5.夢見るは我が君
■Scene:承前――《死の剣》の運び手
「ルーじゃない」
ティアは苦しげに胸元を押さえよろめいた。
「ルーを返して。わたしのルーを。わたしだけのルーを返してよおお!」
白い剣を手にした少年は、ティアを突き飛ばし唾を吐き捨てる。
「あれを捕らえ処刑せよ」
命じる口調には、弱々しさや迷いは微塵も感じられなかった。
ティア。
生きているはずのない、新帝の妹。
「新帝アンタルキダスに対し、妄想をいだき、さらにありもせぬ不義密通を申し立てるなど尋常ではない。さらには《12の和約》にあたりアイゼンジンガーの血族はすべて処刑されたにもかかわらず、愚かしくも生き永らえ、帝家の恥を上塗りした痴女。そのうえ魔物に成り果てた浅ましき女である。この者をかくまった一族もすべて同罪とし、《大陸》に戻り次第すみやかに死を与え、統一王朝の礎とせよ」
■Scene:夢見るは我が君(1)
急ぎクラウディウスを呼べ、とレオは叫んだ。
しかしこの場の誰もが従わなかった。
クラウディウスはこの場におらず、彼が副官に仕立てた無法者のヴィクトールもまた、紡ぎ手に急かされるように離宮を出て行った。歌姫を伴っていくことを咎めるものは誰もいない。
今ここに残るまろうどたちは、ティアをかばい寄り添っている。エルリック・スナイプをはじめ、サヴィーリア=クローチェ、スティナ・パーソン、ロミオ、ルシカ・コンラッド。皆、ティアと仲がいい者たちばかりだ。
この場を手引きした――ことになるのだろうか、自分でもよくわからないが――アレク・テネーブルでさえ、処刑を待つ少女の傍らに陣取っていた。
本当のことをいえば不味いのだろうが、とアレクは自分に言い聞かせる。どっちみち、レオのいうことを聞く人間はひとりもいないのだし、クラウディウスがいないのだから多少契約違反をしたところでどうということもあるまい。
ロミオは、ティアを抱きしめるスティナやサヴィーリアを見ながら思った。ティアさんは、ルーさんに会いたいのです。いろんなことを忘れていても、ルーさんのことは忘れていなかったから。いっぱいいっぱい考えてきっと、覚えてたんです。ルーさんに会ったらティアさんがころされちゃうのは、ぼくはいやですけど……。
恋人どうしなのに。
ロミオは大きな帽子のつばに隠れながら考える。
恋人。その言葉の持つ意味は、ロミオにとって漠然と薔薇色で、ふわふわした何かに思えるのだった。
ルーさんのために生きているのなら、どうしてルーさんに、ころされたいですかね?
「ど、っどっどっどどどどどーいうことなの」
ルシカは、ティア以上に震えていた。
その身体を、自分で強く抱きしめる。しかし震えは止まらない。視界がぐらぐら揺れていた。レオの姿がにじんで見えた。
「何が侮辱罪? ふざけないで。何が新帝陛下、よ。記憶取り戻した瞬間態度でかくしちゃって!」
「ふん。記憶を取り戻せと、自分らしくしろと、さんざん言い続けてきたのは誰だ!」
レオが声を荒げた。その手には依然白い剣が握られている。《死の剣》だ。
不吉な白い光を目にしてルシカはひるんだ。が、口を切った言葉はとめどなく溢れ続けた。
「これが新帝陛下サマ、なんだね。よく分かった……なんてくだらないことだったんだろ。ばかみたい。あんな子ひとりいないだけであーんな大騒ぎになったんだ? 《クラード》も行方不明になったんだ? ……あんたのせいで!」
「騒ぐんじゃねぇ」
熱くなるルシカとは反対に、冷ややかにレオは答えた。
「まあ一番先に死ぬ気なら、好きなだけ騒ぐがいい」
「何それ。何それ。簡単に殺すだの何だの言わないでよ! どうせ自分で殺しやしないくせに。どうせクラ君に頼むくせに。今の今まで、ハリネズミのマントに包まってたお子さまに、いったい何が出来るって言うわけ!?」
ルシカが絶叫した瞬間、ハリネズミのマントが翻ったかと思うとレオが脇をかすめ、ルシカの頭をわしづかみにすると後ろから喉元に白剣をつきつけた。それは正しく計算された動きだった。居合わせた誰もが、レオの目は傷んでなどいないことを確信した。
かつてのレオが端々に見せた、あのおどおどとした、一見してふがいなくもあった少年らしさの一切は失われていた。声だけが変わらない。
これは本当に、少年レオが記憶を取り戻した姿なのか。それとも。
まろうどたちは、変貌を目の当たりにして、えもいわれぬ喪失感を味わっていた。
「何だって出来るさ」
レオの言葉に、ルシカは喉を鳴らした。嗚咽をこらえる。
人から刃を向けられたのは、そう長くもない人生で2回目だった。1回目はヴァレリ。2回目がレオだなんて。恐怖に引きつりながら、ルシカはやっぱり新帝なんて大嫌いだと思った。
「ティーちゃん庇ったってだけで殺されるの? あたしのパパとママまで? くだらないにも程があるけど、もっとくだらない理由で殺された人たちだってたくさんいるんだよ! ……もしかしたら、く、《クラード・エナージェイ》も……」
自分で自分の言葉に恐ろしくなり、ルシカは首を振った。そしてレオの突きつける刃をひたと見据えた。
「ううん。これ以上ここで新帝ごっこを続けるつもりなら、あたしが止める。止めてみせるんだからっ」
ルシカが後ろに体重を預けた。レオはわずかによろめいた。まさかオルゴール職人が抵抗するとは思っていなかったのだ。ルシカがレオの剣を打ち払った。彼女の手にも、白い剣が現れていた。同時に込み上げる高揚感。激しい何かがルシカの身の内を貫いてゆく。
「ばかげた新帝ごっこを《大陸》に持ち込まないで!」
はあ。はあ。はあ。肩で息をつくルシカ。
勝てるだろうか、あたしに? 武器は、同じだ。白い剣。あたしにも生えた。
「びっくりした。願ったらほんとに出てきちゃった」
不協和音を奏でる球が床に転がり、誰かの足元で止まった。首からかけていた鎖が千切れていた。ルシカの旋律球だった。
傷の舐めあい、うん。ヴァレちゃんの言ったとおりかも。あたしはティーちゃんにあたし自身を重ねていただけだった。なくしたものは、違うのにね。けどねぇ、本質は一緒だって、思うの。ティーちゃんはルーに殺されたい。あたしその気持ち、わかるから。ほしいものは違うけど、わかるから。
この苦しさを知っているから、放っておけないから。たとえ戦ったことがなくても。その願いの先が死であっても。
痛くないなら何とかなりそう。ううん、何とかするの。
「ティーちゃんを助けて、ルーを探してあげるんだ。それからあたしも《大陸》に戻って、《クラード》を探しに行くんだ!」
剣を突き出し構えるルシカ。
「足が震えているじゃねえか」
レオが弾かれたように笑いだすと、ティアはその身を強ばらせ縮こまった。
その間にこっそりと、ルシカは携えたオルゴールの螺子を回す。3つのシリンダーのうち、ひとつを差し込んだ。
「どうか、《クラード》。力を貸して。今願ったら白い剣がやってきたみたいに。ティーちゃんを助けてって祈ったら、剣が来てくれたみたいに――さあ、聞くがいいわ」
シリンダーが奏でるかすかな旋律が、効果をもたらしはじめるのはもう少し先のことだ。
■Scene:夢見るは我が君(2)
ロミオはティアが散らせた白い羽をひとひら手に取った。もう片方の手はティアの衣服の裾を握っている。子犬のケイオスが、黒い毛並みをふるふると揺らし、賢そうな瞳をティアとレオに向けていた。
「あの〜」
場違いなほどのんびりとした声は、スティナのものだった。
「何故この《宿り呼ぶ島》で、外界から切り離されたこの場所で、下も上も関係ない、同じまろうどが争わなくてはならないのですか〜?」
「同じじゃねえよ。《大陸》に戻ればどうなるか、分かってるだろ?」
先の笑いをひきずったまま、レオは言った。
切っ先がスティナに向けられる。サヴィーリアの顔つきが変わる。
「えっと。戻ると何が変わるのでしょうか〜?」
スティナには、レオの笑いの意味がわからない。レオやティアが背後にどれほどの重石をぶらさげていようとも、スティナはこの場所でティアと友だちになったのだ。彼女は思う。ならば《大陸》に戻っても友だちでいられればいい。
レオとだって戦う必要はない。レオが望まなければ、ずっと平和が続くはずなのに。
「変わるさ。《大陸》が望んでいるからな」
「どういうことでしょう〜?」
「《大陸》に平和を。戦乱の世に終止符を。統一王朝ルーンの復活がそれを可能にするっていってんだよ」
レオは剣の切っ先をいたずらに動かした。エルリック、スティナ、サヴィーリア、アレク。
「……結局、偉い奴ってのは同じなのかねえ」
吐き捨てるように呟くアレク。彼はもはやレオ側につく気はなかった。少年の下卑た台詞が支配階級特有の語気をはらんでいたからである。クラウディウスとの契約は破棄だ、と思った。報酬なしでもかまわない。
彼が生きて帰してくれるならば、だが。
「何だよ。新帝なのに偉そうなところがないのが売りだったのに。最後には権力を振りかざすんだな」
一抹の寂しさを味わいながら、アレクがレオを見返した。
レオは不敵に笑っている。見えているのだとわかればなんてことはない仕草。だが、そこまでしてレオが一同を謀っていたことを、逆にアレクは不思議に思う。
それはそれで、なんと疲れる大仕事なのだろうか、と。
「ばか! ばかばか! 戦乱とか統一王朝とかそんなの、ぜんぶあんたたちの勝手な言い分じゃないの! そんなのにティーちゃんや《クラード》やあたしや、皆を巻き込まないで!」
再びレオは、笑い声をあげた。
「ははは。あっはっはっは! 聞いたか、ティア。巻き込むな、だと!」
その場の全員が、いっせいにティアを見つめた。
さまざまな色の瞳に射られて、少女はうつむいている。
「……どうして」
ころして。ティアはささやいた。レオとよく似た横顔に涙が一筋こぼれ落ちた。
「ティアさん〜」
スティナが微笑んだ。
「どんな事があってもティアさんは大切なお友だちです〜。大切なお友だちが傷付いたり、悲しむのは嫌です〜。ティアさんはどうして殺してほしいとお思いになるのですか〜。それは本心なのでしょうか……」
スティナはティアを抱きしめた。小柄な身体は、スティナの腕からすり抜けていきそうなほどだ。ルーもこうやって、ティアを抱きしめたのだろうか。いつかの夢が蘇る。《死の剣》を持ち、傷ついた身体を奮い立たせていた、あの感覚。
子犬がそっとスティナに寄り添い、尾を振った。暗い想像を嗜めるかのような仕草だった。
■Scene:夢見るは我が君(3)
「ティアはたいせつなおともだち」
嘲笑まじりにレオがいう。
「おともだちには知る権利があるかもしれねぇな、なあ、ティア」
レオはつかつかと、ティアをかばうルシカに歩み寄った。
その動きをエルリックがさえぎった。人当たりの良い笑顔は常と変わらない。ルーサリウスが見れば、初対面のときに比べて随分芯の強さを出すようになった、などと評するかもしれない。
エルリックは背が高いほうではないが、それでもレオよりは上だ。
レオはむっとしてエルリックの顔を見上げる。
「そいつの話を聞いてもまだ、おまえらはそいつに肩入れするか?」
「僕らが決めていいことだと思うんだ、それは」
「ひとつ提案を」
畳み掛けるように、サヴィーリアがつなげた。
「レオくん。貴方とは違い、ティアさんの周りには戦う術を持たない者ばかり。錬金術師、召喚師、その見習いさんに、お役人」
サヴィーリアとルシカの目が合った。
かわいそうなほど彼女は背筋を伸ばし、凛と胸を張ってティアとその友人たちを守ろうとしている。
「職人さんだって、訓練を受けた兵士にはかなわないわ」
いくら彼女がオルゴールを武器に使えたとしたって、レオのあの滑らかな戦闘動作の前では、残念ながら玩具にすぎないだろう。
「つまり貴方はいつでもティアさんの命を奪える。違いますか?」
サヴィーリアはスティナやティアと同じ部屋で生活をして、わかったことがある。
いつの間にか同じ毛布に包まっていること。朝起きてもすぐ隣に温もりがあること。精霊たちと湯浴みすること。濡れた髪を梳いてあげること。一緒に朝ごはんをつくって食べること。
彼女たちは、サヴィーリアの家族だった。《大陸》にたった一人残してきた弟と同じ、かけがえのない肉親。
家族を傷つけようとする者が、目の前にいる。力だけではかなうまい。ならば、時間は稼げるだろうか。わたしたちにとって、いいえ彼女にとって、かけがえのない時間を。
「はからずもレオ君自身が言ったとおりよ。ティアさんがまだ秘めている真実を、私たちに共有してくれるつもりなら、それを知った後私たちが選びます」
尾を振るケイオスの気持ちいい毛皮を撫でると、サヴィーリアは背筋を伸ばした。黒い長衣からのぞく猫の尾が揺れていた。
「どうか、その時間をいただくことはできないものかしら」
処刑までの時を何とかして稼ぎたかった。少なくともティアがなぜルーに殺されたがっているのか、その理由を知ることができるように。さらに欲をいえば、ティアが自ら生きたいと思えるように。
「生きることは、死ぬことよりもっともっと難しいわ。どんなに錬金術を極めても、死者に再び生命を与えることはできない。100の命のために1の命を犠牲にする? そうね。これが天秤なら、100の錘を載せたほうに傾くけれど」
かつてはサヴィーリアもこの数式を信じていたものだ。両親を事故で亡くして以来、弟とたった二人で生きていたころ。《島》に招かれる前までは。
「命を載せる天秤は、ここにはないわ。《満月の塔》で願いを叶えでもしなければ、失ったものはもう戻らない。100でも1でも同じこと」
「そう、ですね〜」
賛同するスティナは、少し悲しげだった。
失ったものは戻らない。けれど、そこに立ち止まっているだけではだめだ。
ロミオが不思議そうにスティナを見上げる。スティナは時々、とても悲しそうな顔をする。精霊の友だちもたくさんいるのに、ケイオスだって隣にいるのに、どうしてだろう。ロミオにはわからない。
「どうか時間を。そして真実を」
真実を手にしたほうが、この状況を突破できる。
クラウディウスがいない今が、貴重な機会だった。
「俺も賛成だ」
アレクが飾り尾を弄びながら、サヴィーリアに軽くうなずく。
「俺はどうやら、ティアのとりまきには数えられていないみたいけど、まあそいつは当然としても、だ」
「ごめんなさい、悪気があったわけじゃない」
「いいさ。俺は俺の持つ力を、あんたたち相手に使うつもりはないし。それを言っておきたかった」
アレクは元、間者であるものの、戦闘にとりわけ秀でているわけではなかった。もっともこの場のまろうどに比べれば、一番の使い手であるかもしれない。
「そういうことで、いいのかな」
エルリックがぽんとルシカの肩に手を添えた。身震いして見上げるルシカ。一瞬の快感が駆け抜け、視線の先にエルリックの笑顔。
「ここは《大陸》じゃありません。この《島》には《島》のルールがある。すべてのまろうどには、物語を平等に紡ぐ権利がある。僕は自分の命乞いも、ティアさんの命乞いもしない。そんな必要はないと思っているから。僕らはティアが語る真実を知りたい。レオくん側の話はわかりました。次は、ティアさんから話を聞く番です」
一呼吸おいて、エルリックは少年をじっと見つめた。
ハリネズミのマント。お仕着せの新帝の衣装。
「それでもあなたが殺したいなら、どうぞご自由に」
つまりは、一同は誰も、レオには従わないのであった。
■Scene:夢見るは我が君(4)
離宮でレオは孤独だった。
そして、孤独であることをレオは今この瞬間知らされたのだった。
「時間をくれてやる」
少年は意地悪な気配を従えていた。
「ティア」
少女はびくりと顔をあげた。
「おまえが知るところを、おまえのおともだちとやらに話せ」
ティアへの物言いは常に命令形だった。
「よかったな、ティア」
レオは白い剣の柄で頬杖をついた。
「選ばせてやろう。この場の誰に殺されたいかを」
今、この場でティアが真実を告げるのならばという条件付きで、レオは剣を引いた。
「……あなたが命じた者でなければ」
か細いけれども、確たる意志を持ったティアの言葉。
「……誰の剣でも受けるつもりよ。それがきっとルーの選択だから」
まろうどは全員、ティアの真実を受け入れる覚悟ができていた。
ティアは《鳥》の力を発現させた。風が吹き、どこからかたくさんの白い羽根が舞い上がる。まろうどたちの髑髏がざわめいた。快楽の予感を感じ取って、ちりちりとした高揚感を湧き上がらせている。
「……みなさん、ごめんなさい。巻き込むつもりはありませんでした……」
ひゅうひゅうと、風を切る羽根の音。
かすかに混じるのは、ルシカのオルゴールの音色だ。
「真実のなかに、わたしが殺される理由もあります……だから、エルリック」
ティアはその青年にそっと頬を寄せた。
「レオより先に、どうか突き刺して。あなたの剣で私を殺して」
ひゅうひゅうと風を切る羽根の音、そしてオルゴールの音色。ティアのささやきは耳に届かない。
約束してね。
唇はそう読めた。
「どうして、ティア……」
エルリックが答えるよりも早く、ティアの記憶が離宮をアストラへと変える。
■Scene:深淵――ティアの記憶(1)
高い天井。弓なりのアーチ。彫刻の柱。色硝子の絵窓。
暗い広間。揺らめく蝋燭の灯り。闇に沈む玉座の輪郭。
立ち込める甘い血の匂い。重苦しい静寂。
目の前に、少年が立っている。彼は自分を見下ろしている。
まぶしい金髪は少年がこちらへ歩み寄るたび左右に揺れる。そのたび、少年の横顔は青年にも見える。横顔が、わたしは好きだった。形の良い鼻や、はっきり動く唇や、涼やかな顎の線や、時折朱に染まる耳。
このひとは明日、16の誕生日を迎える。同時に統一王朝ルーンが復活するという。
わたしには――よくわからない。
「おねがい、ころして」
鳥の羽根で仕立てた外套にくるまり、わたしはぺたんと腰を落としている。
大理石の床はぞっとするほど冷ややかだ。わたしは知っている。大理石にすらわたしは疎まれている。この先に玉座がある。明日はここで戴冠式が行われる。そこで彼は、統一王になる。
わたしには――よくわからない。
「おまえは逃げるんだ、ティア」
ルーの声も、わたしは好きだった。
「《死の剣》の届かぬところまで」
隠遁していた叔母さまが贈った白剣。重そうに引きずって、ルーはゆっくり言った。
「俺のことなど忘れてしまえ。それでおまえは、生き永らえる」
「……いやです。けしておそばを離れません」
「俺が死んでもか」
「わたしも死にます」
「俺に殺されてもか」
「ルーはわたしを殺しません」
彼が私に手を伸ばそうとする。その手は赤く、血に染まっている。わたしは手をとり、彼を抱く。
外套がまだらに飾られる。大理石の冷たさも、彼に抱かれると何も感じない。
「俺はおまえを殺したくない――だが《死の剣》は違う。俺にささやき続ける。側にある命を屠り終えるまで休みなく」
「……ルー」
「でも俺は、この剣の主が俺でよかったと思っている」
「……ルー?」
ルーは顔を上げた。玉座の脇の人影が笑った。
「馬鹿をいうんじゃねえ、ルー。その剣にずいぶん世話になったくせに」
わたしも振り返った。ルーの腕の中で見たのは、玉座に腰掛けようとする、ルーそっくりの少年の姿だった。
「レオ」
安堵の響きをこめてルーは彼をそう呼んだ。ルーの知り合いというひとを、わたしははじめて見た。
「どうしてここが……いや。それよりも。おまえが来てくれてよかった。後のことはぜんぶおまえに任せるよ」
「つくづく馬鹿な奴だ」
ルーそっくりのそのひとが、ルーと違ったしゃべりかたをするのは不思議だった。
奇妙な鏡のなかに迷い込んだみたいだ。
「その女から離れろ、ルー。何なら神殿騎士を呼んだっていいんだぜ」
「呼ぶがいい。全員叩ききってやるまでだ」
ルーの腕が離れる。また大理石の床がわたしの足を凍らせる。
レオは玉座に座っている。もうひとつの人影が、その傍らに控えている。
「その方をお放しください、陛下」
「……神殿騎士か。レオ、どうした風の吹き回しだい?」
あんなに奴らを嫌っていたおまえが神殿騎士の犬になっていたのか、とルーはからかった。
「聖地の連中と手を結んだのはおまえのほうじゃねぇか」
神殿騎士。聖地を守護する神聖騎士の筆頭。
でも、それが何だというの?
「兄さまは渡さない。たとえ《大陸》が望もうとも!」
わたしは夢中で叫んでいた。
「……なんと聞き分けのない。亡き父帝陛下にどうやって申し開きなさるおつもりですか」
神殿騎士はずかずかとわたしに歩み寄ると、ぐいと手首をつかんだ。本能的に、わたしはこの男が恐ろしかった。神殿騎士エンド。冷徹な目をした男。
ルーは白剣をエンドの喉元に突きつける。一突きでおしまい、けれどルーはそうしなかった。
「兄さまはもうつとめを果たしたもの! あとはわたしと暮らすの、ずっと一緒に……」
「……陛下」
エンドはぞっとするほど冷ややかに、わたしを見下ろしている。
「貴方もそろそろ分を弁えたらいかがです? ルー」
「ティア、最後の約束をしよう」
わたしはうなずいた。ルーは必ず約束を守ってくれたから。
「あの場所から逃げるんだ。俺も後から追いかけるから、今すぐ、ひとりで。できるかい?」
従うしかなかった。約束の場所で再会したときには、彼は、わたしだけのものになる。
わたしは、こくりとうなずいた。わたしたちは約束の口づけをかわす。
ごく一瞬の、そして最後の口づけを。
(約束だ。あの場所でもういちど会おう……さよなら、ティア)
(……さよなら。わたしだけのおうさま)
わたしは裸足で走り出す。
海を目指して。入り組んだ地下水路、小船をもやった場所を探して。
誰かの断末魔が聞こえる。けれど振り返らない。追いかける足音。もしそれがルーのものではなかったら?
大きな手が肩をつかむ。期待に胸をふくらませ、わたしは振り返る。
「……エンド」
それは約束した相手ではなく。
「ようやく手に入れましたよ、私の“新帝陛下”」
肩に載せられた手の甲には、紫陽花の刻印が見えた。
ルーはずっと守ってくれていたのだ、わたしが真実を、帝国を、《大陸》を背負わずに済むように。
わたしがずっとティアのままでいられるように。
(……さよなら、僕の愛したひと)
視界の影に、伝書鳩が飛んでいくのが見えた。
■Scene:深淵――ティアの記憶(2)
溢れる快感。
舞い散る白い羽根。群れて羽ばたく無数の伝書鳩。
鳥たちは自分の中から溢れてくるのだ。招く鳥――。
姫君たちに愛でられる間、獣の皮を被ったティアは無心だった。
その心は何も映さず虚ろで、姫君たちの力を注がれては悦ぶだけの器にすぎない。
(獣の皮を選んだおまえは、獣でいることを選んだのですよ)
(罪なのではない。罰なのではない)
(贖罪を望みながらまだ獣でいることを選んだのはおまえ)
(逃がさない)
(逃げることを望まないから)
(獣でいるなら許されると思ったの?)
(なんて可愛らしいのかしら。くすくすくす。おまえが望むように、おまえのことを罰しましょう)
(さあおいでなさい、我らの可愛い玩具。《パンドラ》)
溢れる快感。
舞い散る白い羽根。群れて羽ばたく無数の伝書鳩。
(貪欲ね。素敵だわ)
(たんとお食べ。たんと呼ぶがいい)
(おまえの望みを叶えてくれる、通りすがりの傍観者。新たなるまろうどたちを)
(物語の舞台へ)
(そして我らに見せておくれ)
(くすくすくす。ほうら、もっとお食べ――)
(くすくすくす)
■Scene:あなたに殺されるために
「さあ、離宮に集いしまろうどのかたがたよ!」
くつくつ笑ってレオは叫んだ。
「選ぶがいい。片やは生まれ卑しき影武者。片やは女装癖持つ色狂いの皇子。より統一王にふさわしいのはどちらだ?」
「わたしは、ティアでいたかった。それだけです」
ティアはそっと目を伏せ、両手を広げた。誰かの《死の剣》に選ばれるために。
6.世界の望む道 へ続く
1.輪舞曲|2.贖いの歌|3.聴かずや我が調べを|4.真昼の業も今は終わりぬ|5.夢見るは我が君|6.世界の望む道|マスターより