第7章|承前多重の岐路花咲ける庭受け継がれたもの薔薇色の道優しい歌マスターより

4.薔薇色の道

■Scene:廃園〜大切な場所


 地下通路を利用すれば、廃園まではすぐだった。ブリジットが先頭にたち、ハルハを連れて行く。安心したことに、彼は大人しくブリジットについてきた。《薔薇の鍵》を探し疲れちゃって、藁にもすがりたいのかしら。だったらなおのこと、ハルハさんを裏切るわけには行かないな。そう思えば、地上へ至る長い階段も、苦痛にはならない。
 ミゼルの身体も、力を合わせた旅人たちの手によって廃園まで運ばれた。どうしてもミゼルドを見渡せる場所がいい、とカリーマが主張して譲らなかったのだ。
「街の中の神殿よりも、風が通る場所のほうがいいもん、きっと」
 崩れかけた廃墟から廃園の薔薇の茂みを覗いて、カリーマは呟いた。
「ミゼルさんが愛した場所なら、ミゼルさんが戻ればきっと元通り、花咲く場所に戻るかもしれないし」
 そうしたら、あの子も喜ぶかなあ。セレンディアのことを思うと、カリーマの胸が痛かった。置いていかれた喪失感が、むくむくと湧き上がる。
「ミゼルさんは、この庭の園丁だったのでしょうか」
 エルフィリアの髪を風が吹き抜ける。長く地下にいたせいで、地上は思った以上に清々しい。
「オールフィシスさんに聞いてみようか。ね、ハルハさん」
 ハルハは憮然とした顔で、ゆるりと首をめぐらせた。
「ああ、日の光の下のほうが、綺麗ですよ。その、ハルハさんの髪の赤」
「……そうだね。僕もそう思う」
『ええーっ。でも一番綺麗なのは、このノヴァの毛皮、だろ? それにスイ、ホントに見えてんのー?』
 ラフィオの腕の中、ひとりノヴァだけが騒がしい。
 ブリジットは安堵した。ここの空気は、健やかだった。この流れの中でならば、ハルハも気づくに違いない。

 からーん、からーん、からーん、からーん……

「鐘」
 ライが片手を挙げて背伸びする。鐘の音に重ねるように、誰かが楽しげに歌う声も耳に入ってきた。
「ミゼルド神殿かしら。ここまで聞こえるのね」
「んー」
 他にも歌がと言おうとして、ライはソラが手を引っ張っているのに気づく。
(はじまるわ!)
「はじまる?」
「あ、ホントだ」
 アルティトとアルフェスが、薔薇の茂みの中から手招きしているのが見えた。
「行かなくちゃ。ホラ、ハルハさんも」
 ブリジットがハルハの背を押していく。
「《薔薇の鍵》を、見せてあげる」
 少女たちの歌声は、今やはっきりと旅人たちの耳にも届いていた。
「この光景……」
 メルダは立ちつくした。白い少女が薔薇を差し出すあの夢が、ふわりと蘇り、重なっていく。思えばあの日は《大市》が始まる日、奇妙な朝に、セレンディアと出会ったのだっけ。

 薔薇の茂みで、くすくすと笑いあうアルティトとアルフェス。向かいの茂みから頭を出しているのはマンドラゴラだ。歌っているのは彼女たち全員だった。ひときわ高く主旋律を歌い上げているのがアルティトだ。歌唱術士を名乗るにふさわしく、見事な声量だ。マンドラゴラたちは、アルティトの声を追いかけて高く低くさざめき歌った。その中にはミュシャも混ざっていたのだが、大声を出すのに慣れていないのと、歌にはそれほど自信がないのとで、こちらはひっそり目立たぬように声を合わせているだけだった。
「綺麗な歌ね」
 カリーマは、いつの間にか目をこすっていた。地上に神々が戻ってくるとしたら、こんな綺麗な歌の元へだろうという気がした。いつか聖地で踊りたい、そう言っていた踊り子の、そばかす顔が目に浮かんで滲む。
「……ぎれえだ、な」
 まぶしさに手をかざしたルドルフの腕に、光る銀の羽根を見つけたミュシャが、真っ赤に照れていたことは誰も知らない。ハルハがそれを見てつまらなさそうに渋面をつくったことも、その様子をエレインが、黙ってにらんでいたことも。

■Scene:廃園〜真実


 からーん、からーん、からーん、からーん……

 ミゼルド神殿が時を告げる。すべての終止符、すべてのはじまりとなる時が来たのだ。
 茂みの中からおずおずと、オールフィシスが歩み出た。旅人たちはいっせいに声をあげる。彼女の白い手を引いているのはセレンディア。オールフィシスのスカートの裾をちょこんと持ち上げて、後ろからついていくのがカイ。いつの間にか雰囲気までも、双子のようによく似たふたりだ。
(フィシス姉さま、すごくきれい)
「当たり前よ、だってこれは、結婚式なんだもの!」
 さんざめくマンドラゴラたちの間で、なぜか胸を張るアルティトだ。ミュシャを加えた即席の合唱隊は、結婚式を盛り上げる聖歌隊のつもりだった。
「ほむむ。それじゃあこっちも、行きますよぉー」
 口調はのほほんとしていたが、アルフェスはやる気まんまんだった。奇術師の手つきでたくさんの魔法札を広げ、腕の一振りでそれらを花吹雪に変える。
(きれい……)
「もう一回〜」
 よいしょ、とアルフェスが札に命じる。パステルカラーのもやもやが立ち込めたかと思うと、辺りが一面、お花畑に塗り替えられた。光り溢れる庭園に、色とりどりの花のじゅうたんが彩りを添える。
「えへへ、どうですか?」
「上出来!」
 アルティトが拍手を送る。アルフェスはさらに魔法札を取り出した。旅立つ前に、両親が作って持たせてくれたものだったが、使い切ってもかまわないと彼女は心に決めていた。
(オールフィシスさんに、わたしがしてあげられること。何があるのでしょう。見えないものに縛られ続けているオールフィシスさん。そしてハルハさん……)
 ふたりのことを、アルフェスは心から救ってあげたいと思ったのだ。 
「最高の結婚式に、してあげますね」
 少女が空に向けて放った札からは、白い小鳥の群が生まれた。羽音とともに一斉に飛び立った鳥たちは、しばらく上空を軽やかに舞った。
 やがて下降してきた小鳥たちは、ふわりとオールフィシスの頭上で輪を描く。はさりと嘴から落とされた花や実や羽が、オールフィシスの黒髪を大地の冠で飾った。
(ありがとう、鳥さんたち)
 首から提げた鳥笛を握りしめ、セレンディアは小さな友人たちに感謝した。
「やあ、間に合ったみたいだね」
 人垣の間から首を伸ばしたアーサーも、彼と一緒にやってきたアルテスも、久方ぶりの穏やかな笑顔を浮かべている。白鳥親父をはじめ、醜いものや汚れたものばかりを目にしてきた時間が、ゆっくりと優しいものに押し流されて消えていくのを、アルテスは感じていた。
「これが、答えですか」
 独り言のように呟く。答えを出そうとする人を守りたい気持ちは、心地よい温もりをともなってアルテスの中で大きくふくらんでいた。
「やっぱり誰だって、嬉しそうな顔をしてるのが一番いいですよねぇ」
「そうだね」
 アーサーも思う。ミゼルドに来てから危ない目に遭ったり、いやな思いをしたりしたけれど、それを差し引いても、これで良かったのだと今は思えた。
「ミゼルドに来た甲斐があったと、自惚れてもいいのかな」
 流れの傭兵にとっても、一つの選択をする時が来たようである。
「……それにはまず、評議会を納得させないと」
 アルテスが言うのへ、アーサーはもちろんと答えて見せた。

「そういえば。結婚式ってったら」
 頭ふたつ上からその様子を見下ろすハルは、ふと思い当たってセイエスの姿を探した。
「やっぱり、神官の出番だよな……」
 いつか聞かされたことがある、両親の結婚式もこんな感じだったのだという。不意討ちだ。母はその時のことをそう表現していた。
(ひとつ冒険を終えて故郷に戻ってきてみると、村中が結婚式のお祝いに沸いててね)
 母は憮然とした表情で、けれどもどこかほんのり幸せそうな顔で、その不意討ちについて語ってくれた。
(……それで当然何も知らないから、とりあえずお祝いを言いに行くでしょう? アル、結婚するんだって? おめでとう! ってさぁ……)
 彼女が冒険に出ている間、故郷の父がさぞかし気をもんだだろうと想像すると、ハルは笑ってしまうのだ。見てきたように思い描けるその場面。つまり自分が、その両親の血を引いていること。
「おーい、セイエス」
 だからセイエスにも、立ち会ってほしかった。バウトとオールフィシスの絆をより強くする、目に見える誓いのしるしの役目を、彼に担ってほしかった。

「あれっ。新郎はどこ?」
「ほわ」
 アルティトとアルフェスが顔を見合わせる。
(さっき、トワたちが……)
(ううんあっちでどろあそびしてた)
(泥遊び? 違うよ、ジャグといっしょなのよ……)
 マンドラゴラの妹たちが、口々に、あるいは思い思いに言葉をのぼせる。
「んもう、まさか今になって逃げるのかしらっ」
 血気にはやるアルティトを抑えるアルフェス。マンドラゴラのひとりが、バウトを呼びに走る。

 からーん、からーん、からーん、からーん……

■Scene:廃園〜対立


 オールフィシスを囲む旅人たちの目に、血相を変えたジャグの姿が映った。
「あっジャグ! ねえ聞いて、ハルハさんが……」
 ブリジットがよく回る口を開くより先に、
「後だ」
とジャグが突き出したのは、たくさんのスコップだ。ジャグ自身も、自前の仕事道具である長棒を携えている。よく見れば彼の顔は泥と汗に塗れていた。
「……評議会の奴らが来た。焼き討ちの前に偵察部隊を出してきたんだ」
 差し出された農具類は、せめてもの抵抗の証だった。
「もう来たんですか」
 アルテスが舌を巻く。
「手伝ってくれ。ハルハ、あんたもだ」
 ジャグの言葉に、ハルハはなぜ、と繰り返す。
「いちいちいちいちなぜなぜなぜなぜ! ミゼルさんが愛した場所なら、それくらいしたっていいんじゃないっ」
 カリーマは、こみ上げる怒りの矛先をハルハに向ける。
「それとも理由がないと、動けないのっ!?」
「……まあ、見ててくれるだけでもいいさ」
 ジャグは端から期待していないと言わんばかりに肩をすくめた。
「イオさんとセイエスが、応援に来てくれてる。神殿はマンドラゴラの味方だから」
「評議会側の偵察部隊は何人?」
「10人くらいかな」
 ラフィオの言葉に答えながら、ジャグは庭園の門のあたりを眺めた。
『じゅうにん? そのくらいなら、ブレスでぶわああーっと!』
 だからそれはしないってば、と仔犬に言い聞かせるラフィオ。門の向こうから、ざわざわと人の声が聞こえていた。騒ぎは次第に大きくなるのが分かる。
「でも、大市の最中なのに10人も寄越すなんて。評議会も抜け目がないね」
「それだけ向こうも、不安に思ってるんだろうね。オパールさんも来たし……」
 アーサーの台詞に一同がうなずく。メルダなどは、年齢の割には健脚のオパールに、感心すらしていた。日頃の彼女は、おっとりとしていて表舞台には出ない性格だった。会長たちの陰に隠れていたといえばそれまでだが、このところの評議会の対応は、どこかはりきりすぎの気がしなくもない。
「なんとかの冷や水にならなきゃいいけどねぇ」
 情報の出所が、根も葉もない噂にすぎないことは知れていた。会長たちという微妙な柱を失った今だからこそ、これほどまでに評議員たちが動いたのだろう。不利な噂はミゼルド経済にとって致命的であることに変わりはない。
「……陣頭指揮が、ユズィルなんだよなぁ」
 ジャグはやりにくそうに、門へ向かって駆け出した。
 評議会の行動は、《自由都市ミゼルド》を救うためといえなくもなかった。ユズィルのことなら、思惑があるのだろう。今はただ、その真意を信じるしかなかった。
「結婚式……結婚式くらいは、この場所で挙げさせてやらねえと」
 愛とロマンのために、何をすればいい? 

■Scene:庭園〜誰よりもあなたのために


 からーん、からーん、からーん、からーん……

「遅い! 遅いよ支度が! それでも男? 準備に時間がかかる男は嫌われちゃうわよー」
「なんなんだよ!?」
「まだわからないの、バウトさん」
 悲鳴に似た声をあげているバウトは、アルティトの号令の元、マンドラゴラたちの手によって、いきなり礼服に着替えさせられているところであった。
「この桃色のふわふわした幻影……これもおまえの仕業か?」
 色とりどりの花畑。花びらの波にもがきながら、バウトは目を白黒させている。
「ぶー。これはアルフェスでした」
「そうか、すごいもんだなぁ……じゃなくてっ。遊んでる場合じゃないだろ? 評議会が、連中がやってくるんだろ?」
「さぁ」
 いたずらっぽく目を輝かせ、知らない、とアルティトは答えた。
「あっちで、お待ちかねですよー」
 アルフェスは魔法札をふかふかした絨毯の筒に変える。ころんと放り出すと、絨毯は花畑の中にまっすぐな通路をつくりだした。
「お待ちかね? 誰が?」
 白い礼服に身を固めたバウトは戸惑いがちに尋ねる。
「セレンディアとカイが……といいたいところだけど」
「ほむむ、もちろんオールフィシスさんですよ!」
 そうしてようやく、バウトは理解した。お花畑の幻影の意味。庭園を満たす喜びの歌声。白い色を纏った自分の姿。そして絨毯の先で待つ人の存在を。

 セレンディア、ミュシャ、アルフェス、アルティト。片側には旅人たち。
 絨毯を挟んで並ぶのは、ミオ、トワ、ワカ、そしてソラと、年若い妹たち。
 花畑の先で、オールフィシスはおずおずとした笑みを浮かべていた。小鳥たちのさえずりの中、たくさんの花びらが風に舞う。花冠を黒髪に浮かべ、オールフィシスはおそらく生まれて初めて、愛する者と自分自身のために微笑んでいた。
「……綺麗だ」
 バウトの呟きは、最大音量で、その場の全員の心へ届けられた。

■Scene:庭園〜人の持つ力


 からーん、からーん、からーん、からーん……

 風に乗って、鐘の音が響き渡る。イオは束の間目を閉じて、海の彼方へ想いを馳せた。
 これで終止符を打つことが、どうかできるように。自分はこのときのためにミゼルドへ来たのだと、神に祈ることができるように。
 偵察隊と向き合うと、真正面に立つユズィルと目が合った。
「正気かい」
 オパール以下評議員たちを背後に従えて、ユズィルは問いただす。
「正気だし、本気だ」
 廃園の門を、イオとセイエスが遮っていた。彼岸の評議員たちと、ジャグに導かれた此岸の旅人たちは、神官ふたりを挟んで対峙する。
「魔物を選ぶのは人間なんだって、ユズィルさん自身が、そう言ったじゃないですか」
 セイエスが捕らえた黒曜石の瞳は、露ほども動じない。
「だからあたいは、評議会のほうについたんだよ」
 魔物を選ぶほうと選ばれるほう、悪いのはどちらだろう? 女神の目からすればきっと、どちらもたいした違いはないはずなのに。少女の姿のマンドラゴラと、熊の姿のハル。あるいは遠い血縁に、その種の血を持つ格闘家。
「ユズィルさんは、ハルさんのことも追い詰めるつもりなんですか!?」
「おいおい、そうは言ってな……」
「同じことです!」
 セイエスは涙目でハルの姿を探した。泉の告白で変わったと思っていたのは自分だけにすぎなかった。聖地で出会った彼と僕、友だちになれなかったふたり。セイエスがもがこうとも、何も変わらない。
「あたいも、すぐさま出て行けなんて言うつもりはない。これは見たとおり、偵察なんだよ。評議員のお歴々に、納得してもらうためのね」
「女神の御名にかけて、魔物なんていません!」
「……と、聖地の神官殿もおっしゃっておられるのだが。オパール殿」
「なるほど、つまりこういうこと?」
 小首をかしげたオパールが、ユズィルの隣へ進み出る。 
「いる・いないではなく、魔物か否かが問題なのだと。そうおっしゃりたいのね」
 セイエスやアーサー、アルテスたちが一斉にうなずいた。ハルはふんと鼻を鳴らす。勝手な都合を耳にするのは、もう何百回目になることか。

「それなら魔物でないことを、どうやって証明なさるのかしら」
「ユズィルさん」
 オパールの言葉に弾かれたように、セイエスがユズィルに詰め寄った。
「オパールさんにも、教えてあげてください! 神殿で言っていたように、人間が魔物を選ぶんだってことを! 選ばれたほうは身を守るしかないんだって、ハルさんも言っていた。覚えているでしょう!?」
「もちろん」
「……女神の御名にかけて」
 セイエスは繰り返す。その手は胸元を探り、動きをとめた。いつもの場所に金の鍵はなかった。格闘家の手へ滑り落ちた金の輝きを思い出して、セイエスは続けた。
「魔物なんて存在しません。女神にとっては、人間もそうでないものも、等しく心を開く相手なのですから……そうですよね?」
 祈った相手は、《風霜の茨》だったのかもしれない。セイエスには分からなかった。
「証明が必要ですか? そんなものを求める必要があるのですか?」

 からーん、からーん、からーん、からーん……

(たくさんのひとに、どうか救いを)
 切れ切れの叫びが、一瞬旅人たちの心に触れた。イオも、はっと表情を引き締める。マンドラゴラの力によって届いたのは、アルフェスの祈りだった。
 ブリジットにはそれが、ミゼルの声のようにも聞こえた。ハルハには届いているのだろうか。傍らでその顔を見上げる。ハルハの視線は一点に、オールフィシスを見つめている。

■Scene:庭園〜深遠の贖い


「甘いわ」
 冷たい炎のような声が、鐘の音を遮って通り抜けた。
「エレインさん。それに、イリスさ……」
 顔をあげたセイエスが驚くくらい、少女の形相は強ばっていた。その手には、例のイリスの剣がある。鍛冶屋の表情もどこか暗い。
「……一体何が」
「甘いのよ。オールフィシスも、あんたも、バウトさんも、皆」
 ごめんなさい、父さま。ごめんなさい、イオさん。ごめんなさい、イリスさん。
 そしてごめんなさい、見知らぬ誰か、私を待っている人。そんな人がまだいれば、だけども。
「まぁ」
 エレインの抜剣を見て、オパールはおっとりと息を呑む。
「待てよ、どういうつもりだよ!」
 ジャグがエレインの剣を伏せようと、棒を突き出す。女子ども相手の立ち回りはしたくなかったが、仕方がない。エレインの相手はできても、鍛冶屋が敵に回るとやばいという計算がとっさに働いた。おまけに、ユズィルの得物は魔法の飛び道具だ。
「どういうつもりって」
 エレインの剣は軽々と振り上げられた。それが少女の力だと信じられないくらいに。ジャグは目を疑った。

 少し時間は遡る。
「よければ話を聞かせてくれないか」
 低いけれども柔らかなイリスの声に、エレインはしばらく押し黙っていた。
 いやなら別に、と続けようとしたところへ、逡巡を残したまま少女は口を開く。
「あたしが家出娘だって話、もうしたかしら」
「うむ」
「父さまが連れてきた見知らぬ女に、熱湯をひっかけた話は?」
「……うむ」
「じゃ、あたしがウサギと、メロンの食べ残しを分け合った話は?」
「……うむむ」
 返答に窮しているイリスに気づくと、エレインは崩れた石に腰掛けたまま、足をぷらぷら揺らしながらぽつぽつと語った。
「ウサギの世話があたしの仕事だったのよ。藁を干して、掃除して、残った野菜くずを持って来て……」
 たしかこの子は、街道沿いのどこかの宿の出だったか。イリスが必死に思い出そうとする。それにしては王子がどうの、という言葉が飛び出したりもしていたが、さて。
「お客がメロンを残すと、あたしもウサギも大喜びよ。メロンの皮はウサギで、あたしは、わた。そりゃあごちそうよ。夜が来ると、ウサギと一緒に丸くなって寝てた。朝が来て、また藁を干して、掃除して……」
「それは、ウサギ小屋という奴かね」
「どう頑張っても、文字通りのウサギ小屋だったわ」
 ふむ、と相槌だけを打つイリス。
「そこからあたしを連れ出してくれたのが、父さまなの。お医者さまでね。あたしも診療所はよく手伝った。だけど……」
「ああ」
 その先は、イリスにも何となく察することができた。
 うらぶれた宿屋からエレインを買い取ったのが、王宮勤めだか診療所を開いているだかの医者だとすると……。
 イリスがエレインぐらいの年に、テスラ戦役が起こったことを思い出す。久方ぶりの大掛かりな戦に、好機と湧いた地域もあれば、荒らされ滅びた村もある。イリスの故郷は後者であった。
「あたしどうして、本当の、血のつながった父さまのことを、今まですっぱり忘れて生きてこれたのかしら。不思議」
 エレインがあまりに不思議そうに、頭上に広がる地下迷宮の天井を見上げるので、イリスもつられて視線を上げた。規則正しく連なる石組みが、時の深遠を貫いていた。
「たぶん、あの頃のあたしは、何もかもあらゆるものを拒絶していたのかなって思う」
 エレインの目は、深遠のその先へ向かっていた。
「だから思い出せたのは、ソラやハルハのおかげかもしれない」
「ん?」
「その、本当の血のつながった、父さまのこと」
 南部諸国連合に与した一族、南東山間部を拠点とするリディア。地理を知り尽くした機動力と、地形を読み尽くした兵法は、ランドニクス兵を震撼させた。
「信じなくても構わないけど、リディアの頭領の娘、それがあたし」
「もちろん信じるとも」
 聞けばイリスも、その一族の名は耳にしたことがあった。たしか頭領は、凄惨な最期を遂げたはずだった。ランドニクスの大将を道連れにして……あの渓谷は、何という場所だったか。エレインはそれを知っているのだろうか? 知らないはずはない、とも思えた。
「ハルハに切り倒された時思った。負けるものですかって。リディアの血にかけてって。飛び出してきたのよ、今までどこかへいっていたものが戻ってきたみたいに、するすると言葉が出てきたの」
 あらゆるものを拒絶してきたのは、そうしないと生きていけなかったから。
 リディアの血は、思い出されるのを待っていたんだ。ウサギとメロンの皮を分け合う生活はもうない。ウサギ小屋で死んでいたあたしは、父さまが連れ出してくれたから生き返った。
「じゃあ、いくさが終わるまで……そう言ってたのを覚えてるわ。思い出した。その人が大きな太い腕で、小さなあたしを高く抱いてくれていたことを」
 金の髪と菫色の目。リディアの頭領。リディアの父さま。あたしにリディアの血をくれた人。
 一月しないうちに迎えにいってやるからな。診療所に響くバリトンとは全然違う声だった。
 はい、とうちゃま。幼いあたし。日に焼けた太い腕をちっちゃな手で握り締めてた。
「だからね」
 エレインの目に、イリスの鍛え上げられた腕が映る。この人も、いくさのある場所に生きる人だ、と彼女は思った。自分もそうだ。生き返らせてもらったのは、命を賭けるためだ。目を覚まさせてくれたのはソラだ。きっかけをくれたのはハルハ。
「マンドラゴラには感謝してるわ。ソラと心がつながってる……これは、そう思いたいって希望的観測も含んでるんだけど、ソラがあたしの閉ざしてたところをつっついてくれたんじゃないかって、そう思うのよ」
「なるほど」
 幾分謎が解け、満足げにイリスは呟いたのだった。

5.優しい歌 へ続く


第7章|承前多重の岐路花咲ける庭受け継がれたもの薔薇色の道優しい歌マスターより