6.琴線
■Scene:子守唄(1)
おとなしく眠っていてくれ。
ひとりが嫌なのか? だったら……。
「はっ」
ヴィクトールは息を荒げている。場所は部屋なき彼のこと、館の外、他の者に邪魔されない裏手を選んでいた。大広間はまずかった。周りを巻き込む可能性がある。
これは実験だった。
白い剣が出現する条件を探るためには、あの展示室から離れなくてはならない。展示室でのみ出現するのかどうかを調べたいのだ。
外の日差しは強烈に明るかった。眩しさに目を細め、ひときわ影の濃く落ちる一角を探して陣取るヴィクトール。銀髪はよく光を集めた。そのことに意味もなくヴィクトールは毒づいた。
「つくづく阿呆だな、あれは」
自分とそっくりの色を持つ男。ヴィクトールは今や彼の副官に任ぜられていた。上官自ら《ルー》になってやるだの《鳥》に取り込まれてみるだのと呆けた思い付きを口にしているが、実行に移す前に思い留まらせなくてはならない。
なぜなら、自分もクラウディウスも、白い剣を出現させているのだ。
付け加えるならば、ロザリアやレシアも。あるいは無害そうなエルリックも。
「糞」
思考がロザリアに及ぶと、ヴィクトールはいいようもなく不機嫌になった。理由はわかっている。彼女が似ているからだった。
あの緑の瞳の女。自分の前に立ちはだかった女。
駆け出しの神官。誇らしげに鍵の聖印を胸に下げていた。
二度はないと思っていた。
命など懸けなくてもいいと思っていた。
「伝書鳩め。招く鳥だと? とんでもないところに招いてくれたもんだ」
あのとき自分は疲れきっていたのだ。倒れようかどうしようか迷ってしまうほど。倒れていたら、あのまますべてが終わっていたのに。死体がふたつ。やがてみっつ。その上を伝書鳩は飛び去っていっただろう。それでもよかったのに……。
ふいにヴィクトールは理解した。あの女はすべて理解したうえで飛び込んできたのだということを。
木々の陰から見上げた空は、目のくらむほどに輝いている。
「《鳥》なら亡霊だ。クラウディウスは俺の獲物だ。白い剣、これは、何だ?」
ちりちりと指先を焦がす高揚感。全身を駆け巡る灼熱の針。あざ笑う髑髏の刻印。棘と鱗に覆われた手甲の下で、もぞもぞと髑髏が這い回るさまをヴィクトールは思い描いた。
「見極めてやる。どこまでがおまえの仕業なのか」
最初のまろうど《月光》の思惑によって《島》がつくられたなら、おそらくその目的は、不思議な姫君たちを生まれさせることなのだろう。マロウが流れ着いた《パンドラ》を拾ったのだから、あの獣だか鳥だかの存在は、《月光》の思惑の外にあるはずだ。つまり、あれもまろうどだ。何がしかの理由で伝書鳩の獲物になったのだ。その理由を知ることが、脅威を排除する近道になる。
唇を舐めると、ヴィクトールは片腕を突き出して目を閉じた。
獣になるならなってしまっていい。
元より理性からは、解き放たれているのだから。
■Scene:数え歌(1)
妖精養育士ポリーナ・ポリンは、争いごとを好まなかった。自然、足は館の外へと向いた。館の中では、レオの一室には近寄りづらかった。レオ自身には多少の興味を抱いていたが、周囲の人々の抱く強烈な個性に直接触れることがあれば、自分が薄まってしまうような気がしていたからである。
警戒心。ポリーナの心を占めているのは、野生動物のそれに似ていた。
使用人からはいつでも姫君と面会してよいと聞いていた。そこで、もういちどポリーナは姫君に会おうと思ったのだった。
昼でも暗い大広間。奇妙な形の玉座に身をゆだね、互いに互いを支えあうようにして、姫君は旅人の訪問を受けた。蝋燭の明かりが映し出す影は、ひとときも定まらずちらちらとうごめいている。
くすくすくす。
互いに唇を食みあっていた姫君たちは、ポリーナの来訪に気づくと彼女を手招いた。
「養育士」
姉姫ウィユがささやく。貴人そのひとから招かれたことでポリーナは安堵した。そのてらてらと光る唇にいざなわれるように歩み寄る。近づくことは許されないのではないかと思っていた。彼女たちはこの《島》の主なのだから。それに、飾りを選んでもらえなかったことも、ポリーナは少々気に病んでいたのだった。
「あの……お邪魔では、ありませんでしたか」
大人びた口調で問うと、妹姫レヴルはふるりとかぶりを振った。しゃらん。結い上げた髪の飾りが鳴る。姫君たちの長い黒髪は、それ自体が闇であるようにするすると、姫君の細いうなじや肩から胸元へ流れ落ちている。
綺麗だとポリーナは思った。
「夜伽を望んだのは我らですから」
妹姫は押し黙ったまま、白い手を伸ばした。ポリーナはそっとその手をとり甲に口付けた。紳士が淑女にするごとく、あるいは養育士が妖精の卵をそっとおしいただくがごとく。ちりちりと身を焦がすような感覚が、触れ合う指先から伝わってくるのがわかる。少女は色違いの両目を伏せて尋ねた。
「ウィユさま、レヴルさま。私には疑問が……あるのです。お答えいただけますか……?」
妹姫は意外な力で養育士の身を引き寄せた。小柄で細いポリーナは、するりと姫君たちの膝の上におさまった。姉妹姫が隣り合って座っている玉座の、真ん中に載せられている格好である。お菓子の上の苺になった気がして、ポリーナは頬を染めた。姫君たちの身は熱かった。
もっとも姫君とて小柄な少女であるから、実際は苺がみっつ並んでいるといったほうが正しい。
「汝の物語は許しました。その疑問はどのようなことですか?」
姉姫ウィユの赤い唇が、ふわりと動いてポリーナを促す。少女は姉姫の閉ざされた瞳を見据えると、ためらいがちに彼女を抱きしめた。
そのままそっと、卵にするように、閉ざされた瞳の場所へ口付ける。
「存在が許されないものが、もし、いるならば……その存在は、どうするべきなのでしょうか?」
尋ねた声は、かすかに震えていた。
たくさんの色彩と圧倒的な快感が、ポリーナの全身を翻弄している。警戒心は危険を告げている。
(我らは)
妹姫がポリーナの手を握っている。そこからレヴルの言葉が流れ込む。
(《月光》にのみ存在を許され、この場所でのみ存在を許された。また我らは、まろうどたちの存在を許し、このまろうどの物語を許します)
「そう。おまえはどちらの側なのです? 養育士」
「……私……は……」
息苦しいほどの高揚感に包まれ、ポリーナはあえいだ。力が抜けてゆく。けれどもポリーナを膝の上に抱く姉姫も、小さな手を握る妹姫も、彼女を放そうとはしない。
「……私、私が嫌いなんです。私の中に憎しみが……私はそれを、許せません。どうしたら……」
姉姫ウィユがポリーナに口付ける。
温かい、とポリーナは思った。そして、たくさんの色が見える。
(哀れなるはかりそめの母よ。おまえも我らとよく似ている)
「ねえレヴル。この子だったかもしれないわね」
(ええ、姉さま)
くすくすくす。笑いながら姫君たちは、ポリーナのうなじや、細い手首や、その背に触れた。
「許されたいのなら我らが許しましょう。おまえの存在も、おまえの理由も、許しましょう。けれども我らがおまえを許せば、おまえは我らのものになりますよ。それでもよいのかしら……かりそめの母」
(おまえの中の憎しみも、否定も、呪わしく思っているすべてを受け止めて、変わりたいのですか?)
ああ。嗚咽を漏らしてポリーナは首を振った。
縦とも横ともとれる振りかただった。
「ウィユさま、レヴルさま。私……わかりません。それは私が……許されるということでしょうか?」
「おまえが望めば、我らはおまえを変えましょう」
「……私、そうしたら……私も、姫さまたちを変えることができますか?」
喘ぎながらポリーナは姉姫から身を離す。とろけそうに身体が熱かった。姉姫の肩に両手を置いて、ポリーナは頭ひとつ下にある姉姫の顔を見つめた。てらてらと輝く赤い唇。温かい、気持ちのよい場所。
身をよじり、片やの妹姫を見る。大きく見開かれた紫の瞳が煙るようにポリーナを見つめている。もういちど身をかがめ、ポリーナは妹姫に口付けた。
「私、この《島》の名前をつけようと思います」
(名前を?)
妹姫が問い返す。ふたりの指先が絡み合っている。
「はい。ずっと考えていました……この《島》の名前が変われば、《島》の存在理由も変わるのではないかと。姫さまたちがおっしゃったように、この場所が姫さまに許された唯一の場所ならばなおのこと……いかがですか?」
ふたりの姫君はうなずいて、新たな名を尋ねる。
「私はこの《島》を、《宿り呼ぶ島》と名づけます」
にこり。ポリーナが笑う。やどりよぶしま。新しい響き。
「よい名です」
(ならば我らもおまえにひとつ、贈り物をしなければ)
くすくすくす。姫君たちは顔を見合わせ。同時にポリーナに口付ける。
ちらちらゆらめく蝋燭の明かりは、玉座の背後にあやしくうごめく影を映す。
■Scene:子守唄(2)
白い剣が生えている。
手に馴染んだ柄の感触そっくりに、違和感もなく、ヴィクトールの手の中に納まっている。
「……鍵なら鍵らしくしとけ」
ヴィクトールは気だるげに立ち上がり、目を細めた。蒼穹を白い鳥が飛んでいく。木々の向こう、背中の飾り羽根を揺らしながら歩くエルの姿を認める。
珍しい、とヴィクトールは思った。あれは、薄暗がりが似合う男なのに、と。
抜き身のまま歩くのも面倒だ。そんなことを考える間に、手の中の白剣はかき消える。エルもまたヴィクトールに気づいたようだった。
「ルクスさんがいないんです」
問われるより先に、唐突にエルが口を開いた。
何かを探している奴らばっかりだな、とまでは言わず、ヴィクトールは顎をしゃくって大またに歩き出す。
「ああ、待ってください、何処へ?」
「人生の目的だの謎々だのよりは探し甲斐がありそうだが、昼日中に行灯探しても仕方ねえだろ」
うっとエルは言葉をなくす。
「暗くなるまでつきあえよ。礼代わりに」
占い師の返事を待たず、ヴィクトールは彼の部屋へ向かう。荷物に酒瓶はあっただろうか。なければ厨房に行けばいいだろう。
「礼?」
「子守の」
エルは納得したような合点のゆかぬような顔で、小走りにヴィクトールを追った。犬ころのようだ、と無法者は思う。
エルは知らない。ヴィクトールが少ない言葉に込めた意味を。
……子どもはふたりいる。いや、いたというべきか。
人並みの幸せに焦がれて震えながら泣いていた、あの子はもういない。狂犬が殺してしまったのだから。
剣は、手に入れた。
従えるのにさほどの苦労もせぬほどあっけなく、白い剣はヴィクトールの意のままになった。強い意志さえあれば、手なづけることができる。思ったとおりではあったが、これはヴィクトールに素養があったからでもあった。すなわち、戦場で幾度も味わった瀬戸際の感覚。死と隣り合わせの高揚感、めくるめく快楽。この身を引き裂こうとする獣の存在を、ヴィクトールは早くから知っていた。
角でも尻尾でも生えれば面白かったのに。それが残念ですらあるヴィクトールだった。
今しばらくは、鱗と棘のついた手甲で我慢するしかないらしい。
「ああ、ヴィクトールさん」
ふいに掛けられた呼び声に、ヴィクトールは物憂げに振り返る。その名は呼ぶな、別のにしてくれ。いつもの台詞は、声を掛けてきた相手がロザリアだと知るなり悪態に変わった。
「かばってくださってありがとうございました」
ロザリアは美しい所作で頭を下げた。
起こした顔の仮面の下、その瞳は穏やかにヴィクトールを見据えている。
「勝手にしろ。次はない」
ぶっきらぼうに言い捨てて立ち去るヴィクトール。エルはやれやれと思いながら、なぜかヴィクトールの代わりにロザリアに謝った。
「いいんです」
ロザリアの答えもすがすがしい。
「どのような理由であってもかばっていただいたのですから。やはりきちんと礼を述べなければ、自分の中で収まりがつかないのです」
「……逆効果なのかもしれませんよ?」
「仕方ないですね」
それがロザリアの性格だから。あるいは、ヴィクトールの性格だから。
どちらの意味かとエルは思案し、どっちでも合っているなあなどと思ったのだった。
■Scene:数え歌(2)
伽にどこまでも付き合うつもりのスティーレ・ヴァロア。薄紗をまとう歌姫リモーネ。
彼女たちが姫君の元を訪れると、先客だったらしいポリーナが、姫君の膝の上で寝息をたてているところだ。
「姫君がたは伽をお望みですか?」
控えめに声をかけるリモーネ。傍らのスティーレの存在がどうしても意識に入ってきてしまう。
「それともポリーナ様がお目覚めになってから、改めてのほうがよろしいでしょうか」
「このままでどうか伽を」
くすくすくす。
姉姫は微笑みながらリモーネを促した。妹姫はしどけない寝顔の少女にそっと指をすべらせている。
「では……スティーレ様、お先にどうぞ」
「あら。歌姫さんこそ、とっておきがあるなら遠慮なく。私も興味があるわ」
「……まあ。スティーレ様のご期待に添えるかどうか」
リモーネにとってはスティーレも、ローラナに対すると同じく歪んだ優越感を味わう相手であった。それはもちろん相手への劣等感の裏返し。彼女たちを前にすると、リモーネは自身を見つめざるを得ないのだ。
そんなリモーネの内心を知ってか知らずか、スティーレは歌姫の伽を聞きたがる。自分が姫君と話すとどうも謎々問答になってしまうだけに、他の旅人の伽や、その口調、言葉の旋律に込められた内面にも興味があったのである。
「伽と申しましても歌ですが。無聊の慰めになるのでしたらと思いまして」
薄紗の下からリモーネは姫君を見やる。ポリーナの細い四肢が嫌でも目についた。褐色がかった彼女の肌は、蝋燭に照らされて艶かしい器のように見える。
「歌姫の伽ならば、歌になるのも道理でしょう」
姉姫はそういうとリモーネに歌ってくれるように頼んだ。そして彼女は夢で聞いた節回しで歌う。
♪鳥と刃は剣を手に。狐と犬も剣を手に
♪鳥なら落とし、刃なら折り、狐なら撃ち、犬なれば手なづける
♪すべては《死の剣》の選ぶがままに
「……それならば、手なづけること叶わずに、聖女の足元に向かったならば?」
最後の一節は、リモーネ流の節で歌い上げた。胸がどきどきする。
おそらくは秘密の歌。歌ってしまってよかったのか。平静ではいられない。姫君の手の中にいる感覚が、確かにあった。
スティーレはその旋律の不確かさにおののいた。
不吉なる数え歌。義肢の代わりの飾り羽根でこめかみを押さえた。少し、身体が熱かった。
「続きを? 歌姫」
「恐れながら、それを知りとうございます。スティーレ様は、この続きをご存知でいらっしゃいますか?」
薄紗の下で歌姫はうつむいた。わずかな意地悪は、自分でも予定外だった。スティーレはきっと知らない。彼女は歌姫ではない。でも居合わせたのだからこのくらい……。
「知らないわ。初めて聞く歌。でも」
ちらりと視線を走らせる。リモーネは玉座の前で低く額づいている。
「続きがあるならぜひ、歌姫さんに歌ってほしいわ。ねえ?」
単純な好奇心にスティーレは従った。歌っているリモーネは、さすがに堂々としているように感じられた。反面、男性を前にしたときのしおらしさ、自立している女性を前にしたときの捻れた境界線のようなものも汲み取れた。
彼女はただの女性なのだ。
自分が欠けた女性であるのと対照的だ。
「続きは……こうです」
姉姫が唇を開き、歌う数え歌。それはこんな内容だった。
♪快楽の輪舞 死の輪舞
♪硝子細工は壊しましょう 氷菓子なら溶かしましょう
♪舞い踊る獣たちが足をとめるとき
♪《死の剣》は選び取る 互いの鍵を
♪捧げた死の数 開いた鍵の数 きざはしの数
♪見出されよ もう一振りの剣
妹姫レヴルがかすかな衣擦れとともに立ち上がる。リモーネの手をとり、スティーレの失くした腕に手を添えて、彼女たちを玉座に招く。姉姫の膝の上では、ポリーナが寝息を立てている。その手の甲には髑髏の刻印が輝いている。
「硝子細工は壊しましょう……」
復唱しながらリモーネはおののいた。自分の手を胸にあてる。燃えるように熱かった。ちりちりと指先を焦がす焦燥感、高揚感、それらに思わず身を任せそうになる。
かつて自分に硝子細工を贈ってくれた客がいた。壊れやすいものほど愛しい、それだけ大切にするから、などと歯の浮くような台詞を並べたてた男。言葉だけは甘かった男。
不意に浮かんだヴィクトールの顔を、リモーネは消すことができず立ちすくむ。光の精霊がいないことに安堵し、薄紗を引きおろしてその顔を見られまいとする。
あの方は小さな硝子細工など、荒々しく踏み躙っておしまいになるでしょう。
破壊者にして支配者。振り返らずに進むことを知るお方。
「……壊れた硝子細工はどうなるのでしょうか。うち捨てられてお仕舞いですか?」
妹姫レヴルが、紫の瞳を見開いてリモーネを見つめた。
アメジスト。そんなことを歌姫は思った。
妹姫が指を絡める。目まぐるしい色彩の奔流にあえぎながら、握り合う手を見下ろした。
白い剣がそこにある。
するりと妹姫の指が抜ける。潮のように色彩が退いていくと同時に、身体の奥底に快感の残滓がくすぶっていることを知る。
「壊れない方法を教えましょう」
姉姫が微笑み、眠るポリーナの細い腕をそっと歌姫に突き出した。
少女の手の甲で、髑髏の刻印がリモーネを招いている。リモーネは目を伏せた。しかし瞼の裏でも、手の中で白い剣が屹立しているのが見えた。
かぶりを振って、リモーネは姉姫を見上げた。閉ざされた瞳からは何も読み取れない。
「その剣を」
リモーネは小さくいやいやをした。ポリーナは何も知らずただ寝息を立てている。
「この刻印に突き立てるのです」
無理です、とリモーネは呟いた。ただの歌姫は、剣の振るい方など知りもしません。
唇の動きとは反対に、剣は刻印を求めていた。あの少女の手を貫けば、計り知れぬ快楽が身を焦がすだろう。腕の中で白い剣は騒いでいる。
■Scene:数え歌(3)
「何故……何故こんなことをしなくてはならないのかしら?」
スティーレが割って入る。傍観しているつもりだったが、白い剣はスティーレにも出現していた。となれば、この焦燥感に高揚感……リモーネも同じ感覚を味わっているのだろう。そう思うと、リモーネに突きつけられた問題は自分のことにも思えたのだった。
「わからない。殺し合いをしろってことなの? 《月光》は貴方たちにどうしてこんな仕組みをつくらせたの? ……何のために、一体」
語尾は次第に弱々しく、消えていく。スティーレは迷っていた。考えがまとまらなかった。
すべて《月光》が仕組んだことなら、姫君たちも自分たちまろうどと同じ、《島》の仕組みの一部でしかないように思える。《パンドラ》もそうだ。後からやってきた者だ。
「貴方たちにとって《月光》は、何者なの?」
手の中の白い剣は、意志あるもののようにスティーレに逆らおうとしていた。
無防備に横たわるポリーナに、あるいは同じく白剣を持つリモーネに、刃をつきたてようとしている。
「貴方がたはこれまでたくさんの物語を見てきたはずよ。それでも見つからない探し物を《月光》さんが命じるわけはないと思うの」
ああ。快楽が邪魔をする。スティーレは呻いた。
リモーネはきらびやかな胴衣を広げ、剣を床に押し付けている。
ポリーナもその手に髑髏を持っているということは、やがて白剣を持つのだろう。
母でも子でもない。だから姫。まだ見ぬ《月光》とはどんな旅人だったのか。姫君を見つけ、捕らえ、名づけるほどの力を持った存在の意図を、スティーレは知りたかった。
「……そう。そのとおり、ね」
姉姫は、ついと小首を傾げてスティーレの言葉を肯定した。
「ねえ、レヴル。《月光》はどうして我らをこうしておいたのでしょうね?」
妹姫が姉の言葉に顔をあげた。リモーネとスティーレに添えていた手を放す。
「……ああっ」
呻いたのはリモーネだ。手の中から剣が消えた。髑髏の刻印だけが、忘れるなとでもいいたげに輝いていた。
床に広がる輝く胴衣。真ん中に咲いた花のように、リモーネはうつむき、肩を震わせている。
「不思議なルールだわ。貴方たちは、終わりから始まりへと向かっている。向かわせているのは《月光》でしょう? 貴方たちは……変わらなくてはならなかった。いいえ、変わりたいのでしょう? 《月光》との約束を守るために」
「変わる?」
(我らは、変わってしまうかしら――)
「我らが何者かも、わからないのに?」
(わかるものへと変わること――)
最後の囁きは、スティーレにレヴルが触れたときに流れ込んできた。
(《月光》の記憶に意味を見出せるならば、元学者。我らの代わりに見出して)
スティーレはぎゅっと目をつぶる。この会話方法にはまだ慣れない。使い慣れた道具を奪われた気になる。どうしようもなく心細くなる。
不思議なものだ。潮騒以外の音はあんなにわずらわしく思えたのに、今は、音が恋しく思えるなんて。
■Scene:《月光》の記憶
荒野にスティーレは立っていた。実際は、これはスティーレが感じた光景だ。
妹姫が見せる幻影。いつか、どこかでの出来事だ。
さまざまな不協和音。時折混じる祈りの声。
あたりは暗い。たくさんの人々が、天に向かって腕を伸ばしている。
輝く光が現れる。はじめはおぼろに、やがて明るく、あたたかい光。
伸ばした腕は白い鳥に変じ、光目指していっせいに飛び立ってゆく。
『不完全だわ』
スティーレはびくりと身をすくめた。恐ろしい威圧感があたりを支配していた。声ははるか上から聞こえていた。あるいは、身体の内から聞こえていた。
見上げると輝く光はぐずぐずに崩れ、どろどろと荒野に降り注いでいる。
空はまた暗闇に戻り、静寂が訪れたかと思えばふたたびどこからか人々が集い始め、祈りとともに腕を伸ばし始める。
『だめね。失敗』
もう一度、同じ光景が繰り返された。光が崩れ、闇に包まれる。
もう光は訪れなかった。
鳥もいなくなった。
スティーレは安堵した。ようやく、静かになったのだと思った。
『どうやっても切り離せない。あれらは同じ、ひとつのものの両面なのね』
『廃棄できないのなら閉じ込めておきなさい、あの箱にでも』
『かまわない。放っておけば互いに喰らいあうでしょう』
『剣の作成には別の方法を考えましょう』
真っ暗な荒野にスティーレはひとり立っていた。
否。そっくりの姿をしたもうひとりのスティーレが、すぐ側に立っていた。
スティーレたちは無言で手をとりあい、ただ、そこにいるのだった。
……やがて。ひとりの女性がスティーレたちの前にやってきた。
彼女はふたりに手をさしのべた。
「こっちにおいで」
威圧的なところのない、耳に心地よい声だった。
ふたりのスティーレは、彼女の手をとった。
それが、《月光》との出会いだった。
「これからきっと、何人ものまろうどがこの場所を訪れるでしょう。貴方たちはこの場所の番人です。ふたりの姫よ」
でも。スティーレは言葉もなく彼女を見つめた。
番人? 姫? まろうど?
あの……光は? 鳥は? それから、怖い声は?
「ごめんね。答えはきっと、まろうどたちが見つけてくれるわ。貴方たちの存在にもきっと意味があるということ。すぐじゃないかもしれない。でもきっと、いつか」
でも。スティーレたちは見つめあう。どういうこと? 意味って、なに?
ふわり。たくさんの白い鳥が、ふたりの姫の周囲に出現する。
《月光》は顔を歪めた。
「……いいわよ。それが貴方たちに許された力だものね」
彼女は泣きながら笑っている。どうしたのだろう、とスティーレたちはいぶかしんだ。
「ごめんね」
泣きながら笑ったまま、《月光》はたくさんの白い鳥に包まれ、むさぼられるようにして、消えた。
『沈めなさい』
最後に怖い声が一度だけ聞こえてきて、それから本当に、ふたりきりになった。
第5章へ続く
承前 白い鳥の誘い・至純の仮面|1.薄明|2.めぐりあう朝|3.潮騒|4.孤独な円弧|5.雫受け止める器|6.琴線|7.埋もれた足跡|マスターより