第7章|邂逅抱擁解放落涙契約満天の星マスターより

邂逅

全ては運命だと思いますか、それとも偶然ですか?


 万極星は、空に浮かべられた牢獄だった。
 《悪しき魔女》を封じた三柱の兄弟神ハースニール、ドゥルフィーヌ、ガラハドは、しかし魔女の番犬の奸計によって千年の間、閉じこめられることになる。魔女の力を後世に残し、その復活にそなえるために創りだされた《星見の民》たちはそれを知らず、ただ番犬を《父なる者》と呼びならわしてひっそりと暮らしていた。

 グリューンは目覚めるやいなや、たらし狼の行方を追った。その行動が手に取るようにわかる。頭痛と引き換えのこの力も、今ほど重宝すると思ったことはなかった。苦しみに耐えながら、仲間たちの元に這うようにして近づいていく。アインがなにやらわめいているが、それも彼の耳には聞こえない。手には、しっかりと銀色の髪束を握りしめていた。
「ちくしょう、あきらめてたまるか……っ!」
 ぜってぇ、ツェットもクロードも、助け出してやる。俺一人の力は……悔しいけど、ほんのわずかしかないけれど。そんでも、大切な仲間のため、ツェットのために、できることがあるはずだから。
「くそっ、だからこんな頭痛になんか、負けねぇ! 絶対!」

「サーチェスもいかなくちゃ……」
 小さな踊り子の、ピンクのポニーテールがふわりと揺れる。彼女にはまだグリューンの苦しみはわからなかった。わからないことだらけだ、とサーチェスは思う。ぞくぞくと悪寒が走った。星の力が弱まっているのを感じる。
 パレステロスを振り返った。サーチェスの魔法によって傷は回復している彼も、別の意味で苦しそうであった。
「ツェットおねぇちゃんたち、おとーさんと一緒に行っちゃった。どうして? 一緒に行っちゃいけないの? おとーさん、いいひとだよね。サーチェスには優しかったもんね」
「あいつは、自分のことしか考えていない。父だなんて名ばかりの」
 パレスの言葉にサーチェスはぶんぶんと首を振る。
「違うよきっと、おとーさんにはおとーさんの理由があるんだよ」
「だからって俺たちを利用していいのか、あいつはディリシエはそそのかしたんだ。騙された俺も大馬鹿だったけれど。ラステルを守るふりをして……ハースを殺させて……」
 パレスはぞくりと身を震わせ、両手で顔を覆う。
「万極星が墜ちて、俺たちには何が残る?」
 パレスの褐色の肌を彩っていた朱印は、鮮やかさを失いつつあった。

 サーチェスは、きっと顔をあげた。
「いっしょにくるか? っておとーさん、言ってた」
 長い衣をひるがえし、グリューンの後を追う。軽やかに、砂を巻き上げず風になったように。そして、得意の魔法をまたグリューンとパレスにかけた。
「ヒーリングスマイル★ グリューンおにいちゃん、大丈夫? パレスおにいちゃん、まだ苦しい?」
「ああ、だいぶ楽になったさ」
「……平気だ」
 パレスはそう答えたものの、グリューンが見る限り彼の苦痛は増しているようだった。サーチェスの魔法ではなく、朱印が薄れてゆくことによるものなのだろう。見かねて、こっそり耳打ちする。
「仲間に薬屋がいるんだ。妙な特技をいろいろ持ってるやつだから、きっとあんたの身体も治せるよ」
 サーチェスは誰にともなく、問いかける。
「たいりくにいくって、悪いことなの? おとーさん、たいりくで悪いことしちゃうのかな」
 彼らは答えられない。グリューンは、アインをサーチェスの腕に委ねてただ走り出す。

 彼らが《聖地》にやってきたとき、魔女の器候補にされてしまった3人はまだ眠りの中にあった。
「ツェット! クロード、それにグリーンさんまで」
「グリーンおねぇちゃん!?」
 グリューンはすかさず仲間たちに駆け寄る。
「ツェット、ツェット、起きてくれよ、大丈夫かよっ。頼むから、目を覚ましてくれよ」
 銀狼がぎろりと少年をにらんだ。グリューンは気がつかないふりをして、ツェットに声をかけ続けた。
「なぁ、ホントは起きてるんじゃないのか? お願いだ、ツェット……」
 健やかな寝息は、少しずつ乱れ始めている。

 ファーン・スカイレイクはアゼルが立てたテントから一歩踏みだし、巨大な銀狼に立ち向かった。自分の予想が確かなら、聖地の封印を完全に解くことができるかもしれない。そのためには何とかして、眠っているツェットを起こさねばならなかった。硝子玉のような瞳が、ぎろりと詩人をにらむ。けれどもファーンは怖くはなかった。自分の背丈ほどもある足を見ても、不思議と、なぎ倒されて死ぬ気はしなかったのだ。
 銀狼の知性を意識して、彼は朗々と声を張り上げた。
「聞こえていますか、狼さん。貴方は人を利用する。そう、それはわからなくもないです。目の前に使えそうなものがあったら、使いたくなりますものね。ただね、自分の欲は棚に上げて、そういうことを偉そうに言えるのかな、と思いますよ。僕は」
 硝子玉は何も映していないかのように、微動だにしない。
「貴方のように人の願いや気持ちを道具に使っていれば、そりゃあ便利でしょう。ねぇ、なんだって貴方は《父なる者》だなんて名乗ったのです? 本当に《星見の民》のみなさんを導き、守る存在であるならば、貴方のその振る舞いはどうなんですか。契約の結果でなく、より自分に都合のいい形で《金色の姫》が復活するために動き回っていたようにしか見えませんが」
『あなどってはいかんと言いたいのか、《大陸の民》よ?』
「何言ってんですか。僕はただ……そうです。僕はただ、貴方に、言って欲しかったんだ」
 ファーンはがくりと首を垂れる。脳裏に浮かぶ、《獣の姫》ディリシエ。
 彼女は救われるのだろうか?
 もしかして一言、銀狼が彼女に言葉をかけていれば、あるいは。

「ミダスおとーさん、サーチェス……いっしょにいきたいの」
 サーチェスは悪寒に身を震わせながら、銀狼に言った。
 ファーンにはそれは、生きたいと聞こえた。

『ウォォォォォォォン』
 狼は咆哮をあげた。魔女がどの身体を手に入れるか見届けるつもりが、そうもいかなくなったのは。
「俺が相手だよ」
 怒気をはらんだ低い声。ダグザだった。グレートアックスを銀狼の足元めがけてふるう。生え初めの下生えがえぐれて、緑のじゅうたんに穴をあけた。銀狼はそれを飛びすさってかわす。ダグザはそのまま倒れている仲間たちをかばう位置に移動し、静かに銀狼を見上げた。
「ダグザおじちゃん……おとーさん……」
『ウォォォォォォン!』
 サーチェスの小さな声は、銀狼の怒りの咆哮にかき消される。ごめんな嬢ちゃん、とダグザが呟いた。

 グリーンとクロードの胸が激しく上下している。ツェットにつきっきりのグリューンにかわり、フィーナはふたりの間をぬってその様子を見守っていた。
「ああ、神さま……ドゥルフィーヌさま、どうか癒しの祈りを聞き届けてくださいですぅ」
 腕を組んで聖印を捧げ持ち、祈るフィーナ。彼女には、解放された魔女の存在がひしひしと感じられた。聖印の金の鍵がわずかに温かくなる。そうだ、ドゥルフィーヌさまはすぐそばにいる。その兄弟も近くにいるはずなのだ。
 魔女の存在は苦しいほどにフィーナの心を圧迫した。正面からこの存在に立ち向かわねばならないグリーンやクロード、ツェットはどんなに辛いだろう。できることなら代わってあげたかった。自分もあの儀式の時、《万極星の神殿》で力を注がれたのだから。
「あの時もドゥルフィーヌさまが、守ってくださいました……だから」
 ダグザと対峙している銀狼が位置を変えたのをきっかけに、彼女はそっと駆けだした。
「神さまたちの武器、あれさえお返しすればきっと」
 フィーナはグリーンの隣にある盾をかかえる。続いて大剣にも手を伸ばした。

「んん」
 グリーンの身じろぎに、フィーナははっと振り返る。歌姫が目を開けた。片手を大剣にかけたまま、グリーンはゆっくりとフィーナのほうに顔を向けた。完全に目覚めたわけではなく、白昼夢を見ているようなまなざし。
「盾はグリーンさんに貸したんですから、返してくださいねぇ?」
 いつもほわわんとしているフィーナには珍しく、妙に凄みのある声で一言断りをいれる。
「ああ、それは……ですの」
 グリーンの声は弱々しい。彼女の瞳は、フィーナのはるか向こうをとらえているようだ。
「ダメだ……グリーン、そんなの……」
 クロードがうわごとのように呟いている。グリューンもツェットの唇からもれるささやきを聞き取ろうと、耳を近づけた。
「強すぎる……力、まだまだ……フィナーレ……」
「ツェット、おい、ツェットってば!」

 フィーナはゆっくりと大剣をひっぱった。グリーンの手には鞘が残る。フィーナは抜き身の剣をひきずり、盾をかかえてアイリが消えた場所へ向かった。ひとつだけならば軽いが、剣と盾両方を持つと、歩くのがやっとというくらい、その武具は重かった。
「お願いです神さま、ドゥルフィーヌさまとその兄弟神さま、これであいつを……イェティカちゃんたちを苦しめるあいつを、やっつけてください……」

 外界と隔てられた、聖地の中では。
「なるほどねえ」
 ずず、とお茶をすすって、兄弟神の末弟ガラハドはアイリに微笑んだ。聖地で神々とお茶するなど、もちろんアイリの本意ではない。神々と直談判できる機会は、とてつもなく貴重なものだ。それが自分の研究を大きく進展させるであろうことは間違いない。だが、すべてはここから出られたら、の話。下側にだけフレームのある眼鏡をかけなおして、アイリはつくづくとこのお間抜けな状況を鑑みた。
「なるほどじゃないよ、まったく! なんだってこんなことになっちまったんだろ」
「だからミダスがね」
「それはもう聞いたっ」
 ガラハドのテンポは、激しくアイリとずれていた。このまま連中といっしょにいたら、自分もこうなってしまうに違いない。アイリの気が滅入る。
「えーい、ここから出しなさい、出せってば! ちょっとあんた、どうにかなんないのかい!」
 外の様子をうかがっていた長兄の胸元をとっつかまえてアイリが迫る。迫られたハースニールは首を横に振った。黄金の鍵で開いた扉は半透明の障壁に遮られていた。外の出来事はおぼろげに見えるが、向こう側から中が見えるかどうかは疑わしかった。彼女をつきとばした銀髪の男の姿は、今はない。
「うう、私には何もできないのかっ!? ちょっと銀髪! どこにいったんだよっ」
 がつんと手甲で障壁を殴りつけるが、吸い込まれるような感触でちっとも手応えがない。
「力じゃ無理だ、やめておけ。ミダスは外にいる。ここからじゃ届かないぞ」
 背の高い長兄が、上からひょいとアイリの手首をひねりあげた。
「あんたらも! そんなのんびりしてないで少しは足掻いたらどうだい。魔女が外にでちまったんだよ、野放しにしてちゃマズイだろうが!」
 まあまあ、とガラハドが広げた両手を蹴るようにアイリがもがく。こんなところで足止めされていることに、彼女は耐えられなかった。彼女がいるべき場所は、神話時代ではなく今の世界なのだ。神話の登場人物になどなりたくもない。

 これまでの成果である研究ノートを繰りながら、アイリはため息混じりに呟いた。
「騙されたよほんとに。名前を呼べば、あんたらが地上に戻ってくるんだとばっかり思っていたさ! 封印を解くだけじゃ何も変わらないじゃないか、手の込んだことしやがって」
 ぎらりとガラハドをにらみつける。
「どっちかというと魔女が蘇って、悪い方向に向かってるかな」
 その視線に《涙の盾》はのんびりと応えた。怒り心頭のアイリに、ノート見せてよ、と手をのばす。
「へぇぇ、やるねぇ、こんなことまで調べてるんだ。そうそう、懐かしいなあ」
「この研究だって私が外に出られないなら、意味なんてないだろうよ!……このまんま、魔女が《大陸》にでちまったらどうするんだい」
「……そうならないために、キミたちが頑張るんだよ?」
「どっ、どこの世界に人間に頼る神がいるんだあっ!」
 アイリがばん、と壁を殴りつけた。通路から外をうかがっていたドゥルフィーヌとハースニールも、彼女の剣幕に振り返る。ガラハドは涼しい顔だ。
「今の状態……魔女の精神だけが解放され、僕たちが閉じこめられたままの状態は、ミダスにとって最も望ましい状況だ。魔女が無事身体を手に入れ、その力を取り戻すことさえできればいいん だからね。僕たちもここからじゃ、直接干渉はできないんだよ。でもキミたちならできる。外の人間なら。魔女に身体を奪われないように抵抗すればいいんだ」
「クロードだのツェットだの、小さい子たちにゃずいぶんと酷な話じゃないか? それも冒険者の覚悟のうちって言われりゃ、返す言葉もないけれどさ。でも、それで《星見の民》はどうなるんだ? 目覚めた魔女に力を奪われた後は一体」
「どうして、ほしいの?」
 ドゥルフィーヌは鋭いまなざしを向ける。

 にこにこと微笑みながら、ガラハドはページをめくった。
「ラフィナーレがもしも戦争の種をあんなに蒔かなかったら、きっと今の《大陸》は、全然違う歴史をたどっていただろうね」
「そんなこと言うな。歴史に《もしも》はないんだ。私たちの今いるこの《大陸》だけが、ただ一つだけ、確固として存在を許されている足場なんだ。たとえどんなに」
 ガラハドの手から、大切な研究ノートを取り返す。
「……どんなに、選ばれなかった世界が輝いていても」
「安心しろ」
 上から降りかかってきたのは、ハースニールの声だった。
「出番だ。魔女を討ち取り、あるべき姿に砂を返そう。私たちは賭けに勝ったのだ」
 長兄の手には、あの大剣が握られていた。忘れもしない、グリーンに奪われた例の武具。
まばゆい光が満ち、扉が外側に向かって開かれる。輝く靄の中にアイリが見たのは、小柄な少女神官と長身の魔導師、そしてターバンをといた年若い貿易商人の姿だった。

 ざあ、と風が外側に吹き抜けていった。神々が、その手元に戻った武具を携えて出陣したのだ。

 アゼル・アーシェアはもう迷ってはいなかった。全部を終わらせるのに一番手っ取り早い方法は、魔女を倒すことなのだ。ならば、自分が聖地の中に入ろう。そう決めていた。
「俺ひとりじゃ、3兄弟を全員解放することはできないかもしれない。でも俺が中に入って、1柱でも外に出られるなら……魔女の足止めにはなりますよねえ」
 ベースキャンプにしていたテントを振り返った。吟遊詩人と繰術士が、なにやら相談している。倒れている巡礼、返り血を浴びているジャン。ダグザとパレステロスは銀狼と戦い続けている。
 今だ。タイミングを見極めてアゼルは駆けだした。
『ウォォォォォォォ!』
「うわぁっ」
 銀狼の咆哮が、空気をつんざいた。とっさにアゼルは防護のルーンを描く。
「《より強くより固く、ルーンの守りを》」
 戦士たちの鎧が魔法の熱を帯び、ほのかに輝いた。彼らがやや優勢であるようだが、パレスは辛そうだ。
「すみませんねえ、もう少しだけ待っててください。俺、神さまを呼んできますからね」
 さらに幻術のルーンを重ねがけして、自分の身を隠すように、アゼルは扉に向かった。

「さあ出てきてください、俺が中に入りますからねー!」
 景気づけに大声でそう呼ばわってから、アゼルはアイリが差しっぱなしにした、金色の鍵を勢いよく回した。
「学者をかじっていても、こういう時にはなーんにも思いつかないんだよね……ってツェットさんにも、よくからかわれましたっけねぇ。俺ももうちょっと、応用がきけばよかったんですけど!」
 誰にいうわけでもない魔導師のひとりごとは、扉の向こう側からの力の奔流に、半ばかき消されていった。

 フィーナにとって、その一瞬は何にも代え難い至福のひとときだった。彼女はたしかに、自分の胸の聖印が喜びに震え、涼やかな音を立てて主なる女神への目通りを祝福したのだと思った。
彼女はただ無我夢中で、銀狼が回収させた武具を神さまの元に返そうとしたのだった。なんとか銀狼の足元から大剣と盾をひきずり、隕石の奥に投げ込もうとした……そのとき、扉の奥に進もうとしたアゼルが鍵を回し、扉を開いたのだ。フィーナ自身は中に入るつもりはなかったが、引き潮のように吸い込まれてしまっていた。

 光の靄が満ちる通路で、彼女はおずおずと武具を差し出した。すぐ側でうなっているはずの銀狼の怒りも、仲間たちの剣戟も、ここには届かなかった。偉大なる存在は、実際よりもはるかに大きく見えた。びっくりするくらい大きな音をたてているフィーナの心臓は、はりさけんばかりだった。

 《痛みの剣》は少女の前で膝をかがめ、あの重たい剣を軽々と手に取った。次に《涙の盾》が面頬をあげてフィーナに挨拶し、盾を受け取った。最後に《愁いの砦》なる女神が登場し、フィーナの小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「よく耐えました。愛しい子」
 女神の陽光色の髪は、とてもいいにおいがした。
「魔女は何をしたんですか?」
 フィーナはわだかまっていた疑問を口にする。イェティカのこと。《金色の姫》のこと。《悪しき魔女》のこと。自分の信仰のありかた、村の人たちの願い、自分の願い、そういうものをひっくるめての問いだった。光の通路の数歩先で、女神の兄弟たちがシルエットとなって、対話を見守っている。

 すっと身をひいてドゥルフィーヌは答えた。
「あれは、芽吹くのが早すぎた種。喜びが満ちるより先に、悲しみを知ってしまった。だから狩らねばならないの」
「早すぎた?」
「《大陸の民》が持つ内なる力は、時満ちてこそ使われるべき力だった。その力の名前は欲望、変化を求め、高みを求め、そして血と腐敗をもたらした」
「よくぼう……」
 口を開けたまま、フィーナは《愁いの砦》を見上げる。ちりり、と胸の聖印が揺れた。
「《大陸の民》には、みんなその力があったのですか?」
「今もあるわ、だからこそ魔女は器に《大陸の民》を選ぶ。あの犬めには、別の目論見があったようだけどもね。だからこそ犬は獣の王となる。さあ、愛しい子よ、やがて《大陸》は新たな時代を迎えるでしょう。変化を求め、高みを求めなさい。けれども血と腐敗に堕すことなきよう。螺旋の上を目指しなさい。伝える言葉はこれだけです」
 ドゥルフィーヌの姿は、兄弟たちのシルエットとひとつになった。
「待って……神さまたちはお戻りになるの……?」

 神々が再度歴史の表に出ることに、フィーナは密かに怖れを抱いていた。これまでの旅でも、聖地アストラでの教義ですらいくつもの異端を生み出していることを知った。これでさらに、本物の神々が大々的に降臨しようものなら、さらに争いが生まれかねない。それも、フィーナのまだ見ぬ宗教戦争というかたちで。
 その問いのいらえは、フィーナの脳裏にだけ返ってきた。
「同じ姿で戻ることはない。私たちの時代はすでに終わったのだから。けれど私たちの名前は蘇り、奇跡はより強くもたらされ、やがて大いなるきざはしの礎をつくるだろう……」

 その言葉が消えるともに、フィーナの手に突如、一冊の書物が出現した。
「新しき時代の、ふくいん」
 金色の飾り文字で彩られたその書物は、女神からの贈り物だった。流麗な文字は古代神聖語に似ていたけれど、すらすらとフィーナにも読むことができた。これを読み進めていけば、神々の時代に何が起き、これから何をなすべきかが、わかるのだろう。
「ありがとうございますぅ」
 フィーナの目からぽろりと二筋の涙がこぼれおちた。すべては、望むように行えるのですね……?
 聖地の中に残された少女は、ただ両手を組み、輝かしい後ろ姿を祈りをこめて見送った。

「ごめん、ツェット……俺、馬鹿だからツェットを助ける方法、これしか考えつかなかったんだ。いつかツェットを追い越すくらいの背になって、そんで、俺の……お、お嫁さんになってください、って言いたかったんだけど。なんか、また年の差が開いちゃいそうだよな」
 悲しみにくれて聖地の前に立つグリューン。周囲に光の靄が満ち、あたたかな風と薫香に包まれ、《痛みの剣》その人が姿を見せた。背後に弟妹を従えて、深紅のマントに身を包んだ《痛みの剣》は、片膝をついてグリューンと向かい合う。
「おまえか? 私を呼んだのは」
「あなたですか、《痛みの剣》」
「そうだ、私の名前はハースニール。すべてを切り裂く剣はここに」
 長身の男は大剣を、とん、と地についた。グリューンにも地響きに似た衝撃が走った。
「俺……あの子を助けたい。魔女が入り込もうとしてるんだ。お願いです、魔女をやっつけてください。俺なんでもする。あなたのかわりに、聖地の中に入るから!」

 ハースニールは口の端を薄く持ち上げた。
「私と取引するつもりか?」
 そのさまに、グリューンはびくりとする。たらし狼や、ディリシエの闇とはまた異質の、大きな深淵をのぞき込むような気持ちだった。
「勘違いするな、少年。私はあの犬とは違う」
 《痛みの剣》は立ち上がり、マントをひるがえした。グリューンの視界が一瞬深紅に染まる。
「ただ、おまえのために剣をふるおう」
 そう言い残し、《痛みの剣》は少年の脇を通り過ぎていく。付き従う弟妹を見送り、グリューンは自分が聖地の中にいることに気づいた。
「……勘違いって? でも、剣をふるうって言ってくれたよな……」
 今は遠くなってしまった外界に目をやる。ツェットとは隔てられてしまったけれど。
「これでよかったんだ。きっと……あの人たちが、ちゃんとやってくれる」
 手に残されたのは、銀髪の束。

「あんたたち、どーしてここに!?」
 白衣のポケットに手をつっこんだアイリが、新たにやってきた3人を出迎える。
 フィーナとグリューンは半ば呆然として、アゼルは弁解するような苦笑で、アイリに対面した。
「いや、俺は一人だけで来ようと思ってたんですけど。3人同時に聖地の前にいて」
「フィーナ、武器をお返ししたら、神さまたちが内側から聖地の封印を破ることができると思ったんですう」
「俺、ただ仲間が魔女にのっとられるなんてイヤだったんだ」
 いっせいに口を開いた仲間たちをアイリが制して、
「ストップ! あののんきな神さま連中は行っちまったよ。で、ここから出るにはどうしたらいいんだ?」
「それは……」
 顔を見合わせる3人である。
「お? お嬢ちゃん、その本はどうしたんだい」
 フィーナの手にした書物に目をとめたアイリは、素早く題名を読みとった。
「福音書……? 兄弟神のものか? ……書物、《契約の書》……」
 何かが彼女の中でひっかかっている。武器を取り戻した兄弟神のことだから、よもや番犬ミダスに敗北したりはしないだろうが、本当に、番犬を倒せばこの封印は解けるのだろうか。ぱらぱらと、ページをめくる。真新しい紙の匂いが、妙に懐かしく思われた。
「《大陸の民》へのメッセージか。神さまの直筆だし、研究対象としてはかなり使えるが、今すぐに役に立つかっていうとなぁ」
 アイリはがくりと肩を落とした。
「それでアイリさん、何かわかりました? 神さまたちと話す機会があったんでしょ? 俺にも教えてくださいよ」
 ぽんぽんとアゼルに背をたたかれながら、アイリが思うのは、案外ガラハドとアゼルは似ているかもしれないということだった。
「……みんな、ばかだね」
「え? 何か言いましたか」
「いや」
 そろいもそろって、閉じこめられたがるなんてね。大した仲間たちじゃないか?

契約に続く


第7章|邂逅抱擁解放落涙契約満天の星マスターより