2.レオの朝、ティアの朝
■Scene:さみしい衝動
ルシカ・コンラッドは、起き抜けのヴァレリ・エスコフィエを見やり、聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声で呟いた。
「もー。ヴァレちゃん。……なーんでレオ君のところに入り浸るかなあ」
寝ぼけ眼のヴァレリは、隣の寝台でこちらを見下ろしている少女にどうにか焦点をあわせる。
ああ、この子は帝国が嫌いなんだっけ。まだ眠っている頭でそんなことを思うヴァレリ。
「いいよ? 別にヴァレちゃんの好きにすればいいもん。あたしにヴァレちゃんがそういってくれたみたいにさ。けどね。レオ君……の、周りの人」
今朝はいやにルシカがつっかかってくる。浮き沈みが激しいのは彼女の常だということは知っていたけれど、何かあったのだろうか。ヴァレリは目をこすりながら立ち上がり、ルシカの寝台にどかりと腰を下ろした。
「レオの周りの人間? クラウディウスのことかい」
「……だけじゃなくて。だいたいあのへんの人たちって、パンディーちゃん、じゃなかったティアちゃんのこと、よく思ってないじゃない……っ!」
ルシカの語尾が奇妙に途切れたのは、いきなりヴァレリが彼女の腕を握ったからだった。激しい色彩が、ヴァレリの指先からルシカへと流れ込む。
「な、な、何するのいきなりっ」
(何って、別に理由はないけどさ)
面白そうだから。ヴァレリは口に出さずにルシカに伝えた。
「やめてよ、ヴァレちゃんたら。レヴ姫さまの真似しないでよ!」
(なんで? 面白いじゃないか)
確かに、面白かった。ルシカの腕をつかんだり放したりする度に、そこから快感が生まれてくる。
(便利だよ。あんたもやってみな、ホラ。髑髏持ってるんだろ?)
「やめてったら!」
ついにルシカは叫び声をあげた。胸元の旋律球が、不安げな音をでたらめに鳴らした。ヴァレリは不承不承でルシカの腕を放した。
「……つまんないの。あんたは興味ないのかい。その何とかいう楽団の歌を、この力で再現したらどうなるのか、とか」
「《クラード・エナージェイ》は、あの旋律と歌がイイの! ティトナはこんな力なんか使わなくっても、すごいんだから!」
「もっといいかもよ? だって、気持ちいいしさ」
ルシカはぷいとそっぽを向いた。《クラード》は《クラード》だ。ラールたち四人の出す音にティトナの声が乗ったとき、最高の音楽が生まれるのだ。ルシカの魂。ルシカの失ったもの。失ったけれど、彼らに再会できれば何度でも取り戻すことができるもの。
「みんな気持ちいいことが好き。あんたも、あたいも。みんな一緒じゃないか」
ヴァレリはかすかに意地悪な響きを混ぜて言った。
なるほど、こういう微調整はまだ色彩言語ではできない。もっと練習してみよう、などと彼女は思っている。
「あたしは気持ちいいから《クラード》の曲が好きなんじゃないもん」
初めて聞いたのは、親友からもらったチケットで出かけた演奏会。一曲目で、全身が震えた。前奏が始まった瞬間に、耳は《クラード》の音だけしか拾わなくなった……それは、気持ちいいとか、そういうことを超えていた。と、ルシカは思う。
《クラード》はもういない。彼らの音楽とともに、内乱で行方不明になってしまったから。
「……ヴァレちゃん、レオ君のことどう思う?」
ヴァレリはもう面倒くさくなったのか、ルシカの呟きには答えない。うつむき膝の上で拳を握り締めているルシカの横で、ぱたんと寝台にあおむけになった。いつの間にかナイフを弄んでいる。
「ねえ。ヴァレちゃん。何でレオ君にかまうの? あたしはやだよ。だって顔あわせておしゃべりして、そうしてふっとした弾みにひどいこといいそうだもん」
(……あんたが? それともレオが?)
一瞬ルシカが息を呑み、それでも話を蒸し返したのは自分だったから、おなじ色彩でヴァレリに答える。
(あたしが。いっちゃいけないことも。レオ君にいいそうなの。新帝、だって。なんて嫌な響きなんだろ)
ルシカのせりふに呼応するように、色彩もとろとろとヴァレリにまとわりつく。
新帝。それはただの肩書きで、特にこの《島》では何の意味も持たないはずのものだ。けれどルシカは許せない。あのランドニクス内乱がなければ、《クラード》は新しい曲をつくり、演奏会を開き、ルシカも足繁く通っていただろう。
(アンタルキダスがでてきたからって、内乱で死んだ人は帰ってこないもん。いなくなった人も見つからないもん)
とす。
風を切ったのは、ヴァレリの手元を離れたナイフ。向こう側の壁に刺さっている。
(で、あんたどーすんの。ティアの探してる奴を見つけて、自分の尋ね人も探してもらうの? それとも足りないもの同士傷でも舐めあってんの?)
ヴァレリ、ルシカの腕を放して立ち上がる。壁のナイフを乱暴に引っこ抜き、快感の残る掌に、冷たい刃をひたひたと押し当てている。
「ティアちゃんには話を聞くよ。いっぱい聞きたいことあるんだもん。《ルー》のこととか、《パンドラ》のこととか……」
掌の真ん中に赤い線が生まれた。痛くはない。面白くなって、ヴァレリはナイフの刃を力いっぱい握り締めた。赤い液体がするすると滴る様を見て、ルシカはまた悲鳴をあげた。ヴァレリの痛みはない。けれど、思ったほど快感も得られなかった。ルシカや姫君と会話しているときのほうが、より鮮烈でめくるめく高揚感に包まれていた。
「いや。やだ……ヴァレちゃん。やめて」
がくがくと膝を鳴らし、ルシカがうめいた。
ヴァレリはくすりと笑って、血に塗れたナイフをルシカの首に押し当てた。
(やめない)
ヴァレリがルシカに注ぎ込む色彩に、意地悪なところは含まれていない。元囚人は、心の底から楽しんでいる。
■Scene:2つの寝台
スティナとサヴィーリアの部屋は、旅人たちの中でおそらく一番朝が早い。
そして、ティアもこの部屋で寝起きをともにしている。スティナのたっての希望により、ティアはこの部屋で暮らすことになったのだ。
ジニアは眉をひそめただけで何もいわなかった。姫君たちも、姉姫ウィユのいつもの台詞――「それが汝の物語なら」を投げかけただけ。妹姫も、あの面白がっているようなまなざしで、ティアを見つめただけだった。当のティア本人は、姫君の前ではおどおどとして、うつむくばかりであった。
「サヴィさん〜」
「あら。その子が……ティアね?」
「はい〜」
スティナに連れて来られたティアを初めて見て、サヴィーリアは意外に思ったのだった。
普通の子。そして同じまろうど。とてもジニアが毒を盛るような相手でない……もっともサヴィーリアは獣や鳥の姿をとっていた《パンドラ》に会ったことがないから、一概にはいえないかもしれないが。
あのときジニアはなんといったか。
――苦痛にのたうちまわりながら、緩慢に死を与えるようなのがいいわ。そうすればそれだけ長く、《パンドラ》は楽しむでしょう。姫さまたちも楽しむわ――……。サヴィーリアはかぶりを振って、ジニアの台詞を追い出した。
「はじめまして。サヴィーリア=クローチェです。よろしくね」
猫のような飾り尾をふわふわと揺らしながら、錬金術師は微笑んだ。
「あ、あの……ごめんなさい」
わずかに頬を上気させ、ティアはスティナとサヴィーリアをかわるがわる見やる。
「どうしたのですか〜? ティアさん。サヴィさんは、とても優しいお姉さんですよ〜」
身をかがめティアの顔を覗き込むスティナ。片翼が軋んだ音を立てた。サヴィーリアも心配そうな表情を浮かべる。
「わ、わたし。だって。お邪魔だわ」
「サヴィさんは、ティアさんに会いたがってらしたんですよ〜。それに、ほら」
スティナの足元にいた子犬が、たたっと寝台に駆け上った。スティナとサヴィーリアの寝台がぴったりと並べられ、敷布を重ねてある。真ん中で子犬のケイオスが丸くなった。
「ティアさんと、サヴィさんと、一緒に寝られるようにお部屋の模様替えもしたんですよ〜」
スティナが胸を張る。
「え。い、一緒に寝る……」
ティアの口調は、嫌がっているのではなく、戸惑っているそれだった。
「もちろんです〜」
「ケイオスくんが一番いいところをとったわね」
「ケイオス、真ん中はティアさんの場所ですよ〜。あ、でもですね。ケイオスと一緒だととってもあったかいんですよ〜」
召喚師がにこにこと語る。サヴィーリアも、朝になるといつの間にか自分と一緒の毛布にくるまっているスティナの姿を思い出し、思わず笑う。
「なんだか、今から寝るのが楽しみだわ」
「ああっ、だめですサヴィさん〜。せっかく、朝ごはんをつくったんですから〜」
「あ、あさごはん……」
そうですよ。ティアの肩をそっと抱き、準備万端整っている朝食の席へといざなうスティナだ。
「サヴィさんと一緒につくったんです。ぜひ、ティアさんに召し上がってほしくって」
寝台を飛び降りたケイオスが、ふたりの後についていく。さらにその後を追うサヴィーリア。スティナを見ていると、彼女の持つ深い慈愛が、まるで聖女のように感じられた。
彼女は自分を優しいお姉さんと評してくれてたけれど、姉がいたらこんな感じなのだろうか、とサヴィーリアは思っている。スコットが弟っぽいとしたら、スティナは姉の雰囲気を持っているのだ。
「そうそう。ティアさんに聞いておかなきゃいけないことがあったんです〜」
「ど、どんなこと……?」
途切れ途切れにティアが問い返す。少しその身がおびえている。
「スコーンと〜、マドレ〜ヌ」
「……?」
「おやつは、どっちがお好みですか?」
「え、っと……」
優しい姉の連れてきた、かわいそうな旅人ティア。いったいどんな子なのだろう? それにしても自分を警戒して嫌がったのではなくて、本当によかった……。
錬金術師の興味は、尽きない。
■Scene:目に見えぬ光
アレク・テネーブルは、レオの部屋に相変わらず詰めている。雇い主は、無法者だか誰かと別室で相談中だ。もっともクラウディウスがいてもいなくても、アレクの仕事ぶりにそれほど変わりはない。
最近アレクの心を占めているのは、何とかしてレオとティアを会わせることができないだろうか、ということだった。
レオのほうは進んで会うつもりはないらしいから、ティアを連れてくるか、それとも……。
あれこれ考えていたアレクは、ふと違和感に気づいてまたたいた。
「……ん?」
両手を伸ばし、身をほぐす振りをしてあたりに気を配る。
窓の外では、ロザリアが剣術訓練を行っているのが見えた。
レオは寝台に腰掛けて足をぶらぶらさせている。手指をぐるぐると回したりするのは、最近レオがよくやっている仕草だった。少年の体力はほぼ回復していた。この部屋にこもりきりでは、さぞかし身体もなまるだろう、などとアレクは思った。目が見えないというのはなんとも不便だ、とも思う。
もういちど、窓際に目をやる。かすかに窓が開いていた。開けた覚えはなかった。
「……レ、オ、さま?」
かすかに。誰かがささやいている。しかし姿は見えない。アレクは眉をひそめた。魔法の心得はない。術を使う相手は、間者をつとめていたときから苦手だった。
かわりにアレクは、レオの様子を観察した。
声に応えるように、かすかに少年は首をめぐらせた。わずかに唇を動かし、数言ささやき返したらしい。
それきり、ささやきかけた何者かの気配は消えてしまったのだった。
「ま、いっか」
雇い主が戻ってきたら報告しよう。そう決めて、アレクはまた策をめぐらせるのだった。
はっきりとはわからなかったけれど、レオは「かまわないで」とささやいていたように見えたからである。
魔法のめくらましで姿を隠していたポリーナ・ポリンは、レオの部屋を退きながら考えた。
少年は目を治すことなど望んでいないのだ。
争いの匂いが強くたちこめるレオの周囲の人々を嫌っていたものの、レオ自身に対しては興味を持っているポリーナである。彼女はその魔法の力を、レオの目を癒すために用いようと思っていた……彼がそう望んだならば。
レオは嫌いではない。むしろ、友だちになりたいと思っている。
だが。自分のことを否定されたような気がして、ポリーナは少し落ち込むのだった。
(――許されたいのなら我らが許しましょう)
妹姫レヴルの色彩言語がよみがえる。
(かりそめの母。おまえの中の憎しみも、否定も、呪わしく思っているすべてを受け止めて、変わりたいのですか?)
ポリーナの頭上には、自ら選んだ小さなティアラが載せられている。
「でも、レヴルさま?」
人気のない通路で、ポリーナはひとり呟いた。
「私はやっぱり、私が許せないのです」
レオを癒せば、レオに感謝してもらえると思ったの?
姫君に尋ねれば、姫君に認めてもらえると思ったの?
「人は皆、望まれて生まれてくる。それを知っているのにどうして私は……人を傷つけてしまうんでしょう?」
ポリーナの手に穿たれた髑髏の刻印が、応えるようにざわざわとうごめいている。
■Scene:木漏れ日、光と影の交じる場所(1)
歌姫リモーネがその部屋を訪れたのは、住人の生活にあわせた時間帯だった。つまり、太陽が輝いている時間である。
《パンドラ》ならぬティアに会ってみたかった。ええ、そうなの。だって、鳥になったり獣になったり、ひいては人間に変わるなんて、それはいったいどんな存在なのかしら……。
スティナたちの部屋はすぐにわかる。おいしそうな香りが、通路にも漂っているのだから。
「いい香り」
歌うように呟いた。それとも、呟くように歌ったのだろうか。薄紗をくすぐる焼きたてのマドレーヌの香りを、リモーネは、胸いっぱいに吸い込んだ。
その部屋の扉をノックするには、時間が必要だった。ためらい。お日さまの香りのする人々。談笑。扉を開ければ、彼女たちは快く招いてくれるに違いない。
《パンドラ》ならぬティアに会ってみたかった。……本当に、それだけなのかしら、私。
逡巡は実際にはとても短かった。
歌姫は扉をノックした。
「リモーネさん。起こしてしまったかしら? ごめんなさいね」
サヴィーリアが柔らかな口調で彼女にわびた。リモーネは違うのだ、といいながら部屋の中に視線をさまよわせた。
スティナとロミオ、エルリック。それに黒毛の子犬。もうひとり、豊かな金髪の、レオによく似ている少女がいる。ロミオやエルリックもリモーネと同じく、ティアに会いに来たのだった。
ロミオはお土産がわりに、《島》に咲いている花など摘んでティアに渡したところである。野の花たちは、ティアの手の中で大事そうに握り締められていた。
エルリックという男性が同席していることに気づくとリモーネは、はっと顔を背けた。薄紗越しとはいえ、このように明るい場所で対峙するのはやはり得手ではなかった。
エルリックが立ち上がり、リモーネの分のお茶を注いだ。慣れた手つきだった。リモーネの内心などまったく意に介さず、笑顔でカップを差し出されては、リモーネもうつむきながら受け取るしかなかった。
「焼きたてですよ〜。よろしかったら、いかがですか?」
次々に旅人たちがやってくるのが、スティナは楽しくてならない。
「いただきますわ」
リモーネが答えるやいなや、手作りのお菓子類がたっぷり載った大皿が差し出される。
マドレーヌ。タルト。手作りのジャムを塗ったクッキー。どれから手にしようか迷うほどだ。
「ティアさんも、遠慮なく召し上がってくださいね〜」
「え。あ……ええ」
リモーネの伸ばした指の隣で、ティアの細く骨がちな手が小さなクッキーをつまんだ。
「とっても、おいしいのです。僕のせんせいのつくるお菓子もおいしいですけど、これも、とっても、おいしいのです」
「……本当ね」
一口口に入れて、リモーネは心からそう思った。
「なんておいしいお菓子」
たとえるならば、まっすぐな味。お日さまと森の隠し味は、彼女たちでなければ混ぜることができないのだろう。リモーネは、ふと、これほど素直においしさを表現したのはいつ以来だろうかと考えた――楽屋とは名ばかりの粗末な部屋、外した装身具を置いておく鏡台、馴染みの客からの花束と甘菓子の箱。
くらくらした。お日さまと森と、焼きたてのマドレーヌの香りに包まれるとは、こういうことなのだ、と思った。強い光を浴びたような眩しさを、リモーネはマドレーヌとともに味わったのだった。
「今日のお菓子は、火の精霊サラマンダーが頑張ってくれたんですよ〜」
「へえ。サラマンダーか」
「ぼ、ぼくも火の精霊、呼べるようになるですか」
大きな帽子の下から見上げるように、ロミオが尋ねた。
「なりますよ。サラマンダーが好きなのは、激しい踊りや情熱、なんですよ〜」
「精霊の火なんて楽しそうだわ。今度、私の調合にも力を貸してくれるかしら?」
「もちろんです〜。サヴィさんのお薬のお役にたてるなんて、うれしいです〜」
「ああ。そうだったわね、スティナからも頼まれていたのだったわ」
「《パンドラ》が傷ついているように見えたものですから〜。ティアさんは、痛いところは、ありませんか〜?」
その名を呼ばれるたびに、ティアはびくりと身をすくめるようなそぶりをする。その都度、傍らの黒犬がたしなめるように鼻先を近づけるのだ。
「あ……あの。だい、じょうぶ……」
ためらいがちなティアの声。かぼそく、しぼりだすような口調だ。
リモーネはそっとティアの様子を伺った。スティナと子犬の間にちょこんと座っている姿は、これまで《島》でともに過ごしたまろうどに比べて、とても弱々しく見えた。たとえばロミオのように。まるで庇護される対象といった雰囲気である。
リモーネが輪に加わっても、何事もなく一同の話題はつづいていく。他愛のない雑談は、女の子同士ならばいくつになっても変わらぬものなのだ。エルリックも妙に場を和ませる雰囲気をまとっていて、はじめは鼻白んでいた歌姫もいつの間にか彼と気負いなく話せていることに気づく。
スティナとサヴィーリアは同い年、リモーネは彼女たちとひとつしか変わらない。この輪の中では、スティナやサヴィーリアと同じように、驚いたり笑ったりできるような錯覚をも味わうリモーネである。
■Scene:木漏れ日、光と影の交じる場所(2)
ルシカが蒼白になって現れたときは、さすがに彼女たちは驚いた。
彼女は身体のあちこちに、血の色の染みをつくっていたのだ。ティアはぎゅっと目をつぶり顔をそむけている。サヴィーリアが手際よく、手持ちの薬を差し出した。いつも元気のいいルシカが、こんなに萎れているのは何だかいっそう痛々しく思えた。
その姿を見てエルリックが最初に思い浮かべたのは、《パンドラ》に襲いかかったレシアのことだった。ティアのことは変わらず心配だったが、スティナたちの部屋にいれば少なくとも複数人がついているわけだから安心だと、そう思っていたが……。
「これ、切り傷だわ」
「……痛いんじゃないの。でも気持ち悪い」
「ルシカさん、一体何があったんです?」
「よく、わかんない。何だかヴァレちゃん変わっちゃった」
「ヴァレリさんが?」
こくり。ルシカはうなずくと、マドレーヌをひょいとつまんで口に入れた。
「……おいしー。ね、これ誰が焼いたの? スーちゃん? わーすごーい!」
「食欲があるなら大丈夫だとは思うけれど」
応急的に血止めを施しながら、サヴィーリアは首をかしげた。
「どうしてヴァレリさんがそんな乱暴なことを……」
「ティアちゃんに話を聞きたいっていったら、突然」
肩をすくめるルシカ。落ち込んでいたものの、割ともう浮上したらしい。
「あ。ってことで、ティアちゃん! あたし的にティーちゃんかな! ティーちゃんって呼ぶね、いいよね?」
ロミオの影に隠れるようにして、ティアがおどおどとルシカを見つめる。ロミオはロミオで、自分の後ろに隠れるような人に会ったのははじめてだ、なんてことを考えている。
「あーリモちゃん。だいじょぶだったの? お姫さまたち、なんかすごいでしょ? ヴァレちゃんもね、お姫さまのあのちから。あの、触れると色が出てくる奴。あれをもう使いこなしてんの。でもあたし実はあんまりあれ好きじゃないんだー」
一息でそれだけしゃべりまくると、ルシカは二つ目のマドレーヌに手を伸ばした。
「はい、これでおしまい。傷はそんな深くないから、すぐ治ると思うわ」
「ありがと、サヴィちゃん」
「……ヴァレリ様の行動は、少しだけわかるような気もしますわ」
そっとリモーネがささやくと、サヴィーリアは眉をひそめた。
「どういうこと?」
「ヴァレリ様はきっと、とても素直なのですわ」
薄紗越しのリモーネの顔を見つめ、軽くうなずくサヴィーリア。なるほど、彼女は試してみたかったのだ。この《島》で手に入れたばかりの力を。ただその方向が少し危なっかしい。
「あのう、ティアさん」
ロミオが声をかけると、隠れていたティアが面をあげた。
「は、はい……」
「ティアさんは、どうしてルーさんに会いたいのです?」
「僕も、知りたいな」
エルリックはじっとティアを見つめた。その問いはきっと、この部屋にいる全員の疑問だろうな、と思う。常に携帯している筆記具を出すべきか迷ったが、結局ペンを持った。
「そうそうそうそう! それ聞きたかったの、あたしも」
ルシカはもうすっかりいつものルシカである。
「この前はそういう話をしかけたところで、あの絵? 『半分』ってやつ。あれを見てティーちゃん、変身しちゃったから」
「ルーさんって、こいびとさんです?」
ティアの顔がはっきりと強張った。
(約束の場所に来たのに……パンドラ。願いがかなう場所。あなたが教えてくれたのよ。逃げるならここしかないと)
あの時、鳥だった《パンドラ》はそういった。ルシカはぎゅっと唇を噛んだ。なんだかかわいそうな話になる気がしていた。
■Scene:ティアの記憶
「ルーは。
わたしの、とてもたいせつな人。
そう。……恋人、でした。
戦士。ちょっと違うかも。戦いの中に、身をおいていた人、なの。
代々伝わる白剣を帯びていた。
ふたりで会っているときも、剣を手放すことはないの。戦士、でしょう?
ルーは、わたしを守ってくれていたわ。どんなものからも。
だってルーはとってもつよいの。剣をかるがると振るうのよ。
ルーの戦いは、だからルーが終わらせる、はずだったの……もちろん、勝利で。
でも戦いは終わらなかった。
ルーはとってもつよかったけれど、そのすぐそばに、敵が、いたから。
紫の紫陽花の紋を帯びたひとびと。裏切った騎士。
血に染まる玉座――」
ティアは両手を口元にあて、嗚咽した。
「じゃあルーは……っていうか、ルーってもしかして……」
ルシカの眉根が、険しく歪む。
「《クラード》みたいに、内乱で離れ離れになっちゃったってこと!? そ、そんなの駄目だよ! 可哀想すぎるよ!」
「……玉座」
聞きとがめたのはサヴィーリアだ。ルシカは気づいているのだろうか。その可能性に。オルゴール職人を見れば、応急処置の薬がはがれるほどの勢いで、愛する人と離れる苦しみについて語っているところである。
「あぶないことがあった日に、離れ離れになっちゃったですか」
「……ルーは生きているわ。きっと。あんなに強かったのに、あの剣も持っていたのに、負けるはずがないもの……」
スティナは黙りこくっていた。
夢で見た記憶が、彼らの――ルーとティアの逢瀬の記憶ならば。あなたの分まであなたを愛する女。鳥の姿をした《パンドラ》は、そういっていた。
強い思い、白き剣。その強さがティアを求めたのだろうか。
スティナの思考は定まらず、流れ続ける。いつの間にか、まだ見ぬルーが、失った兄ラスディアの姿をとって脳裏に描かれている。失ったひと。スティナの罪。そのことを考えると、激流の濁音が心の痛みとなってスティナを襲うのだ。
「ルーさんの剣も、どくろですか?」
ロミオの問いに、ティアはぱちくりと瞬きした。
「髑髏?」
「はい。ティアさんも、どくろのマントしてました。ですから、どくろの剣も知ってるかな、知らないかな、とか思ったのです」
ルーの剣は、聖地に隠遁していた叔母からの贈り物なのだとティアは答えた。ルーはそれを死の剣と呼んでいたという。そんな名前だから、髑髏の絵も描いてあったかもしれない、などとティアは不確かに答えた。
「魔法の剣、みたいです。かっこいいです」
「そ、そうなのかもしれないわ。剣を手にして戦うルー、魔法みたいに強いって聞いたことがあるもの。うん。わたしもルーも、ほんとは魔法なんて使えないんだけど。ルーの戦いを見たのは……あの日。ルーは、追い詰められていたの。玉座の前で襲われて……」
ティアは身を震わせた。リモーネは遠くの世界の出来事のようにティアの話を聞いている。
「ティーちゃんもその場に居合わせたの? 襲われたときに?」
「いたわ。ルーと一緒に。戦いを終わらせて、ふたりで遠くへ行く約束をしていたの」
その約束の場所が《パンドラ》。ルーのいう、秘密の場所。
定められた道を行き、潮の流れに乗れば、海の彼方の誰も知らぬ島に通じているという。
そこには《満月の塔》があり、願いを叶えることができるのだとルーはいっていた。何の魔法も持たぬふたりは、そこに行き願いを叶えるしか、方法はなかったのだ。
「ルーはどうやって《パンドラ》や《満月の塔》の場所を知ったのかしら」
サヴィーリアが疑問を口にした瞬間、ルシカの胸元で旋律球がでたらめに鳴った。
「嘘」
ひきつったようなルシカの声。
「ランドニクスの皇帝は、《満月の塔》を探していたんでしょ? ティーちゃん! ルーってもしかして、アンタル」
「知らないわ!」
ティアも、悲鳴に近い声をあげた。
「知らない。ランドニクスなんて知らない。関係ない。ふたりの間では、何も!」
だがその言葉そのものが、ルシカの問いに対する答えであった。
ルー。
ランドニクス新帝、ルーン統一王、アンタルキダス。
「嘘。嘘。嘘」
ルシカは否定し続ける。
「違うよね? ティーちゃん、新帝なんて関係ないよね……」
リモーネは子犬ケイオスの毛並みに指を滑らせている。赤い目の子犬は、賢そうなまなざしで歌姫を見つめている。
「玉座っていったら、ランドニクスじゃないかもしれないよ?」
エルリックは新しいお茶の葉を準備している。
「アンタルキダス新帝陛下が《大陸》の統一を宣言しようとしたのは、聖地アストラだとかって、誰か、いってなかったっけ?」
それともペルガモンの役所で耳にしたのだったか。
ランドニクスの名前が出るたびに、ティアはいやいやをするように首を振った。
「会えば、はっきりするんじゃないのかな?」
いれたてのお茶の香気とともに、エルリックは屈託のない笑みを浮かべる。
「あ、会えば……?」
目に涙をためて、ティアはエルリックを見つめた。
「会えば……」
「うん」
「ルーは、もういちど、わたしを殺してくれるの……?」
■Scene:首輪
ヴィクトール・シュヴァルツェンベルクはクラウディウスから副官に任ぜられ、彼の命令に従う立場にある。
とはいうものの、先日の拷問の件以降、ふたりの関係はさらに複雑になっていた。クラウディウスは、まともにヴィクトールの前に立とうとはしなかった。
「小娘みたいだな」
クラウディウスに会うなり、意地悪くヴィクトールが笑う。
「報告があるというから、時間をとったのだ」
クラウディウスはそっけなく返事する。
「卿は気まずいという言葉は知らぬのか? まったく」
以前よりも椅子の位置が遠い。心なしか身体もヴィクトールから離れるようにしている。
鋭く気づいたヴィクトールはそれをからかったのだが、口調とは裏腹に、ヴィクトールのほうでもクラウディウスの立場や内面といったものを慮るようになってはいる。なりゆきとはいえ副官になってしまったことも、影響しているらしい。もっとも、それをあっさり面に出すヴィクトールではないのだが。
彼が白い剣を手なずけたことを告げるなり、クラウディウスは跳ねるように立ち上がった。ヴィクトールの瞳を覗き込む顔つきは真剣である。
「体調に変化は? 痛みや不快感などはないのか?」
「……これといって」
クラウディウスの態度に面食らうヴィクトール。その身を心配されることなど、露ほども考えていなかったのである。これまでヴィクトールの身を案じる者などいなかった。肉親と決別したときからすでにそうだったから、自分でもそのように振舞ってきた。
そのように。獣のように。
「あまり無茶をするな。取り返しのつかないことになる可能性もないわけではなかっただろう」
ヴィクトールの答えに嘘がないと知るや、クラウディウスは大きく安堵の息をついた。
「何だ、殺すつもりじゃなかったのか?」
すぐににやりと笑いかえしたヴィクトールは、返す刀で切るように、寄せられたクラウディウスの頬にそっと手を添えた。
瞬間、例の快感が肌を刺す。クラウディウスはむっとした表情で再び身を離した。
「見事だった。私には思いつきもしなかった」
頬をかばうように立ち、それでも言葉少なにクラウディウスはヴィクトールを褒める。
「鳥に食われちまおうなんて、俺はごめんだからな」
「それでこそ我が副官だ」
ヴィクトールはぴくりと眉を動かした。
「前の副官に卿が似ていると思ったこともあった。何処が似ていることやらと、自分でも納得いかなかったのだが、ようやく合点がいった。この点だったのだな。アルヴィーゼも柔軟な考え方をする男だった。卿もアルヴィーゼも、私より数段上だ」
クラウディウスは饒舌だった。だからヴィクトールは不機嫌になった。
「報告は終わりだ」
「まだ私の命令が残っている」
「何だ? 夜伽をしてほしいとか言い出すんじゃないだろうな」
一瞬言葉を詰まらせたクラウディウスだが、ひたとヴィクトールをにらみ返し、威厳をもって彼に命じた。
「卿は私の副官だ。くれぐれも無茶をするな」
「あんたほどじゃないつもりだが。言われずとも分かっている」
それだけいうとヴィクトールは背を向けた。
私の副官だと?
レオのことは私の新帝陛下、ときやがる。私的なものは何も持たぬくせに、言葉だけは縛るのか。机上に見えた小さなオルゴールと、その下の手紙を思い出し、ヴィクトールは舌打ちしながら滞在者本部へと向かった。
■Scene:夜目に見る光
ヴィクトールとクラウディウスがそんな会話を交わしている頃。
アレクは不満げだ。
彼は、レオが自分のことを知るのは当然だと思っていた。
クラウディウスの真意もわからない。
新帝の記憶を取り戻すのが彼の役目ではないのか。そのためにさんざん苦労してきたのではないのか。
きっとレオもそう思っているのだろう。そう思うと溜飲は下がるが、アレクとしては問題でもある。
自分はどうすればいいのだろう。最初に手に触れたマントを飾りに選ぶような子どもをどうこう、というのではなく……。
ヴィクトールも気がかりだった。狂犬を名乗るだけあって、さらに白い剣という武器を手に入れたとあっては、何をしでかすかわからない。止めたくもない。
「記憶をなくしてる自分自身のことを知りたくはないのか」
そう尋ねたこともある。レオの返事は決まって「別に」と素っ気ない。
「だって、ヴィクトールもいろいろ言うけど」
レオはわずかに口を尖らせて言ったのだ。
「アレクは知りたいと思うの? 自分の知らないことを。見せられたものが間違ってたらどうするのさ。僕、それだったら見ないほうがいいと思う」
「うーん」
腕を組むアレク。
「でもつまんないだろう? 変な疑いは持たれるわ、勝手に陛下だっていわれるわ。どれもこれも身に覚えがなくって、嫌になるだろ」
「……ヴァレリに迫られるほうが困るよ」
「あー」
ヴァレリのあれは、レオを新帝扱いしているわけではないだけに厄介だ。アレクは嘆息した。
その、ヴァレリは。
レオの周囲の人影が少なくなる頃合いを見計らい、ヴァレリはやってくる。
人影が少ないとはいっても、アレクは側についているのだが、ヴァレリをつかまえておけと命じられているわけではない。ああまた来たのか、と顔をあげるだけで、その行動を咎めもしないのだった。
それはそれで、ヴァレリは不満だ。どうせならがちがちに警戒されていたら面白かったのに。レオの前で誰かに門前払いされようものなら、放火して隙を作ろうとまで考えていたのに。
残念だ。こんなにあっさりレオに会えるなんて。
「また来たの。何度やっても無駄だったら」
レオはヴァレリの気配を感じたのか、半ばうんざりしたような声をあげた。
「何度だって来るさ。決着つけようよ、あたいとあんたとの」
「決着? そんなのないよ!」
ヴァレリにしてみれば、これはレオとの戦いであるらしい。強引にレオとの距離を縮めて、その結果、理解を得ることができるかどうか。あるいは、拒絶されるのかどうか。
「理解? それって大事なの?」
(ホラ、そういう台詞がでてくるってことがもう駄目じゃないさ)
ヴァレリはおもむろにレオの肩をつかむ。ハリネズミのマントに林立している棘が数本、ヴァレリの掌、傷口に刺さる。ぞくぞくする高揚感を、ヴァレリは舌なめずりせんばかりに味わった。
「おい、あんた怪我してるみたいだけど」
(大丈夫)
「うわ! 何すんだよ」
アレクがぎゅっと目をつぶった。しかし目を閉じても耳は閉じられぬのと同様、ヴァレリと触れているところから、彼女の思考が勝手に流れ込んでくる。
(姫さまたちの力。便利だろ? 痛くもないしさ)
ぞくり。アレクは背筋を震わせた。
「や……やめてってば、ヴァレリさん。気持ちよくなんかないよ! 変だよ、何だか」
(そう? 変なのがだんだん気持ちよくなったりするモンだけどさ)
「子どもに何いってんだ、ヴァレリ」
(子どもじゃないよねえ、レオ? もうりっぱな大人だろ。15ったら、いろんなことを考えるだろ。大人ばっかりが難しいこと考えているわけじゃないだろう)
「うー。それはそうだけど。ともかく、この力、やめろったら」
煩悶するアレクに、ヴァレリはいやだね、とありったけの力で色彩を流し込む。
(あうあああ、何なんだよ、もう)
いつの間にか、ヴァレリと同じ方法で会話を続けているアレクである。
ヴァレリとアレクは、ある意味で対照的であった。
アレクはあまり他人の事情に首を突っ込まない。間者として生きてきたからだけではなく、元々深く立ち入ることを好まない性格だともいえる。自分の話もしないかわりに、相手の話もそれなりに聞いている。そういうところがアレクにはある。
ヴァレリはヴァレリでひねくれ者だ。興味を持った相手くらいにしか関心を持たず、他の人々について詮索することはあまりない。むしろ、一定の線を越えそうになると身を引いているところもある。逆に、興味を持った相手には理解を示してもらいたくなる。レオのように、ヴァレリの側が興味を抱いているのに頑なに距離をおこうとされたり、是とも非ともとれぬ関係が続いている場合。たとえ相手が嫌がっても、自分を理解してもらおうとするのである。例えば、無理矢理に自分の記憶を流し込む、といった方法で。
(見えるかい、レオ? あたいの昔話さ)
姫君たちがやってみせたのと同じ方法で、ヴァレリは自分の記憶を色彩にして流したのだ。彼女に触れていたアレクとレオは、等しくそれを受け止めた。
(あんたは言ったね? 僕は幸せになれないって?)
冗談じゃない、と断じるヴァレリ。
(それに何? 影で誰かが不幸になるとか、あんたが何かを選ぶたびに誰かが泣いてるとか……それって、あんた自身となんか関係あんのかい?)
(おいヴァレリ、あんた……)
(アレクは黙ってな。あたいはレオの意見が聞きたいんだ。あんたが何を考えてんのか、知りたいんだ)
「ま……待って。だって僕。僕が何かを選べば……僕は、選べない。レオとして選べばいいの? それともクラウディウスが言うように……」
レオは灰色に濁った瞳を見開き、宙を見つめている。その仕草にヴァレリは満足した。指先からは自分の記憶を送り続けている。
(いいじゃないのさ。あんたが選べばそれで。肩書きといっしょに生きてくわけじゃないんだからさ)
地方都市。裕福な商家。不自由のない暮らし。進学と、交友関係の変化。回り続ける万華鏡のように、ヴァレリの記憶の光景が幻影の一枚絵となりめまぐるしく変わってゆく。盗賊団。捕縛。男たちとの出会い。牢獄。
(あんた、こんな生活してたのか? 子どもまで……)
アレクに見せたつもりはない。ヴァレリは間者の感想には返事をしない。
子どもがいて、会いたいと思っている。願いを叶えてもらえるなら、子どもと父親の消息が知りたい、とも思う。けれどその願いは今は2番目だ。最初に理想郷の実現を願ってみたら、噂の毀れた神さまとやらはどれだけ困ることだろう?
「ヴァレリの力、どうやって? こんなことできるの?」
(あたいもカラクリはよく知らない。でもやってみなよ。こうやって念じるのさ)
ヴァレリは小さく唇を舐めて、レオの肩を抱く。つかんだレオの手に髑髏の刻印が見える。
「……ううっ」
アレクとヴァレリはともに、見た。あるいは味わった。
色彩の奔流に、レオの記憶が一瞬だけ混じったのを。触れ合う快感の中、顔をしかめるレオ。
暗い迷路を手探りで進んでいる。鼓動が激しく、足取りも速い。真の暗闇。
場面が変わる。
高い天井。弓なりのアーチ。彫刻の柱。色硝子の絵窓。
暗い広間。揺らめく蝋燭の灯り。
血まみれの玉座。その前で抱き合うふたりの輪郭。
「やめろっ! 入ってくるな!」
レオが意外な力でヴァレリをはね飛ばした。マントにくるまり、ごろごろと寝台を転がり落ちて膝をつく。ヴァレリはしなやかに受け身をとりつつも、きっとレオをにらむ。
「何だよ、あんたが見せたんじゃないか。あんたもあたいを拒絶するのかい? ああわかったとも。二度と来やしないからね。邪魔したね」
吐き捨てながらヴァレリは立ち上がり、レオの代わりにアレクに蹴りをお見舞いすると部屋を出ていった。
「いった……くない」
蹴りを食らったアレクも、ヴァレリの出ていった扉とうずくまったままのレオを見つめ、なんだかなあ、と呟く。
「あれで子持ち」
痛みのないこの《島》で、たがを外した旅人がこれから次々に現れるかもしれない。
レオはまだそんな振る舞いを見せないけれども、これは早めにティアと会わせるべきではないか。アレクは考える。
今なら……機会はある。クラウディウスとヴィクトールは、別のことに気をとられているようだから。
鏡と半分。
向かい合わせにして、映るものは何だろう。
5.処刑と断罪 へ続く
1.運命の縦糸|2.レオの朝、ティアの朝|3.姫ならぬ者|4.勝利と破壊の御名の下|5.処刑と断罪|6.墜ちた月|7.鏡と半分|マスターより