PBeM《ciel RASEN》 - 2005 : 第6章

1.輪舞曲

■Scene:承前――白い境界

「……変わった、といいたいのでしょう」女は問う。

「別に。俺にはかかわりのないことだ」男は答える。

「変わったのは姫さまたちのほうよ。だから」ふたたび女、問いかける。

男は答えを返さない。女は答えを出したから。

■Scene:輪舞曲(1)

 男性の目の届かぬ別室。離宮の喧騒と隔てられた場所。
「私は、《大陸》に戻りたいとも、《塔》で願いを叶えたいとも思えないのですわ」
 滞在者本部でルーサリウスに告げたのと同じ台詞を、歌姫はただ繰り返す。
 問うた相手が役人や紡ぎ手であれば、その言葉の裏に秘めた想いを明かすつもりはなかった。それ以上のことを、他のまろうどに知ってもらう必要はないのだから。
 紡ぎ手アンナ・リズ・アダーはしかし、リモーネにこう頼んだのだ。
「お願いだ。自分の身を差し出すようなことはやめてほしいんだよ……特に、あの騎士さまの前では」
 リモーネは金色の髪を揺らした。アンナの心中を察し、ゆっくりと瞬きする。騎士の話になるとわずかに歯切れが悪くなる、それは、リモーネの持たぬ初々しさに見えた。
 一方アンナは、リモーネの不思議に落ち着き払った様子に戸惑いながらも、
「クラウディウスには傷つけさせないでほしい。勝手なお願いってことはわかってるさ」
と頼み込む。
「アンナ様の望み……」
 リモーネは、うつむき加減に一歩踏み出しアンナに寄り添った。胴衣の裾をきらめかせて紡ぎ手の指をとる。ちりちりとした快感が伝わってくる。
 この《島》ですらレオの服を仕立て上げている、働き者の手だと思った。針仕事で荒れた指先に、そっと自分の手を添えすべらせてみる。安い指輪すらつけぬ自分の指は、アンナのそれに比べなんと頼りないのだろう。
 変わらぬのは、その甲に刻まれた髑髏の刻印だけだ。
「……クラウディウスには傷つけさせないでほしい、ということ、それは」
 リモーネは歌うように繰り返した。アンナは小さくうなずいた。触れ合う指先が気になって仕方がない。身を翻してうずくまってしまいたかった。ショールに指を隠して縮こまり、顔を背けたかった。
 ほら、今にも。
 見てはいけないものが転がり込んできそうじゃないか。
「私も叶えたいことです」
 リモーネは微笑を浮かべている。
 アンナがどれほど心を背けようとしても、快感を伴って色彩たちは入り込んできた。
「ああ」
 低く呻いたその声が自分の喉から漏れたことにもアンナは気づかない。
 重く頭を振った。リモーネの想いは、きらきら光る鱗に包まれた魚のように滑らかに、アンナの感覚をかき乱した。
(これは、傭兵さん……?)
 リモーネから流れ込む快感の中に、その影を見たアンナ。
 紛れもなく、あの男だと思った。リモーネの想いの中で狂犬は冷たい銀色の炎に包まれ、見たことのない表情でこちらに白剣を向けていた。ぞくりとアンナの背を駆け下りた恐怖。獲物を見下ろし今にも引き裂こうとしている、それは獣の目であった。

 ♪快楽の輪舞 死の輪舞
 ♪硝子細工は壊しましょう 氷菓子なら溶かしましょう
 ♪すべては《死の剣》の選ぶがままに

(ああ、そうか)
 リモーネは変わらぬ微笑を浮かべている。
 初めて薄紗越しに見たときよりも、リモーネの表情が和らいでいるように思うのは、自分の気のせいだろうか。
「いいよ。いいとも」
 静かにリモーネが身を引くと、そういってアンナは大きく肩で息をついた。
「クラウディウスはああいったけど」
 卿には及ばぬ、そう断じて自ら剣を振るおうとした騎士の姿を、アンナは思い浮かべた。
 ……やっぱり傭兵さんに任せたほうがよさそうだ。
 快感の残滓が、アンナにいくつもの色彩を垣間見せた。プラチナブロンドと緑の瞳。銀色の炎を吹き上げる狂犬。儚く虚ろな硝子細工――。
 壊される寸前まで、硝子細工は相対する破壊者の色を映し出すのだろう。
 真実よりも、透明に。美しく。どこまでもきらきらと……。
 それが歌姫の願いならば、それでもいい。アンナはそう思った。けれどあまりに悲しい、とも。
 リモーネが自分を見つめる様子、優越感と劣等感をないまぜにした面持ち。死を前にしての落ち着きぶり、その裏にあるに違いない迷い。普通の女性としての嫉妬。これからの人生に対する恐れ。
 それらを覆い隠すため、壊されなくてはならないのなら、なんて悲しいことだろう。
 教えてあげたかった。それらはすべて、アンナの中にもあるということを。
「……あ」
 声をかけようとした。リモーネは気づかず扉に手をかけている。金の波がその背で輝いていた。
 子どもたちが、狂犬が、哀れな騎士が、その先の舞台に待っている。アンナの言葉は声にならなかった。
 歌姫は舞台に立つ。遮ることはできない。その代わり、彼女の願いが叶うように頑張ろうと決めるアンナ。その場に居座ってリモーネの権利を主張するくらいしか思いつかないけれど、何もしないよりいいんじゃないかと思えた。
 声にならなかった想いが、もしかしたら色彩で伝わっていることを願いながら、アンナも歌姫の後に続いたのだった。

■Scene:輪舞曲(2)

 ヴィクトール・シュヴァルツェンヴェルクは、覚悟を決めた。
 あの若獅子騎士は自分の鏡像なのだ。少年を神にすら祭り上げるに違いない、あの騎士。ただの合わせ鏡ではない。追い詰められ、救いの兆しを見てしまったがために自ら道を切り拓くこともできず、苦しみにのたうちながら引き裂かれたいと願う子どもなのだ。少年は神になる。騎士はどうする?

 レオは選択した。
 その事実は、ヴィクトールの頭の中を幾分すっきりさせていた。
 正しい選択、間違った選択という問題ではない。選択したこと、なされたことはすべて、獣が受け入れるべき事実であった。
 獣。自分も、レオも。同じ匂いを放つ獣だ。《大陸》に解き放たれたならば帝国内乱以上の血を流すかもしれない。だがそれもヴィクトールの知ったことではない。
 クラウディウスも獣になれば楽になれるだろうに。そう思うヴィクトールには、彼に差し伸べられた救いの手が見えている。いくつもの道が用意されているくせに、あの子どもはなぜまだ苦しんでいるのだろう。
 傍らで占い師が衣服の汚れを払い、立ち去るそぶりを見せた。
 彼の拘束を命じられていたはずのヴィクトールを顧みるエル。ヴィクトールは投げやりに一瞥をくれただけで済ませた。彼のここでの役目は終わっていた。
 あの歌姫が自らを差し出すためにやってきたのだから。
 ……金髪の。
 おかげで子どもは眠らない。亡霊も消えない。
 ほんのわずか、エルは後ろ髪をひかれているようだった。ヴィクトールがもう一度エルの顔を見てみると、今度は思いつめたように口元を引き結んでいた。
 かつて犬ころのように後をついてきたエルの姿が重なった。何かを追いかけるのが似合うのかもしれなかった。犬もやがては牙を剥く獣になるのだろうか。それとも飼いならされたあげくにああなったのか。
 いずれそれ以上はヴィクトールの興味の外であった。
「見せてやる」 
 低い呟きは、姫君たちに向けたものだ。
「繰り返される死と快楽。いいだろう、決着をつけようじゃないか。快楽しか知らない姫君、よく見るがいい。生きるという意味、その苦痛――」
 その先にあるものを、ヴィクトールも知りたかった。
 そして扉が開く。
 離宮を後にするエル。入れ替わるようにやってくるふたりの女性。
 舞台を選んだ歌姫と紡ぎ手の姿。
「その役目、俺がやってやろう」
 ヴィクトールがリモーネの顎を掴んで告げた言葉は、女たちをどう動かしたのか。

■Scene:輪舞曲(3)

 いっそ獣になってしまえば――などと副官に思われていることを夢にも知らず、クラウディウス・イギィエムは、静かにグリューネヴァルト夫人の前を辞していた。
 そうだ、ジニアに申し付けておかねば。
 身重の夫人のため、安楽椅子を運び入れよ、と。出来るなら一番眺めのいい部屋を彼女のために用意させ、毎日野の花を欠かすことなく差し入れるのだ。飲みものはむろん、温めたミルクがいいだろう。香りの良いお茶すらどんな刺激になるかわからない。時間が許せば楽器のひとつも探し出し、夫人のお耳に楽の音をお届けしたいものだ。
 ……すべて整えてさしあげられるのは、《大陸》へ戻ってからになることだろう。
 約束を、守らねば。
 約束を守って。
 私のしでかした取り返しのつかない過ちを、ほんの少しでも贖える小さな工作をいくつかやり遂げて。それからだ。
「どうか、お子のことのみお考えを」
 そうクラウディウスが言うと、音術師は母の表情で微笑んだ。飾りのコウモリ羽根がきしんだ音をたてた。
 伏目がちのまなざしに、また陰が濃く宿る。クラウディウスは静かに一礼した。
「……何から何まで、お気遣いありがとうございます」
 すべてを悟って、音術師は悲しく微笑んだ。
 彼の意志を変えることはできない。
 でも彼女もまた、彼に隠し事をしている。

■Scene:輪舞曲(4)

 約束を、果たさなくてはならない。
 あの人と交わしたこの約束だけは、何があっても。
 占い師エルは、痛む関節をひきずるように動かしながらただそれだけを思った。
 ネリューラが待っている。きらめく海のどこか深奥で。光の精霊ルクスさんは、頼りになっているのだろうか。リアルに貸さずにネリューラにあっさりと貸したのは、我ながらいじわるだったかもしれない。人として、ダメだったかも。人でないならなんだろう。人でなし。うーん、似合わないですね。
 エルの足はいったん外を目指した。
 ああでも。今から追いかけたんじゃ、間に合わないかも。
 ――何に? 自答。
 ネリューラが、自分を必要としてくれる場面に。あるいは、おしゃべりなルクスさんが自分の秘密をぺらぺら話してしまう場面に。
「姫さまたちはこの騒ぎ、さぞ楽しんでいらっしゃるのでしょうね」
 ひとりごとは、街角で水晶玉を操っていたときからのエルの癖だった。思えばルクスさんとふたり、人通りの少ない路地で身をすくめ、お客を待つのがエルの生活だった。当たるも八卦、当たらぬも八卦。そんな不確かな生活の果てにこの《島》に招かれたことが、長い夢を見ているように思える。
 不意にエルは思い出した。最初に姫君たちと会った際、水晶に見たもののことを。
(逃げられない)
(逃がさない)
(逃げることを望まないから)
(逃げたくないから)
 エルはかぶりを振った。《パンドラ》は放たれた。獣の皮を脱ぎ、少女に戻ったのだ。
 それとも少女になったのか。
 ……逃げることを望まないのは、いったい誰だったのろう? 《死の剣》が選んだ相手? だとしたら、ルーが選んだ……ティア、なのか。
 姫君たちのことだ、迷宮に惑うまろうどを覗き見て、今も微笑んでいるに違いない。
 エルは思いなおして引き返し、姫君たちの広間へと向かう。
 ――帰り道を探すなら、外よりも内へ。
 そう、それは約束。進みたい道は、ここにある。
「……あ、会えたら何て言おうかな……」
 それはそれなりに幸せなときめき。

■Scene:輪舞曲(5)

 元学者スティーレ・ヴァロアは、音術師がきっと姫君の元へやってくるだろうと予感していた。
 彼女は悩んでいるだろう。無理もない。わが子を餌にと望まれたのだ。
 眉根に深い縦じわを刻んだスティーレは、大広間へと急ぐ。
「……っ」
 声にならぬ声を飲み込んだのは、どこからかこぼれてくる嬌声に気づいてしまったからだった。左腕の義手でばさりと風を切り、出直すつもりで踵を返す。こんなとき、音に敏いのはやっかいだ。
「やれやれ。どこもかしこも」
 無理やり思考をそらすべく、スティーレは宿題のことを考える。もう何十回考えたかわからない、ヴィクトールが出していった宿題。つまり、姫君たちを変わらせる方法。存在の意味を見出すこと。
 潮騒が懐かしくなった。こんなに海に近いのに、館の中にいると、規則正しく眠りに導くあの音はついぞ聞こえない。書き物をするのには絶好だけど、いつまでたっても眠らせてくれやしないかも。そんな他愛もないことを考え、スティーレは低く笑った。
 結論。
 宿題には、答えはない。
 ならば連れ出すのはどうだろうか。例えば外の世界。例えば、館の外へ。
 いずれにしても、ローラナの赤ちゃんを生贄にするようなことだけはやめさせなくてはならない。次にそんなことを持ち出したら叱ってやらなくては。それだって、叱る役目の人がいなければできないことだもの。

■Scene:輪舞曲(6)

 ポリーナ・ポリンはずっと目を閉じていた。
 恐ろしかった。姫君に貪られるのは怖くない。怖いのは。
「あ、ああ……っ……」
 どくん。鼓動が激しく高鳴り、閉じたままの視界が輝く。快楽の輪舞曲。
 必要なものは揃っているけれど何もない、だから《宿り呼ぶ島》。
 ここに留まり続ける幸せ。《大陸》が望まないのなら、私の居場所はここにある。望まれる幸せ。留まる幸せ。ああ、わかりません。ウィユさま、レヴルさま。
 私は、私が嫌いなのです。
 レヴルさまが望んでくださるなら、私の居場所はここにある。私は、私が嫌いだけれど、そんな私を望んでくださるならば……。
(ふふふ。なんと、可愛らしい)
 のけぞるポリーナの首筋を、妹姫レヴルは優しく吸った。しゃらん。髪飾りが揺れる。
 両目に涙を浮かべたポリーナの姿は、《島》を訪れた時よりもずっと幼かった。幼児体型といえどまだ育ち盛りらしかった身体は、今や妹姫よりも小さくか細く、見習い召喚師のロミオよりも幼いほどである。褐色の肌にまつわる白髪はそのままだが、ちょこんと載せていた宝冠は、額にすとんと落ちていた。
(その身の不思議、存分に可愛がりましょう)
「レヴ、ル、さま……」
 ポリーナの声も、相応に幼く変じている。
「私は……私のこの性が、嫌いなのです」
 快楽の果ての行き止まりで、ポリーナは泣いていた。どうしたらよいのかわからない。
(なぜ?)
「この性が……他人を傷つけてしまいますから」
(おまえがいつ、我らを傷つけたのです)
 いやいやをするようにポリーナは身をよじった。快感の波を少女は恐れた。波を味わい、変化する肉体。そこに流れる血を恐れた。
「いいえ、レヴルさまを……傷つけては……これまでの……他の人々を……」
(ここには痛みはありません。どれだけ傷ついても、傷つけても、それは快楽。ここでならいくらでも、傷つき傷つけられましょう。かりそめの母)
「レヴルさま。私は――」
 続けようとした言葉は、吐息に変わった。

■Scene:輪舞曲(7)

「ちぇっ」
 ヴァレリ・エスコフィエは苛立ち混じりに呟いた。
「気持ちよくない」
 不満は、手に入れた力にあった。色彩言語は便利だし、痛みを感じないのも快適だ。だが、他人を傷つけても思ったほどの快楽は得られなかった。おまけに、レオは自分を拒絶した。
 拒絶。
 その言葉の重みは、肉体的な苦痛から解き放たれているはずのヴァレリを激しく打ちのめした。
 色彩言語なら、普通の会話では伝えきれないような部分――情念、心理、背反、時間も場所も超える何か――をぶつけて理解しあえるのではないか。それはヴァレリの勝手な期待だった。
 快楽を浴びるほど味わった分だけ、落ち込みも激しい。躁から欝へ一気に転がり落ちていく。細い糸がちぎれてしまったヴァレリが選んだ行く先は、大広間だった。
「もういい。飽きた。そろそろ帰りたいんだけど」
 仁王立ちのヴァレリは唐突に告げた。
 玉座で戯れていた姫君たちは、優雅な仕草で身を起こした。衣擦れ。髪飾りの立てる音。くぐもった呻き声。そして姫君たちの笑い声。耳に入る音はヴァレリをうんざりさせるだけである。
 しかめ面の彼女に、姉姫ウィユはくすくすと笑いかけた。
「もう飽きてしまったの。あんなにはしゃいでいたというのに」
「だって、つまんないよ。なんかこう。ぱあっと世界が輝くようなのだったら良かったんだけど」
 ルシカを傷つけても、世界は輝かなかった。世界、人生、そういったものを変える力は、ここにはなかったのだ。赤い血を流すだけなら、別にこの《島》でなくたっていい。それとも……本当に理論を尽くせば、レオともわかりあえたのだろうか? 対話と交感で、世界が変わったのではないだろうか。
 ヴァレリはむなしく首を横に振った。
 理解を示してほしかった相手に否定されたとき、その可能性は失われたのだ。人と人が分かり合えるなどというのは幻影にすぎない。手が届きそうに見えたけれど、決して手に入れられないもの。
「だからさあ」
 ずかずかと玉座に近づくなり、ヴァレリは姉姫の腕を掴んだ。
 口元に微笑を浮かべたまま、ウィユはヴァレリに引きずられるまま玉座を降りる。幾重も重なる絢爛な衣服から、細い手と足だけがむき出しだった。白い首をわずかに傾げて、ウィユはヴァレリのつかむ腕から流れ込む快感に、身を任せているようである。
 玉座に残された妹姫は、ポリーナを組み敷いたまま瞳だけをめぐらせてヴァレリを見つめている。
「他人を閉じ込めて弄ぶのは楽しいかい。他人の人生を見物するのは愉快かい。ああ、そうだろうね。楽しくて愉快だろうさ!」
 笑顔を崩さぬ姫君たちにヴァレリは啖呵を切った。レオに拒絶された分だけ、鬱屈していた心が出口を求めていたのだ。
「だったらあたいにも、あんたを弄ばせておくれ」
 ぐいとヴァレリが力を込めると、たやすく姉姫はヴァレリの胸に収まった。一方妹姫はそっと目を閉じ、再びポリーナとの戯れに身を没した。

2.贖いの歌 へ続く

1.輪舞曲2.贖いの歌3.聴かずや我が調べを4.真昼の業も今は終わりぬ5.夢見るは我が君6.世界の望む道マスターより