第3章 1.泉の夜
■Scene:《炎湧く泉》にて
調査隊一行は、パルナッソスから歩いて約7日の距離にある枯れたオアシス《炎湧く泉》にて、先発隊と補給隊の合流を果たしてしていた。
だが先発隊のカッサンドラは嵐に巻き込まれ行方不明となった。
また、《精霊の島の学院》から来た学者のミルドレッドが砂漠で倒れているところを発見されている。
全員無事で、というわけにはいかず、盾父アダマスは調査隊の方針を変更する、と告げた。
「カッサンドラ君を保護。そして学者のお嬢さんの体調には気をつけてさしあげろ。彼女が目覚めることがあれば、この状況について言いたいこともあるだろう。幻覚の嵐への備えも忘れないように」
幻覚の嵐が先発隊を襲ったその時には、空に輝く立方体の雲が現れていた。その様子は、まだ目的地《炎湧く泉》を目指す途中であった補給隊の面々も目撃している。
こうして俄然やるべきことが増えたパルナッソス学術調査隊一行は、それぞれの想いを抱えながら自らの役割を果たそうとするのである。
「どうしよう」
旅人たちの背後でこっそりとクレドが呟いた。
「こうやってひとりずついなくなったりするんだとしたら……」
目の前で見知った人間がいなくなる。目の当たりにして初めて少年は弱気になった。これは本当の出来事なのだ。養父アダマスや姉のようなグロリアも、いついなくなってしまうか分からない。いや、カッサンドラの次は自分の番だとしたら? どこか遠くにひとりぼっちで取り残されてしまったとしたら?
「怖いかね、坊や」
こちらもこっそりと、老勇士ホールデンがささやき返す。アダマスには聞こえぬように交わされた会話だ。
「怖く……うん。ちょっと、怖い」
老勇士は正直に自分の感情を認めたクレドに、片眼をつぶってみせた。
「偉いぞ」
「えっ?」
「怖いのを認めて、それを乗り越えることができるのが勇気っちゅうもんじゃ」
ホールデンは腰をかがめてそう告げる。
「怖いのを乗り越える? でも……」
「なあに。何が怖いのか分かっちまえば、大したことないわい。それにホレ、立派な大人が大勢ついとるじゃろうが」
クレドはぐっと怖い気持ちをこらえ、旅人たちの会話に耳を澄ました。
「……ええ。だからこの遺跡はきっと……」
「……幸い仲間に専門家がいます……」
「……測定できれば、おそらく年代も……」
「……では、私たちのほうは彼女の容態を……」
「……その間に魔力の強度についても調べておきたいことが……」
すごいや。口には出さずクレドは思った。
彼らは――大人たちは、この状況が恐ろしくないのだろうか? カッサンドラがいなくなり、次は隣のあの人の、いや。自分が消える番だと思わないのだろうか?
「あたしも手伝う!」
グロリアの声だった。
驚いてクレドは、ひとつ違いの少女を探した。
「あたしピュアみたいにすごい力はないけど、ピュアを手伝うことだったらできるもん。ミルドレッドさんがちゃんと元気になるように、あたしも手伝うわ!」
そう言ったグロリアは、クレドが見たことのない表情をしていた。堂々としていて、調査隊の一員であることに誇りを持っているのが分かった。
「もちろん、おまえたちの力も頼りにしている」
アダマスがグロリアにうなずいてみせた。
次にオヤジは自分を探すはずだ、と思ったらクレドはもう怖がってなどいられなくなった。
「俺は!?」
ちょっと声が震えていたけれど、笑うものは誰もいない。
「俺は、何を手伝ったらいい?」
「……そうだな、それを探すのも、おまえの大事な仕事だぞ。クレド」
アダマスは顎をさすりながら目を細める。
「なあ。アダマスのおっちゃん」
クオンテがそっと脇を小突く。
「そうは言ってもさ。あいつ等、おっちゃんと一緒に行動するようにしたほうがいいんじゃねえ?」
子どもたちが心配でならない風のクオンテ。
「何しでかすかわかんねえよ。特に、坊や」
「そうかね?」
クオンテに言われてアダマスは、クレドを見つめる。父の視線に気づき、クレドは一瞬不思議そうな顔を見せたものの、すぐに背を向けてカインとイーダが話をしているほうへ駆け寄っていった。
「面倒見がいい者が多くて助かるのだが」
「イーダの嬢ちゃんだって、ああしてクレドの坊やの相手をしてくれてるけどよ……俺からしてみりゃあ嬢ちゃんこそ半分坊やだぜ」
年のことを持ち出すとおじさんと言われそうであるが、自分とイーダの間よりイーダとクレドの方が近い。イーダだっていかにもクレドと一緒に無茶をしそうな雰囲気である……。クオンテの心配の種は尽きない。
「ふむ。釘くらいはもういっぺん刺しておこうかね」
「ああ。そうしといたほうがいいぜー、きっと」
アダマスが重い腰を上げたので少しクオンテも安心である。何だかんだいって、心配する対象がどんどん広がっていくのがクオンテの人付き合いなのだった。
一方イーダに対しては、カインも少しばかりお説教の時間を割いている。
「子ども扱いばかりしていては、彼らにとっても不満になってしまうでしょう。私たちが少し離れたところから見守るくらいが、ちょうどよいのではありませんか?」
「子ども扱い……あんまりしてないとは思ってるけどねえ」
決まり悪い様子で、イーダはうつむき加減に答えた。それよりも自分がまだまだ大人になりきれていないことを、イーダは知っている。そんなことを神官さまに言おうものならまた何かお説教されそうで、黙っていることにしたのだけれど。
「よいですか、イーディスさん。自立ということにおいて、この調査隊は絶好の機会ではありませんか。調査期間が終了し、元の孤児院の仲間と再会したときに、きっとクレドさんもグロリアさんも今までとはまったく物の見方が変わっていることに気づく。これは、そういうまたとない舞台なのですよ」
「過保護になりすぎないようにってことだろ」
「まあ、ありていに言えばそういうようなことです。お伝えしたかったのは」
「……難しいんだよねえ」
保護者の悩みは深い。
大人たちの注進をどこまで心得たのか。クレドは積極的にいろんな人の手伝いをするようになった。
それを熱心とみるか、危なっかしいとみるかは、人それぞれである。
■Scene:泉の夜(1)
補給隊の天幕が、先に張られた先発隊のそれと身を寄せ合うように設営される。大切な水瓶もきちんと置かれた。天幕は二重にしつらえられていて、昼間の日差しを遮るようになっていた。
カッサンドラが使っていた天幕がそのままミルドレッド用に定められる。ホールデンが拾い集めてきた彼女の手荷物も、眠りについている主のそばに置かれた。
残りの天幕の使用者は、なんとなく男性用と女性用に分けられているだけだ。
「ティカ」
エディアールに名を呼ばれ、年若い傭兵は天幕から顔だけ突き出した。四つんばいになって天幕の下を持ち上げるという、あまり褒められぬ格好である。
「んっ?」
「補給隊の荷解きが終わったら、食事がてら作戦会議をするから」
「分かったぜ。皆に言っておくよ!」
元気のいい返事を聞いて、エディは満足そうにうなずいた。幼くはあるがまっすぐで責任感が強いティカのことを、エディアールは評価している。
「ああ頼む。それと……」
顔を引っ込めかけたティカ、エディアールが言葉を続けたので慌ててまた顔を出す。
「何だあ? それと?」
「……いや、何でもない。頼みはそれだけだ」
変なの、と這いつくばっていたティカは起き上がる。
「エディアールさん、何ですって?」
天幕の中、ラムリュアが自分の荷物を揃えながら尋ねる。
同じ天幕ではパーピュアがイーダから粗塩を購入しているところであったが、ふたりともどうしたのかと顔を向ける。粗塩はアメジストの力を強める効果があるのだという。
「さあ……?」
ティカは肩をすくめた。
「メシを兼ねて作戦会議っつってたけど、なんか他にも言いたそうだった」
「……何だったのかしら。気になるわね」
ふわりと薄布をまとい、ラムリュアは眉を寄せる。女らしさが漂う仕草を前にして緊張しながらティカは強がった。
「まっ、メシに行きゃ分かるさきっと!」
■Scene:泉の夜(2)
ラムリュアが腕をふるった食事は非常に好評だった。特に先発隊の一行は、初めて彼女の手料理を口にしたこともあり、次々に「明日食べたい料理」のリクエストが挙がったほどである。
野菜と香辛料の煮込み。紫芋のサラダ。《砂百合の谷》のお土産、温泉卵。そして……気紛れに作ってみた、サボテンステーキ。ちなみに魚介類はラムリュアが苦手としているので、彼女の作る料理にはあまり入らない。
「美味い」
諸手で褒めることの少ないエディアールに褒められて、ラムリュアは頬を染めた。
「この手の調査では、文字通り乾いたパンと酸っぱい酒がごちそう、ということが多いものだ。こんな豪勢な食事を毎回楽しめるとは……」
「つくづくいい仕事だろう、ノワイユ君」
アダマスがからかうと、エディアールはまったくだ、と請合ったのだ。
実は調理に際してはちょっとした問題が発生した。この《炎湧く泉》では、火を熾すのが難しかったのである。
「あー。フートさんも言ってたもんなあ」
炊き出しを手伝っていたヨシュアが呻いて立ち上がる。
ふうふうと息を吹きかける役を手伝うグロリアが、どうしたの、とヨシュアを見上げた。
「ほら。確か火の精霊の力が弱いって言ってただろ?」
砂漠ではそこらじゅうにいるはずの火と土の精霊だが、キノコ岩の内側にあっては、目に見えぬ障壁に遮られその力を発揮できずにいる。
(澱んでいる)(埋もれている)(閉ざされている)(留まっている)――フート曰く、精霊たちはそんなことを囁いている。
「それですぐ火が消えてしまうのね」
ラムリュアは大鍋を前にして頬杖をついた。水をたっぷり張った大鍋には野菜が浮かび、ゆらゆらきらきらと陽光を反射している。二十人分から作るのだからこんなところで手間取ってはいられない。火を熾せる場所――キノコ岩から少し離れた場所まで、重たい鍋をどうやって運ぼうかしらとラムリュアは思案した。
「あ、ヨシュアも魔法使いって聞いたわ。指ぱちんってやったら火がつくんでしょ?」
グロリアはびしっとヨシュアに指をつきつけた。
「あら、あんたそんな便利な技を持っていたのね」
ラムリュアは青みがかった髪の先を弄びながら、からかい混じりの調子で尋ねる。熱した石を放り込むのか、はたまた土に埋めるのか。
「いや……そーいうのはまあ、できなくもないけど……」
ヨシュア、ちょっとしどろもどろである。
「やってみせてよう。ねえ、お願いヨシュア」
グロリアにそう言われてはヨシュアも断りにくいが、ここは心を鬼にする。
「なにようけちー」
「けちじゃないっ」
ヨシュアはかつて師より学んだ教えをグロリアにも説明する。
「運べば火がつくんだから、運べばいいじゃないか」
「魔法使いじゃなかったの?」
「博物学者だってば」
結局手の空いた者たちで調理道具類を何とか移動したのであった。
ラムリュアは湯気たちのぼる鍋を覗き込み、数回かき混ぜる。なんとも食欲をそそる香りは、たっぷりことことと煮込まれた野菜のそれ。香辛料を入れて味見をし、こくりとうなずく。満足の出来である。
煮込み料理を仕上げ、すでにサラダにとりかかっているラムリュアを見つめて、ほっとするヨシュア。誰かの料理を手伝うのは久しぶりで、グロリアと一緒にラムリュアの横にいると、とても懐かしい気持ちが込み上げてくるのだった。
■Scene:泉の夜(3)
一堂に会した食事の席では、話題は自然と今後の調査隊の取り組みに向かった。
アダマスの告げた方針どおり、まずは行方不明のカッサンドラを探し出し保護することを第一として、もちろんミルドレッドの看病もしながら、調査は続行するのである。
「私も賛成だ」
エディアールは真先にアダマスを支持する姿勢を明らかにした。
「カッサンドラの失踪にはこの遺跡が関与している可能性がある以上、調査を怠るわけにはいかない。このまま対処せずにいると最悪の場合、新たな――犠牲者――が出かねないのだから」
アダマスがうなずいたのを確認した後、エディアールの視線は束の間調査隊の面々の上をさまよった。リュートの上でほんの少し長くとどまる。
「もちろん人命が第一だ。そして全員が巻き込まれてしまうことだけは避けるべきだと思う」
リュートから目をそらしエディアールは言った。
人命よりも遺跡が大事だと思われるのは癪である。もちろん口には出さず、視線をさまよわせるのみなのだが。リュートは彼の想いに気づいているのかどうか、読めぬ顔であった。
「そうじゃな。手をこまねいておる場面ではない」
ホールデンは唸った。
「じゃが人命第一はよいとして、どうやってあの姉さんを探し出すつもりじゃね」
「そっ、そうだよ! 悠長なことはしてらんねーよ!」
ティカがばたばたと手足を動かした。
「ミルドレッドさんが見つかったのはよかったけど、あんなボロボロで……カッサンドラさんだって同じ目に遭ってるんじゃないのかよ。今度は死んじゃうかもしれないじゃないか!」
「そりゃそうだけど、どこを探せばいいのかな。ここって、キノコ岩と枯れ木と砂丘しかないし」
シュシュも腕を組み、首を捻る。
「それが決まっとったら、雁首揃えて唸る必要はないんじゃ」
「なあ。おれはズバリ、カッサンドラさんはあの幻覚の向こうに連れてかれちゃったんだと思うぞ!」
ティカは早口で捲し立てた。
「幻覚って、あの? ちょっと涼しかったって言ってたやつかい?」
「そうそうそう!」
補給隊だったシュシュは、先発隊から聞いた幻覚の話を思い出す。
――はじめに、空に輝く雲が現れた。次に、居合わせた皆が衝撃を感じた。
肌寒さ。微風。靄にかすむ視界。結晶化した構造物が立ち並ぶ中、巨木が一本立っているという光景……。
「それで声が聞こえたっていうんだろ?」
「そうそう! ……おれは聞いてないんだけどさ」
子どものような舌足らずさと妖艶さを併せ持つ不思議な声が、尋ねるのだという。
「あなたは、だあれ? ……かあ」
先発隊の中ではホールデンの他にもヴィーヴル、ダージェ、フート、パーピュア、グロリアたちが同じ声を同じ時に耳にしていた。
「幻覚っつーよりアレだよアレ。《魔獣》に間違いないぜっ! そーだよ、カッサンドラさんは《魔獣》に連れてかれちゃったに違いないって!」
最初は思い浮かんだことを口にのぼせていたティカは、言葉を続けるうちに次第にそう信じこんでしまったようだ。
「ミルドレッドさんのことは、どうなるのかな」
ティカを試すようなリュートの口調。
彼女の目的は幻覚の扉の先にある《魔獣》の巣穴に辿りつき、《魔獣》を連れて帰ることだダージェは言っていた。
カッサンドラがいなくなり、ミルドレッドが仲間に増えた。行方不明者が出たことは驚いたけれど、リュートにしてみればそれもまた一興、である。カッサンドラが自分よりも先に、どこかで何か特別なものを目にしているのではないか、という羨ましさのようなものが、リュートにはある。
「おかしくないだろー、別にさあ」
こだわるティカは親指をぐっと立てた。
「ミルドレッドさんは扉を開けることができなかった。でもカッサンドラさんは扉をくぐり抜けることができたんだよ!」
「試練の扉、というわけかい?」
ラージは口をへの字に曲げて答えた。
「でもミルドレッドさんが失敗したのはどうしてだろう? それにカッサンドラさんが扉を開けられたのは?」
「う……それはホラ、アレだよ」
次第に語尾がもぞもぞと消えていくティカ。
「《魔獣》のほうがカッサンドラさんを呼んだんじゃねーか? ミルドレッドさんは呼ばれなかったとかさあ……」
「あなたはだあれ……」
自分だったら何と答えただろうか。ラージも首をかしげた。知りたがりの《魔獣》というものがもしいるなら、そんなことも問うかもしれない。同じことを考えた者は他にもいて、それぞれに想いをめぐらせている。
「なあデンじーさん」
突然ティカに呼ばれ、ホールデンは目をくりんと回した。
「あん?」
「《魔獣》って、いいやつもいるの?」
「なんじゃあ藪から棒に」
だってさ、とティカは口を尖らせた。
「あなたはだあれ、なーんてこと聞いてくるなんて、あんまり凶暴な化け物って感じじゃねえよなー?」
「そうじゃな。大概の化け物は、唸ったり牙を剥いて鼻息を荒くしたりするもんじゃと相場は決まっとるしの」
ホールデン、遠い目をする。
「あの声からはそういう、ギトギト、バリバリ、ブルブルした感じはまったくしなかった。ちゅうことは、やっぱりそう悪い奴じゃないのかもしれんのう」
「悪いものとは限らないっすけど、善いものかも知らないんすよね?」
フートが口を挟む。どんな《魔獣》が出てくるのだろうかと、実は《魔獣》に会えるのを楽しみにしている一人である。
「……まあ、《魔獣》と称していたのは学者のお嬢さんであって、だ」
アダマスはこほんと咳払いし、ざわつく旅人たちを静めた。
「幻覚の先に扉があるのか、その中に何がいて、どうなっているのか、我々は何一つ確証は持っていないわけだよ。傭兵君」
「し、知ってるよ」
「し、知っとるわい」
何にせよ、そのあたりからまず確かめなくてはならないということである。
「よろしい諸君。まずこの現象の仮説を建ててみようじゃないか」
アダマスはひとわたり仲間を見渡した挙句、ヨシュアの妙に生白い首をつかみ、記録係に任命した。カッサンドラの代理ということのようだ。もっとも彼は言われるまでもなく、知りえた限りのことを記録し続けるつもりではいたのだが。
仮説その1はティカ説だ。
すなわち、カッサンドラは《魔獣》の呼び声に答えたために幻覚の向こう側へ連れ去られてしまったという説。ミルドレッドは答えることができなかったか、あるいは他の理由により、幻覚を見ることはできたものの、向こう側に辿りつくことはできなかった。ただしラージが突っ込んだように、いくつか解決すべき疑問は残っている。
仮説その2はエディアール説。
彼は付近の地形や《砂百合の谷》の温泉の話から、《神の教卓》付近にはかつて火山があったのではないかという説を唱えた。火山があるなら地下にマグマが流れていた可能性は極めて高い。何らかの理由によって火山が封印された結果、《炎湧く泉》という名だけが現代に伝わったと考えたのだ。ミルドレッドの言う巣穴は、この場合、火山の火口と見ることもできる。
エディアールらしい理論的な仮説だった。
「《炎湧く泉》が封印の遺跡だと考えたわけだね、ノワイユ君」
「そうだ。もっとも、幻覚云々についてはまったく考慮していないわけだが」
それゆえティカ説と矛盾するわけでもない。
「そんなら、明日は両方から調べてみようじゃないか」
「わかった」
アイスブルーの瞳を細め、エディアールは夜の闇に浮かび上がった奇岩を見上げる。
自然にカッサンドラのことが思い返され、胸が痛む。
カッサンドラに最後尾を歩かせたのは自分だった。アダマス不在で、先発隊としては当然の隊列であったとはいえ、安全に一行を目的地まで導くという自分の使命はもろくも潰えてしまった……あの、崩れたキノコ岩のように。
失敗は許されない、とエディアールは思った。
責を果たすためにはカッサンドラ失踪の原因を突き止め、彼女を取り戻さなくてはならない。
「ミルドレッドさんが回復して答えてくれりゃ話は早いんだが……」
両手を後頭部にあて、しみじみとクオンテは天幕の一つに目をやった。
傷ついたミルドレッドはその中で、ダージェに守られただひたすらに休息を与えられている。
「……ま、そうもいかんのだよなあ」
「そのことですけれど」
ラムリュアが口を開いた。
「直接質問したい気持ちは私もあるのですが、ここはしばらく、彼女が回復するまで待っていただけないでしょうか」
ミルドレッドだけが知っていることは多い。
アダマスをはじめ、皆が彼女に何かしら質問したいことを抱いているといっても過言ではない。だがそのように入れ替わり立ち代り人が出入りするようでは、かえってミルドレッドの負担になるとラムリュアは考えた。
「ピュアと私が交代で付き添うこととして、とにかくミルドレッドさんには静かに休める環境を用意したいのです」
「もっともなご意見だ」
アダマスは手酌で「大吟醸・極星」を杯に満たしながらラムリュアにうなずいた。
「私も含め逸る気持ちはあるけれども、あんた方にお任せしたほうがよさそうだな」
酒杯をつと持ち上げ、アダマスはふたりの癒し手に小さく乾杯をした。
■Scene:泉の夜(4)
「そうだ、言い忘れるところだった……」
エディアールが一同を見渡して念を押したのは、まだお守りを使っていないものは今のうちに使っておくように、ということである。
「俺、まだだよ」
クレドは自分の匂い袋を引っ張り出して見つめている。
「何だよ。幻覚くらい、いっぺん見てみたらいいじゃないか」
「リュートは補給隊だったからそんなことを言えるんだろう」
エディアールはわずかに顔をしかめた。
「何も起こらないのはつまらないじゃない。そう思わないの?」
「仲間がひとり、いなくなってしまったんだぞ。それでもまだ何も起こらないと言えるのか、君は」
「カッサンドラさんがいなくなったことと幻覚とに、まだ関係があるとは決まってないからね」
あんたもどうせそう思っているんだろう。
リュートは口には出さないが、表情がそうエディアールに告げている。
「それに僕は、匂い袋は使ったさ。僕の銀の剣で、だけどさ」
「カッサンドラさんだけは、ナイフに触れてもいなかったようだよ」
イーダがリュートをたしなめるように言葉を添える。
「確かにリュートさんが言うとおり、これもカッサンドラさんがいなくなったこととは無関係かもしれないけど……」
イーダが言い終わらぬうち、エディアールはアダマスからナイフを再度借り受けると、皆の眼前で匂い袋に突き立てた。
次は誰だ、とナイフを差し出す。小さな手が受け取った。クレドであった。
「もう誰かがいなくなったりしたら嫌だもん。俺」
ホールデンの言葉をこっそり思い出しながら、クレドも同じようにナイフを使った。
「僕はどうしようかな」
まだ、自分の匂い袋を使うと決めていないものは他にもいる。
「好きにしろ」
としかエディアールは答えなかった。調査隊を率いるべきはあくまでも依頼人である盾父アダマスである。彼が匂い袋についてはめいめいに委ねている以上、エディアールとしてはできることをしたのだ。クレドに使わせることができたのだから良しと彼は考えている。
■Scene:泉の夜(5)
「……」
黙りこくって物思いに沈んでいるラージ。その指先は考え事をする癖でもあるのか、輪になった紐を一心に弄んでいる。
背後からクオンテとシュシュが、軽く肩をぶつけて尋ねる。
「どーしたよ?」
「なんか気になることでもあったの?」
ラージの肩越しにクオンテが目にしたのは、両手指に絡ませた紐が複雑に引っ張られて形づくる騎士の姿である。
「あ、すげー。器用だなあ」
「ちゃんと馬に乗ってる」
兄弟のように見えなくもないふたりに両側を囲まれ、ラージは笑った。少しうれしい。
「馬上の騎士っていうんだ」
クオンテとシュシュはぱちぱちぱちと拍手を送る。
あやとりはラージの趣味みたいなものだ。スラム街の孤児院育ちだったから周りには常に誰かがいて、一緒に遊んでいたものだけれど、輪にした紐を黙々と操るのも好きだった。
気分がよくなって、ラージはふと自分の仮説を披露してみようと思った。。
「僕も仮説立ててたんだよ」
「仮説その3だ。聞きたい聞きたい」
「エディアールさんも言ってただろ、《炎湧く泉》は封印の遺跡じゃないかって」
うんうん、と聞き役のふたりはうなずいた。
「キノコ岩は精霊たちにとっての障壁、つまり結界だよね。この結果は、中心の木を外部の影響から隔離する効果があるんじゃないだろうかって思ったんだ」
「あの枯れ木だね」
シュシュは背伸びして手を翳した。ほの白い輪郭が夜の中にすっくと立っている。
「あの木が重要な役割を果たしてるってことかー。確かに真ん中にあって気になるなあ……」
「木って本来、生命力あるしな」
クオンテがそう言ったので、ラージはそうだろ、と顔をほころばせる。
祭祀の出自というクオンテの言葉には、本人が望むと望まざるとに関わらず重みがあるのだった。
「ここらの砂漠で木なんて、枯れてるにしてもここだけだったし。僕が思うに、あのキノコ岩」
と、ラージは今では11本しかない岩を示した。
「崩れると結界も崩れることになる。例えばキノコ岩を全部崩したら、結界がとけて精霊たちが行き来できるようになって……変化が訪れるんじゃないかなあ。幻覚が出現して、あの木にも変化が起きて、さ」
「へえ!」
「いいね!」
クオンテとシュシュは顔を見合わせ、吹き出した。考える方向が似ているのが互いにおかしかったのだ。
「もともと12本もあったんだし、試しにもう一個くらい岩、壊しちまってもいいかなーって思ってた」
とクオンテ。
「俺も。なんかするんなら俺がやりたいって思ってた!」
とシュシュ。
「フートの奴にやってもらえばいいんじゃねーか?」
「そうだね。きっとフート君も精霊を解放するやり方をいろいろと考えているだろうけど。頼んだら協力してくれるかな」
「いいんじゃね?」
クオンテはその深緑色の瞳で、ほの白い枯れ木を見つめている。
「なんかあいつも独特な奴だし」
「フート君のこと?」
「独特っつか、ホント根付かずって感じしねえ? まーグロリア嬢ちゃんクレド坊ちゃんにゃ悪いけど、なーんか俺からしてみりゃ……そう変わんないように見えるんだよなあ……」
「生活感は、あまりないよね、フート君」
「逆におめーほど生活感溢れる奴ってのもいないけどな」
「褒めてくれてるの? でもそれよりも、糸玉が必要かな、と思って」
糸玉、とクオンテは繰り返した。
「糸なら、その、馬上の騎士」
「違うよ。もっと長い糸」
ラージは幻覚の嵐が起きたときのことも考えていた。例えば、いっせいに全員がどこか別の世界に――ティカ曰く《魔獣》の巣に――連れ去られるにしても、糸を張り巡らせていれば、分かるのではないだろうか?
「じゃ、イーダの嬢ちゃんかな。後払いで」
うんうん、とクオンテはうなずいた。
「おめーはどう思……ん、どうしたシュシュ?」
「あ」
シュシュは金色のピアスを見ていたのだ。クオンテの左耳にふたつ並ぶピアス。
自分の生まれを知りたいと思ってどうこうしたことは今まであまりなかったシュシュだけれど、ふと、クオンテの故郷と自分の本当の生まれ故郷は近い土地かもしれない、などと思えて来て、すごく親近感を抱いているのである。
故郷の話を聞いてみたかった。
だが、それはあまり触れられたくないことのようにも思えて、少し躊躇してしまう。それ自体あまりシュシュらしくないことだ。
「何だよ。せっかくラージが仮説その3を披露してくれたのによ」
「わあ、ごめんっ」
「……いいんだ。どうせ僕はいつも忘れられちゃうし、仮説その3だって、ひとりで確かめようと思えばできるし……」
ラージの指先が「騎士の突撃」を形づくる。
「あーあーもう、ラージ! シュシュ!」
クオンテはふたりの頭をわしゃわしゃわしゃっとかき混ぜた。
「「何?」」
灰色の長い外套に首を引っ込めるラージ。ポニーテールが解けたのを結い直すシュシュ。ふたりとも上目遣いでクオンテの行為の意味を問う
「……なんつーか、その、まあ何だ」
クオンテは両手を広げた。指先に巻かれた細い糸がふわ、と揺れた。
「……おめーら、かわいーなあ……」
がし。クオンテが弟分たちをぎゅうっと抱いた。
ラージとシュシュは当然わあわあぶうぶうと文句を垂れたが、28歳ですでにおじーちゃんと呼ばれることもある妙に老成した青年クオンテにとっては、かわいい、より他に形容のしようがないふたりなのであった。
■Scene:泉の夜(6)
夕食の後は、イーダやヨシュア、そしてグロリアを中心に片づけが済んでしまった。
グロリアはどうしても皆の手伝いがしたいと言い張ったのだ。
ヨシュアと話してみてイーダは驚いたのだが、彼は自分よりも年若いという。
「なんだ、そうなの。あたしはまたてっきりヨシュアさんは……」
「てっきり、何です?」
妙に年季の入った手つきで鍋の焦げをこすり落としていたヨシュアは、何を言われるかと内心びくびくしている。
「てっきり、ふたつは確実に上だと思ってたよ」
「えっと。それって」
心の内で指を折るヨシュア。イーダはたしか19だから。
「俺、21歳くらいに見えるってことですかー」
「うん。身体つきは華奢でもないし、旅している博物学者さんって触れ込みだったし」
《精秘薬商会》でのイーダとの出会いを、ヨシュアは思い出した。
「俺は自分じゃ年相応だよなーって思ってたんですけど」
「ははは、ごめんよ」
笑って謝るイーダだが、ヨシュアのことをさん付けで呼ぶあたり、まだまだ彼女の中では目上の人に近い扱いだ。
「21っていったら、調査隊の中では……」
「そうだねえ。リュートさん、ヴィーさん……もうひとりたしか……ああそう、ラージさんも同じ年だよ。22歳」
「そうかー。そのあたりの皆さんと俺同じくらいに見えるのかー」
驚いているヨシュアにグロリアが首をかしげる。
「あたしから見れば、ヨシュアもリュートも変わんないよ」
どうしてそんなに驚いているのか、とグロリアは不思議そうにしている。
「そ、そりゃあグロリアから見たらそうだろ。13と14はすごーく違うけど、50と51は年の差なんてないようなもんだよねー」
「50と51の話じゃないわよ。21と22の話でしょ?」
「あー。そうだっけ?」
「はいはい。ほんとは18と22の話だけどね」
イーダが吹き出しながら訂正しつつ、
「それにしても、ほら、その手つきだよ」
と、ヨシュアの手元を見つめる。言われたヨシュアは、はっと手を止めた。
「な、何か変? 俺、変?」
「随分堂に入っているなあと思って。鍋の焦げを落とすの得意なのかい?」
「そうそう。学者の割りにヨシュアって、生活感漂ってるとこあるわよねっ」
「えーと。イーダさんからはともかく、グロリアちゃんにまで指摘されるとは思わなかったんだけど俺」
「これでも、学者さんならいろいろパルナッソスで見てたもん」
グロリアは胸を張った。
「褒めてるんだよ。炊き出しだって手慣れてた」
「えっ。俺褒められてた? あの……うん。故郷にいたときにね、メシ作ってくれる兄ちゃん……兄弟子がいてさ。今日なんかも、メシ作る手伝いしてるとき、その人のこと思い出してた」
「へえ、そうだったのかい」
イーダは、故郷でのヨシュアと彼を取り巻く師匠や弟子といった人々の姿を想像してみようとした。
《精秘薬商会》のカウンターで、スィークリールに興味津々であった博物学者の第一印象とは、また随分違った様子であった。
「誰かのために料理すると美味しくなるっていうからね。きっとその兄弟子って人も、ヨシュアさんのことが好きだったんだろうね」
「……どうして分かるの?」
ヨシュアはまたびっくりした顔でイーダを見つめ返した。すっかり焦げを落とす手が止まってしまっている。
「そういう風に昔から言われてるから、さ」
イーダは思う。兄弟子という人はいつもこんな調子で、知りたがりの博物学者の素朴な問いに答えていたのではないだろうか、と。
さて。
ヨシュアと別れた後にはこんな場面もあった。
女性陣に割り当てられた天幕のひとつで、こっそりとグロリアがイーダにささやく。
「……ヨシュアって、ほーんと、たーんじゅん!」
「まあまあ」
イーダは苦笑する。
「感情がわかりやすくて、こういっちゃ何だけど可愛いじゃないか」
褒めるとびっくりしていた、あの顔を思い出すとつい笑ってしまう。
アダマスとはいつも思いつめたような顔で難しい話をしているから気づかなかったが、打ち解けてしまえば今はヨシュアも十分年下の男の子に見えてくる。
「そうね」
グロリアは神妙にうなずいた。
「うちのオヤジときたら、正反対だもんね!」
そんな会話があったことは、もちろんヨシュアもアダマスも知る術はない。
■Scene:泉の夜(7)
ミルドレッドの傍らには常にダージェが護衛にあたっている。
もしも彼女が目覚め、食事を取るほどの体力が戻っていれば食べさせてあげよう。ラムリュアはそう考え、ミルドレッドのために身体に優しいスープを温めなおした。
「夜食よ、ダル」
そっと声をかけながら天幕を覗く。
「ありがとう、ラムリュアサン!」
元気な声が返ってきた。
「ボクもうお腹ペッコペコだったんだー」
一同が会する食事の時間にも、ダージェだけはミルドレッド護衛のために天幕を離れなかったのだ。
「今日のご飯は何?」
「……あ。そっちはミルドレッドさん用のスープよ」
子犬のようにまとわりつくダージェにラムリュアは、もうひとつの深皿を示した。
「あんたのはこっち」
「わーおいしそーっ!」
「ミルドレッドさんのことは見ていてあげる。あんたはゆっくり食べなさい」
そう言ってラムリュアはダージェと入れ替わりに、ミルドレッドの天幕に入ろうとした。
「ラムリュアさん」
ダージェとは異なる声に呼ばれ、ラムリュアは振り返る。
「あら」
こげ茶色の瞳を瞬かせた。
「……神官様?」
立っていたのはカインである。
日中はミルドレッドの看病を手伝っていた彼も、とっくに男性の天幕へ引き上げたのだとばかりラムリュアは思っていた。
夜空の下で改めて見るカインは、聖衣がいっそう白々と浮かび上がるようである。金髪は映す光を失ってくすみ、聖衣の裾から除く手元や踝は黒い肌着で覆われていることもあって、なおさら聖衣が際立って見える。
「そのような呼び方は私にはふさわしくありません。私はただの一信徒にすぎませんから」
「まあ」
少し困惑しながらラムリュアは言葉を探した。
「あいにく……貴方の分の夜食はないのですが……」
それを聞いてダージェは口元にスプーンを運ぶのを止める。
もぐもぐ口を動かしたまま、夜食の載った深皿をカインに差し出すべきか、考えている。
「いえ。もう十分いただきましたから」
カインが軽くお辞儀をしてそう言うと、ダージェは再び夜食を口に運び始める。
「そうではなくて、別のお願いがありまして」
「何でしょうか?」
見当もつかずラムリュアはまた目を瞬かせる。
「神官様がまさか占い札でもないでしょうし」
「その、まさかです」
少し恥ずかしそうにカインは答えた。
「あら……ごめんなさい」
ラムリュアは口元に手をあて浅慮を詫びる。どうもカインに対しては先入観があるようでいけない。
「占っていただきたいことがあるのですが、今日はもういろいろと疲れていらっしゃるでしょう。落ち着いた時にでも、是非お願いしたいと思いまして」
「別に今でも構わないわ」
あっさりとラムリュアはうなずいて言った。ミルドレッドはまだ眠り続けているし、断る理由はどこにもない。
「占って差し上げましょう。今は私、気分がいいから」
「え?」
「……何でもないわ」
荷物の中から一組の占い札を取り出すと、天幕の前、夜食を頬張るダージェの脇でラムリュアは札を捌き始めた。
手に馴染んだ銀のタロットを手繰っているだけで、気持ちが落ち着いてくる。
「占いには人それぞれの方法がありますが――」
ミルドレッドにもこうして口上を述べたっけ。
あの時もちょうどこんな感じで、夜の食事をとった後の時間だった気がする。
「――私の場合は、精霊が告げる札を引いて意味を解釈する占い方です」
「精霊、ですか」
真面目に話を聞いているカインに、ラムリュアは軽く首を振って答えた。
「人ではない何かが教えてくれるの、引くべき札をね。それを私は、精霊と会話している、と呼んでいるわけ」
「では……では、その人ではない何かは、もしかしたら神かもしれませんね」
「さあ? どうかしら」
ラムリュアは目を伏せて札を小気味よく捌き続ける。
「盾父アダマスは、神は細部に宿るとおっしゃったけれど、ね。私が会話しているのは、もっときっと違うもの」
すとん。
白砂の上に、銀色に輝く占い札が置かれる。伏せて重ねられたその札を、世界の縮図のように見つめるカイン。
「どうぞ」
ラムリュアはカインに好きな一枚を選ぶよう促した。
「あ。もちろん、占いたいことを思い描いて選んでくださいね」
「私が選ぶのですか?」
「……私が選んでも、まあ結果は同じなんですけど」
「それではラムリュアさんが選んでください。ええ、是非そうしてほしい」
珍しい客だと思いながら、ラムリュアはカインのための札を選び出した。
たいていの客は、札を自分で選びたがる。そのほうが納得できるからだろう。ラムリュアにしてみても、良くない結果が出た時に自分に八つ当たりされるのはかなわない。
それに。
精霊の“声”が聞こえているかいないかの違いなのだ、たぶん。
自分で引いた札も、ラムリュアが引いた札も、精霊が引かせたい札であることには変わらない。
だからおそらく今宵の占いも、カインがそれを思いついた時点ですでに引くべき札は決められていたのだ、とラムリュアは思う。……精霊によって。
確かにそれは神に似ている。だがラムリュアは、会話の相手を神などと思えなかった。思いたくなかった。
「花輪のカードです」
細い指が表に返した札には、綺麗な花冠が描かれていた。
「意味は、美や愛。慈しみの心。ですが……位置は逆位置。つまり札の持つ意味も、逆転します」
ラムリュアはカードをそっと回転させる。
「これは散りゆく花輪なのです」
カインはしばらく無言でその絵を見つめていたが、やがて微笑を浮かべて言った。
「ラムリュアさん。貴女は確かな腕をお持ちのようです」
そんな言葉が返ってくるとは思わなかったラムリュアは、驚いてカインを見つめ返す。花輪の逆位置。どう読んでも前向きな解釈にはならない。
何について占ったのか聞いてはいないが――聞かなくてよかったと思っているものの、何となく予想はついている――、落ち込みかねない結果のはずなのに。
「私に欠けているものが何か、わかった気がします」
予想していたとおり、どうやらカイン自身についての占いであったようだ。やっぱり自分で引くんじゃなかった、とラムリュアは後悔した。それこそ声のまま、カイン自身に選んでもらえばよかったのに。
どうして占いを引き受けたんだろう?
……ああ。思い出した。
気分がよかったからだ。
「散りゆく花輪が、美しく咲き誇る花輪となるように、努力しなければなりませんね」
「え? ええ。そうかもしれません」
ぐるぐると想いをめぐらせていたラムリュアは、カインの言葉に慌てて我に帰る。
「私は貴女のお告げを信じます」
「そんな……神官様がそんなに簡単に信じるなどと……」
「精霊の声、すなわち私にとっては神の声なのだと、私は思います。女神の声といってもいい」
カインは花輪のカードを再び裏返し、他の札の一番上に載せた。
「ありがとうございました。無理を言って占っていただいたけれど、本当に良かった」
「本当に?」
ラムリュアはまだ半信半疑の様子だ。
「はい。明日からたゆまぬ努力を続けることにいたします。女神に似合う美しい花冠とならなくてはなりませんからね。それでは、おやすみなさい」
そう言ってカインは、静かに立ち去っていった。
「……ごちそうさま」
控えめにダージェが呟く。
今の今まで、口を挟みたいのを堪えて静かにしていたのだ。
「ダル、今の、どういう意味だと思う?」
ラムリュアは疲れきった口調で尋ねた。
「どうって……それはやっぱ、そーいう意味じゃないカナー? 女神サマ」
面倒なことになりそうなのは避けたいが、自分の技を褒めてもらえたことについては久しぶりに心弾むひとときだった。
内心、複雑な想いのラムリュアである。