第7章|邂逅抱擁解放落涙契約満天の星マスターより

落涙

傷ついたのは、生きたからである。


 《星見の里》は上を下への大騒ぎになっていた。イェティカ初のおこもりの晩に、狙いすましたかのように異変が相次いだのだ。行方不明になって以来、《星見の民》の口の端には決してのぼることのなかった331代目の《星見の姫》、ディリシエの凶行。そして彼女の手にかかった里長と《剣》アンジー。冒険者たちが守りを固めていただけに、イェティカもラステルも無傷ではあったが、その心には深い陰が生まれていた。イェティカは内心の動揺を必死に押し隠していたが、周りの冒険者たちにはそれが痛いように伝わった。
「あたしの力なんて、欲しかったらいくらでもあげたのにね」
 ぽつりとイェティカが呟いた。いつも彼女の護衛をしていたクロードも、母親のように慈しんでくれたグリーンも、今はいない。
「イェティカの力は、イェティカだけのものだよ。差し出したからって実になるものじゃない」
 アーネスト・ガムラントが声をかけた。内心彼は後悔していた。あの時ディリシエを取り逃がさなければ、里長たちは無事だったかもしれないのだ。《星見》の返礼を尽くす前に、酷いことになってしまったのは、自分の責でもある。
 だが今は、悔いるよりも姉妹を守ろう。
 アーネストはラステルたちに向き直り、ディリシエを追うと伝えた。

「私も行きます」
「だめです! 貴女たちがいたら、また格好の的になってしまう」
 アーネストは、これ以上ディリシエに過ちを犯してほしくなかった。救われぬ心をせめて、終わらせてやりたい。終わらせることはきっとできる。けれども決着をつけるということは、ディリシエに死をもたらすかもしれない。その場にラステルたちが居合わせたら?
「姉はイェティカを狙っていました」
「だからといって貴女を危険にはさらせませんよ」
 そしてイェティカに聞こえないようにささやいた。
「……ディリシエは、イェティカのことを知らないのでしょうね」
 一夜の偽りの果てに生まれた、ディリシエとパレステロスの子ども、それがイェティカだと、彼女は気づいているのだろうか? 知っているならば、悲しすぎる。でも知らないならば、それは……。
 ラステルはかぶりを振った。
「知らないと思います。知っていたなら、真っ先にいのちを奪ったでしょうから。姉の中にあるのは、《星見の姫》に対する憎しみですもの」
「里長は、かつての《星見の姫》であったがために……?」
 アーネストの言葉にうなずくラステル。

 姉妹は結局彼らに同行した。残る《星見の民》たちは全員、塔もしくは《白羊の集会所》に集められた。
「ディリシエの話題で持ちきりだったよ」
 《星見の民》の誘導から戻ってきたルーファ・シルバーライニングが言う。
「ガガとバクちゃんが、彼女を追っていったらしい。銀狼が聖地にいるから、そっちに向かったんじゃないかって」
「追うぞ!」
 シウス・ヴァルスが吠えた。

 小山のようなシルエットが、砂漠にひときわ大きい影をつくっていた。ガガとその横に付き従う砂漠狼、そして血にまみれた白いローブとベールをひきずる《獣の姫》という奇妙な3人は、言葉もなく歩いていた。ガガは何も尋ねなかった。行き先がどこであれ、自分はディリシエについていく。そう決めていたのである。

 里長たちが死んだ。とても悲しい。もっと自分が早くあの場にいればあるいは。
でも。……ディリシエも悲しんでる。「獣」に支配されていて、自分を失っていたのかもしれない。何も考えられなかったからかもしれない。どんな理由であっても、悲しんでいる彼女を……見捨てることなどできない。助けてあげたい。力になりたい。
 ガガは、その感情の名前を知らなかった。

 ディリシエの足がつともつれ、砂地に転びそうになった。急いでガガは手を添える。ディリシエの足はもはや完全に、狼のそれのように銀色の体毛に覆われ、歩くことすら難しそうだった。差し伸べられたガガの手を借りて、ディリシエは起きあがる。金色の巻き毛の間から角が見えた。ガガの無骨な手に乗せられた細い指先も、少しずつ、爪が固く伸びてきているのが分かった。
「ディリシエは、ガガの、こと、怖い?」
 突然発せられた問いに、ディリシエは振り向いた。青白く美しい肌が月光に照らされる。
「……いいえ」
 巨人を見上げ、小首をかしげて彼の全身を眺めた後、ディリシエは静かに答えた。
「バクちゃん、怖いか」
「いいえ、怖くありませんわ」
 砂漠狼の鋭い牙と爪が、月光を反射した。
「ガガ、ディリシエ、怖くないぞ」
 ディリシエの瞳が伏せられ、逸らされた。
「ディリシエ! 姿を理由に、あき……あきらめ、ないで。外側は、いれものだ」
 ガガに背を向けてディリシエはまた歩き出す。砂漠狼が、彼女を見上げてついてゆく。ガガはその後ろから、彼女の心を溶かそうとし続けた。
「前に進む、だいじ。獣に、負けないで。ディリシエ、強い。ガガは、ディリシエの、強いこと、知ってる」
 どうか心の弱さに負けないで。獣にとりこまれないで。そしてとりこまれたとしても、それは姿が変わっただけ、ディリシエの心は、何も変わることがない。どうか気づいてほしい。姿を理由に前に進まないのは、言い訳で、本当のディリシエはもっと強いはず。

「里長、ディリシエ、頼むと、言った」
「里長の話なんてしないでください!」
「里長、うらんでない。きっと」
「お願い、やめて……違うの、父上……ああ、苦しい。苦しいですわ」
 左肩を押さえたディリシエは、また足をもつれさせる。

「お父さん、早く! きっとあっちよ。」
 目をこらしてジェニー・クロイツェルは棒杖をのばし、砂漠の一点を指し示した。
 らくだを駆るバードは、急いで方向を変える。親子はディリシエの元へ向かっていた。今はもう、里を出てしまったのだろうか。だとしたら、パレスがいる聖地へ向かっているだろうか。
「お父さん、アイリさん大丈夫かしら?」
「さあな! あんだけノートに書き付けてた分、質問がつきるまで出てこないんじゃないか?」
「まさか、出てこないことなんてないわよね」
 ジェニーが少し心配そうだ。
「あたし、アイリさんに教わりたいなって思ってたの。どうやったらあんなに上手く、アゼルさんやダグザさんをあごで使うことができるのかしら?」
「……」
「じょーだんよ、お父さん」
「……」
 まさか《星見》の一件、バレてはいないよなぁ。恐々とするバードである。

「ボクも連れてってよね、おじさん!」
 ひらりとトリア・マークライニーが後ろにまたがった。
「ディリシエさんとこに行くんでしょ? ボクも行く」
 トリアはきっと口をむすび、バードの背にしっかりつかまると操術の糸を準備した。ディリシエ相手に使いたくはないが、用心のためだ。
「おじさん! 欲望って、何かなあ」
「え!? 何だって?」
「……なんでもないよ!」
 難しいことは分からない。でも、大切なものを守りたいのは誰だって、同じなんじゃないだろうか。兄弟子だった人の事を考える。力があったり、なかったり、どっちだって人は悩み、迷うのだろう。
 けれど大きすぎる力は身を滅ぼすことを、身をもってトリアは知っている。

「封印をといてしまって、これからどうなるのかしら」
「一旦イェティカちゃんとおねーさんのところへいこう。《獣の姫》はイェティカちゃんたちを狙うと思うんだ」
「うん、そうね、ちょっと引っかかるところはあるけど」
 ジェニーは、父親がラステルを気にしているのが面白くないらしい。
「神さまや魔女の戦いが始まるというのなら、何が起こるか分からないからな」
「ディリシエさんはどうして、イェティカちゃんを狙うのかしら」
「ボク、《星見》の力が強いからだと思うよ」
 トリアは巡礼が持っていた《契約の書》を読破していた。あまり思い出したくないような、一方的な内容のものであったのだが……《大陸》で聖地とされているアストラで、あんな写本がつくられていたとは考えたくない。でもその本では、時が来れば《星見の民》はその力を魔女にささげるということになっていたのだ。
「最後の《星見の姫》、ねぇ」
「ボク別にいいと思うんだけどね。最後だって、決めなくてもさ。また子どもも生まれるかもしんないし」

 聖地からほど近い場所。ディリシエはうずくまり、断続的に襲ってくるけいれんに、身を震わせていた。
「ガガ!」
 ディリシエを追ってきたアーネスト、シウス、ルーファ。そして逆の方角からきたバード、ジェニー、トリア。彼らは一定の距離を保ったまま、ディリシエを囲む。
声をかけられた巨人は、
「前に、進んで……」
そっとディリシエに声をかけ、ゆっくり立ち上がって仲間たちと対峙した。その中にラステルとイェティカの姿を認めて、ガガは大きく息をついた。

 3人は、会わなければならなかったのだ。
 出会えば戦いが起きるかもしれない。でも、それはさせない。ディリシエにとっては彼らやパレスに会うことこそが、闇を払う方法だと、ガガは思った。

「……おめでたいですわね、ラステル。自分から出向いていらしたの」
 うつむいたまま、ディリシエが言った。ガガが首を横に振る。違うだろうディリシエ、貴女の言いたいことは、そうじゃないはずだ。
 ドン! ズザザザッ!
 重たい破裂音と、砂漠の砂が流れ落ちる音が四方ではじけた。
「だめだ、ディリシエ!」
 ガガは叫ぶ。砂漠狼が身を低く伏せた。
 巨人よりもはるかに大きい《夜魔》が、砂中から出現したのだ。砂漠のしじまを破り、4体同時に苦悶の咆哮をあげる。
 だが。
 出現したそばから、それらの足元の砂は、ぐずぐずととろけるように崩れさる。まるで粘液質の海でもがいているように、《夜魔》の足はさらさら音を立てて沈んでいった。

「ねぇ、ディリシエさん。貴女の大切なものはなに? あなたが護りたかったのはなに?」
 らくだからひらりと飛び降り、トリアは言う。どことなく、見知らぬ母の面影を追いながら。
「その力を、貴女が本当に大切にしているもののために使って」
 ディリシエは唇を噛んで、長いかぎ爪に変質した両手を見る。

 アーネストは心羅を抜くと、かぎ爪を振りかぶった《夜魔》の一体に突き立てた。頭上から砂が降り注ぐ。それを刀さばきでよけた。
 シウスが一歩踏み出す。彼のロンパイアは下げられたままだった。
「俺にも昔、好きな奴がいたよ。初恋だよ、結局伝えられなかったがね。こちらに振り向いてくれるかということに、俺は自信がなかったんだ。だから伝えられなかった」
 ディリシエはうつろなまなざしを戦士に向けた。
「俺でもその時、心を振り向かせられる力があったら、使ったかもしれない」
 《夜魔》の一体が崩れ落ちる。
「その機会が与えられたか、そうでなかったか。俺とおまえの違いはただそれだけだよ。おまえは、俺の路地裏での選択を知っているな? 俺が、一生かけてあの時の選択の是非を問うつもりだということも。だが、おまえは、そうはしようとしていないだろう」

「なんであんたはすぐにあきらめるんだ? 終わりにしよう、なんて考えずに、これから始めようと考えればいいじゃないか」
バードが愛娘をらくだから下ろし、その肩を抱いて言う。
「全部いっぺんに解決できることなんてないさ。誰だって。俺だって。一歩一歩解決すればいいんじゃないのか? そうすれば、きっと」
 5体目の《夜魔》が砂中から持ち上がり、見る間に溶けた。ジェニーが砂をよけてバードにしがみついた。イェティカも同じように、ラステルにしがみついていた。膝ががくがく震えている。
「うまくいくんじゃないか。俺、あんたにはその力はあると思うぜ」

 ルーファはディリシエの変貌を、ありのままに受け止めた。彼女を刺したとき、ルーファを襲った憎悪と悲しみを思い出す。
 きっとディリシエは苦しいから、人の心の隙間をつき、同じ思いを味わわせることができたんだ。
「このあいだは思い出させてくれて……ありがとう」
 ルーファはディリシエに歩み寄った。うつむく彼女の髪に触れ、角に触れる。なんだよ、別に姿かたちなんていいじゃないか。大事なのは、その人がその人であることなんだから。
 眉をつりあげたディリシエに、ルーファは笑顔を返した。
「何を驚いてるの? 貴女が思い出させてくれたから、俺はあのことから目をそらさずに決着をつけることができたんだよ」
 領主の跡取りアルとの思い出は、幼い記憶だった。今はもう大丈夫。胸を張ってアルに会える。

 さらさらと《夜魔》が形を失っていく。
 ルーファの笑顔は、かわいらしい少女のそれであった。
「俺にできることを、精一杯やろうと思う。今までもそうしてきたつもりだったけど、これからも、今以上にね。《星見の民》も《大陸の民》も関係ない。……ディリシエさん、かつて貴女がそうだったように、ううん今もなのかな。ひとりの男性を大事に思う女性として、俺は貴女を応援するし、助けてみせるよ!」
 ディリシエが繰り出す攻撃を身体で止めて、ルーファはそう言い切った。ディリシエの攻撃にはちっとも力がこもっていなかった。ガガはそんなふたりをそっと引き離す。ルーファは続けた。
「ディリシエさん、貴女はいまこうやって生きているんだ。ラステルもイェティカも、そしてパレスも。なのにすべて消して終わりにする? 甘ったれるのもいいかげんにしろよっ! そんな楽な方法に逃げるな、それは貴女の本当にしたいことでは……欲することではないはずだっ!!」
 ガガの太い腕に引き離されながら叫ぶ。真横に《夜魔》が出現した。ルーファは怖くなかった。小剣を握って構える。しかしガガが身を挺して《夜魔》の一撃からルーファをかばった。

「ガガ」
 その言葉は、ディリシエの唇から洩れたものだった。
「ディリシエ、殺す、もうだめ」
 続く二撃目を腹で受け止め、ガガは必死に訴える。傷からは血がしたたった。残る2体がラステルたちに襲いかかりそうになるのを、アーネストとシウスが両側から切り裂いた。

「おまえは楽なほうへ逃げようとしているのさ!」
 シウスが低く、けれどもよく通る声で言う。
「なぜ、他の選択肢を見ようとしない。いくらでも選択肢はあるのだぞ! 目の前に無数の道があるのに、おまえは最も自分が傷つかず、最も安寧な道に逃げようとする。それは選ぶとは言わんのだ。四肢がなくなろうとも何があろうとも、俺ならばそんなことはしない!」
 ロンパイアに魔力を宿らせ、刃をふるう。彼の胸に、旧友の姿が蘇る。
「イェティカは貴女には殺せない。その力すら奪えない」
 アーネストが呼吸を乱さず、姉妹の間に立った。ディリシエが放った砂の砲弾を心羅が切り裂いた。
「貴女は、それを望んでいないから。貴女は、その子の母親なのだから」

 すべてが静まりかえった。

 トリアはうらやましかった。だってイェティカには、家族がそろっているのだから。普段は師匠とともに旅の空、寂しくなんかないトリアだが……親子一緒に暮らせる状況があって、努力すればそれは叶う。なのに、そうしていない3人。
 ルーファはただ目を見開いて、ガガが痛みに耐えても自分とディリシエをかばっているのを見ていた。
 バードは胸が苦しくなった。ジェニーの本来の姿のことを思うと、ディリシエのことを他人事とは思えなかった。

 ラステルは何もいわず、ただイェティカの側にたたずんでいた。その目はディリシエを責めるものではなかった。
 イェティカがひとこと呟いた。
「おかあさん?」

 ディリシエの長く鋭い爪が、おそらく彼女がそうと気づかぬうちに、自分の首筋に動いていた。
「だめだ!」
 ガガがディリシエの両手をつかんで離した。ディリシエがはっとガガの瞳を見上げる。
 3体の《夜魔》が動きを止めた。

 そのとき、聖地から輝かしい光の雨が降り注いだ。美しい軌跡を描く数え切れないほどのそれは、降臨した兄弟神の放った矢。《夜魔》は巨躯に無数に矢を受け、砂に還った。
 金色の鏃が音もなく、ディリシエの白い喉を貫通する。
 ガガは自分の心臓も止まった、と思った。目の前が真っ暗に変わる。ガガの腕の中でディリシエは身体をこわばらせ、力を失っていった。
「ウガアアアアアア!」
 ガガの咆哮がこだまする。巨人の双眸から、大粒の涙がいくつもぽろぽろとディリシエの髪に落ちた。側の砂漠狼に、最初で最後のお願いをする。
「バクちゃん、ディリシエ、運ぶ……パレスのもとへ……」

 イェティカがすとんと砂に腰を落とした。ぶるんと一回身を震わせる。銀色の体毛が、わずかに宙に舞った。

契約へ続く


第7章|邂逅抱擁解放落涙契約満天の星マスターより