ジェニーが一生懸命琵琶を弾いている音が、泉のまわりに響いている。楽器に触ったのは久しぶりだったが、ようやくこつを思い出してきた。
「そうそう、魔法の勉強する前なんかによく弾いてたっけ。この音聞くと、心が落ち着いていいのよね」
琵琶を弾きたいと言いだしたのは、もちろん父親と同じことをできるようになりたいと思ったジェニーからだった。時に激しく、時にしっとりと奏でられる父親の弾き語りは、いつだってジェニーの心をとらえたのだ。調子がよくてついつい話を大きくしがちなバードだが、それがまた向いているようなのだ。旅の途中、請われて歌を披露していたこともあったらしい。
「そうやって、お母さんと出会ったのかな」
ジェニーの指が止まる。奏でられそこなったメロディが、泉の上を渡っていった。
アゼルはジャンを誘って里長を訪ねていた。里長は塔の自室で書物を読んでいるところであった。今日のイェティカの《成人の儀式》の準備に、午後からとりかからねばならない。文献を確かめているのだと言う。拡大鏡を机の上に置くと、ふたりの話をうなずきながら聞いている。
「それで、気づいたんです。この《星見の里》は中央の泉を囲んで、ずいぶんきっちりしたつくりになってますが、こういう都市は《大陸》じゃ珍しいんですよ。あらかじめ計画的に建設された都市でないと、道もこんなにまっすぐにはならないんです。それに、万極星の光がまっすぐ差し込むようになっている」
「ここの市場じゃ、《大陸》の銀貨が普通に流通しとる。どういうこっちゃ」
「そうそして、《星見の民》が、星と大地の力を受けているという話も聞きましたよ」
「あとな、《大陸の民》がおかしくなってしまうっちゅう噂、聞いたで。うちの連中はまだピンピンしとるし、いざっちゅう時はオレの薬で自信あるけれどもやな。あんまいい気はせんな。これも、昔そういうことがあったんやろ?」
「《星見の民》はどうしてこの《忘却の砂漠》に住むようになったんでしょう?何か理由があるんじゃありませんか?」
「そもそも10年前10年前て、いったい何があったんや」
「……もう!ジャンさんっ」
アゼルが苦笑する。口では彼に勝てない。大の男二人に畳みこむように話しかけられていた里長が、ようやく言葉の切れ目を捉えて口を開いた。
「順番に説明しようか……」
千年前、それがすべての始まり。その物語に証拠はない。ただ語り継がれるのみである。
これは万極星の定めを受けたもの、《星見の姫》のみに伝えられる歴史だ、と里長は語った。
「千年前、《金色の姫》とそれに従う従者がこの地にやってきた。時が流れ《金色の姫》が永い眠りにつかねばならなくなった時、従者は姫が再び目覚める時まで、その寝室を守ろうと決めたという」
従者はその定めを娘に受け継がせた。娘は長じて、時を見通す万極星の瞳、《星見》の力を手に入れた。その娘は金色の髪に金色の瞳だったという。金色はあらゆる色を越えた強さの証。茶色から灰色、黒までさまざまな体色のものが《星見の民》には現れるけれど、それは従者がこの地に辿り着いた時に空から降ってきた隕石の、大地の力を取り込んだからだという。《朱の大河》があのような色をしているのは、隕石でできているからだと。それは、偉大な万極星から降ってきたかけら。それまで緑なす大地だったこの地は、その隕石が燃やし尽くして砂漠になってしまったという。
「だがすでに、その寝室の場所は失われておる。砂漠のどこか、それは分からない。分からないが、我らはここにいる。いずれ戻るであろう《金色の姫》をお迎えし、再びその君にお仕えするべく」
「でもそれは、《星見》で見えない」
ジャンが思案顔でつぶやく。
「そうじゃ。《星見の姫》は、自分自身のことを見通すことができぬ。そして《金色の姫》のことも予知できない……なんとなれば《金色の姫》が蘇るということは、すなわち」
里長は言葉を切った。
「いや、やめよう。おまえさん方の想像に任せるよ。《金色の姫》についてはわしも半信半疑だ。こんなことを言ってはいかんかもしれんがの、一度は《星見の姫》の名に連なった身だ。《星見の姫》は、《成人の儀式》で選ばれる。選ばれて万極星の朱印を宿した時から、千年の苦痛もその肩に背負うことになる。しかし《夜魔》のかぎ爪に、多くの同朋たちが命を落としていく時、なぜ万極星は力を貸してくれぬのか、なぜ目覚めた《金色の姫》が助けてくれぬのか。たしかに《星見》で危険を回避することはできる。しかし生まれてしまった《夜魔》を元に戻すことは、《星見》の力だけではかなわない」
いつになく弱気な里長の発言は、部屋に《星見の民》がいないせいだろうか。
「《夜魔》騒ぎのうえに《星見の姫》が行方不明……すまないね、老体は少し涙もろくなっておるようだ」
「10年前の話を?」
ジャンがうながした。
「10年前……おまえさんがたは、パレスの話を聞いたかね?」
「んん、今の《星見の姫》に代替わりした年ってことやったな。パレスの話はいまいとわかりにくくてあかんわ。なんや随分苦しそうやったけど」
「そうかい。これでもあの子も大分救われた顔をするようになったんだよ。まあいい、ラステルは当時14だった。ところが、その時の姫が、突然姿を消したのだ」
今と同じように。
満月の晩に。
理由はわからない。
結局姫は見つからず、捜索の手は休めないまま、2週間後《成人の儀式》を受けたラステルが、その体に万極星の印を帯びていた。新しい《星見の姫》。
「ラステルさん、びっくりしたでしょうね」
「いきなりな話やもんな。心の準備っちゅうもんがでけへんやないか」
「あの子は頑張っていたよ。あまり丈夫なたちではなかったが、必死に《星見》をして」
「そして《夜魔》が出現したのか」
自らの見てしまった不吉な《星見》のとおりに、両親を失い、ハースニールを失い。
そして今に至る。
ジャンはくらくらきた。オレらこっち来てから、ちっとも状況ようなってないやん。悪化しとらんちゅうだけや。
「オレらに、あと何ができる?」
彼は真剣な表情で尋ねた。
そんなジャンの様子を、アゼルは前も見た。この人はいろんな顔を持っている。仲間と大勢でいるときにはどこか落ち着かなさそうで、美人と見ればすぐ軽口をたたく。けれどひとりで過ごしている時の彼は。まったくなんという表情をしてるんだろう。
「やりたいことを、やりたいようにするがいい」
淋しげな顔で、里長が言った。
「《父なる者 光る夜より来る》……《大陸の民》よ、よろしく頼むぞ。おまえさんがたなら、砂漠の悪意にも負けぬだろう」
「悪意?」
「そろそろイェティカのところにいってやらんとな、おまえさんたちも、また来るがいい」
聞き返す時には、里長は自室を出ようとしていた。
泉の中はひんやりとして気持ちがよかった。
地上で眺めていると、照りつける太陽の反射でまぶしいくらいだが、潜ってみるととても透明な水である。こういうところは水の精霊も好むだろうになあ、などとバードは考えている。トリアは慣れた手つきで二つの空気袋をしっかりと体にくくりつけると、先に沈めておいた石にくくりつけていたロープをたどって、どんどん深く潜っていった。
バードの目の前を、きらきらした小魚の群れがさあっと光の矢のように通り過ぎた。
(おっとと、俺も精霊の気が変わらないうちに下までいかなくちゃ)
グリーンがくれた水袋をありがたく利用して、水中でも移動が楽になるようにしている。行って帰ってくる分くらいは持つだろうが、急ぐに越したことはない。バードは、トリアが見たトンネルをくぐってみるつもりだった。呼吸にはトリアが準備した空気袋を自分の分も作って体につけた。浮力も出来てなかなか楽である。
トリアのほうは、もうトンネルの手前まで辿り着いている。彼女が指差したところに、ぽっかりと空洞が見えた。水深15mというところだろうか。水底まではトンネルよりさらに深く潜らなければいけない。ただ透明度が高いので、すぐ手をのばせば底の砂がすくえそうに見えるのだが。潜ってみて分かったが、この泉は逆すり鉢状なのだった。トンネルが口をあけているところは、オーバーハング気味になっているのだ。
バードはトリアを見てうなずいた。トリアがトンネルの入り口に浮かんだまま、意識の糸をするすると伸ばしていく。水中で使ったことはあまりなかったけれど、呼吸が苦しくないので集中できる。意識の糸は、トンネルの内部がつるつるになっていることをトリアに伝えてきた。
(ふうん、やっぱりどこかにつながってるのね。ダグザがいってた。ここが《朱の大河》につながっていたら、敵はダイレクトにお姫様のもとに辿り着けることになるって。だとしたら、このままここを滑り降りていったら……)
潜る前にそれとなく、里の人間に尋ねてみたところによると「泉は深いから潜っちゃいけない(やっぱり!)」ということだった。イェティカが小さい頃、水辺で遊んでいて溺れそうになったことがあるらしい。グリューンも《朱の大河》では珍しがっていたから、砂漠の民にとっては大量の水はそれだけで不思議なものなのかもしれない。
バードがトンネルの中に突入していたので、トリアも遅れじと追いかける。二人のそばをふらふらと漂う、青い水流、水の精霊がほんのりと淡く発光している。トンネルはゆるやかに何回もカーブを繰り返していた。傾斜を考えると、水の流れに逆らって進むのであるから体力を使うはずなのだが、ふたりともただ浮かんでいるだけで労力は使っていない。
そうやってしばらくトンネルの中を進むと、奥に明るい光が見えてきた。
(おっ、いよいよどこかに着いたか!?)
(分岐してるよ!)
トンネルの中に、明るい空間があった。水面だ。ふたりはぷはっと顔を出して、久しぶりに声をかわした。
「ここは?」
ぺっとりと前髪を額にはりつけたトリアが、上を見上げた。まだトンネルの中だ。空が見えるわけではないのに、どうして明るいんだろう。水を満たしたトンネルから数段の階段が顔を出している。というよりも、三方向に下り階段を持つ部屋が水没したという雰囲気だ。
「分岐点というわけか」
乾いた地面に上がって、バードはあごに手を当てて考えている。
斜めに水路が分かれている。今来たトンネルより少し細めだが、どちらも同じように見える。トリアが操術で、行く手を調べてみた。ずっと細く、なるべく遠くまで届くように。
「遠いよ〜」
「がんばれトリアちゃん! 俺と水の精霊がついてる!」
根拠のない励まし方をしながら、それでもトリアは水路の向こうにあるものを捕らえた。
「ええっとね……」
護身用の短剣を取り出して、かりかりと乾いた床に描いてみる。同じ角度、同じような長さで伸びる水路の先には、それぞれまた二股の分岐。
「この分岐から先までは分からなかったけど、でも太いのと細いのがあるみたいだよ、トンネル」
「なるほど、こりゃきれいな三角形になるじゃないか。ダグザの言ったとおり、方向からして右側の水路の先が《朱の大河》方面だとすると……」
左の水路は、北東に伸びている。仲間がずっと頑張ってつくっている地図を頭に思い描いた。その先にあるものは。
「《万極星の神殿》だよ!」
「そうか、こりゃアゼルに教えてやらないとな!」
その時、ばしゃん! と鋭く水面をたたきつける音が水路に響いた。
「危ないトリアちゃん!」
がば、とバードが少女をかばう。牙の生えた大きな口を開けて飛び跳ねたのは、大人の胴ほどもある魚だった。ねらいを外して、怪魚は再び激しい水音とともに細い水路へ落ちた。
「うわ、あんなのいたんだ」
そっと操術の糸を準備した。
「やれやれ、《忘却の砂漠》ってやつはなんでも大きいんだな。魚も砂とかげも」
バードもすらりと漆黒の剣を構える。
「でもこれで、暑い炎天下を移動しなくてもすむな」
「そうだね」
油断なく構えを続けるトリアとバードの耳に、きれいなメロディが聞こえてきた。どこからだろう、和音の旋律に重なる幼い声。物悲しい弦楽。
「ジェニー?」
バードがふっと耳をすましたそのとき、また怪魚が攻撃を仕掛けてきた。今度は避けきれない。鋭い歯で、衣服を引きちぎられ、持っていかれてしまった。
「おじさん大丈夫!?」
「あたた、おじさんはやめてくれよトリアちゃん。くそう魚め、親子の絆を邪魔する気だな!」
バードはぶつぶつと呪文をつむぐ。そういえば彼は魔法剣士を名乗っていたのだった、とトリアは思い当たった。
「《まばゆき光彩を刃となして そを引き裂かん……》ふん、くらえ雷光の矢!」
ぴしゃりと落ちたちいさな落雷に、焼け焦げをつくった怪魚は攻撃を止めて水路に消えた。
「細い方の通路からは出てこないみたいだね。お魚さん」
「う〜ん、ジェニーが心配になってきた」
「おじさんってちょっと過保護なんじゃないの」
年の割にしっかりしているトリアに指摘されて、バードはたじたじである。まるで、ジェニーがもうひとりいるみたいだ。
「あっ、ここ見て!」
トリアが指差した先の床には、金属質の光沢を帯びたプレートが埋め込まれていた。
「何なに、……が……の……を……」
「ちょっとおじさん、ふざけてないでよ!」
「あたたた、ごめんな。ええっと命令形だな。いや仮定法か。こうだ。
《する 呼ぶ 名前 憂鬱》」
「はぁ〜?」
「こうかな?《憂鬱に呼ばれた名前をする》」
「《名前を呼ぶと憂鬱になる》じゃないの?」
「うーん、ここはもっと詳しい人に聞いてみよう」
とりあえずの収穫を持って、ふたりは里へ戻る水路に身を投じた。
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