PBeM《ciel RASEN》 - 2005 : 第7章

6.この手を離さない

■Scene:ルシカ

 ルシカとサヴィーリアは、ティアの手を離さない。
「あたしの街! あたしの工房! 音楽を愛するひとたちの住む街!」
 絵画のひとつに懐かしい風景を見つけ、ルシカは甲高く叫んだ。
「アルク!」
 なぜか、顔はくしゃくしゃで泣きながら。
 旋律球は千切れてどこかへいってしまった。
 《クラード》だってどこかへ行ってしまった。
 なくしたものばかりだ。
 でも……この手は離さないよ。ティーちゃん。
「似てるわ、私の住んでいた街と。ふふ。あの工房の影から弟が今にも出てきそうだわ」
「ええっホントー? あれ、錬金術のお店じゃなくって、オルゴールとか楽器とか作ってる工房なんだよ? 似てるなんて不思議。ねえ、音楽と錬金術ってどこか似てるのかもね! サヴィちゃんの弟くんがオルゴール作ってたりして……」
 いつもエプロン姿で店番をしている弟、ランテが、一心にオルゴールを作っている場面を想像してサヴィーリアは吹き出した。
「そうねえ。悪くないわね。私よりランテのほうが器用だもの」
 言いながらサヴィーリアは思い出した。そうそう。スティナに習った朝ごはんを、弟に作ってみせなくっちゃ。精霊を召喚してのマドレーヌは無理だけれど、あのひとときの一端くらいは、再現できるかもしれない。
 スティナの微笑やぬくもりを思い出して、サヴィーリアはそっと涙を拭いた。
「ああそう、じゃあ素質ありってことでいいかな! どうしようけっこうふたりで息を合わせて演奏できちゃったら……っていうかサヴィちゃんもそんなんだったら見てるだけじゃダメだから!」
 一息でルシカが言う。
 ……そうこうしている間に、ルシカの故郷を映した絵画は通り過ぎてしまう。サヴィーリアが慌てて目をつりあげた。
「ちょっと、ルシカさん! いいの? 故郷に戻るつもりだったんじゃ」
「いいの! あのね! だって、聞こえる?」
 弾むルシカの声に混じって、それは聞こえた。
 心を揺さぶる旋律、ルシカのオルゴールにも似た。
「《クラード》の、曲が聞こえる街へ!」
 ティアを連れたふたりは、そのオルゴールの音がこぼれてくる風景を選んで飛び込んだ。
「ありがとう《満月の塔》! ありがとう《月光》! ありがとう……《クラード・エナージェイ》!」
 眼帯が外れたルシカの瞳に、《大陸》はとても眩しく映った。

■Scene:リアル

「あ! あ! あ……!」
 半開きの口からそんな声が漏れる。
 いつの間にか、卵の殻が割れていた。
 中にあったのはリアルの手作りの白犬人形――のはずだった。
 だが、今目の前に現れたのは、生身の大きな白い犬だ。しかも大きい。リアルが乗ることもできそうなくらいだ。長めの毛は艶やかに輝いて、紫色の瞳が神秘的にリアルを見つめ返している。
 目を合わせてリアルは身ぶるいした。怖いのではなかった。
「神性工芸!? に、なっちゃったの? そんな、まさか!」
「それって、精霊が宿った人形のこと?」
 リアルの隣にいたスティーレが尋ね返した。
「えっと。こ、こんなのはじめてでわかんないよ。おばあちゃん……」
「もう、何を弱気なこといってるの」
 スティーレの目には、それはもう、本物の犬に見える。スティナが連れていたケイオスが、子犬そのものに見えたように。
「……女のコの人形とかだったら、ちゃんと女の子になったのかな」
 珍しく、リアルがあたふたとしている。
 スティーレは微笑んで、リアルの代わりに問いかけた。
「アイメス?」
 白い犬はゆっくりと尾を振った。
 そうして足元の羽根を蹴立てて走り出す。
「待って!」
 スティーレは片手でどうにか尾を握る。
 リアルも手を伸ばした。するりとブーツが抜ける。かまわずに、アイメスの体をしっかりと抱えた。
「ドコに行くのよ、アイメス! コラ、言うこと聞きなさい!」
 白い犬は答えない。
 ただ嬉しい、そんな弾んだ足取りで駆けて行くアイメス。
 スティーレとリアルは、アイメスに引っ張られるようにして絵の中に飛び込んだ。
「いいのよ、アイメス。貴方の行きたいところなら、どこへでも」
 久しぶりにわくわくする気持ちが、スティーレの中に湧き上がっていた。

■Scene:リオン

 ルクスさんは、ゆっくりと輝きを強めた。
 《大陸》の日差しは、《島》のそれより数段柔らかい……と思っていたのは、リオンの思い込みだったようだ。
 荒涼とした大地が眼前に広がっていた。午後の斜光は少しも衰える気配がなく、背の低い草もまばらな大地に、ふたりの影を少し長めに映しだしていた。
 乾ききっている風は涼しい。巻き起こる砂埃にリオンは顔をしかめた。遮るもののない白茶けたこの景色は、リオンの見覚えのないものである。彼方は霞んでいた。
「ネリューラさん」
 繋いだ手の先に微笑む美女の姿を認めて、リオンは安堵する。
 もしも、振り返って彼女がいなかったら……。そんな心配は不要だった。
「大丈夫ですか」
「うーん、砂が目に痛いわねえ」
 リオンは眼鏡をかけているが、ネリューラはそうではない。砂混じりの風がまた吹きつける。リオンのまとめ髪もネリューラのまっすぐな髪も、もみくちゃにされる。リオンは身にまとう白いローブを広げ、せめてもの風よけを形づくった。
「それにしても、どこかしら、ここは」
 手庇で地平を見晴るかすネリューラ。リオンは驚く。
「え……てっきり、ネリューラさんの故郷かそれとも知っている場所なのかと」
「違うわ」
 肩をすくめてネリューラは笑った。
「そういう絵もあったけど、それじゃつまらないじゃない」
「そうか。そうですよね」
 つられてリオンも笑った。こわばらせていた肩の力が抜けていくようだった。
「うん、あっちに街があるわ。ホラ見える? 灯りがつきはじめた……」
 じきに日が落ちる。そうしたら、それは懐かしいエルの時間だった。
 リオンは思い出す。エルだけでなく、ネリューラも、その時間にたいそう馴染み深いということを。
「街灯り、何だか懐かしいですね」
「ふふ。ただの街じゃないわね、あれは」
 そう言ってネリューラは、リオンの手を引いた。
「行きましょ、エル……じゃなかった、リオン」
「ただの街じゃないって……どういうことです」
 肩を並べて歩き出しながら、リオンは尋ねた。
「あの看板、読んでみて」
 ネリューラが指さす先に見えたのは。
 精霊が踊り狂う絵柄に重ねて明滅する、巨大な文字――グランドカジノ。
 折りしも、太陽が地平に近づき夕陽に変わろうとする頃合い。原色の光の精霊たちが、北に南に、とりどりの光の帯を放射して、旅人たちを呼んでいる。そこだけはまるで、《島》の色彩言語で描かれた光景のようだ。
「楽しそうだと思わない?」
「ほんとだ」
 ふたりは手をとりあったまま、カジノへ向かって歩き出す。
 思いついたように、リオンがこう言った。
「ネリューラさん、いつか話してくれましたよね。白い鳥に招かれた時のことを」
「……あれはランドニクスのカジノだったわ。あの日、大勝したのよ私」
「不思議な紳士に出会ったと」
「ふふ。そういえば何者だったのかしら、彼」
 その日ネリューラは賭けをした。白い鳥が現れたならどうするか。紳士はネリューラの選択に興味があると言っていた。
 翌朝、ネリューラの前に白い鳥が現れたのだ。
「その紳士が、あのグランドカジノにもしもいたら、ネリューラさん、どうします?」
 リオンは笑みを浮かべる。
 なんとなく――ネリューラの言葉を借りるならそれは、「ちょっとした勘」だった。あの紳士はネリューラを待っている。きっと。
「あらエル、それって、賭け?」
「そうかもしれません。いかがです?」
 すぐにネリューラは、いいわ、と答えた。
「いかにもいそうな気がする。紳士がいるほうに賭けるわ」
「……それじゃあ賭けにならないな」
 ルクスさんは、自分は賭けないという意思表示なのか、ふわふわとふたりの頭上を飛んでいく。
「占い師みたいなこと言うのね、騎士のくせに」
「元ですから」
「当たるも八卦、当たらぬも八卦……か」
 ネリューラは天を仰いだ。
 あの紳士もかつて、蒼穹に白い伝書鳩を見たのだろうか……?
 グランドカジノが幻想的にまたたいて、ふたりの旅人を吸い込んでいく。

■Scene:リラ

 かたっぽだけの、茶色のブーツ。それだけが手の中に残ったものだった。
 後ろに手を回すと、便利だったももんがの尾もなくなっていた。
 胸の奥が痛んだ。痛くて、苦しくて、涙が出てきて止まらなくなった。
「リアルちゃん、行ってしまったっすね……」
 ぽたりとしずくがブーツに落ちた。リアルはスティーレとともにどこかへ向かった。行き先はアイメスが知っているのかもしれない。
「……ん」
 気のせいだろうか? ブーツがぐねぐね動いているような気がするのは。
「メーレンくん。リラ・メーレンくん、何やってる? 大事な話の途中なのだがね」
 リラと机ひとつはさんだ向こう側に、後頭部がかなり薄くなった教官が座っている。女子学生の成績表には赤い線が引かれていた。
 ここは、とリラは気づいた。あの日のあの場面。白い鳥に招かれたあの場面だ。
 自分は戻ってきたのだ。大切な日々の記憶を残したままで。ヴァッツとリラと、そのほかたくさんの人々と別れて。手の中のブーツは、確かにあの子がいたことの証だ。
 リラはブーツを見つめながら、ぼんやりと教官の話を聞いていた。上級クラスに進学するためには、補助金の出る分野を選択しなければならないこと。リラの頑張りを学校としてはとても評価していること。けれど上級クラスに進学すれば、働きながら自分で学費を納めるのが困難になるであろうこと……。
「先生、決めました」
 あの日迷っていたリラは、もう迷わなかった。
「そうか、上級クラスに進学するというのだね」
「違います、先生」
 太い眉の下、目を大きく見開き、リラは身を乗り出した。
「卒業します」
 はっきりと口に出した瞬間、さまざまな思いがリラの中に蘇った。
 これでいい。好奇心だけでこのまま進めば、誰かを傷つけてしまう。千年前、《月光》が苦しんだように。哀しみを生み出す研究はしたくない。
 できない。
「な……なんだって。進学を諦めるというのかね?」
「先生、いろいろと相談に乗ってくださってありがとうございました。感謝してるっす」
 がたんと椅子を揺らす。立ち上がり、深く一礼する。
 教官がぐねぐね動くブーツに一言いうより先に、リラは教室を後にしていた。
 研究室であれこれ理論をこねくりまわすよりも、リラの性に合っていそうな職業がある。下町を駆け回る新聞記者になろう……見習いで頑張って、少しお金が貯まったら旅行作家になって。
 リラは駆け出していた。
 そしたらヴァッツさんとリアルちゃんに会いに行こう。
 うん、そのほうがずうっといいっす!

■Scene:クラウディウス

 軍馬のいななき。無数の剣戟。
 二百名以上もの死者を出したあの日の戦場であることを、彼は理解した。
 若獅子騎士団が、先帝アイゼンジンガーに連なる血族という血族を根絶やしにして回っていた日々のひとこま。
 アイゼンジンガーの息子のひとり、皇子ミハイル。
 アンタルキダスの兄にあたるその人物に、強力な騎士団が与えられなかったのは、彼が盲目であったというその一点が理由であった。
 盲目という弱みを背負っていては、とうてい帝位につけるまい。
 世論も含め、大方のとりまきたちがそう思っていた。アイゼンジンガーもそう思っていただろう。クラウディウスも例外ではなかった。
 ……その日。
 狼に惑い散る羊の群れを蹂躙するかのように、若獅子騎士団はミハイルを指揮官に押し立てた一群を蹴散らした。驚いたことに、敗色が濃厚となり武器を捨ててからも、兵はひとりも背を向けることなくミハイルを守り続けた。
「俺の首を打て!」
「いや、俺がミハイルだ!」
 敗残兵は盲目の主を囲むようにして、我こそが帝王の血族だと名乗りをあげる。声がとぎれることはない。累々たる屍の中、彼らはわずか五十人ほどの一団に過ぎないのに、何が彼らをここまで誇り高くあらしめるのか、若獅子騎士たちはいぶかったものだった。
 馬上の騎士たちは、敗残兵包囲の輪を狭める。
 小隊長であるクラウディウスは一馬身乗り出し、命じた。
「処刑せよ。一兵たりとも洩らすな、引き立てよ」
 すぐに、若獅子騎士たちが慣れた動作で敗残兵たちを追い立てる。見晴らしのよい丘の上で、首を並べさせたところをはねるのだ。残虐こそは、慈悲。慈悲こそは、残虐。それが若獅子たちの唱える聖句であった。
 盲目の皇子の見分けはすぐについた。
 《島》での記憶を持ちこの場面に居合わせているクラウディウスはおののいた。
 ミハイルの仕草や振る舞いは、本性をあらわす前のレオと、とてもよく似ていたからだった。
 レオがアンタルキダスの影武者ならば、ミハイルのことも、当然知っていただろう。知っていて、必要に迫られて《島》で演じたのがミハイルだったとは。クラウディウスは呪った。
 そして。
 そのときが来た。
 頭を垂れる敗残兵が、丘の上に列を作る。
 指揮官の首級は指揮官の手柄である。ミハイルの前に立ち、クラウディウスは言った。
「……《大陸》は沈みかけている」
 あたりは静まり返っている。興奮した軍馬が時折鼻息を荒げる以外、物音はない。
 クラウディウスの小隊は、隊長がミハイル皇子を手にかける瞬間を待っていた。
「舵をとる者が必要です」
 ミハイルは無言だったが、クラウディウスはかまわず続けた。
「すべてを生贄に捧げましょう。ミハイル皇子」
 皇子が身じろぎした。
「《大陸》にどうか平和を。無辜の民に安らぎを。統一王朝なりし暁には、聖なる玉座にて戴冠を……」
 騎士たちがざわめきはじめる。小隊長は何を言い出したのだろう。
「ミハイル皇子よ。次代の帝位は貴方のものであれ。若獅子騎士たちに告ぐ。今このときより、我らはアンタルキダスの指揮を離れ、ミハイル殿下を擁し、殿下の御為、簒奪されし帝位を奪還するものである! 精鋭たる同胞たちよ、我らが力を、正しき帝位継承者の御許へ!」
 戦場は阿鼻叫喚に包まれた。若獅子騎士たちは忠実に小隊長の軍令を守ったのだ。
 ほどなくして帝都を恐ろしい報が駆け巡った。
 精鋭たちが裏切り、アンタルキダスは重傷を負ったそうだ、粛清が始まったそうだよ……。

■Scene:アンタルキダス―― 2 years ago

 クラウディウスは首謀者として、とある場所へと引き出された。目隠しを施され虜囚として。
「正しき帝位継承者の御許へ、と言ったのはおまえか」
 目隠しを外され目にしたのは……白銀の鎧に身を包み、面頬を外して小脇に抱えた、そのひとは、アンタルキダス。
 違う。
 ルーだった。
 重傷を負わせたというのは誤報か、とクラウディウスは思った。そして思い当たった。
 重傷を負ったのは影武者レオだったのだと。
「正しいも、正しくないも、ないのだ。これは戦争なのだから」
 ルーは哀れんだ目をしていた。レオが決して見せることのなかった表情だ、とクラウディウスは思った。
「おかしなものだ。誰も《大陸》などほしくないのにね。人は、手に持てるだけのものしか持つことはできない……でも、俺がそれを言うわけにはいかない」
 ルーは饒舌だった。
「俺の影武者をひとり屠ったくらいでは、帝国を鎮めることなどできないよ。だが……」
 クラウディウスの首筋に、見慣れた白い剣を押し当て、ルーは言った。
「礼を言おう。哀れなミハイルの力になってくれたことを。あれは無事だ。戦が終わるまで隠れていろといったら、怒り出した。死に場所を見つけたのに何をする、とな」
 なぜ。
 クラウディウスの疑問は声にならない。けれど彼は問い続けた。
 なぜ、火種を残しておくのですか。なぜ引導を渡さないのですか。後々騒乱を巻き起こすことを分かっていながら、生き永らえさせる。それは、未来の平和に対する冒涜ではないのですか。
「今を生きることが俺の役目なのだろうと、俺が決めたからだ。未来のことなど知らん。それはまた、別の奴の仕事だから」
 無言の問いに、ルーは答えた。
 そうしてクラウディウスを哀れんだまま、ルーはその白剣を振るった。
「ありがとう、不詳の兄どもに代わって礼を言う」
 最期にクラウディウスが受け止めた色彩は、真っ赤な血に塗れたティアそっくりの少女が微笑む姿であった。
 ――誰かの犠牲の上にある平和。それでも……いいの?
 それでもいい。それが俺の役目なのだから。俺がルーで、アンタルキダスであるために。
 あの子がティアであるために。

■Scene:ヴァッツ

 裕福な商家の広い自室にぽつんとひとり、座り込んだヴァッツは泣きじゃくっていた。
 そしてふと、思った。
「あれ? 俺、何で泣いてるんだっけ……」
 思い出した。長い夢を見ているような《島》での日々。
 リラはいない。手の中にあるのは、リラが背負っていたリュック。申し訳ない気持ちであけると、学生のリラらしく、筆記用具が数点と一冊のノート、そして少々磯臭い投網が入っていた。
 マリィ袋、あるわけがない。あのまま《島》に置いてきてよかったんだとヴァッツは言い聞かせた。父の思い出の品だけれど、仕方がない。何もかも元通りというわけにはいかないのだろうし。
「そっか……戻ってきたんだ」
 呟いてヴァッツは立ち上がる。2メートルに届こうかという長身をわずかにかがめて、窓を開けた。
 爽やかな風がそよいでいる。狼の仮面もなくなっていた。頬に風を受けるのは気持ちがよかった。
 思い立って、リラのノートをよく見てみた。律儀にリラは、学校の名前を表紙に記していた。なんだかそんなことがリラらしい、とヴァッツは微笑む。考えてみたら、あの陣地がきっちり定められた部屋で、お互いどこの街に住んでいるかなんて話もちゃんとしていた。
 ……なんだ、すぐじゃないか。
「決めた、リラを探しに行こう。そしてリアルにも会って……」
 そうして、何て言おう?
 お友だちからもう一度お願いします、とか、そんな感じなのかな、俺。
 ともかく、再会の第一声を考える時間はたっぷりある。
 ヴァッツは嬉々として鞄に荷物を詰め始めた。
 一番最初に、リラに似合いそうなりぼんを選んで詰めたのは、内緒である。

■Scene:アンナ

 初めての帝都は、どこを見ても人ごみにごった返していた。
 大通りにひとりきりで立ちつくすアンナの前後左右を、たくさんの人間たちがぶつかりながら歩き去っていった。そのたびアンナは小声で謝った。裁縫道具をしまった籠を抱き、背を丸めて。
 どうにか軒下に逃げ込んで、ふと我に返ると、乱れ髪をショールで隠した女性が、いかにも垢抜けぬ風でぼんやりと立っていた。
「……うん」
 手ぐしで髪を梳き、ショールを羽織る。背を伸ばし、籠をそっと手に提げた。
 少しはましになった気がする。
 どこかの工房で働かせてもらおう、そうして帝都でしばらく頑張ってみよう。帝国を毛嫌いするだけでは街も、人も、お互いが傷つくだけだったから。
 あのひとは、かつて、たしかにここにいたのだ。
 アンナは軒先から通りの左右をきょろきょろと見渡した。
 彼方には皇宮が聳え立っている。上を向けばいやでも目に入ったろう。皇旗たなびく尖塔を従えた壮麗な宮殿は、しかしアンナの目に入らなかった。
 そして、人が多い方向へ向かって歩き出す。流されないように、一歩一歩自分の足で。

■Scene:リモーネ

 見たことのない街角に、歌姫は立っていた。
 きらびやかな胴衣の代わりに、伝書鳩を追いかけたときの舞台衣装を身につけている。久しぶりのいでたちに、リモーネは、戻ってきたのだという実感を持った。大きく開いた背中から、ひんやりと風が通り抜けていく。
 見知らぬ街に、行ったことはなかった。だからたくさん浮かんだ絵の中で、長く過ごしたラフィオヌの風景だけはそれとわかったのだ。
 なのに……戻ることはしなかった。ためらっているうちに行過ぎてしまった。
 街角から通りを見渡して、リモーネは安堵する。
 乾いた街だった。霧に包まれてはいなかった。そうして、霧を恐れる理由に思い当たった。ヴィクトールの中の色彩を垣間見た、あの霧の街を恐れていたのだと。そのことに気づくと、ラフィオヌを避けた訳も理解した。
 何も失わず自分だけが元通りの暮らしに返ることへの遠慮が、けっして住み慣れたわけではないあの街を、遠ざけていた。
「なんだ、結局《大陸》だな」
「トール様……?」
 ひとりだと思っていたリモーネは、その声に驚き、振り返る。
「帝国じゃなさそうだが、どのあたりなんだか」
 厚い胸板も刺々しい手甲をはめた腕もない、幼い少年がそこにいた。
「糞ったれ」
 光を集める髪や乱暴な口調は変わらない。小さくなっても傲岸不遜な態度もそのまま、ヴィクトールはぱきぱきと首を鳴らした。
「なんだ、笑うなよ」
 思わず微笑んでしまったリモーネは口元を隠し、
「嬉しかったのですわ」
と言った。
 仏頂面のままヴィクトールは、ずかずかと歌姫に歩み寄り、つま先を精一杯伸ばして乱暴な口付けを与えた。
「……やりにくいな」
 リモーネはまたくすくすと笑った。
 トール様といると、何だか前よりも、笑う回数が増えた、とリモーネは思った。

■Scene:ヴァレリ

「ああ、帰ってきた」
 ヴァレリは大きく背伸びした。
「牢獄に逆戻りだったらどうしようかと思ったよ」
 ぺろりと舌を出し、悪くないね、と呟いた。
 本当は、楽しかった頃に戻れたら一番よかった。例えば学生時代のころに。
 けれど自由は再び手に入ったのだ。
「あんたもお尋ね者なんだっけ」
 アレクが気の抜けた口調で問う。
「まあね。先輩って呼んでもいいけどさ」
「……レオが、死んだよ。先輩」
 ヴァレリはふんというような顔つきで、アレクの抱えているレオに近寄り、手首を取った。
「ほんとだね。せっかく《大陸》に戻ってきたってのに、運のない奴」
 ヴァレリが手を離すと、だらりとそれはぶら下がって揺れた。
 アレクはぼんやりと佇んでいた。レオはまるで眠っているようだ。アンナがずっと側についていた、平和だったころの離宮がふとよぎった。アンナが低い節回しで歌う歌が懐かしかった。
「俺、レオってそんな悪い奴じゃなかったと思う」
「へえ。懺悔かい」
「かもしれない。話してみたいことはけっこうあったんだ」
「惜しい男」
 ヴァレリは肩をすくめた。終わってみれば、あっけないことのように思えた。
 《島》の日々、暗がりでの濃密な営み。すべてが遠のいていく。ただ、髑髏の刻印だけを残して。
 無言のまま、アレクは土を掘り出した。道具は使い込んだ愛用の短剣だ。クラウディウスはどうなったのだろう。脱出のときにも姿は見なかったような気がした。
「手伝ってくれって言えばいいだろ」
 ぶらぶらと辺りを一周して戻ってきたヴァレリが、恩着せがましく手伝い始めた。
「集団行動が苦手そうだったからさ」
「……あんただろ、そりゃ。ところでここ、どこなわけ?」
「知るかよ」
 レオのための墓穴がそれらしくできたころには、レオの身体は消えうせてしまっていた。
 アレクは仕方なく、アンナの仕立てた服を埋葬した。
「……何にも残らないんだな」
「元々何にもなかったのさ」
 ヴァレリはもう一度、大きく伸びをした。

■Scene:ロザリア

 レシアの姿がなかった。
 それだけで、いいようのない孤独感がロザリアを襲った。
 ……脱出するとき、髑髏の扉を囲んだとき、彼女はいただろうか?
 思い出せなかった。どこかの絵画に飛び込み、生きるはずだった生を謳歌してくれればいいと願う。あるいは、妹とともに過ごした日々に戻っているならば、たとえ同じ時間を生きることが叶わなくてもかまわない。
 祈ることしかロザリアはできない。
「神はいます」
 目を閉じ、ささやくように呟いた。本当はルーサリウスと、もっと神について語りたかった。神聖騎士として、その機会を失ってしまったことをロザリアは後悔していた。
 ルーサリウスの問い――「神とはなんだ」。ロザリアはこう答えたかった。
「神は神です。存在を疑ってはなりません」
と。人として神との関係を見つめ直し、反省し、自らを戒めること。そのために神聖騎士ロザリアは生きるだろう。神に仕える者たちの範に、いずれはなるかもしれない。
 あたりは見覚えのある風景である。遠くに《聖地》アストラの大神殿が見えた。
 《聖地》の中を描いた絵もあった。だが気が引けて、《聖地》の近くに戻ることを決めたのだった。最後は歩いて帰り着くのだ、と彼女は思った。
 今日はここで休もう。そうして朝早く起きて、《聖地》に戻ろう。報告は一仕事になるだろうから……エンデュランス卿に会うことができればよいけれど。やるべきことは、それこそたくさんあった。
 明日からは新しい日々が始まる。
 《大陸》への帰還を感謝しながら、ロザリアは、レシアやマロウや、そのほかのまろうどのために祈りを捧げた。

■Scene:ルーサリウス

 指が軽くなった。
 手帳にペンを滑らすときにも、薔薇の指輪はよく邪魔になった。
 今はもう、そんなことはない。
 ペルガモンの役場に元通り、ルーサリウスは復帰した。固い木机は古臭く、インクをこぼした染みも、時たま顔を見せるエルリックも相変わらずで、自分だけが長い夢を見ていたのかもしれない、と思う。
 だが、人の目には触れない髑髏の刻印が、それは夢ではなかったことを示している。
「《パンドラ》? そんな指示、出ましたか」
 エルリックはきょとんとした顔で、ルーサリウスを見返した。
「《パンドラ》なる存在に関するあらゆる情報を集め帝都に至急送ること」
 内務省が送ってよこしたはずの指令を繰り返しても、エルリックはぴんと来ないらしい。
 ……記憶を失っている。図らずも《島》での推論が立証されたことに対して、ルーサリウスの感慨は薄い。
 もっとも、友人のゼフィに聞いてみても要領を得なかった。集団記憶喪失なのか、それともはじめからなかったことになったのか。その謎はおいおい解けるだろう。そうして日々を同じように繰り返すルーサリウスだった。
 正しくは。
 日々は同じように見えて、同じではなかった。
 セシアがちょくちょく顔を出すのである。どうやらエルリックを丸め込んだらしい。人手が足りないときを見計らって手伝いにやってくる。元々有能で気立てもいいセシアは、役人たちの間でも評判がいい。仕事に打ち込んでもらえるのはありがたいし、そのうち幸せを見つけてほしい。半ば親のような気持ちで、遠くからセシアの仕事ぶりを目にするルーサリウスである。
 鼻先を、暖かな湯気がくすぐった。
 エルリックがお茶を淹れてくれたのだ。
「ありがとう」
 一口含んで、ぼんやりと考える。ジニアはどこへ帰ったのか、と。
 彼女が選んだのは何の変哲もない街並みだった。それでも、とルーサリウスは思った。
 いつか彼女に会えることを信じて、自分はその街を探すのだろう。仮面を外したジニアの素顔を、そういえば一度も見なかった。

■Scene:ローラナ

 ローラナが選んだのはもちろん、夫の墓前だ。白い鳥に招かれたのと同じ場所である。
 あのときは、たったひとり生きるという孤独に涙していた。今はもうひとりではない。おなかの中にはレヴルが宿っている。
「あなた。報告することがたくさんありますわ」
 そっと身をかがめ、ローラナは夫の眠る証に触れた。
 刻まれた文字の実感がようやく湧いてくる。夫はもういない。けれど、その生は無駄ではなかった。ローラナは面をあげた。
 ――魔術師ウォルフ・グリューネヴァルト、ここに眠る。
「ねえ、あなた」
 あなたがいてくれたから、あなたの赤ちゃんがここにいるんです。私、あなたを追いかけて死ぬなんて言ってしまってごめんなさい……もう、大丈夫です。
 長い時間をかけて、ローラナは《島》での出来事を報告した。姫君のこと。出会ったまろうどたちのこと。これからのこと。
 それから……。
 願いを叶える代償に、レオを選んだこと。
 自らの手で、ひとつの命を奪ったこと。
 でもそれは我が子を守るためなのだ。レオが生きて《大陸》に戻ったとしたら、大量の血がまた流される。
 そしてレヴルは願いを叶えた。
 他のまろうどの命を選ぶことはできなかった。あるいはレオの生きた意味とは、その点にあったのではないだろうか? すなわち、歴史を修正するための踏み台として。歴史に名を残すことのない生贄として。
 ローラナは首を振った。すべてはもう終わったことなのだ。
「見守っていてください、あなた」
 立ち上がるローラナの黒髪を風が駆け抜けていく。コウモリの羽を脱いだ背は、もう軋んだ音を立てることはなかった。

■Scene:物語のはじまり

 アンタルキダスは失踪することなく、《聖地アストラ》にて統一王即位。
 《大陸》統一王朝ルーンの復活を宣言するとともに、遷都計画を発表する。
 新しい秩序は神々の手に委ねると告げた統一王の言葉通り、統一王朝の重責は、神殿騎士エンデュランスをはじめとする神官たちによって占められることとなった。
 旧帝国領では、選帝権を剥奪された諸侯を中心に、幾度も蜂起の機運が高まるが、いずれも中途で瓦解した。

 遷都計画が実行段階に入ると、アンタルキダスは退位の意を示す。
 2代目の統一王として玉座についたのは盲目の青年であった。
 華々しい戴冠式の場において、美しい女性を伴って現れた彼は、《大陸》の平和を約束すると同時に結婚の誓いをたてた。
 以後、《大陸》は、統一王朝により安寧の夢を見る。
 しばしのまどろみは、獣たちが目覚めの鐘を鳴らすまで続く。

 2代目統一王夫妻の名は、まだ歴史に記されてはいない。

 ここから先は、また別の物語。



END




1.あなたの望む道2.互いの領分3.惑いの旋律4.分かつもの5.もう一振りの剣6.この手を離さないマスターより