第5章|夜明け前を照らすランプ|残響|優しさの代償|夢から覚めた夢|野の百合の誓い|断章1|断章2|マスターより|
2.残響
シャッセの容態はあまりよいとはいえなかった。カミオ・フォルティゴが目撃した白昼劇以降も、眠り続けている
コルム・バルトローが戻ってこないことを知っても、フォリル・フェルナーはふん、と鼻を鳴らしただけであった。
「どうしようか、先生」
カミオがぽつねんとシャッセのそばに立ち、ソファのフォリルを見つめた。
「人手が足りないなら、お手伝いしようか? コルム先生のようにはいかないけど、お湯ぐらい使えるから」
「わたくしも、ですわ。発作をおさめる薬の調合ならば、すぐにでも」
妖精グリースボーナは、シャッセの身体に浮かんだ汗をぬぐっている。
「発作はおさまったようですね。よかった……」
「カミオ、猫を見たと言ったな?」
「うん、カロンさんだよ、あれは。ガッツポーズみたいなのしてたしねえ」
フォリルはソファに身を沈め、寝台のシャッセと、そこに現れた光、そして猫との関係について思いをめぐらせた。
「あの猫の従者、なんと言ったかな、彼女はいないのか? ああ、いないのか。残念だ、何かしら猫の変化に気づいているに違いないのだが。ではカミオ」
「はーい」
「どこかで行き倒れているはずの男を拾ってきてほしい。おそらく、彼はぼろ雑巾のようにくたびれて、もしかしたら裸かもしれない。ディルワースのような気候のなかに、そのような怪我人を置いておくことは私が許さない。近くで見つかるとよいのだが」
「了解! 集荷あんど配達だね。じゃあこの伝票にサインして……うん、それでオッケー。では、いってきま〜す!」
カミオはハンマーとかばんをいつものように装備すると、大事なサインをポケットにしまい、一礼して退出していった。フォリルが独り言のように呟いた。
「猫であれば、姫と同じ病室になど入れぬのだがな、人の姿ならば別だ。同じ部屋で診ることができれば、手間もかからない。あとは、うまく見つけられるかどうかだな……」
「どういうことですの?」
グリースボーナがきょとんとしたおももちで、カミオが出て行った扉を見やる。緑と柘榴の色をしたピアスが揺れてきらめいた。
「この件で知り合った輩は、みな私の患者だということだ。カロンとその従者を見ていて、何か気づかなかったかね」
グリースボーナはゆっくりと首をかしげたままだ。その様子に、珍しくフォリルは微笑する。
「気づかなかったならばいい。妖精族は、人とはまた違った目を持つのかもしれんからな。それとも貴女には、あの茶色の猫はちゃんと人間の姿に映っていたかね? まあ、そういうことだ」
「ここに集ったみなさんは……」
細い顎にそっと手をあてて、グリースボーナは出会った人間たちを思い起こす。
「みなさんそれぞれに、何かを必死に探しているような、そんな風に思えました。それを表に出す方も、出さずに人前では笑顔を絶やさぬ方も、いろいろ」
たとえば、ゴド。たとえば、リュカ。たとえば、レイス。
「貴女もそうなのだろう」
フォリルの目は冷徹だった。だが、グリースボーナは首を横に振る。
「いいえ。わたくしのは単なる憧憬、ですもの。みなさんからすれば遊びも同然でしょう」
それでもフォリルは、グリースボーナの赤黒い髪を見るにつけ、彼女が妖精社会で暮らしにくかっただろうことを考えてしまう。……これはコルムの影響だろうか。相手に深入りすることは、意識的に抑えてきたつもりだったのに。
「それで、なにか収穫はあったのかね」
「そうですわね……結論はまだ、先にとっておくことにいたしますわ」
グリースボーナはシャッセの横で、その燃えるような赤い髪を手櫛で梳いた。
さて。
残された私は、何をなすべきだろうか。シャッセの寝室には、しん、と静かな空気が満ちている。グリースボーナが温かいお茶をいれる音だけが、人の気配を示していた。呼吸ひとつもまるで音をたてない。静寂の中で、フォリルはひたすら思いに沈んでいた。静寂は、昔からフォリルの友である。昔の暮らしは捨てたはずだが、ちょっとした所作や息遣いなどが、フォリルを強制的にランドニクスへとつれ戻す。ときたま、笛の音や竪琴の音が聞こえてくるような、錯覚に陥ることがある。かつて手遊びにたしなんだ楽器。だが、私は一度自分を殺したのだ。もう手にとることはないだろう。
シドが見ているはずもないのだが。
自嘲、そして孤独。フォリルの行動は計算されて無駄がない。
待とう。獲物を待ちながらまどろむ蜘蛛のように。
フォリルは静かに長い足を組替えた。黒い長衣が床にすれる音。ふう、と息をつく。
シャッセを襲った相手は、きっともう一度、目的を果たしにくるはずだ。こちらから打ってはでない。闇雲に突撃するのではなく、相手の弱みと自分たちの強みを計算し尽くしてからだ。そして、それを見極めた後には……ためらわずにしとめるのだ。たとえ相手が誰であれ、シャッセは実際に傷ついた。相手を仕留める心臓への一撃に容赦があってはならない。
そのためには、自分が振るおうとしている暴力に自分が納得していなくてはいけない。もう一つ、必要とあれば、自分自身の命をも捨てうるほどの覚悟。
「お聞き及びでいらっしゃいますか? シャッセ姫の父親という方の話」
グリースボーナがささやいた。耳に心地よいアリア。すすめられたお茶のカップを手に取り、フォリルはうなずく。妖精は静かにフォリルの隣に腰を下ろした。
「ディルワースの正当な国王陛下だとか」
「だからかね、ボーペル殿が強硬に、自分を領主としていたのは。ボーペル殿を後釜にしたことからも、あまり好戦的な方ではなさそうだな」
カップに口をつける。林檎の甘酸っぱい芳香が広がった。先日の領主とのやりとりでは林檎酒をあおったものだが、たまにはアルコールなしもよいものだ、とフォリルは二口目をすする。
「内面や性格もシャッセ姫に似ているのなら、単に、武力や富貴目的で《竜》を呼び出すとは考えにくいな。真意が知りたいものだ……こんな話は、姫の部屋ではまずかったか」
健やかな寝息をたてるシャッセは、何も知らず眠りつづけている。
「ちょっとぉ、コルムせんせーい!」
廊下の向こうから甲高い声が叫んでいる。
「《まことの国》に行っちゃったってホントなのぉ!? ずるいわ、そんなの。わたしも連れて行ってほしかったのに〜っ」
声はずんずんと近づいてくる。フォリルはやれやれといった表情で、仕方なく扉を開けに行った。ヒマをもてあましたご婦人が、またぞろ遊びにきたらしい。
「コルムならまだ戻っていないが、何のようだね? 病室では静かにしなさいと、何度言わせる気だ」
「あらっ、ゴメンなさい」
ぺこり、とローズはお辞儀した。きょろきょろと寝室をのぞく。
「……何よー。シャッセ姫、まだ寝てるの? お寝坊さんだわねぇ」
「ローズさん、お茶いかがですか?」
「あら、林檎のお茶なのね。いただくわ。ねぇ、聞いてよ! みんなして《まことの国》に行くっていうの、ずるいったらないわ。……お茶うけ、持って来ればよかったわね」
むっつりと黙ったまま、フォリルはお茶を飲んでいる。
静かに罠をはろうと思っていたが、これでは敵が現れるかどうか。
「だからね、わたしも行こうと思ったのよ。シャッセと一緒にねっ。ね、いいでしょ先生」
「貴女はもう、行かれたはずじゃないかね?」
医師の言葉に、ローズはきょとんとしている。
「カミオが言っていたのだが、覚えてないのかね。この部屋で眠りこけていたときのことを」
「なあに、知らないわよ。カミオのほうが寝ぼけてたんじゃなくて? たしかにシャッセとふたりでディルワースの森の中を歩いていたことはあったけど……ああ、コルム先生が追っかけてきたのよ。すごい形相で」
くすくすと笑いながらお茶に口をつけたローズは、フォリルのきつい視線に気づいて目をあげた。
「姫は一歩もここを出ていない」
押し殺した低い声だった。
「それはディルワースの森じゃない。《まことの国》……貴女こそ、シャッセと同じように《まことの国》を行き来しているのだ。ローズ、他人事ではないぞ。貴女もまた、《狂乱病》にかかっているのだ」
ローズは大きな目を猫のように見開いている。フォリルはため息をついた。
「絶対安静、だ。覚えてないのだろう? 姫が大鎌に襲われたことも」
「覚えてるわ! コルム先生が爆弾を投げたのよ。《白馬の君》もいた。なかなかステキな方だったの。シャッセとお似合いで、ふたりともと〜ってもよく似ていたわ。カミオを探したけど、彼、カンジンなところでいないのよね。せっかく手紙を配達するチャンスだったのに。そう……それでね、カロンが現れたのよ。突然、シャッセを守るみたいにね。それで、やっつけたのよ!」
むっとしたローズは、立て板に水のごとくまくしたてた。
「……それが、《まことの国》だというんだ」
フォリルは体温計をローズに突き出した。病人がもうひとりくらい増えたところで、たいして変わらないとでもいうように。
「おかしいわよ。《まことの国》へは、魔法陣を通り抜けて行くんでしょう」
「普通の人間なら、な」
「わたしだって普通の人間だわ」
ぷう、と頬をふくらませるローズ。
「違う、貴女は病人だ。《狂乱病》の精神状態ならば行き来できるという《まことの国》とは、ディルワースの鏡のようなものかもしれん」
魔法陣は、精神を強制的に高揚させる効果があるのかもしれない、とフォリルは思った。それならば、《狂乱病》の根源とは、魔法陣なのか? 《竜の牙》を用いて描かれたという?
自問してフォリルは首をふった。《竜の牙》自体は瘴気を発するものではない。何かに悪しくゆがめられたのだ。
「たしかに……たしかに《狂乱病》は、ただの病気と違うって、わたしも思ってた。ベッドの上にずっと寝かせたままにしておいて、お薬を飲ませて、大事に大事に気を使ってあげて。それで次第に快方していく病気とはちょっと違う。夢とか呪いとか、そういうのに近いと思ってた。それで、そういうのを治すのは、お医者さまのやり方とは違うって。先生たちがキライでこんなこというんじゃないの。でも、ね。前はこれでコルム先生を怒らせちゃったけど。……謝りたかったのにな」
「コルムも同じようなことを洩らしていたぞ。今ごろ何をやっているやら」
フォリルは肩をすくめた。ローズとコルムは、意外にも似ている。似すぎていて、衝突してしまったのかもしれない。
「そうだ……ディルワースに起きているわたしがいるように、《白馬の君》も、ディルワースにいるのかしら」
「さぁな」
「だったら、シャッセも淋しくないわよね? ディルワースで《白馬の君》に会えるなら、こんな病気でいることないんだもん」
ローズは茶目っ気のある上目遣いでフォリルを見上げた。
「わたしも《まことの国》へ行くわ。今度は魔法陣から。ね、フォリル先生。それで《白馬の君》を探すの。それでシャッセが治ったら立場ナシね? 先生」
「勝手にしろ」
ローズは立ち上がって、カップをグリースボーナに返す。
「ええ、勝手にさせていただくわ! それじゃあ」
「これだけは覚えておくんだ、貴女も病人なんだと」
後姿に向かって叫んだフォリルのバリトンが、ローズに届いたかどうかは疑わしかった。
着替えにお弁当、そしてディルワースの林檎。大きなバスケットにつめこんで、ローズは魔法陣をくぐりぬけた。大きすぎる荷物と、不親切なまでに螺旋階段が続く鐘楼の造りに文句をいいながら。
そこは灰色の森だった。ディルワースのように陽光が溢れる緑の森ではなく、すべての色彩がじっとりと沈んでいるかのような、陰気な灰色。木々のひとつひとつ、葉のひとつひとつを見れば、緑の森のようなのに。この重苦しさはなんだろう、とローズはとたんに心細くなった。
「なんだか、似てるわ。『一枚の葉っぱ』」
修道院のシスターが繰り返し読んでくれた物語。その中に入ってしまったようだ。
「やあね。みんなどこにいるのかしら」
大切な人の顔を思い浮かべる。一番最初に浮かんだのはランディおじーちゃん、サンディさん。途端に気づく。彼らがもしいなくなったなら、自分はまたひとりぼっちなのだ。修道院の冷たい格子戸。シスターががらがらと戸を閉め、暖炉に火をともす。窓には明るい部屋がうつりこみ……けれどもそれは、彼女にとってはどこか淋しい光景だった。ローズはふるふると淋しい思い出を振り払った。
シャッセ姫はどこにいるんだろう。会って、その横面をはりとばそうかしら。ずるいんだもの、シャッセには、あんなに心配してくれる人がいる。コルム、フォリル、ボーペル、そして本当のお父さんまで。初恋だって実りそうだ。
どうしてなんだろう。どうしてわたしばかり、大切な人をなくしていくんだろう。
わたしがシャッセだったら、みんなに心配なんてかけない。わがままだって、あんまり言わないわ。いつもみんなと一緒にいて、《白馬の君》もお城に招待してあげる。そうね、友だちもいっぱい呼んで、毎日パーティー開いちゃうわ。
「もしそうだったら……」
じわり、とローズの瞳がうるむ。
もしそうだったら、『一枚の葉っぱ』なんて悲しい結末の物語を、あれほど繰り返し読むこともなかったに違いない。もしそうだったら。わたしがシャッセだったら。
そればかりを考えて、ひたすら足を動かしているうちに、灰色の彼方に出口らしき光を見つけた。寒い。居心地の悪さがローズの疲労をひどくしているようだった。
『……まぁよくいるのよね、こーいうの』
どこからか声が聞こえる。あと少しで外に出る、というところでローズはぴたりと足を止めた。
「なぁに、だぁれ?」
振り向いても、ただ混沌とした灰色の空間が広がっているばかりである。
「隠れてないで出てきなさいよ、わたしはちっとも悪くないんだから! 他人が羨ましいのは当然よ。神様じゃないもの、人間だもの。時々ちょっぴり意地悪思ったり、泣き虫になったりしたっていいでしょ?! 女の子はそれくらいの方が可愛いってランディおじーちゃんも言ってたんだから!」
と、持ち前の強気で叫ぶ。
『つまんなーい。他のえさ探そ』
「なによーっ!」
子どものようで妖艶な、奇妙な声は、ローズを相手にすることをやめてしまったと見える。
それきり声は聞こえなくなった。ローズは怒り心頭で、《まことの国》へと再び降り立った。
コルム・バルトローは、大きな黒鞄を手にしたまま《まことの国》でシャッセと対面していた。
王城からそんなに離れてないあたり。大きな林檎の木の元で、シャッセは《白馬の君》と楽しげに談笑していたのだ。
「お邪魔するぞ」
ちょっと気が引けたけれど、ここまできたのはシャッセのためだった、と思い直し、コルムはふたりの前に姿をあらわした。
「あれ、コルム先生じゃない。こんにちは」
あっけらかんと挨拶するシャッセは、寝室で苦しげに臥せっていたとは別人のように血色がよかった。
「……どうしたの、僕の顔に何かついてる?」
「いや。元気になったんだと思ってね。よかったよ。念のために薬も持ってきたのだが、不要だったな」
黒鞄を草の上に放り出し、コルムも二人の隣に腰をおろした。
「シャッセ、こちらの方は」
「ああ」
シャッセははにかみながら、青年に腕を回す。
「僕のね、大切な人」
《白馬の君》はコルムに微笑んだ。年はシャッセの少し上。白いシャツが赤い髪に映えている。
「医師のコルムです。よろしく。あなたは?」
右手を差し出し、コルムは青年の表情をうかがった。彼は、困ったように目を伏せている。名乗りはなく、手だけが握手をかわす。それをいぶかしんでいるコルムに、シャッセが言った。
「彼はね、名前がないんだって。だから、教えられないんだって」
「は? もしかして記憶喪失とか?」
青年は首を振る。
「違います。僕には名前が最初からなかったんですよ」
ぷつん、ぷつんと手遊びに草を折りながら、少し翳のある顔で青年が答えた。コルムはシャッセと青年を見比べる。
「でも君は、どう見てもシャッセの……その……」
「なんだよコルム、何がいいたいのさ。僕と彼がそっくり? そうかなあ」
けちをつけられたようで、シャッセは気分を害したらしい。むっとしながら横目でコルムを見た。コルムが口篭もった言葉を察したか、青年はそっとコルムにうなずいて見せた。
「じゃあ、僕はもう行くよ。コルムさん、シャッセをどうかよろしく。これまでもいろいろとお世話になったみたいだけど、本当にありがとう」
立ち上がった青年が、シャッセの頭をそっとなでる。
「え、もう行っちゃうの」
「お迎えがきただろう? 大丈夫、また会えるさ。この木の下で」
「……うん」
膨れ面のシャッセは、不承不承うなずいた。名残惜しげに青年の後姿を見送っている。
「ねぇシャッセ、彼とはこの木のところでいつも会うのか?」
「うん。ね、優しい人だったでしょ」
「んー……名前がない人なんて、いるのか? 教えてもらってないだけじゃないのか?」
膝を抱えて、コルムはシャッセの横顔を眺めた。似ている。間違いなく同じ血を持つふたり。
だが、シャッセに兄弟がいるという話は聞いたことがない。ディルワース人お得意の、忘れてた、ってやつか、それとも……。
幸せそうなシャッセの横で、コルムは自分の想像が嫌な方へと広がっていくのをとめることができず、一人苦い顔をしていたのだった。
第6章へ続く

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