第7章|承前多重の岐路花咲ける庭受け継がれたもの薔薇色の道優しい歌マスターより

3.受け継がれたもの

■Scene:地下墓所〜女神の御座


 《風霜の茨》の墓所には、何もなかった。墓碑の代わりに、数段高い場所に断頭台がぽつんとあるだけで、他には何もない。茫漠とした空気はねっとりと重苦しく旅人たちに絡みつく。白い薔薇に閉ざされた黒い扉の先に広がるのは、そんな光景だった。

(ハルハ、教えて。ここが、貴方の大切な場所なの?)
 マンドラゴラの歌姫ソラが、精霊遣いライ・レーエンベルクに手を引かれやってくる。悲しい旋律を歌い上げるソラをそっと押し留め、導いたのは彼だった。ライは特別何かをしたわけではない。ただ、彼女を連れてきた。と言うよりも、ソラが来たいと思っていたからついてきた、と言った方が正しいかもしれない。
 ソラの呼びかけに、ハルハは振り向き立ち上がる。
 ライの手を握るソラが、ほんの少し力をこめたのがわかる。
「ん……」
 ライが見上げても、空はなかった。風もなく、大地もない。精霊の視点を通してあたりを見ることに慣れていたライには、ここは異質な場所だった。
「薔薇?」
 目に付いたのは、赤い薔薇。血の滴るような赤を誇る、大輪の薔薇だ。しばらく考えてから、その薔薇が人の身体から咲いていることに気がついた。
「別に大切じゃないさ、ソラ」
(……嘘)
 そうだ、もっと言っちゃえよ。ライは手を握り返す。あの薔薇は、どうしてあんなに赤いんだろう。それよりも……歌が聞こえてくる。精霊たちの歌が。
「嘘じゃないよ」
 ハルハが大きく腕を広げた。ゆっくりと目を閉じ、唇には薄笑いを浮かべ、舞台の上で気取る時のように。
(わかるの。嘘よ。だって一度つながったんだもの。そうじゃないことぐらい、すぐにわかる)
 マンドラゴラ相手に嘘はつけないんだっけ。だったらハルハも、意外と馬鹿だ。ライは視線をハルハに戻した。そういえば、ハルハは赤い薔薇だって聞いた。薔薇の精霊の歌、もしかしてハルハも歌うのだろうか。
(どうして。ねえ、ハルハ)
 ソラの心が伝える言葉が、小さくもごもごと消えていく。ソラの心が届かない。ハルハが表情を変えない。

 スイが音もなく進み出た。その優雅な所作を見て、ライは何故かひどく同様した。手をつないでいたソラが、思わずライの顔をうかがうほどに。
「スイ?」
 小さくライが呟く。マンドラゴラたちのようにつややかな黒髪が、ライの目の前で、ゆるりと白衣の背に流れる。ふとそれが翼のように見えて、ライはもう一度瞬いた。
「白い肌に、赤い血は良く映えますねえ」
 スイは戯れ言めいた言葉をもてあそびながら、するすると断頭台へ近づいていく。その足取りは優雅なワルツを踊っているかに見える。
「これぞ真の赤色ですねぇ。いやはや、とてもとても美しい色だと思うんですけれど……濃すぎれば、狂気の色になる」
 すべてを見知ったような顔つきに、スイは加えてゆるい笑みを浮かべた。
「狂気って、ご存知です? ハルハさんのことですよ」
 ハルハはただ鼻を鳴らす。相手に構わずスイは続けた。
「どうして戻ってきたんです。貴方の言葉を聞いていると、その必要はまるでなさそうなのに。どうしてまた、ミゼルさんの元へ戻ってきたんでしょうねぇ?」
 また数歩、スイの足が踊った。断頭台の女性の髪に触れ、スイは優しく梳る。
「それに触れるな」
「おや」
 くすりと笑い、スイが指先をかざした。白い指にいくつもの掻き傷がついていた。うっすらと血が滲む。《風霜の茨》に絡みついた薔薇が、彼を刺したのだった。
「何故触れられたくないのか教えてあげましょうか」
 いじわるをするつもりではなかった。《風霜の茨》の髪に手を戻しながら、スイは悲しんでいた。
「惚れてたんですか?」
「違う、僕は」
「いまわの際の想いを受けて、最後の言葉を聞いて、そうして咲いたのが貴方なのでしょう?」
 ハルハには慰めが必要なのだ。長い間孤独を埋められなかった彼のかわりに、スイは思案した。枝葉を取り除いてしまえば、スイにとってハルハは、女に振られたひとりの男にすぎなかった。しかも、振られた理由が分からぬままに、いまだ彼女は自分のものだと思い込んでいる。まったくもって、たちが悪かった。
「だったらそれが、惚れてたってことでしょう。だって貴方の中で、ミゼルさんの居場所はとても大きいんですからねえ」
 黒い扇子で、ミゼルにささやかな風を送る。
「長い時間かけたって、《大陸》中を探し回ったって、貴方のやり方じゃいつまでたっても見つからないんですよ。《薔薇の鍵》は」
「何だと、スイエルディ」
「探しものっていうのはね。探すのをやめた時に見つかるものなんですよ。どこにいっても見つからないのなら、ここにいて考えればいいじゃないですか。彼女の顔をちゃんと見て、彼女を思い出して……」
 そうしてよく見てみれば、どんなにこの砦が淋しい場所なのか、分かるはずでしょう。
 薔薇の刺がつけた掻き傷までも、スイは美しいと思った。

■Scene:地下墓所〜無私の誠実


「赤でも白でもない、何も映さない色が存在するのね」
 ブリジット・チャロナーが呟いて仰ぎ見た頭上は、無彩色にくすんでいる。物悲しい気持ちになるのは何故だろうか。
「ミゼルさん、いるのかしら。千年以上前に亡くなったはずなのに、まだ身体が残っているんだもの。もしかして……」
 淡い期待に、佇む旅人たちを手招いた。呼ばれていると思わなかったライは、きょとんとしたままブリジットに首をかしげた。カリーマ・ルアンがぱたぱたと駆けてくる。
「ねえ。どう思う? やっぱりこの場所は、守られていたのかも。もしかしたら《愁いの砦》に」
(うれいの……?)
「うん、女神さま。セイエスさんとかイオさんだったら、分かるのかなあ」
「んー」
 ライは生返事を返す。
「そっか。そうなのかあ」
 カリーマも天を仰いでみた。目に見えるものがすべてではないというけれど、神さまっぽいものは映らなかった。
「神さまって、もっと遠くにいるんだと思ってた」
「今はね。千年前なら、兄弟神もまだ《大陸》にいたんだもの。もっとその距離は近かったんだと思う」
 一部ロマンを織り交ぜて、ブリジットは言った。
「それにミゼルさんは《風霜の茨》として敬われてるけど、元々は女神さまじゃなく、人間だったのよね。だったら……」
 ブリジットは考え続けていた。ハルハが《薔薇の鍵》を見つけることができないのは、どうしてなのか。
 空虚な墓所は、本当なら人々の想いが咲き乱れる庭園だったのかもしれない。奴隷の身分であったミゼルが愛した、丘の上の庭園のように。
「《薔薇の鍵》、たぶんスイの言うとおりなの。ハルハさんの探し方じゃ、きっと絶対に見つからないのよ」
「んー……じゃあ。それ、見つけられる?」
 ライの問いに、ブリジットは片目をつぶって見せた。
「もちろん。ミゼルさんに聞けばいいのよ」
 カリーマは袖を捲り上げる。胸が熱い。
 背を押してくれたのは、セイエスだけじゃなかった、自分は間違ってなかったんだ。

■Scene:地下迷宮〜ふたりでひとつ


『……ふむふむ、僕が寝ている間にそんな事があったとはっ』
「大事な場面は、そんなに見逃してないから、安心しなよ」
『そう? じゃあさっそくその春巻きをやっつけに行く?』
「春巻きじゃなくて、ハルハだよ。知ってるだろ? 団長だよ」
 そんな会話を交わしながら、元気一杯で復活した仔犬のノヴァと、その友人であるところのラフィオ・アルバトロイヤは、地下通路を急ぐ。
 あたりに光が満ちてきたのは、きっと仲間たちが何か状況を変えたからに違いない。そう信じてラフィオは黒い扉の先を目指した。
 ハルハはミゼルの墓所にいるはずだった。そこしか帰るところがないはずだった。
『ねえねえ、ハルハ団長を見つけたら、僕のブレスでぶわあーっと』
「しないよ」
 ええーっと心底残念そうに、ノヴァは悲鳴に似た声をあげる。
『しないの? ホントに? じゃあ、アレ? こうラフィオが、平手でばっちーんって真っ赤になるまで』
「しないってば」
 ラフィオの答え方も、割と適当になっている。ノヴァとの再会を泣いて喜んだのも束の間、長いつきあいの呼吸はすぐによみがえった。相方ならではの受け答えも、ラフィオにとっては嬉しいひとときだ。時に、テンションが高すぎるのが難点であったけれども。
『なんでなんで? 春巻きをぶっとばしに行くんだと思ってたよ!』
「だってそんなやり方じゃ、あの人、きっと納得しないだろ」
 ラフィオは一連のハルハのやり口を思い返す。
「ただ力押しじゃだめだと思うんだ」
 じゃあどうするの、と仔犬はラフィオの顔を覗き込んだ。
「……どうしてハルハ団長は、仲間を探そうとしたんだと思う?」
 呟くラフィオの行く先に、開かれた扉が見えた。
『わかんないよそんなの。ひとりぼっちだったからとかじゃないのー?』
 問いの答えは、ハルハに尋ねてみるしかない。何がハルハをそうさせたのか、理由を知れば、ハルハの行動を理解できるだろうか。ノヴァを攫われ、辛い思いを味わわされた相手であっても。
『あれだね。まずは他の人の邪魔にならないように、しよう!』
 珍しく、ノヴァの返答がまともであった。
『だからラフィオ。今度食べに行きたいなぁ〜……ホラあの、お肉食い放題のさぁ、牧場があったじゃない。どこだっけー』
「《霜降谷》のこと? ……考えておくよ」
『やったー』
 足元で喜ぶ仔犬の姿に、ラフィオの頬がほころんだ。楽天的なノヴァの存在が、これまで以上に大切に思えた。
 そうすると、僕はノヴァの存在に救われていることになるんだろうか。そうすると……ハルハがノヴァを返してくれたということは。
『ようし行くぞー!』
 僕はハルハに、救われたことになるのだろうか?

■Scene:地下墓所〜影と光


 エルフィリア・レオニスは、辿り着いた扉の先を目にして涙した。
「ハルハさん……ミゼルさん……」
 ぞくり。背筋が冷える感覚に、少女は両手で自身を抱きしめた。その姿は、《風霜の茨》の神像にとてもよく似ていた。黒い灯台に導かれるように、エルフィリアは断頭台へ歩み寄る。
「お待ちったら。エルフィ!」
 メルダ・ガジェットとルドルフが、どこかふらつく足取りのエルフィリアを追う。自分をかえりみないところのある魔術師のことを、メルダはとても心配していた。
「無茶するなっていってんのに、そういうお年頃なのかねぇ」
 独りごちるメルダだが、彼女自身、折れた腕を応急処置しただけの格好で、とるものもとりあえずここまで来たのである。少しずつ、麻痺していた腕の感覚が戻りはじめる。むず痒さはすぐに激痛へ変わるだろう。でも痛いくらいじゃ人間死なない、とメルダは開き直った。
 何も感じない借り物みたいな腕よりも、痛みだけでも感じる腕のほうがいい。生きていることがわかるから。そう考えた後、痛みで命を量るなんて乱暴すぎるだろうかとふと思う。去来するのは、夫の顔だった。
「う……。か、げ……」
 傍らのルドルフがくぐもった声をあげた。はっとメルダが顔をあげると、出現した黒い影を全身にまとわりつかせているエルフィリアが見える。ルドルフはいつでも飛びかかることのできる体勢で、身を上下に揺らしていた。居場所を得た彼の目に宿る光は、理性だ。エルフィリアやメルダ、そして駆けてきたカリーマを守ることを、ルドルフは決めていた。

「教えてください、《茨の民》よ。わたしたちはここまで辿り着きました……」
『おおお、おおおおおお』
 エルフィリアの呼びかけに、空虚と見えた場所のあちこちから染み出すように影が寄り集まってきた。
『救いを。お慈悲を……』
『安らかなる眠りを……』
 《風霜の茨》を、断頭台から解放しなくては。影に包まれたエルフィリアの手足が冷える。だが、断頭台に近づくにつれて、焼けつく熱さまでもが彼女を襲った。
「熱い……これは、ミゼルさんの感じた炎の熱さなの……?」
 《風霜の茨》は縛られ両目を潰されて、炎の中で最期を迎えたのか。エルフィリアは震えながらも足を進める。手を前に伸ばし、断頭台に触れようとする。炎に包まれたなら、彼女の遺体はもっと無惨な姿をさらしているはずだと考えながら。
「触れるな」
「きゃ!」 
 語気荒いハルハがつかつかと歩み寄り、伸ばしたエルフィリアの腕をひねりあげた。途端に、少女のまとっていた影たちが四方へ散る。《茨の民》はハルハを恐れているようだった。
「ハルハ!」
 メルダが叫ぶと同時に、ルドルフが猛突進する。ハルハが顔をしかめた。少女の手を離してかわそうとするが、かわしきれない。勢いを殺さずにルドルフは組み付いた。細身のハルハはあっけなくルドルフの下になる。
 メルダが舌打ちした。ルドルフ流の格闘では不利だった。たとえ一時押さえ込めても、ハルハの力で人形にされてしまえば終わりだ。
「……がっ」
 喉の奥から振り絞るような声を漏らして、ルドルフはその場に凍り付いた。メルダが駆け寄る。また腕の痛みが遠のいた。ああ、テスラ戦役で戦友を失った時も、身体だけは動いたのだったっけ。
「何てことするんだい、あんたはっ!」
「こうしておけば良かったのかな。最初から」
 凄惨な笑みは、優位を確信したからだろうか。嫌な笑いだとメルダは思った。だが、ハルハを討ちたくはなかった。そんな気になれなかった。かわりに口をついて出る罵倒は、混乱と哀れみの裏返しだった。
「この馬鹿ガキ! あんた自分でわかってるくせに。鍵をかけただけじゃ自分のものになりっこないって、知ってるくせに! なんでそうやって嘘をつくんだい!」 
 大男の冷えていく身体をなでさすりながら、メルダはわめく。ハルハは知っているはずだった。身体に鍵をかけ、心を奪ったとしても、目覚めた相手はハルハのものになるわけではないことを。だからこそ、一方的にハルハは心を奪い続けるのだ。それなのに。
 一度はルドルフに選ばせておきながら。
「邪魔をするな。そして触るな」
 ルドルフの腕に、ミュシャのチョーカーが揺れる。
 エルフィリアは泣きながら、ミゼルの元に跪いた。

■Scene:地下墓所〜抱きしめる理由


「ミゼルさん、聞こえるでしょう」
 突然しじまに、ブリジットの声が響いた。薔薇の精霊の歌声を聞き分けようとしていたライも、ふっとブリジットを見つめる。ハルハと断頭台の間に立ち、ブリジットは墓所一帯に向かって呼びかけていた。エルフィリアが顔をあげる。黒い影たちが、再びゆらゆらと、煙のように湧いて出る。ラフィオとノヴァも、その場面をちょうど目にした。

 断頭台に駆け寄ったカリーマは、一生懸命ミゼルの身体を自由にしようと試みていた。すぐに意を汲んだスイが手伝う。断頭台にかけられたミゼルは、両手足と首に枷をはめられていた。その上を覆うようにして、赤い花をつけた薔薇が這っていた。つい焦って、枷を壊す手つきが危うくなる。無数の薔薇の刺で、ふたりの指先はすぐに真っ赤に染まった。
「触れるなと」
「惚れた女だったら」
 スイがその背にカリーマをかばう。ハルハの伸ばした手は、ふっと宙を握りかけて降ろされた。「こんな淋しい場所に放っておくものじゃないですよ」 
「そうだよ、これじゃ駄目!」
 全身で枷を引きちぎりながら、カリーマは叫ぶ。
「ミゼルさんの気持ちを貴方は考えたことがあるの!?」
「やめろ!」
「貴方がそうしていることで、ミゼルさんがいつまでも辛いままなのよ!」
「何がわかる!?」
 ハルハの語気が、次第に荒くなっていく。枷をつかむ手に、カリーマはもっと力を込めた。頭がぐるぐるしたのを全部、ミゼルの戒めへぶつけようと思った。
「貴方はミゼルさんを救おうとしたんですね」
 静かに、けれども凛とした口調でスイは告げる。
「数々の人間たちを犠牲にしながら、それでも貴方は、ミゼルさんを救おうとしたんですね」
 ごとん。重く鈍い音とともに、ミゼルの枷が外れた。赤い薔薇を絡ませたまま、跪くエルフィリアに向かって倒れるミゼルの身体を、カリーマはふんばって支えようとした。
 拍子抜けするくらい、ミゼルは軽かった。

 黒い影たちが、曙光に照らされたように輝きながら、その色と造作を取り戻していく。旅人たちの目にそれは、夜明けが来たように映った。見る見るうちに、小さな光の点だったものが広がり、暗雲と翳りを消し去ってゆく。白金と薄紅色があらゆる色彩をよみがえらせた。
 光はルドルフの巨躯をも染め、ゆっくりとその身体を温もりで見たしていく。ルドルフの腕の銀の羽根が、白金にきらめいた。かすかな金属音にメルダは安堵した。ルドルフの身体が、もぞ、と動いたのだった。メルダの折れた腕も、心もち温かく、軽くなったように思えた。ルドルフの身体の鍵が外れたのと同じように、メルダの腕も元通りになったのだろうか。メルダはミゼルとハルハへ向けて、素早く祈りの聖句を念じた。

 黒い影を脱いだ《茨の民》たちは、怖れと慄きと喜びのまなざしで、エルフィリアとカリーマの腕に抱かれた女性を見つめている。
『お慈悲が、お慈悲が我らに……』
『我らは赦された。我らは我らを取り戻したのだ』
『かくなるうえは、望みはただひとつ』
『二度と愚かしき振る舞いのなされぬことを願わん』
 《茨の民》たちは、一様に皆輝いていた。内なる安らぎの光に満たされ、彼らはもはや黒い影ではない。地下迷宮のあらゆる通路が、彼らの光を受けて照らし出された。
「そうかい、救われたかい」
 ぽつりとメルダが呟いた。ルドルフは隣でぼりぼりと背中を掻いていた。

■Scene:地下墓所〜胸の奥の空洞


『……哀れなシーケンス』
 ミゼルの身体に触れていたふたりに、語りかける心があった。

(哀れなシーケンス) 
 ソラが繰り返す。その場に居合わせた全員が、その言葉を感じとる。エルフィリアとカリーマに流れ込むミゼルの意識を、ソラが歌い上げる。
(『その胸の空洞を埋めるのは……シーケンス、あなたなのに……』)
 感動に震えながら、ブリジットはハルハに目をやった。周囲に満ちる《茨の民》の輝きが、彼女の視界をまぶしく照らしていることに彼女は気がついた。その中でたった一人、未だ白い闇をまとって立っているのがハルハだった。
(『空洞を埋めるのは……あなたなのに……』)
「何だ。急に、暗く……」
 ミゼルとソラの重なる声は、まるでハルハに聞こえていないのだ。
「明る。光」
 ライはいつものように、あたりをきょろきょろ見回した。不思議な光がまぶしかったけれど、目を背ける光ではなかった。光の精霊が生み出すものともまた違う。けれども、綺麗だからいいや、とライは納得した。

「空洞? ハルハさんに、欠けたところがあるというのですか?」
 エルフィリアが問う。
「それが《薔薇の鍵》!?」
 カリーマが勢い込んで尋ねる。
「《薔薇の鍵》だって?」
 ふたりの声に、初めてハルハは目を向けた。闇を見晴るかすかのごとく、険しく眉根を寄せた顔で。カリーマは悲しげにその声を聞いた。

(『シーケンス、まだ探し続けていたのね……』)

「キミが《薔薇の鍵》を持っているのかい、ムーンローズ」
「違う、違う」
 カリーマはぶんぶんと首を振った。
「聞こえないの? 何も感じないの? ここにミゼルさんがいるのに!」
「暗い。黒い影しか見えない」
 どうしたらハルハを救えるのだろう。熱く滾った胸の内に、つかえるものがある。苦しくてカリーマはうめいた。ハルハを倒して終わりになんてしたくない。ハルハのせいで一生を台無しにした人が大勢いたとしても、それだけはしたくない。
 それとも、そう思う気持ちは間違ってるの? ねえ、セイエス。

(『あなたにこの声が、届きますように……』)

「ムーンローズ、教えてくれないか。《薔薇の鍵》は」
 秘密の名前を、それ以上呼ばないで。
 ぎゅっと目をつぶるカリーマの瞼に、焼きついたように薔薇が浮かんで消えた。

■Scene:地下墓所〜薔薇の秘密


 カリーマとエルフィリアの腕の中で、ミゼルの輝きは次第に薄れゆく。《茨の民》たちも皆、明るさだけを残して迷宮の壁に染み込むように消えていった。
「ねえ、ミゼルさんのお墓、遷してあげるね」
 腕の中へカリーマはささやいた。
「丘の上の、ミゼルさんが愛したお庭で、お花をたくさんたくさん飾ってあげる」
 エルフィリアの内側を、温かいものが通り過ぎていった。目で追うと、《茨の民》の最後の一人が溶けようとしていた。確かに想いは伝わった。《茨の民》の温もりが、ありがとうの言葉となってエルフィリアの中に広がっていったのが分かった。

「どうして聞こえないの?」
 ブリジットは両手を大きく広げる。この中でただひとり、ハルハだけが、ミゼルの遺志に気づけない。それはとても残酷なことに思えた。
「あなたはミゼルさんの血を受けて、その想いを受けて咲いた薔薇なのでしょう? どうして……あなたは誰よりも、ミゼルさんの悲しみや苦しみを知っているはずなのに!」
 不意にハルハが浮かべた表情を見て、ブリジットは理解する。
 とまどい。
「思い出して。あなたはどうして《薔薇の鍵》を探しているの? ミゼルさんが最期にそう言ったからじゃないの?」
「……そのとおりさ」
「《薔薇の鍵》は、奪われたんでも隠されたんでもなくて、ただ……見失ってしまっただけ」
 ブリジットの言葉に、ハルハがひどく動揺したのが見てとれた。
「だから、見つけることはできるのよ」
「嘘だろう」
 ハルハは不機嫌に断じる。短い答えだった。
「嘘じゃない。これまでにもそうやって、あなたを騙した人間がいたかもしれないけれど、そのことにあなたは疲れちゃったのかもしれないけど。でも信じてほしいの」
「手伝ってあげるよ」
 ノヴァを抱いたラフィオが、そっと言葉を挟む。仔犬も今ばかりは神妙に、ハルハが手を出したらいつでも噛み付く構えのままで息を潜めていた。不思議なものを見る目つきを向けられて、一瞬ラフィオは身を固くする。
「僕じゃ、あなたの求める仲間にはなれないだろうけど、《薔薇の鍵》探しを手伝うくらいならできるかもしれない」
 なぜ、とハルハの唇が動いた。
「信じてくれるなら、一緒に来てほしい。見てもらいたい場所があるのよ。あなたも行ったことのある場所、ミゼルさんが愛した場所」
 ブリジットは信じていた。《ミゼルの庭》で愛し合うふたりの姿を見ればきっと、ハルハは思い出すに違いないことを。

■Scene:地下墓所〜差し出された手を握るのは


(わたし……わかった……ような気がするわ)
 スイは赤く染まった少女に目をやり、微笑んだ。ああ、彼女のほうが先に気づいちゃいましたか。いつだって女性は、世の男よりも少しだけ強い。スイが過ごしてきた時の中で悟った真理は、ここにもあてはまった。
(なぜハルハの探しものが見つからないのかが……)
「偉いですねぇ、ソラちゃん」
 立ち上がり、傷ついた指でソラの頭をなでる。ついでにその隣に立つライの頭も、ぐりぐりとなでてみた。
「ん」
 ライが目前のライバルの顔を見上げる。その頭上にただよう光は、やっぱり大きな鳥に似ていた。
「まずは手始めに、オールフィシスさんと仲直り、からでしょうね」
(フィシス姉さまは、ゆるしてくれるわ、きっと)
 ブリジットがハルハを引っ張り出そうとしているのを見ながら、ソラは嬉しそうに言った。
「やっぱりハルハさんが納得しないと、駄目なんでしょうねー」
 スイの声は、ソラ以上に嬉しそうだった。
 ライが視線を断頭台に移す。カリーマとエルフィリアが、そっとミゼルの身体を抱いて運ぼうとしていた。気のせいか、彼女たちの周囲を美しい薔薇色の光がくるりと取り巻き、ちかちかと瞬いているように見えた。けれどもライは何も言わず、ソラとともにハルハの後を追いかけた。

4.薔薇色の道 へ続く


第7章|承前多重の岐路花咲ける庭受け継がれたもの薔薇色の道優しい歌マスターより