3.姫ならぬ者
■Scene:姫ならぬ者(1)
「氷菓子、か」
自身の絵につけられた題名を聞いてスティーレ・ヴァロアは微笑み、自分でもそれを意外だと思った。
「誰かに溶かされてしまうのかしら」
硝子細工が壊されるなら、氷菓子も溶かされる。リモーネの姿を思い出しながらスティーレは考える。けれども氷菓子なら、と。
誰かの口の中で溶かされるのなら、そのひとにひととき甘い幸せを与えることができるだろう。それでもいいのかもしれない。
《月光》の記憶に触れたせいだろうか。白い剣がこれ以上現れるのを見たくない。そう想いながらスティーレは、姫君の元に通い詰めている。広間の片隅に居を構えたヴィクトールやポリーナが出入りするのを眺めながら、謎々を繰り返すのだ。
ポリーナは姫君とよく戯れているようだが、ヴィクトールは姫君とは会話すらしていないらしい。無論ヴィクトールは広間にいない時のほうが多いのだが。たまたま館の中でヴィクトールとすれ違った際、スティーレは驚いたことがある。任せた、と彼がいったのだ。あの不敵な笑みを浮かべながら。
それきり会話も交わしていないが、ヴィクトールはいったい何をスティーレに期待したのか。姫君の世話か、それとも夜伽か。まさかしりとりではないだろう。漆黒の髪が頬にかかるのを払いのけ、スティーレはかたちのよい眉をひそめたものである。
さて。
スティーレが姫君の元を訪れると、ジニアが玉座の傍らに立っていた。ジニアの表情は、以前よりも柔らかになったように見える。
「おや、夜伽の時間。おまえも聞きますか、ジニア」
「いえ。私は結構です」
姉姫ウィユはそう、とうなずいてジニアを下がらせた。スティーレがどうしたのかと尋ねると、姉姫はくすりと笑って答える。
「音術師を呼びにいかせたの」
「音術師というと、ローラナさんのことかしら」
「子どもを身ごもっているとか」
その言葉を聞いて、少しローラナに興味を抱いた。彼女に興味を抱いた姫君のことも、愛しく思える。長い夜伽の時間を過ごしてきた中で、スティーレは姫君のことを、娘のような情愛を持って見つめはじめている。
「……ああ、この《島》で出産した人がいままでいないのかしら」
妹姫は首を傾げた。
「出産というのはね、月が満ちたら赤ん坊が生まれてくるのよ。でもまだしばらくかかるわ。お腹の中の子はそんなにすぐに大きくならないもの」
ローラナの夫はすでに命を落としたと聞いている。ローラナにとっては、まさに忘れ形見だ。未亡人の喜びはいかばかりだろうか。
ポリーナが名付けた新しいこの《島》の名前には、新しい命の誕生は相応しいと思えた。《宿り呼ぶ島》。ローラナには希望が宿ったのだ。
■Scene:姫ならぬ者(2)
スコット・クリズナーもまた、姫君の元を訪れようとしていた。ジニアが御前から戻ってきたのと出会い、いつもの軽口で挨拶しようとする。
「……貴方も、熱心に続くわね」
スコットが声をかけるより先にジニアが口を開いたので、スコットは挙げた手をそのままに、ぱちくりとしばたたいた。が、すぐに調子よく答える。
「ええっ。そうかな? 商売人の性なのかな、俺ってあきっぽいほうだと自分でも思うんだけど。今は何だかな、興味あるモノがたくさんありすぎて、一回話したくらいじゃ終わらないんだよね、あのお姫さまたちとはさ」
帽子をひょいととり、気に掛けてくれてありがとう、と礼をする。
そんなスコットの仕草を見つめるジニアは、今度は無言で背を向ける。
「あれ。もう行っちゃうんすか? なんだあ、せっかくお話できるかと思ったのに」
「音術師のところへ行かなくちゃ。姫さま方の夜伽も、終わりに近づいてきたのかしらね」
「ん? それどーいうことです? ジニアさん」
「貴方たちはどうも、これまでのまろうどとは違うみたいだ、という話よ」
「そりゃ十人いれば十人十色。百人いれば百通りの物語があるだろうし。俺たちだから、誰それだからってのとは違うんじゃないかな? 次の旅人が来れば、そいつはまた別の物語を始めるんだろうしさ」
ジニアは遠い目をしている。彼女は《大陸》でどんな人生を送っていたのだろうかとスコットは考える。いや、ロザリアがそれを問うたけれども、彼女は頑なだったらしい……。
「伝書鳩はもう飛ばないわ、きっと」
「どうしてそんなことが分かるんだ? 鳩舎もないのに。鳩舎が空になったのなら分かるけどさ」
「何故って? こんなことが初めてだからよ」
こんなこと――姫君たちが自分たちの記憶を見せたこと。
姫君の探し物はもうじき見つかるだろう。そんな気がする。気がする、だけかもしれないけれど。
「そっか。そりゃいいや。俺も《大陸》に戻る希望が見えてきたってもんだね」
スコットは顔を輝かせた。そろそろ潮時だと感じていた。自分の物語は、《大陸》に戻ってから続くのだと思っていた。
「貴方は、戻ってどうするの?」
「俺? 俺は《大陸》に戻ってもすることは同じ。商売だけどね。これはもう俺が交易商人だから、どこにいたって変わらないんだけど。……それよりも、俺のことを待っている人がいるからね」
不意に、ジニアの表情が和らいだように見えた。
希望を胸に機嫌良く、スコットは姫君の元を訪れる。大きな皮のトランクを手にしている。
■Scene:姫ならぬ者(3)
スコットが決めたこと。
それは、変わらぬ生活を続けること。身の回りで何が起きても、等身大でいたいということ。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。クリズナーの大荷に小荷。口上聞かぬと後悔するよ! 西域から取り寄せた燃える砂、東国から運んできた琥珀の水。幻旅団の公演切符、稀代の歌姫のなんとサイン入りはいかがかね?」
両手を広げ、馬鹿丁寧にお辞儀するスコット。茶色の帽子をはずすと、くすんだ金色の髪が蝋燭の光を浴びて夕日の色に輝いた。彼の前にはトランクが置かれている。その前でポーズをとるスコットは、まさに自分の舞台のなかにいる。
ふたりの姫君は、そっとささやきをかわしながらくすくすと笑っている。スティーレも、スコットの口上には思わず微笑んでしまった。さすがになかなか上手である。愛想のよさは、旅人たちのなかでは一番かもしれない、などと思う。
「さあ、お嬢さんがた。とくとご覧じろ。お気に召すものがあれば遠慮なくお申し付けを! このスコットがたっぷりご説明いたしましょう」
スコットは大股で玉座に歩み寄った。ぱくんとトランクの蓋を開け、献上物のように捧げ持つ。
ふたりの姫君は、またくすくすと笑っている。
スティーレがトランクの中を覗くと、商品はひとつきりしかなかった。虹色に輝く鳥の羽根飾り。スコットがたしか腰からぶらさげていたものだ。
「燃える砂や琥珀の水は何処?」
鳥の羽根飾りをそっと手にして、からかうように姉姫がいう。
「おや残念。ついさっき売れてしまったのでした。どうしてもと希われたお客さまがいたのでね。不躾とは思いながらも金貨50と1枚で交換してしまった。魔物退治に必要だとさ。お嬢さんがお望みならば西域・東国からお取り寄せいたしましょう! ですが今日のところは、その羽根飾りでご勘弁を」
よくもまあ、これだけ言葉がするすると出てくるものだ。スティーレは感心するばかりである。
「でも、飾りならたくさんあるのですよ」
姉姫が手にした羽根をそよがせながら涼しい顔でスコットに告げる。商人は困った顔ひとつせず、嬉々として話を続ける。
「お嬢さんがいくら行李持ちでも、その虹の鳥の羽根はお持ちじゃないでしょう? 何たって南国楽園で舞うという幻の鳥の羽根。蝋燭の灯りでは夜の星の色に、太陽のもとでは透けるような虹の七色に輝くんですよ。ほらご覧なさい。すべらかな手触りでしょう!」
スコットは姉姫の手に自分の手を添え、輝く羽根の感触を確かめる。
姫君の手に触れたとき、ちくりと刺激を感じたものの、スコットの口は休まることはない。
「たくさんの魔術師が、この羽根を手に入れようとしてやっきになった! だけど手に入れることはかなわなかったのさ。それは何故か? ご存じですか、お嬢さん」
片目をつぶってみせると、スコットは虹の鳥にまつわる伝説を語る。この鳥は、羽根を渡す人を選ぶのさ。鳥が美しいと認めた人にしか触ることは出来ない、それは鳥が居なくなっても同じなんだ。だからお嬢さん、あなたは鳥に選ばれたんだよ。鳥を惚れさせるなんて、憎いねお嬢さん……。
スティーレは知っている。虹の鳥の羽根飾りは、スコットが故郷を旅立つ時に母からもらった餞別なのだ、と。本来は売り物ではなく、今やこの羽根飾りが、12のときから離れている故郷に戻る道しるべのようなものであることを。
美しいと認めるうんぬんが真実かどうかは怪しい。むしろスティーレは、スコットの絵の題名が『鳥』であることを重ね合わせて考えてしまう。
最近スコットは、《大陸》に戻らなくちゃ、というようなことをよく口にするようになっていた。
考えすぎだろうか? この子は姫君に心を許しているように見えるけれども、それはうわべの、商人として生きてきた知識でそう振る舞っているだけに思える。ゆうゆうと気ままに羽ばたいている鳥に見えるけれども、実は羽根を休める場所を探し続けている鳥。そんなふうな光景が浮かんで、消える。
「……だからその羽根は幸福のしるし。どうだい、美しいお嬢さん?」
妹姫は紫色に煙る瞳を大きく見開いて、スコットと顔が触れるほど身を乗り出した。
トランクを肩に乗せ、膝立ちのスコットは、その頬に妹姫のまつげの感触を感じる。姉姫の手に添えた指先からは、鼓動にあわせてめくるめく快感が流れ込む。同時にたくさんの色彩が脳裏に翻る。姉姫はささやく。
「その鳥は何を美しいと思うのでしょう?」
と。
「お嬢さんの疑問にお答えしましょう」
スコットは目を閉じて、姉姫の手を強く握った。心には故郷の光景――北の寒村を、燃えさかるように染め上げる赤々とした夕日の輝きを思い浮かべて。白い原野は日没前の一瞬、一日で最も美しく照らされる。《大陸》で一番美しいとスコットが思う場所。美しさとはそういうことだ、と彼は思っている。
(赤い……)
「そう。赤い。赤く染まって、そしてすぐに闇が訪れるんだ。俺の故郷はそういう世界」
人形師の好みに合うのかもしれない。彼女も山間に生まれ育ったというから。淡い水色のツインテールを思い浮かべる。
「綺麗だろう?」
この景色があるから、スコットは自分の物語の主役でいられる。
大きな物語の脇役になるよりも、彼は自分の物語の主役であろうとしている。最近分かりかけてきた。スコットの物語は、レオやクラウディウスのそれよりももっと狭い範囲で語られる。それは当然だ。関わっているもの、背負っているものが違うから。
でもそれは重要とか重要でないとかいうこととは違うのだ。姫君たちは、どんな物語も等しく眺めている。それが、その人の語るべき物語である限り。
「番人さんたちが自由になれば、直接見ることができるんじゃないか? その際にはお嬢さんをどこまでもご案内しましょう」
(……赤くて、短くて、すぐに終わってしまうのね)
(でも日毎に繰り返されるのよ)
(まろうどの、物語のように)
スティーレは唇を噛む。慣れないのだ、この会話方法には。
だが、黙していて気づいたこともある。姫君たちが痛みを知らぬのなら。この力、触れ合って交感できる色彩言語により、自分が腕を失ったあの痛みを再現し、伝えることはできないものだろうか?
娘のようなふたりに、スティーレは、人間としての世界を見せたいと思っている。
■Scene:母でもなく子でもなく
ジニアに呼び出され、ローラナは姫君の御前に進んだ。不安な表情を浮かべ、けれどその下にははっきりと決意を抱いている。
「子を孕んだというのは本当ですか、音術師」
奇妙にうごめく玉座にもたれ、姉姫ウィユはローラナにささやいた。妹姫は紫に煙る瞳を陶然ととろかせて、姉姫の細い肩に頭を乗せている。
「おっしゃるとおりでございます」
おずおずとローラナが答える。傍らのジニアは、無言で立っている。仮面の下でどのような表情をたたえているのか、ローラナにはわからない。彼女のことは謎めいていた。十分な助力を彼女からは得ていたけれど、思惑を明かしてくれているわけではない。
「月が満ちたら赤ん坊が生まれてくるとあの学者から聞きましたが……楽しみね」
くすくすと姫君たちは笑いあう。
「まだまだ先ですわ」
おなかに両手をあてて、ローラナが儚げに微笑んだ。
おなかの子が生まれるころには《大陸》に戻ることができる。いや、何としてでも戻らなくてはならない。そして夫の墓前に報告に行かなければ。
「なぜ? 月はもう……」
ささやきながらふたりの姫君は、つと玉座を降りてローラナを引き寄せた。意外に強い力は、未亡人の予想以上だった。
「あ……」
思わず呻く。ふたりの姫君の細い指に、しっかりと手首をつかまれている。ローラナの手の甲、髑髏がうずきはじめた。姫君の指先からさまざまに翻る色彩と快感があふれ、ローラナの全身を駆け巡った。
(この《島》には時は流れない。はかることもできない……そう、いいましたよ)
妹姫の言葉をローラナは恐れた。
同時に、死の象徴である髑髏を恐れた。今やローラナの刻印ははっきりと目覚め、どくどくと脈打ちながら白く輝く高揚感を送り込んでいた。
(ほら、ここにも)
妹姫が、しなやかな手つきでローラナの腹部を撫でる。
ローラナの中の新しい命に、髑髏は気づいていた。ずきん。重い快感が腹部を穿つ。
快感? 違う。これは、かつて、痛みだったものだ。
(音術師よ。この子を我らにくださいな)
無邪気に微笑みを浮かべ、妹姫は小首をかしげた。しゃらり。髪飾りが揺れる。
「……え」
ローラナの身体が強ばった。姫君の手から逃げようと身をよじる。
(この子のこと、とっても気に入ったの)
「な、何を……嫌です」
全力を込めて、姫君の腕のもとから抜け出すローラナ。髪が乱れ、唇にはりついた。肩で荒い息をつく。
恐ろしかった。けれども圧倒的な高揚感は、まだ身を満たしていた。いつの間にか手にはあの白い剣が出現していた。
「伝書鳩たちは《パンドラ》をもう食い尽くしてしまう。次の獲物に、この子がいいと思うのです。音術師よ。よい返事を待っています」
くすくすくす。姫君たちは楽しげに笑っている。
ローラナはまろびながら広間から立ち去った。ジニアの視線が追いかけてくるような錯覚に陥りながら、救いを求め続ける。
あなた。
私の希望――私とあなたの希望のこの子を、どうして髑髏に差し出せましょうか?
「……まだ伝書鳩が必要なのですか」
ローラナが去った後、ジニアが姫君に問うた。
「私には、もう、飛ぶ必要はないように思える」
姉姫は両手をふわりと伸ばした。ジニアの頭を抱えるように、頬に指を這わせる。指先がジニアの胸元をたどり、ふと止まる。
赤い薔薇のコサージュ。それは贈り物だった。薔薇の指輪をはめた男からの。
「だって我らはまだ」
妹姫は薔薇をむしりとり、無造作に投げ捨てた。
(探し物を見つけていないから)
ジニアは無言でそれを拾いあげる。くすくすくす。立ち去る背中に、姫君の笑い声が追いかけてくる。
自室に戻り、小さな箱にコサージュをおさめる。
鍵のかかる音が静かな部屋に響いた。
4.勝利と破壊の御名の下 へ続く
1.運命の縦糸|2.レオの朝、ティアの朝|3.姫ならぬ者|4.勝利と破壊の御名の下|5.処刑と断罪|6.墜ちた月|7.鏡と半分|マスターより