第7章|承前|多重の岐路|花咲ける庭|受け継がれたもの|薔薇色の道|優しい歌|マスターより|
2.花咲ける庭
■Scene:廃園〜取り戻された世界
……なぜ、生きてるの。
セレンディアの目が覚めた時、しばらく彼女はどうしたらいいのか分からなかった。
(よかった、気がついたのね)
(もどってきたのね、せれん)
カイの姉妹たちが、意識を取り戻したセレンディアの顔を覗き込んでいる。
みんな、フィルによく似てる……でも、フィルはいない。そう思った次の瞬間、セレンディアの手が温かいものに包まれた。末妹のクウだった。
(カイはもどってくるよ。だってカイは、せれんだから。なまえをもらったから)
双眸から涙があふれ出た。姉妹たちの中からカイを選び信頼を捧げたのは自分だった。
目を落とすと、寝具とドレスの白がまぶしかった。行為の跡はどこにも残っていなかった。そっと手首をもたげてみる。白い肌にぞくりとするほど生々しい傷が見える……と思ったが、その場所には丁寧に包帯が巻かれていた。
(オールフィシスさんが、巻いてくれたの?)
こくり。クウがうなずいた。セレンディアの着ていた服も、綺麗に洗濯してあるのだという。寝具をめくってみれば、セレンディアが着ているのはマンドラゴラたちとおそろいの、白いワンピースだった。
(それ、カイのだよ)
(本当……)
ぽたり。白いワンピースに透明なしずくがにじんだ。
オールフィシスさんが綺麗にしてくれたのは、わたしの血で汚れた服。そのせいでフィルが衰弱してしまったのに、手首の傷だって見えないようにしてくれたんだ……。
(フィルは?)
「ここにいるわ」
年かさのミオが、半歩身を引いた。セレンディアの寝台の隣にもうひとつ、仮ごしらえの寝台が置かれていた。カイとフィル、ふたつの名前をもらったマンドラゴラの少女が横たわっている。
(フィルディア)
セレンディアが両足をそろえて寝台から降り立った。なめし革のブーツを脱いだ足に、寝室に敷き詰められているふかふかの絨毯が気持ちいい。その感触が今一度、セレンディアに生きていることを実感させた。けれども視線はフィルから外せず、気持ちいいと思った自分をセレンディアは責めた。
(せれんが呼べば、もどってくるわ)
ミオの手が、そっとセレンディアの背に添えられる。
(ごめんね……ごめんね……)
カイの眠る寝台の脇に膝をつき、包帯を巻いた手で彼女の髪をそっと撫でながら、セレンディアはその言葉をずっと繰り返し続けた。
(フィルを苦しめるつもりなんてなかった。フィルを傷つけるつもりなんて、なかったの)
(ええ)
ミオの手が触れている場所から、身体の奥のつかえが溶けていくのがわかった。
(ごめんね……ただ、生きていてほしかったの。それだけなの……)
人の血は残酷。どうしてこんなにいじわるなんだろう。
……ああ、わたし、何かを思い出そうとしている。残酷て儚い、何かとても大切なことを。真っ赤な世界。文字通り命を捧げたロジオン先生。
救いたかったもの、人の手が救えるもの。
ただ、生きていてほしかった。なぜ? 生きていれば出会えるから。広い《大陸》のどこかで。それとも、《大陸》から遠く離れた場所で。……なぜ?
■Scene:廃園〜目覚めの先触れ
「あのう。ここに、セレンディアって子、いる?」
年若い男声に、セレンディアは驚いた。はっと顔をあげる。トワが笑っている。
(せれん、お客さま)
(でも、男の子の知り合いなんて)
廃園に滞在している中に、男性はバウトと罠師ぐらいしかいない。もちろんふたりとも、こんな強ばった甲高い声でセレンディアを呼んだりはしなかった。
(知ってるわ、ほら)
セレンディアの得心がいかない内に、彼はオールフィシスに招かれてやってきた。
(あ……)
極彩色のバンダナから覗く、暗めの青緑の髪。生まれたてのフィルたちの髪の色に似てる、と思ったところで気がついた。手に封筒を握り締めているのは、ミュシャだった。どこからやってきたものか、頭の先からつま先まで、土埃や蜘蛛の巣やらかぶっている。ただ健康そうな赤銅色に灼けた顔だけは、乱暴に水をつけて洗ったように見えた。
「探したんだよ、セレンディア!」
少年に名前を呼ばれると、セレンディアの心の奥がずきずきした。
(探したって、わたしを?)
かすかな芳香は、セレンディアの親しんだ香り。懐かしい林檎の香り。
「ほら、これ」
うなずいたミュシャは、はにかみながら封筒から手紙を取り出した。芳香が一層強くたちこめた。
「ボクが前にうけとった手紙なんだけど、たぶんセレンディアのことじゃないかって思って……あ、読める?」
独特の金釘に、ふるふると首を振るセレンディア。ミュシャは手紙をもう一度たたんで封筒に入れる。
「ごめんね、あんまり字が上手い人じゃないんだ。料理は美味しかったんだけど。セレンディア、パパとママを探してるって言ってたよね? たぶんそのパパとママが、来てるんだ」
街道を行く荷馬車を襲った《山猫》。積荷のひとつ、鎖が絡まる奇妙な宝箱。お宝を期待する一同が見つけた中身、不思議な女の子。彼女を探す旅をする保護者たち……。
(……え……?)
ミュシャの差し出す封筒を受け取った瞬間に、渦を巻くようにしてセレンディアの中へ何かが流れ込んできた。
夢。
いい夢、悪い夢。離れ離れになったわたしたち。わたしを探すパパとママ。
良い香りがもたらすのは、とびきりの夢。
わたしのパパ、ちょうこうじゅつし。わたしのママ、たいじゅつつかい。
林檎の花香る、《大陸》の最北端。思い出の場所、ディルワース。
……そしてわたしは。
「セレンディア!?」
手紙を抱きしめ立ちすくむセレンディアが、苦しげに目をつぶり涙をこぼすのを見て、ミュシャは血相を変えた。
「ごめん! なんかボク、変なこと言った? それとも人違い? こんなの要らなかった?」
慌てて矢継ぎ早に言葉をかけ、肩を振るわせる少女に触れようとしては、その手を引っ込める。
(パパ……ママ……)
抱いているだけで、欠けていた何かが戻る気がした。
(探してくれてたんだ……でも、ごめんなさい。わたし、一緒にいけない。もうひとりのわたし、フィルが苦しんでいる限り)
「セレンディア」
ミュシャが意を決して少女の肩にそっと触れようとした時。
「……せれん」
フィルが目覚めた。
■Scene:廃園〜同じだけの重さ
「良かったね!」
「ねー!」
操術師アルフェス・クロイツハールと歌唱術士アルティトが、かわるがわるカイの目覚めを喜んだ。セレンディアはあまりの嬉しさに、ぎゅうと強くカイを抱きしめた。
(ありがとう、ありがとうフィル。ありがとう……)
(せれん)
(あたたかい。フィルの身体、あたたかい)
薔薇色に染まるカイの頬へ、セレンディアはそっと口付けた。
わたしの血が廻っている。フィルの中で、フィルを満たしてる。フィルが生きている。わたしが生きている。
(許してくれないかもしれないって、思った。ごめんね、ほんとうに)
カイはゆっくりと身を引いてセレンディアの顔を見つめ、ふっと柔らかく微笑んだ。
(どうして? わたしはせれんと一緒。そうでしょう)
(痛かったでしょう。苦しかったでしょう……)
微笑んだカイはセレンディアの腕をそっと引く。
(あ。駄目)
白い包帯が、くるくるとうねって解けた。
「セレンディア、傷が消えてる」
目ざといアルティトが指を差す。包帯の下の肌はなめらかで、醜い切り傷の跡さえ残っていなかった。
「傷、カイさんが消したんですか?」
(持っていったの。痛くないように)
そう言ってカイは笑った。健やかな笑顔だった。
「マンドラゴラって、すごいね」
ミュシャが目を丸くする。廃園の出来事は何だか不思議だ、と彼は思った。
ミゼルドに来た時も、人がいっぱいいて皆忙しそうで、もちろんスリの相手には困らなくて、けっこう楽しくやっていけそうだ、と思ったっけ。でもすぐに、怖くなった。淋しさと孤独が、ミュシャを怯えさせた。こんなにたくさんの人の中で、なんて自分がちっぽけなんだと思ったら、その他大勢のたくさんの人、が怖くて怖くてたまらなくなった。
でも。
廃園や《精秘薬商会》に出入りしている旅人たちは、ちょっと違うみたいだ。その他大勢の人なんていない。そう思ったからかもしれない。誰も皆悩んでいて、そのことに気がついたら人見知りもしなくなっていた。こんなにたくさんの人がそれぞれに、何かを皆悩んでる。当たり前のことだけど、気づく前と後でこんなにも変わるなんて。
自分を変えたいと意識していたわけじゃない。けれども結果的に変わることができた。マンドラゴラとセレンディア、そして、ルドルフさんとルドルフさんのことを心配してる皆のおかげ。
……カルマも変わりたがっていたっけ。淋しがりやで没頭しやすい、ラフィオさんの仔犬みたいな髪をしていた少年。彼は何をしているんだろう、もう変わることができたのだろうか。
「ねぇ」
我に返ったミュシャの服の端を、アルティトが引っ張っていた。
「聞いてる?」
「え、えっと」
「手伝ってくださいませんか」
アルフェスが服の隠しから、不思議な模様の描かれたお札を何枚も取り出している。
「手伝うって?」
エレインの背にあんなのが貼ってあったっけ、とミュシャはぼんやり考えた。
「だから、言ったじゃない」
アルティトは両手を腰にあて、自分より背の低い少年へ、かすかにため息まじりで繰り返す。
「結婚式を、や・る・の」
「けっこ……」
「シーッ。おふたりには秘密なんですから」
「セレンディアが考えたの。いいと思わない?」
少女たちは目を見合わせてにこにこと笑う。
(わたしたちも手伝うわ。フィシス姉さまを、おどろかせたいもの)
カイも笑って、セレンディアの手を握った。
(でも……けっこんしきって、どんなこと?)
「つまり約束ってことよ。ずっと一緒にいるっていうね」
アルティトは得意げにそう言った。
(ずっと、いっしょにいる……)
「さあ、そうと決まったら急がなきゃ」
「ね、誰がブーケをつくる?」
「花冠も要りますよねー」
女の子たちの団結は早くて強い。マンドラゴラたちも含めて、作戦会議が始まった。その輪の中でミュシャは、半分目を白黒させながら、半分面白そうに加わっている。
「...a...rig....at..o.......」
小さなセレンディアの呟きに、耳をとめた者はいない。けれども少女の赤い瞳から、涙のしずくはもうこぼれなかった。
■Scene:廃園〜近くて遠い空
「騒がしいなあ」
曲げた腰をううんと伸ばして立ち上がったバウトが、薔薇の茂みから上半身を突き出して遺跡を見やる。
「こら、さぼるんじゃねえぞ」
罠作りに余念のないジャグ=ウィッチが、かがんだままバウトを見上げる。
「さぼってないだろ。これでもう一回り罠は作り終えたはずだ」
彼らはもう数時間かけて、廃園の戦闘体勢を整えていた。オパールがミゼルド神殿へ出した依頼の件を知るや否や、ジャグはできる限りの速さで廃園に戻り、バウトに一部始終を話したのだ。
「この場所を焼き払う理由なんてどこにもない」
ジャグは真剣な顔つきでバウトにそう言った。
「この場所は必要とされてる。あんたが、あの姉さんに必要とされてるように」
「ばっ」
馬鹿野郎か、それとも馬鹿にするな、だったか。バウトの言葉は、もごもごと口の中で消えた。
何だその態度は、とジャグは勢いづく。そうだ、最初から思ってたんだ。このふたりの煮え切らなさ。回り道の途中のふたり。いつまでたっても辿り着かないゴール。すぐそこに、あるのに。
「否定するのかよ。じゃあ、こう言い換えてもいいぜ。あんたがあの姉さんを、必要としてるようにって、な」
「……否定なんてできるわけないだろ」
ずるい奴だとジャグは思った。バウトの黒い肌では、その頬が紅潮している様子もわからない。
「あんたはマンドラゴラじゃないんだ。マンドラゴラだったら、言葉に出さなくたってツーカーだろうけど、あんたは人間なんだ」
「《薔薇の鍵》もないのにか?」
お茶を濁すだけのバウトに、ジャグは思い切り顔をしかめる。《薔薇の鍵》。その謎は、今ごろトレジャーハンターたちが解いているはずだった。
……はっきりしないのは、おまえ自身だろうが。そんな風に誰かに突っ込まれたら、ジャグには返す言葉はない。だが幸いにも、バウトは自分のこととオールフィシスのことで手一杯らしかった。
「鍵がない。それが何だってんだ。あんた、もともと鍵なしで、扉を開けようとしたじゃねえか」
「ロジオンがそう言ったからな」
両腕を伸ばすバウト。何かをつかむように蒼穹に突き出される拳。
「《薔薇の鍵》がありゃ、覚悟を決めるのか?」
口を尖らせてジャグも立ち上がる。少しだけ近づいたはずなのに、立ち上がると余計に空は広がりを見せた。ソラ。学者が名づけた名前にしては、なかなか詩的だとジャグは思った。
「決めるさ。ロジオンは俺の親友で、オールフィシスの父だ」
「そういう順番なのか」
「……逆らえねえって言いたかっただけだよ」
「もう持ってるんだって、気づいたらどうだ」
そう言われた時のバウトは、まるで少年みたいな顔をしていた。ジャグは話を切り上げて、やれやれと作業へ戻る。そう間をおかず、誰も彼も気づくだろう。ミゼルが望んだもの、《薔薇の鍵》の示すもの。
「ま、バウトが気づかないんじゃ、ハルハに見つけられなくって当然かもしれねえなあ」
「何だ。さっきから突っかかるんだなあ。もっと分かるようにしゃべってくれって」
「その顔」
ジャグはぼそっと言い捨てた。
「顔?」
「泥だらけ。洗っておけよ」
そのうち出番が来るんだから。ジャグの手は、また穴を掘り始めた。
3.受け継がれたもの へ続く

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