第5章|夜明け前を照らすランプ|残響|優しさの代償|夢から覚めた夢|野の百合の誓い|断章1|断章2|マスターより|
断章2.花片の檻
それは、今はもう、覚えている人のいない物語。
あのときは、たしかに触れることができたのに。その温もりはどこにもないのだ。だからといって、その温もりが存在しなかったと言い得るだろうか。たしかに、そこにあったのに。手をのばせば、今もその温もりに触れることさえできそうなのに。
それは幻?
庭は、折々の花が咲き乱れていた。王侯貴族のためにしつらえられたその庭園を、そぞろ歩くふたりは、主の一人娘とその賓客という旅人の青年。木々の間から、沈みゆく太陽が最後の輝きを投げかけている。青年の長く伸びた影が、ゆっくりと前を歩く少女に重なり、離れ、また重なる。
「お見合いだと」
青年は耳を疑った。振り向いた少女を見る目が険しくなる。少女の立場なら、その意味するところは明確だった。彼女は駒なのだ。
「……ええ。今度の新月に。ご存じですか? ディルワースという国を」
金髪を結い上げ、色とりどりの花を編み込んだその少女は、絶えぬ微笑みを浮かべて青年の目を見つめた。青年の紫色の瞳は、すぐに逸らされた。
「聞いたことはある。《竜の通い路》という二つ名を持つ小国だ」
「ふふ、クーレル様はやはり物知りですね。私の周りの者はみな、そんな国なんて知らないと口々に言うんですもの。輿入れする身にもなってほしいですわ」
「ディルワースといえば《大吊り橋》の向こう、《大陸》の端だからな。雪も降るし、夏も短い」
「まあ、雪、ですか」
少女はゆっくりと、傍らの枝に手を伸ばした。秋咲きの薔薇が蕾をほころばせている。
「それは楽しみですわ、真っ白になるのでしょう?」
「何をのんきなことを。北の冬は厳しい。あなたが愛でているこの花たちは、きっと咲くこともできないだろうな」
「それは……困りましたわ」
少女は親しんできた庭の木々に別れをつげるように、ゆっくりと視線をめぐらした。そのおっとりとした所作を眺めていた青年クーレルは、自分が次に発した言葉に驚いた。
「魔法をかけてやろう。北の国でも花が咲くように。あなたが愛したこの庭園を、ディルワースでも愛することができるように」
「いいえ、クーレル様」
振り向いた少女の顔は、涙にゆがんでいた。いいえ、行きたくありません。遠い北国になど、ひとりでなんて行けません。どうしてわたしだけが、そんな目にあわねばならないのですか。お父様の決めたことに、どうして従わねばならないのですか。
「エシャンジュ」
「クーレル様、お願いです……強い魔法の力をお持ちなら、どうかお助けください」
青年は、掛ける言葉を無くしてただ少女の肩をそっと抱く。小さく震える温もり。髪に編み込まれた花の甘い香りが、クーレルをくすぐった。
「ご両親が決めたことだ。俺には口出しできん」
目を伏せて、クーレルは答えた。エシャンジュを助ける? 一介の魔法使いのこの俺が? 自分の素性も満足に知らず、力をもてあましているだけの俺に、何ができるというのだ?
だが。エシャンジュは、クーレルが想像したように彼をなじったりはしなかった。気丈にも涙をふいて、彼からそっと身を引いた。その顔は、もはや少女のそれではない、運命と向き合うことを選んだ女性の表情だった。
「礼を言います、クーレル様。いっとき夢を見せてくださってありがとうございました。そしてお詫びいたします。はしたなくも、貴方のお力にすがろうと考えたわたしを、笑ってください。貴方と過ごしたこの夏のことを、わたしは忘れません。それで、十分……ですわ」
にこ、とエシャンジュは微笑んだ。クーレルの心を押さえつけていた何かが、静かに崩れていった。ぐい、と少女の白いあごに手をかける。
「ディルワースに行く。必ず」
エシャンジュの頬に、涙が一筋伝い落ちた。
そして、彼女は目を閉じた。
これは、二心になるのでしょうか。いいえ、わたしは貴方を愛します。
そして、わたしが仕えるお方を敬い、かの方の助けとなるよう、勤めを果たします。
でもどうか、せめて夢の中でだけは。
大切な夏、秋がすぐそこまで来ていたあの夏の匂いを、思い出させてくださいませ。
END

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