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第6章 2.栄光頌

■Scene:栄光頌(1)

 ルドールの思惑を知らず、幼子ミストはティカにつきまとう。
 ティカはミストに「朝を見つけてやる」と約束した。代わりに、ミストの力で、結晶柱に閉じ込められてしまった自分の仲間たちを助け出してやってほしいと頼んだのだった。
「ミストならできるんじゃねーのか?」
「できるかな」
「よしやってみようっ!」
 ミストの手を引き、仲間たちの元へ戻るティカ。
 アダマス改め、ドールが悪い奴。悪い神官。《魔獣》を利用しようとしたか、利用している奴――。
「てぃか?」
「おうっ!」
 嬉しそうにティカは返事した。
「朝がこないんだったら、わたし、なんのために生まれたのかな?」
 ティカは立ち止まり、しばし、彼女なりに考える。
「何のため?」
 これまで考えたことのない分野の問題であった。あなたはだあれ、とは違う。もっと、しゃんと向き合わなくてはならないもの。見つめなければならない予感がふとティカの胸をかすめた。
「何のためかって……そりゃー、ミストはミストのなりたいものになるため、じゃねーのかな」
 クレドは騎士になりたいと言っていた。
 ティカはもちろん偉大な父に負けない傭兵になるつもりである。
 グロリアは、何になりたいと言っていたのだったか。
 ティカの答えに、ミストの赤い双眸がくるりと丸くなる。その言葉の意味を考えているようだった。
「っていってもさ。円盾の防護の中にいて朝が来ないんだし……そうそう、朝が決まったとおり来たとしてもだよ、その後昼になったら結局ミスト、困んだろー」
「なりたいものになるって、どういうこと?」
 ティカは両腕を組んだ。
「……やっぱり、ミストが自分で何をやりたいのかだよ」
 もしかしてミストは、自分で何かをしたことがないのではないか、とティカは気付いた。だから、どうもピンと来てないのだ。やりたいものとか、なりたいものとか、どうやってそのことを考えたらいいのかも、知らなさそうに思える。
 この子に伝わるように説明するには、どうしたらいいのだろう。
「うーんと」
 ティカはティカなりに、例えを捻り出した。
「もしおれがさ、おれの父さんのこと大好きじゃなくて、剣も使えなくて、強くなりたいって思ってなかったら……うー」
 ミストはじっとティカの顔を見ていた。
 その真剣さにティカは驚き、ごくりと唾を飲み下す。
「それってすんっっごく、つまんないっていうか。悲しいっていうか、こう……そうだ、むなしいじんせいだよなって、思わないか?」
 ふと、リュートのことが思い浮かんだ。楽しむことこそ人生と言い切る、あの人ならば、今もまたティカにうなずいてくれる気がした。パルナッソスの学舎でアダマスと会ったときのように。
「むなしいじんせい?」
「そーそー。やっぱ、夢がないとだよな。追いかけるもの。あ、それともかなえるもの、っていうのかな……まあたぶん、どっちでもいーんだけどさ」
 だからミストも、そういうものを探せばいいのさ、とティカは先輩風を吹かしてみせた。
「ミストも、やりたいことやなりたいもの探そうぜ!」
 言いながら、内心では、ドールに対する怒りがむくむくと頭をもたげている。
 ミストってすごくちっちゃな子どもみたいなことを言う。でも、悪いやつじゃない。ちゃんと話をしてくれるし、すっごく素直だし。
 きっと、ミストが素直なのをいいことに、ドールがミストを利用してるに違いないんだ。
 あいつに会ったら、ぶっとばしてやんないとな、とティカは決めた。でもひとりよりも皆で行こう。皆と一緒にドールをぶっとばして、皆でラハに戻って、そんで次の仕事に行く時にはミストも連れて行こう……。
「てぃか?」
「おうっ!」
 ミストに呼ばれるのは、気持ちが良かった。
「わたしね、わかったよ」
「そっか! よかったな!」
「あのね」
 ミストはにこっと笑った。
「朝がこないほうがいいね」
「んー?」
 ティカは、眉をぴくっと動かす。ミストの言った意味がよくわからなかった。
「朝、待ってたんだろ? ずっとさあ」
 目的は知らされず、ただ、そのことだけのために、ミストは待っているらしかった。
「うん。でも待ってるのより、その、やりたいことやなりたいもの……をさがすほうがいいもん。てぃかの言ったみたいに。そうでしょ? てぃかみたいに、見つけられるかな?」
 ティカは腕組みしていたのを解いて、またミストの手を握りしめた。小さくてひんやりしていた。
 ミストがティカを見上げてにっこりと笑った。
「見つけられるさ! だから難しく考えんのやめよーぜ、ミスト」
「え?」
「ドールが朝を来なくしてるんだし、あいつをやっつけたら、元通り朝が来る! ミストだって、ミストの好きにしていいんだからな! ミストのことはミストが決めればいいんだ。なっ、そー思うだろっ?」
「てぃか、ありがとう」
 初めてミストは、ありがとうと言った。

■Scene:栄光頌(2)

「あ。あれ?」
「どうしたの」
「なんだー、皆……出てきてるッ!」
 皆の元にミストを連れてきてみれば、結晶柱の中に閉じ込められていた仲間の大半が、脱出に成功しているではないか。
 ざんばらな髪を結ぼうと四苦八苦しているシュシュ。シュシュの後ろに立ってそれを手伝うダージェとミルドレッド。
 ティカの耳に、シュシュが話している声が切れ切れに届く。
「約束だから、ミスティルテインを封印した奴を殴りに行かなくちゃね」
 ダルと話しているのか、ミルドレッドか。それにしては会話の内容がよく分からない。
「え? ……そう? しょうがないよ。いけないことをしたなら、ちゃんと報いは受けなくちゃいけないだろ……でもその前に、ちょっと寄り道してくからね」
 話している相手は、シュシュの中のミスティルテインだった。
「おーい、おーい。シュシュ兄っ! ダルーッ!」
 ティカは懐かしい人々の姿を認めるなり、ミストをほっぽりだして、ぶんぶんと兄貴分たちに両手を振った。
「よかったああ!」
「あ、ティカ」
 シュシュは今度は、ティカのことを忘れてはいなかった。
 駆け寄って文字通り、シュシュに飛びつくティカ。
「出られたんだな! おれ、シュシュ兄がずうっとあのまんまで閉じ込められることになっちまったらどうしようって思って……」
「ティカが勢い込んで先にミストに会いに出かけてったって聞いて、心配してたとこだよ」
 そう言って笑うシュシュ。
 兄貴分らしく、ティカの金髪頭をぐりぐりする。
 結ぶのに成功しかけていた真鍮色の髪は、またばらばらと解けてしまった。
「お、おれがミストんトコに行ったのはシュシュ兄たちを助けてやるため……ううん、い、いーんだよ。違うおれ別にそんなに心配なんかしてなかったし! そ、それに何だよ! 自分で出られたんじゃねーかっ」
 途端にティカは意地っ張りなところを見せる。シュシュに二度と会えなかったらどうしよう、とおろおろしたことなど知られたくなくて、無理やり乱暴に伝える。
「でもティカチャン。ボクらのためにって動いてくれてたんだ、ありがと!」
 ダージェもにこっと笑った。
「くそーっ。なんかダルのその言い方、癪だなあっ。てか、さっき何の話してたんだよシュシュ兄」
 ああ、とシュシュはうなずいて一言で説明する。
「いろいろあってさ」
「い、いろいろじゃわかんねーよっ! 何だよおれだけ除け者みたいで……あ、あれ?」
 今ごろ、ティカは気付いた。」
「ダルもシュシュ兄も……ミルドレッドみたいな目になってるっ! どうしたんだよ、それ。痛くないのか? っていうか、ダルもシュシュ兄も、本物?」
 大量の疑問符を浮かべ、赤いほうの瞳を思いっきり覗き込む。
「ホンモノだよ! ボクも、ミルサンも!」
「赤い目だとさー、世の中ぜんぶ真っ赤に見えんのか?」
「そんなわけないだろ」
 しらっとミルドレッドに言われて、またティカはムッと膨れた。
「ミルドレッドさんは前っからかたっぽ赤い目だったからさ! シュシュ兄もダルも、赤くなったばっかなんだろ、何か痛そうじゃねーかっ」
「だから痛くナイんだってば」
「たまに、熱いけど」
 ダルとシュシュが口々に言う。なんでだよどうして熱いんだよ、とティカにはわからないことだらけである。
「……だから、あの結晶の柱。12本の柱の中に、それぞれミスティルテインがいたんだよ。ミスティルテインは自分じゃ出られないっていうから、一緒に出てくることにしたんだ」
「ふう……ん」
 何となく胡散臭そうに、ティカはダルとシュシュの赤い目を繰り返し見つめた。片方だけ違う、というのがどこか特別っぽくて、見慣れるとカッコイイかも、などとティカはあっさり納得した。
「ところでさ、ティカが連れてるその子。ミストだよな!」
 ティカがなぜか少しがっかりしたことに、シュシュの興味はティカではなく、ティカの子分へとすぐに移ってしまうのである。
「しゅしゅ」
と、ミストもシュシュの名を覚えていた。
「もう俺怒ってないよ。会いたかったんだ」
「《魔獣》」
 ミストを見た途端にミルドレッドの表情が硬くなった。
「ミストは《魔獣》じゃねーぞっ!」
 ティカは声を張り上げて抗議する。
 当のミストはきょとんとしている。ミストの代わりに、熱を込めてティカは言う。
「ミストはちっちゃいんだ。まだよくわかんないんだ。だからドールに好きなように利用されちまってただけだよ!」
「はっ?」
 ミルドレッドは目を細め、ティカの隣のミストをじろと見やった。
「利用? だから、その《魔獣》をだろ」
 ティカは腕を伸ばし、子分を庇う。
「《魔獣》だったかもしんないけど、もう違うっつってんだ! だっておれ、約束したんだぜっ! ドールをぶっとばしたら調査隊の仕事が終わるだろ。そしたらミストを連れてってやるんだ」
「《魔獣》を連れて旅に出るだって? そんなことしたら」
 ミルドレッドの言葉を遮って、ティカは捲くし立てた。
「そんで《大陸》じゅうをミストに見せてやって、そしたらミストもやりたいことが見つかって……!」
「……待って。きちんと教えてくれよ、ティカ」
 シュシュははっとした面持ちで、危うく口論になりかけているティカとミルドレッドを制した。
「あのときドールは何てった?」
「ドール?」
「そうだよ」
 引っかかっていることがあった。
 ドールは、ミルドレッドを待っていたのではないのか?
 ドールはミルドレッドに、《魔獣》に会わせてやるといってミストをけしかけた。その結果、どうなった?
 シュシュ自身も、ダージェもミルドレッドも、結晶柱に閉じ込められて、そしてそこで出会ったのは、ミスティルテインの12の欠片だった。
 《魔獣》? ドールがミルドレッドに会わせたかったのは、ミストではなくミスティルテインなのか?
 シュシュの中のミスティルテインは何も言わない。
 シュシュはミストの前にしゃがみこみ――ちょっと柄悪く股を広げてではあったが――ミストの目線にあわせた。
「ホラ、ミスティルテイン。柱の中で話しただろ? ミストって子のこと。炎の力も持ってたし名前も似てるっぽいし、あんたとおんなじ12分の1かと思ってたんだけど……ねえミスティルテイン、聞いてる?」
(聞いてる)
 ミスティルテイン12分の1は、しぶしぶシュシュに答えた。
「シュシュ、ボクの中でミスティルテインが困ってる」
とダージェ。
「そうなんだ。困ってる」
 シュシュにもミスティルテインが混乱している様子が感じられた。
(何だ? なんなのだ、これは)
 居丈高に怒りを振りまいていた時とはうって変わって、ミストを前にしてどのように振舞えばよいのかわからないといったところだろうか。
(我ではないが、我と同じものに見える)
「あんた、知らなかったのか、この子のこと」
(知らん)
「な、なんだよ! おれにもわかるように話してくれよっ」
「ミストも、俺たちみたいにミスティルテインの力を宿してるのかと思ったんだ。でも、ミスティルテインのほうは、知らないみたいだってこと」
「そうなのか? ミスト」
 ティカは子分に尋ねてみた。ミストは首をかしげたままだ。
 シュシュも、ミストにわかるような言葉を選んで尋ねてみる。
「俺の中にミスティルテインの欠片がいるんだけど、判る? 何か感じる? もしかしたら、ミストの仲間かな、と思ったんだけど」
「なかま? てぃかと、だると、しゅしゅと、みるどれっどと……」
 ミストは難しい顔をして、一生懸命彼らの名前を挙げはじめた。
「だよな。うん。ミストは知らないよなー。そうだと思ったよ」
 シュシュは立ち上がり、えいやと背すじを伸ばした。
「駄目だあ。やっぱ俺、いろいろ考えるの向いてないや」
(なら、さっさと我に復讐を遂げさせることだ)
「わかってるよ、約束だもんな」
「ミストとかミスティルテインとか、ややこしいよね。でも名前が似てたら何かあるカモって思っちゃうよねー」
 ダージェもシュシュと似て、頭を使うのが得意なほうではない。だから素直に思ったことを感想として言った。
「ミストが自分のことをミストって名前つけたわけじゃないだろ」
「あれっ。そだっけ?」
 そうだよ、とシュシュがそのときのことを思い出す。
「ミストのことをミストと呼んだのは、あの黒い髪の、黒い服の、低い声の男だった」
「あーーーーーーーーっ!」
 それを聞いたティカは叫ぶ。
「お、思い出した! そいつ! そいつだよっ! そいつのことを言わなきゃって、そーだ大事なことをすっかり忘れちまってたぜっ!」
 じたばたともどかしげにティカは説明した。
 すなわち、黒い髪の黒い服の低い声の男の正体。
 ドール。
 パルナッソスの前の教区長。つまり、アダマスのセンパイ。
「あいつが悪い奴だったんだ! 全部あいつが仕組んでたんだよっ。ミストは悪くない。あいつに唆されてただけなんだ!」
 勢い込んでティカは捲くし立てた。
「皆でドールんトコ行こうぜ! そんであいつをぶったおして、決着つけてさ!」
「そうかー」
「シュシュ兄、なんだよその言い方っ」
 ティカほどに、シュシュの気持ちはすっきりとしていない。悪い人間がひとりいて、それを倒せば終わりだなんてことが有りうるのだろうか。善悪二元論だけで片付けることのできない問題を見失ってしまう気がする、と思った。このへんは、冒険者稼業の経験の差である。
(そいつのところに行けば終わりということか)
 ミスティルテインのほうはやる気になっているようだった。
「まあ、そうだね」
 シュシュにしては歯切れ悪くミスティルテインに答える。
 ルドールが、ティカのいうように極悪人なのか、そうでないのかはさておき、ルドールをやっつけるという方向性は変わらない。
「行かないワケにはいかないんでしょ、ミルサン」
 ミルドレッドの気持ちを探るように、注意深くダージェは尋ねた。
「もちろん」
 言葉短くミルドレッドはうなずいた。
「ティカ、教えてくれてありがとう。それにミストも」
「おうっ!」
 敬愛する兄貴分に褒められてティカはぐっと親指を立てた。
「じゃーさっそくドールんトコ行って、さっさとやっつけちまおーぜ!」
「ティカさあ」
 ティカの言動を見ていたら、ミスティルテインと重なった。そんな思いから、シュシュは言う。
「おまえ、いつも何かしら力いっぱい怒ってるんだな。疲れないか?」
 親指を立てたままで、ティカは動きを止めた。
「誰かをぶっとばすとか乱暴なこと言って怒ってるより、美味しいご飯とか食べて嬉しそうに笑ってる時の方が、ずっといい顔してるよ?」
「だっ……なっ……んてっ……」
 それからしばらく、ティカの動きは奇妙にぎこちなくなった。とりあえずどんな顔をしたらいいか分からなくなって、ミストの手をとる。
「ピュアにもミストを紹介しなきゃな! なーミスト、知ってると思うけど、仲間にピュアってのがいるからさ、ちょっと、つれてってやるよ、ほらっ」

■Scene:栄光頌(3)

「あの子が気になるのか」
 ミルドレッドがシュシュに尋ねる。
「あの子? ティカ?」
「ミストって子」
「うん、気になるさ、そりゃ。俺たちを呼んだのはあの子だもの。あの子の願い、叶えてやりたいじゃん」
 シュシュは、パーピュアの結晶柱にはりついているティカとミストを眺めた。彼女の状況に騒いでいる声が聞こえる。
 シュシュもパーピュアの結晶柱へ向かい、歩き出した。
 自然、ミルドレッドとダージェもついていく。
「ティカもだけど、俺もあの子と約束したんだし」
「両目が赤いのは、あの子だけ、か。《魔獣》が12の欠片になったとして、数が合わないのはヘンだ。あの子の正体は、何者なんだろう……」
 ミルドレッドが独り言のように呟いた。
「ルドールの使い魔とか、他の、ミスティルテインとは違う精霊の類なのかもしれないね。ミスティルテインも、妙な言い方だったし」
(妙とはなんだ、妙とは)
「だって歯切れ悪かったよ」
(知らんものは知らんのだ)
「ミスティルテインは、12に分かれた仲間……っていうの? 自分自身の分身なのかもしれないけど、そいつらが何を考えてるのか、あんたはわかるの?」
 シュシュがそう自分の中のミスティルテインに問いかけた時、燃える火の鳥がすいと目の前を羽ばたいていった。
「どこへ行くつもりだよ、ミスティルテイン。どこまでいっても《円盾の防護》の中だぞ」
 鳥に向かって錬金術師ヴィーヴルが声をかけた。
「あれも、ミスティルテイン?」
 ダージェが眉根を寄せる。
「ヴィーヴルは目が赤くないんだ」
 ヴィーヴルはシュシュやミルドレッドをちらと見やる。
「あたしの……!」
 ミルドレッドはヴィーヴルの腰に提げられた飾り帯と黒曜石のナイフに目を留めた。
「もういいだろ、返してもらっても」
「まだだめだ」
「なんでだよ!」
「オレだけどうも、具合が違うことになったからな。研究中」
 結晶柱から脱出の際、他のミスティルテインの欠片たちは、人間の身体を器として間借りするという方法でそれぞれ外に出たのである。しかし、ヴィーヴルが持っていた黒曜石のナイフを、ミスティルテインは恐れた。ゆえに、彼の肉体を器には選べなかったのだった。ヴィーヴルはクオンテの助けもあって無事結晶柱から脱出し、その結果、唯一このミスティルテインの欠片だけが、火の鳥という姿で存在しているのである。
「これはミスティルテインの力で鍛えられた剣だったそうだ。ミスティルテインはこれ、には敵わないんだとさ。オレも、ミスティルテインの炎では傷つかないとかなんとか、あいつは言ってた……ほら、出られなかったろう」
 ミルドレッドと話しているうちに、飛び去っていったはずの火の鳥ミスティルテインは、しおしおとヴィーヴルの元へと戻ってきたのだった。
「だから言ったろ。悪いようにはしないんだから、おとなしくしてろって」
『……まあ、久々に広いところに出られたもので、ついだ、つい』
「《魔獣》のクセに威厳がないな」
 ミルドレッドまでそんなことを言い始める。
『なんだと、小娘。消し炭にしてやろうか!』
 火の鳥がカッと嘴を開いて威嚇する。が、所詮ヴィーヴルの肩に乗れるほどの大きさしかない。ちりちりきらきらと火の粉が舞う程度で、ミルドレッドも驚きはしない。これならフートが呼び出したという友なるサラマンダーのほうが、よほど迫力があったんじゃないか、とさえ思っている。
「ミスティルテイン。今のおまえは、器を失ってしまった、収まる場所のない力の欠片にすぎない」
『それがどうした』
「だったらおまえの目的は、復讐より先に、ひとつに戻ることではないのか?」
 ヴィーヴルは赤く燃える鳥に尋ね返す。
『ひとつに戻ろうが、戻るまいが、我にはどうでもよい。力を振るうための器がないままでは何もできぬ。だが幸い、欠片ならば人間という器にも収まるというだけだ。ゆえに』
 ばさりと鳥が翼を広げる。火の粉がきらきらと舞う。
『我が力を振るうための道具として、お前たち人間を器としているにすぎない。我が復讐に向かって進め。道具は道具らしく』
「はん」
 ヴィーヴルは鼻を鳴らした。
「出てきたら随分強気だな」
『人間が我を利用するなど二度と許さぬ』
「おまえにしてみれば、オレたち人間のほうが道具ということか」
『当然だ』
「……ホント、生意気だな。結晶柱の中ではあんなにしおらしかったものを」
 ミスティルテインに対して、ついヴィーヴルはそんなことを呟く。愚痴とまではいわないが、師匠の理不尽さに近いものをなぜか感じるのだ。
『結晶柱の中でおまえは、我を利用しようとはしなかったではないか。それが出てきてみれば、我を人間どもの事情で動かそうとする。我と我の目的よりも、だ』
 紅玉の瞳がヴィーヴルの目の前にあった。
 ヴィーヴルはむっとして見つめ返す。ふたつの紅玉の中に、自分の顔が映っていた。
「《魔獣》が人間を利用……」
 ミルドレッドは考え込んでいた。
「ダル」
「何、ミルサン」
「あたし……困ったな。いや、そうじゃなくて」
 珍しくミルドレッドは口ごもる。
「どうしたの?」
「ミスティルテインにいわせれば、《魔獣》が人間を利用することになる……そうだな。こんな、目の前で怒ったりしてるんだもの」
 ヴィーヴルとミスティルテインのやりとりを聞いたミルドレッドは、少し考えが変わったようだ。
「《魔獣》……人間……そういえば狸オヤジが言ってたっけ……本当に危険な者は常に隣にいる……」
(そうだろうそうだろう、ようやく理解したか? 我が怒りの大きさ、深さを)
「ちょい待ち、ミスティルテイン!」
(あん?)
 シュシュはミスティルテインのその先を予測して言い返す。
「だから火の玉をぶち込ませろっていうんだろ?」
(そのとおりだ、よくわかったな。人間にしては出来がいい)
「……じゃなくて。駄目だってば! そういう理屈は」
 じれったそうにシュシュは説く。
「自分の目的のために誰かの意志や気持ちを無視していいように利用するなんて、相手が誰だって、やっちゃいけないことなんだよ」
 例えばドール。例えば……怒りを増幅させてこちらを操ろうとするミスティルテイン。もちろん口には出さない。しかし同じ身体の中にいるミスティルテイン12分の1には、黙っていても伝わっているかもしれない、とシュシュは思う。
「それを無理を通したなら、自分にいつか返ってくる。あえてやったんだから、同じことを自分が誰かからされるってことも覚悟しとくべきだよ」
(……)
『……』
 ミスティルテインたちは揃って黙り込んだ。
「元通り一つにならなくても、どうやら不便じゃなさそうだな」
 ヴィーヴルが言うのへ、ミルドレッドが意見する。
「意思疎通は可能なんだろ。だから、12体の間で合意を形成するのに、一体である必要はないみたいだ」
「ははん。それにそもそも、高度な欲求があるわけじゃあなさそうだもんな。12体の間で揉めることもないんだろうし」
「単純に考えれば、規模の異なる完全な複製なんだよ」
「完全体と欠片の差異は、規模のみなのか」
「たぶんね。黒曜石の剣で、純粋に複製を12体生み出す。これはすごい技術だよ」
 ダージェやシュシュには、ふたりの学者の会話はちんぷんかんぷんである。もちろん、ミスティルテインたち自身にも。剣士ふたりは結晶体に座り込み、ぷらぷらと足を揺らしている。
「気に食わないことがあるんだ」
 ヴィーヴルはそう言って黒曜石のナイフに目を落とした。
「12体に分割したのは、人間がミスティルテインを扱えるようにするための加工だ。ということは、ミスティルテインを完全に復活させるためには、何らかの方法で結合させなければならない」
「そうだね」
 ミルドレッドも、ヴィーヴルの視線を追いかけた。
「そのナイフを使うつもりか?」
「ああ……いや」
 わからない、とヴィーヴルは答えた。
「そもそも復活には何が必要なのかと思って。フートさんは、精霊なのだから拠り代が必要になるんじゃないか、なんて言ってたけどな」
 お気に入りの場所。お気に入りの人間。
 精霊がいつくのに居心地のいい環境。そういうものが再構築できなければ、もう《炎湧く泉》にミスティルテインはいられないのかもしれない。
 フートはそんなことを言っていた。
「ミスティルテインは復活したいとは言ってないんだ、ヴィーヴル」
 ミルドレッドは、結晶柱の中のやり取りを思い返す。
「主張はただひとつ、復讐。それだけ。復讐のためには《円盾の防護》から出なくてはならないんだろうが、それは手段だ。ミスティルテインが終始わめいてるのは……」
「復讐あるのみ、なのか」
 確かにそうだとヴィーヴルもうなずいた。
「完全に元の一体に戻らなくても、別に困ってないのか」
 火の鳥ミスティルテインが再びヴィーヴルの肩に止まった。

■Scene:栄光頌(4)

「それはそうと、アリキアの木はどうされますか? フートさん」
 精霊使いフートが両手で捧げている若苗を示し、リュシアンが尋ねる。
 フートは大きく欠伸して言った。
「《円盾の防護》の中では疲れない、なんて、誰が言ったんすかね? さっきから、欠伸が止まらないっすよ」
「あれだけの精霊を使役されたのですから当然でしょう」
 リュシアンは痛いほどの精霊たちのまなざしを思い出した。それだけで背がしゃんと伸びるようだった。人ならぬものたちに囲まれ、天から、地から、ただじっと見つめられた経験は、強烈にリュシアンの胸に刻まれていた。
「たしかに、ちょっとやりすぎたかもっすねえ」
「いやはや。下手をすると命に関わるのではありませんか? きっと欠伸で済んでいるのですよ。素人考え丸出しですけれどもね」
「んー」
 フートは目をこすりながら、改めてアリキアの若芽を持ち上げた。しばしその艶やかな緑に見とれる。
「共に立ってくれる存在はね、リュシアンさん。力になるんすよ」
 リュシアンは噛みしめるようにうなずいた。
「はい」
「精霊の加護を受けているって、素敵っすよね。愛されてるって事ですよね」
「私が、ではありませんよ。先祖に連なる者だからこそ、というわけですから」
「なおさら……孤独に感じることはないんじゃないっすか、それなら」
 フートが言わんとしていることを図りかね、リュシアンはわずかに首をかしげて続きを促した。
「目に見えるものも見えないものも必ず誰かが傍にいてくれる。決してリュシアンさんは独りではないんすよ。ご先祖がいたからリュシアンさんがいるってこと。そのご先祖を愛するウンディーネも」
 リュシアンは大きく息を吐いた。
「そんな場面で、彼らが側についていてくれるというのに。これは命に関わるとか、死ぬかもしれないとか、そういうことはこの際、人間の都合じゃないっすかね」
 僕はもしかしたら、人間を信じていないのかもしれないな、とフートは考えた。
 あのときも、このまま精霊と同化してしまえばいい、と思った。記憶など失ったままで構わない。それでも精霊たちはフートを見ていてくれたから。
 人間。人という存在。自分が属しているはずのその括りよりも、精霊に親しむのは何故なのだろう? フートだった男は、何を考えていた?
 アリキアの芽はそんなフートの迷いには答えない。
 いつかドリアードが目覚めたら、来し方を眺め何というだろう?
 それともドリアードは、そんな人間たちの営みなど無関係に……ああそうだ、きっと無関係に、空へ芽を、葉を伸ばしていくのだろう。初めからそう定められていたとおりに。
「フートさん。フートさんがおっしゃったことは、私なりに理解しているつもりです」
 人間の都合。
 精霊の自然。あるがままということ。その先に何があるのか。
 長い旅の中で漠然とリュシアンの心中にあった問いが、答えという形を取ろうともがいている。
 建築家にして水の精霊の加護を受けたソレス家。一族の生業は人々の拠り集う場所を築くこと――なぜ自分が旅に出たのか、分かれ道で故郷へ続く道をいつも選ばず、言い訳を考えていたのはなぜか。家業を継ぐことをためらっていた理由は。
「自然であるとか不自然であるとか、その境界を突き詰めていけばおそらく……《大陸》には人間など存在すべきでないということになるでしょう」
 フートは無言で、ただじっとリュシアンを見つめた。精霊に似ている、とリュシアンは密かに思う。強烈な、生涯忘れえぬまなざし。思い返すたびぞくりと肌が粟立った。
 境界に近い孤独と恐怖と、等身大であることの居心地のよさもあるのかもしれない。しかしの居心地を快いと感じられるのは許された者だけだろう。
「人間は……不自然っすよね。精霊は純粋で嘘をつかない。それに比べて……」
「そうでしょうね。精霊を友とするならなおのこと」
「僕の、甘えかもしれない」
 フートは視線をアリキアに戻した。
「僕は、精霊じゃないっすからね。どれだけ精霊の世界に憧れたとしても、僕は」
「今《大陸》があるのは人間がいるからこそです」
 貴方もそのひとりです、フートさん。さすがに先達の専門家に向かってそうはいえないリュシアンだが、心の中で付け足した。
「お借りしてもいいでしょうか」
 フートの手からアリキアの芽を受け取る。
 種の大きさはりんごほどもある。いずれ大樹に育てば、さぞかし立派な眺めとなるだろう。ヨシュアが教えてくれたとおり、それこそ城のように。
 甘えているのは自分のほうだとリュシアンは思っている。
 フートさんが、パーピュアさんが、ヨシュアくんが、リュートくんが。満たされぬ想いを抱えて悩み、わだかまりをどうしたらいいのか手探りでもがいているというのに、その年頃の自分ときたら、何一つ不自由なく暮らしていたのだから。
 でも、それも昨日のこと。
 ここにきてリュシアンは、なすべきことを悟った。ソレス家の一員として、水の精霊の加護を受けた者として、自分こそがなし得ることを悟ったのだった。
「あ」
「お」
 フートとリュシアンは同時に声をあげた。
 リュシアンの手の中で、新たな葉がゆるゆると開いたのだった。
「育ってるっすね」
「ええ、育っていますね」
 今ならクレドくんに教えられるのに、とリュシアンは思った。
 大人ぶった小難しい理屈、自分でも半ば納得していないような借り物の言葉ではなくて、本当に、あの子の心に響く言葉を。
「クレドくん」
 届いてほしいと願い、少年の名をリュシアンはそっと呼んだ。
 知りたい、とフートは切に思った。 フートだった男にとって、クレドという少年はどんな意味を持っていたのか。ティカに詰め寄られた際には思いもしなかった罪悪感が、ここにきてじわじわとフートの心を引き寄せている。
 グロリアも記憶をなくしているはずだった。彼女が残した手紙に、自分の名がなかったら。そのことをようやくフートは想像できるようになったのだ。
 クレド、グロリア。パルナッソスの孤児たち。自分の一部のようなもの……フートもパルナッソス育ちの孤児だったから。それを互いに忘れたままでいることの悲しさを思い、繰り返したくない、とフートは願った。

■Scene:栄光頌(5)

「うっわ、うっわあ! おいどーしちゃったんだよピュア!」
 円陣に唯一残る結晶柱に、パーピュアとレディルの姿を認め、ティカはぺたりとおでこを結晶にくっつけた。
「ぴゅあ。どうしたの?」
 ミストが首をまげて、結晶片を取り込み一体化しているパーピュアを見上げた。
「どーしたの? おれだって知りたい。ねえ何が起きたんだよ。シュシュ兄もダルも皆出てきてるのに、なんでピュアだけ閉じ込められたままなんだよ!」
「これは……彼女は望んだのですね」
「わっ、カッサンドラさん! 無事だったんだ!」
 ティカはまたびっくりである。もっとも今のカッサンドラはすでに人間の姿を取っており、その点では無用な混乱はもたらされなかった。
「無事というか……まあ、無事といえば無事か」
 これはラージの台詞である。
「どうしよう。このまま彼女を引っ張り出しても、きっと上手くはいかないよね」
「そうですね、わが主」
「え? わが主? ラージさんが? え? え?」
「うん、まあ後で説明するよ、ティカ」
 パーピュアの柱の前でそんなやりとりが交わされているところへ、ヨシュアが、フートを引きずるように連れてきた。
「あっ、カッサンドラさん! 無事だったんですね!」
 ヨシュアが驚く。
「無事というか……いや、いい。後で話すよ」
 ラージは説明しかけてまたやめた。博物学者の目がきらきらしていたのだ。
「パーピュアさんはどうして結晶を取り込んだんだろう」
 人間とは。その問いには先に答えを出したラージだが、その定義によってパーピュアの行動を説明できるかどうか、ふと考えてみたのであった。
「俺にはわかる気がします」
 ヨシュアはもパーピュアを見上げる。
「宝石道師にしかできないことをしようとした。たぶんレディルさんも、パーピュアさんのしようとしたことを信じたんだ」
「繋がること」
 カッサンドラが言った。
「わが主。おっしゃるとおりですね」
「え? わが主? ラージさんが、カッサンドラさんの? え?」
「うん、それも後で皆に説明するよ……で、ヨシュアくん。何かしようとしているの?」
「はい。俺……」
 がばとヨシュアは地に跪いた。白い靄に顔をうずめるようにして叫ぶ。
「お願いです、フートさん。アリキアのその芽の力を借りたいんです。いや……違う。譲り受けたいんです。だめですか」
「あ」
 フートは口を半開きにして、
「アリキアなら、リュシアンさんが持ってるっすよ」
と答えた。
 渾身の力を込めていたヨシュアの身体が、がくっとこけた。
「よしゅあ。なにするの?」
 ミストがきょとんとして尋ねる。
「俺は、アリキアを生長させます。新しい《契約の杭》とするために」
 搾り出すようにヨシュアは答えた。
「博物学者として間違ってるのは知ってる。でもここには魔力が潤沢に蓄積されてます。その魔力の根源となっているのはパルナッソスの人々の記憶なんですよね? 《円盾の防護》を打ち破るには、パーピュアさんを切り離さなくちゃならない。古い《契約の杭》が、精霊の流れをせき止めて均衡を崩すために使われていたのを、今度は逆にするんです。アリキアの木を通じて魔力を記憶に戻して帰す。パーピュアさんがやっているのと逆に働く仕組みを、アリキアの木に担ってもらうんです」
 早口でヨシュアは自分の意図を説明した。調査隊の仲間なら分かってくれると思う。だが迷いも残っていた。
「循環させようとするわけっすね?」
 フートは結晶柱の中のパーピュアを見上げた。
「パルナッソスから流れてくる記憶を魔力の結晶にしているのを、逆に結晶を分解してパルナッソスへ送り返す……」
「ひ、ひとことでいうと、そういうことです」
 しばしフートは無言であった。裁定を待つ者としてヨシュアはひたすら彼の意見を待った。時間がこれほど長く感じられたことはないほどに。
「しかし」
 やがてフートは言った。
「……なんでよりによってそんなでっかいのを選びましたかねえ〜」
 ヨシュアが口を半開きにする番だった。
「女の子なんですし、傷が残らないといいっすよね」
 フートは微笑していた。
「あの」
「あれでも、故郷なんすよ。活気も少なくて喧騒も遠い、争いごともなく……」
「フートさん」
「歪んでいるなら、正さないと。博物学者の仕事でないかもしれないっすけど、まあ、人の仕事ではあると言えるかもしれないっすよねえ」
 ぶわっとヨシュアの目に涙が浮かぶ。
(な、何だ)
 ヨシュアの中のミスティルテインが動揺していた。
「あ……いやでも、アリキアを持っているのはリュシアンさんっすからね。彼にお願いしないといけないっすよ」
 えぐえぐとしゃくりあげるヨシュアを、フートは宥める。
「よしゅあ、どうしたの?」
 ミストがまた尋ねた。
「ピュアを助けられるみたいだ」
 今のやり取りは十分の一も理解できなかったティカだが、少なくともヨシュアが何か身体を張って、ピュアを救おうとしていることは伝わったのだった。
「……よかったね、ぴゅあ」
 ミストは自分のことのように嬉しそうに笑った。
「カッサンドラさん、僕らは、ヨシュアのことを手伝えるかな」
「そうですね、わが主」
 カッサンドラはぐるりと周囲を見渡し考えながら言った。
「思うに、今の策を具体的に検討しようとするならば、三段構えになりますね」
「三段構え?」
「まずアリキアの木の生長を促進させること、それから生長した木に魔力分解の機能を付与すること」
「それだけで終わりだと思ってたけど違うの?」
 ヨシュアが驚いたように言った。
「最後は何?」
「……《円盾の防護》解除後の《炎湧く泉》及びパルナッソス教区の処置です、わが主」
 そうか、とヨシュアはうなずいた。
 別の意味で、ラージも、そうか、と重ねて言った。カッサンドラの今の物言いは、アダマスを彷彿とさせるものだった。
 ラージはカッサンドラの契約の真意をつかみつつあった。
 カッサンドラは、契約者のものの考え方を理解するのだ。そしてそれを自分のものとして、振舞うことができる。
 今ラージはカッサンドラに対して責を負っていた。ラージは、カッサンドラが理解するに足る人間として振舞わねばならない。

■Scene:栄光頌(6)

「あの、リュシアンさん……」
「ああクレドくん。今ごろどうしているのやら……」
「あのー、リュシアンさん?」
 クレドであった。リュシアンはまじまじと少年の顔を覗き込んだ。
「えっと……」
 もじもじとクレドは唇を動かしかけた。叱られるのをわかっていて、それでも自分から話さなくてはいけないときの、居た堪れない表情をしていた。言葉を選んでいることをリュシアンは察した。
「クレドくん」
 リュシアンは両手で彼の両頬を挟んだ。にゅう、と柔らかい頬を変形させる。
「ふぁい……」
 建築家は笑っていた。
「クレドくん。皆さん心配されていたのですよ。アダマスさんも、もちろん私もです」
「ふぇ……」
「今ならあなたにもわかる筈です。どうして大人たちが口うるさいことを言うのか。どうして自分ひとりで出来ることまで、大人たちが口を挟むのか」
 クレドは視線をさまよわせた。助けて、と無言のうちに伝えようとした兄貴分は、ヨシュアに引き立てられてこの場にはいてくれなかった。
 ちぇっ、とクレドは思う。
 まあでも仕方ないか……。フート兄に頼っちゃ、いけないんだもんな、ほんとうは……。
「大人たちはあなたを心配しているというより、あなたがひとりで生きているのではないことを、教えようとしているのです」
 リュシアンは言いながら、自分でも驚いた。それは先ほどフートが自分に伝えてくれたことでもあった。
 ひとりで生きているのではない。目に見えない、遠い先祖や精霊の加護。共にいてくれる仲間。彼らと一緒に生きていくのだ。
 ああ。リュシアンは自らを恥じた。やはり、まだまだ青二才だ、と思った。
「大人と子どもの違いの話を、覚えていますか?」
 クレドはこくりとうなずいた。その拍子に、頬が引っ張られてヘンな顔になる。思わずフートは吹き出した。
 調査隊が旅立つという時、先発隊になりたいというクレドとグロリアに、リュシアンはこういって諭した――『どれくらい配慮ができるか、他人を気遣うことができるのが大人というものだ』と。
「ふぉめんなふぁい」
とクレドは素直に謝った。リュシアンはそっとクレドの頬から手を放した。
「俺わかるよ、リュシアンさんの言いたかったこと。たぶん、オヤジの言いたかったことも」
 リュシアンは微笑んだ。
「ひとりで生きているのではない、ということはですね、クレドくん。とても大変なことなのですよ。大好きな友人と一緒にいるときはいい。楽しいですからね。でもそうではないときのほうが、ずっとずっと多いはずでしょう」
 寂しい時、心細い時、誰かがいてくれたらその人を支えにしてすがることができる。
 だが、その誰かを疎ましい、邪魔だ、と思うときもある。人と人が共に生きていくということは、それをどれだけ受け入れることができるかということなのだ、とリュシアンは思う。時には自分さえ信じられなくなるかもしれない。
「うん……グロリアともよく喧嘩するし。そういうことなんでしょう?」
「調査隊に加わったということは、大人なのですよ。アダマスさんもそれを知っている。ただあなたやグロリアちゃんにそう言わないだけで。アダマスさんはあなたのこともグロリアちゃんのことも信用されているのです。一緒に過ごすことは、良いことだけではない。もう分かりましたよね?」
「うん。そうだ……俺、オヤジにも謝んなくちゃいけないんだ」
「何が、あったんですか」
 誰も尋ねようとしないそのことを、リュシアンは尋ねた。
 クレドはポケットから何かを取り出し、リュシアンに見せる。
 古ぼけてくすんだ、小さな剣のしるし。柄のところに紐通しの穴が開いている。
「これは《痛みの剣》の聖印……これをどこで見つけたのです?」
「カインがくれた。皆で《魔獣》に会いに行くっていうときに……」
 リュシアンは思い出そうとした。二度目の幻覚の嵐の時、カインは何をしていただろう?
 ミルドレッドの看病を手伝って、彼自身は《炎湧く泉》に残っていて――ああ、そうだ。アダマスさんと共に、酒を酌み交わしていたのではなかったか。
 ……私はもう年老いている。《大陸》の行く末はあんた方と、クレドやグロリアのものだ。クレドもグロリアもまだ気付いとらんだろうが、私の荷のほとんどは、もうあの子らが背負ってくれている……。
 アダマスの言葉が蘇る。
「彼は……カインさんは何と言ってこれを?」
「自分は勇気がなくって、《魔獣》に会いに行けないから……って。それで、お守りだってくれたんだ。神さまがついてくれてるから、何が起きても大丈夫なんだって」
「なんですって?」
 リュシアンは、自分の血の気が引く音を耳にしたと思った。
「カインさんが、あなたに命じたというのですか?」
「う、うん。アリキアの木のところで傷をつけろって。でも血を流すのが怖くなったから……代わりに木のほうを傷つけてみようと思って、そうしたら……でも、こんなことになるなんて思ってなくて……」
 クレドはぎゅっと顔をゆがめた。
 リュシアンはいつの間にか自分が怖い顔をしていたことに気づき、力を抜く。しかしカインへの不信はかききえるものではなかった。
「オヤジはどこ? オヤジにもいわなきゃ駄目だよね?」
「アダマスさんは、カインさんたちと先に行っているはずです」
「そ、そっか。カインと……」
「アダマスさんのことなら大丈夫。クレドくんが思ったとおりに謝れば、ちゃんと許してくださいますよ。それにしてもカインさんは何をしようとしているのでしょうか」
 わからない。彼の心中は、リュシアンには想像もできかねた。


1.求憐誦 2.栄光頌 3.信仰宣言 4.三聖頌 マスターより

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