PBeM《ciel RASEN》 - 2005 : 第7章

3.惑いの旋律

■Scene:承前――あなたに殺されるために

「さあ、離宮に集いしまろうどのかたがたよ!」
 くつくつ笑ってレオは叫んだ。
「選ぶがいい。片やは生まれ卑しき影武者。片やは女装癖持つ色狂いの皇子。より統一王にふさわしいのはどちらだ?」
「わたしは、ティアでいたかった。それだけです」
 ティアはそっと目を伏せ、両手を広げた。誰かの《死の剣》に選ばれるために。
「誰もそんなの選べないよ! お願い選ばないで。これで終わりにして!」
 ルシカ・コンラッドは叫んだ。
「誰かが選ぶのさ」
 レオはそう言って、ティアの胸に深々と白剣をつきたてた。ティアは大きく瞳を見開き、そして、ゆっくりと床にくず折れた。

■Scene:惑いの旋律(1)

 崩壊の予兆が、離宮にも現れている。
 ティアを白剣で貫いたレオは、ゆっくりと、その剣を引き抜いた。
 対峙するまろうどたちはエルリック・スナイプ、アレク・テネーブル、スティナ・パーソン、サヴィーリア=クローチェ、そしてルシカ。
 今《島》中に響いている旋律は、ルシカのオルゴールの音だ。そこに耳慣れぬカノンが混じる。
「いやああああああっ! ティーちゃん!」
「ティアさん!」
 ルシカとサヴィーリアが、すぐさまティアに駆け寄った。
「どうしよう、誰か、誰か助けてよ! ねえティーちゃん死なないで! あんなヤツのために死んでしまわないで!」
「息があるわ」
 手早く傷を確認したサヴィーリアが、ルシカに微笑んで見せた。
「まだ大丈夫」
「よ……よかったあー」
 ルシカはティアの傍らにしゃがみこみ、両手で顔を覆った。
「ええ……」
 本当は。
 サヴィーリアにも、ティアが持ちこたえられるのかどうかわからない。彼女は医者ではなかった。ルシカには微笑んだものの、実際は、助かる見込みは低いだろうと思った。
 ティアの胸の傷は深い。服が朱に染まっている。
 貫かれ、引き抜かれたにしては流血は少ない。だがレオの剣の刀身が、白い輝きをいや増していることに気づき、それはなぐさめにならないのだと悟った。
 手持ちの薬で癒すにしても、ここでは無理だ。
 ああそれにしても……この薄い胸。ここに双つのふくらみがあったならば、ティアは苦しまずに生きることができたのだろうか?
 いや、そんなことが問題なのではないだろう。サヴィーリアは唇を噛んだ。
「皇帝なんかいらない。ティーちゃんのこと邪魔する理由になんてならないよ!」
 ルシカはレオに対する憎悪をむき出しにして泣いた。
「そいつを救ってどうする。皇帝に立てるのか?」
 問い詰める口調のレオに、ルシカはただ、うわごとのように呟いた。
 逃げるの、逃げるのよ、と。
 ただそれだけ。それだけなのに。
 もう二度とティアをレオに会わせない。それだけでいいはずなのに、どうして?
 ティアの口から、湿った水音とともに血が溢れる。瞼は閉じられたままだった。
「救ってどうするのかは、こっちで決めるだろ。ティアは戦わない」
 アレクは言いながらレオを、そしてその手の白剣を見つめた。
 汚れたハリネズミのマントと、その下のアンナの手による衣服を見つめた。
 ちっぽけな、十代の少年。
「それより気づいているか? 様子がおかしい」
 珍しくアレクの語気が荒かった。
「海中で何かあったんだ、きっと」
 レオはぎらぎらとした目つきでティアを見下ろす。
「ふん、その魔物の死を見届けてからだ……何、もうじき終わる。せいぜい苦しんで死ぬがいい。そうすりゃ俺が、願いを叶えることができるというわけだ」
 サヴィーリアが、きっとレオを見返した。
 ティアは死なせない。絶対誰も死なせたりしない。こんな願いと生と死の連鎖は嫌だと思った。追い詰められて苦しんで。
「魔物の命を代償に、《大陸》へ帰還するよう願えば終了だ。違うか!」
「……違うわ、きっと」
 脱出する方法が必ずあるはずだ、どうか間に合いますように。サヴィーリアは祈った。
 そうでなければ、ティアは何のために生きてきたのかわからないもの。
 ローラナの音術はそんな場面に、等しくまろうどの耳に届けられた。
『――レオは、アンタルキダスの影です。レオの目は見えています。彼は非常に危険な存在です。人を傷つけること、殺すことを厭わない人物です――』

■Scene:惑いの旋律(2)

 恐ろしい沈黙が、離宮に降りていた。
「影武者……アンタルキダスの……」
 エルリックが苦悶の表情を浮かべた。帝国役人にとってその言葉の意味するところは重い。しかしそれ以上に、エルリックはエルリック個人として、レオの心中を慮って苦しみを味わったのだった。
「そうか。君が必要とされていたのは、影武者だったからなのか」
 裏返せば、レオの存在意義はそこにだけしかなかった。新帝そっくりの姿かたち。鏡に映る像は、心の中まで映せやしない。
「おい、あんたたち! ティアを連れて先に逃げろ、早くっ」
 アレクは呆然としているサヴィーリアたちを促した。
「レオは何とかする」
「通してくれるかしら、レオ君」
「無理矢理にでも通ってみせるよ。剣があるもの」
 離宮の扉を遮るように立つレオへ、ルシカは再び憎悪にまみれた視線を投げた。
「エルリック! あんたもだ、ティアについていくんじゃないのか?」
 アレクは、ティアと仲良しだったエルリックももちろん、サヴィーリアやルシカと共に行くだろうと思っていた。だが。
「アンタルキダス……」
 エルリックは嘆息して、動かなかった。妙だとアレクはいぶかしんだが、じっくり考えている暇もない。
「アレクさん、レオ君は」
「分かってるよ、置いていきやしない。連れて行くようにする」
 サヴィーリアは悲しげにうなずいた。ティアを運ぶ役には男性の力を借りたかったが、どうやら叶いそうにない。
「ティーちゃん、行こう……」
 泣き疲れたルシカがその背にティアをかついだ。びっくりするほど細くて軽い、弱々しさだった。
「ここで死んだら、あいつの思い通りになっちゃうよ。ティーちゃんの願いが、叶わないままなんだよ。ねえ、サヴィちゃん……あたしたちどこへ行けばいいのかな……」
 涙ももう流れない。憔悴しきった表情で、ルシカがサヴィーリアを振り返る。
 サヴィーリアにもはっきりとは分からない。ただ、ローラナの元に行けば姫君や他のまろうどにも会えるだろうと思った。
 アレクがレオを押しとどめる間に、ティアを連れた二人は離宮を後にした。

■Scene:惑いの旋律(3)

 森の木漏れ日の下で過ごすのが似合う少女、ティア。
 仲の良いまろうどたちに囲まれて、おずおずと、でも楽しそうにかすかに笑う少女、ティア。
 彼女の――彼、とは思えなかった――のことを考えると胸が痛んだ。レオとティアの間に流れていた、あの緊迫した雰囲気に、ティアは耐えられそうになかった。
 そして実際、耐えかねたのだろう。予感のように、その暗い想像はリモーネの中に留まっていた。見知らぬルーというひとも、ティアが《大陸》の重さに耐えられないことを知っていたに違いない。だからティアを、ティアのままでいさせた。
 通路を急ぐリモーネの足に、鱗のような胴衣がまとわりつく。暗い想像はひしひしとリモーネの中でふくらんだ。
 離宮に着くよりも先に、ティアを連れたサヴィーリアたちに会ったのは幸運というべきか。
 しかし疲れ果てた様子のルシカや、気丈に振舞おうとしながらもどこか不安定に見えるサヴィーリアに、思わず息を飲む。あのお茶会のときと比べて、なんとふたりの憔悴しきっていることか。
「サヴィさん、ルシカさん」
 これまでのリモーネであれば、束の間でもかける言葉を選んだことだろう。
 しかし今、唇はするすると彼女たちの名前を紡いだ。
「それに……ティアちゃん?」
 ルシカの目にぶわっと涙が溢れる。予感はあたってしまったのだ、とリモーネは思った。ネリューラさんが言っていたっけ……ちょっとした勘があたるのって、なかなか便利なのよ、なんて。
 どんな強がりがネリューラにそう言わせていたのだろう。
「大丈夫よ。死んではないの。まだティアの物語は続いているわ。アレクさんが逃がしてくれた……」
 サヴィーリアはそういいながら、ティアの髪の毛をそっとなでた。幼い妹に姉がしてやる仕草と似ていた。
「それでは、アレクさんはまだ離宮に?」
 ルシカがうなずく。他にも、スティナやエルリックらが、レオとともに残っていることも告げた。
「あの場はアレクさんに任せるしかなかった。卑怯だと笑う?」
「そんな、とんでもありませんわ」
 リモーネは驚いてサヴィーリアを見つめる。
「あのね。私、本当はレオ君に、一緒に脱出しようって提案するつもりだったの。でもできなかった。それに私、知っていた……レオ君は、私がそう持ちかけたくらいで素直に乗ってくれるような人ではないこと」
 わがままよね、と錬金術師はため息をついた。重く、長い吐息であった。
 そうかしら。それはわがままなのかしら。リモーネはそっと心の中でたしなめた。
「レオだって死んでほしくないの。誰ひとり死んだりしないでほしい。王の影武者でも、色狂いの皇子でも、何だって。どれだけひどい人か私が決められるはずないし、まだ少年じゃないの」
「サヴィさん。アレク様にお任せしたのは間違ってはいないと思いますわ」
 リモーネは目を伏せる。
「行きましょう。大広間に行けば、脱出できるかもしれないとお伝えに来たのです……トール様の案なのですが」
 わがままの定義が何なのか、見失いそうな気がしていた。
 薄紗を外した世界はあまりにも激しい手触りでまろうどたちを包む。
 その中にあって、目を閉じたティアだけは、ひとり木漏れ日の中にいるように見えた。
 それは、リモーネが選んだ存在だった。

■Scene:惑いの旋律(4)

「アンタルキダス」
 その名をエルリックは繰り返し呼んだ。
 少しだけ、レオの気持ちが分かった気がした。
「誰が皇帝になるのか選ぶのは僕たちじゃない」
 どうしてもっと早く気づかなかったんだろう?
 ひどく喉が渇いていた。ペルガモンの街で、商店街を歩き回っていた頃のことをなぜか思い出しながら、エルリックは続けた。
「ルシカさんも言ったけど、選ぶのは僕たちじゃないし。ましてや国とか世界とか《大陸》でもない」
 唾を飲み込んだ音まで聞こえそうなほど、離宮は静まり返っていた。オルゴールの音だけが場違いに、穏やかな空気をまとって響き渡っている。
「選ぶのは君なんだ。君自身、レオ、君なんだよ」
「レオ君……貴方は本当に、本当に王さまになりたいのですか〜」
 スティナが両手を広げた。大きな帽子が風に吹かれ、離宮の隅に飛んでいく。
 気にせずスティナはレオに歩み寄った。腰まで届く長い白髪がなびく。
 その姿は驚くほどティアと似ていた。細身の身体も、背格好も、飾りの片翼も、儚げな雰囲気も。
「《大陸》に平和を……戦乱の世に終止符を……統一王朝ルーンの復活を……それは、本当に貴方の願いなのですか〜?」
 スティナはレオの真実が知りたかった。
「何が言いたい!」
 レオは苛立っていた。手にしたままの白剣をスティナに向ける。スティナはひるまなかった。
「君の本当の望みを教えてくれ。知りたいんだ。まだ間に合うから」
「だから何を言ってる? 本当のとか、本当にとか! 嘘だったらどうだって言うんだ? ルーならそう言っただろう。でもあいつだって、アンタルキダスだったらそう言うはずだと、皇帝らしく演じてただけだ。結局誰もいねえんだ、アンタルキダスこそが幻なんだよ!」
「でも僕は」
「うるせえっ」
「レオ、聞いてほしい。ねえ、統一王朝だって、影武者だって、周りがそう仕立てあげたからなんだろう? 君はそう演じるしかなかった。分かるよ……」
「何を! おまえらの望みは何なんだ? ティアを皇帝に仕立てて取り入ろうとしてるんじゃねえのか!」
「違うよ、レオ……!」
「レオ君、見失わないで。私たちは〜……」
 スティナは自分の身につけていた皮ベルトを外した。ティアに渡したのと同じ、お守りにつけてあげるつもりだった。少なくとも、レオはひとりではないという証になればいい、と思ったのだ。
 皮ベルトを手にしてレオに近づくスティナ。
「来るな! おまえも、おまえも!」
「レオ! 僕は君のことが分かるんだ。僕だって、必要とされない辛さを知っているから!」
「レオ君は、ルーになりたかったのですか〜? ルーに頼まれたのでしょう〜?」
「やめろ!」
 叫んだレオの手元で、白刃が閃いた。
 悲鳴。

■Scene:惑いの旋律(5)

 荒い息をつくレオ。
 彼の白剣は、エルリックとスティナとを一太刀で切り裂いた。
「あ……かは……」
「レオ……」
 糸が切れた操り人形のごとく、ふたりはくたくたと倒れこむ。先ほどまで立っていた場所に、赤い染みを残して。
 スティナは意識が遠のく寸前、命じようとした。
「だめ……です、ケイオ……」
 だが黒い子犬は見る間に巨大化し、前足の鍵爪でレオを組み敷いたかと思うと、深々と牙をつきたてた。赤い両目は怒りに満ちてらんらんと輝いている。レオの肩口は魔獣の牙に食い破られて、ハリネズミのマントは鮮やかな赤に染まった。
「だ……め……」
 力なく呟くと、それきりスティナは静かに瞼を閉じた。アレクの目に、一瞬、さまざまな精霊の姿がスティナに重なって見えた。魚みたいなの、風みたいなの、獣っぽいの、燃える火のようなの。それらはスティナを悼むように佇んでいた。
 黒犬ケイオスも、召喚師の瞳に吸い込まれるようにして消える。ケイオスの噛みちぎった右腕だけが傍らに転がった。
「ルーサリウスさ……連絡、を……」
 血とともにわずかな言葉をを吐き出しながら、エルリックは意識を失った。
「糞ーっ!」
 アレクは呻く。
 何に対してか分からないけれど、やりきれなかったのだ。
 可哀想だと思っていた。剣を振り回すだけの無害な少年、少々強がっているところもあるけど、まあ、許容範囲だと。
 レオも追われていたのだ。追われて追い詰められた結果がこれだった。
 ……なんだ、俺とそう変わらないじゃないか? こんな出会いでなかったら、それなりに擦れた人生を肴に話が弾むこともあったかもしれない。
「権力者って面倒だな、逃げちゃえばいいんだ、俺みたいに。そしたら楽になれるのに」
 からっぽの心のまま、アレクはとりとめもなく呟きながら、レオを背負った。失われた右腕からこぼれる血がアレクの半身をも赤く染めていく。生臭い匂いが鼻をついた。
 黒っぽい服は汚れが目立たなくていいやなどとどうでもいいことを考えながら、アレクはサヴィーリアを追い、大広間を目指した。そんなことを考えていなければ、からっぽになった心が恐ろしいもので埋め尽くされてしまいそうだったからだ。
 レオはなぜ、エルリックとスティナを斬ったのだろうか?
 理解を示そうとしたふたりに対して。両手を広げて迎えようとした彼らに対して。
(……馬鹿が……ルー、おまえのせいだ……)
 かすかな色彩が、レオの想いをアレクに伝える。
(……誰も、信用など……薄っぺらい言葉など……不要だとルー、決めたのはおまえだ……打算ゆえなら許しもした……クラウディウス……)
 アレクは無言で、ハリネズミのマントの棘に耐えた。
(糞……ふたりも殺し……なぜ……)
 ともかくも、レオはまだ生きていた。生きてさえいれば、物語は続くのだ。
(なぜ、願いが叶わない……? なぜ……)
 まだ終わりじゃない、とアレクは信じた。

■Scene:惑いの旋律(6)

 アンナが辿りついた離宮は、魔獣が荒れ狂った後もかくやと思わせる状態だった。
 見慣れた部屋のあちこちに、真新しい血痕が残されているだけでも眩暈がする。しかも見知ったまろうどが横たわっている。言葉もなかった。踏み躙られた髪留め紐を見つけたときには、自分をののしりたい気持ちでいっぱいになった。
 なぜ、役人さんが? なぜ、召喚師さんが?
 たくさんの疑問符がアンナの頭上に踊る。これは夢なのだろうか。だったらどんなにかいいだろう!
 血の痕は良く見れば、点々と部屋の外へと続いていた。レオやティアの姿はない。いるに違いないと思ったクラウディウスやヴィクトールの姿さえも。
 がっくりと膝をつく。足にはめた木の鈴が床にぶつかり、素っ気無く乾いた音を立てた。
「誰かが……レオを連れて行った。レオの側に、ちゃんとついててくれた人がいたってことだね……」
 そのことは、喜ぶべきだった。なぜならアンナは、最後にレオとともにあるために、離宮に戻ってきたのだから。
 ローラナの声がすぐ側に聞こえた。
 アンナはうつむいたまま、虚ろな表情でその声をただ、聞いていた。音の羅列がうまく言葉に戻せなかった。
「何をしているの」
 冷ややかに浴びせられた、氷のような声。ジニアのそれだった。
「ようやく戻れるというのじゃないの。どうしてそんなに泣きそうなの」
 かつん、と厚底の靴が鳴る。
 ジニアは最後に館を見て回っているのだと告げた。他の者たちはもう、大広間に集っているのだとも。
「早く行きなさい」
 怒るような口調のジニアに、アンナはよろよろと立ち上がる。
「何をしているのか、何をしたいのか、もう分からないよ」
 言い訳めいた言葉を呟いた。
「どうでもいいわ。そんなことにもう意味なんてないのだから。それとも……はじめから、意味などなかったと言ったほうがいいかしら」
 足掻いても無駄だったと? 《島》でのすべての出来事は、この結末を押し留められなかったと?
 アンナは自答する。
 違う。たとえなるべくしてこうなったのだとしても、そこには決断があったはずだ。
 まろうどの選択。それこそが、ジニアやマロウや、姫君たちが成し得なかったものだ。。
 アンナは腰をかがめて、汚れた髪留め紐を手に取った。
「キヴァルナという人は、幸せだったろうよ」
 なぜ、そんな言葉がこぼれてきたのか。自分でも分からない。
「……そうね」
 ジニアの横顔が、ふと緩んだ。
「物語を曲げたのではなく、そういう終わりを選んだのかしらね」
 髪留め紐を、手篭に押し込む。このまま置いていくには忍びなかった。
 ジニアはちらりとアンナを見やり、くるりと背を向け出て行く。
 心中を見透かされたようでアンナは焦りながら、ジニアの後を追いかけ……最後にもう一度、離宮を振り返った。ふたりのまろうどにお別れをいうのが辛かった。
 そしてアンナは、見た。
 ふたりが倒れていた場所には何もなかった。まるではじめからそうであったかのように。
 ……ただ、エルリックが選んだ飾りの猫尻尾と、スティナが選んだ翼の片方だけが痕跡であった。

■Scene:惑いの旋律(7)

 大広間はすでに、蠢き燃える闇に半ばを埋め尽くされていた。
 姫君の玉座であった物質は、それが形を変えて流れ出たとは思えないほどの大きさでもって、まろうどたちの足元に打ち寄せ、絡みつく。
 すでにローラナの音術とスティーレの魔法によって、まろうどたちは互いの状況を理解していた。
 自ら大広間に集ったのは、すなわち、ルシカに背負われたティア。見守るサヴィーリアとリモーネ。
 ジニアとアンナ。マロウ。
 アレクに抱えられているレオ。そしてヴィクトール。
 それで、全部だった。
「この真下に、先行した連中がいるわけだな。おあつらえむきだ」
 ヴィクトールはしたり顔だ。
「《島》から脱出するには、胎内とやらに行くしかない。とはいっても、この《島》全体が隆起して海面ははるか下、珊瑚の階段は使えねえ。手っ取り早く飛び込むのが近道だ」
 乱暴な口調でそういうと、リモーネに向かって顎をしゃくった。
 リモーネは心得た風でヴィクトールに身を寄せる。たちまち歌姫は横抱きにされた。口を開く間もなかった。
「……嫌ならそう言ってくれ」
 リモーネは頬を染めて、無法者の胸に身を預けた。
「飛び込む? この、ぬらぬらの中にか?」
 アレクが顔をしかめる。ヴィクトールはこともなげに、その通りだと告げた。彼のもう一方の手には、白い剣が現れている。闇に呑まれようとする大広間で、その白剣だけが、まばゆく輝き続けていた。
「ためらう気持ちは分かる。だが他に手はない。それにこの剣がある」
 ヴィクトールは、この剣が意志の力になると信じていた。
 快楽は消えた。死を弄ぶ姫君ももういない。けれども剣は、髑髏とともに残されている。
 つまり、まろうどの切り拓く意志の象徴として、この剣は燃える闇をも切り裂けるのではないだろうか。
「……怖い、けど……」
 ぽつりとルシカが言った。
「手伝うわ」
 ルシカが口ごもった言葉を、サヴィーリアが引き取って続けた。
「他に方法なんて思いつかないもの。それに、シストゥスさんの手帳にもあった。帰り道は外ではなく内にあるって」
「……早く。ティーちゃんが死んじゃう前に、行こうよ」
「うーん」
「どうした、別に無理強いはしねえぞ」
 呻いたアレクは、ややあって、かぶりをふった。
「悪い、違う。俺も手伝う。嫌だったんじゃないんだ」
 ただ。
 アレクは思った。
 この場にクラウディウスがいなくて、自分がレオを背負っているというこの光景が、とても不思議に思えただけだったのだ。
「ついていくよ」
 アンナも賛同する。ジニアやマロウも同意した。
「ずいぶん、賭け好きの奴らが集まったもんだな」
 ヴィクトールはおかしげに笑うと、白い剣を頭上にかざした。
 刺々しい篭手が白い光に照らされて、リモーネの顔にぎざぎざの影を刻んだ。
「どうなっても文句は言うなよ」
 その台詞は、片手に抱いた歌姫に向けられた言葉。
「手荷物のつもりです」
 歌姫は静かにささやいた。ヴィクトールの中の子どもが怖がって泣かぬよう、あやし続けようと思う。けれど口には出さない。身を預けているだけで十分だった。
「……ふん」
 ヴィクトールは、大広間の床だった部分に向かって、白い剣を突き立てた。輝く剣が闇を抉る。あたかも口を開けた洞窟のように。蠢く闇はすぐに傷口を塞ごうとしている。ヴィクトールはためらわず、白い剣をもう一度振るった。抉れた箇所は人を通すほどの大きさになった。
 白い剣を灯火のごとくかざして闇へと飛び込む無法者。残りの者たちも後に続く。闇はあっという間に全員を包み込んだ。
 ヴィクトールの白い剣だけが闇の中に軌跡を残していた。

5.もう一振りの剣 へ続く

1.あなたの望む道2.互いの領分3.惑いの旋律4.分かつもの5.もう一振りの剣6.この手を離さないマスターより