第7章|承前|多重の岐路|花咲ける庭|受け継がれたもの|薔薇色の道|優しい歌|マスターより|
承前
■Scene:地下闘技場〜柔らかな踏絵
地下迷宮に、風が吹き過ぎていく。淀んだ歴史の上に、新しい流れが生まれている。
「大丈夫かね」
イリス=レイドが片膝をつき、手を差し伸べる。エレインは、つんと顔をあげて立ち上がった。喉元には透けるような赤い筋がついている。ハルハの切先がつけた傷だ。イリスはそれを痛々しげに見つめた。彼女を傷つけたのは、自分が手ずからつくりあげた剣だった。
「すまん。割り込んでしまって」
「いいのよ」
エレインは肩をすくめると、その首筋に指をはわせた。手のひらを返してみるが、赤い血に濡れている場所はない。それとも見えないだけかしら、もしも血の色が透明だったら。そんなことを考える。
「結果的には無事でよかったのだが」
「だから、いいの」
エレインは手近な石に座る。イリスも隣に腰をおろした。
「……ランドニクスの紋章」
その言葉を発した時のエレインの形相は、ハルハとの対峙で見せたそれよりすさまじかった。
「ランドニクス?」
「あたしの見間違いなんかじゃないわよね、イリスさん」
尋ねられたイリスは、その語気の鋭さにどうしたものかと考えあぐねたまま、鷹揚にうなずく。
脳裏に浮かんだのは、どこか飄々とした青年の姿だった。小麦色の肌に艶かしく輝く、銀色の右腕……。その篭手が人の手によるものではないことを、鍛冶屋の勘が告げていた。
「ランドニクスの紋章入りの封筒。会長たちに帝国の処分が下りることを告げる工作かしら。ねえ、さっきまではそんなもの、あの部屋にはなかったわ」
少女の拳は震えていた。
「だから! だったらあたし許せない。許すわけにはいかないのよ!」
理由を問うイリスに、エレインはその怒りをあらわにした。
「何故って? あたしの大好きな、優しい、賢い、世界一の父さまに、酷い酷い仕打ちをしたからよ!」
あれはまだ、彼女が家出をする前のこと。病弱な王子殿下は、毎夜の往診を侍医であるエレインの父に強いていた。後から話を聞いてみれば、どうやら侍医のほうが必要以上に王子の体調を気遣ったものらしかったが、幼いエレインにとって、彼女の父を独り占めする王子はしばしばえもいわれぬ感情の対象となった。
そしてある晩。せめて着がえだけでもしてあげよう。疲れが出たのか、診療所の椅子で泥のように眠る父の姿に、娘らしくそんなことを思ったエレインは、何気なく父の黒衣に手をかけた。
その肌に生々しく残るランドニクスの紋章を見たとき、少女は何も考えられなくなった。その夜は眠れずに、紋章の存在をひたすら考えて過ごしたことを鮮明に覚えている。爛れた焼き印の跡。反逆を示す左胸の逆さ文字。そのほか無数に刻まれた、たくさんの傷跡。多少の医療知識が、余計にその傷の意味するところをエレインにしろしめた。
「父さまが何をしたのかは、あたしは知らないし、父さまも言おうとはしなかった。でも、ひどいじゃない。あんまりでしょう。だから、相手がランドニクスの紋章を自由に使える立場の人間ならあたし」
菫色の炎が、イリスを射抜く。
「側にはいられない。力も借りられない。そう思ってるのよ」
「それはまた痛ましい……」
「だから説明して! イリスさん、どうして? あなたはランドニクスの人間なの?」
今度は本当に、イリスもたまげて口を開いただけだった。
あー、うう、と幾度かうめいた後、ようやくイリスは気がついた。ランドニクスの封筒を準備していたのは、あの青年である。ああ、合点がいった。彼女が苦しんでいるのは、自分のせいではない……同郷というだけで、あの気のいい青年が恨まれるのはまったく申し訳ないことではあるが。
「ニクスだよ。ランドニクスの人間は」
エレインがきょとんとする番である。
怒りで膨れた風船が、見る見るうちにしぼんでいくのが分かった。その様子を少し面白く思い、心の中でニクスに詫びるイリスであった。
■Scene:街角〜はるかなる呼び声
格闘家カリーマ・ルアンは、頭を働かせるのが苦手だった。だから、自分がなぜセイエスを探しているのかも分からなかった。自分ではその理由を分かっていたつもりだったけれど、果たして自分は自分の思い通りに動いているのだろうか、という疑問には答えを出せなかった。
「あ、いた!」
活気を取り戻したミゼルドの人ごみの中で、ハルの巨躯は目に付いた。その赤毛から少し下を探すと、セイエスの人の良さそうな顔はすぐに見つかった。
カリーマが手を伸ばす。ぐい、とセイエスの白衣をつかむと、先にハルのほうが彼女に気づいた。
「ハルさん! あ、あたしハルさんにもお話したいことがあったんだっ」
「……赤毛の熊のことだったら」
正体を告げるのが遅れた詫びを口の端にのぼせるハルだが、
「ううううん違う違う。ていうかうーん、そのことでもあるんだけどっ。えっとあのその」
カリーマは自分の三つ編み頭を、ぽかぽかと叩いて言葉を探し、
「嬉しかったんだ!」
と叫んだ。
とっちらかっているカリーマが落ち着きを取り戻すころには、通りの先に中央広場が見えてきた。壮麗かつ悪趣味な評議舎を取り囲む彫像たちが、今日も変わらずこの街を見下ろしている。その向かいにある神殿は、もう少し近づかなければ見えてこない。
「獣人さんがもうひとりいたんだーって。そう思ったら嬉しかった。えへ、《大陸》って広いようで狭いのね」
「カリーマさんも?」
セイエスが目を丸くする。
「あは。血、薄いけどね。でも流れてるよ」
お父さんのほうの血と、お母さんのほうの名前。カリーマは自分の胸に手をあてた。
「俺の曾祖父が熊の獣人だった。両親も、祖父母の代にも出なかったのにな。俺が10歳の時だった。突然その血が目覚めたんだ」
家族以外に語ることのなかった話を、ハルはしていた。ミゼルドの雑踏の中は、故郷の小さな村とは違う。行き過ぎる人々はただの通行人にすぎず、耳をそばだて騒ぎ立てるような者はいない。ここでは誰も彼も、自分のことで手一杯なのだ。
「ハルさんにも両親がいたんだね」
「木の又から生まれたとでもいうつもりか」
「違う違う。ホラハルさんってあんまり自分の話しないからー」
かすかに青年が眉をしかめたのを見て、カリーマはたいした意味じゃないと慌てて付け加えた。
「別に。故郷の話なんてするほどのもんでもなかったし」
実際のところ、獣人の血が現れてからの日々は、まだ幼い少年には辛く長い時間だった。未知の力を恐れる人間が集団となったとき、それは子どもどうしのいじめから、蔑視へと変わる。
「ええっ、そお? 減るものじゃないし、うーん。聞きたいんだけどなあ」
誰もがカリーマやセイエスのように、そして姿を消したリヴのように、他者を思いやり自分は前に進もうとしているならば、幼いハルは孤独ではなかったかもしれない。いまさら詮ない思いではあるけれども、それでも自分もそうやって、少しずつ大人になっていく。子どものころに出会えなかった人たちと、今、出会っている。
「まあ、そのうちにな」
セイエスはと見ると、どっちについたものか考えあぐねたのか、中途半端な笑いを貼り付けていいる。
「うん。もしかしたらご先祖どうし知り合いだったかもしれないしね」
その言葉には、ハルもああ、と短く応じた。
■Scene:神殿〜もうひとつの鍵
セレンディアがしたこと。ロジオン先生がしたこと。
その話を聞いた時、こみ上げてきたのは、何という感情だったのだろう。
ハルハはご先祖のことを知っているようだった。秘密の名前ムーンローズのことを。もしかしたらご先祖も、ラフィオの仔犬のように狙われていたのかもしれない。……《大陸》の希少種。
目をあげると、セイエスの頼りなげな所作が目に入る。
そうだ。《大陸》で生きている自分は、自分だけ。そう考えれば誰もが唯一の存在で……そうすると、今を生きる自分はハルハに何ができるだろう。
「セイエス」
「はい、カリーマさん」
振り向いた青年の胸元に、金色の輝きを認めてカリーマは顔をあげた。
「あのね、あたしいっぱい考えすぎて今ものすごーくぐるぐるしてる。頭パンクしそう。だからあたしの言ってることや、やろうとしてることをどう思うか教えて」
セイエスの視線が、彼女を案じるものに変わる。この前もこんな感じだったのかしら、とカリーマは考え、また言葉を続ける。
「あたしはセレンディアやロジオンさんを許せない。彼女のことが好きだから、ロジオンさんがいい人なんだってわかるから。だからなおさら……たとえ正しいことをしたんだとしても、許せないわ。あっ! 間違っても、『女神もお許しにならないでしょう』とかそういうのが聞きたいんじゃないからっ」
はい、とセイエスは神妙な顔でうなずいた。
「でもね、ハルハをどうこうするってのも違うというか。一番悪いのはハルハなんだけど、ハルハが人に大迷惑かけるのは、もうイヤなんだけど」
でも、ハルハを殺したりしたくはない。セレンディアがしたことを無駄にはしたくない。マンドラゴラたちを助けたい。
でも、ミゼルも助けたい。カリーマは悩んでいた。
神官はうつむくと首に両手を回し、聖印を外した。細い鎖につながれた金色の鍵が、するりとカリーマの手の中へ滑り落ちた。
「女神さまもお許しにならない、とさっきまで思っていたのは本当ですが……」
セイエスの顔が、少しだけ頼れそうに見えた。カリーマは嬉しかった。
「カリーマさんは、金の鍵の意味をご存知ですか」
「《愁いの砦》さまの聖印のこと? わかんない。何の鍵?」
指に鎖を絡めながら、小さな鍵と、セイエスの顔とを見比べる。彼の口が開かないので、仕方なくカリーマは、あれこれ想像をめぐらせた。
「みんなが《薔薇の鍵》を探してる。でも白い薔薇の扉には、鍵穴はどこにもなかったんだって。《愁いの砦》の女神さまの鍵は、どの鍵穴にあわせてつくられているの? どこを開くための鍵なの?」
「これは僕が作ったんです。だから少しゆがんでる」
受け取ってよくよく見てみると、確かに意外と不器用な造りをしている。
「戦乱の時代、三柱の兄弟神は《大陸》のために戦いました。長兄と末弟は剣と盾を持ち戦場を駆け、その間人心のよすがとなったのが女神の砦といわれています」
「じゃあこれってその砦の鍵なの?」
「という説もあります」
なあんだ、とカリーマは首をぐるりとめぐらせた。結局のところは分からないというわけなのか。
「でも僕はこう思います。女神の砦なら、万人に開かれていたはず。ミゼルド神殿が、夜中であっても祈る人を拒まないように。だからこの鍵が示しているのは、閉ざされた扉の存在ではなく、開け放たれている事実なのだと思いたいのです」
「え……っと? ごめん、限界」
「セレンディアさんやロジオンさん、そして《風霜の茨》ミゼルさんが選んだ方法。犠牲のうえの救い。でも僕は女神さまじゃないからこそ、他の方法を探したい。そう思います」
今度はカリーマにも分かった。
よく言った。セイエスの背中に一発ばしんと叩き、立ち上がる。
よかった、ひとりじゃない。間違ってないみたい。もし結果が間違いでも平気。そう思うと清々しかった。
1.多重の岐路 へ続く

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