第3章 2.木と岩
■Scene:木と岩(1)
天候は良好。雲ひとつない快晴が続いている。
時たま強い風が吹き付けるものの、キノコ岩の周囲は避けるように通り過ぎていくが、嵐というには程遠い。動くものといえば、パルナッソスからともに旅をしてきた駱駝たちの他は、サボテンや銀剣草といった植物の類だけである。
そして、相変わらずシュシュの朝は早い。
ダージェがミルドレッドの側を離れるのを渋るので、剣の稽古の相手はティカが勤めることになった。
「シュシュ兄の剣の相手! やるやるっ!」
二つ返事で元気よく引き受けた。けっこう、いやかなり、ワクワクである。
もちろん病人や朝寝坊の邪魔をせぬよう気を遣い、離れた場所を勝手に修練場として定めたのだが、うっかりしているとパーピュアがひとりで寝ていたりして危ない。
小柄で身軽、二刀流のティカは、シュシュにとってはうってつけの相手である。シュシュも左腰に長剣を、右には短剣を備えており、柔軟性と素早さまでも武器にすることを得意としていた。
「ダルもいればなあ、乱稽古できたんだけどなあ」
シャツの裾で汗をぬぐいながらシュシュが言うと、
「何だよ、おれだけじゃ不満なのかよシュシュ兄は!」
とティカは頬を膨らませ、すばしっこい小動物のような突きを繰り出してきたりする。対するシュシュも、ティカの年や性別で手加減などしない。
「ダルはきっちり型どおりの剣術だからな。おれはシュシュ兄のほうがやりやすいな」
さすがにティカは父に仕込まれているだけあって、いかにも実戦的な動きを身につけていた。
「でも《魔獣》が俺みたいな動きするとは限んないぞ」
「《魔獣》ってどんな奴だろ。デンじーさんの言ったとおり、あんまり怖くない奴だといいな」
昇り始めた朝日が砂丘の先から大地を赤くまぶしく染めていく。ひととき、シュシュの真鍮色の髪もティカの短い金髪も華々しく光を映して輝いた。
「……そういえばシュシュ兄、さあ」
しばしその色彩に見惚れて稽古の手を止めていたところへ、ティカがこそっと耳打ちする
「アダマスさん、ますます怪しくなってきたと思わねーか?」
シュシュが瞬きする。
「ミルドレッドさんは《学院》の人だろ。きっと《学院》の先生の命令とかで、《魔獣》を捕まえて来いって言われてるんだと思うんだ。そんでアダマスさんはさ」
ティカは一層声を潜めた。
「おれたち全員生贄にして《魔獣》を蘇らせるつもりだよ。そしたらミルドレッドさんだって邪魔だってことだよ」
「蘇らせ……何だって?」
仮説その1の話と思いきや、どうやらティカが前々からぶちあげているアダマス黒幕説の話のようである。
「だからさ。アダマスさんは《魔獣》を自分のものにしたいんだよきっと! だから邪魔なミルドレッドさんも亡き者にしようとしててさ。カッサンドラさんだって仲よさそうだったのに、生贄にされちまってさ! くっそー、アダマスめっ! ……あ、この話ダルには内緒だかんなっ」
そういわれるとシュシュも、アダマスが何を考えているのかはよく分からない。
目的がどうとか影響がどうとか、難しそうなことは頭のいい先輩たちにお任せ、のつもりだったのである。
「アダマスさんなあ」
「な、な、怪しいだろっ」
「でも雇い主だぜ、俺たちの」
うっとなってティカは動きを止めた。報酬のことなんて全然考えていなかった。
「退屈嫌いってのは間違いなさそうだよな」
アダマスが悪役だとはシュシュは思っていなかった。そもそも悪役の定義がシュシュとティカでは異なるようだ。
クレドやグロリアを先発隊に託してくれたし、突き放しているように見えてミルドレッドのことも気にかけている。それだけでシュシュにとっては立派な依頼人だ。
よしんばミルドレッドに対する態度が、アダマスの背後にあるという《聖地》の意向であったとしても、それは彼には関係のないことである。
「そっかあ? シュシュ兄がそーいうなら、ちょっとは大目に見てやってもいいけどさあ」
「いいじゃん。カッサンドラさんが見つかればさ」
ほどけてしまった編み上げブーツの紐を結び直し、ティカはしぶしぶ兄貴分に従うのだった。
■Scene:木と岩(2)
いよいよ、パルナッソス学術調査隊は調査隊らしく、《炎湧く泉》そのものに関する調査を進める。食事の席で挙がった説の検証だ。
まず、ヴィーヴルがキノコ岩そのものについて錬金術的見地から調べることになった。
「この石柱が火山性の岩ならば、《神の教卓》付近にはかつて火山があったという強力な証拠になるということだね、錬金術師君」
「そのとおりだ……で、いいんだよな。エディアールさん」
「ああ」
赤茶色の髪の錬金術師に、エディアールは軽くうなずいた。錬金術師が隊にいるととても助かる。
「俺は魔力の強さを測ってみるよ」
ヨシュアがちらとアダマスを見た。
「岩の外と内、どれほど違うかな。感覚的なものだから、違いがはっきり出せるかわかんないけど」
「魔力源を特定できればよいのだが……」
アダマスは目を細めて周囲を見渡して言った。
「特段、付近に魔力源となりうるものはないようだったからねえ。そうなると、そもそもこの枯れ切ったオアシス自体が、何らかの仕掛けになっているとしか考えられんね」
「はい。少なくとも、キノコ岩を崩した力は、内部で生まれた衝撃なのではないかと思うんですよね」
先発隊が感じた幻覚の話を思い起こしてみるに、エディアールが提案したように、封印の遺跡ではないかという思いが募るヨシュア。
「博物学者君、その手のことはあんたが一番得意そうだから任せる」
「あ。それとですね、アダマスさん」
「またかね。君はいつも、『あ、それと』って言ってからのほうが長い」
アダマスはそう言って笑い、ヨシュアに先を促した。
「……ちょっと、お聞きしたいことがあって。後からまた相談します」
ヨシュアが気になっていたのは、ダージェが地図を見て言った、紋章のことである。ダージェとアダマスがいる前で話をつき合わせてみたらほうがよいと思ったのだった。
「お嬢さんの持つ地図の話? 分かった、後で聞こうじゃないか」
「はい、よろしくお願いします。じゃあ俺、ちょっくら魔力を……」
「クラン君、念のため聞いておきたいが」
「はい?」
「学者のお嬢さんは、そもそも地図を持っていたかね?」
む、とヨシュアは考え込んだ。否。彼女の荷物は剣と聖印と小箱のみだった。
「……そうか。どういうことかな……まあいい。後で考えることとしよう」
アダマスはまた調査隊の他の者に呼ばれる。
「地図。そういわれて見ればそうだったなあ」
ひとり呟きながら腕を組むヨシュア。カッサンドラの地図はミルドレッドから渡されたもののはずだ。少なくともカッサンドラが嘘をついていなければ、であるが、カッサンドラが嘘をつく理由は思い当たらない。
「素直に考えればミルドレッドさんが自作した地図のはずなんだよなー……。んで、ひとりで調査に乗り込んだわけだから、ふつーは自分も地図を持ってるはずだよなあ……うわ!」
没頭していたヨシュアの足元で、からくり犬スィークリールがキイキイと吠えている。
「あ。スィー?」
「ヨシュア、危ないよソコ!」
「止まって、止まって!」
砂丘の上で、クレドとイーダが口々に叫んだ。
サボテンにヨシュアは危うく刺さりそうになっていた。スィークリールはそれを教えてくれたものらしい。
「……スィー。おまえ……イイ奴だな!」
しゃがみこんだヨシュアは、ひしと金色の犬を抱きしめ、よしよしと激しい動作で毛並みを撫でる。
少年がけげんな顔つきをしているのも気にせず、スィークリールに話しかけるヨシュア。
「花、持ってきたらよかったなー。《砂百合の谷》に綺麗なのがいっぱい咲いてたのに」
「そっか。《砂百合の谷》は蛍がいるんだったよね」
クレドはさらさらと砂を弄んでいる。少年が手を広げると、音もなく砂がこぼれて無数の砂の海に還っていく。
「蛍綺麗だったぞー」
「いいもん。俺見たことあるし」
学者のひとりが、商人に頼んで持ってきてもらったのを覗き見たのだとクレドは言う。
「熱なき光、っていうんだって。蛍のこと。ちょっとかっこいいな、って思ったけど、こっそり見てたのオヤジにバレたらいけないから、急いで孤児院に戻ったんだ」
「こっそり見たりしなくても、見せてって頼めばよかったのに、その学者とか、アダマスさんとか。アダマスさん、ちゃんと頼めばダメって言わないと思うけどなあ」
スィークリールを抱いたままの妙な姿勢で、ヨシュアは綺麗だったぞと繰り返した。
「こう、お湯が川みたいになっててね。砂百合もぶわあって茂みになってて。夜になるとぽつぽつと灯がともってさ。蛍火ってやつだよ。それがそこら中にあんの。これはねえ、ちょっといっぺん見る価値はあるかもしれないよ?」
「……うん」
意外にもクレドはうなずいた。
「リュシアンの話も聞けばよかった、かな」
クレドは、リュシアンの話を聞かず先発隊に混ぜてもらったことに対して、いろいろと想いがあるようだった。
「でもヨシュア。どうしてヨシュアはそんなに蛍のこととか、温泉のこととか、そういう……普通のことでも楽しそうなの?」
「えー」
ばたばたもがくスィークリールからようやく身を離し、ヨシュアは答えを迷った。
記録する使命をなんと説明すればよいだろう?
それに……記録する使命そのものを、誰もが楽しめるわけではない。使命があるから、では答えにならない。
スィークリールはふるふると身を振った。シュシュが巻いた服の隙間から、きらきらと砂粒が飛び散った。
「……好きだから」
あああああ。答えたものの、内心では頭を抱えるヨシュア。
「好きなことは俺だって、できるよ! だって楽しみだもん」
「……だよねー」
「ヨシュアとリュートって似てるだろ」
「……え? そ、そうかな?」
「そうだよ」
クレドは決め付ける。ヨシュアには意外な台詞だった。同時に、少年は少年なりに調査隊の面々と触れ合って、いろんなことを覚え始めているのだ、と思った。
■Scene:木と岩(3)
「あんまり遠くに行くんじゃないよう、クレド!」
砂丘の下に姿が見えなくなったクレドを一声呼び戻してから、
「ラージさん。糸玉、これでいいかい」
と、イーダは鞄のなかから注文の品を取り出した。
クレドを呼び戻したのは、少年が目を放すとどこに行ってしまうか分からないから……ではなく、そうやって時々自分は大人なのだから、と戒めておかないと、一緒になって自分も遊びたくてうずうずしてしまうから、である。案の定クレドはそのあたりの呼吸を心得ていて、イーダが一度くらい叫んでもすぐには戻ってこない。
「イーダさんありがとう。ほんとにその鞄、何でも出て来るんだねえ」
もちろん、とイーダは笑った。
「これが商売だもの。いつでもどこでもお客さんが来てくれる限り、お店は開いてるもんさ」
「あのそれで、お代なんだけど……」
「当然、報酬貰った後で構わないって。でも、これはうちの支店だけの特別だからね」
イーダは顔中で笑って、ぽんとラージの背を押した。
「泥棒さんにちゃんと買ってもらえてよかった!」
「……そういうふうに言わないでよ。《精秘薬商会》みたいなところから盗んだことはないしさ」
「はは、義賊かい」
「そんな格好いいもんじゃないけど」
「で、義賊のラージさんは糸玉をどう使うつもり? いや、あたしもちょっと糸玉には使い道があるんじゃないかって思っていたところだからさ」
片手でぽんぽん糸玉を宙に転がすイーダ。
「仮説その3……は、イーダさんには話していなかったっけ」
ラージは昨晩クオンテたちにした話を手短に繰り返した。
「中心の木か。あたしはあの木が日時計の針に見えるねえ」
「ヴィーヴルさんもそう言ってた。イーダさんは糸玉をどう使うの?」
「あやとり」
と、イーダは片方の目をつぶる。
「え!」
「冗談」
くすっと笑い、親指をあげてアダマスを示して見せた。
「ラージさんの話をアダマスさんが聞いたらしくてさ、私にもできるかねえ、だって」
緊張感があるのかないのか、アダマスのことが分からなくなる。
「冗談はともかく――アダマスさんがあやとりを習いたがってたのはホントなんだけど――あたしはね。この調査隊はきっと、ミルドレッドさんの言ってた扉を開けることができるって思うのさ」
専門家が多い。腕の立つ少年剣士たちもいる。歴戦の勇士に、神官様。そしてこの地に詳しい学者。
「そのときには、扉の中に進むことになるだろう?」
「《魔獣》の巣、だね。ティカが言ってた、カッサンドラさんがいるところ」
「そしたら、迷わないように糸玉が必要になるじゃないか」
イーダは糸玉の端をラージに渡し、糸玉を二つにわけようとする。
「待って」
ラージはイーダの意図を読み取り、もぐもぐと魔法を囁いた。ふたりの手から離れた糸が、自在にするすると宙を踊り、あっという間にふたつのさくらんぼの形となる。すとんと糸玉がおちてきた。イーダとラージ、それぞれが受け止める。ラージは繋がっていた間の糸をぱつんと断った。ぴんと張り詰めていた糸が、しなりと萎れる。
「魔法かい?」
ふたつの糸玉を見比べるイーダ。
「僕が知ってるのは、これだけだけどね」
「アダマスさんには言わないほうがいい?」
「あやとりは魔法じゃないよ!」
「ごめんよ。あんまり便利な魔法だからさ。でも……義賊さまには似合わないかもね、あやとりは」
「……アダマスさんも似合わないほうだと思うな」
ちらりと盾父の姿を探すラージ。何やらフートと話し込む後ろ姿が見える。
「あやとりを覚えたい理由ってのがまた……カッサンドラさんが戻ってきた時に、自慢したいみたいだよ」
「何だい、それ」
調査隊がカッサンドラを見つけられると信じているのだろう。カッサンドラさんという人は、アダマスさんの相手という意味においてもすごい人だったんだ、などと思うラージである。
「そうそう。いざって時は、この糸の端はデンおじいちゃんにお願いするからね」
イーダがホールデンを見て微笑む。
「あん? 何じゃと?」
警備と称してぐるぐるとキノコ岩の周囲をひたすら回っているホールデンが、イーダの声を聞きつける。
「頼りにしてるってことだよ、デンおじいちゃん」
まんざらでもない様子をありありと表にあらわして、ホールデンは嬉しそうであった。
■Scene:木と岩(4)
「アダマスさん、あのナイフを貸してもらえませんか」
「どうしたね、錬金術師君? 何か分かったかい」
キノコ岩の材質を確認していたヴィーヴルに呼ばれ、アダマスはナイフを差し出した。
「ええ、この場所はまさに封印の結界と呼ぶに相応しいということがね」
アダマスの問いに、ヴィーヴルは目を輝かせて答える。
「キノコ岩の材質は火山性の岩に間違いない。粘性があって内側が黒い。火山特有の物質を多く含んでいるからこうなるんだ。水はけもかなりいいに違いない」
一息でそれだけ告げると、休む間もなくヴィーヴルは白いシャツを腕まくりした手を伸ばした。
「それに、あそこを見てほしい」
「うん。枯れた木があるね」
「影を見てください」
「……ん?」
枯れ木には影がなかった。
周囲を円形に取り巻く奇岩は、きちんと太陽に従って白砂に短い影を落としているというのに、である。
「朝からずっと時間を追って見ていたけれど、あの枯れ木にだけは決して影ができないんだ」
ヴィーヴルはそう言ってエディアールとうなずきあった。エディアールが言葉を引き取り、続ける。
「今は南中。ちょうど太陽が真上にかかっている。崩れた岩の位置は1時の方角にあたるといえるが……」
エディアールは振り返って、枯れ木を調べているラージの姿を示した。
「あいつには影があるのに、あの木だけは影がないんだ」
「枯れ木の影の位置が時を示すと思っていたのだが、ちょっと考えを改めねばならないかもしれない」
エディアールは頭上の太陽を仰ぎ見る。
アダマスは唸った。
「あの木には触れるのかね?」
「あいつは触ってるみたいだぜ」
アダマスは眉根に深くしわを刻み、何やら考え込んでいる。
その傍らで、ヴィーヴルはそっとナイフをキノコ岩にあてた。硬い手ごたえ。崩れたそれとは比べ物にならぬほどの強度であった。力を込めると額に汗がにじむ。
数回、黒曜石のナイフを岩にあてるが、岩のほうはびくともしない。
しまいにはナイフのほうが欠けてしまった。
「あ……」
毀れていびつになった刃を目に近づけ、ヴィーヴルはアダマスに謝った。
「構わんよ。黒曜石なんてものはそんなに強いものではない」
「すまなかった。力を込めすぎたみたいだ」
ヴィーヴルがナイフの柄をアダマスに向けた。アダマスが受け取ろうとする。
「おっと、随分熱い」
思わずナイフを取り落とすアダマス。ナイフは音もなく砂の上に落ちた。ヴィーヴルは先ほどまでナイフを握っていた手を広げる。火傷とまではいかないけれど、ナイフを握っていたあたりに赤く炎症が起きていた。アダマスは自分の服の裾をぐるぐる巻いてナイフを拾う。
「崩れたキノコ岩はあんなにもろかったのに、残りの岩は皆強度を保っている。まるで一瞬にして長い年月が経ってしまったかのようだ。岩の中でも強度が混在している」
ヴィーヴルは乾いた唇を舐める。
「この遺跡そのものの年代はいつ頃と考えられるのかね」
「人工物と思しきものがこの石柱しかないうえに、岩そのものも、ヴィーヴルが言ったように新しいものと古いものとが混ざっている状態だ」
エディアールが答えた。
「火山の活動があったのは?」
「それなら……」
ヴィーヴルが岩の欠片を指先で転がしながら、茶色の瞳を細めて言った。
「ここ十年くらい前までは、活発な活動があったんじゃないだろうか」
キノコ岩の根元を掘り返した跡を示す。岩の色がわずかに変わる層。
「となると……竜王の目覚まし時計は、もう役目を終えたということかねえ」
「分からない。あの木の幹のほうも調べてみなければ」
「まあ、そうだろうな。これで、あの木が枯れたのも数十年前の話、ということになれば年代が確定できるのだな」
「残念だが、随分最近のものということになるな……ああ、木の調査は博物学者のヨシュアが適任だろうと思う。植物のことはかなり詳しいようだから」
「……それにしても熱い。錬金術師君、ナイフに何かしたかね」
「してない。あの岩をちょっと削るのに借りただけだぞ」
「鞘がいるな、鞘が」
アダマスはぶつぶつと呟いている。
■Scene:木と岩(5)
「これは、アリキアの木だ」
白く滑らかな幹に手を滑らせて、ヨシュアは言った。
「本来はもっと大きくなる。それこそ、お城くらいでっかくなるはずの木です。よっぽど環境がよくないと、そこまでは育たないといわれているけどね」
枯れてしまった木は、人間の背丈よりも低いくらいだ。
「これじゃ、実生で十年……ってところかな。枯れてから相当経つようだけど」
ヨシュアが言うのへ、アダマスはうなずいた。
「錬金術師君の話と合いそうだが……いや、わずかにズレがあるか」
「年代の話ですか?」
「そう。この地で異変が起きた。ま、私がパルナッソスに来る前の話だね。残念なことだ」
「それを言ったら、統一王朝だってできる前の話っすよ」
と、フートは苦笑する。
「その頃、君は何をしていたね? 精霊使い君」
「……パルナッソスにいたんじゃないっすかねえ、たぶん」
「ああそうか。君はうちの孤児院出身だったね。しかし君に当時のこのあたりのことを思い出せというのも酷だねえ」
「遊び相手が精霊だったってのは、今と変わんないっすからね〜。やっぱり精霊たちを呼ぶのが手っ取り早いっす」
フートは悲しみを込めたまなざしで、枯れたアリキアの木を見上げた。
「ドリアードも、もうこの木とともにはいないみたいっすよ。本当はドリアードに話を聞くのが一番だったんっすけど。ウンディーネに登場願いますか……」
フートは手持ちの水袋を引っ張り出した。
補給隊が汲んできた《砂百合の谷》の水には水の精霊ウンディーネが宿っている。その貴重な水を、ほんの少し分けてもらったのだ。
キノコ岩の結界内部に、ウンディーネを連れて行ったらどうなるだろうか。試してみる価値はあるとフートは思った。これだけの水量では精霊力復活には至らないかもしれないが、ウンディーネの話を通して、結界の種類や目的をつかむことができるかもしれない。
――この地に招かれ、この地を潤せし者よ。
と、フートは精霊たちに通じる方法でささやきかける。
――我が呼び声に応え、その知を授けたまえ……。
フートがいかにも胡散臭く囁きかけている間、アダマスはアリキアの木について教わっている。
「アリキアってのはどんな木だね?」
「炎の中でも雪の中でも花が咲くっていうよ。とっても強い木らしい」
「なんだね。それじゃあ砂漠にあっても別におかしくないじゃないかね」
ヨシュアは困った表情を浮かべた。
「まあそーなんだけど。めったに生えていない木だし、こんな中途半端に育って枯れちゃうのって可哀想だな」
「アリキアが、博物学者君の言うようにお城くらい育つには、どんな条件があるのかね?」
「……俺も、実物を見たことはまだないけど、聞いた話でよければ」
記録帳を繰り出して、ヨシュアは答えた。
「一度も血が流されていない場所であること」
「……いかんねえ」
アダマスが嘆息した。
「それは、いかん」
アダマスが繰り返した時、フートの手にした水袋の水がぱしゃりと跳ねた。
「ウンディーネ」
水しぶきの中に、小さな半透明の人型が踊る。
「来てくれたっすね?」
(――澱んでいる)
ウンディーネは、土や火の精霊に教わったのと同じようなことを告げた。
「根や芽はないっすか? 生命の証となるもの。何か、蘇らせることのできるもの……」
半透明のこびとが水を跳ねさせた。白い砂の上にぱたぱたと染みができる。
(――新しき契約が泉を封じている)
このウンディーネは随分時代がかった口調の精霊だな、とフートは思った。
「……封じてるっすか? 一体、何を……?」
水袋を手に、周囲に目を配る。
(――旧き泉に眠る王。火脈の支配者。炎湧く主、ミスティルテイン)
ははあ、とフートはしたり顔でうなずいた。
その手の強大な守護者がいるのなら、ミルドレッドが《魔獣》と称したのも、この地がかつて《炎湧く泉》と大仰な名で呼ばれた理由も、わかる。
だが疑問はまだ残っている。
(――水も風も契約を恐れている。埋もれている。閉ざされている。旧き泉は契約の杭を穿たれ、近寄ることを許されない)
ウンディーネは今の台詞回しが気に入ったようにころころと水音をたてて笑った。
「難しいとは思うっすけど、ウンディーネ?」
出来る限り優しい口調でフートは頼んでみた。
「ちょっと精霊力を元に戻せるかどうか、やってみてもらえないっすかねー?」
ぱしゃり。
半透明のこびとはしぶきを上げて水袋に潜っていった。
「あー……」
やっぱりお願いの仕方が悪かったかな。それとも精霊さん用のミルクがお気に召さなかったのだろうか。
フートがそう思ったとき……足元からぱしゃりと水音がした。
円形の白砂。かつてオアシスであっただろう輪郭に沿って、薄く薄く、ラムリュアの薄布のごとく水が広がった。風のない結界の中のこと、陽光を反射し、足元一面が青空を映す鏡となる。
しかし砂の上に水のヴェールが広がったのはほんの一瞬。
あっという間に砂は水を吸い込んでしまった。
「水袋の水だけじゃ、これが精一杯っすかねえ」
空っぽになってしまった水袋をひっくり返す。
(――水と風は契約に逆らえぬ。嵐が水と風をかき混ぜる)
最後の一滴が、すでに一段階暗い色をした白砂に、じゅわっと吸い込まれていった。
「……契約の杭、っすか」
「あの、アリキアの木のことだね?」
(嵐がくる)(かき混ぜる)(殻を破る)(放り込む)(嵐が)
フートは考え込んだ。
水と風は逆らえない。
水と風の精霊を遮り、火の働きを阻害している。精霊力の均衡を人為的に崩して、強すぎる火の力を弱めることが目的なのだろうが……ということは。
火ならば、可能なのだろうか? 封じられている主に対し、何か外から働きかけることが。
例えば、アリキアの木を火蜥蜴で。
「荒業っすねえ。取り返しがつかなくなる」
かぶりを振る。そのような手段は最後にとっておきたいと思った。