「あなた方は《大陸の民》……」
それだけをか細い声で絞り出したラステルは、寝具をかき合わせてぶるぶるっと震えたかと思うと、何十羽もの金色の小鳥にその身を変えて狂ったように飛び立った。
「やめてください。わたしにはそんな力はもうないのです……」
「姉さまーっ!!」
イェティカがその後を追うように駆け出すが、数羽がくるりと輪をかいて少女のまわりを巡っただけで、あとは四方に飛び去ってしまった。
一羽だけ、ダグザの手にとまった小鳥がいる。ダグザは優しく語りかけた。けしておびえさせないように、最大限の気を遣いながら。
「ラステル、俺はあんたがうらやましいよ。俺には、守るものも帰るところもない……それを探して、ずっと旅をしているんだ」
小さい子どもに話しかけるように、ゆっくりと彼は続けた。小鳥は逃げなかった。かすかな温もりが、手の甲に感じられた。
「俺は自分の手の大きさを知っている。人間一人、出来ることなんざたかが知れてる。誰が死のうが生きようが、春が来れば花が咲くんだ。だったら、わがままでもいい、泣きわめいたっていいんだ」
もう一羽の小鳥がダグザの肩にとまった。
「泥にまみれようが、痛みにのたうちまわろうが、大切なのは自分で選ぶこと。そして選んだら、今度は後悔しないように力を尽くすことだ。誰だって同じなんだよ」
ラステルが《星見の姫》だったから、助けに来たわけじゃない。危険だと承知で挑んだのは、傷ついて泣いているものがいれば手を差し伸べるのが当然だと思ったからだった。
ガガの頭上を数羽の小鳥が舞う。優しい巨人は両手をそっとあげた。
「逃げない、まっすぐに、しあわせに」
自分だけが、自分の幸せを量ることができるのだから。
ファーンの月琴にもとまった小鳥がいる。小さなくちばしで弦をはじくと、柔らかな音が生まれた。
「そう、いい子ですね。誰でも、自分だけが守れる、自分しか守れない存在があるでしょう? 貴女にも、もちろん……」
ルーファは小鳥にどきどきしながらこう伝えた。
「そうだ、俺も大切な人を置いてきた。だから正確には貴女の問いには答えられないのかもしれない。でも、誰にでも分かって、貴女だけに分かっていない……分かろうとしないことを伝えるよ。このままじゃ何も始まらない。大切なものを守ろうにも、逃げていたら出来る訳がない。事実を受け入れるのが辛い? 俺は貴女のことをほとんど知らないけど、ほんの一時、心を共有した。だから、手伝える。目を覚まして……悪い夢をちゃんと終わらすんだ。そして、新しいはじまりを、貴女が見つけなきゃ」
また一羽、小鳥がとまった。ダグザは小鳥たちを抱きしめるようにして続ける。
「誰かを好きになって求めるのは、自然なことだ。生きているなら、何かを望んで当たり前だ。誰もとがめる権利なんてない。逃げ出したいなら、俺に一言依頼してくれればいい。あの世以外だったらどこへでも、あんたが生きたいところへ連れて行ってやる」
たとえ《剣》や他の者を敵に回しても、故郷も家族も全部捨てても、自由になりたいと望むなら。
「俺が、逃がしてやるよ。だから」
もう一度だけ、立ち上がってみないか?大丈夫さ、あんたには自分で立てる力があるんだよ。
「本当ですか……?」
ダグザの腕の中で、震えながらラステルが尋ねた。彼女が自分の足で寝台を降りたことに満足し、ダグザはウィンクしてみせた。
「そうそう、まだ伝えてなかったな。大切なものを守るために必要なのは、覚悟、だよ。世界中を敵に回しても、大切なその人自身と相対することになっても、自分の想いを信じて貫き通せるだけの」
後半は、ここにはいない誰かにも向けられていた。
「難しいと思うかい? いいぜ、泣いても」
ラステルは素直に従った。ハースニールのため、自分の思い出のため、家族のために流せるだけの涙を流した後、彼女は安らかに微笑んで、立ち上がることを選んだ。おずおずとイェティカが小さな手を差し出し、ラステルはその手をしっかりと握り返し、そして彼らは戻ってきたのだった。
不意に強烈な痛みが、グリューンの眉間に突き刺さった。すかさず棍を両手に構える。窓の外にいたのはやはり銀色の狼だった。そしてその背に、女性の姿がある。どぎまぎしながらも、グリューンはすぐにそれが《獣の姫》という人なのだとわかった。
「出たな、魔物! あんたたちの好きにはさせないぞ!」
そしてこんなときに限って、肝心のパレスはいないのだ。がくがく笑う両膝になんとかいうことを聞かせながら、グリューンは精一杯啖呵をきった。
「仲間たちにもイェティカにも、手出しはさせない! お、俺をたおしてからにしろっ」
割れるような頭痛に耐えて、彼は両目を見開いた。《邪視》の力で邪なものの精神をゆさぶろうとする。ディリシエの思考が、力を伝って少年の中に流れ込んできた。憎悪。そしてディリシエを束縛している鎖。言われなかった言葉、そして生まれなかった子ども。そこまで追いかけたグリューンはくらくらめまいにおそわれた。
「パレスを悲しませるな! そんなことして何が楽しいんだよ、あいつ、あんなに苦しんでるんだぞ!? それに、なんでハースニールを殺したりした?《夜魔》あやつってんの、あんたなんだろうっ」
「……楽しいですわ」
その言葉はうわべだけの偽りだということがすぐに分かった。
「うそつき! スケベ狼なんかにだまされるなよ、そいつはあんたを利用してるだけかもしんねーんだから! あんた、子どもいるんだろ? その子はあんたのしてること、知ってるのかよ!」
グリューンにとって、暖かな家庭は何よりも実現したい夢だった。大家族に囲まれて、大好きな妻が横にいて、みんな仲良くしあわせに暮らしました、というのが理想なのである。半ば自分の母親像を交えながらグリューンは力説を続ける。
ぐらりとディリシエの身体が揺れた。
「俺だったら、子どもを悲しませることなんかゼッタイしないんだ! コラスケベ狼! おまえなんか、おまえなんかツェットとは大違いだっ。サーチェスに懐かれたからっていい気になるなよ!」
ディリシエの肩が小刻みに震えた。しまった女の人を泣かせてしまった、とグリューンが言い過ぎたと反省した瞬間、ディリシエは高らかに笑いあげた。
「うふ、ふふふ、おばかさんね! 子どもなどいませんわ」
「ごまかすなよ。聞いたんだ、あんたがいなくなったとき、おなかに子どもがいたって。もしかしてそれってパレスの」
「い な い わ」
「ディリシエ」
口を開いたのは、いつの間にか立っていたパレスであった。彼はその韻鉄の剣をすらりと抜くと、彼女ののど元に切っ先を突きつけた。
「俺は間違ったことをしたとは思ってないが、それでもあのとき俺は若くて、愚かだった。姫のつとめを放棄したおまえとともに逃げるなど。あのときの気持ちに嘘はない」
「うふふ、もう遅いですわよ」
「そうだな、もうすべてが遅い。ハースニールはもういないし、イェティカの後に子どもは生まれてこない。おまえが恨み、呪うものは、もう残っていないはずだ」
切っ先が、ディリシエの眉間に向けられる。ディリシエは真っ赤な唇を濡れた舌でちろりと湿した。その仕草はグリューンがどきりとするほど、妖艶だった。
「呪いをといてくれ。いますぐに。もういいだろう?」
「いいえ、よくはありませんわ、何にも分かっていないパレス」
ぱりんと乾いた音をたて、球体が割れた。仲間たちと一緒に出現したのは、ラステルだった。
「ディリシエ……姉さま……!」
ラステルの呼びかけにディリシエは答えず、狼とともに身を翻して立ち去った。
「……どのみち、《星見の民》は選択させられる……鍵となる子がすでに……完全にはまだ……」
あの狼は、やっぱり一部始終を計画していたんだ。俺たちは車輪の一つなんだろうか。違う。ゼッタイに違う。力を使い果たしたグリューンが、ぶつぶつと狼から読みとった思考をつぶやいていた。
「あんたたち、何があった?」
シウスの問いに、ラステルは消え入りそうな声で答えた。
「ディリシエは、私の姉なのです。彼女にはとても強い力があって、里の皆から頼りにされていた。でもだからこそ、彼女はそのつとめに疲れ果ててしまったんです。私には、姉の気持ちがよくわかります。私も同じことをしたんですから。姉はつとめから離れるために、自分自身の願いを叶えた。そう、《父》がそれを認めたのです」
「《父》とは、何者なのだ」
「あなた方も会ったことがあるでしょう。銀の毛皮の偉大なる獣、かつて《月から来し獣》と呼ばれていたと聞いたことがあります」
「父なる者、光る夜より来る……」
「ああ、それは《星見》ですね。《父》は、私たちに力を授けてくださる存在です。歴代の《星見の姫》にしても、全員が会ったことがあるわけではなかった。姉は喜んでいました。《父》が、姿を現してくださったと、打ち明けてくれましたから」
「ディリシエは、いまその《父》とやらとともに行動しているようだが」
「……真意はわかりかねます。姉は私から力を奪い、私は姉の一部となっていました。一つだけ分かるのは、姉はより強い力を得たがっているということ。ですからきっと、イェティカを次に狙うでしょう」
「だが、なぜだ? あの女の目的はどこにあるのだ」
「《父》の意向に添おうとしているのです。つまり、《金色の姫》ラフィナーレの降臨です」
ラステルは、静かに答えた。
第6章へ続く