2.互いの領分
■Scene:互いの領分(1)
アンナ・リズ・アダーとともに束の間の時間を過ごしていたクラウディウス・イギィエム、そして傍らのマロウが異変を察知したのは、飛び立つ伝書鳩を見てであった。
マロウは空を仰いだ。
「あいつらがもうここに来ることはない」
マロウは落ち着いていた。清々しくもある。きっと長い間、ジニアとマロウはこの日が来ることを考え続けていたのだろう。
一度止まったオルゴールが鳴り出したこと、伝書鳩が飛び去っていったこと。そして、疼痛。
「《島》が崩れるんだね?」
オルゴールを載せた手をそっと胸元にひきよせるアンナ。
「姫さまの物語が動き始めた。ジニアがそう言っていた」
マロウは淡々と告げる。
「俺たちの役目も終わりだ。かといって、別に何も変わらないんだろうが」
餌を取る必要がなくなり、新たなまろうどが招かれなくなった時点で、マロウの仕事はほとんどなくなっていたのだった。
「崩壊……私の責任だ」
色が変わるほど唇を強く噛みしめて、クラウディウスは吐息をこぼした。
この状況でまだそう言い張るのか、とアンナはひとりごちた。自分もひとのことは言えないけれど、よくよく頑固者である。
「誰の責任とか、責任じゃないとか、そんなのはともかく騎士さま」
戻ろう、と言いかけてアンナは目を瞠った。
クラウディウスは上着の内側の縫い取りを、力の限り引きちぎっていた。ぶちぶちと乾いた音。縫い取りの糸が無残に捩れて、釦ははじけ飛んだ。
聞きたくない音だった。誰が仕立てた服であれ、目の前でその仕立て屋が踏み躙られたも同然だったから。
クラウディウスの手がむしりとったのは、若獅子の紋章だった。引きちぎってほつれた糸が、それをより無残なものに見せていた。階級章も同様だった。
「……オルゴールを」
アンナがオルゴールを返すと、クラウディウスは引きちぎったそれらの紋章を、オルゴールの中に押し込んだ。
「騎士さま……」
きっと晴れがましい式典において、お偉方手ずからつけてくだすったのだろうに。あの徽章を縫い付けた帝国のお針子も、優秀な騎士団員と一目近づきになりたくて、一針一針刺繍したのだろうに。
クラウディウスは手帳に数言走り書き、オルゴールとともに無理やりアンナに押し付ける。
「もう騎士ではない」
オルゴールの蓋がぱたんと閉じた。
響いていた和音の一方が途絶える。
「急ぎ《島》を離れられよ。副官にすべて任せるがいい。道は彼がおのずと開いてくれるだろう。できることなら貴女を帝都までご案内したかったが、それも叶わぬ。お別れです、マエストロ」
クラウディウスは言うなり、館へと駆けて行った。若獅子の紋章があった上着の左胸は、無残にちぎれた傷痕をさらしていた。
「あいつ……」
マロウが眉根にしわを寄せ、クラウディウスの背を見送る。本当に大丈夫か、と言いたげに。
「まったく……なんて勝手なお願いなんだろうねえ」
アンナはかぶりを振った。無性にリモーネに会いたくなった。
どいつもこいつも、勝手なお願いばかり。
挙句に騎士ではない、ときた。
「だったらいったいどうして、離宮に行こうとするんだか」
行く先はレオのもとに決まっている。役目を果たすつもりなのだ。騎士でなくなった以上、クラウディウス個人として……なんだ。騎士でなくたって、やることに変わりなんてないじゃないか。
アンナは手早く裁縫道具の手篭を空けて、オルゴールと手帳をその中にそっと納めた。ろくでもない指示文書なら投げ捨ててやろうとも一瞬思ったが、開いてみると、詩人ラファエルの名で数編の作品がしたためられていた。これならまあいいか、と許したアンナである。
「私も館に戻るよ。あんたは……どうするんだい」
マロウに呼びかける。
「この分だと、階段から上がってくるのは難しそうだな」
今ははるか眼下に砕ける波を見下ろし、マロウは海中のまろうどの去就をを慮った。
「さすがに無理だよ、きっと。無事ならいいんだが」
ルーサリウスが率いているなら安心だと言い聞かせるアンナである。
「ジニアを見つけたら、俺も大広間に行く」
手が要るなら貸そうという意思のこもった返事だった。
ローラナの音術はそんな場面に、等しくまろうどの耳に届けられた。
『――今、私のおなかの中にはレヴルがいるのです。私はそれを望み、レヴルもそれを望みました――』
■Scene:互いの領分(2)
ヴィクトール・シュヴァルツェンベルクは歌姫リモーネとともにあったが、すぐさま異変を察知した。研ぎ澄まされた感覚は、失われた子どもを現実へと放り込んだ。
多重に響くオルゴールの音色に加え、ローラナの音術による告白。《島》の隆起。
それらのもたらす快感の消失は一時に押し寄せ、その後も疼痛という形で留まり続けた。
「しでかしやがったな、あの馬鹿!」
すべての事象の原因をどうせクラウディウスだろうと決め付けるヴィクトール。
普通はオルゴール職人ルシカを思い浮かべるのだろうが、ヴィクトールには、これ見よがしに机に置かれていたあの粗末なオルゴールの印象が強すぎた。
「目を離すとこれだ……ったく面倒な」
その後はリモーネにもよく分からない罵倒語がひとくさり続けられた。
「時間はあまりありませんね」
リモーネは言いながら目を閉じてみた。寄せて返す快楽の波が、疼痛のそれに変わっている。
再び目を開けると、ヴィクトールは慌しく身支度を整えていた。夜明けでもないのに、足元から忍び寄る冷気にふと身体を震わせるリモーネである。
「面倒ごとは一切合財、《大陸》に帰ってからだ。ローラナは大広間にいるんだったか? 丁度いい。帰り道にはあそこを使うしかないだろうからな」
ヴィクトールは気づかない。
「先に行って待ってろ」
リモーネは無言でヴィクトールの顔を見つめた。薄紗なしで前にするヴィクトールは、荒々しく奮い立つ野獣そのもののように映った。
「俺はあの馬鹿を探してから合流する。どうせ《島》と心中だとかろくでもないことしか考えてないだろう、迷惑だからな……何だ、怖いか」
リモーネは首を振った。
怖くはありません……いいえ。どうしてトール様、そんなに饒舌なのでしょう。あの方のことになると。
それは言葉にはしない想い。
代わりにリモーネの口をついたのは、あまり可愛げのないこんな台詞。
「私は離宮の方々に声をかけてから参ります」
ああ、とヴィクトールはうなずいた。
いかにも興味なさそうに、唇の端を持ち上げただけの返事であった。
■Scene:互いの領分(3)
「なんと危険な……夫人の選択は……私の責任だ」
ローラナの懐妊をわがことのように喜んだ、その分だけ失意が大きい。唯一の明るい話題が、騒乱の種子に変わってしまう。
クラウディウスはアンナと別れると、隠しから髪留めをのろのろと取り出した。
ローラナと交わした約束の証だ。彼女はこう言っていた。「私が何者かに襲われることがあれば、必ず助けに来ていただきたいのです」と。代わりにクラウディウスは短剣を差し出した。
離宮に急がなければならなかった。レオの正体が暴かれた今、惨状がより凄惨を極める前に。
しかしその前にひとつだけ、やらねばならぬことがある。
「……グリューネヴァルト夫人」
髪留めに触れ、そっとささやきかける。わずかに髪留めが振動した。
「我が短剣を帯びておられるのならば、お応えを……」
それは髪留めを持つクラウディウスだけが可能な、いわば閉じた通話だった。
再び、髪留めが震える。
(クラウディウス様)
ローラナの声が耳元で蘇った。
危険な振る舞いを怒りたいのを抑え、クラウディウスは問う。
「レヴル姫と話せるというのはまことでしょうか」
(私には、レヴルの意思が伝わってくるのです。私はこれから、ウィユの居場所を確かめて、レヴルがウィユに伝えたいことがないかどうか聞いてみるつもりです。それからもちろん、脱出方法のことも)
ローラナの答えは明確だった。少なくともその声音からは、レヴルを宿した重みや、そのことに対する不安といったものは感じられない。
夫人と会話するたびに、母が強くなるさまを目の当たりにするクラウディウスである。
「私もぜひともレヴルに聞きたいことがあるのですが」
(それも聞いてみましょう。どんなことを?)
クラウディウスはささやいた。
髪留めの持ち主が、息を呑んだのがわかった。
(……わかりました)
ややあって、ローラナの声が答える。
(その答えがわかりましたら、お伝えします)
これで、いい。クラウディウスは髪留めを元の隠しに納めた。
あとは。
ふさわしい死を準備するだけだ。
姫君の答えを待つまでの間に、レオに会っておかねばならない――。
■Scene:互いの領分(4)
ヴィクトールがクラウディウスを見つけたのはそんな時だ。
姿を認めるなり乱暴に問う。
「何をやってる。聞こえたんだろう? 姫君どものおもちゃ箱もこれでおしまいだ」
クラウディウスは、無言をもって答えた。もちろんそれは、かえってヴィクトールを苛立たせたにすぎないのだが、無法者のほうにしてみれば予想通りの反応でもあった。
だからヴィクトールは手短に用件のみを告げた。
「俺は逃げる。脱出口は《島》の中――胎内だと考えてる。この際手段は選ばん。人数は多いほうがいい。レオのことなど、《大陸》へ帰ってから好きなだけ議論出来るだろうが」
言い方は突き放しているが、これでも精一杯、脱出を促しているヴィクトールである。
なぜ俺は、とヴィクトールは思った。
なぜ俺は、脱出の提案なんかわざわざ上官殿にしているのだろう、と。
「すまぬ」
クラウディウスは掠れた声で謝った。ヴィクトールは聞き間違いかと思ったが、次の言葉でそうではないと分かった。
「卿に科せられた罪状など、わけもなく消し去れるはずだったのだが……そこまで準備が整わなかった」
「馬鹿か」
放っておけば騎士は《島》かレオかどちらかと心中するだろう。
……なぜ俺は、そこに手を差し伸べるような真似をしたのだろう? どうだっていいじゃないか、他人の事など。なぜわざわざ他人の生き方に口を出すんだ、俺は。
「そんなこと頼んでもねえ。ぐだぐだ抜かす前に脱出だ。全部それからだ」
「そんなことをすれば、後悔に苛まれる以外、私にどう生きる術が残されているというのだ?」
そんなこと。
例えば、生き延びること。信じるものや、未来や、過去や、もうひとりの自分のために行動すること。《大陸》へ帰ること。新しい自分として生きてゆくこと。他人の幸せを願うこと。
「どうか私を弄ばないでくれ。それから、いい加減に、拗ねるのはやめるがいい」
「……」
「何者も恐れず、意思のまま生きていけるとしたら。卿はどんな風に生きていくのか、見てみたかった」
「何も変わらんぞ」
苛立ち。それから……。
「貴様の都合のいい幸せなんか押し付けるんじゃねえ。それで何だ? 神にでもなったつもりか! 可哀想な奴を導いてやった、感謝しろとでも? いい加減にしろ! 結局貴様もあのクズ野郎と同じか!」
「随分ひねくれた物言いだな。だから少しも幸せそうに見えぬのだ。もう一度やり直すがいい。まだ卿は間に合うだろう」
「……あのな」
幸せという言葉がクラウディウスの口から発せられるに及ぶと、ヴィクトールはせせら笑うしかなかった。
同時に、先ほど来の疑問に答えを見つける。
俺は。
こいつに幸せになってほしいのだ。
クラウディウスに。合わせ鏡に。
「貴様も同じだろう」
そして、気づいてしまった。
クラウディウスの上着から、無残な形で紋章が毟り取られている。クラウディウス以外の誰かの仕業とは考えにくかった。
彼は騎士であることを放棄したのだ。
「何だ? 下らぬ生き方などしていれば、私は卿を容赦なくあざ笑うぞ」
ヴィクトールは続けるつもりの言葉を飲み込んだ。言葉を交わしても無為だと思った。色彩があれだけ雄弁に真実を語るのに、言葉はなんと上辺を飾り立てるにすぎないのだろう。
ヴィクトールはそれきり、クラウディウスに背を向けた。
何者も恐れず、意思のまま生きていけるとしたらだと? どんな風に俺が生きるか、だと?
馬鹿を言うな。
それは、俺じゃない……貴様がやりたかったことだろうが。
■Scene:互いの領分(5)
ヴィクトールの後ろ姿を、見えなくなるまでただ見守っていたクラウディウス。
隠しの髪留めに、再びローラナの囁きが宿った。震える髪留めを取り出すと、ローラナの声は、先の問いへの答えを告げた。
(レヴルはこう言っています……《満月の塔》――レヴルは《島》と呼んでいますが――は、閉ざされてしまった、と)
《島》の隆起や、物質の変容によって、かつて《月光》たちがつくりあげた空間は、その機能を急速に失いつつあった。
「では、願いを叶える方法も……」
(レヴルは、願いを叶えると言っています)
わずかにローラナが声を潜めたような気がした。実際には、髪留めを経て再現されたその声音に、変わりはないのだが。
(《贖罪の島》すなわち《満月の塔》は閉ざされ、その役目を終えましたが、今レヴルは、新たな《塔》において願いを叶えるのだと言います)
「新たな《塔》……」
そうです、とローラナは告げた。
(生まれる前のあらゆる可能性、希望と絶望に引き裂かれる前の祈りとして。私のおなかの中でレヴルは、千年前に意図された神の力をようやく孕んだのです……つまり、私を新たな《満月の塔》として)
「ならばグリューネヴァルト夫人」
クラウディウスは掠れた声で囁いた。
「いや。新たな神に私は願おう。代償には……」
言いかけたクラウディウスを、ローラナは先んじて制した。
(レヴルはあなたの願いを聞き届けるでしょう)
クラウディウスは目を閉じ、その時の訪れを待った。
願ったのは自身の贖罪。
2年前のあの日の若獅子騎士団に、どうか勝利ではなく敗北をもたらしたまえ。
罪なき皇子を切り伏せ、その勝利を称えたすべての軍人どもに災いあれ。
統一王朝の礎にその命を投げ出した公子よ、まこと玉座にふさわしき継承者はあなただったのですから――。
3.惑いの旋律 へ続く
1.あなたの望む道|2.互いの領分|3.惑いの旋律|4.分かつもの|5.もう一振りの剣|6.この手を離さない|マスターより