PBeM《ciel RASEN》 - 2005 : 第6章

2.贖いの歌

■Scene:離宮

 リモーネが舞台と決めた場所。
 自分が汚らわしいと、視線によって定められた場所。
「本人が望んでいるんだ。そのとおりにさせておやりよ」
 アンナは控えめに言い添えた。クラウディウスはなかなか現れなかった。レオがいらだっているのが見て取れる。
 リモーネは自ら髑髏を差し出す代わり、貫く白剣はヴィクトールに振るってほしいと告げたのであった。
「誰でもいい」
 レオは投げやりに答えた。本当にどうでもよさそうに、リモーネを一瞥しただけだった。
 クラウディウスが無言で見せたような蔑みを、レオは示さなかった。リモーネはそのことには驚きつつも、表情硬く次にかけられる言葉を待った。
 クラウディウスがこの場に到着すれば、すぐにレオはティアの処刑を命じるだろう。
「……早く」
 ふさわしい言葉は他に思いつかなかった。アンナはばたばたと、リモーネとヴィクトールを押しやったのだった。
 騎士さま。
 そして、騎士さまをひきとめてくださっている誰か。身ごもった音術師だろうか――彼女のことをクラウディウスが異様なまでに気にかけているのをアンナは知っていた――ふたりに、感謝を。
 アンナは小さく指印をきり祈った。
 どうかこの選択が良きものでありますように。祈りが届きますように。

■Scene:贖いの歌(1)

「私の、陛下」
 掠れたささやき声が、驚くほど響き渡った。ここは展示室。騒がしいものは何もない。
 ローラナの前を辞した後、クラウディウスの足は離宮へ向かわず、寄り道することを選んだ。ずっと訪れたかった場所であった。
 クラウディウスはレオを見つめる。
 それは、少年を描いた絵だ。題名は《鏡》。飾りをはずし、剣を手にしている。
 彼の緑瞳はレオの灰濁の瞳を射抜き、はるか遠くを見つめていた。はるか遠く――《聖地》アストラの、空の玉座。夢に垣間見た惨事の舞台を。誰もに許される場所ではないが、万一その玉座の前に立つことがあれば、おぞましい吐き気を催すに違いない。
 クラウディウスはそっと思った。
 《大陸》を統べる器であったのは、自分が命を奪った、あの公子だったのだ。きっと……そうに違いない。かのきみの名はもはや帝国史の裏に葬られるのを待つばかりだが、《12の和約》を成し遂げた少年アンタルキダスの名前は輝かしく残るだろう。レオの偉業。しかしその実、目の前のこの少年は《大陸》に選ばれなかった王にすぎない。《大陸》が選んでいたのはきっと……。
 クラウディウスは顎を上向けた。お見事でした、私の陛下。
 結局帝位にふさわしい人間などひとりもいなかったのですね。私もいささか疲れましたよ。まったく、お見事なほど、翻弄させられましたから。
「くっくっく……」
 どうしようもない。込み上げてくる笑いは無限の奈落にクラウディウスを突き落とす呪いのように脳裏に響いた。がくりと膝がくずおれる。もう明日を迎える気力も尽きたのだと思った。
 ふと首をめぐらせる。その一枚に目が吸い寄せられた。
 題名は《抜き身の刃》。
 光を集める銀髪が、薄暗い展示室の中でもひときわ輝いているように見えた。生命力に溢れている証なのか。自分と同じ色彩を持ちながら、ひとたびは同じ境遇にありながら、まったく別の道を選んだ男。副官に仕立てたのは、その選びとるさまを見続けたいと願ったからだった。
 彼が選びとるのは常に自分自身だ。
 私は違う。私は、イギィエム家の男子として望まれるほうを選び取ってきた。
「それももう終わりだ」
 呟いて眺めた絵は《氷の刃》。明るい銀髪に白い剣。部分部分を見れば、ふたつの刃は何も変わらない。なのになぜ、こんなことになったのだろう。
 私の選択は間違っていたのだ。こんなにも、結果が狂っているのだから。
 ああ陛下。貴方がそのように弱いお方でなかったならば……。どうして生まれたばかりの統一王朝を捨てることができると、簡単にお思いになってしまったのですか。
 ティアのせいですか。
「望みの物を差し上げましょう、私の陛下」
 若獅子騎士は懺悔にも似た嘆きを隠し、立ち上がる。新帝への捧げ物を手に入れるために。そして捧げ物により贖われる未来のために。
「私は貴方を神にしてみせます」
 約束のために、クラウディウスは約束を重ねる。

■Scene:贖いの歌(2)

 ふたりきり。
 男と女、一対一の状態でこれほど息詰まることも、そうはない。
 ヴィクトールは落ち着かない風で腰を下ろし、自分を選んだ女を見つめた。よくよくこの色に縁がある。
 リモーネはかすかに身を強ばらせたまま、ヴィクトールの隣に座った。慣れているに違いない動作だが、どこかぎこちない。まったく、なぜそんなことに気づいてしまうのか。ヴィクトールは仕方なく口を開いた。
「どうして俺を選んだ? 理由は何だ?」
 鳥に招かれた日の思い出が翻る。うるさそうに首を振り、ヴィクトールが腕を引っこめた。がしゃりと尖った音がして、リモーネは驚いたように顔をあげた。
 ……別に、手が触れたわけじゃない。色彩言語じゃない。じゃあこの幻は、なんだ?
 ……違う。これはあいつじゃない。違うんだ。
「愛しいと、思ったから……ではだめでしょうか?」
「だめだな。それだけじゃ」
 薄紗の奥、エメラルドの瞳が吸い込まれるほど大きく見えた。
「どっちが先なんだ」
 壊れたい。そして、覚えていてもらいたい。どちらの理由で自分は選ばれたのか。
「覚えていてほしいが先に来ております」
 瞳を逸らさずにリモーネが答える。ヴィクトールはぎり、と奥歯を噛んだ。
 これが前者なら。
 人を殺すことなど平気な人間なら誰でも良かった、というだけで済むはずだった。破壊者らしく硝子細工をぶち壊すだけだったのに。いよいよヴィクトールは、自分が自分に追い詰められていることを知った。
 むしろ、知っていて確かめたのは自分だった。知りたかったのだ。
 あいつが選んだ残酷な手段と同じ。繰り返し突きつけられる同じ命題。
「それが愛しいと? どこが愛なんだ?」
 ヴィクトールは立ち上がり思い切り壁をぶん殴ると、憤りのやり場に困った顔のまま、もう一度どかりと腰を下ろした。
「愛しいと思うなら、なぜ傷つけようとする?」
 もう一度。彼の拳は目の前の机に叩きつけられた。木の天板があっさりと暴力に砕け散った。
「なぜだ? さあ言え、この程度でどうせ傷つく相手じゃない。そう思ってるそのことこそが、都合のいい役目を演じさせているんだ。違うか? 結局中身はどうでもいい。体のいい凶器、それだけなんだろう」
 ヴィクトールの知る「愛している」という言葉は、常に相手を思い通りにしようという思惑の元で使われていた。色恋に限らず、あらゆる人間関係がそうであった。相手に都合のいい姿を押し付けられ、そのとおりにたまたまヴィクトールが動いたときだけ、相手は自分を評価した。そこにはいたって合理的な計算が働いていた。だからヴィクトールは、挨拶代わりにこう言うのだ。
 好きなように呼べ、と。そっちが抱いた幻想どおりに、割り振った役目どおりに、なんとでも。狂犬でも、傭兵でも、無法者でも、副官でも。
 愛している? その言葉は盾で、言い訳だ。
 例ならばいくらも挙げることができる……。
「ならば、硝子細工も壁に叩きつけてしまえばよろしいのです」
 そうやって、机を木っ端に変えたのと同じように。硝子細工は容易く壊れるはずだから。
 愛しさで傷を抉る理由に、リモーネは触れない。愛した深さだけ、記憶に残ると思ったのは他ならぬリモーネだ。
 代わりに問う。
「素手で握りつぶそうとなさるから、破片がその手を刺すのでしょう」
 傷つくことを知っている、あなたは獣ではないのでしょう?
 温もりを遠ざけるため破壊者たらんと装って。本当は、違うのでしょう?
 だから、ほら。
 黒く刺々しい手甲を選んだのもきっと……。
「糞」
 彼は呻いた。ロザリアが日の光の下幸せに生きてきたはずの妹だとしたら、リモーネは夜に埋もれ堕ちてしまった妹だ。
 自分に関わりさえしなければ、あいつだってきらきら笑いながら誇らしげに聖印を掲げていられたのに。
 自分に関わってしまったばかりに、あいつは最も残酷な方法、つまり愛しさで傷つけることを知ってしまった。
「いいさ、どんな男か見せてやろう。そのうえで望むなら、壊してやる」
 ヴィクトールは目前の女に向かい、乱暴に掌を向けた。
「選べ」
 その荒々しい動作はリモーネの瞳に、貴人が腕を差しのべているように映った。

■Scene:贖いの歌(3)

 熱く輝く色彩が一方的に流れ込んでくる。
 あまりにもリモーネの知る生活とかけ離れている、さまざまの断片が、自分を屠る勢いで、快感とともに激しく全身をかけめぐった。リモーネは無心でそれを受け止めた。
 幻影は鮮やかな色に満ちていた。
 そう思ったのは最初だけだったのかもしれない。気がつけば翻る色彩たちはどこかくすんで暗い雰囲気を帯び始めていた。すべて受け止めるためにリモーネはそっと目を閉じた。
「見えるか。俺が呼ばれた訳が」
 ヴィクトールの声はすぐ近くのようでもあり、遠くからのようにも聞こえた。
 握り合う手の色彩言語ではなく、ヴィクトール自身が語る言葉だった。
 ……原色の青空は、リモーネにはあまり縁のないものだ。《島》で見る空はきっとこんな色だろう。南国の海辺? いいえそれにしては潮騒が聴こえない。
 蒼穹に舞う白い鳥。ああこれは、招かれた日の思い出なのだ。
 金髪の娘を抱くヴィクトール。胸から背中まで剣に貫かれ、娘は息絶えている。もう開かれることのないあの子の瞳は、きれいな緑色だっただろうとリモーネは思った。
(俺が殺した)
 赤い色彩。赤より真紅。真紅より鮮血。
 リモーネの心に、ヴィクトールがそのイメージを色彩で伝えた理由までもが伝わった。どんなに獣としてふるまったとしても、あまりにも重過ぎる言葉だったから。他の誰でもない、妹だったから。
(はじめあいつは俺を救いたいなどとほざいた)
 この方は凶器などではない。鮮血に塗れた幻影がめまぐるしく入れ替わるのを眺めながら、リモーネは理解した。
(でも最後は……あいつが俺に、自分を殺させた)
 哀れな金髪緑瞳の娘。リモーネはその骸を悼んだ。貴女も壊されて手に入れたのですね。無惨で美しい死を前にして、リモーネの心は澄んでいる。ヴィクトールの色彩は青空を遡るようにしてリモーネの思考を過去へと誘った。
 戦場。暗殺。影の軍隊。
 規律と放蕩。血と傷。抜き身の刃。
 裏切り。
 夜の街。慰みの代償に命を落とす女の姿――金髪が闇に沈みゆく。煙草の煙の向こう。
 ……そして。
 妹の存在。
 失踪した母。
 望まれなかった子ども。
 子どもは両膝を抱えずっと泣きじゃくっている。火の気のない、暗い部屋の隅。
――いっぱいお祈りしたのに……いい子にしてたのに……。
 寒いよ、と呟いて膝の間に顔を埋める。まばゆく光を集める銀髪をなでてくれる人は誰もいない。暗く淋しげなその光景は、姫君の大広間の隅に陣取るヴィクトールの姿に驚くほど重なって見えた。
「存在が過ちだと言うなら殺せ。そう神に祈ってみたこともあった」
 ハスキーな声に導かれるように、リモーネはそっと重ねた手の先、ヴィクトールの雄々しい身体を抱きしめた。
「何してる」
「こうしたいのです」
 目を閉じたまま、リモーネはその子どもに呼びかけた。
 いい子ね……。
 ほら。手を伸ばせばあの子に届く。そこは寒いでしょう、ほらあっためてあげる。いいこ、いいこ……。
 くせのある銀髪はリモーネの指にも心地よかった。髑髏が見せる激しい快感ではない、それは穏やかで安らかな何かであった。
「……ん」
 耳元でリモーネが歌っている。知らない節回しの、どこか懐かしい旋律。
 ヴィクトールはひくりと眉を持ち上げ、子守歌に耳をすませた。たぶんずっと、ずっと聴きたかったのだ。
 妹は、母によく似ていた。その金髪までも。

■Scene:贖いの歌(4)

 騎士さまはまだ来ない。
 リモーネとヴィクトールをせきたてるように離宮から追いやり、後ろ手に扉を閉ざしたアンナは、ほうと息をつく。
 ティアを守ろうとするまろうどたちが、レオと何やら言葉を交わしている。同じ部屋の喧噪もアンナの耳には聞こえなかった。
 裁縫道具の入った手籠に目をやると、胸が締め付けられるように痛む。手の甲の髑髏があざ笑っているような気がした。快楽なんてうそっぱち。何かを失う痛みは、快感には成り得ないじゃないか。
 端切れや糸巻きや小さいけれど良く切れる鋏。いつもきちんと籠の中、使いやすい場所に仕舞われているアンナの仕事道具。今は少しだけ、籠からはみだしかけている。見とがめられる前に籠を胸に抱き、ショールでくるんだ。
 ……絶対に壊さないように。それこそ硝子細工のように慎重に。
 さあ、騎士さまならどうするだろう?
 どれだけ怒り狂ってもいい。いや、感情をむき出しにして怒鳴りつけてほしい。マエストロなんて敬称もなしで、ののしってくれてかまわない。若獅子騎士団も新帝陛下も統一王朝も《大陸》も忘れて、クラウディウス個人として。そうしたらどれだけ彼は楽になれるだろう。
「さあ……て、と」
 静かに離宮を後にする。アレクが一瞬視線を絡めたが、何も口にしなかった。アンナの果たせる役割は、もうこの離宮にはないのだ、たぶん。一生懸命仕立てたレオの服だけが、この顛末を記憶するだろう。少年がどんなに激しい本性を現したとしても、柔らかな肌触りで最後の一撃を思いとどまる……そんな夢物語はありうべからざること。紡ぎ手は紡ぎ手。王だの何だのとは世界が違うのだから。願わくば、死に装束にだけはなりませんように、どうか《川走の糸》、時間と糸とを紡ぐ神よ。レオの側で過ごした時間が、レオにとって無為ではありませんように。
 ショールと籠を抱いて通路を急ぐうち、はたとアンナは気がついた。
 レオの服を縫い上げたあと、元々レオが着ていた服はどこへ?
「糸切り鋏、か」
 仮面の女ジニア。そして騎士が会いにいった相手が音術師であること。
 すっと背筋に冷たいものが走る。クラウディウスが仕掛けようとしている何かが、アンナにとってはとてつもなく不吉に感じられたのだ。
 急ごう、とアンナは思った。
 ティアの処刑をクラウディウスが命じられてしまう前に、隠してしまうんだ。約束の報酬が渡せなくて申し訳ないなんて愚にもつかない台詞はいわせやしない。だからお願いだ、義務なんてかなぐりすてて探しに来ておくれ。
 大切な大切な、この、オルゴールを。

■Scene:贖いの歌(5)

 アンナの足は自然と館の外に向かった。なるべく遠い場所を目指そうと思ったのだった。強い日差しが照りつけている。繰り返される潮騒の音。螺旋階段が海底へとまろうどを誘っているのが見えた。
 手籠をまさぐり、オルゴールの感触を確かめる。もちろんそれはきちんとそこにあった。少し考えて、アンナはオルゴールと一緒に持ってきてしまった紙束を取り出した。手紙の類であれば勝手に読むのは不味いとも思ったが、ちらと眺めたそれは報告書だった。
「良かったのか、悪かったのか」
 今さら返しに行くのも変だ。それにこの報告書は、オルゴールの下に置かれていたのだ。オルゴールのことを知っている者に宛てたか、もしくはオルゴールと同等の大切なものということではないか。
 一抹の後ろめたさを覚えながら、木陰でアンナは報告書を開いた。館の中であればとてもそんな気はおきなかっただろう。外に出たこと、離宮から遠ざかったことが少しアンナを安堵させていた。ふたりの姫君は、すべてお見通しで小心なアンナを笑っているのだろうか。
 彼女は知らなかったが、その報告書は帝国公式の体裁にのっとって書かれたものだった。つまり帝都へ行けば正式な軍令として通用する。
「アルヴィーゼ……軍事師範?」
 その名を口にしたのは、報告書の宛先がそのように定められていたからだった。
 内容はごく簡潔だ。クラウディウスの副官にヴィクトールを正式任命すること、マエストロ・アダーとその同伴する青年およびグリューネヴァルト夫人とその子、他数名の民間人を帝都に連れ帰り遇すること、などなど。読んでいて腹が立ってくる内容ばかりである。
 何しろ報告書の四隅に描かれているランドニクスの紋章からして腹立たしい。
 ついでにアルヴィーゼとやらにも一言いいたくなるではないか。いったいどういう付き合いなのか、と。
「なんだ? 下に行くのか」
 かけられた男声は、マロウであった。濡れた半身を潮風に乾かしている風である。
「あ……いや、裁縫道具だし……いい天気だね」
 しどろもどろに答えるアンナは、ふと思いつきを尋ねてみた。
「階段を降りていった連中は、まだ戻ってこないのかい」
「だな」
 言葉少ない返事であった。彼の物語はあとどれくらい続くのだろう。そんなことを思う。
「どうなっているのかも、わからない。でも波が大きくなっている」
「嵐かい?」
「かもしれないな。伝書鳩はもう飛ばないらしいが」
 異変の予兆だろうか。ともかくアンナはオルゴールと報告書を携えて思案する。
 マロウがそっとオルゴールの螺子を巻いた。眩しい太陽の下では儚すぎるほど、可愛らしい旋律が、小さな小箱から流れ始めた。

■Scene:贖いの歌(6)

 長い長い雄弁な沈黙――色彩言語を含めればそれは快楽と痛みの交感であったが――の果て、やや疲労をにじませてヴィクトールが言った。
「それで、どうするんだ」
 我がことながらこれまでの記憶が激しいものばかりで、流し込む側としてもいささか食あたり気味である。受け止めるリモーネは食あたりどころでは済まなかったはずだ。
 歌姫はけれども、ヴィクトールの見せる幻影を払いのけたりはしなかった。すべて受け入れ、子どもに子守歌を歌ってくれた。それがどんなに強い意志を必要とするか、剣をねじ伏せたことのあるヴィクトールは知っていた。
「この子が安心して眠れるようになるまで、ずっとこうしています。子守歌を必要としなくなるまで、ずっと」
 歌うようにささやいて、リモーネは微笑んだ。 
 ヴィクトールの背に回した手の甲で、髑髏の刻印が騒がしい。リモーネはもう一方の手を刻印に重ねた。騒がしいのはもうお終い。髑髏を差し出すことの他に、私は、今のままの自分にできることを見つけたのだから。
 この子が泣きながら一人で膝を抱えたのと同じ回数だけ、抱きしめたい。それまで傍にいたい。
「ですから髑髏は、もう少しこのままで」
 リモーネの思考が伝わるや、ヴィクトールは。
 受け入れるだと? あの凄惨な光景を幻視した後で?
 乱暴な手つきでリモーネの薄紗を剥いた。手甲の鱗同士がぶつかり大きな音を立てた。はじめて見る素顔のリモーネは、当然ながらいくら見つめてもいきなり消えたり、何かを叫んだり、あまつさえ剣を振るいあげたりはしなかった。等身大の人間として、彼女はすぐそばに存在していた。銀髪をなでる手には温もりがあった。
 ヴィクトールは彼女を抱きしめた。
 紅潮した頬、赤く透ける耳朶、ついと逸らす恥ずかしげな視線。ヴィクトールの力任せに苦しそうな呼吸になど気づかぬふりで、リモーネを、そして幻影の妹を抱きしめる。
(俺を救うと……)
 自分ではない女に手向けられた台詞をリモーネは黙して受け止めた。
(これが、おまえの願いだったんだな……フェリシテ)
 ずっと忘れていた妹の名前を、ヴィクトールは思い出した。
 獣になるとき神への祈りは捨てた。最後の祈りはまるで冒涜も同然だった。解き放たれた狂犬には祝福など必要なかったから。忘れていたのではない、存在しないものだったのだ。
 勝利と祝福。
 すべてが仕組まれていたのだとしても。

■Scene:贖いの歌(7)

 クラウディウスの姿を認めたとき、アンナは思わず手にしていたオルゴールを取り落としそうになった。
 顔に血の気がまったくないのだ。亡霊がふらふらと、陰気な館から灼熱の日差しの下に迷い出てきたようであった。その様子に、マロウすら心配そうな表情を浮かべた。
「大丈夫か」
 クラウディウスは無言のまま、まっすぐアンナに近づいた。規則正しい歩幅は変わらない。
 あんなに祈っていたというのに、アンナの口から出た言葉は、その祈りの十分の一も伝わらないものだった。
「……来てくれたんだね」
 離宮で彼はきっと大役を勤め上げたのだ。統一王朝のため自分を抜け殻に変えて。アンナは唇を噛んだ。
 それでもクラウディウスは自分を追ってきた。数少ない私物をそっくり持ってきたのだから、そしてその現場にさりげなく、自分の髪留め紐など落としてきたのだから、追ってこなければ嘘だ、と思う。半面、この明後日の方向に思考する騎士のこと、いくら分かりやすくしてもしすぎることはない、と思っていたアンナでもある。
 が。
 事実はさらにアンナの予想を超えていた。
「ああ、さすがはマエストロ」
 会うなりクラウディウスは言った。視線はアンナの手元、オルゴールと報告書一式に注がれていた。
「私の意図などお見通しでしたね。どうかお持ちください。不自由はさせないつもりです」
「な……なんだって」
 クラウディウスは、アンナの髪留め紐に気づき、大切な品々を盗んだ犯人を追ってきたのではなかった。それどころか、それらははじめからアンナに託すつもりで揃えた品々であったという。
「《パンドラ》は、あの子はまだ無事だ」
 館のほうを眺めてマロウが呟いた。
「《鳥》がいる――」
 潮騒にまぎれ、オルゴールが途切れかける。クラウディウスはもう一度螺子を巻いた。マロウが巻いたより長く、一杯に。
 旋律が戻る。さっきよりも力強い調子だった。
「マエストロ・アダー。私はいささか疲れましてね」
 少しばかり自制を欠いているのだとクラウディウスは言った。
 そうだろうよ、とアンナは思った。さすがに口にはしなかった。うっかり騎士の身体に触れてそんな思考が漏れないように、両手はショールに包んでおいた。
「私の存在はどういうわけか、周囲の人々を苦しめる種だった。自惚れかもしれないが――今、この《島》においても、そうでないと言い切れる証拠はない」
 この人は何を回りくどい言い方をするのだろう、とアンナは思った。
 自制心を失っているという自覚はあるらしい。これ以上何を言われても驚くまい、とアンナは決めた。
「マエストロ・アダー。どうか一曲だけ、踊っていただきたい。この曲はカノン。ですが、できれば四分の三拍子でメヌエットを」
 今度こそ、アンナは仰天した。

■Scene:贖いの歌(8)

 貴族社会では、ごく当たり前の日常風景なのだろう。
 しかし踊りの申し込みを受けることすら初めてのアンナには、メヌエット、と一言でいわれてもさっぱりわからない。小さい頃祭りの輪に加わったことがあるくらいで、宮廷舞踊には縁などあるはずもない。
「つまり、こうです。軸足をこちらに。そう、手は下向きに」
 おそるおそるショールから手を出して、クラウディウスの掌に重ねる。荒れた指先と髑髏の刻印が目に飛び込んできた。アンナは思わず顔をそむけたくなる。ダンスを申し込まれるなんて二度とはないことだろうに、なんとみっともない格好をしているんだろう!
 そのうえクラウディウスの掌からは、あのちりちりとした快感が流れ込んでくる。
「1、2、3。1、2、3」
 足を踏まないかどうか心配しながらのダンスは、落ち着かなかった。
 それでも唯一の観客、マロウは、笑いもせずに真剣に――なのかどうか、ともかく表情を変えずにふたりを眺めている。あるいはオルゴールに耳を傾けているのだろうか。
 踊り手たちは互いに言葉を交わさなかった。
 アンナはいくつもの光景を、翻る色彩の断片に垣間見た。
 どれも、胸がつまりそうな場面だ。一方では快楽の炎が駆け抜けていく。それらの感覚のあまりの違いに、かえっておかしくなりそうだった。
 例えばこんな光景が見えた。
 寒々しい山間の街、行き交う人々のうつむきがちな姿、たちのぼる黒い煙、進軍の音。
 暖炉の前に身を寄せ合う家族。短い夏の日。長い冬の夜。エーラだ、とアンナは思った。あの日から戻ったことのない故郷。機織りの街。《川走りの糸》に祈りを捧げる街。
 なぜ故郷を思い出したのだろう? 考える間もなく別の場面がアンナを翻弄する。
 刑死して晒されている誰かの首。見物の人だかり。かわされるささやき。公子のひとりだとか、おお怖い。
 彼は《大陸》に選ばれなかったレオだ。それとも《大陸》が選び連れ去ったのか。こんな場面は見たくない。アンナは目を閉ざそうとした。
 しかし色彩はそれを許さない。また別の光景。快楽を伴い、悲惨な幻影が繰り広げられる。
 アルヴィーゼ。
 太陽のような、という形容がよぎる。あんたかい、とアンナは思った。クラウディウスの副官さま、報告書の送り先、私のヴィー。
 アルヴィーゼは屈託なく笑う、はつらつとした青年だった。どの場面においても変わりがなかった。クラウディウスがいかに彼の存在に依存していたのかを知って、アンナはぞっとした。同時に深く哀れんだ。
 暖炉の前で手織りのショールに包まり熱いお茶を飲んで、いとこと一緒に昔話に耳をすませる。アンナのよく知る懐かしい光景は、長い冬の夜、太陽を待つ姿であった。エーラは山がちの街だ。一瞬の太陽の輝きがこのうえなく暖かなものであることをアンナは知っている。
 クラウディウスの記憶は、もっと切実な、輝く太陽への渇望だった。照らされなければ生きていけない。太陽の名が、アルヴィーゼだった。
 マエストロ、とクラウディウスが色彩で告げた。
 貴女との関係は、何も始めはしない。何も始まらなければ、貴女は苦しめられることはない。
 アンナは答えた。何かしてほしいとか、そんなんじゃないんだよ。愚痴とか悩みもあるけれど、なんとなく思い出して、少し元気が出るような、幸せな気分になる。そんな勝手な関係を、何と呼ぶかは知らないけれど。
 ……詩人ラファエルならばそれを知っている。明日の糧。例えば静かな山の奥、せせらぎの音を遠くに聞きながら、翌朝鳥の鳴き声で目覚める喜びを思うこと。
 だがそれは、明日のある者だけに許される。

 オルゴールの音が止んだ。
 ゆっくりと、クラウディウスは手を離す。
 離したくないとアンナは思った。
 最後に翻った光景は――小麦色の髪の少年が大事そうに手に持つ何かを差し出そうとする場面だった。

6.世界の望む道 へ続く

1.輪舞曲2.贖いの歌3.聴かずや我が調べを4.真昼の業も今は終わりぬ5.夢見るは我が君6.世界の望む道マスターより