第7章|承前多重の岐路花咲ける庭受け継がれたもの薔薇色の道優しい歌マスターより

5.優しい歌

■Scene:庭園〜選択された運命


 そして、鐘の鳴り響く時と場所。
 門を挟んで対峙する、偵察隊という名の評議員と旅人たち。
 庭園は満開の花畑である。マンドラゴラの妹たちに祝福されながら、今まさにバウトがオールフィシスを見つけ、ふたりは向かい合う。
 ハルハにそれを祝ってほしい。ブリジットはそう願っていた。
 結ばれるふたりを見れば、ハルハが気づくに違いないと信じていた。

 エレインは決めていた。少なくともソラを救いたい。妹たちを道連れにすることを少しでも考えるようなオールフィシスはともかくとして、自分を導いてくれたソラは、守ってあげたいと思った。
 だからエレインは、ひととき部族の慣わしに則った正式の礼を捧げたのだ。
「魔物はここにいるわ」
 エレインの、イリスの剣が狙いを過たず、ハルハの細身を貫いた。
 声も音もなく、血しぶきの代わりにただ、真紅の薔薇の花びらが散った。
「きゃああああ!」
 エルフィリアがふらりと倒れこむ。ルドルフがそのきゃしゃな身体を、壊れ物を扱う手つきで支えた。
「あ……あああ……」
 カリーマの口から、切れ切れの嗚咽が漏れる。
 抱いていたミゼルの身体に咲いていた薔薇が、突如色を失い始めた。血に濡れたような鮮やかな赤は、ゆっくり薄れて乾いていった。移ろう時のように。
 両手で口元を覆い、ソラが硬直する。
(エレイン! エレイン!)
 マンドラゴラたちは、ソラの全身の叫びを増幅して伝えた。ハルハの名は呼ばわれなかった。
 オールフィシスとバウトが、はっと振り向いた。旅人たちの輪の中で、ゆっくりとハルハが崩れ落ちていく。その輪の中で、ただエレインだけが荒い呼吸を繰り返して突っ立っていた。
 その剣の切先に、大輪の赤薔薇が突き刺さっている。

「……代わりに生きてくれ」
 ハルハの口が、そう動いた。
「僕の代わりに《薔薇の鍵》を……そうすれば……僕もやがて……」

「そんな! ハルハさん!」
 エルフィリアの言葉は、吹き抜けた風に乗って、真っ赤な薔薇の花びらとともに彼方へと消え去った。
「馬鹿! ばかばかばかばかっ!!」
 無数の薔薇の花びらが、アルフェスの花吹雪に混じり飛び立っていく。
 その様子を茫然と眺めながら、ブリジットは叫んでいた。
「今の貴方の言葉が! それがミゼルさんの言葉なのに!」
 悲しかった。報われなかったのではない。すぐそこにありながら、ただ気づかなかったのだ。
「どうして!?」
 棒立ちのエレインの肩を、ブリジットの両手がつかんだ。
「ハルハさん、わかりかけてたわ。《薔薇の鍵》が何なのか。心に鍵なんて、最初からなかったのよ!」
 とめどなく溢れる涙。ハルハはもういない。ハルハを探す視界には、よく似た白い礼服のバウトが、おろおろしながらオールフィシスたちをかばおうとやってくるのが映っただけだった。
「それでも、誰かが幕を下ろさなくちゃいけない」
 エレインの行動の理由が、それだった。《ミゼルの庭》とマンドラゴラを守るため、誰かを犠牲にしなくてはならない。偵察隊全員が納得するような、野蛮で過激な方法で。
「ううん、違う。違うのよ」
 言葉尻は嗚咽に滲んでいく。
「《薔薇の鍵》は皆が持ってるの。マンドラゴラも人間も関係なくて、心をもっているひとたちなら皆」
 鍵があるということは、その鍵で開かれるべきものもあったはず……。そのひとつが、ハルハの心だった。ハルハの閉じた心を開けられれば、見つかるはずだったのに。
 自分がそれをもう、持っていたのだということを。

「さて、お集まりの方々!」
 ユズィルが声を張り上げた。両手を広げ、大きな動作で視線を集める。その時が来れば引き金を引く役目も辞さないつもりだったが、毒気を抜かれたような評議員連中の顔つきを見るに、その必要はなさそうだった。エレインのしたことは、完璧だった。
「ご覧いただけたかい? 黒い影をいたずらに扇動し、人々を人形に変え、会長たちに協力していた《ハルハ旅団》団長の姿を」
 場に臨んだ評議員たちは、めいめいにうなずいた。
 ジャグは茫然と立ち尽くし、何かよくわからないわだかまりに向かって悪態をついた。彼らの呼称が《ミゼルの目》だなんて、皮肉にもほどがある気がしてならなかったのだ。
「魔物はいたわね、やっぱり」
 エレインの側に寄り、オパールがその顔を覗き込むように見上げる。
「……ハルハのせいじゃないことは、判ってる」
 年相応によろめきながら、庭園を後にするオパールの背中へ、ぽつりとエレインが呟いた。
 切先の薔薇は、生々しく赤かった。ミゼルの身体に咲いていたほうの薔薇が散っても、ハルハの身体から現れた薔薇はまだ咲き誇っていた。

 ハルハを貫いた手ごたえは、実のところ感じられなかった。まだ人を殺めたことのないエレインにはわからない部分もあったが、肉を断ったというよりも、心を絶ったような感触が残っていた。精霊を殺めるのは、こんなものなのだろうか? 答えは見つからない。虚脱感が重くのしかかってきた。
「でもこれしか方法を知らなかったの」
「エレイン」
 イリスのかける声にも、エレインは力なく首を振っただけだった。死ぬべきでない者を、そうと知った上で殺したこと。その事実が一切の気力を奪っていた。
「舌足らずな歌を歌ったり、軽い踊りを踊って見せたり……街のバザールを楽しみにしたりしていた……そんな日々はもう来ない。二度と」
 独り言のようなエレインの言葉は、ソラが赤い光の中で歌った絶望の歌の節に、とてもよく似ていた。
「エレインさん、もしよろしければ……」
 スイが引き止めた腕も、かすかな抵抗をもって振りほどかれてしまう。
「わたしとこれから、旅に出るのなんて、いかがですかー……なんて」
 待ってますよ。そうささやいて、スイは静かにエレインの腕を放した。
(エレイン! エレイン!)
 ソラが叫ぶ。名前を呼ぶ心には、ありがとうの気持ちがこもっていた。よしてよ、痛いわ。エレインは首を振り続ける。心を覗かれるのが怖かった。空っぽの気持ちの中に、ソラの叫ぶ声が入り込んできて、そこだけがうずき続けた。
(エレイン、行かないで! 決めたことなのはわかるわ。でも!)
 ああ。このうずきがハルハをさいなんだのだろうか。少しだけエレインは、ハルハの心を垣間見たように思った。

 エレインの背中から、ぼろぼろになった魔法札がついにはがれ落ちる。手足に力が戻ってきていた。ハルハの力が尽きたのだ。
 エレインにとっては、自分が招いたハルハの死がすべての終わりを意味していた。

「僕のかわりに生きてくれって。ハルハさん、そう言っていました」
 ぽつりとエルフィリアが呟く。見上げる蒼穹に舞う、色とりどりの花吹雪。それに混じる薔薇のハートの花びらを見つけては、エルフィリアの胸が熱くなった。
「あの悪ガキ、もしかして最後に、鍵を見つけることができたのかねぇ」
「そうだといいけど」
 メルダの隣で、ラフィオも空を見上げる。
「だったらハルハ団長も、救われたのかなあ……」
「衝撃を受けてるかも」
 泣き笑いのブリジットだ。
「だって考えてみて? 彼、自分の分はミゼルさんに預けたまんま、他の人に対しては、相手からもらう鍵は必要とせずに自分の力で開け閉めしていたの」
 つまり彼がやっていたことは、例えるなら。息継ぎもせず、ブリジットはまくしたてる。……自分の家の鍵を家の中に置いたままで外に出てしまい、他人の家の鍵を一生懸命集めて玄関を開けようとしていたってこと。そのうえ、鍵なんて本当はかかってなかった……。
「迷惑な話だ」
 本当に迷惑そうに、ハルが呟いた。
「家の鍵なんて、言ってくれれば貸すのにな」
「ハルハさんの鍵は、ミゼルさんの力を受けた強力な合鍵みたいなものだったから、よけいに気づかなかったのね。マンドラゴラさんたちは、無意識のうちに心をつなぎあっている……つまりそれは、《薔薇の鍵》で扉を開けて行き来しているってこと」
「そうか。鍵は開けるのにも閉めるのにも使うんだものね」
 ノヴァを抱きしめて、ラフィオはハルハを思う。

「人形になった人たち、元に戻りましたって」
 アルテスがそう伝える頃には、旅人たち全員が、庭園に集っていた。その中にはイオとセイエスの姿もある。
 一同の見守る中、ミゼルドを見渡せる丘の一角に、ミゼルは葬られた。ハルハの力が尽きると、ミゼルの身体に絡んだ茨も薔薇も枯れたため、いましめを解かれた彼女はただのミゼルとして、痛みや苦しみから自由となった。イオが唱える聖句は、《愁いの砦》と《風霜の茨》に捧げられた。
「良かったね、ミゼルさん。もうこの場所は安全だよ。ゆっくり休んでね」
 カリーマが声をかける。時の彼方でミゼルが微笑んだような気がした。

■Scene:永遠の空


「あ、歌」
 押し黙っていたライが、いきなり元気になる。
「薔薇の、歌。ほら」
 精霊たちが歌い上げるのは、千年以上の想いたち。
「ソラも」
 それは一緒に歌ってよ、というライのおねだりだった。
(え……)
「結婚式だし」
 ライの言葉に、今更のようにバウトとオールフィシスは顔を見合わせ、頬を染める。
「ここへ来て何を照れてるんですか。おふたりとも、いい大人でしょ」
 びしっとしなさいよ、とスイの指先が、びしっとふたりに突きつけられる。
「ロジオンさんも喜んでますよ、きっと」
 それに、とスイは付け加える。
「その頬の色。それがね、薔薇色っていうんですよ」
「なるほどな」
 イオが真顔でうなずいている。
「それじゃセイエス殿、そろそろ誓いの聖句を」
 ええっと叫び、セイエスは固まった。
「でっでっでもイオさんのほうが……それに僕なんてまだ……第一こんな場面の正式な段取りとか……」
「何をごちゃごちゃ言ってるんだい」
 メルダに一喝されて、セイエスは反射的にうなずいてしまった。

 人の輪から外れたエレインは、眼下にミゼルドを一望できる場所までやってくると、ただ言葉もなく風に吹かれて立っていた。
 リディアの父さまも、こうやって渓谷を見下ろしていたのかしら。
 せっかく思い出したのに。せっかくふたりも父さまがいるって喜んだのに。
 最初にしでかしたのが、こんな愚かなことでごめんなさい。
 ぐるぐるぐる、想いが廻る。風が吹いても、いつまでもこの場所で想いが淀んでいそうだった。
(僕の分まで生きておくれ)
 心に聞こえてきた声は、たしかにハルハのものだった。
 振り返っても、誰もいない。
「そうよね。これから結婚式が始まるんだもの」
 あたしなんかが参列できるわけがない。こんな穢れた身体で、見えない血に汚れた手で。

「どこに行ったかと思ったぞ」
 だからエレインは、飛び上がるほど驚いた。思わず剣を取り落としたほどだ。その慌てぶりが年相応で、イリスは破顔した。
「あ、あたし! イリスさんの剣で!」
「また造ればいい。それより行くぞ」
 がっしりとした太い腕が、否応もなくエレインを引っ張りたてる。
「全員が揃うまで始めんと、セイエスが言ってきかんのだ」
 エレインの胸の中で、在りし日のリディアの頭領の姿がイリスに重なった。

 こほん。
 小さなセイエスの咳払いに、一同が居ずまいを正す。
「それでは……えー、えっと。バウトさんとオールフィシスさんの、け、けけ結婚式を、始めます……」
 満場の拍手、そして静寂。より一層緊張したセイエスが、ごくりと息を呑む。
「えっと、えーっと……それでは」
 セレンディアとカイがそれぞれ片手を引いて、新郎新婦が歩み出る。緊張の塊と化しているセイエスとは対照的に、笑いをこらえるほどの余裕がバウトにはある。聖句を唱えるセイエスの顔をちらちら見ては、肩を震わせているのだ。どうやら彼も、覚悟を決めたらしかった。
「そ、それれはおふたりの」
 ついに、耐え切れなくなったバウトが爆笑した。旅人たちも苦しいくらい笑い出す。
「セイエス! ちゃんと仕切ってくれよ!」
「それではおふたりのっ!」
 真っ赤に茹であがったセイエスが、かつてないほどの大声で叫んだ。
「《薔薇の鍵》を交換してください!」

 拍手が鳴り響く。ミゼルドの鐘が鳴る。誰かが口笛を吹き鳴らす。マンドラゴラの合唱隊が声をそろえて歌う歌が、一同の胸の中に響き渡る。ソラの言葉が旋律に変わる。それらすべてが、優しい歌となって庭園に降り注いだ。
(互いに心を通わせること。相手を思いやり、大切にし、ともに生きていくこと。お互いがお互いの助けとなること……)
 オールフィシスのささやかなヴェールを、バウトがふわりと持ち上げた。オールフィシスは、初めて出会ったような瞳でバウトを見つめ、微笑んだ。その手の中には、ブーケの中から抜き出した白い薔薇が一輪咲いている。
 ああ。
 セイエスの胸が熱くなる。この光景を、夢に見たのだ。白い薔薇を差し出す少女。救いの手を差し伸べる女神。

「永遠の愛を誓いますか?」
「「誓います」」

 ふたりの唇が、静かに重なった。

■Scene:相変わらずなふたり


 そうしてそのお祝いは、人形から戻った人々をも巻き込んで、その夜を通し朝まで続く。
 酔い覚ましに薔薇の茂みを歩くブリジットが見たのは、一輪の赤い薔薇だった。
「そっか、咲いてたんだ」
 赤い薔薇が咲く限り、きっとハルハさんは蘇る。そんな気がして、ブリジットは少しだけ泣いた。そうと知ればエレインも、自分を責めずに済むに違いない。なんと言っても彼は人間ではない。薔薇の精霊なのだ。
「ど、どうしたんだおまえ」
 ブリジットの涙を見てしまったジャグは、慌てふためいて右往左往する。あげくのはてに、薔薇の刺に指を引っかいた。
「いて!」
「あんたそれでも罠師?」
「うるせえ。俺は、おまえが泣いてるのを見てだなぁ……」
 怒りのやり場を失って膨れ面のジャグに、目をぱちくりと丸くして、ブリジットは尋ねる。
「ねえジャグ、どうしてあんたいつも怒ってばっかなの?」
「それはおまえがっ!」
「あ、また怒った」
「……」
 笑ってほしいだけなのに。ハルハには面と向かって言えるブリジットも、ジャグには口にできないのだ。
 だから代わりに、こう言ってみることにした。
「ねえ、あたし、あんたのことをもっと知りたいし、あたしのことも、もっと知って欲しいなあ……」

■Scene:果てのない螺旋


 やがてまた朝が来て、旅人たちはそれぞれの道を歩き出す。
 そこから先は、また別の物語。




おしまい。


第7章|承前多重の岐路花咲ける庭受け継がれたもの薔薇色の道優しい歌マスターより