PBeM《ciel RASEN》 - 2005 : 第5章

5.処刑と断罪

■Scene:あまたの光(1)

 ネリューラ・リスカッセが占い師エルの部屋を訪れると、部屋の前で人形師リアルと鉢合わせになった。
「ちょっと! どうしてよー!」
 正確には、エルの部屋からリアルが出てくるところであった。お手製のリュックを背に、両手を腰にあてて何やら叫んでいる。
「ルクスが必要なの! ヴァッツの言葉がわかるのはルクスだけなんだから!」
「賑やかね」
 黒い口紅をくっきり浮き上がらせてネリューラは微笑んだ。リアルは片目を蝶の仮面で隠したネリューラを見るなり、アナタも手伝って、と叫ぶ。
「何なの? エルがどうかしたの?」
 扉の向こうからの占い師の返事はない。リアルの話を聞いてみると、ヴァッツやリラと共に海中階段へ挑むのに、エルの友人である光の精霊を借りようとしたのだが、断られてしまったのだという。リアルのブーツのつま先は、いらだたしげに床を叩いている。
「おかしいでしょ? リモーネには貸したのにずるい」
 リアルの手の人形が、ぱくりと口を開いた。かつてルクスを宿らせていた黒猫の人形だ。
「ルクスさん、人気者なのね」
 自身もルクスの力を借りられないかと考えていたネリューラは、またくすりと笑った。
「だって光るし。暗いかもしれないでしょ」
「そうね。海の中なのよね」
 視線をリアルからエルの部屋の扉に移す。ネリューラの胸元で骨の飾りが揺れた。
「いいこと考えたわ、リアル。私も螺旋階段を下りてみようと思うの」
 こくり。うなずくリアルの表情は、それが当然といわんばかりだ。
「じゃあヴァッツたちと準備して待ってる。絶対、来て!」
 ツインテールを翻したリアルを見送り、ネリューラは小さく咳払いをした。
「……エル。どうせ、聞いていたんでしょう」
 蝶番のきしむ音がかすかにして、扉が細く開く。

■Scene:あまたの光(2)

 占い師は寝付かれなかったのか、眠そうな顔で彼女を出迎えた。彼の頭上にふよふよと、行灯めいた明るさで精霊が漂っている。
「どうしてわかったんですか」
 不思議そうにエルが尋ねると、またネリューラはいたずらっぽく笑った。
「話さなかったかしら。勘がいいというのか、ちょっとしたことがあたるのよ、私。賭け事であてられる額はたかが知れてるけれどね」
「……聞きましたっけ」
 占い師より占い師らしい。そんなことを思いながら、エルは少し頬を染める。行動が見透かされているというのはずいぶん気恥ずかしいものだ。
「それでね、エル。螺旋階段の話、聞いたでしょう」
「はあ」
「私、行ってみるつもりなの。できたらルクスさんにもついてきてもらえると助かるんだけど」
「ルクスさんさえ構わなければ、僕は……」
 光の精霊は、ゆっくりと光を強めることでネリューラに応えたようだ。
「ありがとう。決まりね」
「僕は構いませんが……あまり危険な所へは近づかないほうがいいと思いますけれど……」
 生返事なのは、すぐに心配が胸を占めたからだ。その螺旋階段の先にどんな危険があるのかわからないのだ。みすみず危険にはさらせない。引き留めなければ。
「ともかくこの《島》の出口を見つけないことにはね。私たち、このままずっとはいられないんだもの」
 それはそうですけれど、と困った顔で続けるエル。その背の羽根も、あるじの迷いのように白から黒へ、また灰色へと色を変えた。
「ねえ、エル。この《島》は、《月光》のいう《箱》なのよ」
 少しだけ遠いまなざしをしながらネリューラは呟いた。
「ここは忘れ去られた実験場。その中に迷い込んでしまったの。過去の実験は失敗したみたいだけど……彼らは何を作りたかったんだと思う?」
「え」
 ネリューラの横顔が、はっとするほど綺麗に見えた。一瞬のうちにエルの羽根は真っ赤に染まった。返す言葉が見つからなくて、エルは口ごもった。
「つまり、そういうことも確かめられるかもしれない。だから行ってみるの。きっと綺麗よ。ルクスさんが気に入るかどうかわからないけど」
 光の精霊は、ふよふよと呪術師の前を横切っている。
「必ず後で追いかけますから、ルクスさん、それまでお願いします」
 いいながらエルはネリューラを抱きしめた。
 手の甲の髑髏がざわめくやいなやすさまじい快感がふたりを駆け抜けた。
「……あ」
 慌ててエルは身を離す。ネリューラの表情も一瞬険しくなる。彼女は手元を見た。掌を返すと、髑髏の刻印がざわざわと快楽の残滓を貪っていた。
 エルはぶんぶんとかぶりを振った。
 刺してはいけない。白い剣でネリューラを突いては、いけない。
「今は一緒に行けないけれど。追いかけますから!」
 そっぽをむいたままエルは叫んだ。
「じゃあ、また後でね」
 ネリューラがルクスを連れて出ていっても、しばらくエルの動悸は治まらなかった。

■Scene:あまたの光(3)

 身支度を整えたエルがレオの部屋に行くと、すでに連絡を受けていたクラウディウスが、ヴィクトールとともに待ち受けていた。アレクの姿はない。後はレオの服を仕立て終えたアンナが、落ち着かない様子で少年の傍らに控えていた。
 彼らがレオの警護についている時間をわざわざ選んだのは、そのほうがレオにとっていい結果を招くのではないかという期待からだ。ネリューラをひとりで行かせてしまったのも、つまりは占いの結果を報告するのが自分のなすべきことだとエルが思ったからだった。
 揃いの緑瞳が刺すようにエルを見つめている。
 いたたまれず視線をさまよわせるエルは、アンナをちらと見やり、気づかれぬように深呼吸した。
 アンナはクラウディウスのまとう張りつめた空気を心配していた。大人の事情にまた子どもを巻き込むのではないか、クラウディウスがどういうつもりなのか確かめなければならない。そして、出来ることなら彼の無茶を何とか留めたいと思っていた。その力が自分にあるかどうかは別として。
 これまでは自分は彼には無力なのだと、思い込んできたアンナだ。しかし今、彼女はクラウディウスから得た無形の報酬を手にしていた。
「占いの結果を報告するだと」
 はじめから、クラウディウスの口調は荒々しかった。
「ああ……エルって占い師だっけ」
 でもいつの間に、とレオは呟いた。クラウディウスはレオの言葉に深くうなずき、歩み寄るエルの胸元をいきなり鷲掴む。
「私の新帝陛下がお休みの間に勝手な真似をしたことを、私は許したわけではない」
「ではお聞きになりませんか」
 眼鏡の奥からエルはクラウディウスをにらんだ。彼と相対すると、いつの間にかエルの言葉まで固くなる。エルはそんな自分をどうしようもなく思っている。仕方がない。忘れるわけにはいかない咎を背負っているのだから。絡み合う蛇とともに。
「聞かせていただこう。私にはその権利があるだろうから」
 もう一度険しい瞳でエルをにらむと、クラウディウスはその手を緩めた。占い師に触れた瞬間流れ込んだ快感は彼が手を緩めると同時に引いていった。
 突き放されたエルの身体は軽々とよろめいた。ヴィクトールが乱暴にエルを引き起こす。
 ふたりの間にも快感が生まれているのか、とクラウディウスは思った。彼の心の中は冷め始めていた。エルは咳き込みながら一同を見渡す。
「人払いをしろ、クラウディウス」
「……できれば皆さんに聞いていただきたいお話ですが」
 やや考える間があって、クラウディウスはレオに答えた。
「陛下。ここはお聞きになったほうがよろしいかと」
「何故?」
 かすかにレオの表情が曇ったのをクラウディウスは感じとった。新帝の心には、若獅子騎士の忠誠に対する疑心が芽生えたのだった。その敏感さすらも、クラウディウスは眩暈とともに受け止めた。
「……《大陸》にお戻りになるためです」
 副官は命令に従い、エルの身体を締め上げた。もちろん関節を極めるなどヴィクトールにとっては容易い。エルの背で飾り羽根が悲鳴をあげる。
「う……」
「逃げようとしなければ痛くねえよ」
 いいかけて、ヴィクトールは自嘲気味に笑った。そういえば、痛みというものはもうないのだ、この《島》では。
 中肉中背とはいえ、エルの身体は占い師にしては、意外に引き締まっている。
「ちょいと。そこまでする必要はないんじゃないのかい」
 見えないとはいえ子どもの目の前で行われている拘束劇に、アンナは抗議する。
「マエストロ、こればかりはお許し願いたい。皇帝陛下への直訴とあれば、これでは済まさぬところだ」
「占い師さまが占いの結果を報告して、どこがいけないんだね」
「陛下がお望みではないからだ」
 相変わらず平行線を辿るふたりの会話に、ヴィクトールが手甲を鳴らす音が響く。
「過去なんてのは、もう終わったことだ。知っても恐いもんじゃない」
 それはレオに向けられた言葉だった。
「気に入らなければ無視してりゃいい。どうせ変えられやしない。違うか」
「でも。ヴィクトール。占いが間違っているかもしれない。占いが嘘だったら?」
「別に同じことだ」
 精一杯柔らかな言葉を選んでヴィクトールは答えた。幼い自分の姿が、行き場のないレオに重なって見える。あの頃、ヴィクトールの背中を押す人間はひとりも存在しなかった。だからこんな時、子どもにどんな言葉をかければいいのか他に思いつかなかった。
「それとも何だ。たくさんの人間が聞けば聞くほど嘘もまことになるなどと思ってやしないだろうな? 少なくともハリネズミのマントにくるまってじっとしているだけでは、おまえは何者にもなれない」
「それでいいよ。それでいいんだ。僕は」
「それじゃ生きているとすらいえねえな」
 アンナの哀れみの視線に、クラウディウスは背を向けた。
「私は一介の占い師。けれどこれが騎士さまの作法であるならば、このままでかまいません」
 苦しげな息の下でエルは答えた。
「あなたがたとえどなたであっても、私の陛下であることはお忘れなく」
 クラウディウスは言い聞かせた。自分とレオ、両方に。
 エルはまっすぐに少年を見つめ、自分の役目を果たすために口を開く。ふとネリューラの黒い輪郭が浮かんだ。追いかけなければ。約束したのだから。
「私の占いは、姫君の力のようにはっきりと絵姿を結ぶものではありませんが、レオ、あなたを占った際に水晶は……紫色の靄を映しました」
 青に近い、濃い紫。
 その色からエルは、ランドニクスにゆかりあるひとりの女性を思い浮かべたのだった。
 紫陽花姫と呼ばれた、先帝の妹君のことを。

■Scene:あまたの光(4)

 ――ランドニクス先帝アイゼンジンガー。彼には妹がいた。兄が帝位につくと同時に《聖地》アストラへと送られたその人は、その愛でる花と家紋から紫陽花姫と呼ばれた。
 アイゼンジンガーの血族として帝位継承権を持つがため、皇妃に与せぬ選帝侯に担ぎ出された姫君。アンタルキダスのもたらした《12の和約》の際に、その血を散らしている。
 年の頃は、アイゼンジンガーとはかなり離れていたはずだ。そう、まだ若かった皇妃とさして変わらぬほどに。

「レオ。紫陽花姫のことを、ご存知のはずですね」
 エルは、レオは逃げているのだと思っていた。
 彼は記憶を取り戻している。あるいは、元々失っていないのだとも。
「彼女はどんな人ですか? そして、彼女のことをどのように思っているのですか?」
 レオは、誰かを探すようにぐるりと顔をめぐらせた。誰もひとことも言葉を発しなかった。エルはそっと先を続けた。
「……本当は、もう、思い出しているのではないのですか?」
「オルテンシアは、優しいひとだった」
 ひとことひとこと区切るように、レオは声を絞り出す。ハリネズミのマントをぎゅっと巻きつけて、恐る恐る拘束されたままのエルに歩み寄った。
「オルテンシアさま。アンタルキダス陛下の叔母にあたる方ですね」
 ヴィクトールの腕の中でエルはうなずいた。
「僕は……」
 レオの足取りは覚束なかった。アンナは思わず立ち上がる。駆け寄りたくなるのをぐっと我慢し、クラウディウスに視線をあげると、騎士はかつてないほどの冷ややかなまなざしを注いでいた。
「僕には見えるよ。僕の手の血が」
 両の掌をレオはぼんやりと見つめている。もちろん彼の手は血に染まってなどいない。今は。
 けれどアンナにも見えるような気がした。《12の和約》に至るまでの幾多の戦いを経て、染みのようにこびりついているのだろう。
 それはつまりアンナの故郷を苦しめた戦いの残滓だ。目に見えぬものに縛られているのは、目が見えぬレオも見えている自分たちも変わらないのだ。そんなことを思った。
「僕は……オルテンシアを斬った」
「白い剣で?」
「……白い剣」
 鸚鵡返しに呟くレオ。
「白い剣を佩剣とする騎士に心当たりはないのか」
 これは、ヴィクトールからクラウディウスに投げかけられた言葉である。クラウディウスは無表情に、若獅子騎士団の中にはいないと答えた。
「ああ……あれは白……かったっけ」
 あの魔剣。そう口にするとわずかにレオの身体が震えた。まるで、少しずつ呼び覚まされる凄惨な記憶におののいているように。
「剣はいつも赤かった。僕の手も赤かった。《死の剣》……オルテンシアからもらった魔剣……その剣で僕は……オルテンシアを……」
 レオの震えがとまらない。クラウディウスは唇を噛んでいた。そうしていないと、何かがこぼれていきそうだったのだ。
 《パンドラ》の本体、ティアという少女と、レオの姿は似ているということ。レオには妹がいたこと。そして紫陽花姫。薄れ往く忠誠。
 いいえ、違います。私の新帝陛下。私の忠誠は、統一王朝に対する忠誠は、不動のものに変わりありません。
 彼は心の中で繰り返し続けた。目の前で生贄を拘束するもうひとりの自分――ヴィクトールを見つめながら。
「陛下、お気にやむことはありませぬ。陛下のなされたことはまったく正しい行為ですから」
 クラウディウスのかけた声に、レオは跳ねるように顔をあげ、叫んだ。彼の表情は憎しみに満ちていた。
「肉親を手にかけた記憶でもか!」
「無論です。《大陸》統一王朝のために、それこそが必要なのです」
「ならばおまえも肉親を殺せるのか?」
「もちろんですとも、私の新帝陛下。そんなことで平和が訪れるならば」
 クラウディウスは静かに答えた。むしろそれこそが、クラウディウスの望んでいたことだった。彼は血族すべてを代償に捧げ、願いを叶えるつもりでいた。引き裂かれそうな心とは裏腹に、言葉は口を優雅に滑り出た。いくらでも、詩人のように。
 これは血で描かれた舞曲なのだ。暗黒の仮面舞踏会だ。誰かの心を引き裂いた分だけ、同じ主題が変奏となって繰り返される。
 ほら、また。
「陛下。この《島》に妹君がおいでのようですが、誰か迎えにやりましょうか」
 あたかもすべてに気づいているかのように、クラウディウスは申し出た。臣下としては当然の振る舞いだ。
「妹だって? 生きているはずなどないと、そうおまえがいったじゃないか」
 不信に満ちた声だった。再会を希う響きはまったくなかった。
「死んだ妹になど会いたくないぞ。なぜ今頃になって会わせようとする? それとも今まで、僕に隠していたのか。クラウディウス?」
 いつの間にかレオの口調は詰問に変わっていた。クラウディウスは先ほどと同じく、《大陸》に帰還するためだと答えた。
「玉座につくには血の濃さは関係ありません。絶大なる力さえあればよいのです、陛下」
 騎士はレオの前にひざまずいた。エルはその姿を見下ろした。身をよじると飾り羽根が嫌な音をたてた。
「だから騎士なんかキライなんだ」
 喘ぎながらエルは言い捨てた。
「己の栄達と虚栄心のために、王の権威すら己のものにする」
 クラウディウスの瞳が暗く光る。
「そして、それが賢王のお心を乱しているということを、あなたはまだわからないのですか?」
「それ以上はいわさぬ」
 クラウディウスは即座に自分の愛剣を抜き、ぴたりとエルの喉元に突きつけた。髑髏の刻印がざわめいたかと思うと、見る間に白い光が溢れてクラウディウスの剣を包んだ。刻印からとめどなく流れ込む快感。ヴィクトールは成り行きをただ見ていた。
 レオは、呆然と立っている。会話から不穏な事態だと知れたのか、マントの端を握り締めている。
 エルの手にもまた。
 同時に白い剣が伸びた。死ぬわけにはいかない、と思った瞬間だった。エルを抑えているヴィクトールの全身をも快感が駆け抜ける。ひらめく色彩から、エルの思考の一部――ネリューラの元にいかねばならない――が感じ取れた。
「な、何を」
「どいてろ」
 言葉少なくいうとヴィクトールは唇を舐めた。
 クラウディウスの剣は、喉元からエルの手元へと狙いを変えた。そこにはエルに剣を与える髑髏が刻まれていた。
「帝国訴訟法典の規定により処刑する」
「いやです」
「副官」
 取り押さえよとの意味で、クラウディウスが命じる。
「いやですったら!」
 取り押さえる代わりに、ヴィクトールはエルを放り出した。クラウディウスが目を丸くするのも束の間、ヴィクトールの手にも白い剣が現れる。
「こっちのほうが手っ取り早いだろ」
 笑う副官に、クラウディウスは苦い顔をした。
 ついにアンナが飛び出して、大人に囲まれているレオを抱きしめ、叫ぶ。
「私を刺しておくれ。占い師が皇帝陛下にものをいう、それだけで処刑されなければならないのなら、占い師の代わりに私を処刑すればいい」
 目はずっとつぶっていた。レオにこの様子が見えないことを、アンナは心底よかったと思った。厚いショール越しでは、ハリネズミの棘もそれほど刺さらなかった。ほんの少しショールを突き抜けたものがあっても、その痛みはもはやアンナの知る痛みではなかった。
「だいたいおかしいよ。レオに何かをいうたびに誰かを殺さないといけないのかい? さっきレオがいったことをもう忘れたのかい? 騎士さま、本当は髑髏を刺して実験したいだけなんだろう。レオを理由にするのはよしておくれ。それが約束だったはずだよ、騎士さま」
 手の甲で、髑髏が息づいている。紡ぎ手の命である手に髑髏が宿ったことを、これほど怖いと思ったこともなかった。
 高揚感に頭がぼうっとした。恐怖もいつの間にか麻痺していた。
「マエストロ・アダー」
 ふっと頭上から降りてきたクラウディウスの声は乾いていた。
「報酬は貴女のものだ」
 切っ先がエルから逸れ、一瞬アンナの眼前を通過して、クラウディウスの剣は鞘におさまった。
 エルは肩で息をしている。白い剣はエルの呼吸に合わせるようにどくどくと脈打ち、床に光を映していた。ヴィクトールはエルの仕草から、彼がかつて剣を習ったことがあると見抜いていた。
「……ごめんよ」
 誰に向けたかわからぬ謝罪をアンナは口にした。クラウディウスの誇りに向けたものか、それともきつく抱きしめてしまったレオへか。あるいはレオに触れた際に、秘密を暴くように覗き見てしまった色彩、レオの記憶に向けてだろうか。血まみれの玉座。その前で抱き合うふたりの輪郭。ごめんよ、ともう一度アンナは心で詫びた。

■Scene:あまたの光(5)

 最初からなかったエルの罪はアンナの嘆願により消えたが、クラウディウスが許したわけではない。ヴィクトールにエルの拘束を命じたのである。
「《満月の塔》に至る鍵はこの白い剣にある。マエストロ・アダーの刻印を貫くことはできぬ以上、あの占い師は必要な実験台だ。卿と同じ部屋の住人なのだから」
 ヴィクトールは眉をしかめた。
「部屋割りの話がどうして出てくるんだ」
「数え歌を思い出してみるがいい」
 彼は、剣と刻印の組み合わせが部屋割りに関係しているのではないかと思っていた。エルとヴィクトールは元々同じ部屋を希望していた。ヴィクトールが手を下すのなら、エルがふさわしい相手ということになる。
「……どうだかな」
 そうはいわれても、監禁のふりだけしておけばいいと思うヴィクトール。彼は、剣と刻印の組み合わせ、つまり自分とエルの組み合わせはそもそも関係ないと考えていた。
「マエストロ、貴女が大事な人とふたりきりで過ごしたいのならば……」
 クラウディウスはふいにアンナに声をかけた。大事な人、のくだりはエルに視線を注いでいる。
「申し訳ないが十分程度なら、副官に席を外させるが」
 面食らったアンナは、やがて力ない笑いを浮かべた。怒りを通り越した果ての顔だった。
「必要ないよ。そんなんじゃあないからね」
 騎士の感覚との平行線は、平行どころではなく明後日の方向へ伸びているような気がするアンナである。
「……エル様はこちらでしょうか」
 控えめな、けれども涼やかな声が突然聞こえた。
「リモーネさん」
 抜け落ちた羽根を拾っていたエルは、意外な訪問にとまどった。
「展示室の騒動の後にうっかりルクスさんとはぐれてしまいました。戻っておられるかと思ったのですがどうだったのでしょうか」
 リモーネは薄紗の下でうつむいた。
「ルクスさんなら今大人気です。ご心配の必要はありませんよ」
「ああ、よかった。まだ戻っていらっしゃらなかったら、どうしようかと」
 歌姫は微笑を浮かべると、自分を見つめる視線のあるじに目をやった。
「クラウディウス様、何か」
 彼の視線は冷たかった。ヴィクトールのそれとは別の意味で、リモーネはぞくりと背筋を振るわせた。クラウディウスと同じ視線は幾度も浴びたことがあったから、すぐにその意味するところは知れた。
 つまり自分は、汚らわしい女なのだ。
「壊れもせずに忘れられるよりは、壊してしまっても覚えていていただくほうがずっとまし。ですから」
 歌うように告げてリモーネは細い手を差し出した。
「……髑髏の刻印がお入用なら、私をお使いくださいませ」
 何だって、とアンナが顔色を変える。
「その役目、俺がやってやろう」
 ヴィクトールがリモーネの前に立ち、乱暴に顎を引いて顔をあげさせた。
「いや。卿には及ばぬ」
 決意を込めた顔で、クラウディウスが遮った。彼は、リモーネの分は自分が引き受けるつもりなのだった。女性に剣を振るえぬ騎士道も、夜の女に対しては別である。彼女たちは卑しい身分の存在なのだから……自分の母と同じように。

■Scene:硝子の影淡く

 歌姫の刻印をふたりが奪い合っている間に、アンナはこっそりとリモーネの手をとり別室へと誘った。触れ合う指先から、例の快感がこぼれてくるのもかまわない。
「どうして、あんなことをいったんだい」
 男性の目の届かぬ場所まで来て、アンナは問いただした。
 リモーネに対して抱いていた気後れは、他のものに変わりつつある。
「どうしてって……」
 リモーネはじっとアンナを見つめた。アンナの足首の飾り輪を見、彼女の荒れた指先を見、そしてそっけなく結ばれた茶色の髪を見た。
「私は、《大陸》に戻りたいとも、《塔》で願いを叶えたいとも思えないのですわ」
 ルーサリウスに告げたのと同じ台詞を、リモーネはただ繰り返した。
「そ、それにしたって、姫君の思惑に載せられているのには変わりないだろう?」
「そうとは限りませんわ」
「お願いだ。自分の身を差し出すようなことはやめてほしいんだよ……特に、あの騎士さまの前では」
「そのお願いは私ではなく、騎士さまになさってはいかが」
「……したんだけどねえ」
 残りの言葉はアンナの口のなかでもごもごと消えた。
「クラウディウスには傷つけさせないでほしい。勝手なお願いってことはわかってるさ」
「本当に」
 歌姫は、金色の髪を揺らして首を振るばかりである。
 本当に、勝手なお願い。
 硝子細工が壊されたいと願うのも、破壊者の都合を無視した、なんて勝手なお願いなのかしら?


7.鏡と半分 へ続く

1.運命の縦糸2.レオの朝、ティアの朝3.姫ならぬ者4.勝利と破壊の御名の下5.処刑と断罪6.墜ちた月7.鏡と半分マスターより