2.めぐりあう朝
■Scene:めぐりあう朝
「おはよう、エル。報告に来たわ」
朝まだき。
エルの部屋を訪れたネリューラは、寝ぼけまなこのエルを見て思わず笑ってしまった。
「ふふ。合わせはきちんとしておいてね」
「え?」
「服よ。左胸、変わったものを刻んでいるのね?」
「……あっ」
エルは飾り羽根までも頬と同じ朱に染めた。その左胸、首筋から背にかけて描かれているのは、心臓を狙って絡み合う蛇のタトゥー。ささやかな占い師の秘密。
「見……見たんですね」
「見えちゃったのよ。秘密だったのなら、もっとしっかり隠しておきなさいな」
いたずらっぽく笑みを浮かべ、ネリューラは細い指先をエルの眼前で振った。エルには返す言葉がない。余計な詮索をされないようにと思って希望した一人部屋だったが、用心が足りなかったのである。
「髑髏の刻印よりも、それは素敵な意味を持つものなのかしら?」
「これは」
一瞬口ごもったものの、観念してエルは答えた。
「罪人なんです、私は」
「つみびと?」
「蛇はそのしるしです。それ以上は言えません。知ったら、貴方は」
「なあに? 髑髏みたいに、やってくるのかしら。私のところにも、その蛇が」
「いえ。そんなことはありませんけど」
エルは白いローブの袖口を伸ばしながら縮こまった。髑髏の刻印はネリューラやリモーネ、他の旅人たちのところにも、同じ夢とともに広がっているらしいのだった。
そんな占い師の様子にネリューラのいたずら心は満たされたらしい。展示室の絵の件だけど、と話を戻し、レオの絵は《鏡》と題されていたことを告げる。
「噂の白い剣も描かれていたわ」
レオが、毛布の中でもぞもぞと手足を伸ばした。
「あら、起こしちゃったかしら……おはよう、新帝さん。どう? 少しは記憶を取り戻せて?」
「……誰」
「ネリューラ・リスカッセ。またの名を黒のネリュ。ふふ、昨夜挨拶はしたわよね」
レオはいつもと違う部屋であることを思い出したらしく、ああそうか、などと合点がいった風である。記憶について何も答えないところをみると、はかばかしい進展はないらしい。
聞こえる音と手触りだけがすべてのレオの世界に、自分はどんな人間として映っているのか、ネリューラは少し興味があった。目も見えず、よすがとなる記憶もなく、さらにハリネズミのマントにくるまっている少年。一切を遮断している様子は、まだ殻の中の雛にも似ている。飛べない小鳥。そんなイメージをネリューラは抱いている。
伝書鳩に招かれてしまったからには、飛ばなくてはならないのだ。
「朝食の時間よ、レオくん。口うるさいお母さまがお待ちかね」
ネリューラの言葉に、レオはけげんな表情を見せる。
「お母さまって、あの騎士さまですか」
エルが露骨に浮かべた嫌悪の顔に、またネリューラは吹き出した。
嫌悪はクラウディウス個人に対してというより、騎士という存在に対してのものであったが、そこまでネリューラに言い訳もできない。それに、あの部屋にレオを戻すことが良いとは、どうしても思えないのは本当だ。
「皆で朝食なんて、いいんじゃない? 貴方もどうかしら、夜ふかしのエル。もちろんレオも一緒にね」
誘われたことは嬉しい。複雑な心境で、エルは立ち上がる。ネリューラがレオの手をとり、そっと立たせた。
瞬間、爆ぜるような感触がネリューラの指先から身体を伝わった。
思わずレオと顔を見合わせる。少年が身をすくませた仕草で、同じ刺激が伝わっていることが知れた。灰色に濁った瞳は、変わらず何も映さない。
そしてエルはようやく気がついた。
……ルクスさんが、いない。
歌姫に付き添わせてから、どれだけ遠くまで散歩に行ったのだろうか?
■Scene:朝の宴(1)
白い召喚師が仕込んだ甲斐あって、朝食にしてはとても豪華な料理が幾皿も並べられている。食後のデザートだけで3皿はあった。パンにジャム、果実のジュース。しゃっきりしたサラダ、身体のあたたまるスープ、派手な魚料理。
「姫さま、少し騒がしくなります。申し訳ありません」
ジニアが玉座に向かって頭を下げた。彼女の足元を、姿の見えぬ精霊たちが料理皿を持ちあげてはうろついている。スティナ本人は厨房で、タルトの仕上げを火の精霊に頼んでいる。
「朝なのね」
すっぽりと玉座に包まれている姉姫ウィユは、首をこちらへめぐらせた。
「朝食です」
いつもと変わらぬ口調でジニアは答える。瞳を閉じたままのウィユは、そう、と軽くうなずいた。妹姫のほうも、結いあげられた髪を揺らして広間に集っているまろうどたちを見た。紫の瞳はぱちくりと楽しげに人々を眺めている。
レオの手を握ったエルは、ネリューラとともに広間にやって来た。
クラウディウスが不機嫌そうに突っ立っている。不動のまま、視線は射るようにレオを見つめている。そうでしょうねえ、とエルは心の中でぼやいた。彼は一睡もしなかったに違いない。自分に向けられたまなざしに、エルはあえて応えなかった。
アンナは食器を並べたり料理を運んだりと気忙しく動き回っている。こうした場面では手伝わずにはいられないのだろう。姿なき精霊たちを操っているのは、彼女のように見えないこともない。
「自分で頼んだけれど、思った以上に素敵だわ」
たまには早起きするものね、とネリューラは笑う。彼女とエルの間に立って、レオはふんふんと料理の匂いを辿っているようだった。
「朝日が差し込んだらもっと素敵だったかしら? この広間はいつも蝋燭の明かりだものね」
「これくらいのほうが落ち着きます……」
「もう、エルったら暗いんだから」
姫君たちが玉座から身を起こした。召し上がりますかとのジニアの問いには、ふたりとも軽く首を振る。彼女たちには、まろうどたちのふるまいは例外なく珍しい物語に見えるのだろうか、とエルは考えた。
「おはようございます、陛下」
乾いた声音は、クラウディウスのものだ。
エルが避けていたにも関わらず、あるいはものともせずに騎士はレオに近づいた。ハリネズミのマントをかぶった肩を抱き、おかえりなさいませ、と告げる。
「クラウディウス?」
「いかがお過ごしでしたか、陛下。非礼はありませんでしたか」
「うん。平気」
「結構。何度も申し上げておりますが、あまり下賎のものとは口をおききになりませんように」
もちろんその台詞は、エルやネリューラを見据えてのものである。ネリューラは面白そうにお辞儀で返した。やれやれと思いながら、エルはレオの手を放す。
「でも、朝ごはんは食べてもいいでしょ」
仕方ありませぬな、とクラウディウスはしぶしぶレオの朝食を認める。面持ちはあくまで暗く、エルとネリューラを値踏みするように見据えている。
「もしやと思うが陛下の占いなどされているのならば、他言すればどうなるかわかっていような」
叱られた犬のように、エルはうなだれた。
「私の占いは、姫君の力のようにはっきりと絵姿を結ぶものではありませんから」
「命拾いと心得よ」
「……はい」
新帝の秘密。
水晶の見せた紫色。
クラウディウスはどうするだろう……優越感よりも、奇妙な焦燥感がエルを襲う。
「それじゃあ、これで」
放したレオの手の感触は、もう指先にも残っていない。エルは飾り羽根を揺らし広間を後にする。
「ええっ。朝食はどうするの、エル」
「すみません、せっかく誘っていただいたのに」
ネリューラにはいえない。騎士には劣等感があるなんて。それ以上言葉を続けず、エルは足を早める。
「そんなこと別にいいんだけど。本当に貴方って変わった人ね?」
エルはネリューラの顔を見ることができない。翼の先まで真っ赤に染めながら、そそくさと通路を急ぐエル。ネリューラの仮面の、しわくちゃに撚れた羽根を持つ蝶が、ずっと自分を追いかけてくる気がする。
■Scene:朝の宴(2)
円卓にちょこんと座らされているレオ。その側にぴったり立ち、スプーンやフォークを手渡すクラウディウス。アンナがレオを手伝う隙もない。
仕方がないので同じ円卓について、レオと同じ料理をいただくことにする。幸いにもクラウディウスからの咎めはなかった。
ヴィクトールやアレクの姿がないからか、クラウディウスもレオも、前よりも臣下と主めいた雰囲気に映る。
ああ、とアンナはひとりうなずいた。ジニアと姫さまたちもいる。この場所は、そういう場所なのだ。
首をめぐらせれば満面の笑顔のスティナや、からかい混じり笑みを浮かべる呪術師もいる。改めてアンナは《島》に集った者たちの個性を感じるのだった。
「次はこちらを。そうです。落とさぬようにお気をつけて」
広い円卓だ。クラウディウスのかすれた声は、端までぎりぎり届くかどうか。
レオはおとなしい。手渡される食器を丁寧に操っている。その様子を満足げに見守るクラウディウスと、面白そうに眺める姫君。
こんな朝食は二度とないだろう。ネリューラは目の前の光景が幻であるような気がして数度、黒髪を揺する。エルの反応も気になった。不思議な罪人。正直な占い師。彼の語る話はどこまで本当なのだろうか。
「お見事です、陛下」
目が見えぬにも関わらず、上手にフォークを口に運ぶレオ。クラウディウスが口を挟むまでもなく、まさにランドニクス貴族の教育を受けたふるまいである。
そうだろう。教養のないものに影武者など勤まるはずがない。正しい所作で食事できるからといって、本物の新帝陛下だとは限らない。レオが美しい仕草で食事をするほどに、クラウディウスの胸が暗い予想に覆われる。
レオ。貴方は何者なのですか。
「……それでね。そのお爺さんったら余った賭駒を全部くれたのよ。あの晩は随分稼がせてもらったわ」
ネリューラは思い出話の間にワインを一口含み、あのときはありがとう、とレオに告げる。
「えっ。ネリューラさん、レオさんとお会いしたのですか〜」
「その賭場はランドニクスにあったところなの。ふふ。レオ君と会ったわけじゃないわ。でも不思議ね。あの大勝もだけれど、レオ君とこの《島》で出会ったこともね。長い夢を見ているみたいだわ」
「夢かい……」
パンをちぎる手を止めて、アンナが一同を見渡した。視線は姫君のところでとどまる。
「何か? 紡ぎ手」
「いや。皆が見ている夢のことだよ」
それきりアンナは口をつぐんだ。姫君の紫の瞳に見つめられると、背筋がぞくぞくして居心地が悪くなる。
「けっこう面白いと思ったけれど?」
「うーん、そうですねえ〜。何だか、他人事の気がしませんでしたね〜」
出来立てのタルトを切り分けるスティナ。レオの分は一口で食べられる大きさにする。
「どうもわからないよ。ただの夢なのか、そうでないものなのか」
アンナはため息のような吐息を漏らした。
「ただの夢。ただのまろうど。ただの物語。ただの願い」
姉姫ウィユの言葉は不思議な節回しをもっていた。
「汝がただのまろうどか、そうでないものなのか。決めるのは汝自身」
くすくすくす。妹姫が喉を鳴らした。クラウディウスはいかにも行儀が悪いといわんばかりに眉をしかめた。
「どういう意味なのかな、いったい」
口を開いたのはレオ。ナプキンで口の周りをぬぐうと、見えぬ視線を姫君に向け尋ねる。
「ウィユ姫、レヴル姫。あなたたちの謎々はいつも、その、奥深いところを問うって聞きました」
「レオ」
「陛下」
同席した者たちは、レオと姫君の会話に耳を傾ける。アンナもふたりを見やり、加えてクラウディウスの様子も伺った。かすかにクラウディウスの頬がひきつっている。が、極力動きを殺している騎士の心中まではわからない。
「我らは探しものの途中ゆえ……」
ウィユの口調は優しげだった。少なくともアンナにはそう聞こえた。
「《月光》の残した手がかりは、我らだけでは見出せないのです。まろうどよ、獅子の子よ。手がかりは汝らの物語のなかに。さらばこそ我らは物語を許すのです」
レオはそっとナプキンを置いた。
「獅子の子よ。見えるものすべて真実とは限らず、聞く言葉すべてが偽りにすぎないこともある。真実と偽りの間で獅子の子が何を求めるのか、さぞ素晴らしき見世物になるでしょう」
「旅人に夢を見せてるのも、答えを探すため?」
くすくすくす。また妹姫が笑っている。閉ざされた唇で、瞳を大きく開いたままで。
「我らに見えぬものも、まろうどは見るかもしれぬ。獅子の子が見えぬものを、騎士が見るように」
クラウディウスは無言である。
私の新帝陛下。貴方が夢に見て、来るなとおっしゃった、その相手はどなたなのですか?
明らかにしてよいものか。あるいは秘したままで心安らかにお過ごしいただくほうが御為なのか。
……ああ、あの時計がある。
「探しもの、見つかるといいね」
レオはそういって、手渡された水をこくりと飲んだ。
その白い喉が上下するのを、クラウディウスは暗緑の瞳で見つめる。
■Scene:獅子の子(1)
レシアは教わったとおりの時間にレオの部屋を尋ねる。護衛を勤めているのがクラウディウスの時間帯。アレクやヴィクトールのいないときを計ったのは、もちろん邪魔をされたくないからだ。
わずかに開かれた扉の隙間からは、アンナが一心に裁縫をしている姿が映る。彼女なら余計なことはしないだろう……。
「レオに、話がある」
新たな訪問者に、レオは顔をあげた。アンナも一瞬だけレシアを見やり、すぐにまた肩を丸めて裁縫に没頭する。
クラウディウスはレシアの身のこなしを目にして、すぐにそれなりの使い手と踏んだ。言葉少なく中へと招く。
と。
「……っ」
押し殺した吐息はレシアのものだ。傍らに立ったクラウディウスが、貴婦人のエスコートよろしくレシアの手首をひねり上げたのだ。彼流の警告であった。
「陛下を怯えさせるようなことがあれば」
「わかっている。それに聞かれて困る話ではないつもりだ。まずいと思ったなら止めればいい」
濃紫の瞳を細めて、レシアは新帝陛下をとくと眺めた。噂どおりの金髪に、灰色の目だ。そして白いハリネズミのマント。
「では、その包みをこちらへ」
クラウディウスは手袋をはめた手を差し出す。レシアは布にくるんで持ち歩いていた包丁を差し出した。汚らわしいものを見る目つきで包丁を一瞥し、クラウディウスはレシアを促した。
改めて、レシアはレオに向き直る。
「レオ。おまえがルーだな? いや、たとえそうでなくても、何かを知っているはずだ」
押し殺した声で、淡々とレシアは告げた。アンナにもクラウディウスにも、そしてレシアにも、レオが唾を飲み込んだのがわかった。
レシアはかまをかけたのだった。彼がルーである可能性のほうが低いと思う。けれども無関係ではあるまい。奇妙な夢の内容からもそう思えたのだった。記憶を失っているならちょうどよい。刺激的な言葉がきっかけとなって、何か思い出すかもしれない。
「……探してるんだっけ?」
レオは手の中で木の枝の小笛を弄びながら尋ね返した。
「そうだ。《パンドラ》が《ルー》を探している。そういう夢を見た」
「僕も夢を見たよ。同じ夢かもしれない」
その言葉はクラウディウスに突き刺さる。やはり、自分が引き金となっている。自分と同じ部屋で暮らし始めてからだ、陛下がうなされるようになったのは。陛下がうわごとで来るなとおっしゃった、その相手はやはり……。
「私は、《パンドラ》とはランドニクスに縁がある者、おそらくは帝国の裏切者ではないかと思っている」
これはクラウディウスに向けた台詞だった。だが意外にも、答えたのはレオだった。
「《パンドラ》がランドニクス帝国の関係者なのだとしたら、《ルー》も関係者ってことになるね?」
「そうだ。だからおまえがその《ルー》ではないかと思ったのだ」
「クラウディウスだって関係者だよ。他にも、役人だって何人かいるでしょ?」
「帝国出身者という意味ならばそれでも通るだろうが」
レシアは重たげに首を振った。
「裏切り者とは、すなわち陛下の敵だ」
殺気ばんだ騎士をおしとどめるように制し、レシアは続けた。
「最初に言っただろう? これは夢からの推測だ。事実とは違うかもしれないし、私は帝国の事情に詳しくもない。逆に知っていたら教えてほしい。内乱のさなか、帝国を離反した女のことを」
「女……」
クラウディウスは各地を鎮圧という名の下に転戦していたから、当時の帝都の動向にさほど明るいわけではない。陛下の敵というならいくらでも顔を浮かべることはできる。
だが腑に落ちない。
その顔の持ち主たちは、ことごとく平和の礎に成り果てたはずである。逆に、離反した女といわれれば、真っ先に思いつくのは失踪した第二皇妃だが、彼女はアンタルキダスの御母堂であるうえ、失踪事件は先帝アイゼンジンガー存命中の出来事であった。
「《パンドラ》って女なの?」
レオに問われてレシアは瞬いた。その根拠は例の夢だけであった。
「この《島》の《パンドラ》と、夢で見た女性が同一人物であるのか、確証はないがそう考えたほうが自然だ」
言葉を切り、レシアは何気なく振り向いた。アンナと一瞬目が合った。紡ぎ手ははっとした表情で、再び手元の作業に戻った。
「……たしか」
覚束ない口調で、レオが呟いた。
「妹が、いたんだ……」
クラウディウスはレシアと顔を見合わせた。騎士すら知らぬ秘密であった。
「でもわからない。生きているのかどうか、そもそも僕たち……」
「残念ながら、陛下。生きておいでではありませんでしょう」
先帝の血が、そのような形で残されているべきではなかった。希望も込めてクラウディウスは断じた。真実は見えないところにあったけれども、若獅子騎士としての立場がそういわしめたのだった。
「この《島》の《パンドラ》が何者か知らないが、おまえが《ルー》なら」
レシアはあのときの感触を思い出し、目を伏せた。白い剣。包丁が光によって変じたあの剣でも、《パンドラ》は死ななかった。急所を狙ったのにも関わらず。
死なない相手と対峙するのは初めてだった。どんな相手でも、首をかき切ったり心の臓を貫けば息絶えた。
レシアの人生の大半を占める生活の中では、失敗は許されなかった。一度討ち損じた相手は、何倍も危険な敵に変じるからだ。たとえ成功するはずのない任務でも、なんとかして全うするか、さもなくば痕跡を残さずに死ぬこと。そう教育されていた。
「おまえが《ルー》なら、彼女はおまえに殺されたがっている。殺すにしろ、救うにしろ、何とかしてやれ」
レシアはそう吐き捨てた。クラウディウスがさすがに気色ばむ。
「陛下に何を乱暴な。ご記憶が戻られぬ前におかけしていい言葉ではない」
少年は無言だ。
「おまえが何も手を施さないなら、おまえより先に私が殺してもいいのだな?」
「止せ」
クラウディウスが鋭い瞳でにらみつけている。
「普通の武力では傷つかぬ力を持った相手だ。手段を見出してからの攻撃でなくては、相手の反撃を呼ぶだけだ」
「ならば手段を見出すまで」
感情のこもらない声で、レシアは答えた。相手が死を望んでいるなら、それを叶えてやるのも道だ。殺す方法などいくらでもあるだろう。
少なくとも《ルー》に殺されたがっているのなら、《ルー》は彼女を殺す力を持つはずだ。それを見つければいい。自分に罪悪感が残ったとしても、《パンドラ》の願いを叶えてやることで救われるのだ。
救われる? 誰が?
レシア……いや、レストアが?
「……会えるはずがないよ。僕は、知らないんだもの……」
ぽつりと呟くレオ。
「ならば私が代わりに手をくだそう。クラウディウス、それでいいだろう?」
「賛成はせぬが、陛下の代わりに陛下の敵を下すというなら助力は惜しまない。だが、あの神殿騎士には告げないほうがよいだろうな」
レシアは顔をあげた。意外な一言だった。驚きを隠さずそういうと、珍しく騎士は微笑を浮かべた。
「笛を渡すべき相手を間違えてしまったようだ」
「何の話か知らんが、このような後ろ暗いことに彼女を関わらせるつもりはない。ロザリアに傷ひとつつけてみろ。容赦はしない」
「安心するがいい。おそらくは心配はいらぬ、たとえ私が傷つけようとしたところで、二方向から邪魔立てが入ったのでは、上手くはいくまいから」
神の加護を願うのに、神殿騎士の力を借りるくらいは許してほしい。そう付け加えて、クラウディウスは立ち去るレシアを見送った。
アンナはそっと面をあげた。レオの様子が気にかかったのだ。顔をしかめているか呆然としているか、心配だったその表情はどちらでもない。
笑みと憂いのないまぜになった見たことのない表情が、少年の横顔を彩っていた。
例えばそう。あの、名前を呼ぶと不機嫌に怒り出す男が見せるような不敵さと。
失意の淵に立つ未亡人が伏目がちに浮かべているような無力さを。
■Scene:獅子の子(2)
妹という言葉はレシアにとっても重い鎖になる。ここから先はレオが決めることだと思った。
「……ひとつだけでも記憶が戻ってよかったな」
誰にも聞かれぬと思い通路で呟くと、ヴィクトールが立っているのに気づいた。
「誰の記憶が戻ったって? ……って聞くまでもねえな。あの坊やしかいない」
「そういうことだ」
つっけんどんに答えて立ち去ろうとするレシア。
その肩をわしづかみにして、ヴィクトールは押しとどめる。レシアはかわさず身を任せた。結果、ヴィクトールは壁にレシアを押し付ける格好になった。空虚なまなざしで、レシアは頭一つ分高い場所にある緑瞳を見上げた。
「何だ、ヴィクトール」
「その名は呼ぶな。魔女の銀狼だの、狂犬だの、暴君だの、何でもいいから別のにしてくれ」
「自分でそう名乗った癖に何を言ってる。最初から別の名前にしておけばいいだけだろう」
面倒な奴だ、とレシアは本当に面倒くさそうに言った。彼女にとってヴィクトールは怖くなかった。彼のまとっている血生臭い雰囲気は好きではなかったが、そう告げるのもどうでもいいことではあった。
「あれは姫さま相手に名乗ったんだ」
自嘲気味に身をすくめると、がちゃりと手甲が鳴る。飾りに選んだ棘つきのものである。
レシアにしてみれば、理由はさておき彼女自身も本名を名乗っていないのだから、ヴィクトールの理屈は理屈になっていない。ヴィクトールにとっては、これ以外に名前がないのだから仕方なく名乗っているだけであって、呼び名が必要なのは相手側なのだから好きにしろ、としか言えないのだった。
「ま、姫さまは狂犬を採用してくれたようだが」
「拾った子犬じゃあるまいし。名前の話をするために呼び止めたわけではないのだろう」
ヴィクトールの顔から笑みが消え、口調も尊大に彼は言った。
「あれの面倒はきちんと見とけ」
「何?」
「迷惑だ。次は止められんし、止める気もないぞ」
やや間をおいて、レシアはああ、と思い当たった。ロザリアのことでクラウディウスに釘を刺したばかりなのに、もう片方からも注進か。
「護るつもりなんだろうが」
いつの間に点けたか、ヴィクトールは煙草をふかしている。
「言われるまでもない。が、今関わっていることを思うと、あとどのくらい私がロザリアを護れるものかわからないのだ」
レシアはつとうつむいた。《パンドラ》のことにロザリアを絡ませたくなかった。手を汚すのは自分だけでいい。
「《パンドラ》か……」
ヴィクトールは煙と一緒にその名を吐き出した。
「レオは会わないといった。だから私が手にかけるつもりだ」
「あの剣でか」
「おまえも持っているのだろう」
ヴィクトールはにやりと笑う。あの剣については考えがあった。
「まあな。そうか、レオは会わねえか……なるほどな」
今は、彼はまだ、何者でもない。ヴィクトールはそう思っている。記憶を失ってまっさらな状態。どこにでも、誰にでも合わせることができる。
「そういうわけだから、危険が過ぎるというのならおまえが護ればいいだろう」
するり。風のようにヴィクトールの腕の中から逃れ、レシアは《パンドラ》の元へと向かう。
彼の返事に興味はない。
■Scene:獅子の子(3)
「邪魔するよ」
ヴァレリがひょっこりと顔を見せたのは、ヴィクトールとアレクがレオの護衛に詰めている時間だ。
ふたりの男性はずかずかと部屋に入ってきたヴァレリをちらりと眺めただけで、これといって言葉をかけるでもない。アンナはわずかに会釈を返した。
「誰?」
レオの誰何だけはそこはかとなく緊張感を帯びているように聞こえる。
「夜目のヴァレリ」
ヴァレリは手にしていた果物を無造作に放った。片手でアレクが受け止める。
「手土産。何、どいつもこいつもしけた面並べて、空気も悪いんじゃないかと思ってね。お慰みに来てやったのさ」
「恩着せがましいなあ。どうせ厨房からとってきたんだろ」
アレクがいうとヴァレリは、知ってるんだったら黙っててよと片目を閉じて見せた。
「離宮は嫌いなんじゃなかったっけ」
「……あたい、そんなことあんたに言った?」
狭い館の中のことくらい、その気になればアレクの耳にいくらでも入ってくる。もっともアレクは、小悪党にはさして興味を持っているわけではない。答える代わりに黙って肩をすくめる。
「皮、剥くよ」
アンナがアレクから手土産を受け取ろうとすると、ヴァレリはひょいと果物を取り返した。
「いいよ。あんた、手が汚れちまうじゃないか。布まで汚したら大変だろ。あたいが剥いてやる」
あ、とアンナが立ち上がろうとするのへ、いいからいいからとヴァレリは手を振った。レオの寝台にどかりと陣取り、器用に果物の薄皮を剥き始める。
「けっこう皮むき上手いんだよ、ってもあんたは見えないのか。……はい。口開けな」
レオがうんともいやともいうより早く、少年の口に果実が押し込まれる。
ヴァレリの話は、世間話ともつかぬ雑談だ。好きな食べ物はなんだの、果物の味がどうのと、他愛もない内容である。もっともヴァレリの声質はハスキーなうえに、やけに小声で話しているものだから、傍らのアンナには聞き取りにくい。
隣の寝台に寝そべっているヴィクトールは、あくびをかみ殺しながらその様子をぼんやり眺めていたが、やがて喉の奥から下卑た笑いを漏らした。
「おい、あんたそういう趣味があんのかい」
ヴァレリはどういうわけか、レオにぴったりと寄り添って、果実を与えるたびに胸元をおしつけたり、吐息混じりにささやき掛けたりしているのだった。
「そういう趣味とは失礼な言い草だねえ」
いいながらもヴァレリの唇は、必要以上にレオに接近している。
「あ、あのう。ヴァレリさん……」
「なんだい、眠れる王子さま、じゃなかった王さま?」
「そんなにくっつくと……痛く、ないですか。マントの棘が」
「ええー? そんなことないよ。ほら、こうしたって痛くなんかないさ」
「そいつにゃまだ早いんじゃないか」
ヴィクトールは面白がっている。何事も経験だと日ごろからレオに吹き込んでいるだけあって、ヴァレリを止めるつもりもないらしい。
「早いなんてことないだろ。あたいがこれっくらいの年頃には好みの男もいたもんだし」
などと言いながら、彼女はレオの手を握った。
途端、胸の奥がざわついた。姫君の手に触れたときと同じように、色彩の奔流が快感を伴って流れ込んでくる。レオはびくりと手を離した。この感覚を味わったのはヴァレリだけではないらしい。好都合だとばかりに、ヴァレリはますます身体を密着させてささやいた。
「ねえねえレオ。ちょいと教えてよ」
少年の金髪に顔が埋もれるほどの距離だ。
「あたいの鼓動、こうしたら聞こえる? お姫さまたちもこうやってんだよ。手をつないで会話するんだってさ。面白いからあんたも一度、お姫さまと手をつないでみるといい」
「面白くないよ……」
レオは身を固くしながら、接近するヴァレリから離れようとする。
「面白いって。それに何より気持ちいいんだからさ。ま、あたいも今あんたと手をつないでて気持ちいいけど……これもあのお姫さまの力なのかねえ」
「……何のための?」
さあね。興味なさそうな返事とは裏腹に、ますますヴァレリはレオを握る手に力を入れた。
「そういうのは他の人が専門に調べてるみたいだからねえ。滞在者本部ってのもあるんだよ、行ってみる? 話を聞くのは面白いかもよ。ってのは、つまり、目が見えなくっても面白いことはあるってことなんだけどねえ」
これはヴァレリの本心である。レオが絵を見に行きたくないといった、その理由は目が見えないからだという話を伝え聞いて、ヴァレリの何かがうずいたのだった。それはもしかしたら母性本能だったかもしれない。
「でも何で、こんなマントなんか選んだんだい? あんたを抱きしめたい人がいても、これじゃためらっちゃうかもしれないじゃないか。勿体ない」
毛布の上からくるむように、ヴァレリはレオを抱きしめた。さしずめ、大きな枕を抱いているような格好である。
しばらく沈黙した後、レオはその理由を口にした。
「最初に手に触れたものにしようと思ったんだ。そしたら……これだった」
「でも痛かっただろ」
レオは毛布の中で神妙にうなずいた。
「そのほうがいいと思った。痛いほうが。自分が何なのかわからないし……わかってもらう必要もないから」
「違うね」
ヴァレリは断言した。
「かえってあんた、注目されちまってるよ。だいたい自分が何なのかわからなくたって別にいいんじゃないか。お姫さまたちだってそんなこといってたし」
はたとヴァレリは思った。その点で、彼らはとてもよく似ているのだった。
「それにあたいは、あんたのことを一人前の男だと思ってるし、だから来てるんだし。取り巻き連中は、あたいに言わせりゃあんたを子ども扱いしすぎだねえ」
「えっと。そういわれても……」
あくまでもレオは、緊張したそぶりでうつむいているばかりであった。
■Scene:獅子の子(4)
その後もヴァレリは度々レオの元に遊びにやって来た。そして手土産と称して何かをくすねてきては、レオにべたべたとくっつき続けた。口うるさいクラウディウスがいないときを見計らっているのはもちろんである。
「あんたの取り巻き連中で、誰と話してるのが一番好き? ヴィクトール、アレク、クラウディウス、それに……ロザリア。あたい。ああ、ジニアとアンナも」
一度などはそんな質問を投げかけたりもした。ヴァレリにとっていたずら半分、レオの男心を確かめたいのが半分といったところである。
「やりすぎじゃないのかい」
思いがけず自分の名前まで挙げられたアンナは、ため息混じりに呟いた。
結局レオはあたりさわりなく――というのはヴァレリの言だが――ヴィクトールなどと答えたものだから、もっと思春期らしくしろ、とヴァレリは発破をかけるのだった。いずれにしても、ヴァレリが望むような二人きりの甘い、あるいは衝動的な展開というものはなかなか訪れなかった。
「あんたを利用しようとしてる奴も多いだろうけど、もっと困った奴らもいるんだよ。あんたの幸福の為なら、何万人が不幸になったって構わないと本気で思ってる人間だっている」
奇しくもクラウディウスが帝王学として学ばせようとした、同じ言葉をヴァレリは紡いだ。
「じゃあ僕は幸せにはなれないね」
妙に悟ったふうな顔でレオは答えた。その態度はこれまた少年らしからず、ヴァレリの気に障る。
「僕がどっちに行っても、影で誰かが不幸になるんでしょ」
「どうしてあんたがそれを決めるんだい」
なぜ自分はこんなにもむきになっているのか。ヴァレリは自分でも答えられない。レオに幸せになってほしいのか。人々の幸福を踏み躙るような帝王でいてほしいのか。
あたいは、この少年のどっちの顔を引き出そうとしているんだろう?
■Scene:獅子の子(5)
つまりはヴァレリのスキンシップは、レオの少年らしさを探りたかったのだろうか。アンナは静かになった部屋でそんなことを考えた。
椅子から立ち上がり、腰と肩を伸ばす。ずっと手を動かしていたせいで、レオの服はもうほとんど出来上がっていた。作業の間にいろいろな話を聞くこともできたし、元々が日々平穏に過ごすことの多いアンナにとっては、旅人たちのそれぞれの思惑が垣間見える様は興味深くもあった。
ヴァレリの奇妙な母性は、レオにどんな影響を与えるのだろうか。オルゴール職人がそのよりどころを魂の楽団に求めるのと同じように、ヴァレリはそのよりどころをレオに求めているように見えた。浮き沈みも激しく、レオの中の少年と、皇帝と、男性、それぞれの部分をちくちくと刺している。
思えばヴァレリは、レオを一人前の男性として扱う唯一の旅人であった。アンナは自分がレオをあまりに子ども扱いしていたことを反省するのだった。とはいえ、アンナのレオを見る目は、やはりというかどうしても、大人たちの思惑に翻弄されている傷を負った子ども、であることに変わりはないのだが。
「ふう……」
あとは端糸の始末をするだけのレオの服。広げて眺めてみる。出来は悪くなかった。そっとたたんで、手篭を片付ける。
ヴァレリがべたべたするのはやりすぎだと思っていたが、じっくり考えてみると奇妙だった。
皇帝が愛する人を探しているなら、彼は年相応の恋心を持ち合わせているはずだった。それが、いくら記憶を失っているとはいえ、過剰ともいえるヴァレリの行動にはまるで無関心だ……。少年でも男性でも、皇帝ですらない。
やがて、ジニアがアンナを訪れた。
「布はもういいのかしら」
「ああ。前にもらった分で足りたよ。ありがとうよ」
ジニアは小さくうなずくと、アンナの足元に散らばる糸くずを掃き清めるのだった。
第5章へ続く
承前 白い鳥の誘い・至純の仮面|1.薄明|2.めぐりあう朝|3.潮騒|4.孤独な円弧|5.雫受け止める器|6.琴線|7.埋もれた足跡|マスターより