クロードは心細さを気丈にがまんしながら、人気のない街をさまよっていた。サーカスが立ち去った後のテントのような、もの悲しい雰囲気の漂う通りをいくつも通り抜けてきたが、すれ違う人は誰もいない。道端には、ついさっきまで誰かが遊んでいたようなボールが転がっていたり、井戸のつるべがからからと音を立てていたり、生活のかすかな痕跡はあるのだが、まるでこの世に自分だけになってしまったかのようだった。
「違う、これはラステルさんの心の中……俺が、どうにかなっちまったわけじゃないんだ」
ふるふると頭を振って、ふくらんでいく恐怖を追い払った。ずっとこんなところにひとりぼっちだったら、本当にどうにかなってしまいかねない。クロードは守ると誓ったイェティカの名前を呼び、また歩き始めた。
孤独。これは痛いほどの孤独な世界なのだ。
ラステルの心へと向かう前に、クロードなりに調べたことがある。10年前の出来事について、もう一度今度は里長と《剣》たちにあたってみたのだ。子供扱いされなかったことが、とてもうれしかった。《剣》たちも、クロードが自らイェティカの護衛に立候補したことを聞いていたのだ。特にデュースやトロワたちは、これまでの《大陸の民》の活躍をたたえつつ自分たちの無力を嘆いていた。
「10年前っていったら、イェティカの生まれる前なんだけど」
と切り出したクロードに、いろいろ気になることを教えてくれたのである。
「ディリシエ様が姿を消した時は、ラステル様の時ほど騒ぎにはならなかったんだ。もちろんみんなショックだったけど、あのときは《夜魔》が現れたりしなかったしなー」
「パレスさんは、必死に探してたよ。なんたって、恋人だったんだものな。ラステル様もそうだけど、美人姉妹だったからな」
「姉妹!」
「そうだよ。あまりみないいたがらなかったかもしれないけど……」
デュースがトロワをこづいたときには、すでに遅かった。
「……何せ、ディリシエ様のご両親が烈火のごとく怒ってたからね。ディリシエ様に子供がいたから」
「……」
「大人の事情ってやつだね」
クロードはさらりと答えた。本当のところは、こういう話はあまり好きではないのだけれど……勇者にヒロインとの恋物語はつきもの、予習はばっちりだったのである。自分が主人公となると話は別だが。
「この砂漠は呪われし地……砂漠の番人……そして、《ドゥルフィーヌ》……獣、《獣の姫》」
クロードは頭から離れない言葉をぶつぶつつぶやいて、考えをめぐらせる。思いついてもうひとつ、アンジーたちに質問してみた。
「獣っていったらさぁ、何だろ?」
見たところ、《星見の里》には乗用のらくだと貨物用の砂漠狼、それと家畜たちの他には、動物はいないのだった。アインが子供たちのおもちゃになっていたし、獣というのは珍しそうである。クロードはもちろん、獣といったら「スケベな魔物」のことを思い浮かべるのであるが、では例の《獣の姫》と名乗った存在は、何が目的なのだろう。イェティカは、ラステルを連れ去ったのが《獣の姫》だと言っていたから、迷宮に入る前に是非とも知っておきたい。
「獣? ああ、あの話か、《獣の姫》ディリシエ様」
あっさりとトロワが答えたのでクロードは驚いた。どうしてそれを、と尋ねると、妙な訛りの商人が根ほり葉ほり尋ねていったからだという。す、素早い。
「獣というのは、自分の中の欲望に忠実であることだと、俺たちは教えられている」
アンジーが言葉を継いだ。
「人間は誰でも、その中に欲望の獣を飼っている。獣が強くなりすぎると《星見》はうまく働かない。《星見の姫》にとっては禁欲が大切だという。俺たち《剣》には、わからない話だけどな」
クロードの脳裏にまたひとつ記憶の声がよみがえった。汝の欲することを成せ。
「ディリシエ様はおそらく……獣を飼い慣らすことに疲れたんだろうな。あの人は、そういうところがあったから」
悲鳴。
クロードは我に返り、弾かれたように走り出した。イェティカの悲鳴が聞こえた。助けに行かなくちゃ!
街角を越えてたどりついたそこでクロードが見たのは、《夜魔》と戦うイェティカとアーネスト。しかし舞踏剣士は奇妙に苦戦していた。《夜魔》のかぎ爪が舞踏戦士の刀をはねとばし、彼の細い身体をえぐるのをクロードはスローモーションで見た。
「うわあああああああああああああああああ」
我知らず絶叫がほとばしる。
クロードは何も考えず、ただそこへむかって突っ込んでいった。アーネストのように、両手に剣を構えて。ただイェティカを守るために。自分じゃ弱すぎるとか、《夜魔》の前に躍り出る前にイェティカが殺されるとか、そういうことは何も考えなかった。がんばっているのは、ひとりだけじゃない。守るために全力を尽くすと、一度誓ったのだから。
ルーファはアインをだっこしたまま、闇の中の道を歩き続けた。かちゃかちゃと、腰の戦輪が音をたてる。気がつくと、螺旋階段での幻影に思いを馳せている。あの二人は、幸せそうだった。なのになぜ、今あの人はこんな暗いところに閉じこもっているのだろう。幸福な思い出があるのなら、それを持たない人よりも強く生きてゆくことができそうなのに。
ふわぁ、とアインがでっかくあくびした。
「おい!ちょっと寝過ぎじゃないか?」
「(そっちこそ、俺のこと、抱きすぎ)」
ぐっとルーファは詰まる。ここのところ、アインをだっこしていると落ち着くなぁ、と思っていたのだ。アインは背中の毛を逆立ててぶるぶるっとやると、だっこされたまま、あたりの様子をうかがった。
「(ここが、お姫さまがいるところかい?陰気なとこだなー)」
ふんふんとにおいをかいだりしている。
「(ねぇ、なんでこんなとこに来たのさ?)」
「なんでって、アインも聞いたろ? ラステルが問いかけてきたじゃないか」
大切なものを守るために、必要なこと。ルーファなりの答えが、見つかりつつあった。それをラステルに伝えたい、そう考えてきたのである。
「ラステルか、他のみんなか、どっちにいるかわかる?」
「(あのなー、それは俺の本職じゃないっての。俺はほわいとからーなんだからなー!)」
といいつつ、まんざらでもない調子である。
そうか、アインといると落ち着くってことは。俺自身が落ち着いてないってことか。……そっか、そうかも。
「ルーファ」
ラステルとハースニールのことを考えると、胸の奥が痛む。これは、同じ痛みを俺も知ってるから?
「ルーファ?」
もしかして、俺だってラステルみたくなっていた。同じことをしてた。2年前のあの日。
「ルーファ、どうしたの。私のこと、忘れてしまった?」
その声にぎくりとして、ルーファは反射的に両手を放した。いつの間にかそこにはアインの代わりに、幼なじみの姿があった。燃えるような赤い巻き毛が、ルーファの目を差した。幼なじみは立ち上がって微笑んだ。穏やかで優雅な物腰は、領主の跡取りという育ちの良さを物語っている。
「この間はシチューをありがとう。とてもおいしかったよ、冒険者っていうのも、面白そうだね」
「……あ、ううん。ごちそーさま」
どぎまぎして、とんちんかんな答えを返す。
「でも私はルーファに……」
「……」
「この間の話、考えてくれた? 私たち、うまくやっていけると思うんだけど、どうかな?」
びくりと肩を震わせてルーファは幼なじみからあとずさった。
結婚なんて、まだ早い。だってまだ15なんだぞ。もっともっと、見てみたいものが世界中にあるんだ!
その時の言葉は、どれだけ幼なじみを傷つけたのだろう。あれから、燃えるような赤毛は見ていない。
「よくも、思い出させたな」
ルーファはアインの毛皮に顔をうずめた。あの幼なじみの姿も、幻だったのだ。
「(はぁ?)」
「ん〜ん、何でもないってば。行こう。ラステルが待ってる」
ちょこちょこまとわりついてくるサーチェス以外にダグザの気にかかるのは、悲恋に狂った哀れな女。自ら背負った重荷に膝をつく男。そして痛みに竦んで泣きじゃくる娘。彼らの力に、自分はなれるのだろうか。
「ねぇダグザ、おねえちゃんどこかな?」
「ラステルのことか?そうだなー」
合流した二人は、どこへ続くともしれない暗闇の中を歩いていた。おねえちゃんが起きたら、おともだちになるんだ、とにこにこする少女をみて、ダグザはその強さに舌をまいていた。
「嬢ちゃん、たいしたもんだな。たいていの子どもは、真っ暗闇は怖がるぜ?俺も、ちいちゃい頃は怖かったもんさ」
「サーチェスはへいきだよ。あのね、困ったときには、きっとおとーさんが来てくれるの。あのおねえちゃんは、こわいのかなあ」
「大人の方が、怖いのかもしれねぇな」
ダグザはこの場所を、《夜魔》とやりあうよりも危険かもしれない、と思っていた。ディリシエは魔力を与えたものを自分の代わりに操るのが得意と見た。これに加えて精神攻撃にさらされようものなら、自分を強くもっていなければそれこそ元に戻れずにここに閉じこめられてしまうかもしれない。
「そういやぁ《夜魔》も、精神にぐっと響くすてきな咆哮を持ってたしな」
「?」
「……なんでもねえよ」
もしかしたらダグザよりも、サーチェスの方がずっとずっと強いのかもしれなかった。
「あれえ、グリーンおねえちゃん!」
サーチェスは、たたっと踊るように駆け寄った。暗い道の先に立つグリーンは、少女の声にゆっくりと振り向く。その後ろに大きな獣の姿が見えた。
「危ないサーチェス、待て!」
もう遅いことは分かっていたがダグザも駆けだした。グリーンの黒髪が音もなく闇に広がり、金色の光に満たされてゆくのを、どうしようもないいらだちを抱えて見ていた。彼は無意識のうちにその武器を構え、気にくわないけれども哀れな女の姿に変貌してゆくグリーンに振り下ろした。
「出やがったな、待ってたぜディリシエ!よりによって歌姫さんに化けるとは、やるじゃねえか!」
それが致命傷を与えないだろうことは予想どおりである。グリーンの輪郭がぼやけて、ディリシエに変貌した。
「残念だったな、パレスはここには来ていないぞ……でもそれはあいつが逃げたからじゃない。あいつなりに確実に守れる方法をとっただけのことだ」
背後にサーチェスをかばうと、パレスの名誉のためにダグザはそう付け加えた。
「何もご存じないあなたが、どうしてパレスの肩をお持ちになりますの?」
あざけりがかすかに込められた声はディリシエのものだったが、その姿はゆらめきながら、グリーンになったりディリシエに戻ったりと落ち着きがない。またそれがダグザの神経に障った。
「ああそうさ、俺は何もご存じない。でもそりゃ誰だってそうだ。ほんとうには人の痛みなんて分からない。分かろうとしても、すべてを全く同じに感じることなんてできやしない。だからあんたも、自分の傷を見せるのをやめたらどうだ」
黒髪の歌姫は、大きな瞳に涙をたたえてダグザをじっと見上げていた。彼女は小さなナイフをとりだし、自分の首筋にそっとあてている。ダグザはその視線をはずさなかった。
「無駄だよ。そんなやり方で俺を試そうとするな。グリーンはそんなふうには俺のことを見たりしない」
「あなたもパレスと同じね」
グリーンの輪郭が再びゆがみ、消えた。
あたりに再び闇が満ちる。違うのは行く手にほのかな明かりが見えたことだ。
「行こう、嬢ちゃん」
ディリシエにいいたいことはまだまだあった。ディリシエの方こそ、浴びせられる言葉から逃げているのだ。
最初にそこにたどり着いたのはシウスだった。
荒野の中にぽつんと天蓋付きの寝台があった。そこで丸くなって眠っているのが、まさにラステルだった。あわてて駆け寄るシウスの前に、ディリシエが半身を透けさせながら登場する。
「うふ、シウス、いかがでしたか?この子の心には、病んだ闇がいっぱいありましたでしょう?」
眠るラステルに頬をすり寄せるように顔を近づけるディリシエは、その白装束と相まって死を告げる天使のようだった。
いかん、ここには死のにおいが立ち込めすぎている。
「人間なのだ、それぐらい当たり前だろう。ディリシエ、おまえのなかにだってあるだろう」
「うふふふ、だってわたくしは、《獣》なのですもの。そしてもちろん、あなたの中にもあるんですのね?」
ディリシエの姿は見えず、笑い声が響く。あたりはレモンイエローの空から一転、小糠雨にまみれた薄暗い路地に変化していた。
「こ、これは……ここをなぜおまえが知っているのだ!?」
シウスが吠えた。この路地はシウスがもっともよく知っている場所だったのだ。
「ここで俺は、宿敵に再会したのだ」
何千回と反芻した記憶のままに、それは再現されていた。シウスの目の前で父親が殺され、母親は幼い彼をかばって背中から刺された。母の身体を貫いた剣は、シウスのこめかみと心に深く消えない傷を残した。そしてその犯人との再会。
「そうだ、神が泣いているのかと思ったぞ。冷たい雨に濡れる街角で、そいつは、そいつは」
そしてシウスは、また同じ光景を目にしたのだった。左足を失い、右腕を失い、うつろな目で哀れみを乞うていた両親の仇。このとき、シウスと宿敵は立場が逆転したのだ。弱いものを守り、弱いもののために戦うという信念の行方は? 両親の安らぎは? そして、俺はどうすればよかったのだ?
「ディリシエ! なぜだ、なぜこんな光景を俺に見せるのだ!俺はあのとき、どうしたらいいか分からなかった。だから、だからきびすを返して走り去るしかできなかったんだっ!」
「ほうら、ね? どうしたらいいか分からないっていうのは、その場しのぎの言い訳にすぎないのですわ。心はいつだって、自由になることを望んでいます。だから、ちょっとだけ、道をつくってさしあげますわ。さあ」
そこから先は、シウスの過去とは少し違っていた。両親の仇だった男はシウスを見分けると、いざりよって彼に剣を振り下ろしてきたのだ。その顔は憎悪に燃えていた。シウスはよけなかった。
精神世界のものを、石ころひとつ傷つけてはならない。ラステルの心の中を、これ以上かき乱しては。
美しい音色が彼方から近づいてくる。ファーンがつまびく月琴の調べだった。イェティカとアーネスト、そして半ば呆然としているクロードと合流できた彼も、この天蓋を見つけたのだ。旋律に乗せて吟遊詩人は歌い上げた。待ち人を焦がれる歌。それは《星見の民》に教えてもらった、《金色の姫》の歌をアレンジしたものだった。《星見の民》が、その姫を焦がれるように。恋の成就したふたりが、思い人を焦がれるように。イェティカが待っている、という想いを乗せた調べだった。
僕は、待つ辛さも、待たせる辛さも知っているつもりだ。
イェティカは貴女のことを待っている。それだけでも、目覚める価値はあると思いませんか。
「そして、貴女だけが守れるものがあるんです。大切に思うことに、いいも悪いもない。ただ、貴女らしくあることができれば、それでいいじゃありませんか」
ガガは灯台のような光を目指し、草原の道を進んだ末に天蓋のもとへとやってきた。輝いて見えたのはイェティカだったようだ。彼の信念はただひとつである。何物にも乱されず、何物にも真剣にうちこむガガは、心惑わされることなくひたすらラステルにその思いを伝えようとしてきた。自分の心から逃げないで。貴女を本当にシアワセに出来るのは、貴女の心だけなのだから。
「ラステル、心に 正直に」
そこだけは、ガガはゆっくりと口に出していった。それがガガの出来るすべてだ。
寝台のラステルが、身じろぎをした。
ダグザとサーチェスがやってきた。
「わぁ、イェティカちゃんここにいたのね★ずうっと光が見えたの。イェティカちゃんだったんだー!」
明かりをたどってみれば、そこにいたのはイェティカだった。まるで金色の灯台だ、とダグザもそう思っていた。仲間たちが全員そろっている。イェティカは目指される光になるのかもしれない。でもそれはまだ先のことでいい。まだわずか十にも満たない子どもに、一族の運命だの人々の欲望だのを背負わせ、受け止めさせるのは酷すぎるから。
ダグザは寝台に近づき、ラステルをのぞき込む。
「さあ、お迎えにあがりましたよ、ラステル」
ハースニールでなくて悪いな、と心の中で付け足した。
彼女はゆっくりと、目を開いた。
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