供給はどのようになさるのですか? ミスティルテインは解放されつつあります。まだそれは不完全なものですけれど、ミスティルテインの復活は、彼のまったき怒りを伴うでしょう。彼は……人間に対して非常に怒りを抱いています」
「おまえは……カインと言ったか」
 ルドールはじっとカインの服装や、その胸の聖印を見つめた。内心カインはおののいた。
「弟子を取ったとはな、盾父アダマス。カイン君の信仰は《痛みの剣》ではないようだな。《愁いの砦》か、あるいは《涙の盾》の信徒か?」
「……いずれも私の愛する神々。どれか一柱にのみ祈りを捧げることはありません」
 カインは答えた。
 アダマスはカインを弟子と言われ眉をひくつかせたのみである。
「そっちも弟子か? リュート君」
「とんでもない」
 リュートは両手で否定した。
「僕は神さまだとかそういう抹香臭いのはちょっと。面白くもなんともないですね。そんなことよりも僕はあなたの目的に興味がある」
 たいした弟子だ、と呟いたのはアダマス。無論リュートも弟子になった覚えはない。
「俺の目的を聞いてどうする」
「そりゃもちろん、手伝うんですよ」
 しれっとリュートは答えた。
「場合によっては……放蕩息子君」
 アダマスが口を挟む。
「調査隊任務への報酬を考え直すことになるかもしれんが、それでもいいかね?」
 暗に、元々の目的に沿わぬことをするつもりなら、それなりの覚悟をしろと問うているのだ。
「面白いことが僕の報酬なんです」
「たいした弟子だな、盾父アダマス」
 くっくっとルドールは笑った。
「弟子自慢に来たのではありませんがね」
 面白くもない顔をしているアダマス。
「……神の助けとはお前のことだったようだ、盾父アダマス」
「手伝わせていただけるのですね、盾父ルドール」
 カインはそっと聖衣の袖をたくしあげた。
「背負ってもらおう、これで俺も荷が下りる」
「何だと?」
 一同が見つめる中、壁の一部に二羽の鳥を描いた紋章が浮かび上がる。
「《朝告げる鳥》」
 そう言ったルドールの口調は、どこか小馬鹿にしたような雰囲気が混じっていた。
「《大陸》に朝をもたらすんだよ、この場所から新しい時代が始まるのさ」
「正気か?」
 アダマスはうんざりした様子で言った。
「夢でも見とるんじゃないか? 盾父ルドール、ご入用とあらば目が覚めるような一発をすぐにでも用意できますがね」
「夢? 神官ならば誰もが夢見るだろう、目前にまばゆく輝く神の姿を確かめられる瞬間を! 違うかね?」
 カインは大きくうなずいていた。
「神は細部に宿る」
 アダマスは言った。《砂百合の谷》で語った台詞であった。
「たとえ神々がもはや《大陸》に戻ってくることがなかろうとも……蛍を宿す砂百合のように、夜の帳が七色に空を塗り替えて行くように、そのすべてが神の遺物だ。私は日毎、神に触れている。それのどこが不満なのだ?」
「待たねばならんところが、だ」
 吐き捨てるルドール。
「……与えられることに慣れすぎたな、ルドール」
 アダマスは哀れみを込めたまなざしを、年若い男の姿をしたルドールに送った。
「朝を呼ぶ。自ら。《涙の盾》に降臨を願う。そのための準備は整っている。あとはその器に足る存在がここに来て……」
 壁に記された鳥の紋章が、青白く強い光を放った。
 その光に照らされて、中央の結晶柱の中にふたつの椅子が浮かび上がる。
「悪趣味だな」
「なぜです? ただの豪華な椅子にしか見えませんけど」
 リュートの問いに、アダマスは顎をしゃくって答えた。
「統一王朝の玉座。聖地アストラに、あれと同じものがある」
「ふたつあるのですか? 玉座は」
「そんなわけあるか。統一王はひとりだけだ」
「ところが《朝告げる鳥》としては、ふたつ必要なのだよ、盾父アダマス」
 ルドールはそう言って、ぽいと何かを放り投げた。
 カインとリュートがそれぞれ受け取る。鳥の紋章を穿たれた鍵であった。
「こ、これは」
 手の中の鍵とルドールの顔を見比べ、カインは弾んだ声で尋ねた。
「これを用いれば、神との対面が可能だとおっしゃるのですか、盾父ルドール?」
 手が震えた。
 思わぬところで、思わぬ事態になった。鍵を使えば神が降臨する……本当だろうか? しかし空席は二つ。ふたりの人間を連れてこなければならない。
「へえ」
 リュートは指先で鍵をつまみあげた。
「でも何で、僕らにくれるのさ?」
 ルドールは曖昧に笑ったまま答えなかった。
「神を降臨させる装置だと? そのようなこと。見過ごすわけにはいかんな」
 アダマスはぎりと歯噛みしてルドールを睨みつける。
「盾父アダマス。それが君の悪いところだ。君はいつも選ばせてから叱るのだからな」

■Scene:神の歯車(6)

 結晶柱から脱出したすぐ後のこと。構造物の間に何者かが動いた気配を感じて、ラージは身構えた。
 目に留まったのは少年。
 そして、やや離れた場所に佇む白い豹だ。
 少年は、見知った顔に再会できた喜びの表情を隠さず、両手をばたばたと動かす。
「乱暴はしないでよ! ラージでしょ?」
「君は……孤児院の」
 ラージは少年の名を思い出そうとする。
「クレドだよ! ねえってば……あっ、もしかして忘れちゃったのか。シュシュやフートみたいに」
「……いい。ちょっと思い出してきたよ」
 ラージは軽く頭を振った。
「無事だったんだね。皆君を心配してるよ。アダマスさんも」
 白い豹はその会話に耳をそばだてているかのようだった。逃げるでもなく、ラージに近づくでもない。
 ただ結晶の陰で四肢を伸ばしている。
「うんそうだよね……ごめん。リュシアンにもまた怒られちゃうな。ごめんね」
 クレドは束の間頭を垂れ神妙そうにしていたものの、すぐに面を上げてラージをまっすぐ見据えた。
「聞いて、ラージ」
と、白い豹を指さす。
 やはり、豹は動かない。よくできた彫像のように胸を張り、クレドとラージを見つめている。
 わずかに尾と髭先だけがゆらゆらと動いていた。
「カッサンドラなんだ」
「え」
 思わず妙な声を挙げるラージ。
「カッサンドラさんだって?」
 ラージは自分に宛てた手紙を強く握りしめた。カッサンドラ。思い出した。僕が探している相手の名。
 そして目の前にいる白い豹。
「カッサンドラが助けてくれたんだよ、あの大きな木が壊れてしまった時にも」
 ラージは目を丸くして、クレドがカッサンドラだと言い張る豹を見つめるのみだ。
「どうしてそんなことが分かったんだい? それに……それにもしそうだとしたら、アダマスさんに伝えなくちゃ」
 カッサンドラも記憶を失っているのだろうか?
 シュシュやフートよりも先にここへ連れ去られているのだから、その可能性は高い。
「だめなんだ……オヤジじゃだめなんだって」
 少年が首を横に振る。
 白い豹は初めて身じろぎした。一歩。二歩。わずかに少年のほうへと歩み寄るそぶり。
「クレド、君は豹の言葉がわかるのかい」
「……そんな気がするだけだ」
 クレドはもうほとんど泣き出しそうになっていた。
 少年の気持ちをラージは汲み取った。巨木を傷つけ崩壊させたこと、自分を庇ってくれた豹、仲間に対する罪悪感、そしてラージとの再会……一度に起きたさまざまな出来事がクレドの中から溢れてしまっているのだった。
「ありがとうっていったんだ……助けてくれたから。そしたら……なんだか、カッサンドラの声が聞こえた気がした」
「何て?」
 一歩。二歩。
 ラージもそっと、豹へ近づいた。豹は首を持ち上げたのみで、逃げなかった。
「……見捨てたりしたらオヤジが悲しむ……って」
 ラージは納得した。それこそカッサンドラがいかにも言いそうな台詞であった。
「カッサンドラ……さん。一緒に来てよ。アダマスさんが待ってる」
 白豹の口元がわずかに開いた。ちらと牙が覗く。クレドは何かを聞いたようだった。
「だめなんだって」
「どうして?」
 ラージはもどかしく思った。白豹に姿を変えたカッサンドラ。拙くけれども懸命に通訳を試みるクレド。彼女に何が起こったのだろう? そしてクレドにも。謎が多すぎる。手を伸ばしてつかもうとすればするほど、謎は無数に分裂していくように思えた。
 真実に僕は近づけているのだろうか?
「同じ人間とは続けて契約できない……どういうこと? カッサンドラ? 契約? もうオヤジのところに戻らないってこと?」
 白豹は、そっとうなずいていた。
 その琥珀色の瞳に見つめられ、ラージもカッサンドラの声を聞いた。
『人間とはどのような存在なのかしら。退屈しのぎを追いかけ続ける、そのほかに。人間とは? その定義を、教えてください』
 ラージはゆっくりと瞬きした。
「ラージ、どうしよう。ねえ、どうしたらいいの」
「貴女は……貴女が《魔獣》なの? カッサンドラさん……」
 人間ではない。
 豹に変じたのではない。
 元が人ならぬ者であったのだ。
 琥珀の瞳がふたつ、瞬きもせずラージの答えを待っていた。
『人間とは? その定義を教えてくださるまで、お側に。ラージ殿』






第6章へ続く


1.胸の炎 2.彼我 3.神の歯車 マスターより

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