第5章|夜明け前を照らすランプ|残響|優しさの代償|夢から覚めた夢|野の百合の誓い|断章1|断章2|マスターより|
1.夜明け前を照らすランプ
夢を見ているのだ、きっと。
異端は孤独。忘れていた。孤独。果てしない自由と孤高。
そうだな、おまえが忘れさせてくれたのかもしれないね、小さな、ミュー。こんな身体になってしまった時も、不思議とおまえを恨む気持ちにはならなかった。なれなかったというほうが、正しいかもしれない。どうしてだろうな。おまえも力を尽くしてくれるし、不便なことは何もない。そう。人間だったときと何も変わらないから。ごたごたが落ち着いたら、ディルワースを観光して回りたいものだなぁ、ミュー?
ああ、そうだな。コーディア・ラズ・ネイロンは、もう孤独じゃなくなった。今がこれほど楽しいと、言えるときが来るなんて思わなかった。孤独じゃなくなったなら、もう私は異端ではないのだろうか?
どこだ、ここは。
カロンは重苦しい空気の中であえぐように息をつきながら、しびれた四肢にゆっくりと力を込めて身を起こした。生暖かく、肌寒い。居心地の悪い場所だ。
こめかみに力をいれると、意外にもまばたきをして目を開けることが出来た。目は見えないと思っていた。足も一本くらい折れていると思っていたし、身体が動かせるなんて、あの衝撃をくらったにしては運がいい。人間の姿に戻っているとは計算外だったけれど、発現した魔力の代償かもしれない。どのみち、大きすぎる力を制御しようとしたのは自分なのだ。もちろんあるいは、カロンの知らない何か理由があるのかもしれないけれど。空腹は特に感じない。ただ、重い疲労感がのしかかっている。
真っ裸でなくてよかった、とカロンは安堵した。昔愛用していた灰色の長衣をまとっている、それだけで少し落ち着いたのだ。魔力も損なわれてはいない。まだ打てる手があるということだ。待てよ、自分が人間に戻ったということは、もしかしてミューのほうにも何か異変が起きているかもしれない……。しかし遠く離れた場所にあって、少女の香りを感じることはできなかった。
カロン自身も、あの瞬間に何が起こったのかはよく分からない。ただ、シャッセを狙っているとおぼしき敵を発見し、その大鎌と戦い、爆煙、そして。
鼻にかかった少女のような声。銀の鎌。
今、その気配はここにはなかった。というよりも、気配はあれど、意識がカロンに向けられていないようである。視界はほとんどない。目に見えるのは、たえずかたちを変え続ける灰色のもやもやしたものだけなのだ。混沌としていて、見つめていると自分の足元さえぐらついてくるようで、カロンは頭の奥が痛くなった。
何なのだ、この空間は。
洗濯物の匂い、雪にぬれた歩道の匂い、そういったものがうっすら感じられた。彼の見知った仲間たちの香りも、かすかに存在している。だが、この灰色のもやもやに閉じこめられているのは、自分ひとり、なのだった。変幻する周囲に酔い、こみあげてくるものを吐き出そうとしてうずくまったカロンは、ひとつの結論に辿り着いた。
「ここは、《大陸》じゃない……」
ディルワース王城を支配していたと同じ腐臭が、どこからか漂っている。
「くっ、何者だろうな、私をこんな場所に招待してくれたのは」
茶色の髪の下で藍色の瞳をきらめかせながら、カロンは考える。《大陸》でないとすれば、ここは《まことの国》とつながっている魔法陣の中であろう、と見当をつけた。自分が調香術で描いた魔法陣に、ここまでの威力があるとは驚きだったが、そもそも《竜の牙》の力を利用したのだ、副作用があってもおかしくはない。
「そうか、魔力収集に《竜の牙》を使ったから……鐘楼の魔法陣のような、転移の力が働いたという訳か? やれやれ、《竜の牙》をこの空間まで持ち込めなかったのは痛いな。ミューがうまくやれるだろうか、ううむ……」
シャッセから伸びる糸を追いかけてきたカロンだが、自分の身体に巻き付けるようにしてたぐりよせたそれは、もう輝きを失っており行く先を見極めることはできない。そのうえ、どうやら大鎌が、じゃきんと断ち切ってしまったようで、とりあえずカロンには戻ることもできないのだった。
「さて、成すべき事を成しますか。鎌の使い手がいないのはなぜだろう。この腐臭の主が鎌の使い手ならば、会ってお茶でもしたいのだが。折角のこの招待状、受けなければ失礼というものだろう」
前向きにも、カロンは混沌の闇の中へと一歩を踏み出した。
大鎌の使い手の元へ向かって。腐臭の源へと。
「誰なの、そこにいるのは」
誰何の声が飛んだときも、カロンは驚かなかった。自分が何者かに招待されたのなら、必ず接触があるはずだからである。まあ招待された訳ではなく、単に閉じこめられただけという考え方もあったのだが、こちらはカロンの好むところではなかった。
「ああ、私はカロン……と申します」
猫としての名前がカロンであって、本名は別にあるのだけれど、と逡巡の後、彼はそのままの名前で通した。声の主は妙齢の女性と見える。鎌の使い手は、もっともっと鼻にかかった甘えた声だった。同一人物ではないという確証もないので、カロンは注意深く会話をすすめる。
「ご存じでしたら教えてください。ここは、いったいどういう場所ですかな」
「ああ……では、貴方は迷い込まれたのですね、この檻に」
「檻?」
声のする方へとおもてをあげるカロン。声は、ずいぶん高いところから聞こえてきたのだ。
十字架にかけられている女性が視界に飛び込んできたのには、さすがの彼も驚きを隠せなかった。
「ここは檻。わたしは罪人。もうどのくらいこうしているのかも定かではありません。ですが貴方は迷い人。罰を受ける必要はないのでしょう。立ち去りなさい、早く。番人が来ぬうちに」
「番人? あなたはいったい?」
カロンは十字架の元へ走り寄る。細い樹木が十字架にからみついているのが見て取れた。白い小さな花を咲かせるそれは、林檎の木のようだった。
そこそこ大柄なカロンの背丈以上の高さに、女性は磔にされていた。両手は肩の高さに広げられ、打ち付けられ、ぼろぼろのドレスの裾からのびたむき出しの足には、火傷のようなひどい傷跡がいくつもついている。その酷さにカロンは顔をゆがめた。
何かの骨でできているような十字架は、美しくそびえている。その美しさだけが、この灰色の空間に不釣り合いだった。
「わたしのために泣いてくれるのですか、優しいひと」
女性は口の端で微笑んだ。その目には涙はなかった。高く結い上げられた金髪に、枯れた花冠が飾られているのが哀れだった。
「誰がこんなことを!」
答えはたぶん分かっている。カロンは自答した。鎌の使い手、この空間の主。その存在が、この女性の番人なのだ、きっと。
だが、女性は首をふるばかり。
「わかりません、誰が課した罰なのか、わたしの罪は何なのか。そして、わたしが何者なのかも」
「あなたはあなただ。ここに囚われている理由はありませんよ。一緒にここから逃げましょう」
「貴方は、何者なのですか?」
「私はカロン、いや、それは猫として……いえその、本当の名前は……」
本当の名前は。
名前? 本当の? カロン、それは猫の名前。
私の、名前は?
私は、誰だ?
呆然とするカロンを見て、女性は目を伏せる。
「ああ、間に合わなかったのですね。番人が来てしまいますわ、カロンさん、優しいひと。貴方だけでもお逃げくださいまし。どうかこれ以上、思い出を奪われないうちに」
「思い出を……」
カロンは考えてみる。ここ最近のこと。ディルワースに来てから。一番心に残っていることは何だったか。昔の仲間たちとの、大切な思い出は?
思い出せない。
うそだ、ついさっき、自分はそれを夢うつつで見ていたじゃないか。あの記憶は、私のものではないというのか?
『だってアタシが、いただいちゃったんだもの』
じゃきん。闇の中に翻る銀の大鎌を見て、カロンは戦慄した。その存在の、異様なまでの純粋さと甘い腐臭に。
『ナマイキなのよ、アタシの邪魔なんかして』
ピンク色の物体が、カロンと十字架との間に出現した。ずしりと重い疲労が、カロンにのしかかってきた。ピンクの物体と見えたのは、どうやら小さな女の子のようだ。
ふわふわのピンクの巻き毛を、二つのリボンでむすんでいる。なんだかふりふりがいっぱいついている服に、つま先がつんととがった靴。おしりから伸びている、先端にハート形がくっついたしっぽ。幼児体型に似合わぬ、大きな大きな鎌。
『アンタもアンタよ。大人しくそこに磔になってりゃいーのよっ。へん!』
彼女に間違いない、シャッセを狙っていたのは。
「私は、どうすればよいのかね」
カロンは眉根をしかめると、ピンクのふりふりに問いかけた。いろいろ質問をしたいのは山々だが、まずは相手にしゃべりたいだけしゃべらせようと思ったのである。どうやら相手の精神年齢はかなり低そうだ。幸か不幸か、この手の相手には自信がある。ありがとう、ミュー。
『バッカじゃないの。アンタ自分のすることも分かんないの〜? アンタはね、アタシの餌なのよ。え、さ。一生。これからずぅ〜っと!』
「どうかな? 私なんておいしくないぞ」
『うん、あんまりね』
がく、とこけそうになるカロン。
「じゃあシャッセはおいしいのか? 君はシャッセを狙っていたんだろう?」
『そうよ。王族はね、特別なんだもの……って、ちょっと何。あ〜しゃべりすぎたわ』
くるりと身を翻し、ピンクの生き物はカロンに背を向けた。十字架の女性に向かって呟く。
『アンタもかわいそ〜にねっ。でもアタシにはどうすることもできないんだし、ま、これ以上吸い取るものもアンタには残ってないから、せいぜいそのままでいてよね』
「ちょっと待って。君、名前は? 君はここで何をしたいんだ? 私の仲間がもうすぐやってくる。そうしたら君はここにいられなくなる可能性が高い」
後半はかなりでまかせだった。このピンクのふりふりの望みが何か分かれば、それを満たしてやって一気に円満解決のはずなのだ。そして、十字架の女性にいった一言が気になった。どうすることもできないのか? ならば、誰が彼女を磔にした?
『何をしたいって聞かれても……アタシ、ごはんを食べてるだけだもん。名前ならモモよ。いつでも呼んでね。どうせアンタも、ここから出してなんてあげないんだから。来たわ、アンタの仲間たち……こいつらのも、食べちゃおっと』
カロンは舌打ちした。ピンクのふりふり、モモの姿は灰色の混沌の中にかき消えた。旅人たちの記憶を奪いに行ったのだろうか。
「ごはんを食べてるだけ、か」
モモとは反対に、ちっとも空腹感がなく食欲もないカロンは、モモの残した言葉についてまた思いに沈む。モモは《竜》ではないが、この空間を支配している。モモと《竜》は、どんな関係があるのだろう。そして、モモがシャッセを狙った理由。ディルワースの王族は、もはやシャッセしか残っていないのだ。特別な役割が、ディルワースの王族にあるとでも?
答えはどれも出せそうにない。
最後の手段として、カロンは封印用の調香術の準備に入った。
第6章へ続く

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