書庫

第6章 1.求憐誦

■Scene:承前――神の歯車

 結晶の内部の洞は、ぽつりぽつりと星を閉じ込めたように青白く仄かに透ける光に淡く輝いている。
 その場に居合わせたのは、ふたりの盾父――《涙の盾》信徒の中でも高位の敬称で呼ばれる人々。
 片や、アダマス。パルナッソス教区長。
 片や、ルドール。前任のパルナッソス教区長。
 そして学術調査隊の青年がふたり。聖職者カインと旅人リュート。
 おまけのように、からくり犬のスィークリール。
「神の助けとはお前のことだったようだ、盾父アダマス」
 ルドールは言った。一同が見つめる中、壁の一部に二羽の鳥を描いた紋章が浮かび上がる。
「《朝告げる鳥》。《大陸》に朝をもたらすんだよ、この場所から新しい時代が始まるのさ」
「正気か?」
 アダマスはうんざりした様子で答えた。
「夢でも見とるんじゃないか? 盾父ルドール、ご入用とあらば目が覚めるような一発をすぐにでも用意できますがね」
「夢? 神官ならば誰もが夢見るだろう、目前にまばゆく輝く神の姿を確かめられる瞬間を! 違うかね?」
 カインは大きくうなずいていた。
「神は細部に宿る」
 アダマスは言った。
「たとえ神々がもはや《大陸》に戻ってくることがなかろうとも……蛍を宿す砂百合のように、夜の帳が七色に空を塗り替えて行くように、そのすべてが神の遺物だ。私は日毎、神に触れている。それのどこが不満なのだ?」
「待たねばならんところが、だ」
 吐き捨てるルドール。
「……与えられることに慣れすぎたな、ルドール」
 アダマスは哀れみを込めたまなざしを、年若い男の姿をしたルドールに送った。
 洞の中央を貫く結晶柱の中に、照らし出される統一王朝の玉座。《聖地》アストラで十年前、少年王が統一王朝復活を宣言したものと寸分違わぬ、精巧な複製。
 だが真の玉座と異なるのは、それが一対であるということだった。
 結晶の壁面では、鳥の紋章が青白く強い光を放っている。
「ふたつあるのですか? 玉座は」
 リュートは素朴な疑問を口にする。
「そんなわけあるか。統一王はひとりだけだ」
「ですよね、普通、常識的に考えて」
「ところが《朝告げる鳥》としては、ふたつ必要なのだよ、盾父アダマス」
 ルドールはそう言って、ぽいと何かを放り投げた。
 カインとリュートがそれぞれ受け取る。鳥の紋章を穿たれた鍵であった。
 自ら朝を呼ぶのだ、とルドールは告げる。器足る存在により兄弟神の末弟《涙の盾》を降臨させるのだ、と。
「そのようなこと。見過ごすわけにはいかんな」
 アダマスはぎりと歯噛みしてルドールを睨みつける。
「盾父アダマス。それが君の悪いところだ。君はいつも選ばせてから叱るのだからな」
 曖昧に笑ったまま、鳥の鍵を何故リュートたちに渡したのかという問いには答えず、ルドールは言った。

■Scene:求憐誦(1)

 ルドールとアダマスの邂逅より、少し時間は遡る。
 調査隊の周囲は結晶の森であった。
 《炎湧く泉》――調査隊の目的地であった人工遺跡の上空に、すっぽりと覆いかぶさるように輝く雲が降りてきた。そこに出現したのが、すなわち幻覚の嵐が隠していた異界。白い靄にしっとりと包まれた結晶柱の立ち並ぶ場所。
『あなたは、だあれ?』
 ほんの束の間、声に選ばれた者だけが訪れることのできた空間だ。
 幼い、あるいは妖艶な、不思議な声の持ち主と数言の会話を交すうちに、いつの間にか結晶化した構造物は薄れ、気付けば元の砂漠の中、風吹かぬ《炎湧く泉》に再び戻っている。
 幻覚の嵐が調査隊一行に見せた現象とは、初めそのようなものであった。
 だが今や、状況は変わっている。
 幻覚の嵐は、いちどきに調査隊一行を取り囲み、声に答える意志すら無関係に異界の中へと飲み込んだ。時が経ってもいっこうに元の砂漠の中の《炎湧く泉》に戻される気配は感じられず、周囲の結晶の森はあたかも原初からそうであったかのように、依然として存在している。
 この現象が、《円盾の防護》によってもたらされているものであることを、調査隊一行は突き止めていた。
 《円盾の防護》とは、兄弟神の末弟《涙の盾》の信徒の間に伝わる儀式魔法のひとつなのだとアダマスは言う。信徒たちの精神をひとつに合わせることによって強固な防護陣を築く。その中では、移ろい変わり往くことがない。肉体は疲れないし、食事をする必要もない。
「ありていに言えば円盾の防護とは、信徒たちの消耗と引き換えに、防護陣内部を守り抜くための手段にすぎない。簡単な足し算引き算だよ」
 アダマスはそんなふうに、自身は執り行ったことのない秘儀を調査隊の面々に説明した。
 一方で白い靄は少しずつ薄れつつあった。歪められた精霊力が、ゆっくりと均衡を取り戻そうとしていた。
 血の流れたことのない場所で大きく生長する性質を持つアリキアの木は、《炎湧く泉》で調査隊一行が目にした時にはすでに白く立ち枯れてしまっていたのであるが、結晶体立ち並ぶ《円盾の防護》の中にあっては、枝を広げ結晶化した巨木の偉容を示していた。
 しかし、このアリキアの巨木も、少年クレドの手で傷つき、幾千の結晶片に壊れて崩れ去った。結果としてクレドの行為が《契約の杭》としてのアリキアの木の役目を終わらせたことになる。
 《炎湧く泉》から排除されていた精霊たちは、《契約の杭》がなくなったために、何の強制力もなく行き来ができるようになった。風のまったく吹かなかった《炎湧く泉》の遺跡内部にもそよ風が通り過ぎるようになる。
 とはいえ精霊力の作用だけでは結晶の森は消えない。《円盾の防護》はなお維持され続けているのだから。その動力源は信徒たちではなく、パルナッソスの住民たちなのである。
「パルナッソスの人たち。施療院の人々、孤児院のこどもたち。彼らが、儀式に参加しているという自覚なく、精神力を常にこの場所に送り込まれているのです」
 今や、結晶体を胸に同化させ、魔力変換維持装置の一部となった宝石道師は言った。
「ぶっとばせ」
 ミスティルティンのどれかが、彼女に答える。
 火山の主にしてみれば、人間たちの集落のひとつふたつが燃え尽きたところで、意に介するほどの価値もないのであろう。
 はるか昔より《炎湧く泉》をすみかとしていた火山の主ミスティルテインは、12に分割されたまま蘇っていた。かつてミスティルテインを封じた人物は、ミスティルテインそのものの力で鍛えた黒曜石の剣をもって、この火山の主を12の欠片に切り刻み、彼の力を限りなく弱めたうえで、この地に閉じ込めたのだ。
 ミスティルテインは自らを傷つけ貶めた人間に対し復讐を誓っている。
 幼子ミストの攻撃によって結晶柱に取り込まれた調査隊それぞれが脱出するにあたり、12のミスティルテインは気紛れか説得されたのか、12通りに好きなことを言いながら、とりあえず協力する姿勢を見せている。
 ともかくも。
 《円盾の防護》が維持され続けている以上、儀式を破り元の砂漠へ帰還する方法を探らねばならないのだった。

■Scene:求憐誦(2)

「いやあ、そんな話を聞いてもサッパリわからんわい!」
 結晶柱に一度は取り込まれたものの、どうにかまろび出てきた老勇士ホールデン――否、ホールデンだった男――は、そう言って大げさに肩をすくめた。
「前のワシだったらば、もうちっと飲み込みも回転も良かったかもしれんがの。どうやら頭のほうにもガタが来たらしいわい。どいつもこいつも、知った顔のような気がするんじゃが……サッパリ! 思い出せんわい」
 老勇士も、結晶柱の中で記憶を失ってしまっている。
 引き換えに得たものは、片方だけ赤い瞳。12の欠片に分割されたミスティルテインの力を宿したという、しるしだった。
「いやはや。年は取りたくないもんじゃな」
「いえいえ。ホールデン先生。この場合、年齢や物覚えは関係ないみたいですから」
 ホールデンに諭すリュシアン。
 幻覚の中を《魔獣》に会いに行った者たちは、エディアールの提案に従って、自分の名前や、その他忘れたくない記憶を書きつけ、何らかの方法で残していった。
 誰かに預ける者。こっそりと荷物にしまう者。
 ヨシュアのように、スィークリールに託した者もいた。だがホールデンが自分のために書き残したのはわずかに三語。リュシアンの目前で書かれていたからよく覚えている。
 知恵と勇気と愛。他には名前すら記されていなかった。
「お。あの嬢ちゃん……知っとるぞ」
 ホールデンが手庇で結晶柱の間を眺めている。リュシアンもその視線を追いかけた。
「名前が……出てこんの。キャサリンじゃったかな?」
「イーディス、ですよ。ああ、よかった。無事でしたか、イーダさん」
 リュシアンは、心細げな足取りでこちらへ向かってくる女商人を見つけ、うれしそうに言った。
 そのイーディスは、きょろきょろと調査隊の仲間たちの顔、その表情を確かめるように見つめていた。彼女もホールデンと同じように、片方の瞳が赤く変じた者のひとりだった。
「イーダさん、お帰りなさい」
「あたし。そうだ、イーダです」
 名前を取り戻した彼女は、かしこまった口調でリュシアンにお礼を言う。
 その答えぶりに、リュシアンは笑みの中にほんの少し、イーディスが気付かぬほどの悲しさを交えた。
「心配していましたが無事で何よりでしたよ。とはいうものの……その目の色。すべてが無事というわけではないのかもしれませんが……」
「ううん、あたしは無事です」
 彼女はおずおずと答えた。指先は糸玉の先を弄んでいた。そうしながら、仲間に再会できた今、糸は役目を終えたのだと気付き、自らの腰を結わえていた糸を解こうとする。
「はは……」
 リュシアンは笑いながら、糸を解くイーディスを手伝う。
 イーディスの返事は、まだどことなく他人行儀だった。はきはきとしたきっぷのよい、あのイーダらしさを取り戻すのには、まだ少し時間がかかるのだろうな、とリュシアンは察した。
 彼は荷物の中からさまざまな紙束を分け、大事なものを扱う手つきでイーダが書き残していった手紙を取り出した。簡単に紙を折っただけのものと、封印の蝋を施したものの、ふたつの手紙。
「あたしの字」
「そう。貴方のです。ですから貴方にお返ししますよ。イーダさん。イーディス・ディングラーデンさん」
「イーディス・ディングラーデン」
 イーダは確かめるように、何度も自分の名前を繰り返した。
「ありがとう……リュ……リュ……うん、リュシさん!」
 リュシアンに対する呼び名を思い出したイーディスの顔が、ぱっと華やいだ。
 彼女は嬉しかった。仲間がいるところまで戻ってくることができて、自分が残しておいた記録も、再び手にすることができた。少しずつ、足元がしゃんとしてくる感じがする。
 手紙を読んでもまだまだ借り物の服を着て歩いているみたいだけど、そのうちしっくりしはじめることを願うしかないのだ、とイーディスは思う。
「あ……うちの蝋の匂いだ」
 封印の蜜蝋をかいで、イーディスははにかんだように笑った。
「そんなことまで、分かるんですか」
「あははっ。分かるみたい。お店の匂いがする。ほら、ちょっとだけ精油を入れてつくってるから。こういうのは忘れないものなのかな」
「ふうむ。匂いと記憶は密接に結びついているという説もあるようですからね」
 リュシアンは真面目くさってそんなことを言った。
「……ねえ。リュシさん。イーダって、こういう子だった?」
 手紙に顔を埋めながらイーディスは尋ねてみた。
 借り物の服が合ってない、と言われたらどうしよう。少し不安。似合っていなくても、この服を着て頑張るしかないわけだけれども。
「どういう?」
「どうって、ええと……実はまだ、イーダって呼ばれてもぴんとこないみたい。でも思い出したの。イーディスって名前は、両親がつけてくれた」
 リュシアンはうなずいた。
 彼女は商人の家の出だと言っていた。いつか自分の店を持ちたくて、今は《精秘薬商会》で働いているのだと語っていた。両親の営んでいた店がどうなったのか。詳しくは語られなかったが、彼女を育んだ家はリュシアンの想像するに、家族に対する愛と、お客に対する喜びに満ちた場所であったに違いない。
「どんな意味があるのですか、イーディスという名には」
「笑わないでね? 富とか。獲得者とか。支配者とか」
 そう言いながらイーディスは自分でも吹き出した。
「立派すぎると思わない? 名前負けしちゃってるのかも」
「とんでもない。商売人らしいと思いますよ、ご両親の願いが込められてる」
 それから、リュシアンはほんの少し考えて、こう言った。
「イーダさん、と短く縮めて呼ぶのも、気が咎めますね。その意味を聞いてしまいますと」
「よしてよ、リュシさん」
「……うん。その顔」
 イーディスはふっと動きを止めた。
「さっきよりもイーディスさんらしい顔。仕草も」
 リュシアンがそっと示す。イーディスはいつの間にか、着込んでいたシャツの袖をまくっていた。無意識のうちだった。言われて見れば、仕事で身体を動かすのもお客の間を回って注文をさばくのも、いつも腕まくりをしていたように思う。
「本当に? からかってない?」
「信用されてませんね、まあ無理もありませんが。こう見えて、人間観察はわりと得意です」
 ヨシュアくんには負けますけどね、とリュシアンは苦笑して付け加えた。
 それにほら。イーダさんの他人行儀だった口調が、少しずつ、もとの雰囲気に戻り始めているみたいですし。
「嬢ちゃんや」
 ふたりの間に、ホールデンが割り込んでいった。
「思い出したぞ。うむ。思い出した。あんた、ラハの店で皆に言ってまわっとった」
「ラハの店? ……《精秘薬商会》のこと?」
「そうじゃ。自分で、イーダって呼んでほしいと、の。な?」
 イーディスは腕まくりした手首と、ホールデンの顔と、リュシアンの顔を見比べた。
 たぶん、イーダも思っていたのだろう。富や支配者を意味するイーディスという名が、まだ自分の身の丈にあっていないということを。だからきっと、短くイーダと呼んでほしいと願っていた?
「あたし自身は、前と同じあたし……イーダなのか、まだ漠然としてるけど。不思議。皆のほうは、あたしをあたしって、見てくれてるんだ」
「ま、そう気にするでない」
 かっかっかとホールデンが大笑する。
「どうせ他の連中も大差ない。多かれ少なかれ、何かを忘れて生きてゆくんじゃ。まとまっていっぺんに忘れたところで、新しく覚えることが増えるだけじゃ」
 イーディスはホールデンに背中を叩かれて、目をぱちくりとさせた。片方はミスティルテインの赤。もう片方はアクアマリンに似た水の色。
「忘れたらまた覚えりゃよい。な? たかがそれだけのことよ」
「デン爺さん」
「デンでもドンでも、知恵と勇気と愛さえワシが思い出せれば、それはワシということじゃ」
 ホールデンの同じ台詞をかつて耳にしたことがあった、とイーディスは思った。
「そうか。そうなんだね」
 自分が思っている以上にこの服は、あたしに似合っているのかもしれない。そうあってほしいとイーディスは、イーダは思い始めている。

■Scene:求憐誦(3)

「皆を集めましょうか」
 ラムリュアはエディアールの腕の中から抜け出て尋ねた。
「ああ。アダマス師の話を伝えなくてはならない」
 少し考えて、エディアールは付け足した。
「その品々は、もう少し貴女に預けておきたいのだが、かまわないだろうか」
「……このことね。もちろん」
 ラムリュアは手にしていた手紙とバッジを軽く揺らしてみせる。ラムリュアも自分の記憶が元通り戻るまで、これを返すつもりはなかった。
「何かの印章かしら」
 指の間にバッジを傾けてみる。意匠はラムリュアの知らないものだった。だが、このバッジがエディアールの襟元を飾っていたことは覚えている。彼の立場か所属か、そのようなものを示すしるしだろうとラムリュアは想像した。
 黙ったままの男に、ラムリュアは言う。
「安心してください。詮索するつもりはないわ……今のところは」
「助かる」
 エディアールはほんのわずか安堵の表情をかいま見せた。
「もしも、私が命を落とすようなことがあれば、それらを持ち《精秘薬商会》に行ってほしい」
 ラムリュアは双眸を細めた。焦茶色と、新しく赤色に変わった瞳が、エディアールを正面から見つめ、小さくうなずく。
「……わかったわ。気が向いたら」
 命の危機もありうる事態だということを、ラムリュアは少しずつ思い出した。《魔獣》。かつて血の流された場所。《神の教卓》。邪な儀式……。
「その際は、そのバッジを見せてここで起きたことを伝えてもらいたい。それだけだ」
 そう手間ではないだろう、と暗に告げる口ぶりだった。
 ラムリュアは小さなバッジに再び視線を落とす。銀のタロットカード、風を示す旅人の絵の上で、バッジは硬質な金属の光沢を放っていた。
 《精秘薬商会》と聞いて思い浮かんだのはラハのことだ。薬を求めによく立ち寄った。思い出しはじめる……レディルと軽口を叩き合ったりもした。エディアールもラハの住人だったのだろうか……いや、《精秘薬商会》は《大陸》中に支店を持っている。ラハの出身とは限らない。《精秘薬商会》の商人、名前は――そう、イーディス……とも、初対面のようだった。
 肝心なことを語らぬエディアールに、しかしラムリュアは、思いを巡らせていたのとはまったく別のことを口にした。
「それにしてもなかなかずるい聞き方よね」
「何のことだ」
 怪訝な表情でエディアールは問い返す。
「あら」
 ラムリュアは肩にかかった長い髪を払い、先のエディアールの口調を真似る。
「預けておきたいのだが、かまわないだろうか……」
「何か、おかしかったか?」
「そんな言い方をされて断る女はいないと思う。それだけよ、伝えたかったのは」
 バッジと手紙をしまい、ラムリュアは手に馴染むカードを繰った。
「貴女は信用できる。期待をかけて、それに応える力を持つ相手を信用するのは普通のことだろう。相手が男でも、女でも。そう思わないか」
 返事をする代わりに、ラムリュアはカードを一枚表に返す。
 二本の指を伸ばしエディアールに見せた。
「何を示している?」
 カードにちらと目を走らせ、エディアールが問う。
 二本の喇叭が交差している。素人目には何とも意味の取りがたい絵柄。
「審判の絵」
 ラムリュアは淡々と答えた。
「意味するものは、選択よ。そして向きは逆」
「何を占われようとも、私は私に出来ることをやるだけだ」
 カードを弄びながらラムリュアはエディアールの表情を伺った。
 探検家はすでに身を翻し、他の仲間たちに声をかけるべく歩み去ろうとしていた。
「私は私に出来ることを」
 逆位置の審判……意味するものは、誤った選択。精霊の告げる札に嘘はない。
 だが、問いは?
 エディアールがラムリュアを選んだことか。
 それとも、ラムリュアがカインを選んだことか。
 あるいは、カインが、神を選んだことか。
「私は」
 呟くラムリュア。胸に広がる不安。枯れた花輪。
「私に教えて。私の精霊よ。他の人々は何をしようとしているの?」
 エディアールの目的も、カインの目的もわからない。
 カードは太陽。位置は逆だ。
「ミスティルテイン」
(……どうした? 早く我を開放するのではなかったのか)
「そうよね、ミスティルテイン」
 ラムリュアは戸惑い混じりに答える。
 ともかくもこの同居人、自分の中のミスティルテインを何とかせねばならない。
 ミスティルテインは、結晶柱に閉じ込められていたときのように喚き散らすことはしなくなったが、このまま同居を続けていたら、いつ身体の自由を奪われるか、望まぬ殺戮に走らされるかも判らない。
 ともかくも、ミスティルテインの力を何とかしなくては……。

■Scene:求憐誦(4)

「パーピュアさんっ! パーピュアさんっ! それに……それに……それに……うん思い出したっ、レディルさん……っ!」
 結晶柱の前にヨシュアはかじりつき、今にも泣き出しそうな表情で、結晶の中に囚われたままのふたりを見つめた。
 かつてアメジストが埋め込まれていたパーピュアの胸に、今は結晶の大きな欠片が突き刺さり、彼女の細い身体を貫いている。痛々しかった。彼女の両目は閉じられていた。その顔は穏やかで眠っているように見える。
 赤く燃える塊――ミスティルテイン12分の1――が、パーピュアの肩のあたりを漂っている。
 パーピュアにお礼を告げるつもりが、成り行きで結晶柱の中に取り込まれてしまったレディルは、何が起こったのやら、といった表情を浮かべていた。
「聞こえ……ないんだよなあ。あああああ……」
 ヨシュアはずるずると腰を落とした。大切な記録帳が転がり出て、ばさりと音を立てる。
「どうしよう」
 見上げる。
 結晶柱の中のパーピュアがとても遠い。
 その痛々しさから、けれどヨシュアは目が離せなかった。
(なんだ、その様は。外に出たら何とかなると言ったではないか)
 ヨシュアの中のミスティルテインが意地悪く責めた。
(あの我は、出損なったようだな……もうひとりの人間を器にすればよかったものを)
「まさか……死……」
 ミスティルテインの言葉にヨシュアが青ざめる。恐ろしい想像だった。
(あの人間の女か? わからん。そういえば火の玉ひとつ投げただけで人間は死ぬからな。死んでてもおかしくないかもしれぬ)
 ぶんぶんとヨシュアは首を横に振った。
「きっと、パーピュアさんは、何かをしようとしてるんだ。きっと、何か……無茶なことを」
 その時誰かがヨシュアの側に来て、記録帳を拾い上げた。
「大事なものだろう」
 エディアールだった。記録帳をぱらりと眺めて手渡した後、続けてヨシュアに告げる。
「盾父アダマスが先行して、ルドールという男に会いに行っている」
 博物学者は座り込んだまま、探検家の手から記録帳を受け取った。
「……ルドール」
 その名を繰り返す。
 その男がすべて知っている、とエディアールは言う。
「詳しいことはこれから皆の前で話すつもりだが、ミスティルテインにも来てもらいたいと思っている」
「ミスティルテインって……俺と一緒にいる?」
 エディアールはうなずき、ヨシュアの赤いほうの目を示した。
「ラムリュアも片目が赤かった。結晶から出てきた時に同じようなことが起きている。ミスティルテインの力を分け合っているといえばいいのか」
 ヨシュアは思わず、エディアールが示したほうの瞳に手をやった。
「自分じゃわかんなかった。そっか……」
 それで、ミスティルテインはああ言ったのだ。パーピュアを見て、まだ欠片が側を漂っているのを見て、パーピュアが器になっていないことを揶揄したのだ。
(ふん)
 ヨシュアのなかでミスティルテインが鼻をならしたような――鼻があるのか謎だが――声を漏らした。
 博物学者がゆっくりと立ち上がりチュニックの裾を払うのを見届けて、エディアールは他の仲間にも声を掛ける。
 エディアールが仲間を呼ぶ、張りのある声を心地よく耳にしながら、ヨシュアは記録帳を何気なく開いた。
 一番新しい頁にはアリキアの項が設けられていた。
 真新しい書物を手にしたときのように、むさぼるようにヨシュアは自分の筆跡を追いかける。
『よじのぼってみたら、本当に小さい木だった。小さい頃よくのぼった、アケミドリの木よりも小さいかもしれない。何故だろう、どこかであれを植物だとは思えなかった。杭と呼ばれていた所為もあるかもしれない。枯れてしまっていたからかもしれない。無理やり切り倒されることと無理やり植えられることは、何処か似ている。
 ――血の流れない場所など《大陸》中探してもあるかどうか。
 それでもアリキアは、ただ枯れる為だけであっても生えてくる。木に望みはあるのだろうか。あれを見ていると、少し寂しくなった。アリキアそのものは、人為的に植えられたとしても、構わず枝を伸ばしていたから、これは俺の感傷なのだけれど』
 突然ヨシュアは顔を上げてアリキアの木を探した。
 見つからない。
 なぜ? ぐるぐると頭が混乱した。
 俺は確かに登ったはずなのに。そのとき確かにエディさんが助けてくれたのに。
 混乱したまま、次の行を読み進む。
『アリキアの木の上で蓋を見つけた。エディさんが支えてくれた。思っていたことを口にしてしまって、でも、たくさん話が出来た。何だか兄さんと話してるみたいだった。まだまだ知られずにいる遺跡を探しに行くという。ちゃんと答えてもらえてよかった。急だったのに』
 ほら。木にのぼったことも、エディさんが助けてくれたことも、エディさんと話したことも此処に残っているのに。
 目の前の風景にその木がないのはどうしてだろう?
 ヨシュアは、アリキアの木を探し続けた。
「ミスティルテイン……ミスティ……ミステル……」
(……)
 ヨシュアの中のミスティルテインは返事をしなかったが、その発する気配がヨシュアに向けられたことを彼は感じ、言葉を待たずに続けた。
「今だけミステルって呼ぶけどさあ。ミステルはこんなことしたら、怒る?」
(我は元々怒っているのだが!)
「ああ、そうだったね」
(お前の考えていることは、判る)
 そうなんだ、とヨシュアは照れた。
 考えてみれば、ミスティルテインは今ヨシュアの一部を間借りしているのだった。ヨシュアがその気になればミスティルテインの炎を呼び出すことができるのと同じように、ミスティルテインもその気になりさえすればヨシュアの思考を読み取るくらい造作もないのだろう、と納得する。
(お前はそのアリキアの木を、燃やしたいと考えているのだろう)
「ち、違うよっ!」
 ヨシュアは引きつって思わず叫び声をあげた。
 火山の主を舐めてかかってはいけないのだ。そもそも発想が、違っていた。
(なんだ? じゃあ判らぬ)
「俺アリキアが見たい」
(そうか、見ろ。別にどうでもよいわ)
「あーもう。わかんないかなあ、でっかいお城みたいに育ちまくったアリキアの木が見たいの! 俺は!」
(見れば?)
 投げやりにミスティルテインは言う。
「……い、いいの?」
 それは正しいことなのか、ヨシュアは迷っていた。
 アリキアの木を再び、否、新たな契約の杭に定めること。
 博物学者としては取るべきでない行動だと、頭では理解している。二度と血の流されぬ場所で、人の都合によらず、あるがままに生長させるべきだと、知っている。ヨシュアだった青年が記録に書き添えたように、アリキアに相応しい場所が《大陸》のいずこにあるかは別として。
 ヨシュアだった青年は、さらにこう綴っていた。
『アリキアが新しい芽を出した。契約の杭である必要がなくなったのだそうだ。もはやあれは、枯れたアリキアという記号ではなく、新しく生えたアリキアの樹だ。今度こそアリキアは瑞々しく健やかに育つだろう。城より大きくなるかもしれない。そこまで育つにはどれほどの力が注がれるのだろう』
 ヨシュアは記録帳を閉じて想った。
 あの子は。
 ……それを願うだろうか?
 姉ちゃん。俺を黄色い水の中から出そうとする時、考えましたか。
 俺が、外の世界に出たがっていると。
 本当は俺は、なんにもわかっていなかった。世界を隔てる壁の向こうに行ったらどうなるのか。白いおじさんたちが何人も向こうにいて、俺はひとりでこっちの黄色い液体の中にいるだけ。
 ……あの子が、それを望まなかったら?
 出たくない。このままでいい。選択の否定。目の前に突きつけられたらどうすればいいのか。
 姉弟子が下した決断の重さと引き受ける覚悟を、ヨシュアもまた噛みしめる。
「とことん、心優しい男だな」
 エディアールはひそかに呟いた。
 ヨシュアに対しての感想だった。とはいえ本人の耳には届いてはいない。
 記録帳の厚みと、目にした頁の圧倒的な情報量を思い返す。
 あれだけの内容を書き留めるだけの力量を持っているのだ。ヨシュアは、周囲を観察することにおいては人一倍優れているに違いないとエディアールは実感していた。
「記録するのが仕事……とか言っていたな。魔女に託された、とか」
 観察力は博物学者として重要な資質である。すべてを対象として同じだけのまなざしを注ぎ続ける。新たな対象が現れれば、それも加わる。
 博物学者になりきれていない部分は、記録が記録ではなく、ヨシュアの主観が混ざっているところであろう。あらゆる事物に自分なりの見え方を付け加えようとする、その作業はヨシュア個人をすり減らすに違いない。
 エディアールにしてみれば、それもやはりヨシュアらしさ、広い言い方であれば若さとも言えた。
 きっと、そのことにヨシュアはいつか気付くだろう。
 エディアールは思った。あらゆるものを平等に扱うだけの時間も、体力も、人は持たない。どこかで折り合いをつけなければならない。
 そして今、エディアールの好奇心は、ヨシュアの保護者であるらしい謎の魔女にも向けられつつある。隠遁者。弟子たちを何らかの目的をもって《大陸》に送り出す存在。何者なのだろう。その意図、その脅威はエディアールの興味をそそった。
「……」
 無言でエディアールは自省した。好奇心の向かうものすべてを探索できるはずもないのは、自分とて同じことであった。

■Scene:求憐誦(5)

 結晶化した構造物の間にその姿を見つけたとき、ラージはしばらくかける言葉が思い浮かばなかった。
 少年クレドが白い豹を伴って目の前にいる。
 白い豹が少年クレドを返しに来た、というのが正しいところかもしれないが。
 クレドは、この豹はカッサンドラなのだと言った。
 精巧な彫像のように胸を張り、クレドとラージを見つめている、この豹が。
 巨木を傷つけ、その崩壊に巻き込まれ結晶片に押しつぶされる寸前、クレドを救ってくれたのもカッサンドラであったという。
「カッサンドラ……さん。一緒に来てよ。アダマスさんが待ってる」
 手を差し伸べたラージに、白い豹カッサンドラは琥珀色の瞳で答えた。
『人間とは? その定義を教えてくださるまで、お側に』
「貴女は……貴女が《魔獣》なの? カッサンドラさん……」
「同じ人間とは続けて契約することはできないって、言ってるけど……」
 クレドはたどたどしく、豹のことばを繰り返した。
「でも、それって……どういうこと? カッサンドラ? 契約? もうオヤジのところに戻らないってこと?」
 うなずくカッサンドラ。クレドは驚いて、ラージと豹の姿を交互に見つめる。
「嘘だろ。あんた、オヤジがパルナッソスに来たときからもう一緒だったじゃんか! いまさら突然……どうして? どういうことなの?」
 一方、状況を飲み込み始めたラージは、そっとクレドの肩に手を置いて言う。
「お側にって言われてしまったから、もう、その、契約っていうのかな……始まってるのかもしれない」
 ラージは視線を彷徨わせた。
 結晶の森。維持されたままの、閉ざされた異空間。時移ろわぬこの幻覚の中では、昼夜の区別もなく、頭上は曇天めいて、明るくもなく暗くもない、曖昧さが支配していた。円盾の防護が維持されている限り、この空間はこのまま存在し続ける。
「け、契約って……なに?」
「僕に聞かないでよ、クレド」
 ラージにもわからない。そもそもカッサンドラが何者で、契約とは具体的にどういうことを指すのか。
 脳裏に浮かんだのは、魔法を操ることを専門にしている者たち、いわゆる魔法使いの儀式。動物や霊を使役するにあたり主従関係を結ぶ使い魔の契約だった。ラージもわずかに魔法を操るものの、紐や糸が相手であるから、たいそうな儀式などしたことはない。
「どうするの、変な契約だったら」
 こそこそとクレドがささやく。
「それはないと思うよ」
 自信なさそうなままラージは答えた。
「だって、僕の前はアダマスさんと契約してたわけだろ?」
「あ。そっか」
「まあ、まだだったとしても、ともかく契約はするつもりだけどね。考えてみたところで拒否する理由はないし」
 よしんば何かを失うことになったとて、失って困るようなものをラージは思いつかなかった。元々身軽に暮らす性質なのだ。心身には影響があるかもしれない、と思う。魔法使いの連中のなかには、使い魔と体力を共有している者もいるということだ。あるいは、生肉大好きになってしまうかもしれない。多少の不便は強いられるのだろうか。記憶も一度失った今、それ以上に不便なことがあるかはわからないけれど。
 とはいえ、ラージが思い出せた範囲内でのアダマスは、特に妙なふるまいをしていることはなかったはずである。火の通ったものを食べていたし、お酒も飲んでいた。
 だから、ラージの側に拒否する理由はまったくなかったのだった。
「……ということで、カッサンドラさん。教えてほしいんだ」
 ラージが口を開くと、円みがかった豹の耳がぴくりと動いた。
「契約って、どうなるのかな? 僕は何かをしなくてはいけないのかい?」
「ええ」
「しゃ、しゃべった!」
 クレドが声をあげて、慌てて自分の掌で口を塞ぐ。
 ラージも口を開けたまましばし呆然としていたが、やがて思い至る。
「さっきまでは……漠然と声がしたような気がしていただけだったのに。もしかして契約が成立したからなのかい?」
「そういうことです。わが主」
「わが主……」
 くすぐったいどころではないその呼び名に、もぞもぞと居ずまいを正そうとするラージ。
 カッサンドラは続けて尋ねる。
「人間とはどのような存在なのでしょうか。人間とは?」
「その問いに答えを出すことが、僕の役目なの?」
「そうです。わが主」
 その問いの意味の本質をラージは考えようとした。
「他に、何かできるようになったり。何かできなくなったり、とか」
「それはありません、わが主」
 顎に手をあて、むうう、とラージは小さく唸った。カッサンドラはゆらゆらと髭先を動かすのみ。
「契約ということは、相互に何か義務を負うことだ」
「そうです。わが主。契約はつまり約束です。私と貴方の間の約束です」
 アダマスもかつて、カッサンドラとこのように契約を交わしたのだろう。先のカッサンドラの言葉を借りるならば、アダマスは求められた問いに『退屈しのぎを追いかけ続けるもの』と答えた。
「アダマスさんとの契約は切れたのかい? アダマスさんのところへ戻れないのは……近づけないわけじゃないよね」
「そういう意味ではありません、わが主。アダマス……盾父アダマスは、ひとたび人間を定義し、そしてそれを実証した。私は……盾父アダマスを理解し、そうあろうと務め、果たすことができました」
 そう告げるカッサンドラの視線は、クレドに注がれていた。
「アダマスさんを理解した。そして、クレドくんを庇った」
「そうです。わが主」
「え……あ……俺が……」
 ぱくぱくと口を動かすクレド。
「俺のせい? オヤジんとこに戻れないっていうの、俺のせいなんだ?」
「いいえ、そうではありません、クレド。貴方は単にきっかけでした。貴方の責ではありません」
「でも俺」
 クレドはうつむいた。
「貴方はきっかけです。ミストというあの幼子が私を惑わせた時、私は私ですらありませんでした。ただ貴方の危機に気づき……盾父アダマスの定義を思い出し、私は私を取り戻したのです」
 そういえば、ミストも問いを発するのだという。
 幻覚の中から招くその問いは、『あなたは、だあれ?』――人にあらざるものたちは皆、知りたがりばかりなのだろうか?
 魅入られたように問いかける。その行為に意味は、目的はあるのか。
 そもそも問いに答えることで、僕たちの間の関係は何か変化するというのだろうか。僕には何も変わらないように見えても、カッサンドラさんにとっては重要なことが隠されているとでも。
 契約というからには、僕――や、アダマスさんだから与えられるものがあるということなんだろうけれど。きっとそれは形ある物、ではない。他に与えることができるもの? 人間を定義することによって?
 そんなことをつらつらと考えていた。
「……ん」
 ラージはふっと顔をあげた。
 幼子が私を惑わせた。
 カッサンドラはそう言った。その言葉がラージの心に引っかかり、跡を残した。
「それで、契約が移ったのです」
「正直、まだわからないところもあるけれど……」
 ラージは白い豹の模様の美しさを眺めつつ、戸惑いがちに答えた。
 人間の定義。尋ねられて思い浮かぶがままに言葉を紡ぐ。
「人間とは、繋がりだ、と僕は思う。自分と、自分以外の誰かがいる。その誰かの存在を認識しておくこと」
 うまく言葉が出てこなかった。
 だがカッサンドラは琥珀色の瞳を見開き、ラージの声に耳を傾けている。
「そして……その誰かに、自分という存在を認識してもらうこと。その、双方向の繋がりを作り、保とうとするのが人間なのだと思う」
 幽霊。ラージの希薄さと地味加減を、そう揶揄する者もいた。なかなか名前を思い出してもらえない男。ラージが立っていた場所はそういう場所だった。
 ラージ・タバリー。
 自分に宛てた手紙が、ラージだった男に名前を教えてくれた。
 しかし。もしも手紙に「ジョン・スミス」と書かれていたら……。そして周囲の皆もジョン・スミスと呼んだとしたら。
 それまでラージだったとしても、僕はジョン・スミスになる。他人によって自己が定められる。ジョン・スミスに対して繋がりを作っている。
「繋がることで初めて、僕は僕として在り得るのだと思う」
 言い終えてふと傍らを見ると、びっくりした顔でクレドがラージを見上げていた。
「わが主。わかりました」
「……こ、こんな感じでよかったの? なんだかうまく言えなかったけれど……僕はそう思う。でももしかして、これで契約終了?」
「いいえ。わが主。そうですね、半分は終了と言えるでしょうか」
「ああ、まだ終わりじゃないんだ」
 ラージは考えた。クレドを助けた行為によって、カッサンドラとアダマスの契約が終わった。人間の定義を伝えた後、残りの半分は……もしかして、それを実行するということなのか。
「はい、わが主。しばしの間、お側にお仕えします」
「あ、うん。別に構わないけど」
 カッサンドラの答えに、ラージはほっとした。アダマスにカッサンドラの帰還を伝える間もなく、彼女がいなくなってしまったりしたら、申し訳が立たないように思ったのだった。
「調査隊全員で、ここから脱出しなくちゃならない。力を借りられたらなって思ってたし。でも……その、わが主って、ちょっと僕には似合わないと思うんだけど」
「そうですか? 困りましたね」
 白い豹は柔らかく首を曲げ、猫の毛づくろいにも似た仕草をする。
 そのまま自分の尾を追いかけてくるりと一回転したかと思うと、白い豹は、人間の姿に変じていた。
「カッサンドラさん!」
「ええと。お呼びするのは、何としましょう」
「わが主じゃなかったら何でもいいよ」
 カッサンドラは口をへの字に曲げて困った顔をした。
「……うん、良かった」
 ラージは素直にそう言った。
「ほんとに良かった。嬉しいよ、貴方が戻ってきてくれて」
 人間の姿を再びとったカッサンドラを目の前にして、はじめてラージは、彼女を見つけたという実感を抱いたのだった。


1.求憐誦 2.栄光頌 3.信仰宣言 4.三聖頌 マスターより

書庫へもどる