1.薄明
■Scene:それぞれの夜明け(1)
占い師エルの居室になぜか転がり込んできた少年、新帝レオ。
少年を担いだ無法者の訪問には、さすがにエルも驚いた。きっとレオも驚いただろうと思ったのだが、そうではないようだ。初対面の者たちと他愛もない会話を交わしたり、そのまま寝入ってしまったり、意外にレオには神経の太いところがあるらしい。ランドニクスの内乱を鎮めるくらいなのだから、誰よりも度胸があるのは道理である。そうして、その夜は床についたのだった。
リモーネたちの夢占いで感じた疲労も、休むと幾分楽になった気がする。
傍らに商売道具があることを確かめると、エルは身を起こして眼鏡をかけた。本来はヴィクトールのものである寝台で、レオが寝顔を見せている。年相応とも呼べる無防備な姿は、彼が記憶を失う前に過ごしてきたであろう凄惨な戦いの日々を反対に思い起こさせた。
「わたしだけのおうさま……ですか」
エルの呟きは、いつか夢の中で耳にした一節だ。
新帝が内務省を通じて《パンドラ》を探させている。レオにとって《パンドラ》はどういう意味をもたらすのだろう。少年の未来を変えるもの、なのだろうか。
そんな思いを抱きながら、占い師は水晶を覗き込む。
あいまいな未来。変わる前の、あるいはこれから変わる未来。何かを示すものを感じ取れるだろうか。
「これは」
眼鏡の奥でエルは目を細めた。水晶がその持ち主にこっそり告げる幻像を、もっとよく見たくて。
「紫色……青に近い、濃い紫ですね」
元々エルの占いでは、水晶にはっきりした光景が映ることは稀だ。水晶の幻像、あるいは幻像のように見える何かを、謎解きのようにほぐしていくのが彼の作法である。以前姫君の未来を占おうとして見てしまった光景は例外中の例外で、だからエルはあの光景は何者かが見せたものだ、と感じていた。
紫色。
その色に、心当たりはない。
衣服が紫なのは人形師リア。紫の瞳を帯びているのは放浪者レシア。あるいは、妹姫レヴル。
けれどまろうどの誰かがレオの未来、あるいは《パンドラ》の行く末に影響を与えるというのなら、少し違う気がした。
もやもやとした思いが形になるのは、しばらく水晶を見つめた後のこと。
濃い紫の……花。紫陽花。その印象をもって浮かんだ、ある女性ならば。
帝都を揺るがせた内乱の、いっぽうの旗じるし……エルは詳しくを知らない。けれど逆に言えば、エルですら多少聞きかじっている事件。
――ランドニクス先帝アイゼンジンガー。彼には妹がいた。兄が帝位につくと同時に《聖地》アストラへと送られたその人は、その愛でる花と家紋から紫陽花姫と呼ばれた。
アイゼンジンガーの血族として帝位継承権を持つがため、皇妃に与せぬ選帝侯に担ぎ出された姫君。アンタルキダスのもたらした《12の和約》の際に、その血を散らしている。
年の頃は、アイゼンジンガーとはかなり離れていたはずだ。そう、まだ若かった皇妃とさして変わらぬほどに。
神に身を捧げたはずの彼女が、もし子どもを産んでいたならば?
アンタルキダスは、アイゼンジンガーの第二皇妃が残した末子。
エルはそっと、レオの寝顔を見やる。
「わたしだけのおうさま」
邪推かもしれない。深入りしてはいけない気もする。
おうさまを、ひとりじめしたかったのは、一体誰なのか?
レオが口の中で何かを呟きながら、寝返りをうつ。彼の見る夢は、エルには予想もつかない。
■Scene:それぞれの夜明け(2)
神聖騎士ロザリア・キスリングは、憔悴しきった様子で部屋に戻ってきたレシアの看病をしていた。
彼女を背負ってきたエルリック・スナイプは多くを語らなかったが、おおよその話はロザリアも耳にしている。
「無茶をさせてしまった原因は、私にあるのでしょうね……」
横たわるレシアの呼吸は落ち着いている。このまま休んでいれば回復するだろう。レシアの行動は、自分の身を案じてのものであることをロザリアも知っている。考え事をするときの癖で、ロザリアは爪を噛む。
回復したとしても、すぐにレシアは無茶を繰り返すだろう。おそらくは若獅子騎士も同様に。刻まれた髑髏のしるし。突如出現した白い剣。皆追い詰められているのだ。
このままでは無闇に消耗するばかり。何とかしなければ。
「……違う。レシアだというのに……」
レシアの口から寝言めいたささやきがこぼれた。
ロザリアははっと身を固くする。誰の夢を見ているのだろう?
「ルーが誰かも……知らない……」
レシアの額に、玉ぎる汗が浮かぶ。レオの夢? それとも、気を失う前対峙したという《パンドラ》の夢?
「……おまえは……ランドニクスの……」
息を飲み、ロザリアはただ見守った。
それきりレシアは唇を閉ざした。深い眠りに落ちていったようである。
■Scene:それぞれの夜明け(3)
ローラナ・グリューネヴァルトは自室に帰りつくなり、力なく壁にもたれかかった。倒れそうになるのを堪えるのがやっとである。込み上げる吐き気と戦い、ローラナはうめいた。
「この島に、死は満ち溢れている……ああ、あなた」
夫はやはり、自分を招いているのだろう。前に進むも、この場所に立ち止まるも、周囲すべてに死の影がまとわりついている錯覚。ローラナは壁に手をついたまま、気分を少しでも晴らそうと試みる。
しかし、脳裏に浮かぶのは夫の顔ばかりだ。
「時間を……頂戴。あなた」
ひとりごとは夫に届いただろうか。
ローラナはそっと目を伏せ、心中の嵐が過ぎ去るのを待った。
■Scene:それぞれの夜明け(4)
「もう夜明け?」
スティーレ・ヴァロアは今夜も寝そびれてしまったことを知り、大きく伸びをした。
姫君の謎かけは尽きることのない泉のようだ。夜伽につきあえばつきあうほど、謎が深く大きく広がり、玉座の前を辞した後にもスティーレの好奇心を刺激し続けるのだ。
「そろそろ寝なくちゃ。明日こそ地図を見せてもらわないと」
自分に言い聞かせるようにして、スティーレはもぞもぞと寝台にもぐりこんだ。
いくら滞在者本部でも、こんな時間に扉を開いてはいないだろう。
義肢代わりの飾り羽根は、毛布の中でかさこそと耳障りな音をたてる。スティーレが寝付くのはもうしばらくたってからである。
■Scene:それぞれの夜明け(5)
ヴィクトールは戻って来なかった。
別に彼の寝場所は別にあるし、と姫君おわす広間の片隅を思い出し、アンナ・リズ・アダーは疲れた息を吐いた。彼が護衛を定められた時間ではないから、戻ってくる必要はない。けれど憔悴しきった騎士までも不在となると、俄然心配になるのは何故だろう。
レオはいない。占い師の部屋に、ヴィクトールが連れて行ったのだという。
レオと彼の取り巻き――好むと好まざるとに関わらず、レオに関わっていた人々――がいない部屋は、荒れ果てた王宮のごとくアンナの目に映る。
「私も、戻ろう」
アンナは疲れた肩を揉み解し、立ち上がる。
クラウディウスに頼まれていた服が、あと少しで出来上がりそうだった。完成したらクラウディウスか、あるいはレオを訪ねて占い師の部屋に行ってみるのもいいかもしれない。
小さな離宮には、今は誰もいない。
■Scene:それぞれの夜明け(6)
「あーやだやだ。変態的」
ヴァレリ・エスコフィエは寝台にごろりと転がった。
「えー、何それヴァーちゃん?」
同じ部屋で暮らしているルシカ・コンラッドは、自分の寝台から四つんばいで、ヴァレリの顔を覗き込む。旋律球が耳に心地よい和音を奏でる。
「誰の話ー?」
「決まってるだろ。あの姫さまたち。っていうかさ、あんたのその、ヴァーちゃんって呼び名はどうよ?」
若干の抵抗を試みるヴァレリ。
「ええっ何で? ヴァレちゃんって呼ぶより可愛くない?」
「……うーん。いろいろ主観が入ってるんだろうしさ。みんなやりたいようにやってる訳だし、《島》の住人でさえあんたの呼び方を受け入れてるんだから、そこに文句言うのは大人気ないような気もするんだけどさ」
ヴァレリはちらとルシカに視線を走らせた。
眼帯に刺繍されている赤い目が、じっとこちらを見つめている。もともと紅い瞳をしているルシカだから、ともすれば眼帯の刺繍も彼女自身の瞳に見える。
「じゃあわかったよ。ヴァレちゃんにするね」
「……わかってないって。まあいいけどさ」
そう毒づきながらも、ヴァレリはこの共同生活をそれなりに楽しんでいる。静寂よりは、うるさいくらいのほうがヴァレリの好みに合っている。ぶりっこは嫌いだが、このお嬢ちゃんはそういう性格でもなさそうだ。
あとはまあ、彼女の信仰している何とかって楽団の話さえ、ほどほどにしておいてもらえばいうことはない。
「もう寝る」
壁側に寝転がって頬杖をつくと、自分が選んで手首にはめた腕輪もいやおうなしに視界に入った。
「おやすみー、ヴァレちゃんっ! 明日は《クラード・エナージェイ》の誰が好みか教えてねっ!」
つなぎとめる鎖。
辿る先には、何かが待っているのだろうか?
■Scene:それぞれの夜明け(7)
召喚師スティナ・パーソンと錬金術師サヴィーリア=クローチェは、互いに互いを気遣いながらの共同生活を始めている。たとえば朝も夜も早いスティナにあわせて、サヴィーリアも健康的な時間帯に行動するといった具合だ。
「ねえ、スティナさん。明日はちょっと相談に乗ってほしいことがあるのだけれど」
「はい。何でしょう〜? 森のことと、召喚のことくらいならお力になれるかもしれませんね〜」
寝支度しながら、スティナが嬉しそうに答える。
誰かに頼られることが嬉しい。ロミオにも今度また詳しい召喚術を説明すると約束した。少しずつ《島》の中に、スティナの居場所ができていくように感じる。
「……薬草のことなの」
スティナは薬草と毒草の見分けが得意だという。サヴィーリアの頭の中には、もちろんジニアとの不穏なやりとりが強く残っている。
「こちらも傷薬の話など、お聞きしたいと思っていたんです〜」
「治療薬はあるけれど……どうかしたの? 誰か、怪我でもしたのかしら?」
きりっとした眉を不意に寄せるサヴィーリア。まさかスティナが、と召喚師を眺める。彼女を安心させるように、スティナはふるふると首を振った。
「まろうどではないのですが、《パンドラ》の背中に、痛々しい傷跡が残っているのですよ〜。可哀想に……」
「そう。漂流のときの傷かしらね? わかったわ。薬を分けてあげる」
「ありがとうございます〜。では、また明日〜」
にこり。スティナは微笑んで、おやすみなさいと毛布にくるまった。彼女の隣では、初めて見る子犬が丸くなっている。召喚師ならば、精霊か幻獣の類なのだろう。サヴィーリアは物怖じもせずそう納得して、自分も休むことにした。
……朝にはサヴィーリアの毛布の中に、なぜかスティナがもぐりこんでいたりする。
■Scene:それぞれの夜明け(8)
リラ・メーレンはこっそり決めていた。明日はヴァッツさんに一緒に来てもらおう……怖いから。キヴァルナさんのお墓まで。
ああ、あの袋。ヴァッツさんがぽろりと漏らしたところによれば「マリィ袋」……。気になる。
子どものころからの宝物、という線が濃いのではないかとリラは勘ぐっている。誰しもそういうものを持っているはずで、《島》へも持ち込んだくらいだから、文字通り肌身離さず身につけているのだろう。
……マリィ袋。
「ヴァッツさん、遅いっす」
リラはごろごろと寝台を転がりながら、眠れぬ夜を過ごしていた。
大人だし男だし、彼の身を案じる必要はないのだが、鍵をかけておかないほうがいいんだろうなあ、などといらぬ気遣いばかり思いつく。
まあでも、こんな夜ならちょっと個室をもらったみたいで、嬉しくもある。リラは4人姉妹の三番め。姉妹全員、子ども部屋という名前の部屋におしあいへしあいして暮らしていた。学校から帰ってくると必ず誰かがいたし、たまにひとりになったとしても、すぐに誰かがやってくる。
「そーいえばヴァッツさんちも、お姉さんがいたっすね。今度話聞いてみよ」
世の中のお姉さんはすべからく強いものであろうか。服屋さんだというロウ家のことも気になる。
……おお。
もしかしてヴァッツさんてば、将来を約束されている若旦那?
《満月の塔》に辿り着いた暁には、金持ちで素敵な旦那さまでも紹介してもらおうか。当初リラはそんなことを考えていたのであった。
「ま。そんなこともあるかもしれないっすね」
ふわあ。あくびがひとつ、リラから漏れた。
■Scene:それぞれの夜明け(9)
「糞っ」
悪態だけが、ヴィクトール・シュヴァルツェンベルクの喉を溢れる。
気分は最悪だった。白い鳥に出会ったあの時の状況――すべてが面倒臭くなったあの場面、腕に死体を抱いて今にも倒れそうになりながら、それでも空を仰いだ日……今この時に比べれば、あんなのは可愛らしいほうだったとまで思える。
「糞! 冗談じゃねえ……自分で仕掛けた罠に自分ではまっていりゃ世話はない」
言葉にならない闇が、ヴィクトールの中で暴れている。口にすれば倍になって心を蝕む。闇は見知った顔を形づくって、ヴィクトールを襲おうとする。
ロザリア。クラウディウス。緑の瞳の娘……名前は思い出せない。思い出したくないのかもしれない。わからない。
わかるのはただ、彼らの手に翻る、白い剣の幻。白い羽根を撒き散らす《鳥》。
「俺のものだ。邪魔をする奴は誰であろうと許さん」
暗闇の中、告げる相手の姿はない。ひとりごと。けれども確実に聞き耳を立てている相手に向けた言葉。
この《島》の仕組みをつくりあげただろう《月光》なる人物。
「死に損なったのか死に切れなかったのか知らんが、邪魔をしてくれたおかげで子どもまで泣き喚きはじめやがった。風を吹かせて骨を鳴らすくらいなら可愛げも残っていたんだがな」
押し殺した声。棘の手甲をはめた腕は、自身をかき抱いている。
それきりヴィクトールは黙りこくった。広間の隅に沈むように、静かな影と化す。彼の内面は荒れ狂う嵐のようにざわめきたち、彼の思考を遮り続ける。
……始末をつける方法を探さなければ。
■Scene:それぞれの夜明け(10)
クラウディウス・イギィエムは答えを探し続ける。求めるものに手が届いたかと思えば、するりと腕から抜けていく感覚。
失うことを恐れるのは愚か者がすることだ。
ぎらついたまなざしでクラウディウスは、無人の部屋を行きつ戻りつ沈思する。
レオ。ランドニクス新帝陛下。ルーン統一王。
彼の絵を飾った、《鏡》の文字。
少年を示すすべての言葉はいまや不確かだ。鏡に映るのは虚像にすぎない。実像あってこその幻。影のようなもの。
「彼は……本当に、新帝陛下なのか」
陛下を彼、などと心安く称してしまったおののきよりも、疑心がはっきりと音を伴って口を出た、そのことの重さにクラウディウスは驚いた。少なくとも、クラウディウスの与えた小笛からは、音が出た。旋律とは程遠い、かすれた鳴き声のような音が。レオは曖昧に笑って、あまり上手じゃないんだなどと言ったのだった。
「レオ……が……偽りの存在だとしたら」
かつん。足が止まる。一度こぼれた言葉はもう胸のうちにはしまえない。部屋に誰もいないことをもう一度確認して、クラウディウスはゆっくりと息を吐いた。
恐ろしい想像がかけめぐる。
悟られてはならない。疑念を抱いていることを気取られてはいけない。
たとえレオが影武者だとしても、私の陛下であることに変わりはないのだから。
「服もじき、できあがるか」
彼女の技には何をもって報いればよいのだろう。それもまた、クラウディウスの考えねばならないことである。
■Scene:和約
ヴィクトールの出した結論のひとつは、クラウディウスだった。他にも片をつけるべき問題はあるが、自分が面白がったあげくのこの状況であるから、文句のやり場はない。
ああ。姫君には苦情のひとつもいえるかもしれない。あるいは《パンドラ》が自分のことを《ルー》だなどと抜かした日には、人違いだ、と首ねっこをつかんで姫君につきつけるぐらいはできるけれども。
解決すべきは、《ルー》とは誰なのか、だ。
ヴィクトールは直接《パンドラ》に会ったことがない。多くの部分は仮定にすぎない。
クラウディウスが想像やら策やらをめぐらせているらしいと知り、ヴィクトールは《鳥》の件が片付くまでの一時休戦を提案する。
「気でもふれたのか」
プラチナの髪に緑の瞳。ヴィクトールによく似た色合いの男は、呆れた口調を隠しもせずに答えた。やっとの思いで脱いだ手袋を、ヴィクトールはどうする気なのだろう。あれは明確に形を持った殺意だ。騎士の約束だ。
とはいえ、決闘騒ぎの際のヴィクトールの口上……というべきか、主張というべきは、論旨が通っていたのも事実だ。答えられなかったのはクラウディウスの落ち度である。
認めれば、少し楽になった。法官をつとめるイギィエムの血か。公平さを測る理性は失われていなかったらしい。
「それで、何が目的だ」
含むところがあるのは判っている。それが自分に対するものか、帝国に対するものか、はたまた公的な理由があるのか。クラウディウスは知りたかった。知れば優位に戻れるだろう。戻る? もはや維持すらしていないのか?
「《鳥》の脅威を無効化するためだ」
ヴィクトールは隠し立てもしない。
「卿を信用していないことを知っての上か」
「嫌なら断ってもいいぜ。それなら勝手にやらせてもらうまで。協力を拒んだのはそっちなのだから、やり方が気に入らなくても文句を言うんじゃねえぞ」
「そうではない。聞きたかったのは」
顎に手を添え、クラウディウスは冷ややかにヴィクトールをにらんだ。
「どのようにして、卿が信用に足る証を見せてくれるのかという点だ。不満なら信用を覚悟と言い換えてもよい」
クラウディウスにしてみれば、新帝陛下が関わるすべては国家の一大事。不用意に他者に漏らす類のものではないのはもちろん、信用のならない者はことごとく排除したいところである。
試金石。
ならば試せばいいのだ。
「例えば卿にそれほど覚悟がおありなら。若獅子騎士団に伝わる苦痛の技、受けていただけよう」
ロザリアが聞いて仰天した、ひとたびはレオに向けて振るおうとしていた拷問の技。錬金術師サヴィーリアは、錬金術用語のこんな使われ方を知れば驚くだろう。
ヴィクトールはあっさりと、クラウディウスが拍子抜けするくらい、拍子抜けしすぎてさらなる裏があるのではとクラウディウスが疑ってしまうくらい簡単に、その条件を飲んだ。
その技は……魔法、あるいは呪いめいた効果を持っていた。
肉体的な苦痛はもちろん、精神にもこの上なく苦痛をもたらす非道の技だ。皇帝側近である若獅子騎士団に、なぜこのような、騎士らしからぬ技が伝えられているのか。それを問うことは禁じられている。騎士団設立の経緯に由来するらしい、それもあくまで噂であった。
「小心者め」
ヴィクトールが呟いた感想らしきものといえば、ただこのひとことだけであった。
一方クラウディウスは作法に則り、ヴィクトールの意志を確かめ同意を得た上で術の準備を始めている。クラウディウスが追い詰められているさまが、ヴィクトールには手に取るようにわかる。理解できる。だがそれを口にはしない。こんなときでも不意打ちめいた真似をしないクラウディウスを、滑稽だとさえ思っている。自分は決闘の口上の聞かず蹴飛ばした。当然だ。自分は騎士ではない。
やがて準備を整えたクラウディウスは、先ほどと同じ質問をもういちど投げかけた。結局、知りたいのはこのことに尽きるのだ。新帝陛下のために脅威を打ち払おうとしているのか、個人的な興味からなのか……。
曰く。
「卿の目的は?」
術者もまた同じだけの苦痛に襲われることを、ヴィクトールには告げていない。
「《鳥》をまず片付けたい。アレがいると話がややこしくなる。レオには単なる個人的興味しかない。だから別に、帝国に謀反を企てているわけでもねえよ」
「……敵意はない、ということか」
クラウディウスの息が少し荒い。抑えようとしているらしいことも、ヴィクトールは気づいた。
「お尋ね者だからな。邪魔をする奴は許さない、それだけだ。だから貴様が勝手な真似をして《鳥》に殺されるのも許さん。誰にも俺の邪魔はさせない」
肉体的な苦痛のかわし方ならば、ヴィクトールは学んでいた。騎士団の秘術とはいえ、耐えられないこともないだろう……そんなふうに思っていた。
甘かった。
「……面白いじゃねえか」
クラウディウスのいかにも文官らしい顔が歪むのを見て、凄惨にヴィクトールは笑った。
「最高の拷問だ。なあ、騎士さんよ」
苦痛の代わりにふたりを訪れた絶大なる快楽に、ヴィクトールは手を差し伸べる。
クラウディウスは打ち払おうとする。その顔は朱に染まり、襲いくる高揚感をこらえようとしている。恥ずべき醜態。だが取引を持ちかけたのは自分だ。
「これで貴様の望みどおりか?」
苦痛が快感に変わるとき、拷問や脅迫といった暴力的な手段は意味をなさなくなる。快楽の果てに命が尽きることはあるのか、それはまだわからない。
苦痛と快感。裏返しの鏡像。
人を傷つけようとするものは、同じだけの快感を浴びる。
「卿を……副官に」
任命する、という結びの言葉までは口にできなかった。
万色の光とともに快感の波が迫ってきたからである。
第4章各パートへ続く
承前 白い鳥の誘い・至純の仮面|1.薄明|2.めぐりあう朝|3.潮騒|4.孤独な円弧|5.雫受け止める器|6.琴線|7.埋もれた足跡|マスターより