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第6章 4.三聖頌

■Scene:三聖頌(1)

「カイン!」
 ラムリュアが、呼ぶ声を強める。
「ねえ聞いて、カイン。ミスティルテインを解放するのなら……私のなかにも彼がいるの。彼は12の欠片になって、私の中にそのひとりがいるのよ。だから……だから、私の中の彼を助けて」
 結晶の柱の中でラムリュアはひとたび過去を失った。唯一手にしっくりと収まるタロットカードの扱い以外のことは、途切れ途切れの夢のように感じる。どこか他人事のような日々。
 朝を待つという幼子ミストのことを伝え聞いて、ラムリュアは思った。
 ミスティルテインの欠片とともに結晶柱を出てからは、きっと私は別人になったのだ。もうひとりの癒し手パーピュアが出てこないわけも理解できる気がした。彼女も別人になりたかったのではないか?
 可哀想に、パーピュア。ラムリュアは少女を哀れんだ。
あの子もミスティルテインを選んでしまえば、私のように過去から解放されたのに。
 可哀想に、カイン。ラムリュアは神官をも哀れんだ。彼は結晶柱には囚われることなく……つまり、彼は過去から解放される機会を得られなかった。解放されたがっているのはカインだ。
 ミスティルテインを解放するといいながら、心の底で、解放されたがっているのはカインなのだ。
「そしたらきっと、あなたも解放されるに違いないもの」
 ラムリュアは、ほとんど光に飲み込まれているカインの腕をぎゅっとつかんだ。
 ほとんど同時に、クオンテもリュートの手から鍵を奪おうとした。
「リュート! 面白いことったって、いっぺんで終わっちまうぞ? そんなの勿体ねえ、せっかく生きてるんだから」

■Scene:三聖頌(2)

「鍵が」
 手の中の鍵が二すじ、まばゆい光の翼を広げた。
 リュートの胸がさわぐ。
 不意に、リュートが普段感じたことのない気持ちが湧き上がってきた。例えるなら漆黒の深淵を覗き込んだような……その感情の名は、何だったろう?
 二条の光の翼は、鍵を持つふたりの手それぞれに螺旋を描いて絡みつき、ふたりから視界を奪ってしまった。こんなにも眩しく輝く光の中で、鍵を持つ指先は深淵に触れ深淵に引き寄せられるように感覚が凍り付いていた。
 胸がさわぎ続けている。
 そして胸がさわいでいることを、他人事のようにどこか冷めた目で見ている自分がいた。
 何を騒いでいる? ちょっと光っただけじゃないか。
 手品にしちゃなかなかだけど、肝心の椅子にだって座っていないのに。
 おそらく何か儀式が始まったんだろうな、とリュートは思う。
 目の前に、リュートのための玉座があった。結晶壁はゆっくりと内側からたわんでいた。青白い光が結晶柱の内部に充満している。やがてあの壁面が開いて、自分があの中に招かれるのだろうかとリュートはひどく冷静に考えた。
 光に包まれてよく見えないが、闇の中にざわざわとざわめいている声が聞こえた。
 それが調査隊の仲間たちの話し声だと分かるまでしばらくかかった。
「《涙の盾》……そこにおいでなのですか!」
 カインが懇願している声だけが、すぐ側に聞こえた。
 自分と同じ鍵を手にしているカインの姿だけが、青白い光のなかで輪郭を持って感じることができた。
 鍵が発する光は、リュート自身を探るように執拗に絡みつき、なかなか彼を解放しなかった。
 何を探しているのだろう? 僕らはいつまでこの光にさらされていなくてはいけないのだろう。
「早く……早くお側に……どうか」
 祈るカインの声。
 このままではカインが先におかしくなってしまうかもしれない。
「カイン」
 誰かが、闇のなかで名を呼んでいた。この呼び声も、ひどく遠かった。
「何か来る」
 これがカインの名を呼んだものだろうか?
 漆黒の深淵を覗き込む、それは得体の知れぬものと対峙することの恐怖。
 リュートにとってはおそらく例外的に、未知のものに対する期待でもあるのだった。
「ねえ聞いて、カイン。ミスティルテインを解放するのなら……私の中の彼を助けて!」
 ラムリュアの声だった。
 僕のことは誰も止めないでくださいね。ひそかにリュートは思った。カインさんもあんな顔をして、ラムリュアさんとよろしくやっていた。それでもここまで来ておいて、ラムリュアさんがやめろといったらやめるような人だったら、がっかりするなあ。
「あっ……」
 ふと手元を見てリュートは驚いた。
 手にしていた銀の剣は、ぼろぼろと腐食し朽ち始めていた。
 そして。
「リュート!」
 誰かが、リュートを呼んでいた。
 青白い光にあふれた視界の中に、突然、クオンテの姿がはっきりと見えた。
「面白いことったって、いっぺんで終わっちまうぞ? そんなの勿体ねえ、せっかく生きてるんだから」
 墓守はそう叫び、リュートの手の中から強引に鳥の鍵をもぎ取った。リュートに絡み付いていた光は、新たに鍵を手にした獲物に向かう。
「うわあ!」
 強く押し出されたリュートは、腐食した銀の剣を持ち呆然としていた。
「何かが僕を見ていた。何かが、暗闇のなかから」
 今やリュートに代わり、クオンテが鍵の持ち主となって光に抱かれていた。

■Scene:三聖頌(3)

『この男か? 人間よ』
 ヴィーヴルの肩で火の鳥ミスティルテインが嘴を掲げた。烈火の塊のように、うずうずと怒りの矛先を定めている。
「待てったら」
 ヴィーヴルは手を翳しミスティルテインを宥めた。どこまでこの火の鳥を鎮めていられるか、わからない。
 彼の眼前でいろんなことがいっぺんに繰り広げられていた。
 青白い光を放つ中央の結晶柱。ふたつの玉座。その前に立つカインとリュート。ふたりの手の中から二条ずつからみつく光。カインの手を握るラムリュア。父親の前で恐怖する子どもたち――。
「そういうことか、おまえが剣を手に入れたのか。それで……」
 ルドールの視線がヴィーヴルの上に留まる。くっくっく、とルドールはおかしげに笑った。ヴィーヴルは黒曜石のナイフを隠すように身構え、問う。
「《魔獣》をどうするつもりだ? それにオレたちの仲間をどうするつもりだ? ……本気で、神を降臨させるつもりだとでも言うのか?」
「そうだよ。さあ、こっちへおいで、ミスト」
 ルドールに呼ばれた幼子ミストは、引きつった表情でティカとシュシュの足にしがみついていた。
「神さまを呼び出すって………それって本物の神さまなの?」
 シュシュは、相手の言うことがさっぱりわからないという顔で言った。
「神さまは《大陸》に争いがなくなったら帰ってくるって約束なんだろ? まだなくなってないじゃないか。っていうか、今なんて、その神さまのために争いが起こってるじゃないか」
 神々が強引に呼び出せるような相手だとシュシュは思わなかった。だから、ルドールの主張は端から理解しがたいものなのだった。
「坊やの言うとおりじゃ。だいたい、ああん? 聖地アストラにだけはこっそり神さまが出入りしとるんじゃないかっちゅう噂が流行ったもんじゃが……なんじゃい、そのザマは。ようするに、聖地に神さまがおるということからして、デマだったってこったな?」
とホールデン。
 老勇士の台詞に、エディアールははたと気づいた。
 ミスティルテインとの交渉条件として、まだ持ち出してないことがあった。
 彼は《炎湧く泉》周辺からの人間の立ち退き、つまりミスティルテインの領域不可侵を約束しようとしていた。どこまで実現できるかは今後の根回し次第であるものの、アダマスの考え方や聖騎士団、統一王朝側の関係から考えて、不可能ではないとエディアールは踏んでいる。そこまで説明することなく、火の鳥ミスティルテインは協力する気になってくれた。
 聖地アストラに神不在。
 その証明として今回の事件が取り沙汰されるなら、統一王朝と聖地との政治的関係は随分変わるに違いない。エディアールの仕事において好都合であった。
「だいたい神を降臨させて、何をしようとしているんだ」
 ヴィーヴルも言葉を重ねる。
「そうだよね。何か頼みたいことがあるんだとしても、こんな形で呼びつけたあんたの願いを神さまが叶えてくれるとは、俺には思えない」
 シュシュの手はミストの頭を撫でていた。
「神さまって、頼みごとする相手じゃないだろ」
「犠牲を払ってまで……必要なこと、なんすかね? 神さまを呼びつけるって」
 少なくとも精霊との間では許される理屈ではないとフートは思っているし、それならなおのこと、神という存在に対し人間がとりうる手段の中で最低のものではないか、とも思う。
「《涙の盾》は兄弟神の末弟。慈悲深く人々を愛する賢神」
「百歩譲ってそうだとしても、だよ。今の《大陸》のありようを揺るがしてまで、やんなきゃいけないこと?」
 シュシュは言った。
「今の《大陸》には統一王朝も復活してる。戦乱の時代ならともかく、何で、平和になった今になって……」
 かつてランドニクス帝国と呼ばれる強大な帝国が、皇位継承の内戦を終え、その後周辺諸国を一気に併呑しようとしたあの時代。血の平和の訪れる前の時代にならば、神の降臨はおそらく、諸手を持って迎え入れられたに違いなかった。
 その頃の人々は、戦が終わるならば何を売り渡しても平和を贖おうとしていた。
 しかし血の時代は過ぎ、疲弊した人々も、ようやく統一王朝の名のもとに、緩やかな共同体として前に進み始めたところなのだ。
 前に向かって。
 生きていくという、その先へ向かって。
「統一王朝か」
 ルドールはまだ笑い続けていた。先ほどまでと少し異なる、自嘲めいた笑いであった。
「くっくっく……まさか、これほど早く統一王朝が復活しようとは。誰も予想もしていなかっただろう」
「馬鹿もん。統一王朝が復活したからこそ、皆手を取り合うようになったんじゃ、文句あるかーっ!」
 ルドールはホールデンを相手にしなかった。
「ミスト、もうすぐ朝が来る」
「うっさいぞドール! ルドール! ん? ドール? どっちでもいいや! もうミストはおまえのいうことなど聞かないんだっ」
 ティカはミストを守って立った。
「ミスト」
「……わたし、てぃかと探しにいくの」
 ミストはきらきらと両目を輝かせ、ティカとシュシュを見上げて笑った。
「うん。いい顔だ」
 シュシュも思わず笑い返す。
 ドールに命じられて火の玉をぶつけてきた時のミストより、何十倍もいい笑顔だ、と思った。

■Scene:三聖頌(4)

「《涙の盾》……そこにおいでなのですか!」
 リュートと同じように、カインの手の中の鍵が二すじ、まばゆい光の翼を広げた。
 私 は あなた。
 カインは呼びかけた。
 世界は今、夜に満ちている。神の統べる朝の世界を待っている。
 人間は皆神に愛されるの子、私もその一部であるはず。
「早く……早くお側に……どうか」
 それなら……それなのに、どうしてその一部をこんな辛い世界に残したのか?
 懸命な祈りの中で、カインは、鳥の鍵が伸ばす光の腕に身を委ねる。何者かが自分の中を探っているように思えた。
「神、《涙の盾》。貴方ですか」
 何を探られても構わない。どんどん探るがいい。そして私の中にただひたすら、神への祈りだけが満ちているさまを知り、私を神の元へ運んでさえくれるのならば。五体満足でなくても、すべてを失ったとしても、一目神の姿を見る……あるいは神の言葉を聞くことさえできるのならば。
「ねえ聞いて、カイン。ミスティルテインを解放するのなら……私の中の彼を助けて!」
 ラムリュアの声が、遠くからカインを呼んでいる。
 真摯な祈りを妨げられ、カインは苛立った。
 なぜ邪魔をするのだろう。
 なぜ、ここまで来て!
 青白い光にあふれた視界の中に、ラムリュアの姿が飛び込んでくる。青みがかった長い髪と紫の服は、青白い光の中でそれこそ女神のようにカインには見えた。彼女の片目が、そこだけは真っ赤に輝き、烈火のごとく燃え盛っているのだった。
 そのせいで、ミルドレッドが自分の座を奪いに来たのかとカインは錯覚した。
「邪魔をするな」
 カインは身を震わせた。
「……カイン」
「私は」
 ラムリュアが、カインの腕をつかむ。
 カインに絡みつく二条の光はラムリュアを発見し、彼女を包み込む。
「きゃあ……!」
 鳥の鍵が放つ光の色が、赤く染まった。
 結晶柱の壁面が大きくたわんだかと思うと、次の瞬間、ラムリュアは玉座のひとつに吸い込まれるように座っていた。
 自分の身体を包む光が消えていくのを、カインは許しがたく思いながらただ眺めていた。

■Scene:三聖頌(5)

「あんたの儀式は失敗した」
 クオンテは光を失った鳥の鍵をルドールに突きつけた。
 自分の身に異変はなかった。もちろん、呆然としたままのリュートにも。
 その時、からんと音を立て、もうひとつの鳥の鍵が床に転がった。
 カインは身体中の力が抜けたように、その場に膝を折る。結晶が隔てるラムリュアの姿を、呆然と瞳に映していた。
「糞ッ、癒し手の嬢ちゃん!」
 クオンテは声を荒げた。
「ラムリュア!」
「ラムサン!」
「――《涙の盾》の御名において……今ひとたび恩寵を与えたまえ。人々を導く《朝告げる鳥》、其は闇を払い、希望を告げ、道を照らすべきものなれば――」
 そう言って、ドールはけたたましく笑った。
「何もかも中途半端な結末だ。くっくっく」
 青白く輝いていた鳥の紋章が、真っ赤に変わる。
 洞に満ちていた輝きも真紅に染まった。
『あの男を、もうそろそろ燃やしてよいか』
「だめだ」
 ヴィーヴルがかぶりを振った。
「今あいつを燃やしたら、ラムリュアさんを助け出す方法も、《円盾の防護》を打ち破る方法も分からなくなってしまう」
『だがあいつは』
 火の鳥ミスティルテインは煙を噴出しそうなほどに息巻いた。
『また我が欠片を捕らえてしまったぞ』
「糞親父! 糞親父め!」
 ミルドレッドがわめいた。
「どうしてラムが……あたしを助けてくれたのに……砂漠で倒れてたあたしを……あたしの、代わりなのか? ラムが!」
「おまえはできそこないだったということだ、ミルドレッド」
 ルドールはそう言って一行に背を向け、結晶柱に歩み寄った。さながら水槽のなかで泳ぐ魚を観賞するかのように、ラムリュアを見つめる。水槽の魚と異なるのは、椅子に座ったラムリュアが、泳ぐのではなく、灼熱の炎をまとって輝いていることだった。
「ラムサンをよくもーッ!」
 ダージェが叫んだ。
「ミルサンはおまえの道具なんかじゃない! ラムサンだって……!」
 太刀を抜きその刃に炎を走らせる。そのまま上段に振りかぶり、ルドールの背めがけてダージェは切りかかった。
 ルドールはよける間もなかった。
 ダージェの太刀が黒服を切り裂きその肉まで到達する。肉の焦げる匂いが立ち込めた。
 ダージェははあはあと息を荒げた。ミスティルテインの力を借りたのは初めてだった。確かに彼の太刀は、ルドールの背を斜めに切り裂いたと思った。
「《円盾の防護》の中なんだよ、ここは」
 ルドールはまったく動じることなく、ダージェに微笑んだ。
「そんな。致命傷にならないなんて……」
 ダージェはぞっとした。思わずルドールから視線を逸らし太刀を見下ろした。感触はたしかにあったのだ。
「《円盾の防護》はパルナッソスの住民がいる限り、維持され続ける。《朝告げる鳥》が巣立つまで」
 そう言ったルドールだが、やがて微笑が顔から消えた。ごぼりと篭った音の咳をして、黒っぽく濁った色の何かを吐く。
 次いで、彼は苦痛に顔をゆがめた。
「馬鹿な……なぜ。防護陣が……壊されたのか?」
 問いかけるようにミストを見、アダマスを見るルドール。
 彼はまだ気づいていなかった。ヨシュアがひそかに防護陣の働きを妨害していたことを。
「ドール。できそこないって、何?」
 ミストが尋ねる。
「ドール……痛いの?」
「ああ、痛い。だけど、これで、俺もミストも、楽になれるのかもしれない。そう考えれば」
 奇妙に笑いながらルドールは答えた。
「そうでしょう。もう、あんたの思惑通りには行かなくなってるんだ。何もかも中途半端で。これがあんたのやりたかったことの結末なんだ。お父さん」
 その視線は、ラムリュアと、ラムリュアの向こう側に注がれていた。

■Scene:三聖頌(6)

 結晶柱の中のラムリュアめがけて、何かがやってきた。
 ひたひたと、ゆっくりと。
「きゃ……」
 両手で口を覆う。がたんと玉座から立ち上がるラムリュア。
(あれは!)
 ミスティルテインが、その炎の力を一気に強めた。真っ赤に燃え盛るような視界の中で、それは蠢いていた。ラムリュアのほうへと。
 そのうちひとつにラムリュアが座っていた。見えていた一席は空座であった。リュートもクオンテもカインもいなかった。
 そして玉座はもうひとつあったのだ。三つ目には何者かが座していた。未だラムリュアが見たことのない姿をした、何者かが。
 巨大な肉塊。
 まばらに白い体毛が生えている。肌は薄汚れ表面の皮膚は乾き、ところどころ瘡蓋になっていたかと思えば、どす黒い染みになっている部分や、つるりと無毛に光る部分もあった。それは、四肢を持っていた。四肢の先には白く粉を吹いてしわしわになった指と、爪が見えた。顔もあった。だらだらと液をだらしなく滴らせる口と、落ち窪み濁った瞳があった。胴であろうと思われる部分は豊満をはるかに越えでっぷりと肉そのものとなり、四肢と頭部とを結ぶ多重山脈のごとく存在していた。
「ひ……!」
 ラムリュアは込み上げてきた嫌悪感を飲み下そうとした。しかし上手く行かなかった。
 それは、玉座からほとんど落ちるようにして肉を震わせながら、自分を目指しのそのそと近寄ってくる。
「何なの……」
(こいつだ! こいつこそ我が復讐の相手だ!)
「に、人間なの、これが」
 ミスティルテインはいっそうその炎を強めた。ラムリュアの耳元でごうごうと烈火が爆ぜる。
(そうだ。醜く汚らわしい生き物ではないか! こいつこそがかつて我を切り刻んだ……)
 ラムリュアは待った。
 その間にも、ひたひたと肉塊は接近してくる。 《魔獣》。ラムリュアの脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
 《魔獣》を捕らえるにはひとりじゃ無理だとミルドレッドが言っていたことも思い出す。
 たしかに無理だと思った。
(……名前は知らぬ。だがこいつであることは間違いない! 臭う。消せぬ我が怒りがこいつに染み付いておる!)
「どういうこと? この生き物が、隠されていた三つ目の玉座にはじめから座っていたなんて……」
 では、この生き物が、器なのか。
 神を降臨させるための相応しい器なのか。とてもそうは思えなかった。ミルドレッドやミストのほうが、まだそれらしく思える。少なくとも目の前のこの生き物は、神を想像するにはあまりにも、かけ離れた姿をしているのだ。
 生き物が、短い手を伸ばした。ラムリュアに触れようとしているようだ。
 身をかわそうとしたラムリュアは、ここが結晶柱という限られた空間であることを思い出した。
(ただ燃やすのは惜しい。12に刻み返してやりたいのだが、どうだ)
「野蛮よ、ミスティルテイン」
(そうか?)
 ラムリュアに生き物の手がかけられる。
 そのたるんだ肉に埋もれた隙間――首だろうか――に、似合わぬ金属の輝きをラムリュアは認めた。
「聖印だわ。二重円盾……《涙の盾》の聖印」
 乾ききった瘡蓋のような爪を目の前にして息を止めながらラムリュアは思った。
 《涙の盾》の聖印を持つ、この不浄なる生き物は神に仕えし者であったのだ。
「…… …… ……」
 豚が鼻を鳴らすような声で、肉塊は何事かを漏らした。
 おぞましさを堪え注意深く聞いてみる。
「……ミ……レッド……」

■Scene:三聖頌(7)

 
 レディルがいくら待っても、パーピュアはいっこうに目を開くことがなかった。
 さすがに気の長いレディルも焦り始める。
「どうしよう。さすがに、拙いかもしれねえなあ」
(拙いとは?)
「いや。俺だけだと出来ることってたかが知れてるから……ともかく、パーピュアちゃんのやりたいことを手伝うつもりでいようって決めたから」
(ふうん、まあ、好きにしてくれ)
 投げやりにミスティルテインは答えた。
「人間にはいろんな感情があるんだよ。怒りだけじゃない」
 ミスティルテインに少しだけ反論するレディル。
(そうか)
「そうだよ。だから面白い……っていうか、良いっていうか」
 あれ?
 ミスティルテインに反論しながらレディルは疑問を抱いた。
 俺、そんなこと今まで考えたことなかったはずだけど。人間づきあいより骨董品と一緒に倉に篭っているほうが楽しいし、人間のいろんな負の感情や複雑はむしろ疎ましく感じていたはずだった。
 何が俺を変えたんだろう?
 理由はわからないけれど、ミスティルテインに伝えたかったことは偽りではなかった。
(別に我も常に怒っているわけではないぞ。だいたい人間めが我が身体を……)
「それは、さっき聞きましたって」
 大きな結晶片で貫かれたままのパーピュアは、眠っているように見えた。パーピュアの胸はほんのわずか上下している。彼女が死んでいないことを示すのはそのひそやかな呼吸のみだった。
「ヨシュアさんたちが何かやるみたいだ」
 結晶内部にいる自分はどうすれば彼らの役に立つだろうかと考えた。指先は無意識に、お守りの緑の小石を弄んでいる。
「……よし」
 背をまっすぐ伸ばし、レディルは気合を入れた。
「パーピュアちゃん」
 無論彼女は目を覚まさない。そのほうがいいとレディルは思った。照れくさい台詞は苦手なのだ。
 レディルは骨董品相手にならいくらでも語り掛けることができた。今のパーピュアは、動きを止めたお人形のようだった。
「あんたが何を思って、どうしようと、俺はあんたを助けたいと思ってるし、いつだって味方のつもりなんだ」
 パーピュアと骨董品を並べて比べることなどできないのは承知だけれど、今のこの彼女に対してなら……返事が来ないと分かっているこの状態でなら、普段いえない台詞も、レディルの口から出てくるのが不思議だった。
「とりあえず、このままここにずっと籠ってたって、何も変わんねえし」
 やれることをやろう。そしてパーピュアが目覚めたら、改めて彼女の手伝いをすればいい。
 そもそもミルドレッドの時も、相手が眠っているうちにああだこうだと許しを請うて“遠見”をしたのだった。あれはもう随分昔のことのように思える。あの時飾り帯が見せた光景の鮮明さは、今でもレディルの印象に強く残っていた。
 さて、やるとなれば。
「仲間たちを結晶から出すことはできたんだし……結晶の記憶を“遠見”で読んで、整理して、返すとか。そんな方法で解体できそうだけど。やってみるか」
 やってみるしかなかった。
 だが、やるとなれば、それは特別な方法などではまったくなかった。パーピュアの胸の結晶に触れ、その来し方を受け入れようと試みる。
(何やってるんだ)
「あとで説明するよ、ミスティルテイン」
 レディルは目を閉じた。
 大きな結晶からはめまぐるしくさまざまな光景が翻る――金色のからくり犬。失くした家族への追憶。店の片隅に置かれた仰々しい武具への畏怖。平穏な毎日と錬金術の探求に潜む安寧。お姉さんたちからもらうお菓子の美味しさ。練習していた剣技が決まったときの喜び。疫病が流行った街の空虚。魔物に変じた肉親への恐怖。駱駝に家族の名前をつけたときの愛しさ。怪我人のために走り回った後の達成感。精霊たちの焼いた焼き菓子。ひとり精霊のあとを追い家族と離れた孤独と満たされた好奇心。孤児院の庭の広さ。裕福な人の財布を一瞬でスリ取る緊張感。あらゆるものを記録に残すことを命じられたときの使命感。魔女と弟子たちの暖かさ。思い通りにゆかぬいらだち。幼いころ高所から転げ落ちた痛みと衝撃。愛する妻と仲間を次々失った悲しみと自己嫌悪。儀式の失敗と偽りの生――。
 これは一番最近の記憶だ、とレディルは悟った。
 スィークリールがいた。ホールデンの記憶だろうか。
 その他の断片も皆調査隊の仲間が持っていたもののようだった。
「あんたが全部引き受けなくたっていいんだ。元々、皆が持ってたものなんだから。あんたが全部引き受けることないんだよ」
 ふっと手の中の結晶がもろく緩んだ感触があった。
 いけるかもしれない。これ以上記憶の結晶が積もらぬうちなら、パーピュアの身体に傷をつけないように、仲間たちの記憶をそれぞれ送り返せるかもしれない。
 骨董品を磨くような仕草で、レディルは次々と記憶の持ち主を見分けていった。ホールデン。イーダ。ヴィーヴル……。確かめてゆくごとに、大きな結晶片は、つららが解けてゆく時のように小さな欠片になって転がり落ちていった。どれも美しい色に輝いていた。そして邪気を感じなかった。
 アメジストがなくなっても、彼女自身にいくばくか浄化の力が残されていたように。
 それとも人の記憶と言うものは皆、このようにそれ自体美しく輝くものなのだろうか。
 記憶の欠片を皆の中におさめる方法が思いつかなかったので、とりあえずレディルは入るだけ荷物に入れていくことにした。いずれ《円盾の防護》が効果を発揮しなくなった時、ここに積もった記憶の結晶が勝手にもとの持ち主のところに戻るという保証はなかった。
「駱駝の名前、あんたの家族の名前だったんだね」
 こっそりとレディルは洟をすすった。
 パーピュア自身の記憶の欠片に触れてわかった。ルウナ。コランダム。プルシアン。コハク――そこには、もう失われてしまったパーピュアの一族の姿があった。
 一生懸命に駱駝の世話をしていたパーピュアの姿を思い出し、レディルは、どうあっても彼女を目覚めさせなければならない、と誓った。
「あれ。ここだけ、固い」
 パーピュアの胸の結晶片をかなり砕いたころ。
 いよいよ彼女に食い込んでいる部分をなんとかしなければならない。だが、他の記憶の結晶たちと異なり、すぐに持ち主を定めることができなかった。おそらく、レディルの知らぬ者から流れてきたものなのだろう。
 残るはその塊だけ。上手く欠片にすることができれば、気持ちも楽になるんじゃないか、と自分に期待する。
 なんとなく、パーピュアの目覚めを妨げているのも、この塊なのではないかという気もした。
 もう一度、レディルは気合を入れて“遠見”を試みた。
 ――黒い雲。
 ぞくりとレディルの背が鳥肌を立てた。その記憶の根っこは、今まで見てきたものよりもずっと遠くから繋がっているもののようだった。そして、負の思念を強烈に放っていた。

■Scene:三聖頌(8)


 黒い雲。輝く星がひとつ。黒い雲が星を覆い隠し、光を遮っていた。
 ……今ひとたび恩寵を与えたまえ。人々を導く《朝告げる鳥》。
 黒い雲から祈りが聞こえる。男女混声、十人以上の重なり合った声だ。
 またあの儀式だろうかとレディルは思った。黒曜石の剣を生み、ミルドレッドに何かを施したらしい、怪しげな儀式。複数の声がざわつき、こんなことを言い合っている。
「統一王朝が?」
「早すぎるな。だが仕方がない。ここで計画を変更するわけには」
「無理ですグラファ様。二柱目、三柱目の座がまだ……」
「かまわん。十年かけてここまで《魔獣》を弱らせたのだ。ルドールは何をしている」
「ルドール様はようやくミルドレッド様がお元気になられたとのことで、しばらく儀式は控えたいと」
「許さぬ。あれに勝手なことを言わすなと何度言えば分かる? ルドールは二柱目に座ることさえできればよい。手も足もなくたってかまわんのだ」
「ですがルドール様は、統一王朝復活の兆しが見え始めた今、《朝告げる鳥》の計画を進めることに疑問をお持ちのようです」
「ルドールの奴、いつミルドレッドに器の儀式を行うかと思っていたが……ミルドレッドを連れてこい」
「しかしグラファ様」
「三柱目の座はミルドレッドのものだ。今夜、直ちに《炎湧く泉》に連れて行く。《魔獣》との親和性が高いと分かれば、そのまま私も融合に入ることとする」
「ルドール様には何とお伝えすれば」
「……逃がさぬ、とな」

■Scene:三聖頌(9)

 かつてアリキアの巨木があった場所。
 リュシアンから借り受けたアリキアの芽が、生えていたのと同じ場所に再び埋められている。
「えいっ」
 数人に見守られるようにしてヨシュアが渾身の力を込める。
 ずず……ん、と、足元から鈍く重い響きが伝わる。
「あ」
 イーダが声をあげた。
 目の前で、にゅにゅっと葉が数枚伸びて広がったのだった。
「育った!」
 同時に、何箇所かで甲高いラの音が響いた。こだまとなって結晶体の間を反射する旋律。
 この音が、記憶の結晶がゆるやかに崩壊するときの音であることをヨシュアは学んでいた。
「ここまでは……なんとかうまくいったけど……」
 ぐしゃぐしゃと汗をぬぐうヨシュア。
 まだアリキアの芽は、芽という呼び名が相応しい。とても城には及ばない。
「魔力の流れが、ほんの少し変わったの、分かる?」
「そんなことまで分かるのはヨシュアくん、貴方だけですよ」
 リュシアンは微笑を浮かべる。
「……パーピュアさんのところに、パルナッソスからの力が全部注がれてしまうようになっているんだけど、何箇所かせき止めたり、位置を反転させたりしていじったんだ」
 これで、パーピュアに対して新たな力が注がれることはなくなったというヨシュア。
「レディルさんが、結晶を崩してくれてる。結晶が育たない今のうちに、パーピュアさんを切り離すことができればいいんだけど」
と、心配そうに、レディルの様子を見やる。
「しかし、これだと対処療法だ。今はとりあえず魔力の流れをかわしているけど、根本的な解決にはなってないよね」
 ラージが言った。
「そうなんです。まだ、結晶体として蓄積されている分もあるから。アリキアの木を通じて魔力を記憶に戻して帰す、その循環までやらなくちゃ意味がない」
 ヨシュアの言葉に、カッサンドラはこくりとうなずいた。
「それには、アリキアの木を生長させなければならない、というわけですね」
「はい。カッサンドラさん……手伝ってもらえますか、皆さん。記憶を正しく戻すために、なるべくたくさん、いろんなことを思い出すようにしてほしいんです。いい記憶だけ都合よく戻るわけじゃない。辛い記憶であっても拒否して、記憶の行き場がなくなったりしないようにしてほしいんです。それから、結晶体がぼこぼこ壊れる時危ないから気をつけて。あと、衝撃でとばされちゃたりしないように、しっかりつかまっといたほうがいいと思う。それからね……」
「……あの。こんなこと思いついちゃったけど、どうかな」
 ちょこんと手をあげ、イーダが遠慮がちに呟いた。
「パルナッソスが辛気臭い退屈な街、ってアダマスさんが言ってたけど、その理由が、住人の精神力っていうのかな、考え方の方向性を捻じ曲げて、ここに流し込んでいるからなんだよね。住んでる人だって、盛り場に比べれば施療院や孤児院のある場所だから殺風景で仕方ない、って思い込んでるかもしれないしさ。だったら……」
 イーダは商売の種を思いついたときの商人らしい、いかにもな笑みを浮かべて言った。
「その考え方が変わっちまうような、楽しい催しをやったらどうだい? 例えば《ミゼルドの大市》みたいな、とにかく何だかウキウキワクワク、活気づく仕掛けを作るのさ」
「それ、面白いね」
 ラージは《ミゼルドの大市》に行ったことはないものの、その規模も喧騒も噂に聞いて知っていた。
「アダマスさんが好きそうですね」
とリュシアン。
 ふたりの反応が思っていたより肯定的だったことが、イーダを勇気付けた。
「はは。そうかも。実現したら楽しそうだよねって思ったんだ。即効性はないかもしれないけど、せっかくだし、どうかな、って」
「人が集うところにしたいですね」
 正直な気持ちをリュシアンも述べた。
 アリキアの木がここで育つことを選ぶなら、自分も選ぼう、とリュシアンは思った。
 人々が集い憩える場所を作りたい。建築家として、心の底から彼はそう思った。






第7章へ続く


1.求憐誦 2.栄光頌 3.信仰宣言 4.三聖頌 マスターより

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