6.墜ちた月
■Scene:珊瑚の原
ヴァッツが空から見た《島》は、真の円を描いている。
潮が引き、これまで海に没していたところがあらわになった。一面の珊瑚が色とりどりの新しい森をつくっている。その珊瑚の原には道が続いていた。ゆるやかな円弧を描いてぐるりと《島》の外周をめぐる道。
やがて海中へと没するその道は、絶えず足元から生まれる透明な気泡に覆われていた。極彩色の魚たちはその道をよけるように泳いでいる。それは、地上と同じように人が通ることのできる証だった。
ルーサリウスが人数を確認した。
道を往く者は総勢8名。リラ、リアルとヴァッツ。光の精霊を連れたネリューラ。ルーサリウスとセシア。そしてレシアとロザリアだ。
「道ができたのか」
珊瑚の原を眺めてマロウが呟いた。
「俺は……ここに来たことがあるのだろうな」
傍らに立ったセシアが、日よけに手をかざしながらマロウを見上げ、尋ねた。
「貴方が自分の記憶を封じた理由を聞いてもよいでしょうか」
海の色を映した瞳でマロウはセシアを見下ろした。彼女の顔には濃い影が落ちていた。
「人を殺したからか、殺せなかったからか。どちらなのです」
セシアは眩しげに目を細める。日差しに照らされた珊瑚の原に、海風が吹きぬけてゆく。潮騒が聞こえなければ、それはまるで乾ききった風景だ。すぐそばが海なのに、白々とした砂漠のような。
「……そのふたつの違いが、俺にはわからん」
肩をすくめるとセシアの飾り耳がひくりと揺れた。
――ローラナが呼び覚ましたマロウの記憶の断片。殺人者になりたくない、と彼はいっていた。罪の意識は消えないだろうから、それならば。
「別に、答えを期待して聞いたわけではありませんよ」
セシアはそう言って、思考を断ち切った。
さて、ルーサリウスの采配によって、旅人たちは少しずつ間隔をあけて進むことになった。
「固まって下りて行くと、何かあった場合全滅する危険がありますから」
全滅と聞いて真っ先に身を震わせたのはリラだった。その肩で、鳩が優しく慰める仕草をする。
先頭は、体力や戦闘技術に長けたものが勤めるのがよいとルーサリウスは提案する。先頭に危険が起きた場合には、後の者が残りの者に危険を告げ、脱出できるようにとの作戦だ。
該当者がいなければルーサリウスは自分が先頭に立つと決めていたが、ロザリアと、彼女に寄り添うように立つレシアに目を留める。
「お願いできますか」
ロザリアが気づくより先に、レシアは無言でうなずいた。ロザリアは最近ずっと考え込んでいるようだった。まだ整理がつかないのだろう、無理もない。レシアは彼女の懊悩を慮り、彼女を助けることを決めていた。
「ではヴァッツさん」
いきなりルーサリウスが自分を呼んだので、ヴァッツはわたわたと羽根を動かした。へくしゅ、とリラが顔をしかめる。
「貴方が来てくれるというのはとても心強い。空を飛べるのは貴方だけです。万一足元が崩れても貴方なら無事でしょう。連絡係にふさわしいと思います」
(連絡係! 俺が……!)
「よろしくお願いしますよ、ヴァッツさん」
ヴァッツは驚いた。だがリアルが猫の人形をぱくぱくさせながらじっとこちらを見ているのに気づき、しゃきんと胸をはった。リラの肩の上で。
「あたた。爪が」
(あ、ご、ごめんよ)
リラがうめいたのを聞き、ヴァッツは近くの珊瑚の枝に止まり木を変えた。
リアルの光る猫人形を見て、ネリューラはくすくすと笑った。
「本当に、ルクスさんなのね。ちゃんと光ってる」
「あ、ありがと。ネリューラ。おかげでわかる。ヴァッツのいってるコト」
「その代わり、約束よ?」
「うん、わかってる」
ネリューラとリアルは、ささやきあって笑う。
「ねー、ルーシャさん。私ら3人は、一緒に行動してもいいっすか? 一番後ろでいいっすから」
手を挙げてリラが尋ねた。ルーサリウスは軽くうなずいてみせた。学生服のようなリアルとリラの格好を見ていると、役所見学に来た子どもの応対をしているような気分になった。
「それでは私がレシアさんたちの次に行こう。セシアさん、ネリューラさんはその後ろから来てもらいましょうか」
「ルーサリウスが守ってくれるの?」
名を呼ばれたネリューラが、面白そうに役人を眺めた。
「それが役目ですからね」
行きましょう、セシアさん。皆さんも。
ルーサリウスの声が届き、セシアはマロウを置いて役人の背を追いかけた。
旅人たちが、珊瑚の道を辿ってゆく。少しずつ下りになってゆくそれは大きな螺旋階段だ。
かつて旅人だったマロウは、波打ち際で旅人たちの姿をじっと見送り続けた。足元を幾度も潮が洗い、しぶきは幾度も珊瑚の欠片のなかに吸い込まれていった。
■Scene:珊瑚の道――リラとリアルとネリューラ
しんがりを希望した一行は、わりとお気楽に進んでいた。
前をゆく人々に何かあれば一目散に逃げるだけだし、何もなくてもヴァッツがせわしく飛び回り、状況をあれこれと伝えてくれる。
「それにしてもルクスさんを連れてくることができて、よかったっすねー!」
「今、明るいけどね」
「いや。念のために荷物にランプを入れてきたけど、ルクスさんに頑張ってもらえたらその必要ないのかなーなんて」
「ん――……頑張るって」
「おお。いい精霊さんっす! さすがエルさんのお友だちさんっす!」
「いいコね」
ネリューラのおかげ、とリアルは呟いた。前をゆく呪術師が振り返り、学生たちを見てはくすくすと笑う。
「でも念のために投網も持ってきたっす」
「……漁するの? たしかにこのコ、漁はできないわ」
「いやーその。漁はマロウさんに任せるっすけどね」
ぼそっとささやくとリラはネリューラの背を見つめた。仮面の呪術師。彼女もまた、白い剣を手に入れているはずだった。
最悪の事態とはどういうことだろう、とリラは考えたのだった。白い剣で殺し合い? 私もリアルさんも持ってないっす。だったら……剣を持っている人とは少し離れて行動したほうがいいかもしれない。剣が何かの拍子に出現してしまったら、それが一番危ないから。
つまり。仲間同士の戦いを、一番警戒するべきだから。
そんなわけでリラは、剣を持つネリューラとは離れていようとする。が、リアルはそんなことに頓着せず、すたすたとネリューラに歩み寄る。とほほとリラは顔を覆った。リアルはまっすぐに進むのが好きらしい。
「さっきの約束の話」
リアルは黒猫人形を突き出した。
「エルのことを聞くんでしょ」
「ええ。ルクスさんが知っていることを教えて欲しいの」
ネリューラがリアルと交わした約束……占い師は本当はどんな男なのか、ネリューラはとても知りたかったのだ。
「さあ聞いたよね、ルクス。教えなさい、今すぐに!」
宿らせた精霊に対するリアルの口調は、いつにもまして声高な命令形である。精霊には迫力でいうことを聞かせるのだ。力ある人形師だった祖母の影響が多分にあるのだが、実は精霊だけでなく日常会話もほとんどこの調子である。
人に呼びかけるときの会話の作法がわからない。それでも《島》で最初に仲良くなったのがリラだったこともあって、彼女との会話はかなり気負いなくできるようになりつつあるリアルだ。
黒猫人形の帯びる光はゆっくりと強まっていく。
「うん。そう。蛇の」
人形に向かってリアルがしゃべっている。やっていることはヴァッツと同じに見える。その様子を口をあけてリラは見ていた。……占い師さんと呪術師さん。何だかすごく強力そうな二人だと思った。
「へえ、騎士……」
ネリューラとリラが驚きの声をあげた。違った、元騎士だった、とリアルは訂正をいれた。
「罪人なのだと聞いたわ」
蛇のタトゥーを見たときの会話を思い出すネリューラだ。思い当たるふしはいくつもあった。クラウディウスに対する頑なな態度のことも。
「ふぁくだつ? あ、剥奪ね。騎士の剥奪」
「な、な、な、なんかエルさんって、そんな……危ない人だったんすか!」
「危ないかどうかはともかく、不名誉なことがあったのね?」
「そう」
人形から顔をあげて、リアルは淡々と告げた。
「貴族の女性と恋におちて逃げたの」
「うわー、浪漫っす」
「そして捕まったの」
「あ、それはださいっす」
「待って、リアル。どうして捕まったの? ただの駆け落ちじゃないの? お相手はやんごとなき姫君だったとか……?」
数言ルクスとささやきあったリアルは、口を尖らせて答えた。
「こーしゃくふじん」
「侯爵、夫人」
ネリューラとリラは顔を見合わせた。ややあってネリューラは口を開いた。
「それは……結婚しちゃってるわねえ、相手が」
仕方ないわね、とでもいいたげな響きであった。
■Scene:珊瑚の道――レシアとロザリア
一縷の期待。
ロザリアの心中を表現するのはまさに、その一語だった。
さりさりと乾いた音をたてる珊瑚の感触も、彼女の思考を中断させてはくれない。渦巻くのはジニアの言葉と、そこから導き出される結論だ。
キヴァルナの命が鍵だった。彼は自ら命を絶った。
つまりこの《島》から出るためには、他の命がひとつ必要になる。キヴァルナは姿を消し、壊れた道具だけがそっけない墓碑に収められていた。彼が《大陸》に戻ったかどうかすらわからない……いや、戻ってはいないのだ。命を絶った、とジニアは言ったから。
文字通り、言葉通りの、死。
どうやって、地図学者は命を絶てたのだろうか。
――貴女も手を汚したくないのね。それはわかるもの。
優しくジニアはそういった。ロザリアの気持ちを読んだかのように。
――死を知らぬものに死を与えることはできない。だからあれは死を弄ぶの。
それ以来ロザリアは悩み続けている。答えのない迷宮に置き去りにされてしまったのだ。
「ロザリア、気づいたか」
レシアが静かに声をかけた。思考を中断させてはいけないと控えめな声だったが、図らずもその言葉がロザリアを我に返した。
レシアの頭上を鳩が飛んでいるのにもようやく気がつく。
「この道は人工的につくられたものだ。珊瑚が堆積しているけれど、正確に一定の幅を計算されている」
とんとんとレシアの踵が段を叩いた。
「聞こえるか」
ロザリアはかぶりを振った。乾いた珊瑚を踏みしめる音と、頭上を通り過ぎる潮騒。ヴァッツの羽音。他には何も聞こえない。
改めて周囲を見渡すと、もうあたりは海に包まれている。まだ浅く、見上げればゆらゆらと太陽が輝いているのも見える。青色を帯びた世界はしっとりと美しく、手を伸ばせば熱帯の魚たちもつかまえられそうだった。
「かすかに反響が聞こえる……気がした。まあアレクがいれば確実にわかるのだろうが」
「でも間違いないと思います。空気が吹き出す仕組みになっていますし、人の手によるものでしょう」
「少し安心した。階段がこの幅でつくられているなら、人間が通っていたということだ」
ええ、とロザリアはうなずいた。
「得体の知れない巨大な魔物がつくった場所では、ないようですね」
レシアは笑った。
「何かおかしかったですか」
「いや」
思えば姫君たちとて、巨大でこそないものの、得体の知れない魔物同然である。もっとも恐ろしい相手は人間かもしれない、と考えてレシアは懐の包丁を確かめた。あれほど忌避した刃は、今はもうしっくりとレシアの手に馴染んでいた。包丁があることが、逆にレシアを安心させた。
誰でも慣れるのだろうか、かつての記憶を消すことは出来ないのだろうか。
違う、と思いたかった。
妹のために血塗れの道を捨てたのは真実だ。血を見るたびに、刃を見るたびに嘔吐していたのは真実だ。
今はそれよりも、ロザリアを守りたいだけだ。これは裏切りなんかじゃない。
「ロザリア」
「はい」
「人を殺す事が鍵になるのなら、私を殺せば良い。それでおまえの礎になれるのなら、私は本望だ」
あまりにもレシアの口調が穏やかだったので、しばらくロザリアは意味がわからなかった。
「それで悩んでいるのだろう」
迷いのない涼やかな声だった。
「そんな……それは違います。いえ、悩んでいるのは確かなのですが」
ロザリアはレシアと違って迷っていた。歯切れ悪く答える。
いったいこの《島》で誰を殺せるというのだろう。ジニアの仮面が嘲笑しているような錯覚を覚えた。
今だに心もとないロミオ? それともしっかり者のアンナ? 自分を妹と慕うレシア? できるはずがない。彼らに罪はなく、ロザリアが殺す理由もない。ただロザリアは聖地アストラに仕える神聖騎士だった。命令が下れば剣を振ることもできる……いや、それこそ気負いなく手にかけることができる。命令だから、と言い聞かせれば。
「誰を帝国の礎につけ加えるというのでしょう」
「それはおまえが決めればいい」
返す言葉がない。ロザリアに命じてくれる騎士団長はここにはいない。
「ロザリア、私はずっとおまえを守りたいと思い、行動してきた。そのために必要なものが命だったとしても惜しくはない」
ああ。ジニアもこの気持ちを味わったのだろうか。
ロザリアは理解した。キヴァルナもレシアと同じような言葉をささやいたに違いない。残酷な誘惑。時折負けそうになる。レシアの髑髏を貫けば、どれほど楽になれるのだろう。
ロザリアは目を閉じた。考えただけで、手の甲の髑髏が騒ぎ出したような気がした。
「いけません、レシア。軽々しく命を差し出すなどといわないでください」
使い込まれた外套の色も愛しく映る。レシアにはもっと側にいてほしかった。迷える自分がよりどころにできる相手でいてほしかった。
「もっと自分を大切にしてほしい。そうあなたに望んではいけませんか」
レシアは目をそらし、うつむいた。
「私にはそのような言葉を受け取る権利はない」
唇を噛むレシアの様子に、ロザリアも胸が苦しくなる。暗黒の舞踏。そう表現したのはどこの詩人だっただろうか。
レシアは嬉しかった。けれど嬉しいと思うなど許されないことなのだ。そんな資格は自分にはない。外套の下に包丁を抱いているような自分には。
ロザリアの視線を感じるたび、手の甲の髑髏がうずく。白い剣を得たときのあの高揚感。再びあれに満たされるものならば――振るいたい。ロザリアに? とんでもない。だが……。
衝動に負ける前に、なんとかしなければ。
■Scene:珊瑚の道――セシアとルーサリウス
ゆるやかな階段は、気づかぬうちに深いところへ彼らを誘っていく。
ルーサリウスはあらかじめ小石をたくさん持ってきていた。一定間隔でひとつずつ小石を目印に置いていく。セシアが問うと、もし突然姿が消えるようなことがあっても、その場所がわかるように、との答えだった。
「薄暗くなってきましたね」
「本当だ。日が沈んだのか、それとも水深が深くなったからか……」
「水深かな。浅いところで見かけなかった魚もいるから」
「ここまでくると潮騒も聞こえませんね」
セシアが目を向けると、階段の先をゆくレシアたちの姿がかろうじて見えた。
出発してすぐは、はっきりと鮮やかな色彩で見えたのだが、光が届かなくなってきたのだろう、たゆたう海に溶け込むように二人の輪郭もはっきりしない。唯一その色を保っているのは、白い鳩たるヴァッツであった。
レシアたちのもとからこちらへと、翼を広げてやってくる。
「どうです? まだ先には何もなさそうですか」
ヴァッツはうなずいた。
「これ以上暗くなるようなら、離れているのはかえって危険かもしれないな」
「あれ。何か……聞こえる」
セシアが立ち止まり、耳をすませた。ルーサリウスは眉根を寄せる。
「聞こえませんか。悲鳴のような、うん、あまり心地いい感じじゃない」
「どこから聞こえてくるんでしょう」
「ルシカのオルゴールじゃないことだけは確かですね」
ヴァッツもぴくりと首をめぐらせる。
ルーサリウスはヴァッツに、前後の旅人たちに互いの距離を縮めるように頼んだ。さらに、セシアが耳にした音についても調べてほしいと告げる。
了解のしるしに翼を立てて、ヴァッツは後方へと伝言を運ぶ。
「彼がいてよかったですね」
「本当に」
今までになくやる気に満ち溢れていることに、ヴァッツ自身も驚いている。
俺の物語には幸せな結末が待っているに違いない。マリィのことを認められてよかった。
ああ早く人間に戻らなくては。そして、あの子を迎えにいかなくては。
あの子――うさぎのマリーベルではなく、シンシアでもない。リラのことを。
■Scene:珊瑚の道――レシアとロザリア(2)
あたりが見えぬほどではないが、出発したときと比べると、差し込む光が少なく、薄暗くなった。
例えるなら、明るい夕暮れほどのだろうか。やがて日が沈んでしまう、そんな焦りをはらんだ色。
海中の風景は、見慣れぬ色合いと奇妙な魚たちのせいで異界のそれのように見えた。ゆっくりと、大きな蛸が泳ぎ去る。マロウが餌と称して捕っていた軟体動物を思い出す。
はるか頭上にたゆたう水面から光が差し込むさまは、雲の切れ間からこぼれる冬の日光に似ている。熱のない光。
「……人が作ったものには、意味があると?」
レシアはロザリアの言葉を繰り返した。
「そうです。それを読み解けば出口が見つかると思うのです」
「読み解くことができなければ、逆に、出口にはたどり着けないというわけか」
「そう思わずにはいられない。つまり、奇妙すぎるのですよ」
ロザリアは迷いながら続けた。
「この《贖罪の島》にせよ、《満月の塔》にせよ、仕掛けが大掛かりすぎると思いませんか。姫さまの快楽のためだけにしては」
「招かれた者は生贄も同然だな」
生贄という言葉の響きに、レシアは眩暈を覚えた。恐怖ではなく、快楽の予感。
愛する者のために身を捧げられる、舞台なのか、これは。
「仕掛けをつくったのは《月光》だといったか」
「古代の人物なのでしょう。今の《大陸》にある技術ではないでしょうから」
「……未だにそいつは待っているのか。この迷宮を乗り越えてくるまろうどを? ずいぶんと気の長い」
「時ははかるだけ無駄だそうですからね」
小さな《島》に閉じ込められてひたすら無為を繰り返す姫君。危険な箱庭。ランドニクスが精鋭を派遣し探させた《パンドラ》。
クラウディウスが生贄の件を耳にしたなら、彼はどうするのだろう?
血路を切り開くのだろうか。帝国のために。重ねた命の階に、今さらひとつふたつ付け加わったところでどうにも変わらない、そんな計算をするのだろうか?
気分が悪くなってきた。
「レシア」
すがるようにロザリアは話題を変えた。
「妹のレシアさんはいったいどんな人だったか、教えてもらえませんか」
足を止めたレシアの視線は、自分の手の古ぼけた指輪に注がれ、やがてロザリアに向けられた。
「こんなにも姉が想い続ける妹のレシアさんのことが気になるのです」
亡き妹の姿が自分に重ねあわされていることを感じるたびに、ロザリアはそう思うのだった。
「優しい子だったよ」
姉の口調になる、レシア。
「優しくて、強い子だった。いつも笑顔を絶やさなかった」
夢見るような過去形だった。それを聞いてロザリアは、姉の想いが苦しいほど自分に注がれていることを改めて感じ取った。
ロザリアは戦災孤児だ。師匠の騎士に拾われる前は、貧民街で盗みやかっぱらいの真似事をしていたこともある。家族といえば師匠のことだ。姉という存在は、ロザリアにとっても不思議に温かい。
「レシアを追い詰めたのは私だ」
妹の名を名乗る姉は、静かに言った。
「私が彼女を殺したようなものだ。だから、もう、私には幸せになる資格はない」
かりそめの妹が幸せになるのを見ているだけでいい。
つぐないのかわりにしてやれることは、それしかない。
「……なおのこと、あなたにはそばにいてほしい。命を捨てるなんて悲しい。妹はそう思います……思うはずです」
言いながらロザリアは思う。
今目の前に生きているこの人は、妹の名を名乗る姉。妹が生きるはずだった人生を追いかけて、その傍観者たる放浪者。名前を捨てた姉を、ロザリアは痛ましく思う。
■Scene:珊瑚の道――塔
セシアが耳にした音は、他のグループも気づいていた。
ルーサリウスたちと合流するなり、リアルは険しい顔つきをつくる。
「ココ、変な感じがする。ヤな音。不協和音」
悲鳴のような音を、人形師はそう断じた。
「ね。ルクスもいやだって」
「何とも耳障りだ」
音に詳しい学者や術師がいないことを、ルーサリウスは残念に思った。彼の耳では、美しい旋律を無理やり歪めたような音だ、ということくらいしかわからない。
「気味が悪いわ。あんまり長居したくはないわね」
ネリューラも黒髪をかきあげる。耳障りな旋律は、掛け違えたボタンのようにネリューラをいらだたせた。
「この階段の先から聞こえるってヴァッツ、いってるけど」
リアルは黒猫と話しながら、行く先を見晴るかした。白い鳩はその先を飛んでいた。
「ワタシは、このあたり一帯から、だと思う」
「怖い! 怖いっすよー」
「そう?」
震えているリラに対して、リアルはさほど動じもしない。謎の不協和音よりも、人間の相手のほうがよほど恐ろしいと思うリアルだ。人形に宿した精霊は嘘はつかないし、命じればそのとおり力を出してくれる――こともある。少なくとも出会った瞬間から、敵か味方かはっきりしている。
リアルは、はっきりしているものが好きだった。
「敵なの?」
「さあ。まだわからないね」
しかめた顔をすぐに平静に変えるセシア。
「《月光》がいるなら話は早いんだけどね」
アレクが見つけた手帳片の写しに記されていた言葉――帰り道を求めるならば外ではなく内へ。
確かに自分たちは内側へと進んでいる。海の中、深く。
「いつになったらからくり仕掛けが見えてくるかしら」
ネリューラは頭上に目を向けた。あの水面のまだ先に、エルたちがいる。
ずいぶん離れたところに来た、と思った。ルクスさんはおかげで頑張ってくれている。ありがとう、エル。こっそりとネリューラは感謝を贈る。
「からくり仕掛けを動かすと、《満月の塔》が現れると思うの。どう?」
ルーサリウスも水面を見上げ、ネリューラに答えた。
「この螺旋階段は、塔の外壁を下っているのだと思います」
役人は人差し指を立て、渦を描くように回してみせる。
「逆さまの塔。我々は今、《満月の塔》を降りている」
「じゃあ《贖罪の島》って!」
口を開きかけるリラ。ルーサリウスはうなずいた。
「つまりこの《島》そのものが、海中に没した《満月の塔》であり……帝国の探し求める《パンドラ》、というのはいかがでしょうか」
「「でか!」」
リラとリアルの声が重なった。
リラはこう考えていた。
ヴァッツが留まり続ける限り、《満月の塔》への入り口は、開かれているのではないだろうか。伝書鳩は、《大陸》への行き来ができるのだから。つまり、ヴァッツはいつでも戻ることができるのだ。ただし鳩として。
「お姫さまたちは、古代兵器なんすかね」
呟くリラは思い出した。伝書鳩に招かれたあの日。進学に悩み教授を前にして、日差しが差し込む教室の窓から見えた青い空。兵器をつくる研究をするならば奨学金が出る。分かれ道。
「いつの時代のひとがお姫さまをつくったのかわからないっすけど、人間ってあんまり昔も今も、変わんないっすね」
姫君たちを拾って名づけた《月光》も。
兵器などつくりたくなかったのかもしれない。
もしかしてあの日伝書鳩を見かけなければ、薦められるがままリラは進学して、やっぱり兵器をつくっていたかもしれない。わからない。
「でも生まれちゃったんだから、仕方ないでしょ」
リアルは語気も強くリラの呟きに答えた。
「ウィユもレヴルも、ココにいるんだもの」
リラを責めているわけでもなんでもなく、語気の強さはリアルの意志のあらわれだった。
「……そしてワタシもココにいる」
最初の旅にしては、なかなかやりがいがある。リアルは遠い祖母に胸を張ってみせた。ヴァッツを元に戻すこと。そしてリラを助けてあげること。
出会った友達を大切にする。そうおばあちゃんと約束したから。頑張るって約束したから。
「意味があるの。絶対。必ず」
リアルにそういわれると、その気になってくるリラである。
螺旋階段にも終わりがあった。おそらくは《島》の外周をめぐりきったか、そのくらいのところ。ちょうどルーサリウスの小石も尽きた。旅人たちはここまで一人も失わず、最後の段に辿りついた。
「髑髏……」
ロザリアはため息を漏らした。
目の前には大きな髑髏が浮かんでいる。目と口を塞がれ、生き物のように白く輝いている。
「姫君たちの領域ということですね」
よく見れば大仰な装飾柱が周囲を取り囲んでおり、髑髏はアーチの奥の扉に描かれたものだとわかる。髑髏の輝きはゆらゆらと定まることがなく、明るく猛ったかと思えばちろちろと扉をなめるように走る。光が輝きを変えるたびに、きしむような不協和音が旅人たちを包んだ。
「額?」
ネリューラには、装飾柱に囲まれた髑髏は、それ自体が一枚の絵のように見えたのだった。
「古いものだ」
セシアは半ば恍惚とした表情で、髑髏とその周囲の装飾柱を見つめた。
「ヴィクトールの予想はあたっているかもしれない。神話の時代の建築だとしたら、軽く千年は超えている」
ふいにセシアの身体が粟立った。ぞくり。
柱に伸ばした手の甲から生まれた刺激が、全身を経巡った。すぐにセシアは手を引っ込めた。その甲に、目覚めた髑髏が輝いている。
とても気持ちが良かった。とろけるような快感。もう一度髑髏に伸ばそうとした手はルーサリウスが引き戻した。
「危ないですよ。罠かもしれない」
「罠ですって」
ぞくり。
ルーサリウスがつかんだ手首からさらにあふれた快感に、セシアは目を閉じ首を振った。ルーサリウスも同じだけの快感を味わっているはずだった。
「離れましょう。ここは不協和音が強い」
ルーサリウスの言葉に一同はうなずいた。
ロザリアはすぐにレイピアを抜ける体勢をとる。その前にすっと立ちはだかるレシア。ばたばたと飛び回るヴァッツ。
「ココが《満月の塔》の入り口?」
リアルは人形をかざした。黒猫に宿るルクスの光は、髑髏の放つ光の前では小さな星明りのようにおぼろだ。
「ルクスさん、なんかいってるっすか?」
しばし耳を傾けたリアルは、不満そうに顔をしかめた。
「よくわかんない。たくさんの声がするって、どういうコト?」
「あ……危ないってことじゃないっすか、やっぱり」
リラはリアルのセーターを引っ張り、じりじりと扉から遠ざかろうとする。
(待て。声がする)
ヴァッツは首をめぐらせた。翼を広げ、扉の前を飛ぶ。聞いたことのある声だと思った。
そう。鳥の姿になるときに聞こえたあのひとの声だ。
(ほらまた。聞こえるか?)
リアルは顔を上げた。ヴァッツの飛ぶ姿を目で追い、腕の人形を突き出した。
「ソコにいるのは、誰? 出て来い!」
白い犬の人形は、ぱっくりと耳まで裂けた口を開いた。
「ロザリア、行け!」
レシアが叫ぶ。
その手に白い剣を握りしめ、無我夢中で扉に突き立てた。
「レシア!」
濃紫の瞳はいつもの鋭さを失い、中天を見つめている。ロザリアの声も聞こえない。レシアの脳裏は真っ白に染まる。身体からすべての力が抜け出してゆく。手の中の剣は、膝を折るレシアとは反対にますます輝きを増す。
剣に貫かれた髑髏は、レシアの力を吸い込み太陽のように輝きを増した。
すべてが白く染まる。光の中に髑髏が消えゆき、扉が内側に開かれた。
旅人たちは、あたたかい水に包まれた感覚を味わった――。
■Scene:墜ちた月――ヴァッツ
高い天井。
月の軌道が描かれていた。屋内なのだ、とヴァッツは思った。
彼は鳥の姿のままだった。飛ぶのは気持ちいい。翼を広げるといくつもの水泡が生まれ、天へとのぼっていった。
「お帰りなさい」
差し出された止まり木めがけて彼は舞い降りた。
枝と思ったそれは、女性が伸ばした細い腕。
■Scene:墜ちた月――リラとリアル
「ワタシの人形!」
リアルは叫んだ。黒猫はまだその手にいた。淡い光を放つルクスも宿したままで。
もう片方の手にはめていた白い犬が、いなかった。
「どうしたっすか、ワンコがいなくなったんすか」
「敵! 敵に決まってる!」
人形のいない素手は、リアルには涼しすぎる。
「髑髏の光が飲み込んだ。ワタシの大事な人形。声の主を宿してやろうとしたのに!」
悔しかった。声の主のほうが大きかったなんて。逆に精霊の依りしろである大切な人形までも、失ってしまうなんて。リアルは唇を噛む。
「大丈夫っす。きっと見つかるっすよ。それに……《塔》でお願いすれば元通り、じゃないすか。ここがその《満月の塔》なんすよ?」
リラは何の気なしに頭上を見上げた。
月の軌道が描かれた偽の空。呼吸は苦しくない。あたたかくやわらかな感覚。
足元がかさりと音を立てる。ぎくりと怯えながら目をやると、あたりは一面、鳥の羽根に埋め尽くされている。
「ここは……」
数歩歩くたび、かさかさと乾いた音がついてくる。
「飲み込んだの」
「え」
「髑髏の中」
ルクスさんの宿る黒猫をかざすリアル。その手の示す先、小高い丘のようなものが見えた。丘の上を飛ぶ白い鳩が一羽、突き出す枝に舞い降りるのが見える。
■Scene:墜ちた月――ネリューラ
眩しさにくらむ目がやがて慣れてくると、彼女は自分がひとりで立っていることに気づいた。見渡してすぐに目についたのは、小高い丘。そこに舞い降りる白い鳩。やや視線をずらせば、心もとないようすで立ちすくんでいる学生たちがふたり。
「ああ。離れ離れになったんじゃあないのね」
安堵して、胸をなでおろす。
ここまで来てばらばらになり、他のまろうどと会えなくなってしまったのでは気分が悪い。
「リラ――」
呼ぼうとして、ネリューラは自分の行く手をさえぎる壁に気がついた。
「邪魔ねえ」
視界は開けている。リアルもネリューラを見つけたらしい。黒猫をぶんぶんと振っている。それなのに。壁が邪魔をする。壁が途切れた隙間を見つけては、ネリューラは羽根を踏みしだいて進んだ。
壁のせいで思うように進めないのがもどかしかった。
■Scene:墜ちた月――ルーサリウスとセシア
壁が邪魔だった。セシアは喉の奥でうめき、障害物をよけられる道を探した。ルーサリウスがすぐそばにいたのは幸いだった。壁の隙間からは、他の旅人たちが同じように右往左往しているのが見える。
見えるのに、まっすぐに進めない。
「レシアさん、どこにいらっしゃいますか」
ルーサリウスの呼びかけに返事はない。リアルが黒猫人形をかざして見せているのも遠い。
「何だ、この場所は」
セシアは息苦しさを覚えた。こんなに天井が高く、広いのに、妙に閉塞感を感じるのだ。さえぎる壁に躓きそうになる。落ち着きを取り戻そうとして、そっと手をかけた。
積もっていた羽根がふわりと舞い落ち、顕わになったその壁は。
「絵……」
行く手を遮る障害物と思ったものは、鳥の羽根に埋もれ、聳えるたくさんの絵画である。
「展示室からここに移動していたのか」
跪いてそっと絵を眺めた。見たことのない旅人が描かれていた。
「かつて《島》を訪れたものたちの肖像でしょうか」
ルーサリウスも横から覗き込む。
「ということはこの場所は展示室の真下にあたるのか。探せばいろんな人の絵が見つかりそうですね」
《島》の内部。
髑髏の扉の先に待っていたのは、鳥の羽根が敷き詰められ、たくさんの絵がでたらめな墓標のように突き立てられている空間だった。
墓標の集まる中心に小高い丘がある。ヴァッツが羽根を休めている。
■Scene:墜ちた月――ロザリア
「レシア!」
マントが翻る。ロザリアは突然姿を消したレシアを求め、迷子のように叫んだ。
「いけません、ひとりで行ってしまっては……」
レシアは死んだのではない。どこかにいったのだ。
ジニアができなかった選択は、まだ迫られていない。早まってはいけない。
ならばどこへ?
立ちはだかる絵をよけ、ロザリアは足元の羽根を蹴立てて急いだ。小高い丘に立ち見渡せば、この空間を一望できるに違いない。
「罰されるのを待つなんていやです。レシア、貴女が必要なんです……」
気ばかりがせいた。もどかしく迷路を進む。
ようやく目の前が開けると、旅人たちがすでに丘の周囲に集っているのが見える。安堵はしたものの、レシアの姿だけがその輪から失われていることに、ロザリアの胸は激しく締め付けられた。
丘の上には、半透明に身体の透けた女性が立っていた。伸ばした腕に白鳩を止まらせ、こちらを見つめている。
姫君たちが《月光》と呼んだ最初のまろうど。
姫君たちによく似た、けれど姫君たちが浮かべたことのない、知的な表情をたたえている女性。
「ひとりも失わずに来れたのね。まろうどたち」
旅人たちが耳にしたのは、そんなねぎらいの言葉であった。
■Scene:墜ちた月――《月光》
「レシアは……生きているのですね」
希望を込めてロザリアは尋ねた。《月光》は答える代わりに、ふわりと浮いて丘から降り立った。
ヴァッツがばさりと羽ばたき、一同の頭上を回る。上からはよく見えた。人間だったときのヴァッツはかなり背が高かったけれども、今はさらにその上からすべてを見下ろしている。
《月光》は少女を片腕に抱いている。
くたびれたマント、飾り気のない黒髪。だらりと力の抜けた腕、指先にはめられた古ぼけた指輪。
「生きているわ。今はまだ」
《月光》はレシアだった少女をロザリアに向けた。ロザリアはレシアの身体をそっと受け取った。ずきん。触れるとまた快感が込み上げる。眩暈がひらめく色彩と同時にロザリアを襲った。ロザリアの腕の中で、少女に戻ったレシアはううんとうめきをあげた。
「どういうこと!」
唐突に叫ぶリアル。その目は鋭く《月光》を見据えていた。
「何をしたのアナタ。レシアと、ワタシの人形を返して!」
「そ……そうそう。それとヴァッツさんを元に戻してほしいっす!」
「ちょ、ちょっとあなたたち」
ネリューラは目を白黒させて、学生二人組みの首根っこをつかんだ。
「いきなりそんな願いをいいだすなんて、何かあったらどうするつもりなの?」
選択は慎重に行うべきだとネリューラは思っていたし、出発前にルーサリウスもそう釘を刺していたはずだ。
「願いじゃない。ワタシのモノを返してもらうだけよ」
ぎらりとリアルはネリューラをにらんだ。
「……《月光》さん、貴女が願いを叶えてくれる神さまなの?」
ばさばさばさ。
ヴァッツの羽音が、広い空間に響き渡る。たくさんの絵にこだまして、羽音は長くて奇妙な不協和音となった。悲鳴にも似たその音は、いつまでも耳にこびりつく。
「私にはそんな力はないの」
悲しみとあきらめと、微笑を浮かべて《月光》は告げた。
「あの子たちが、そうなるはずだったの。美しく、気高く、祈りを形にする力を持つはずだった」
それは不遜な計画。
《大陸》を去った《天宮》の神々の代わりに、人工の神をつくりだそうとした。神々がいなくなった《大陸》は、新たな神が守護するべきだと考えた人々が《聖地》に存在していたのだ。
「あの子たちは願いを叶えられない。人々の祈りがあの子に力を与え、その力によって祈りをかたちにするはずだったのに。あの子たちは生まれず、別のものになってしまった」
《月光》は呟いた。その口調に混じる哀れみを慰めるようにヴァッツが飛んだ。
「あの子たちは死を知らない。人々の祈りは伝書鳩を引き寄せ、伝書鳩が死を運ぶ剣を人々に与える。髑髏を得たものはいたずらにそれをふるい、快楽の果てに破壊をもたらし、破壊は苦しむ者の新たな祈りを呼び起こし、祈りは伝書鳩を招き寄せる……」
完全なる不完全。いびつな円。
繰り返されるのは、最後の頁からはじまる物語。
「あの子たちが正しく生まれることができたなら、願いを叶える神にも似た存在になれたのに」
力なく《月光》は微笑んだ。
「う……」
身じろぎしながら目を開いたレシアは、ぼんやりと目の前の女性を見つめた。
「生きて、る」
「ええ。あなたの……」
と、《月光》はロザリアを指差した。
「あなたの精が流れ込んだから。胎内の封印を開いたときに、彼女は生命を大量に注いでしまったのね。ここはまろうどの力をあの子たちに与えるところなの。残念ながら今のあの子たちは、髑髏を撒き散らすことしかできないけれど……」
《月光》はそう説明すると、旅人たちに選択肢を与えた。
願いを叶えるために必要なもの。それは、完全なる不完全、姫君たちに生きることを教えること。
あるいは。
誰かの命をひとつ奪うこと。
「この胎内では」
《月光》は、おそらくもう何百回も繰り返されたであろう選択を示した。
「生きていること、その証が力になるから」
願いを叶える代償は、生きている証。つまりは、その人にとっての死を招くことが……願いを叶えさせるという。
「結晶に心を奪われた学者は、その身すら結晶に変えて自身を愛で続けることを選んだ。好奇心旺盛な船乗りは、同士討ちの果てに一切の好奇心を捨て、忘れ去ることを選んだ。尊大な地図描きは道具を捨て、たったひとりのために死を選んだ。そして選ばれたひとりは選ばれたことを悔やみ、心を閉ざして決意した。けしてその手を汚すまいとして……」
《月光》が手を伸ばした。
髑髏の刻印を持つ旅人たちの手に、白い剣が姿を現した。
ある者は快楽に身を蕩かせ、ある者はおぞましいものを見る目つきで顔をゆがめる。
リラとリアルは手を取り合ったまま動けない。
「いずれにしてもここは胎内。生まれなければ出口はないの」
小高い丘に《月光》は腰掛ける。その身を姫君の玉座と同じ物質がてらてらと流れるように包み込むのを旅人たちは見た。
第6章へ続く
1.運命の縦糸|2.レオの朝、ティアの朝|3.姫ならぬ者|4.勝利と破壊の御名の下|5.処刑と断罪|6.墜ちた月|7.鏡と半分|マスターより